猶太と世界戰爭(新仮名)12

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第一章 猶太魂の本質
七、國際猶太秘密力の世界新聞統制(訳補)(昭和14年8月)続き

新聞の商業化

新聞の商業化という現象は猶太人の仕事として十八世紀の末から十九世紀の初頭にかけて始まって来たのであるが、その結果として新聞は二重の役目を演ずることになり、精神的政治的要素であると同時に一種の商品と化したのであるが、この事情は、新聞をして諸國民を結合する力としての位置から転落せしめて、人類の災厄物にまで下落せしめるに至ったのである。

近代新聞の動向を規定するのは報道と広告の二つである。そしてこの二つの入り口から、かの恐るべき猶太及びフリイ・メイスン結社の秘密力が「言論の自由」なる仮面を被って侵入し来り、世界新聞界をば今日の如き精神的並びに道徳的危機に追い込むに至ったのである。前世紀の中葉に於て広告税と公用広告機関が撤廃せられた結果として、殆ど凡ての國に於て政治新聞に広告を載せ得るようになったし、従って國民の商業的関心と精神的政治的要求とを新聞によって結合しようという傾向が著しくなって来た。また広告依頼者の信用を得るために読者層を増大しようとしてあらゆる手段が講じられ、新聞の購読料は印刷代以下に引下げられるに至った。一八三六年七月一日に仏人ジラルダンは「ラ・プレス」紙を発刊したが、その購読料はその当時の相場の半値であった。では、かくして出て来る欠損が如何にして埋められるかと言うに、それは広告を殖やす他に道はないのである。

ジェームス・ゴルドン・ベネットは一八三五年に米國に於て「ニューヨークヘラルド」紙を創刊したが、彼はそれを只の一部一ペニーで売った。しかし実際には、一部三ペンス乃至四ペンスかかっていたのである。英國では一八五五年に、新聞税と広告税との撤廃後のこと、ヨーゼフ・モーゼス・レヴィが最初の「一ペニー新聞」たるロンドン「デーリー・テレグラフ」を発刊したが、他方ウィーン市でも既に一八四八年にアウグスト・ツァングが「ディ・プレッセ」紙を発刊して、ジラルダンの例に倣って、相場の半値で売った。

爾後新聞の読者は印刷用紙代だけも支払っていないことになり、従って文字通りの不払所得として贈られる通信や報道の部分は、匿名の金主が新聞を支えてくれるのでなければ、広告代によって経済的に補填される外に道はないのであった。

 

新聞の買収

かくて終には色々の方面から買収の可能性が生じて来たが、これはかの國際猶太人及びその支配下にあるフリイ・メイスン結社に取っては誠にお誂向きの活躍舞台であった。

猶太人の破壊力が新聞に侵入した第二の門は近代の通信機関の発展である。新聞が資本主義に従属するに至ったがために輿論もまた金力で動かされ得るものとなり、通信組織は濫用されて、新聞のデマ記事が國民生活の中に喰い入るようになった。現代に於ける世界通信網の歴史を辿って見る時、我々は驚くべき連絡と組織とに当面するのである。

現代の新聞通信機関の起源はかの猶太人の取引所であるから、現代の組織化された虚報通達による新聞の悪用というものはすべて猶太人の商売根性の発現したものである。現代の通信組織は、自分に都合のよい通知によって競争者や顧客から出来るだけ物質的な利益を搾取しようとする商業本位の猶太人の手に握られている実験台である。

その好例をあげれば、ロンドンの猶太人ネイサン・ロスチャイルドのあの歴史的な「ワーテルローの勝利」である。彼は正に現代新聞虚報の父である。彼の父でフランクフルトにいたマイエル・アムシェル・ロートシルトもまた相当の腕前があったらしく、郵便局を買収して取引上の敵の手紙を密かに手に入れ、それを儲け仕事に利用したそうであるから、その息子ネイサンのやり方はつまり父親のやり方を現代化したに過ぎないとも言えないことはない。とにかくネイサンは伝書鳩郵便を使ったり、船長や旅行者を手数料で買収して色々な報道を集めるに役立てた。そしてこの世界中から集まった報知を勝手に利用したり、秘密にしたり、ほのめかして、兎に角彼の取引事業に都合よいように細工したのであった。彼の「ワーテルローの勝利」もまたその一例であった。彼は逸(いち)早く誰も知らぬうちにワーテルローの決戦の結果を知っていて、丁度ロンドンでは未だ一般に半信半疑でいたのを奇貨として、英國及びプロシャがナポレオンに敗戦したとの虚報を伝えた。相場はがたがた落ちた。ロスチャイルドは仲買人を使って出来るだけ株を買込ませたので、ワーテルロー戦勝の正しい報知がロンドンに到着した時には、彼はもう巨大な金を儲けていたのであった。

 

虚報の勝利

猶太的資本主義的貪欲に奉仕する新聞虚報は、世界通信網を握っている政治的電線工夫(仕掛け)の手にかかると忽ち諸國民の平和を脅かすものに化する。

最近百年間に亘って戦時平時共に世界通信界を牛耳っているヨーロッパの通信社は殆ど皆猶太人の創立である。先ず大きい所でアヴァス通信社は一八三五年にルイ・アヴァスの創立に関るが、その父はポルトガルからフランスに移住した猶太人である。彼は一八三二年に独逸系猶太人ベルンシュタインの「色刷通信」紙を買取って、これを改組した。彼には二人の共働者ベルンハルト・ヴォルフとヨザファット・ベールとがいたが、この両猶太人は一八四八年にアヴァス社を去ってヴォルフの方はベルリンに自分の通信社を開き、カッセル出の猶太僧の子なるベールの方は五十年代に英國に渡り、ロイターと改称して英國の大通信社となった。

この三大猶太系通信社は数十年以来、全欧州新聞通信界を支配していたのみではなくて、殆ど全世界の報道陣を占領していた。独逸も前大戦前に於ては言う迄もなくこの三社独占から殆ど逃れることが出来ず、独逸系の通信社が僅かに北方諸國を通信で繋いでいる間に、アヴァスやロイターは全世界を分割して支配していたのであった。

 

大戦の通信状態とその後

かくして世界大戦が一九一四年に勃発するや、恐るべき結果が招来され、全世界は仏英通信社のデマ宣伝で塗りつぶされてしまい、独逸は僅かに近隣中立國数國に真実の叫びを聞いて貰えたに過ぎない。デマ宣伝がどんなに有効だとしても、それがアヴァスやロイター等の國際的通信組織の力を借りなかったならば、決して独逸を叩き伏せる程の力を持つことは出来なかったであろう。

ナチス独逸は政権掌握後ヴォルフ通信社と電通連合社とを統合して「独逸通信社」を創設して、地球上枢要の各地に自派の代理者による自己の世界通信機関を設置したが、独逸は歴史上此処に初めて他の先進大通信社に劣らぬ近代科学の粋を尽くした客観的且つ急速果敢な通信網を全世界に敷くことを得たのである。大通信社が何れもその背後の秘密力の庇護を受けていることは上述した通りであるが、その結果として、國際通信組織が蔵している巨大なる危険は時とともに増大し、新聞の虚報は益々危険な隠蔽方法を考案して、大通信社の看板を下してまでも悪質のデマを飛ばすようになった。多くの場合には誰も責任を負わぬ放置を虚構するのが主眼であり、誰が委託したか、誰が背後にいるのかを全く気付かれないように仕組むのである。虚構は又次々に他の新聞にも引用されて尾鰭が付き、また互に引用し合ったりなどしているうちに何れが元のものか解らなくなってしまう。これ等通信社のモットーは、新聞虚報が常にその取消よりも迅速に広まること、一度書かれた以上、結局何かが後に残るということである。たとえ取消その他のいざこざがあっても、報道の迅速と競争という理由のために事件の真偽を確める暇はないので、自由主義的な新聞は無批判にこれ等の通信社の通信を掲載してしまう。また多くの場合には、外國新聞中に見られる虚報、経口的通信の類は、新聞自身の通信員から出るのではなくて、却って新聞の編集部自身が通信員に傾向的なものや新聞社の政治的経済的従属関係に沿うような報道を強制するのである。通信員の意図などは全く顧られることはない。かくて「言論の自由」という看板を掲げて新聞を支配しているのは、決して精神でも真理でもなく、金銭であり、それを払う人である。立派なジャーナリストと雖もここでは自主権を持たない。立派な新聞を毎日検閲する匿名の背後人達は、厚顔にも常に「自由」を叫び乍ら、この空辞に隠れて諸國民を毒する贋作をどしどし拡めようとしていいる。「自由」なる語は西欧民主主義國家に於ては頗る高く謳歌されているので、「自由」を踏付けにするためにインチキ者流に用いられるような場合でも「自由」とさえ言えば喝采を博するのは、真の「自由」のためにも嘆かわしいことである。

勿論民主主義國の識者達がその数百年の歴史に於て、この種の「言論の自由」によって散々の目に遭っていることは初めに引用した言葉によっても証明されるであろうが、それにも拘わらず彼等は尚おこの言葉を永遠の理想の如くに賛美しているのは、彼等の存在そのものが既に時代に取残されて固化してしまっているためであろう。然るにナチス独逸はこの点最も早く決断力を示して、少くとも國内に関する限り、一刀両断的に新聞界の徹底的清掃と統制とに成功した。今や我々はこの独逸と提携して、國内に於ては日本の新聞をして日本の新聞の使命を自覚せしめ、対外的には、國際生活に於て諸國民を互に嗾(け)しかけて戦わせようとする悪辣な猶太系諸大新聞に向って敢然認識と挑戦の刃を向けねばならない。それ故に我々は、世界各國の大新聞の内部的風景がどうなっているかを少しくみることにしよう。

 

フランス新聞界

フランス衆議院議員エルネスト・ベゼは、仏國の宣伝力増大のために議院内に特殊の一派を結成している人であるが、彼は一九三五年にその著「世界の眼の下に」に於て次の要求を漏らした。

「所謂自由を標榜する新聞の欺瞞を取除くため ―実はこれらの新聞は強力な利欲によって結ばれているのだが― には、國家は思い切って強制条令を施行すべきであろう。そしてパリの新聞界が再び名誉ある業績を示すに至る暁には、この強制条令は終に目的を達し、パリ新聞界は、外國資本や利害関係を持つ保護者乃至はシンディケートの干渉又は秘密資金等によって屡々誘い込まれた奴隷状態から救い出されることになるであろう。」

仏國の有名な出版者ヴラヂミール・ドルメソンは一九二八年に「独逸への信頼」なる書で言っている。

「我々が苦しんでいる困難の十分の九までは、傾向的報道に原因を持っている。國民と國民又は政府と政府との関係を毒する不信というものは、事実自身によるよりも、その事実を伝える叙述の仕方によって惹起される方が多いのである。」

仏國掌璽官アンリ・シェロンは一九三四年十一月十三日に新聞について次の如く語った。

「 …此國に於ては誹謗が横暴な支配者として君臨している。日々の過激な言辞は輿論を無力にしている。一定の経済団体或いは財団はその意見に従って自分に従属する人間を勝手に亡ぼすことが出来る。かかる雰囲気にあって人はもはや何人と雖も身の安全を保証されることを得ない。」

以上は何れもフランス人自身の告白であって、これは疑う余地のない資料であるが、ついでに仏國新聞が大戦前に於てどれ程迄に買収し易いものになっていたかを示す材料をも一つ上げて見よう。それは当時ロシア財務大臣のパリ駐在代理として仏國新聞を親露派に傾けようという任務を帯びていた枢密顧問官ラファロヴィンチュの手紙である。彼は、一九〇四年八月三十日に当時のロシア財務大臣ココヴィツェフに宛てた手紙の中で、買収金の分割法に関して次のように報知している。

「予算年度の最初十ヶ月の間にフランス新聞の買収には六十万フランの多額を費した。然もこれには銀行シンディケートを買収するに要した費用三十万フランは含まれていない。」

今日のどの國でも、政治と商売とを新聞で結合する企てが、フランスに於ける程にうまく行っている國はない。即ちこの國では、フランス新聞全体の生命線をアヴァス通信社が独占しているのである。この通信社は各新聞に報道を供給するだけでなく、同時にその公告及び販売にも手を出すのである。この先頭に立って一切を切り廻しているのは、アヴァス社の総取締にして最大の広告社の社長でもあるレオン・ルニエルである。なお彼は、仏國新聞全体の販売組織で或るアシェト社の監査役をも兼ねている。またパリのロスチャイルドと並んで財界に有力な地位を占めているユダヤ人ホラース・フィナリイがこの全能なアヴァス社の首席監査役におさまつていることを見れば、実情がなお一層よく解る。如何なる新聞もこの全能な通信社に刃向う勇気と力を持ちえないのも当然ではなかろうか。

かくフランスの新聞界に於ては政治と商業とが混和しているので、経済団体は財団の類が新聞の一年の予算を支払ってやる代りに、その新聞の本欄全部を買切ることも出来る。編集者の意見に従って、背後の全権者の供給する通信や論説がそのまま新聞に載せられることも大して珍らしい現象ではない。それ故に、如何に良い意志を持っている記者も、この事情を如何ともし得ない程であり、かのヴラヂミール・ドルメソンは此点に関して次のような意見を述べている。

一再ならず余は個人的に話を交えて見て知ったのだが、新聞記者のうちには前日新聞で発表したのとは全く別の政治上の意見を持っている者があるのである。『それは矛盾ぢゃないか』と指摘すると、彼等は物倦いように手を動かして、『何ですって、我々はあの人々の欲するようにしなければならないのですよ』と答えるのである。実際、新聞の実権を握っているのは五、六人のジャーナリストや政治家や売文業者であって、彼等はその機関である新聞によって一定の政治、一定の利益、一定の産業、一定の野心を指示しているのである。」

 

英國の新聞

フランス新聞の方は多少に拘らず決まった精神的並びに経済政策上の潮流に従い、特定の党派乃至財閥とか言ったものに仕えているが、英國の新聞の方は、少数の例外を除けば、殆どその全部が大衆のセンセイション欲を満たすことを主眼としている。英國新聞の完全なる商売化をジェラルド・バリーはよく描いているが、一九三二年二月十九日の「余は新聞を訴える」に於ては次のように言っている。

「彼等は新聞を、立派な言論機関としてではなく、ありふれた財産獲得の手段として取扱い、丁度石鹸とか売薬とか或いはまた他の商品と同じく、速かに富裕になって貴族の地位に昇り得るための手段と見ている。かような連中の間では、就中民衆又は國家に対する責任感というものは逸早く消失してしまった。その代りに出て来たのは商売と広告取りと部数増大との神々である。」

今日英國ではロード・ロザーメーア・コンツェルン、ビーヴァブルック・コンツェルン、ベリ団、ウェストミンスター団、スティーマー団、オダームス団等の他には、極く少数の新聞が存すだけである。中でも独逸を比較的客観的に見ているのはロード・ロザーメーア位のものである。

英國では言論の自由ということが、伝統的になっているが、その実施はなかなか困難である。斯かる自由は公衆の眼を蔽う目隠しであり、目潰しの砂に過ぎない。この事実をよく喝破した人に「タイムス」の主筆ケネディがあり、「十九世紀とその後」誌の一九三七年八月号にこう書いている。

「発行人及び支配人等の側に於ける専横な行為は、真の自由とは全くの反対物であるにも拘らず、その大部分は我々の得意とする言論の自由の外被に隠れて行われている。我々英國人は、英國程民主主義を尊ばない國々に於て行われる厳重な検閲に対して、よく批評がましいことを言う。然し乍ら通信機関が何れも背後の匿名財閥の命による独自の政策と道徳とを有しているとき、一体我々はこの『言論の自由』などを賛美する権利があるだろうか。その主なる役目は、大衆のセンセーション欲を助勢することであり、主筆や通信員が國際的融和及び世界平和にとって重大な意義を持つ問題に一、二頁を割こうとするのに対してさえも圧迫を加えようとするのである。」

このような批判をやっているのは敢てケネディだけに止まらず、大英新聞連盟長ハムフレイは一九三七年三月二十二日に総会の席上次の如き言をなした。

「世の中には、通信の生命をセンセーショナルな点にありとし、註釈の註釈たるはそれが破壊的なときに限る、とする人がまだ夥しくある。読者買収という古い手段によって部数増加を図る方法が死点に達してしまうと、そこには新しい標語が競争場裡に生み出されて来た。かくて今や如何なる価を払ってもニュースを作らねばならないのである。然しそのために払われる価が人間の不幸を利用することであり、またジャーナリストが市民として為すべからざることを為すということであるとすれば、我々は斯かる発展を停止しなければならぬ。言論の自由とは決して放縦なる自由を意味しない。」

一九三四年五月九日に故総理大臣マクドナルドは「英國新聞連盟」の前で左の演説をなし、大衆新聞の無軌道振りを責めている。

「もし新聞全体がその権力を利用して、自己の欲する所を公のものと称し、万事に自分の欲するままの色彩を与え、また風評を事実に化し、事実を無と化するに至れば、その危険は幾ばくであろう。かかることは相応に儲かるかも知れぬが、わが國民の精神機構を弱めることが大きい。諸君は注意して言論の自由が言論の膿汁に陥らざるよう心してくれ給え。」

 

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