世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)27

付録参考

1. ドイツ人の猶太問題に対する態度

次に掲げた二文は、ドイツ國ライプツィヒのハンメル出版部が、フォードの「インターナショナルジュウ」を独訳出版するに当たって、その巻頭に載せた序文である。之に依ってドイツ人の猶太問題に対する態度と本論文の価値とを窺い得ると共に、猶太問題を研究しようとする吾々に取って一つの資料であるから、敢て茲に紹介した。

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一般読者が「此の書は実に世界史的意義を有して居る」と承認するようになるのも、蓋し遠き将来の事ではあるまい。今から一年前までは合衆國内に於て、賞賛の意味に使用する以外「猶太人」なる言葉を使用した新聞、雑誌、論客及び作家は一つもなかったのである。 -それであるから人々は合衆國を「自由のアメリカ」と呼ぶのだ。-世人がアメリカに自由と言う言葉を冠するのは、これアメリカを知らなかった結果である。実に世人はアメリカ程、猶太人の資本主義に悩む國は外にないということを知らない- 然り猶太人の資本主義なる語は、啻に(ただに)経済的に猶太人の優越を意味するばかりでなく、之と同時に精神上に於いても、亦政治上に於ても、アメリカが猶太人の桎梏下に呻吟(しんぎん 苦しみうめく)することを意味する言葉であるのだ。 -1920年五月有力なる週間雑誌「ザ・ディアボン・インデペンデント(The Dearborn Independent)」に本書の第一章即ち「猶太人の性格及び其の営利生活」なる論文が表れたが、これはアメリカの猶太人全般に対する頂門の一針[1]であって、彼等は之を見て顔色を変え一時息の塞まる(つまる)程驚いたのも無理はない。蓋し該雑誌は約二十万の読者を有して居って、該論文は実に猶太人の本性と其の活動とを高雅流暢なる文章で、而も公明適確に批評したからである。爾後毎週猶太人に関する批判、論文は相次いで掲載され、読者の数は著しく増加した、多分今日に於てはその数三十万を突破したであろう。-猶太人は逼塞為すところを知らずして呆然たる有様である。猶太人が斯く黙止したのは抑々何故であろう? 斯くて半歳は経過した。画集國内の感激は益々その度を増し、此の文章よりして多数のアメリカ人はちょうど窒息致死せしめる圧迫から、急に開放救出されたが如く、彼等の胸中には今や「我が國は裏切られ売られ、奴隷化されて居る」と言う認識の念が烈しく燃え上がった。是に於てか猶太人たるもの豈武器を手にして立たざるべけんやである。彼等の武器とは何であろうか、即ち彼等の常套手段たる「詭辯、黒白を誤魔化すの論法、名誉棄損、誹謗」之である。彼等の反駁論は一つも事実上に根拠を置いたものはない。又猶太人に心酔して居る宗教家及び猶太人に眩惑されて居る政治家の輩は、猶太人と共に相競って「実に之れキリストの教義に悖る排斥である」とか、或いは「実に之れ人種の平等権に対する攻撃である」などと、或いは慨嘆し或いは怒号した。けれども彼等の斯かる行為は、反って彼等に取って好ましからざる結果を招来した、即ち今や猶太問題は合衆國に於て、公然たる面も熾烈なる焦眉の大問題となるに至った。-此のことの焦眉の大問題たるは因より当然で、既に久しき前からそうなければならぬことである。事茲に至りては最早糊塗も抑圧も到底無益であって、該問題を徹底的に論議し、そして猶太問題の本体を見極めるの必要があるのである。

抑々猶太問題の本体を見極めるとは、如何なることを意味するのであろうか? 以下これについて述べよう。ほとんど完全にも近い猶太民族の世界支配は「分解せよそしてそれによりて支配せよ」と言う信条の実に巧妙なる応用によりて贏(か)ち得たものである。即ち彼等の利益の爲に、啻に(ただに)各國民をその内部に於て氷炭相容れざる二派に分離させ、これに依って國民の注意を他に転じて、猶太人の秘密侵略を覚られないようにし、そして國民の猶太人の侵略に対する防御力を委縮させたばかりでなく、諸國民をして互に相争わしめ、猶太人の有する唯一の目的の犠牲として、健全なる幾百万の男子を失うの止むなきに至らしめた、即ち世界戦争は究竟する所猶太人の企図したる一事業であって、実に此の世界戦のために失われた死者の数は、辯地球上に存在する全猶太人の数より多かったのである!

各國に於ける達識の士は、此の猶太人の恐るべき蚕食運動に対しては、殆ど策の施すべきものなしと感じて居ったが、苟も敢然起って之に対抗した者は、立所に殲滅されずには置かなかった。露國は実に猶太人が、世界に対して示した戒告の犠牲となったものと謂うべきである。猶太人はドイツに対しても亦露國と同様の運命に陥らしめようと夙に画策して居った、さりとて世界各國が同時に挙がって対猶太防衛戦を行わないで、僅か一ヶ國位が防衛戦を企図したからとて何にもならないのだ。必ずやこの戰は戦前にも増して一層屈辱的奴隷化の結果を招致するに違いないし、又一方「汎猶太」の画策した國内分裂政策及び各國をして相敵視乖戻せしめるの政策は、遂に各國民の民族的憎悪心をして愈々深刻ならしめるから、列國の共同は到底成立する筈もない。

世界戦争は猶太人の世界支配権を一層確乎たらしめたものと謂うべきである、露國はボリシェヴィズムの掌中に帰し、ドイツは蹂躙され、各國は負債に苦しんだ。戦勝國と雖も亦然りで、見渡す限り世界到る處困憊と不幸との中に沈淪呻吟(ちんりんしんぎん)し、世界到る處國家の首班に座せるものは、無能者に非ざれば猶太人の利益を図る売国の徒であって、万事は猶太人の予期通りの結果を見たのである。けれども流石猶太人にも一つの違算があった、即ち彼等は各國民の精神的緊張力を誤算して居ったのである。彼のヴェルサイユの平和会議に於て、参列諸國が戦争の責任問題を論議するに当たり「戦争の責は一つに独逸に在り」と判決し、之によって該問題を解決しようとしたが、然しながら該問題は斯の様な判決で解決すべきものではない。爾後該問題は波瀾を惹き起こすに至り、フランスおよび英國に於ては、此の議論の沸騰を抑圧することが出来ずして、遂に両國に於て「実に世界戦は猶太人の戦争であった、各國民は相互に傷ついて倒れ、只汎猶太のみが赫赫たる勝利を博したばかりである」と公然叫ばれるに至った。然り今やアメリカに於てさえ、異常に膨張する宣明運動及び護國運動の焔が炎々と燃え上がるに至った。蓋し斯の如きは実に猶太人の全然予期して居らなかった所であって、事茲に至りては最早「猶太問題は全文明國の切実なる問題であり、今迄恐ろしく誤って居った全世界の焦眉の緊急問題である、実に猶太問題は今や世界的一大運動である」と言うことは豪末も疑うの余地がない。

斯くて戦争責任問題は、兎に角解決した訳である。今や各國に於ては、何人が此の世界的不幸及び此の各國民の没落を故意に招致したか、を明らかに知り且つ公然と断言するに至った。けれども各國民が斯く認識するに至ったとは言え、之を以て猶太人に対する十分且つ完全な勝利とは謂うことが出来ない。斯かる認識は勝利の半ばを奏したるものと見るべきである。抑々全猶太人は一方に於て世界の富を一手に吸収するに鋭意努力すると共に、又一方に於ては自己の罪跡を消滅するに苦心して居った者である。されば此の認識は先ず其の一つを看破したのであるからして、半ばの成功とみるべきが至当であって、斯かる小成に(あんじょ)として安んずべきものではない。

次に各國の努めるべきは各國の反猶太運動を連絡せしめるにある、若し此の連絡が出来たならば、その結果として各國を網羅する真の公明なる萬國同盟が成立するであろう。斯の様な力強き同盟に対しては、猶太人は固より無力である、猶太人の沒落を支持しようとして如何なる手段を回(めぐ)らしても、到底斯の如き同盟に対しては毫も効力ある訳はない。然るに遺憾限りなきことには、目下世界を通じて実に次の様な太平楽の思想が流れて居る、即ち『文明列強が悉く有史以来曾てなき程の猛烈なる打撃を蒙り、一度滅亡して後始めて其処から新時代が生まれ、何れの國も等しく世界の王位に上り得るの権利を得、又虐げられて居った人々は新たなる世界組織の現出を希望し得ると共に、又斯の如き社会組織を想像するの喜びにて満たされるに至るのである。されば新時代の再現こそ望ましいことである』と。

世情実に斯の如くである、されど天なる哉命なる哉、人類及び人道は其の未だ亡びざる二先立ちて茲に救出されたのである。

この救いの感謝こそは実にアメリカの解放運動の勇士ヘンリー・フォードの勇敢なる行為に捧ぐべきものであって、世にヘンリー・フォードなく又彼の勇敢なる行為がなかったならば、人類は猶太人と言う世界蛇の爲に絞め殺されたことであろう。木鐸ヘンリー・フォードの警告あり、今や世界は迷夢より醒めて活動に移るであろう。

本書はアメリカにて二百万部乃至三百万部出版された筈である。真のアメリカ魂の力強き精神及び意志は、決して首唱呼号するのみにて止むべきではない、今や既に奮闘の途にある、必ずや猶太問題を解決するに違いない。

併しながら猶太問題の解決たるや、実に偉大なる歴史上の事業である!そして之が解決を見たる暁には、茲に各國民の眞の融和は必然成立するのであって、真の平和主義者たるフォードが此の事業を企てたのも亦此れが為である。(1921年6月 ライプツィヒに於て ハンメル出版部)

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概して言えば本書に掲げられた各章は、彼の有名なる「シオン賢者の議定書」(Protokolle der weisen vonZion)と相関連する所が多い。尤もその詳細のことは内容目次について一読すれば明瞭である。唯左の点については茲に予め注意しておきたいと思う、即ち
猶太人等は「シオンの賢者のプロトコル」と言う書に関しては、出来るだけ長い間黙殺し該書について云爲することを避けて居った。けれども世上漸く該書を問題として論議するに至るや、彼等は釈明して曰く「これ痴人の夢物語に非ずんば背道者の著作のみ」と、即ち彼等の釈する所によれば、該書はゴーディシュ・レドクリフ(Goedsch Retcliff)の小説ビアリッツ(Biaritz)から編転したものであると言うにあった。然るに又近頃になって、該書は1864年時代にフランスの辯護士ヨーリー(Yoly)が、ナポレオン二世に対して作ったパンフレットに其の起源を有すとの説を為すに至り、新聞紙上にて此のパンフレットと彼のプロトコルとの一致した点を公表する所があった。然しながら猶太人の公表した所は実は似て非なるもので、毫も重要視するの価値なく、加えるにプロトコルの核心にも触れて居らないものである。抑々プロトコルの核心とは何であるかというと、即ち「遅くとも1905年には猶太人が全世界の経済、政治、宗教及び学術を支配掌握するに至る順序を書き示してある」ことである。そして此のプログラムは、現に今日に至る迄逐次歩一歩と実現され来たった所である。論者説をなして、此のプロトコルの著者は非猶太人なりとなすものがある、若しそうであっても此の著者は、猶太人が自己の真相を看破されることを危惧し且つ怒って之を筆舌に攻撃罵倒したような、そんな痴人でもなく又背道者でもない、否一個の達識者である。 -すでに十五年以前に於て今日の世上の一部を予察し予言した卓見の士である。即ち今日吾人人類が苦悩して居る此の一大変化を、微に亘り細に亘って予想し、予言したる所の慧眼者であると謂わねばならない。故に若し著者が、猶太人以外の人であるとする時には、此の議定書を方に(まさに)一つの奇蹟なりと謂うも敢て過ぎたる賛辞ではない。又右の説に反し議定書は猶太人の手になったものであるというものがあるが、この方が事実に近き観がある。

蓋しプロトコルの諸計画と現今の状態とは真に因果の関係にある。吾人が経験したる総ての事は、実に唯斯くなるより外に成りようがなかったのである。何となれば全世界の猶太人の秘密の頭首達が、プロトコルの規定通り寸分違わず行動したがためである。実に全世界の情勢は議定書に明記されてあって、その記述に寸毫の違算もない。従ってまたそうなるより外に仕方のない絶対的のものであるのである。

吾人は上記のパンフレットと議定書の間に某程度の類似性が存在して居ることは承認し得る所であって、それは強いて説明すれば次のようにも言い得るからである「即ちプロトコルの著者はヨーリーの著者を知って居った者であろう、其処で彼は形式なり思想なりについてはヨーリーに模倣したものである」と。

けれどもプロトコル本来の内容に至っては、明らかに猶太人のものである。-

万事に対して常に猶太人の態度が然るが如く、此の内容の問題に対しても亦猶太人はプロトコルの内容を穿鑿せられるを忌み嫌い、頗る要心堅固なるものがある。彼等はプロトコルは虚構のものである、痴人の夢である、背道者の作であると百方辯解に努め以て世人が此の書を読まないようにして居る、蓋し斯の如きは上策とは謂い難い、宜しく彼等の所謂此の「痴人の夢」なる書を各人に紹会し、以て各人をして此の書は真に荒唐無稽の書であることを確信せしめるの手段をとってこそ真に正しき道と言うべきである。

吾人は此の正しき道を諸君に示さんとする者である、そして読者諸君がこれに関する独立的判断を自ら下されんことを希望する者である。(1922年7月、ライプツィヒに於て、ハンメル出版部)

 

[1] 《頭の上に1本の針を刺す意から》人の急所をついて強く戒めること。また、急所を押さえた教訓。

 

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