猶太と世界戰爭(新仮名)09

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第一章 猶太魂の本質(続き)

六、「シオンの議定書」の成立、伝播、真偽(昭和16年5月)

シオンの議定書」は、古今東西を通じての最大の怪文書と呼ばれるべきものであって、内容的にそうである許りでなく、その著者、その成立史、その伝播の経路等から見てもまた然りなのである。即ち、この書は、内容的には世界革命と世界制覇とのプログラムであって、現在の世界の動きがそれを実証しているのであるが、それにも拘らず、その偽作であることが問題とされる許りか、著者も成立史も伝播史も深い闇に覆われているのである。然しこの書は、一九〇一年以来公刊されていたロシアの國境を世界大戦後に超えて独逸(一九一九年)その他で公刊されてからは、その怪文書たるに全くふさわしい速力をもって世界に普及されて行ったのである。またあらゆる猶太人側の否定にも拘らず、一九〇五年のロシア語版(後述するニールス版)が大英博物館に翌年納入されており、その分類番号まで明らかになっていることも、この書の怪文書性を減ずることはないのである。

とにかく猶太は、独逸に於けるゴットフリート・ツール・ベーク(Gottfried zur Beek)の訳及び米國に於ける自動車王フォードの著書に依って、この書が急速に世界に伝播されて行くのを見て、極度に狼狽(ろうばい)し、買占め又は威嚇(いかく)乃至買収等によってそれの普及を妨げようとしたが、この方法が失敗に終ると、今度はそれが非猶太人の偽作であることを主張するようになった。そしてその試みは、一九二一年になって、計画的組織的なものとなり、米・仏・英の順序による三段構えの対策となって現れるに至った。それ故に我々は、多少長きに失する憂いはあるが、その三つの策謀の内容を略述して見たいと思う。現代の我々に取っては、この書の方が「トーラ」又は「タルムード」よりも直接の関係を持っているとさえ言い得るのである。但し我々は、猶太問題全般の研究にとっても「議定書」の方が「トーラ」又は「タルムード」より重要であると主張するのではない。

さて、その第一は、当時ニューヨークに在住したカタリーナ・ラートツィヴィル(Radziwill)と称するロシア女を利用したものであって、北米における有力な猶太雑誌「アメリカン・ヒブリュー」の三月二十五日の誌上には彼女と猶太人アイザーク・ラントマン(Isaac Landman)との会見記が発表された。それに依れば、「議定書」は日露戦争後の一九〇五年に偽造されたものであって、当時パリに居た彼女が、ロシア諜報官ゴロギンスキー(Matvei Golovinski)の口から、在パリロシア諜報部長ラチュコフスキー(Pyotr Rachkovsky)から猶太人の革命陰謀者を偽造するように依頼された、という話を聞いた許りか、彼女は既に完成していたその原稿を見せて貰うことさえした、というのである。そして彼女は、その現行の表紙には大きな青インキの斑点があったとも述べている。

我々はこの会見記の批判は後に譲ることにして、猶太側の第二の策謀を述べることにしよう。それはアルマン・デュ・シエラ(Count Armand Alexandre de Blanquet du Chayla (1885–1945))というフランスの伯爵を使ったものであって、在仏亡命ロシア人の機関紙ボスリエニドエ・ノヴォステイ(Poslednie novosti)に五月一二日から翌日にかけて伯爵自身が論文を発表しているのである。一九〇九年にロシアで「議定書」の出版者であるニールスに面会したが、その時見せられた原稿には青インキの大きな斑点があったし、「議定書」の入手の経路に関しては、ラチュコフスキーからその筆写したものを貰ったK夫人から手に入れた、とニールス自身が言ったというのがその論旨である。

この第二説が第一説と連絡して巧妙に仕組まれた芝居であることは、青インキの大きな斑点というようなわざとらしい詭計によっても判明するのであるが、とにかく猶太側がこの二重の対策では満足し得ず、第一策と第二策との間の時日の隔りと全く同じ程の日数によって第二策と隔っている八月には、十六、十七、十八の三日間に亘って、今度は國も新聞の種類も全く変更して、英國の有力紙「タイムス」を動かして第三の策謀に移っているのである。当時の事情から見ても、現在の事情から見ても、猶太側の「議定書」爆撃が米・仏・英という所謂三大デモクラシー國に於てなされた事は注目に値するのであって、デモクラシーとは事実上猶太支配の別名に外ならないことは、この簡単な一例によっても判明するのである。

本論に帰って第三策を見るのに、それはタイムスのコンスタンチノープル特派員フィリップ・グレイヴス(Philip Graves)の文章であって、フランスの辯護士モーリス・ジョリー(Maurice Joly)が前世紀の半ばにブリュッセルで出版した「マキアヴェリモンテスキューとの冥府に於ける談話」を彼が同地へ亡命していたロシア地主から貰ったが、地主はそれが「議定書」の種本であると言った、というのがその内容である。

グレイヴスの文がこれだけで終っているとすれば、それは或程度まで間違いないのであるが、我々をしてこの一文を猶太政策の一つと認めしめないではおかないのは、筆者が以上の事実から次の如き結論を引出しているからである。即ちグレイヴスは、「議定書」がジョリーを種本としているのでそれは非猶太人の偽作である、と主張するのであるが、これは猶太側が結論を急ぎ過ぎたがための失敗であって、それは、非猶太側がジョリーを種本として無根拠な世界政策を捏造することが可能であるとすれば、猶太側の方でも同じジョリーを種本としてその世界革命のプログラムを作ることが可能である、ということさえ考慮しなかった軽率な結論である。「議定書」とジョリーとの関係は、独逸の半月刊猶太問題専門情報誌「ヴェルト・ディーンスト」のフライシュ・ハウエルが平行的に印刷して比較研究しているのでも明らかなように、多くの内面的一致のみならず、文章上の表現に於ても一致している点があるので、ジョリーが直接の種本であるか、或いは両者が共通の粉本(ふんぽん)を持っているのかは明らかではないとしても、両者の密接な連関は疑うべくもないのである。しかしこの事情は、猶太「タルムード」論理に依って結論を急がない限りは、却って「議定書」が猶太側の革命陰謀者であることを、少なくとも内面的真実性の点では、証明する事になるのである。即ち、ジョリーはその自伝に於て、父はスペイン人であり、母はイタリア人であると言っているが、確かな調査によれば両親とも國籍をそれぞれ両國に持っていた猶太人なのであるし、なお特に注目に値することは、ジョリー自身猶太フリイ・メイスン秘密結社の会員である許りか、フランスに於ける有力な猶太人結社「イスラエル世界同盟」の創設者クレミューの親友であり、一八七〇年の共産系暴動にみずから参加しているのである。ジョリーのこの経歴を考慮する時、それだけで「議定書」が猶太系フリイ・メイスン秘密結社の世界支配のプログラムであることを信じても、グレイヴス等猶太側の態度に比して決して軽率であるとは云い得ないのである。

とにかく猶太側は「議定書」が偽作であり剽窃であるという程度の外面的な拒否をするだけで、それの内容にまで説き及んで反駁することはないのであるが、これは非猶太人には注目すべき点であって、内容に触れて論ずることは「議定書」の内容を一層世上に広布することになるのみか、十九世紀末以来の世界の動きを多少とも猶太の宣伝を盲信しないで見る人には、その真実であることが直ちに感得されるということを、猶太側自身充分知っているからである。しかし「議定書」のロシアに於ける出版者ニールスが非実在の人物であるとか、「議定書」そのものが世界大戦後の英國に於ける偽作であるとかいう程度の迷論 ―日本の自由主義的猶太戦線の志願兵には、猶太人自身さえも最早捨てて顧りみないこれ等の古い一時の浮説を宣説する者さえある― よりは、なお猶太側の上述の三説の方がまさっていることは認めるべきであろう。

        ×

一九二一年の三段構えの努力にも拘らず「議定書」が広布して行き、また一方そのプログラムに従って猶太の世界政策が進展して行くのにつれて、猶太の策謀に気の付く人が次第に多くなり、特に独逸に於てヒットラー政府が次第に確立して行くのを見ては、今まで猶太側の新聞その他による宣伝に躍らされていた人も、或程度までは反省の機会を与えられるようになって来たので、猶太側でもこの情勢を黙視することが出来ず、他の反独的な種々の政治工作と共に、議定書に関しても二一年に比較して一層有効と見える対策を講ずる決心をしたのであった。これが一九百三三年から三十五年に亘るスイス國ベルンに於ける「議定書」訴訟である。

猶太がこの年とこの地を選んだのは単なる偶然ではないのであって、その一般的理由は上述の社会情勢にあることは言う迄もないが、然しその直接の動機は、一方では、前に論及したラチュコフスキーやニールスが既にこの世にない上に、ロシアに於ける「議定書」のもう一人の出版者ブートミ、独逸に於ける第一の出版者ツール・ベーク、独逸に於ける第二の出版者で有力な反猶主義者であるフリッチュ等も死んでおり、更に、後述する通りに議定書の著者と推定されるアハト・ハーム、シオニズムの元祖ヘルツルもまたあの世の人となっていたがためであり、他方では、このベルン市には卑猥文学を禁止する法令がある許りか、猶太マルクス主義を奉ずる裁判官マイエルが居るためであった。またスイスは猶太的フリイ・メイスン秘密結社の優勢な土地 ―フランス及びオランダと並んで公然たる猶太人保護法がある― であるので、これも猶太側には有利な条件であった。かくて三十三年六月二十一日には「スイスイスラエル同盟」と「ベルン猶太文化協会」の名に於て、「議定書」は卑猥な文学である故に発売禁止となるべきであるという訴訟を提起したのであった。(これに連関して、「議定書」を頒布した憂國主義者が訴えられているのであるが、この点は現在の我々に直接の関係がないので、叙述を簡単にするために、今後とも「議定書」のみに問題を限って論じたいと思う。)そして一年を経過したが、事情が自己側に有利であると見た猶太当事者は、この時になって「議定書」の真偽の問題を追訴するに至った。さて事件の専門的鑑定家としては、猶太原告側にベルンの刑法教授バウムガルテンが選ばれ、非猶太側には前述のフライシュハウエルが推挙され、上席鑑定家としては、前身に暗い所のある親猶派文筆業者のロースリーが任命された。前身に暗い所のある名士を利用するのは、猶太の「タルムード」が教える所の常套手段であって、猶太の世界政策機関である國際連盟設立の主唱者であった米國大統領ウィルソン、その連盟に於ける長期の活躍家フランス大統領ブリアンの如きもその過去には破廉恥罪があったのである。かくて猶太側と裁判官マイエルの謀議によって、猶太側の証人のみが喚問されることになり、三五年五月十四日にはロースリーの上申書に従って判決が下され、猶太原告側の全部的勝利となったのであった。

然らばロースリーは、その申告書に於て、何を主として彼の結論の拠り所としたかというに、それはかの二一年の猶太対策の第一、第二のものであった。それ故に我々は、いまここでその二つに関してその真偽を述べることにしよう。

ラートツィヴィルの説が根拠のないものであることは、後述する通りに、議定書が既に一八九五年にはロシアでズホーティン及びステパノフ等の手に、一九〇一年にはニールスの手にあったことや、一九〇三年にはスナミア紙上に発表されていたことからも明らかであるし、またラチュコフスキーもゴロヴィンスキーも一九〇五年にパリに居なかったことが証明されていることからも明らかである。ロースリーはこの一九〇五年を何の理由もなしに一八九五年に改めている。なおラートツィヴィルその者の人物を調査した結果は、彼女がロシア公妃と称しているのは不当であって、十四年以前に離婚しており、その後コルプ及びドウヴィンと更に二度の結婚をしていた者である許りでなく、文書偽造や為替偽造で十八ヶ月の禁錮の経歴を持ち、二一年にはニューヨークで無銭飲食の廉(かど)で逮捕されたことさえあるのである。なお彼女は問題の会見に対し、純猶太フリイ・メイスン秘密結社ブナイ・ブリスの会員ルイ・マーシャルから五百ドルの報酬を受けたということである。

シエラ伯爵の場合は、彼がベルンの法廷に於ても自説の正しいことを誓言したに拘らず、その後前記の「ヴェルト・ディーンスト」の調査に依れば、三六年三月二十四日付のニールスの息子の手紙では、彼の母はKを頭文字とする名前の人ではなく、ラチュコフスキーと知合でなかった許りか、父が「議定書」の写しを貰ったのはズホーティンであって、彼もその際に居合わせたが、その原稿には青インクの大きな斑点はなかった、というのである。なおシエラ伯個人の人物は、反ボルシェヴィストであるヴランゲル将軍の陣営にありながらもボルシェヴィストに通謀したという憎むべき経歴を持つ者であることが、三六年四月三十日のペトロヴィッチ・ギルチッツの手紙で暴露された。ギルチッツ自身はシエラ伯と同時にヴランゲル将軍の麾下にあった人である。

なお第一、第二の場合共に問題となるラチュコフスキーに関しては、その息子の三六年七月十三日の手紙に依れば、彼は寧ろ親猶主義者であって、一九〇五年頃の彼の秘書は猶太人ゴルシュマンであったのであるし、遺稿その他を詳細に調べて見ても、彼と「議定書」とが関係があったという証拠は皆無であり、又その知合にK夫人のなかったことも疑いはないのである。

これらの調査が出来たためか、三七年七月二十七日からの控訴審に於ては猶太側に不利な形勢となり、十一月一日に降された判決では前審が取消されて、「議定書」は卑猥文学ではなく、単に政治的闘争書であると認められ、またその真偽の問題は法廷に於て決せらるべきものではなく、学術的に決定せらるべきものである、ということになった。

かくて猶太の策動は画餅に帰し、その非猶太人に依る偽作であるとの説は確認されず、発売禁止もまた行われないことになったのであるが、それが東洋に於ては日支事変に於て実質的に猶太の誤算と敗北とが次第に進捗しつつあった頃であることを思うとき、この訴訟事件が猶太に与えた精神的の打撃は誠に大であったことと推察されるのである。その後独墺合邦、チェコ問題の反猶太的解決などもあり、この「議定書」の全部的実現がその一歩手前で失敗に帰しつつあることが次第に明らかになって来ているが、欧州戦争誘致乃至日米通商条約破棄通告等最近の米・英・仏に於ける猶太側の過激な手段の由って来る所は、このベルンの訴訟に始まる正義派の勝利に対する猶太の絶望的なあがきなのである。この意味に於てベルンの訴訟の持つ象徴的意義は大であると言わねばならない。

     ×

今や我々の課題は、前に論及しておいた通りに、「議定書」がその世界大戦前に於ける唯一の伝播國であるロシアに於て既に一八九五年にズホーティン及びステパノフ等の手にあった、ということを明らかにすることである。この点に関しては、「水、東へ流る」又は「われらの主猶太人」等の著書によって「議定書」問題及び一般猶太人問題に関して功績のあるアメリカの女流文筆家フライ婦人が、嘗てモスクワの宗教会議の代表者であったフィリップ・ペトロギッチ・ステパノフから一九二七年四月十七日に貰った手紙の内容であるとして発表している所が最も確実な資料となっている。その手紙に依れば、ステパノフは一八九五年にアレキシス・ニコラエヴィッチ・ズホーティンから「議定書」の写しを貰い、自分でもまたその写しを作って人に頒った、というのである。そしてこの説が単なる作為でないことは、「議定書」の出版者ニールス自身も、彼がそれを手に入れたのはズホーティンからである、と言っていることからも判明する。ただ前説との差は、ニールスがズホーティンから貰ったのは一九〇一年であるという点である。またズホーティンが如何にしてそれを入手したかに関しては、彼自身ステパノフ及びニールスの二人に対して、パリの一婦人からである、とのみしか語らなかったとのことである。

なおこの九五年説が正しいことは、三七年に「猶太人の世界陰謀計画」なる小冊子に於て「議定書」問題に関する最新の研究の成果を纏めているベルクマイスルが、三六年十二月十三日付でズホーティンの娘アントニーナ・ポルフィルエウナ・マニコフスキーから受取ったという手紙の内容を見ても明白である。彼女はその中で、彼女が一八九五年に父を訪問した際、妹や姪が「議定書」の写しを作っているのを目撃した、と書いているのである。

九五年説には、北米デトロイト市で出版されている「フリー・プレス」関係の猶太人ベルンシュタインが自動車王フォードの書記カメロンに向って、九五年にオデッサで、ヘブライ語の「議定書」を見た、と語ったのも、間接的ではあるが、一つの好都合な材料となるであろう。但し、この点については今一度後に触れることにして、ここでは論を本筋に戻したいと思う。

かくて問題は、ズホーティンが如何なる経路によって一八九五年又はそれ以前に「議定書」を入手したかということになるのであるが、この点に関しては、フライ婦人の次の説がある。彼女に依れば、「議定書」のフランス語訳がパリのフリイ・メイスン秘密結社にあったが、其処の会員ジョゼフ・ショルストなるものがユスティナ・グリンカという女にその写しを売り、その女がそれをズホーティンに伝えたのである、というのである。然しこのフライ婦人の説が何処まで正しいかは、今なおその後の証拠がないので、確かなことはわからない。

ついでに、その後のロシアに於ける伝播の状況を略述しておこう。先ず一九〇三年には前述の如くスナミア紙に掲載され、次には「議定書」の出版者として最も著名なニールスによってその著「小事のうちの大事」の第二版に於て五年に出版されたのである。なおニールスの息子の前述の手紙に依れば、ロシアに於ける最初の公表は二年から三年へかけての冬に於けるモスコフスキヤ・ヴィドモスティ紙上であるとのことである。別にブートミは、その著「人類の敵」の中で、六年に出版している。そしてニールスもブートミもボルシェヴィズム革命迄はその版を幾度か重ねて行った。

かくロシアに於ける伝播の歴史を見ても、ズホーティンが如何なる経路で「議定書」を入手したかは、依然として謎として残るのである。然らば、この謎は今後解決され得る見込があるかと言うのに、現在ではそれを単に所有するだけでも死刑に処せられるソ連に於ては、恐らく現在の猶太的政府が存在する限り、その見込はないであろう。否、或いは永久にその見込はないかも知れないのであって、それには次のような「議定書」式が経緯があるのである。即ち、前ロシア代議士男爵エンゲルハルト大佐が「ヴェルト・ディーンスト」に寄せた通信に依れば、一九一七年にフリイ・メイスン秘密結社員ルボオフ公が暫定内閣を組織した時、猶太問題関係の文書の全部が内務省及び警視庁から持ち出されて猶太人政治家でフリイ・メイスン結社員であるウィナヴェルに引渡されてしまったというのである。

 

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