猶太と世界戰爭(新仮名)10

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第一章 猶太魂の本質
六、「シオンの議定書」の成立、伝播、真偽(昭和16年5月)続き

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「議定書」の著者に関しては、その内面的真実さの点では、前述の問題よりも確実であるにも拘らず、その外面的証拠は一層その確実性が欠けている。この点に於ても現在では、フライ夫人の説が最も多く容認されているのであって、夫人に依れば、彼女がフォードの財政的援助によってロシアで調査した結果は、大体に於てアハト・ハームことアシェル・ギンスベルクがその著者であるというのである。彼の名は非猶太人の間では余り著名ではないが、猶太人間には尊崇の的となっており、幼児から天才的で、一八八四年からはオデッサに住み、一九〇五年のロシア革命に活躍したが、後にはパレスチナに移り、衆望を荷(にな)いつつ死んだのであった。その学識は実に古今に通じ、語学もまた猶太人らしく堪能であったと言われている。そしてこの彼が一八八九年にオデッサでペネ・モシェ(「モーゼの子等」の意)と称する猶太的フリイ・メイスン秘密結社を設立したが、「議定書」は彼が其処で講演した猶太の世界征服政策のプログラムであるというのが、今では一般に信じられている説である。前に論及した猶太人ベルンシュタインの説は、アハト・ハームのこのプログラムのことを指すものであるらしく、それがヘブライ語で書かれていたというのは、猶太秘密結社内の習慣であると見做しても差支えないであろう。それ故に、フライ夫人の説いているように、これがフランスの猶太的フリイ・メイスン結社で用いられていたということも可能であり、其処からそのフランス訳がロシアへ入ったということも考えられるのである。その理由は、フリイ・メイスン秘密結社は、純粋に猶太的であると否とに拘らず、殆どその創立以来全く猶太の支配下にあり、また、全世界のこの結社は相互間に密接な連絡を持っているからである。なおニールスが入手した「議定書」の写しには、最後の部分に「第三十三階級のシオンの代表者達によって署名されてある」との書入れがあったということである。この点から考えても、「議定書」がフリイ・メイスン秘密結社中でも純粋に猶太的であるものの世界政策のプログラムであることがわかるのである。換言すれば、アハト・ハームが設立したペネ・モシェの親結社とも見らるべき純猶太的秘密結社ブナイ・ブリスの世界征服のプログラムに外ならないのである。

ここで我々は、近来に至るまで「議定書」が所謂シオニズムの世界政策のプログラムであって、一八九七年の第一回バーゼル会議に於てそれは決定されたのである、と信じられていたことに関しても一言しておきたい。勿論、或る意味に於てそれがシオニズムのプログラムであるというのは正しいのであるが、然しシオニズムには二種あって、普通シオニズムと称せられているものは、ヘルツル等の主張する「実際的シオニズム」又は「政治的シオニズム」と呼ばれるものであり、アハト・ハームの創設したペネ・モシェ或いはかの兇悪なブナイ・ブリス秘密結社の如きは「抽象的シオニズム」又は「精神的シオニズム」と称せられているのである。そして前者は、シオンの回復を文字通りに実行しようとするものであって、猶太人のパレスチナへの復帰を目標としているが、後者は、シオンへの復帰を抽象的に行おうとするものであって、現在の如くに世界の諸國に寄生虫として存在しながらも、その世界征服を完成しようとするのである。「議定書」が議決されたという九十七年の第一回シオン会議は、少なくとも表面的には「実際的シオニズム」の会議であったのであるから、種々の調査にも拘らずその会議関係の記録に「議定書」に関することが少しも見当たらないのは当然であろう。

我々は然しこの「実際的シオニズム」もまた猶太の世界征服政策の一つの手段であって、「象徴的シオニズム」の一つの偽装であるに過ぎないとさえ考える者であるが、この点に関しては今は詳述することを差控えることにして、ただ一つ次の事実だけをここに記して世人の注意を促しておきたいと思う。即ち、かの「実際的シオニズム」の会議に当っては、同時に必ず純猶太フリイ・メイスン秘密結社であるブナイ・ブリス結社の会議が開催されるのであって、この意味に於ては、議定書が九十七年にバーゼルで議題となり得たということは可能なのである。然し、それはかのシオン会議そのものに於てではなく、同時に開催されたブナイ・ブリス結社の会議に於てであることは言う迄もない。アハト・ハームもこのシオン会議に出席していたことは当時の写真でも明らかになっているから、その彼が「議定書」をブナイ・ブリス結社の会議の方に提出したであろうことは、決して不思議でも不可能でもないのである。

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以上述べたところで、「議定書」の真偽の問題に対する解答は大体は完了したと考えられる。即ちジョリーと此書との内面的連絡から言えば、「議定書」が、猶太側の主張する如くに、万一にも非猶太人の偽作であるとしても、それは猶太の世界征服のプログラムたる資格を消失しないのであるし、また著者アハト・ハーム説が成立しない場合にも、後に引用するトレービチュの説に真実性があるとすれば、これが猶太人の作であり、従ってその内容が猶太の世界支配のプログラムであることは肯定され得るのである。なおまたこれらの説の全部が成立しないとしても、少なくともジョリーの著書の出版された一八六四年頃以後の世界の動きは、この書が猶太の世界政策のプログラムとしての内面的真実性を明証しているのである。いまこの点について我々は一々例示することを差控えたいと考えるが、近時の世相を多少とも世界的に達観し得る人には、この「議定書」が余りにも真実であることが直ちに理解されるのである。

然しなお我々は念のために、議定書の真偽に関しては、ベルンの訴訟を契機として主として独逸の「ヴェルト・ディーンスト」が調査し、前にも論及したベルクマイステルが前述の小冊子で述べている材料を紹介するだけの労を取りたいと思う。そしてそれは三つあるが、特に注目に値するのは、三つながらに猶太法師のなした証言であることであって、猶太法師が猶太人の世界に於て如何なる地位を占めるかを知っている者には、このことは誠に重大な意義があるのである。「トーラ」よりも時としては「タルムード」が尊重されることはよく言われることであるが、猶太法師の言説は、極めてしばしば、その「タルムード」よりも尊重されるのである。

その第一のものは、ポーランド領ショッケン市に於て一九〇一年頃に猶太權法師フライシュマンがその友人副検事ノスコヴィッツに対してなした証書である。三四年十一月三十日の「ヴェルト・ディーンスト」宛のノスコヴィッツの手紙に依れば、フライシュマンが自分の許嫁(いいなずけ)が猶太法師ヴァイルヒェンフェルトによって暴行されたことを訴えながら、猶太人の内情を暴露し、「議定書」は猶太人の手になったもので、決して偽作ではないことを確言した、というのである。

第二のものは、同じノスコヴィッツの手紙にあるものであって、彼が一九〇六年にポーランドのスウルツェヅの猶太法師ダリューンフェルトに「議定書」の真偽を確かめたところ、法師は「貴方は余り好奇心が過ぎ、余りの大事を知ろうとなされる。この件について、私共は語ることを許されておりません。私は語るを得ませんし、貴方はお知りになってはいけないのです。何卒慎重にやって下さい。でないと、生命にかかわりますよ、」と返事したということである。

第三のものはエフロンなる人物をめぐるものであって、第一、第二に比して複雑であり、その証言は三重又は四重になっている。彼エフロンはロシア系猶太人であって、詳しくはサヴェー・コンスタンティノヴィッチ・エフロンといい、青年時代には猶太法師であったが、後にキリスト教に改宗し、ペーテルスブルクの鉱山技師にもなった人であるが、また文筆の才もあってリトヴィンという筆名で「密輸入者」その他の戯曲を書き、猶太人に対して時折辛辣な批評を加えたりしたので、猶太的ボルシェヴィズム革命の後は生命の危険を免れるために所々を亡命して廻ったが、終にセルヴィアのシャバッツ県ベトヴィッツェ近傍の修道院に救われ、二十六年にここで没したのであった。

さてエフロンに関する最初のものは、露國騎兵大尉ゲオルク・M(特に名が秘されている)が二二年二月に彼に「議定書」は本物であるかと訊いた時のエフロンの答であって、「自分はそれがキリスト教側の新聞に公表される数年前からその内容をよく知っていた」というのであるが、これは大尉自身が二八年十月パリのロシア教会の司祭長の前でその真実であることを誓言したものである。

次の二つは前出のベルクマイステルの調査したものであって、彼はこのエフロンの場合に非常な興味を感じ、エフロンを知っている者を何とかして探し出したいと思って努力をするうち、二人を発見するのに成功したのであった。その一人はワシリー・アンドレエーヴィッチ・スミルノフであって、ベルクマイステルはこの者から、エフロン自身が或る機会に書いたという露語の一文を受取ったそうであるが、我々はその文章の動機及び内容に触れることを差控えて、スミルノフが三六年十二月十五日に「議定書」に関してエフロンと交わした会話中、「議定書は原本そのままではなく、原本の圧縮した抜粋であるが、その原本の由来と存在とについては、全世界で自分を含めても十人しかそれを知っている者はない。もし君が時々私の所にやって来るならば、この秘密を漏らしてあげてもよい、」とエフロンが言った事だけは彼が今なお記憶している、と書いているのを伝えておこう。但しスミルノフはその後間もなく職を得てベオグラードに去ったので、遂にエフロンからその秘密を聞くことは出来なかったということである。もう一人はペトヴィッツ在住のワシリー・メチャイロヴィッチ・コロシェンであって、エフロンが修道院に収容されていた頃、其処の官房主事を勤めていた者であるが、彼の三七年二月三日付の手紙に依れば、彼は或る時エフロンから「議定書」を貰ったが、その時エフロンは、「これは本物であって、その中に書いてあることはすっかり真実である」と言ったし、また別の時には、「ユダヤ人は秘密文書を持っているが、それは内情に通じた人以外には誰にも見せることはない」とも言った、ということである。

名著「猶太帝國主義」の著者シュヴァルツ・ポストゥニチュは、その著書中で、彼もまたエフロンに一九二一年にベオグラードで会ったが、その時エフロンは、「議定書が本物であることを説く人に共通の誤りは、それを議定書と呼ぶことであって、実際にはそれはプログラムである」と言った、と記している。

既に「議定書」の内面的真実性を確信する者に取っては、以上三つ乃至五つの外面的証拠の有無は大して意義はないのであるが、しかしこれらの証言もまた実証的にはかなりに重要視さるべきものであることは言う迄もない。

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ここで我々は、前に一言しておいた猶太人アルトゥール・トレーピチュの言を引用しておくことにしよう。

「著者の如くに、かの秘密文書に表明されている全思想・目標・意図を我々の全経済的・政治的・精神的生活から既に以前に予感を以って観取し、聴取し、読み取っていた者は、この文書が世界支配を目標とする精神の正真正銘な発露であるという説に決然と賛成することが出来るのである。アーリヤ人の頭脳ならば、反猶太的憎悪が如何にそれを偽造と誹謗とに駆り立てようとも、これらの闘争方法、これらの謀略、これらの奸計と詐欺とを考え出すことは到底できないであろう。」

トレービチュの「独逸精神か猶太精神か」の中からの引用に次いで、我々は、「議定書」に関する第二審の判決以前にその真偽に関して独・伊・英・米・仏・オーストリアハンガリーポーランド・ベルギー・オランダ・デンマークフィンランドギリシャユーゴースラヴィア・カナダ・レットランド(ラトヴィア)・ノルウェー・スエーデン・スイス・スペイン・南アフリカチェコ・ロシア(亡命者)の代表が独逸エルフルトに集合して行った「決議」を紹介し、この「議定書」に関する小論を閉じたいと思う。

「一九三七年九月二日より五日に亘ってエルフルトで開催されたヴェルト・ディーンストの國際会議は、二十ヶ國以上から参集した数多き学者・著作家・政治家がそれに参加したのであるが、議定書の真偽に関して次の如き決議をした。

ベルン裁判所によって一九三五年五月十四日に下された判決は議定書を偽作であるとしているが、これは過誤判決であって、この結果に立ち到ったのは一に次の事情のためである。即ち、それは、裁判官が誤って、猶太側から推薦されたスイスの専門家ロースリーとバウムガルテン教授との意見書のみをその判定の基礎としたためであり、またその上に、猶太側原告が提議した十六証人のみを訊問して、非猶太被告側から提議した四十人の反対証人を只の一人も召喚しなかったがためである。ベルンの判決は議定書の本物であることを揺がせるものではない。その本物であることは、他の種々の事情がそれを証明している許りでなく、猶太人自身がそのあらゆる政治的・社会的・宗教的領域に於ける行動に於てこの議定書の規定に従っているという議論の余地の無い事実によって証明される。かくてシオンの議定書は、猶太の世界政策の真正なるプログラムである。」(一六・五)

 

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