猶太と世界戰爭(新仮名)11

 

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第一章 猶太魂の本質(続き)

七、國際猶太秘密力の世界新聞統制(訳補)(昭和14年8月)

新聞の使命

新聞は言う迄もなくあらゆる國民の言葉の拡声機であり、世界の眼乃至耳であり、また所謂世論の担い手であり、世界に於ける出来事の焦点を成すのみでなく、空間を超えて人間と人間の間を仲介する役目をもつ。それは政治的地平線にかかっている雲の動きを記すと共に、諸國民の日光を録する(書きとめる)が故に、一つの大きな権力と認められねばならない。新聞は単に國民生活に於てばかりでなく、國際的生活に於てもまた前代未聞の有力な政治的機関と認められざるを得ない。総ての大事件に対する諸國民の政見は、新聞を通じて発表されるので、今日ではそれは、世界政治界バロメーターと呼ばれることが妥当であろう。即ちこれなくては全然政治を行い得ないし、このバロメーターの針位と振幅とは、世界中の最近二、三十年に亘るあらゆる内閣に対して、世人のよく察知し得ない程に大きな影響を及ぼして来たのである。

抑も世界の政治家の中で新聞界から出た者が如何に多いことか! また今日新聞を読まない政治家が何処にあるか? 果たして彼等のうちで新聞の影響を脱し得るものが幾人あるであろうか? 今日新聞の持つ意義は、人が欲すると欲せざるとに拘らず、どうしてもそれを認め且つ尊重せざるを得ない所にあり、また新聞自身もこの点を大いに誇りとしているのである。

然し乍ら新聞がこの意義ある地位を保ち続け得るのは、言うまでもなくそれが、自分自身の面目を汚さず、また醜汚な仕事によって自己の名誉を損傷しない時に限るのである。それ故に新聞は、何よりも先ず真実の報道を以てその生命としなくてはならない。不真実は常に必ず新聞の最大の恥辱である。新聞の力は一にかかって真実という地盤の強弱に存するのである。

所が新聞に与えられているこの力こそは、実はそれに極めて困難な責任を課しているのであって、その故は、この真実といい真理というものが決して善悪の彼岸にあるものではないからである。この力は必ず國民の安寧と幸福及び人類の福祉のために利用さるべきものであり、万一にも間違って用いられるならば、忽ち國民と人類との不幸と破滅とを招来する恐るべき力に変ずるのである。従って私的のものであれ、超國家的なものであれ、或る秘密力が、ジャーナリズムの精神的威厳を支配するに至るや、新聞はそれに応じて世界の危険物となり、一國人民の内政生活のみならず、結局の所、世界平和にとっても一大危険物と化するのである。

新聞がそのうちに包蔵しているこの危険は、実に今日に於ては世界政治的意義を有する大問題と化しつつあり、その解決が遅れれば遅れる程、この危険も増大して来る。成程これ迄でも責任感ある政治家や新聞人が、この危険について多く書いたり語ったりしなかった訳ではない。然し遺憾乍ら彼等の声は聞き逃がされ、短なる沙漠の説教に終ったのである。世界新聞界はこの問題になると多くは沈黙を守るし、「輿論の政府」と自称する民主主義國家も新聞の有するこの危険に対して戦を挑む勇気は持たないのである。それは新聞界そのものが或國際的秘密力に依って支配されている上に、所謂デモクラシー國家に於ては政府自身がその新聞界に依存しているからである。かく見て来ると、これら諸國の政府及びこれら新聞の読者は、少くともこれ迄の所では、真の平和の敵でありまた現代に於て最も危険な戦争扇動者でありまた世界輿論の毒薬処方者である所の新聞背後の秘密力というものに対しては、全然盲目であったと言われねばならないのである。

我々もまたかかる危険力に対して口を緘(かん)すべきであろうか? 否、世界新聞界の破壊力が人類の災厄となった今日に於ては、我々はこの暴状に対して敢然と戦わねばならない。そしてそれは単に國民又は平和のためのみではなくて、責任感を持つ新聞とその当事者とに途を拓き与え、その勇気と道義力とを鼓舞し、且つ一般に真理の伝播を容易ならしめんがためである。然もこの困難な課題を解決し得るのは、あらゆる猶太及びフリイ・メイスン秘密結社の迫害に抗しつつ人類の新時代のために戦いつつある防共諸國のみである。防共とは実に反猶の別名であり、排フリイ・メイスン結社の異名であるからである。

上述の事情は、言うまでもなく、日本に於ては多少とも異った所がある。然し現代に於ては、通信交通機関の発達の結果としてわが國の新聞界が世界のそれと全く絶縁状態にあることは不可能である。殊に日本の新聞にも、毎日外國電報が現われるのであるから、真に國を思う者は、新聞当事者たると否とを問わず、充分の反省と自覚とが必要であると思われる。

 

新聞検閲の歴史

一四七九年と言えば、かのグーテンベルク印刷機械を発明してから間もなくのことであるが、この年にケルンの大僧正はローマ法王に申請して、一定の出版物の発行人、印刷者、著者及び読者に対して教会上の刑罰及びその他適当の方法によって干渉を加える特権を得た。更に一四八六年にはマインツのベルトホルト大僧正が自分の教区を取締る特別の検閲委員を任命したし、一五〇一年には、法王アレキサンデル第六世が、爾後「厳格なる信仰に背馳し、神をなみし[1]、人心を怒らす如き」言葉を印刷に付することを禁止するという布告を出した。かくて新聞の検閲なるものは、初めは俗界からではなく教会側から提起されたのであり、これが俗界側の政治的検閲に法律的根柢を齎したのは、一五二四年のニュルンベルクの國会の時のそれを以て嚆矢[2](こうし)とする。そしてその条文には、「当局は必要に応じて印刷物その他を検査し、爾後誹謗文及び誹謗画等を悉く駆逐し、その伝播弘布を抑止すべし、」とある。

[1] なみする:無みする 蔑する ないがしろにすること、または侮ること。
[2] 物事の始まり。

 

古い文書に徴すると、既にトルコ戦争[3]の頃無道な物語作家の類が跋扈し、毒筆を揮(ふる)って既成秩序の破壊を企てたので、彼等は町から町に逃げ廻らねばならなくなったそうであるが、その際に教会団体は何れも密告者の役を引受けていたらしい。フリードリヒ大王が「新聞紙は面白きものたる限り、妨害されてはならぬ、」と言った言葉はよく、彼の自由主義を示す材料として引かれるが、然し同じ大王が、その三年後即ち一七四三年七月九日に、新聞の自由を内閣条令によって撤回したことはもっと重大に取扱われねばならないであろう。その条例には、「ベルリン諸新聞の発行者達は、検閲用見本刷を要せずという自由権を悪用し、諸種の虚報を載せ、外國に不快の感を与えたるを以て、王は命を下して、検閲用見本刷なしに新聞を印刷する自由を撤廃し、予め有識の権威者をして検閲をなさしめ、その裁可を経ざれば発行するを得ざらしめんとし給う、」と書かれているのである。

[3] 大トルコ戦争(だいトルコせんそう、Great Turkish War, 1683年 - 1699年)は、17世紀後半に起こったハンガリートランシルヴァニアを巡るオーストリアポーランドヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟オスマン帝國の戦争である。

 

これに依れば、フリードリヒ大王は如何に巧(たくみ)に新聞を行政のために利用し、又それに干渉を加えたかが察知せられる。大王は、一七六七年ベルリン市に新しく戦争の噂が流布した時、ベルリンの新聞に命じて、ポツダムを襲った強烈な暴風雨について次の如き報道をなさしめている。

「ベルリン特報、木曜、一七六七年三月五日。ポツダムより左の報あり。二月二十七日夕刻、空は真暗にして、雷雨を孕(はら)める雲によって全地平線は蔽われたり。電光凄まじく、雷鳴ありて、人知の考え及ばざる勢にて雹(ひょう)降れり。農夫が車に繋いで町に引き行ける牡牛二頭の中、一頭は立所に即死、街上の町民達は負傷し、農夫はまたそのために腕を折れり。屋根は雹の重量によりて破壊せられ、この暴風雨を運んだ風に向える窓は皆損傷を受けたり。街上にては南京(かぼちゃ)程の雹塊の認められるあり、その溶けるに二時間以上を要したという。この特別なる現象は頗る大なる印象を与えたり。自然科学者の言に依れば、空気は抑もかかる氷塊を運ぶ力なき由なり。その真否はともあれ、かかる出来事が極めて稀なる事に属し、殆ど類例なきことは確かなり。」

実際の所、ポツダムでは風も吹かず、雹も降らなかった。そしてベルリン人は兎に角新しい噂の種を得て戦争の恐怖を忘れてしまった。

とにかく老フリードリヒ大王は、上掲の内閣条令によっても解るように、言論の自由については苦い経験を持っていたのである。一七七二年四月七日に彼はフランス人ダラムベールに宛てて次の如くに書いた。

言論の自由はその不可避の結果として誹謗書を生む故に、常に濫用され易きかかる自由に対しては強制的防圧手段の必要なることを余は確信す。」

所が、かく新聞に批判的態度をもって当ったのはフリードリヒ大王だけではなく、当時の有名な國法学者クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(Christian Friedrich Daniel Schubart:1739~1791)の如きも言論の自由(彼によればむしろ言論の厚顔無恥)の濫用に反対した一人である。彼は屡々報道の信用し難き点と矛盾を難じ、所謂「……なる由」なる言葉を嘲笑して、それはつまり風評と虚偽との境目が明かでなくなったとき新聞記者が縋(すが)り付く尻尾であり、百口ある怪物に他ならない、と言っている。また新聞の虚偽は物語の國に籠(こも)っている真黒な渡り鳥にも比すべきである、と彼は言い、オランダのパンフレットや小冊子や新聞雑誌がこの國に起った暴動に大きな関係を持つことを指摘し、更には、パリの書籍検閲が頗(すこぶ)る厳重に行われているのを喜んで、次の如く総括している。

「國家・宗教・良俗・良民等が思うさまに傷けられる惧(おそ)れのある國は、追剥(おいはぎ)と殺人者の棲む森である」

以上二人の言葉によって我々の知り得ることは、デモクラシイが声を大にして、人類の神聖な財でありまた新聞の発展のためのかけがえのない原動力であるとして賛美する「言論の自由」なるものが、しばしば事実に於ては有恥有害なる空辞の最たるものであり、自由なる美名の下にかくれて輿論を毒する恐るべき害物であることである。

そしてこの言論の自由の出発点は、一七八九年のフランス革命に外ならない。同年八月二十六日の所謂「人権宣言」の第六条には、

「自分の思想及び意見を発言する権利は、それが新聞による時であれ、或いは他の方法に依る場合であれ、決して禁止されてはならぬ、」

と書かれている。

同様の考えは少しく制限を受けてはいるが、一七九一年の仏國憲法第十二条にも規定されている。

「思想及び意見の自由なる発表は、最も貴重なる人権の一つである。従って國民は皆何れも自由に語り、書き、印刷することが出来る。ただ各人はこの自由に法律が加える誓言を顧慮すれば足りる。」

このような立派な公告があるにも拘わらず、仏國では、法律上言論の自由が保証されていた時代に、政治的権力者の嫌う新聞には重い圧迫が加えられた事実がある。一七八九年にマレー・デュパン(?)はその主宰する「メルキュール・ド・フランス」誌に次の如く書いている。

「我々が検閲の閾(しきい)から逃れて来た瞬間に、もう我々は過酷な殺人剣に曝されていた。」

一七九三年三月八日の憲法会議で一人の議員が、「ジャーナリストには決して全権を与えてはいけない、彼等は立法者が仕事をする空気を毒するだけである」と主張したことがあるが、これが言論の自由の本場と称せられるフランスの出来事である。更に四年後パリで起った補欠選挙では、ジャーナリストは候補者となり得ない、とされた。またその時の憲法会議で或る演説家は、「世人は須(すべか)らくジャーナリストを淫売婦と同視すべきであって、その故は、彼等はこの女達と同じく周旋人を有し、買手を探すために道路を駆け抜け、また公の健康を毒するからである。」と言っている。

それ故にナポレオンが、クーデターをやった後に出版界にも手を下したのは、別に怪しむに足りないことであろう。

「若し余が新聞の手綱を弛めておけば、余は僅か三月の間も権力を保ち得ないであろう。」

「敵意ある新聞が四つあることは、職場の兵士十万人よりも危険である。」

彼がセント・ヘレナ島で最期を遂げる直前に語った後人への戒めには、「新聞をそのままにして置くことは、危険の側で寝を取るにも等しい、」という語があったといわれている。

然し彼の後代はこの戒めを余り省みなかった。新聞は政治的立憲主義と工業的経済の進捗とにつれて大きな躍進をとげ、遂にその黄金時代に達したのであった。

かくて新聞が無限な経済的自由をモットーとして、正規の取引業に発展するに至ったので、ことに猶太人は民衆の安寧のために戦うという仮面の下にかくれて大役を演じるに至った。新聞は政治的党派の奴隷、その背後に隠れている黒幕たる秘密力の奴隷に堕してしまった。編集部には今や、一番多くの報酬を呉れる者のために筆を用いる器用な多筆家が登場し来り、仏國政治家ネットマン(Alfred François Nettement)の如きは既に前世紀(19世紀)の始めにあたって次の如く難じている程である。

言論の自由は万人に告知された。然し優勢にして革命的な党派は、物を見るに独特の方法を持っている。彼等が万人の自由を公然と説く時。それは只主義を裏切ったとの非難を避けたいがために外ならぬ。然し一旦この主義を奉ずることを示し得さえすれば、実行上にはもうそんな主義はどうでもよいのであって、ただ敵に対してはこの自由の享受を許さないのがかなり一般的なやり方になっている。」

一八三五年八月二十二日に仏人ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine:1790~1869)は下院で論じて曰く、

「新聞は、少数の例外を除いては、國に害を与えることが大きい。四年以来それは各行に憎悪と誹謗と汚穢とを撒きちらせて来たし、またそれは暴動と無政府を喚起した。」

文豪バルザックはもっと鋭犀に(鋭く)当時の新聞界の状況を描いている。

「本来聖物たるべき新聞は、党派の手段になってしまっている。また一つの手段から一つの商売になっている。どの新聞でも大衆の欲しい色彩の言葉を売ってやる露店に化している。」

またフランスの新聞人エミル・ドゥ・ジラルダン(Émile de Girardin:1802~1881)は一八二七年に、彼の新聞「ル・ヴォルール」の発刊を予告した文の中で、率直に次のように書いている。

「我々は暴利時代に生きている。宗教や諸々の自由には相場があるし、良心にも定価が付いている。」

以上は何れも当時の人々が、所謂言論の自由について懐(いだ)いていた見解を並べて見たものである。

 

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