猶太と世界戰爭(新仮名)06

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第一章 猶太魂の本質(続き)

三、猶太の神秘の数を解く(昭和17年1月14日)

-「十五」なる数の猶太秘密力に対して有する意義-

標題の真意義を理解する為には、猶太人が如何なる魂の所有者であるかを了得しなくてはならない。然しこれは相当の難事であって、一朝一夕には果され得ないことであり、最小限度に於ても、猶太聖典としての旧約全書(特にトーラと称せられるその最初の五巻)及びタルムードに通暁(つうぎょう)し、猶太哲学としてのカバラを味識(みしき?)し、それに加えて猶太四千年の歴史を達観することを要求するのである。在来の政治的経済的方面を中心とする猶太研究は、猶太の魂の本質を明らかにすることによって補足される時に一層完全なるものとなるであろう。殊に思想対策の分野に関しては、猶太の魂の研究によってのみ根本的な解決の道が発見されるであろう。しかし我々はこの短い論稿に於ては、上述の如き広汎なる問題に及ぶ余裕を持たないので、直接に「十五」なる数に関する問題のみについて述べたいと思うが、もしそれに依って猶太魂の根本的特質がその片影[1]に於てなりとも明らかにされるなら、筆者の労は充分に酬(むく)いられるのである。

[1] 片影:わずかに見えた、ものの姿、人物の性格などの一面。

 

わが國唯一の猶太研究月刊雑誌「猶太研究」の読者は、その第一巻第六号に掲載された「猶太民族の世界征服綱領」を記憶されるであろう。その本文は、一八五一年に今は亡國の運命にあるチェコ國の首都プラーハに於て開催された猶太法師会議の議事録として伝えられているものの主要部分である。そしてこの際に集った十二人の法師がいずれも猶太秘教としてのカバラの行者であったことは、その集会の場所がカバラ行者として著名であったシメオン・ベン・エフダ法師の墓場に於てであり、また秘教の行事に相応しく夜闇の中に於てであったことに依って証される故に、この集会はカバラ行者長老会とも称されている。そしてその議題は言うまでもなく猶太の世界支配の方法とその状況の検討であって、欧米各地の枢要都市に散在する猶太十二支族の代表者が方策を提出しているのである。但し今我々に問題なのは、その策謀の内容そのものではなくて、この長老会議の行われた年号の示す数字であり、またそれがその前にも約百年毎に行われていたと称せられている点である。これを年号にて示すならば、第一回長老会議は一四六四年に行われ、第二回は一五六三に、第三回は一六五三年に、第四回は一七六一年に催され、そして前期の議事録はその第五回のものであると称せられている。そしてこれ等の年号の数字をそれぞれ加算する時は、何れも「十五」となるのである。また第六回の長老会議は当然昨年即ち一九四一年に行われるべきであったと称されるが、しかし、今やプラーハ市は独逸の支配下にあるのであるから、この長老会が予定通りに開催され得たか否かは我々の知り得る所ではない。

上述の議事録が、他の猶太系の秘密文書と同じく、その真偽に関しては正確な証拠とてはないようであるが、しかしそれにも拘らず、かの諸年号が「十五」であることが猶太秘密力に取って必ず何等かの重大な意義を有するであろうことを暗示するには足りるであろう。殊に猶太十二支族を代表する法師がすべてカバラの行者であることからして、かかる数に関する信仰がカバラ秘教の中に於て重要なる地位を占めているのではないかという推測を生むのは当然であるが、果してその中にはゲマトリアギリシャ語に由来し、広義には「数学」を意味するという説が有力である)と称される数に関する神秘が説かれているのである。そしてこのゲマトリアは既にタルムードにも見られるものであり、主として聖書中の難解の語句を解釈する際に用いられたものであった。その方法はヘブライ語字母はそれぞれ数を代表しているので、聖書中の語句の有する数値をその語句を形成する字母の代表する数の和によって示し、同一の数値を有する他の語句又は同一の数値を有する他の概念に依ってその語句を解釈するのである。いま我々は聖書中の語句の場合の例を取ることを避けて、現在の我々に関係の深い方面の現象にこれを応用して見よう。

ヘブライ語に於ける「世界戦争」又は「全地上に於ける戦争」なる語の有する数値は六七五となるが、猶太の年号は普通その千台を略して呼ばれる故に、この数に近来の猶太の年号の千台のものである五千を加える時は、それは五六七五年となるが、これは西暦の一九一四年に相当するのである。そしてこの一九一四年に第一次世界大戦は起ったのである。しかもこの一九一四年の有する数字の相和は「十五」であり、今次大戦が文字通りの世界大戦となった年は一九四一年であってまた「十五」なのである。

かくて問題は、斯く事実上重大な意義を持っている「十五」の数が猶太に取って如何なる意義を有するかである。先ずここにその結論を述べるならば、この「十五」なる数は猶太民族の守護神エホバの数であって、この神聖なる数に関係する事柄は猶太に取ってはまた神聖なるものであり、猶太民族の世界征服計画の実行手段としての戦争の如きは、この数の年に於て行われる時、その守護神エホバの特別の庇護の下に遂行される、というのである。では、如何にして「十五」がエホバの数であるかというのに、子音のみによって綴られるヘブライ語に於てはエホバ(正しくはヤーヴェ)の名はJHWHとなるのであるが、その始めの二字即ちJとHとは十と五なる数値を持ち、合して「十五」となるのである。かくて守護神の名の代表する数がゲマトリアなる数的信仰を有する猶太人に取って如何に重大なる尊信の対象となるかは、猶太人の魂の宗教的傾向の本質を多少とも知る者には、直ちに理解されるところである。

しかし或る人々は、現代の如き所謂「科学」の時代に於て猶太人に於てもかかる数的迷信を信仰するものはあり得ないであろう、と言うかも知れないし、また相当数の所謂文化猶太人のうち他國民の間に生活するものは、少なくとも表面的には、かかる信仰を捨てたことを主張している。然しこれを以て直ちにかかる信仰の偉力を否定するのは早計であって、猶太人以上に文明開化されている筈の一般キリスト教徒の間に於て未だ十三の数が如何なる役割を演じているかを知る者は、「十五」の数の猶太人間に於ける意義を直ちに理解し得るであろう。宗教的権威と政治的権力とを兼ね備える猶太法師が千年一日の如くタルムード等の猶太聖典をその教会に於て説きつづけている限り、猶太の魂には決して根本的の変革はあり得ないのである。

なお一言しておきたいのは、「十五」なる数の持つこの意義を明瞭に認識したのは、タルムード乃至カバラ研究の一部専門学者を除いては、ルーデンドルフ将軍[2]であることであって、これは一九二七年の著「フリイ・メイスン結社の討滅」に於て始めて暴露されたのである。そしてこの暴露が猶太陣営を如何に震撼したかは、将軍に関してその後猶太支配下自由主義諸新聞が極めて悪質の宣伝をしたことによっても理解される。将軍のこの点に於ける功績は、旧約全書申命記第二十八章の持つ意義の開明と共に将軍の猶太研究に於ける二大業績であり、その軍事的功業と共に永く記憶されるべきであろう。実に将軍はその「戦争煽動と諸民族の殲滅」に於て既に十数年の昔より一九四一年の危機を説き続けて来たのである。

[2]エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルムルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865.4.9~1937.12.20)は、ドイツの軍人、政治家。第一次世界大戦初期のタンネンベルクの戦いにおいて第8軍司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクを補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。最終階級は歩兵大将。戦後はアドルフ・ヒトラーと結び、ミュンヘン一揆を起こしたが、ヒトラーとは決別した。晩年は宗教団体 Bund für Deutsche Gotterkenntnis(ドイツ信徒の家)を創設し、宗教活動を行った。(wikiより)

 

かくて、猶太の世界征服計画を知る者は、第一次世界大戦が何故に一九一四年に起り、今次大戦が何故に一九四一年にその世界的規模にまで発展せざるを得なかったかの理由を会得することが出来るのである。既に我々の説いた如くに、エホバの年一九四一年に始った今次大戦は猶太人にとっては「人類殲滅戦」なのであって、彼等に枢軸側の勝利が愉快でないことは勿論であるが、然しまた米英ソ支の敗退もまた猶太系諸新聞の宣伝するが如くには痛手ではない筈である。現在までの経過は、或いは猶太陣営の予定のコースを辿っているかも知れない。従って猶太の世界支配機関の一翼としてのフリイ・メイスン結社の有力会員たるルーズヴェルト及びチャーチルは、今やアメリカに於て猶太有力者の感謝を受けつつ、内心大なる愉悦に浸っているかも知れないのである。最近シンガポールより本國帰還を命ぜられた猶太人東洋探題ダフ・クーパーの如きも、その猶太的使命は今や完全に果されたのである。また伝えられる如くチャーチルが退いてイーデン[3]が首相の印綬を帯びることも決して不可能ではないのであって、秘密結社系勢力より見ればイーデンの方が猶太陣営に取っては有用であるかも知れないのであるし、また猶太的世界総赤化策に取っては猶太人リトヴィノフ外相と親戚関係にあるイーデンの方が猶太に取って一層好都合なことは自明である。又ロータリー・クラブ系の半國際人の間に日本贔屓として名声を博していたらしい前日本駐在米國大使が、大東亜戦の宣戦布告を受取るや直ちに或るゴルフ場(このゴルフ場が如何なるものであるかは知る人ぞ知る)に出かけたという噂は、彼が如何なる系統の指令下にあるかを明瞭に示すものでなくて何であろうか。

[3] 初代エイヴォン伯爵ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden, 1st Earl of Avon 1897.06.12~1977.01.14)は、イギリスの政治家・貴族。外相(在任:1935~1938、1940~1945、1951~1955)、首相(在任:1955~1957)。

 

今や我々は米英アングロサクソンの暴慢なる世界搾取を討たんとして正義の戦を戦っているのであるが、忠勇義烈の行軍の赫々(かくかく)たる戦果を実に確保せんとするならば、かのアングロサクソンの背後にあって米英の敗退をも自己の世界征服の具となそうとしている猶太のあることを忘れてはならない。支那事変の敵がフリイ・メイスン秘密結社員蒋介石であり、更に米英及び猶太秘密力であった如くに、大東亜戦争の敵は米英であり、更にまた猶太なのである。(一七・一・一四)

 

  付言

 

特に超非常時である現代に於ても、「日本に現存するフリイ・メイスンリイ」等という書が、「科学」の名を僭称しつつも、赤化主義者の片言隻語に絶対の信頼をかけて、フリイ・メイスンリイと猶太とは関係なしという如き時代錯誤の主張をしているのであるから、以上の認識は特に重要性を持つのである。かかるフリイ・メイスンリイの解釈は、猶太が絶対的支配権を有する英米に於てさえも稀に見られるものであって、現代欧州に於ては前世紀の猶太系宣伝として一人前の判断力を持つ者は誰一人耳をかすことをしない所のものである。「科学」なる語を宣伝に利用した者が主として赤色猶太主義者であったことを知る者は、今なお「科学」の名を僭称する怪物が皇國日本にも出没し得る余地のあることを反省して、猶太秘密力の謀略の深刻さを忘れてはならない。

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)05

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

日本と猶太

かような次第で、ユダヤ人と我々とは住んでいる世界が違うと言わねばならないのであり、或いはもっと適切に言いますと、我々とユダヤ人とは存在の次元が違うのであります。従ってユダヤ人と我々との間には、神観に於ても世界観に於ても人生観に於ても、単に百八十度の差があるのではなく、ぐるりと一廻りして三百六十度の差があるのであります。この点は既に前にも申しましたが、これを私は底面を合した二つのピラミッドを使って比喩的に説明するのを常としているのであります。即ち二つの底面の合する所が人間の中にあって人間をして人間たらしめる所の人間の属性の最低面をなしており、これより上方へ向ったピラミッドが普通の人間の存在を象徴し、底面より下へ出ているピラミッドがユダヤ人及びその同類の人間を象徴していると考えるのであります。

以上でたとえ日本とユダヤとがある点に於て似ているような事がありましても、それが決して本質的に然りであり得ない事は、これ以上の説明なしで明瞭になった事と信じます。現人神を上にいただく我々はかの上方のピラミッドの先端に位置するのでありますが、ユダヤはかの下向のピラミッドの下方の尖端に位置しているのであります。何れもピラミッドの尖端でありますから、皮相な観察眼を以てしますならば、種々の類似点を生ずる如くに見えるのでありますが、しかし実際に於ては、形式的に類似すればする程差異の大なる事の証拠となるのであります。これは日本とユダヤとの歴史、國體(国体)、民族性等を正当な批評眼を以て見る人には自明すぎる事でありましょう。

 

人類混淆の問題

ではユダヤ人は何故に上述のような次元に住む民族になったのでありましょうか。この問題は実に困難な問題でありまして、容易に解決は出来ないのであります。以上のように神観も人間観も違っているからそうなったのだとも言えるのでありますが、しかしそうした神観や人間観が出て来るのは、ユダヤ人が非ユダヤ人とは別な次元に住んでいるからであるとも言えますので、神観や人生観が先かユダヤ人そのものが先かという問題は、卵が先か鶏が先かというのと同じく、結局は解決の出来ない哲学上の問題となってしまいますので、ここではそんな複雑な問題に論及することは差控えまして、現代の我々に取っても将来のために重大な参考となる点と関係させて、ただ一つの点についてのみ述べておきたいと思うのであります。

それは実に所謂民族混淆の問題でありまして、ユダヤ人はその四千年の歴史の当初の頃に於ては、放浪生活の結果として到る処で他の民族と混淆した事が伝わっておりますが、それがユダヤ人をしてかかる低い次元の存在たらしめた一つの重大な理由だとされるのであります。歴史的に見ますと、ユダヤ民族は、旧約に出て来るネヘミヤ及びエズラの頃には、他民族との混血の結果として将に滅亡に瀕していたのだそうでありますが、これを上述の二人の指導者が出て、ユダヤ民族を滅亡から救うために他民族との混淆を厳禁したのであります。その結果として現在に至る迄もユダヤの血は絶えずに続き、國土を失い政治的中心を失ったかに見えましても、なおその逞しい生存力を保持しているのであります。かくてその後のユダヤの血は純粋なのでありますが、しかしその血は既に混血の極に達していた血でありますので、換言すれば退化した血をそのまま純粋に保存して来たのでありますので、善良なる血を純粋に保存して来た場合と反対に、マイナス的な要素が却って強化される結果を生んだとも言えるのであります。この点からユダヤ的存在の低次元性は或程度まで説明出来ると存じますが、なお一歩進めて何故に混血現象が民族を滅亡させるに至るかと言いますのに、それは現実の世界にその例を取ってお考えになりますれば直ちに判明致しますように、混血児には諸種の人生問題の解決に当って何れに就くべきかに迷う事が多く、結局は自己の利益に従う外はなくなるのであります。換言しますと、混血人には志操がなく、義務観念がなく、犠牲的精神がなくなるのであります。従ってこの点からもユダヤ魂の本質として我々の論じたような利己主義の出て来ることは説明がつくでありましょう。もう少し哲学的に申しますと、各民族にはそれぞれ神の指示した特性と使命とがあり、従って各民族はそれぞれ特異な理念的存在でありますから、それの混淆はその存在の理念を曖昧にするのであります。従ってそうした民族は滅亡するか、或いはユダヤ的な次元に転落する外はないとも言えると思うのであります。

以上のことは、十九世紀的な唯物論が人種の混淆を人種改良と申したこともありますので、支那事変以来、特に大東亜戦以来、諸種の民族と接触することの多くなった我々と致しましては、充分考慮すべき点ではないかと考えましたので、一言論及したのであります。

 

ユダヤ人の世界政策

さてここでまた話を転じまして、ユダヤ人の世界支配計画は現在に於ては如何なる段階にまで到達しているかという点について少しく考え、以て時局の参考に致し度いのであります。結論から先に申しますと、神命によるユダヤの世界支配の段階は、今次の世界戦争によって世界革命を誘致し、それによってその世界支配を完成しようという所まで来ているのであります。そう言いましても、これは事実その通りに運んでいるというのではないのでありまして、ユダヤ人の希望的観察からはそうなって来ているというのであります。しかしまたよく歴史的に考察して見ますと、ユダヤ人がそう信じているのも全然理由がないとは言えないのでありまして、非ユダヤ人の善良さがこの儘で相変らず正しい批判力を伴わぬと致しますと、場合によってはユダヤ人の希望的観察が実現するのではないかとさえ我々は危ぶまずには居られないのであります。勿論我々は、わが國體(国体)に対する絶対の信念がありますので、結局に於て悪の勝利が来るとは考えないのでありますが、しかしなお真の八紘為宇が世界に実現されるに至るまでに無意義な犠牲の多からんことを思っては、出来得べくんば善良なる非ユダヤ人の蒙を啓いて、かの無意義なる犠牲を最小限に止めたいと念願しているのであります。

ではどうして現在が、ユダヤ人の希望的観察からにもせよ、かような段階に達しているかと申しますと、それはフランス革命以来の世界の動きがユダヤ人の方策通りに動いてきているかに見えるからであります。本日はこの点を詳述致しておる暇はないのでありますが、「自由・平等・博愛」なるフリイ・メイスン秘密結社のモットーを表看板としてなされましたこの革命は、この結社が精神的にも政治的にもユダヤ勢力の支配下にあるのにふさわしく、結局はユダヤ人の解放ということをその最大の結果として生んだのであります。つまりこの悪平等思想は、ユダヤ人を在来のゲットー生活から解放するに至ったのでありますが、元来ゲットーはユダヤ人が自発的に形成して来たものでありますから、それよりの解放は、ユダヤ人に取っては却って迷惑であるか、或いはユダヤ人に取って特に有利となるかの二つの道しかないのでありますが、ユダヤ人はその裏面的勢力によって自己に不利な道を選ぶ筈はないのでありますから、フランス革命によるユダヤ解放は何か大きな利益を齎(もたら)すものであったということになりますが、それはこの革命によって、ユダヤ人が今迄ゲットーに隠れてする必要のあったことを今や公然と非ユダヤ人の間に混じってなし得るようになったということを意味するのであります。従ってフランス革命は、ユダヤ人に取っては大きな特権の獲得であって、よく世間で言われるような同権程度のものの獲得ではなかったのであります。

それから種々の小段階を経まして、第一次世界大戦となり、ここに永く準備された金権方面の世界支配はほぼ確立されたのであります。衆愚政治としての政党政治の支配する所謂デモクラシー諸國又はその亜流の諸國は、この時以後殆ど完全にユダヤの経済的覇権の下に入ったのでありまして、わが國の如きも、この分野におきましては大差のない状況にあったようであります。

然も一方に於てユダヤの政治上の完全な支配は、世界的規模にまではまだ到達することが出来ないで、ロシヤ人の無智文盲を利用してロシヤに於て先ず見本的に成就されたのでありました。この革命が人的要素から見ても資本的見地から見ても、ユダヤの仕事であったことは、今は多少事情に通じた人には常識なのであります。従ってここに於てかの先ず他民族殲滅の見本を実行し、幾百万の人を殺戮したのであります。そしてここを根城として、ユダヤ資本力と宣伝力とを利用して、ユダヤ的な我欲に長じた非ユダヤ人をたぶらかし、コミンテルンとして各國を撹乱し、各民族を先ず内部的に弱体化することによってその殲滅を期しつつあるのであります。

併し先程申しましたように、ユダヤの現在の世界支配策の段階は世界戦争に依る世界革命の誘発であるのでありまして、これが今次の第二次世界戦争の真因なのであります。そしてこれに依って残された政治的方面の世界支配を完成するならば、神命としての世界支配は文字通りに完成するというのでありまして、そのためには今次の世界戦争を長期戦化し、枢軸國を弱体化して内部的に革命を起こさせようとすると同時に、所謂デモクラシー國をも再起不可能にまで荒廃させて、同じく内部的に革命に導き、それによって文字通りに他民族を殲滅しようというのであります。勿論他民族の殲滅といっても、文字通りに一人残らず殺戮することは不可能でありまして、これは抽象的にそうするというのであります。ルーズヴェルトは「今モーゼ」と称せられてユダヤの尊崇を一身に集めているそうですが、これは彼が恐らくオランダから移住して来たユダヤ人の血を享けているという事の外に、世界戦争を拡大し長期化しようというユダヤの方策に従って忠実に働いているからでありまして、彼を先頭に秘密結社員チャーチル、イーデン、ハルや、ユダヤ人リトヴィノフ、ホア・ベリシャ[1]等の演じている八百長芝居は、単に枢軸打倒では割切れない要素を多分に含有しているのでありまして、米英人そのものをも含む他民族殲滅のユダヤの政略を考慮しない限りは、ルーズヴェルトチャーチルの赤化迎合政策に見られる半祖国的傾向は理解が出来ないのであります。米英合邦とか称せられていることは、形式と時季とは不明であると致しても、早晩実現することでありましょう。否、既にもう実質的には実現されていると言っても差支えないのではありますまいか。

 

[1] Leslie Hore-Belisha, 1st Baron Hore-Belisha(7 September 1893年9月7日~1957年2月16日)は、英国の自由党、挙国一致下院の自由派議員で国務大臣。後に保守党員。1934年~37年交通相として英国の道路網の近代化に貢献した。1937年~1940年戦争省政務官となったが、参謀部とやり合って1940年に罷免された。情報大臣就任の指名が拒絶されたのは反猶太主義によると言われる。(Wiki 英語より)

 

結び

ここで大急ぎで以上のような観点よりする時局対処策について、貧しい結論ではありますが一言させていただきたいと思います。

上述のようなユダヤ的原理は、既に論じましたことからも判明致しますように、我々自身のうちにも決して全く存在しないものではないのでありまして、人間の中にあって人間をして人間たらしむるに足らぬものでありますから、もし我々が自己の中にあるかの卑しむべき我欲的本能に屈従致しますならば、我々もまたユダヤと変りはない存在に堕するのであります。これは悲しむべき事でありますが、自己の身辺にもしばしば見うけられるのでありますから、我々は決して気を許してはならないのであります。自己の利欲の外に何もない利己主義が最もユダヤ的なのであります。東洋に在住した或るユダヤの指導的な地位の金持はいよいよ大東亜戦が近接して来て上海を去るべく余儀なくされるに至った時、「人間に悪のある限りユダヤは亡びず」という捨科白(すてぜりふ)を残して米國へ去ったと或る人から聞いたことがありますが、ユダヤには平常これだけの覚悟と自覚とがあるのであります。これをもう少し一般的な思想史上の言葉で表現致しますと、我々は唯物論のあらゆる形式のものをこの際徹底的に克服しなくてはならないのであります。漠然と米英思想の撃滅などと言っても変な話でありまして、もっと正確に、もっと勇敢にその本拠をつかなくてはならないのであります。勝って兜の緒を締めよという意味は特にここにあるのであります。防諜の本義がここにあることも言うまでもありません。

以上は一般論でありますが、ここになお戦時下に特に注目すべきユダヤ勢力の侵寇に関して具体的な場合を、外よりする場合と内よりする場合とに分けて、二三述べておき度いと存じます。

先ず外よりの侵寇でありますが、それが米英のみならず中立國等を利用してのわが國銃後撹乱策であることは申し上げる迄もありません。しかしかような一般の場合はこの講演の使命外であると考えますので、私としてはそんな点は論じないことに致し度いと存じます。また占領地等に於て、例の「時が微笑むものには結びつくべし」という指示に従って幾千年の訓練を得たユダヤ式の偽装によって協力を粧って(よそおって)来るものがありましょうが、これはフリイ・メイスン秘密結社の厳重な検察その他によって峻厳すぎる程峻厳な処置を講じても決して行き過ぎではないのであります。國内に於ても最近の共産派の検挙によっても判明致しますように、ユダヤ的原理は偽装をその本領とするとも言えるのでありますから、なかなか油断がならないのであります。

しかし戦線方面のことは当局に信頼致すことに致しまして、我々ユダヤ問題研究者として特に銃後の問題として注意致さねばならないのは、前からその蠢動[2](しゅんどう)はありながらも、最近に至って特に著しく地下的動きを示しつつあるかに見える日猶同祖説であると存じます。これは小谷部とか酒井とかいう一見日本主義的側面を有するかに見せる親猶主義者、否、拝猶主義者、及びその亜流が意識的及び無意識的に説いたのが代表的なものでありまして、その日本主義的偽装にたぶらかされて、無批判且つ軽薄な日本主義者の一部分にも帰依者を有するようでありますが、何れも何等かの連絡でユダヤと近接関係にある者のユダヤ的偽装術にひっかかっているのでありまして、時としては不敬罪をも犯して平然たる所のある非國民が多いのであります。英國が現在のようにその貴族の血に至るまでがユダヤの血によって汚されるに至った原因の一つは、たしかにかの英猶同祖説のためでありまして、この点については他日研究を発表致し度いと思いますが、ユダヤの他民族侵寇の手の一つがこの〇猶同祖説なのであります。遠大なユダヤの策謀は、時としては唯物主義的、自然科学的研究のみを事実として承認する類似ユダヤ主義者を迷わせて旧約の風俗その他を利用させたり、或いは空想以上に無根拠な言霊(ことだま)学などを盲信して、日猶同祖説を説くようなことをさせるかも知れないのでありますが、それは人間の眼が二個である限り、また人間の声音機関が日本人に於てもユダヤ人に於ても大差のない限りは、先入主を以て類似点のみを探査する場合にはあらゆる場合に成立する同祖関係論でありまして、この種の親猶主義者に特徴的であるのは、類似さえあれば爪の垢ほどのことも重大視しながら、差異のある点は如何に重大な事であっても決して考慮に入れないことであります。誠に情ないほどの幼稚な無批判さでありますが、先入主の力は実に大きいものでありますので、我々としては特にユダヤ魂の本質を明らかにしなくてはならないのであります。如何に末葉のことが類似していましても、上述のような次元に住むユダヤ人が我々と同祖である筈はないのであります。或いは全人類創成の頃に遡って申しますならば、或いは日猶も同祖でありましょう。然しこれは全人類が同祖であるということに外ならないのでありまして、そのうち特に日猶関係のみを取り上げる理由はないのであります。ユダヤ問題に正確な批判を持つためには、些細な事実に拘泥する唯物論実証主義の立場のみに止まらないで、正しい理想と正しい思想とを持ち、真の日本的自覚に立たねばならないのであります。

以上で外部からの侵寇の問題を終り、内からの侵寇の問題に移りたいと思います。否、よく考えて見ますと、既に同祖説が証しますように、実際に於ては侵寇には内外部の差はないのでありまして、これから注意致しますことも勿論単なる内部的問題ではないのでありまして、ただ策謀の根源が主として内部にあると言うにすぎません。その第一として申し上げ度いのは、ユダヤ利用説でありまして、占領地の開発その他にユダヤの金力を利用しようというのがその代表的なものであり、唯物論的な物の見方を卒業できない十九世紀主義者には極めてしばしば見られる議論であります。しかしユダヤの金が本質的に見て如何にして蓄積された富であるかを我々の説いた所から了察する事の出来る人は、かかる汚らわしき金を利用することが我々としては死に価する屈辱であり恥辱であるのを直ちに感得するのが出来ると思うのであります。唯物思想に毒されて、「武士は食わねど高楊枝」という言葉を軽蔑したことも我々の過去にはありますが、今や我々はかかるユダヤ的米英的立場を根本的に超克して、正しい日本武士道の伝統に帰らねばならないのであります。

次に一言致したいのは既に論及したこともある通りの時局乗便(便乗)の徒についてであります。殊に注目すべきことは、偽装をその本領とするマルクス主義者の國内のみならず、戦線へまでの進出及び跋扈(ばっこ)でありまして、これは支那事変最初から屡々見られました通りに、なかなか油断の出来ないことなのであります。元来赤色系であった言論機関が名目も当事者も何の変更もなく存在しておりますのを見るにつけましても、この点は大いに警戒を要するのではないかと思います。殊に米英資本主義國を倒すかに見える今次大戦の外面的相貌は、ユダヤマルクス主義者にも立働く領域を残しておりますから、一層彼等の偽装時局便乗は巧妙に行われるのであります。しかし今次の大戦がかような赤化主義的な意図を以て戦われるとすれば、それは全く無意義なのでありまして、この点は以上申上げましたことからも、恐らく御了察願えたかと思うのであります。長らくなりましたので、これで失礼いたします。(一七・二)

 

[2] 蠢動:虫などがうごめくこと。転じて、取るに足りない者が策動すること

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)04

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

革命と戦争

マルクス主義に論及しましたので、ここではそれに関係のある革命とか戦争とかのことについても引用しておきたいと思います。昔から革命や戦争でユダヤ人が裏面に於て策謀しなかったのはなかったとさえ言われておりますが、実際、程度と意味とは異っていても、何れもユダヤ人の活躍があったようであります。しかもそれがまたヤーヴェの命としてユダヤ人に感ぜられているのですから、その根底の深さが窺われると思います。

「エホバの剣をおさえて血を流さしめざる者は詛わる、」とはエレミヤ記にあるものですが、よく引用致しました申命記にも、「わが箭(矢)をして血に酔わしめ、わが剣をして肉を喰わしめん、」とヤーヴェは言っているのであります。

即ちユダヤ人に取っては、他民族を殺戮すればする程ヤーヴェの意に叶うというのでありますが、それが今迄述べました他民族動物視等の背景を持っているのですから、如何なる兇悪なものであるべきかは容易に理解され得るでありましょう。

 

猶太人の掠奪

しかしユダヤ魂の本質は、タルムードに移りますと、これらの諸問題に関しましても一層明瞭に、赤裸々になって来るのであります。

「非ユダヤ人を掠奪することは許されている。何故ならば、聖書に『汝の隣人より奪うべからず』とあるからである。」

旧約と合わせて考えますと、非ユダヤを掠奪することの許されているのは、それが神命であるからなのですが、この引用で特に注目に値するのは、「聖書に汝の隣人より物を奪うべからずとあるからである」という掠奪許容の理由であります。前にも言いましたように、ユダヤ人に取っては非ユダヤ人は「人」ではなく、従ってまた「隣人」でもないのであります。従って非ユダヤ人に対しては「人間」に対する義理とか責任は成立しないのであります。一般に旧約聖書なるものは、それの書かれた意図通りに、換言すればそれをユダヤ教の経典としてその編纂者ユダヤの解釈に従って読む時には、世界にこれに匹敵する怪文書は皆無であると言っても差支えないと思われるのであります。それを善良な非ユダヤ人はその中の毒をも薬とし、時としてはその無批判のために意識的無意識的に所謂「人為的ユダヤ人」となることは、ルーデンドルフ将軍等の指摘している通りであります。

またタルムードには同じ問題に関して、「非ユダヤ人の財物は主人なき財物に等しい。故にそれは最初に手に入れた者の所有となる」と言い、「拾ったものを非ユダヤ人に返却するのは罪悪である」と言って、非ユダヤ人には所有権を認めないのでありますが、これもかの世界支配を前提とし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人としては当然の態度でありましょう。犬が金を所有するということが我々に理解出来ないのと同様に、ユダヤ人に取っては、非ユダヤ人が物を所有するということは理解が出来ない許りか、神命としてそれを掠奪せねばならないのであります。

「非ユダヤ人の財産を管理するのはユダヤ人の権利である。」

これも前と殆ど同一の信仰の表明でありますが、特に現代に於て興味深いのは、所謂デモクラシー金権諸國やボルシェヴィズム國に於て、これが種々の金融組織によって実現されていることであります。

 

他民族の殺戮

所がこの言葉に続いて、「またユダヤ人は非ユダヤ人を殺戮する権利を有している」と書かれているのであります。ついでに同じようなものをも二、三挙げますと、「邪教徒を自ら手を下して殺害することは許される」とか、「不信者の血を流す者は主に生贄を捧げるのと同じ値のあることをしたのである」ともあるのであります。

これらの引用句の内容は、非ユダヤ人から見ると信じられない程に極悪無道のものでありますが、しかし今まで述べましたことが理解されますならば、恐らく何らの説明なしに理解出来るのではないかと思われます。前にも申しました通り、ユダヤ人は戦争と革命とが大好きな民族であり、また市場の所謂テロとか暗殺とかいうものが極めて多くユダヤ人のやった事であると言われているのを想起致しますと、これらの言葉がよく理解されると存じます。そしていずれもその背景をなすのが宗教的信仰であるということは誠に重大でありまして、ユダヤ教は最も狭量な宗教であると称せられて来ておりますのは、こうした点にもその理由を持っているのであります。一見祭政一致的な体裁を備えながら、正しい八紘為宇の日本的祭政一致との差が如何に大きいかは、この点からだけからも察せられるでありましょう。

かように他民族の殲滅による世界支配の神命は、ユダヤ人に非ユダヤ人殺戮の権利を認めているのでありますが、然もユダヤ聖典はその際に如何なる方針で進むべきかをもまた教えているのであります。

「非ユダヤ人の最上のものを殺戮せよ。」

偶像崇拝者のうち最も律義なる者を屠(ほふ)れ。」

これらがそれでありまして、これを換言すれば、非ユダヤ人の王者とか大政治家とか大有徳者とかを殺せというのでありますが、これは他民族の殲滅を目標とするユダヤ人としては当然でありましょう。ここでユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度全般をいま一度別の表現で説明しますと、ユダヤ人なるものは他民族に対して常時戦争状態にある、とも言い得るのであります。そしてそれも既に幾千年以来そうなのであることを我々は銘記しなくてはなりません。従って非ユダヤ人としても、そのユダヤ人に屈服することに甘んじ得ないならば、同じ戦争状態を自覚して対処すべきではありますまいか。後にも触れますが、この点からのみでも甘いセンチメンタリズムに基く同情やユダヤ利用論が文字通りの利敵行為であり、売國的行為であることが判明致すのであります。唯物論清算し切れず、自由主義に未練のある者には、そうした迷夢が大東亜戦下の今なお抜け切らないとは、実に嘆いてもなお余りがあるのであります。それは身命を君國に捧げる皇軍将士への叛逆行為に外ならないからであります。

次に以上述べました幾つかの方面を総括したとも言うべき表現を一つ紹介致しましょう。

「互に愛せよ、掠奪を愛せよ、放縦を愛せよ、そして汝の主人を憎み、決して真理を語る勿れ。」

この場合が誰の物を掠奪するのであり、またその放縦の犠牲となるのが何人であり、その主人が誰であり、真理を何人の前に語らないのかも、最早説明せずし(て)明らかでありましょう。また次のようなものもここで想起されるのであります。

「密告者は如何なる場合に於ても殺害することを許される。」

これは時としてはユダヤ人間にも当て嵌まるのでしょうが、しかし主として非ユダヤ人に対して実行されて来たのでありまして、ユダヤ人の統帥下にあるフリイ・メイスン秘密結社員の場合などには、この事が文字通りに行われて来ているようであります。

「戦争に行く時には先頭に立たず、最後に行け、それは最初に帰還し得んがためなり。」

これもまたなかなかユダヤ魂の本質を知るのには面白いものでありまして、近い例を見ましても、この前の世界大戦のみならず、今度の大戦でも、ユダヤ人は兵籍にあっても極く稀にしか前線へは出ないのであります。例えば日本の甘いインテリをたぶらかすに成功したモーロア[1]の如きがそうでありまして、自己の身の危険があれば昨日迄の祖國を裏切って平気な許りか、暴露文で金儲けさえするのであります。勿論身分の低いユダヤ人のうちには他民族の目を晦(くら)ますために犠牲として戦線へ駆り立てられる者もありますが、現世の事には何事にも例外があるのですから、取り立てて言うには当らないのであります。ここではそうした少数の例外を問題としているのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を象徴的に表明するような例を述べているのであります。

それからまたユダヤ聖典は、ユダヤ人特有の偽装とかカムフラージュについても教えているのでありまして、例えば「時が微笑む者に結びつくべし」と書かれております。時局に便乗してマルクス主義者が國體(国体)論をしたり、大東亜新秩序を臆面もなく呼号しておりますが、ユダヤ的なマルクス宗を信ずるだけでもこれ程にユダヤ的に偽装が巧妙になるのですから、本物のユダヤ人が如何に偽装に巧みであるかは申すまでもないでありましょう。熱狂的なユダヤ教徒であったマルクスマルクス主義を説いたという一事を以てしましても、ユダヤ人の「頭のよさ」と「嘘のうまさ」に基づくカムフラージュの天才的なことは理解出来るのであります。

また次のようなものもあります。

「団体が長を選ぶ時には蛆虫にて一杯になった袋を背負った者を選べ。そして彼が命令に従順でなくなる時には直ちにその背中を見よ、と言え。」

とあるのであります。世間でよく言われて居りますように、ユダヤ人は非ユダヤ人第一線主義を取るのでありますが、この言葉はその場合の方策を表明したものでありまして、ユダヤ支配下の國では、大統領とか首相とか大臣とかには相当にこの種のやり方が実行されているのであります。以前の例ではフランスのブリアン大統領、米國のウィルソン大統領等はその著しい例でありまして、何れも前に婦人関係とかの破廉恥罪があったのだそうであります。現在でもチャーチルは前大戦の時に海軍大臣の職を利用してユダヤ人と共謀して金儲けをした事実があると言われています。恐らくルーズヴェルトも例外ではないと察せられます。スターリンの如きはユダヤ人リトヴィノフと銀行預金の強奪をしたギャングの一味なのであります。

 

猶太経典解釈の融通性

最後にもう一つタルムードから紹介致しておきたいと思いますのは、

「神はモーゼに立法を与え給うたが、それは同一の事を四十九種にも不潔とも清潔とも証明するだけの余裕のあるものとなっている、」という言葉であります。これは前にも論及しました通りにユダヤ人の「頭のよさ」の根拠を示す語でありまして、その「頭のよさ」が「嘘のうまさ」であると言っておきました意味が、このタルムードの語を知る時に実に明瞭となるのであります。即ちユダヤ人は神の与えた律法に対しても、それを文字通りに信仰するというよりは、それに解釈を加えて、同一の事を四十九種にも白とも黒とも言う術を心得ているのでありますから、ユダヤ人があれ程恐れ戦い(おののい)てその命に服しているヤーヴェの律法ならぬものに対して、ユダヤ式の口吻を用いて言いますならば、百種にも二百種にも白とも黒とも言うことをするに違いないのであります。これがユダヤ人の「頭のよさ」の真相でありまして、神に対する真の畏敬と人間に対する真の責任感とを持つ者は到底そうした態度を取り得ない筈でありますが、神をもペテンにかけんとし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人に取っては、以上のような態度は当然なのであります。この点から度々論及しましたユダヤ人の「解釈のうまさ」とか、カムフラージュの巧みさとかも理解が出来るのであります。また高利貸や取引所の仕事に巧みなのも同様でありましょう。

 

あらゆる価値の改価

旧約やタルムードからの引用が大分長くなりましたので、これ位でこれを止めまして、ここに多少総括論を述べさしていただき、時間が許しますならば、かような立場から現下の問題に対して特に心を致すべき点の二三についても申述べて見たいと思うのであります。

独逸の哲学者ニーチェの言葉に「あらゆる価値の改価」というのがありますが、これがユダヤ人に於ては文字通りに行われているのであります。詰りあらゆる価値とか批判とかの標準が人類一般の場合と全く異っているのであります。この事は以上述べました幾つかの場合の例でお分り願えたと存じますが、あらゆることはユダヤ人の手にかかると反対の意味となって来るのであります。この点はユダヤ問題の研究には実に大切であります。

 

悪と否定の原理の具象化としての猶太人

ユダヤ人の特性を説明致しますには種々のやり方があると存じますが、ユダヤ人は悪の権化であり、よこしまなるものの具体化であるとも言えるのであります。従ってユダヤ人が非ユダヤ人を人間に非ずと称しますのは、邪悪の立場を自己のものとする者の見方としては当然なのでありましょう。勿論こう言いましても、我々は決して、ユダヤ人を真似てユダヤ人は人間に非ずと言うのではないのでありまして、ユダヤ人もまた人間であるに相違はないが、しかし人間の中にあって然も人間を人間たらしむるためには当然抑制されねばならないマイナス的な否定的な原理の具体化したものがユダヤ人である、と我々は申したいのであります。では人間の中にあって人間を人間たらしむるためには当然抑制さるべきものとは何であるかと申しますと、それは卑しい本能、即ち利己心、不信、物質欲等がそれなのでありますが、詰りユダヤ人はこれらの本能が具象化したものであると言うことが出来るのであります。

それではこのユダヤ人を駆り立てるヤーヴェとは何であるかと申しますと、これは先にユダヤ人の本性だと申しました邪悪乃至否定の原理が具体化されたものであるという外はなく、言い換えますと、ヤーヴェとは悪と否定の具象化であるユダヤ人がその理想とする所を神格化したものなのであります。従って我々が神として感受致しますものと比較致しますと、ユダヤの神としてのヤーヴェは決して神の名に値しない怪物なのであります。

 

[1]アンドレ・モーロワはフランスの小説家、伝記作者、評論家。本名はエミール・サロモン・ヴィレルム・エルゾグで、ユダヤ系フランス人である。 (ウィキより)

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)03

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

猶太民族の神観

以上述べましたことが理解されますと、「タルムード」の中にあるユダヤ人の神観もまたよく理解されるのであります。そして先ず第一に注目に値する次の言葉であります。

「神ユダヤ人に言う、汝等我を世界の唯一の支配者となせり。されば我も汝等を世界の唯一の支配者となさん。」

これは前に旧約より引用致しましたもののうちに幾つか見られたのと同一の種類のものでありまして、ヤーヴェがユダヤ人に世界支配を約束する言葉なのであります。然もその約束をするだけならば、前にも幾度が申しましたように、民族の守護神の場合としては別に不都合ではないのでありますが、今度の場合の約束に於ては、神とユダヤ人との関係が相互的又は対等的であり、換言すれば、前の場合に商売的契約の感があると言っておきましたものが一層判然と現われている所に問題が生じて来るのであります。即ちヤーヴェとしては、自分は元来は一地方の土俗神であるか、或いは精々民族神であるのに過ぎないのであるが、その自分をユダヤ人がその「頭のよさ」によって宇宙神又は創造神に祭り上げて呉れたのであるから、自分の方でもユダヤ人を世界の支配者にしてやろう、と言っているのであります。一言で言いますと、ユダヤ人とヤーヴェとの関係は一種の取引なのでありまして、我々が考えるような民族神と民族との関係ではなく、況してや宇宙創造の神と人間との関係ではないのであります。そして前にも述べましたような低級な狐狸の怨霊とも言うべきものが世界の唯一神と思い上り、また幾千年の間「嘘のうまさ」で貫き通して来た民族が世界の唯一の支配者となることの不正不合理については、今更繰返して申上げる必要はないと思われますので、ここでは直ちに次へと論を進めたいと思うのであります。

ところがヤーヴェとユダヤとの関係は、単に上述の如き側面に止まるのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を知り、その四千年の「嘘」の歴史を解するためには、今挙げましたものと同様にタルムードの中にある次のような言葉が表明するヤーヴェとユダヤ人との関係も非常に重要なものになって来るのであります。

「神を畏敬する場合にも狡猾でなくてはならぬ。」それからまた、「あつかましくやれば、神も我々の意に従う、」というのもあるのであります。その歴史が始まると共に「嘘」に生きたとも言うべきユダヤ人は、かように神に対してすらも非ユダヤ人のように純真な帰依の心を有するのではなくて、神に対してさえも背負い投げの隙はないかとねらっているのであります。そしてこれは、ユダヤ人の神ヤーヴェが脅迫の神であり、威嚇の神であることを想起致します時に、なかなか興味深いユダヤ魂の一面なのであります。即ち猶太の歴史の証しますように、ユダヤの取った道は決して常にヤーヴェの命ずる所に叶ったとは言い難く、むしろ神命に叛いた結果として現在のユダヤの運命が生れて来ているとさえも言い得るのでありますから、ユダヤ人としては神の威嚇した滅亡を免れるためには、一面に於てあらゆる術策と嘘とを用いて神命としての世界支配の完成に進もうと努力すると同時に、他方に於てはヤーヴェそのものに対しても身を守らねばならないのであります。この後の方面の必要が前述のように神をもペテンにかけようという態度となって発現しているのではないかと考えられるのであります。それでユダヤ魂のこの二面は、ただ外見的に矛盾しているだけで、内面的には決して矛盾してはいないのであります。ユダヤ人に於てはあらゆる事に外観的には矛盾する二面が常に存在しているのでありまして、このユダヤ魂の二重性乃至二面性が理解されないでは、ユダヤ人の言行は充分に理解されず、従ってその歴史も解釈出来ず、ひいてはユダヤ対策も講ぜられ得ないのであります。かの素朴な先入主に基づく日猶同祖論とか、感傷的な人道主義に基づく似而非八紘一宇説のユダヤ抱擁論とかは、この点の認識不足から出て来る生半可なユダヤ研究家の陥り易い常套的な方向なのであります。

 

猶太人の陰謀性

ここで話を転じまして、何故にヤーヴェがかようにユダヤ人を威嚇し、脅迫するのであるかという問題に移って考えますのに、これは既に引用致しました聖書、又はタルムードの句にありましたように、ユダヤ人をして世界の支配者たらしめようというのであります。この点に関しましてタルムードからなお二三引用致しますならば、「世界はただイスラエル人のためにのみ創造されたのである」とか、「ユダヤ人は何処へ行こうとも、その地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とかいうのがあります。しかしこれだけならば、前にも繰返し申しました通りに、如何なる民族にも許さるべき自負心の表現と認めることが出来るのでありますが、問題はその次にあるのでありまして、この世界支配を「如何にして実現するか」という点が、重大な問題を含んで来るのであります。それで先ず旧約の方を見ますと、出エジプト記の三四には、

「汝慎みて汝が往くところの國の民と契約を結ぶべからず。彼等汝等の中に住む時は、恐らく汝等の罠となることあらん。汝等反って彼等の祭壇を崩し、その偶像を毀(こぼ)ち、その聖柱をきりたおすべし。」
とあります。この「契約を結ぶべからず」という点につきましては、後にユダヤ人の人間観を述べまする際に一層明瞭になると考えますので今は論じないことに致しますが、その残余の部分は、他民族の宗教を破壊せよというのでありまして、これはユダヤの世界支配の一方策たるマルクス主義の反宗教運動を想起すれば事情は明瞭となるでありましょう。ユダヤ人は自分のユダヤ教に対しましては、前述のヤーヴェとの関係に見られます通りに、極端な信仰又は恐怖を抱いているのですが、他民族からは宗教を奪ってしまい、それによって他民族を滅亡させようとするのであります。然もそれがヤーヴェの命令としてなされる点が特に注目に値するのでありますが、この点については既に論じましたことで明らかであろうと思います。

次に申命記から引用致し度いと思いますが、その申命記は所謂トーラのうちでも最もユダヤ魂の本質を見るには大切なものでありまして、私の引用も一番多くなると思いますが、その七には、

「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅しつくすべし、彼等を憫(あわれ)み見るべからず。また彼等の神に事(つか)えるべからず。その事汝の罠となればなり。…汝の神エホバ是等の國人をややに(徐々に)汝の前より逐(お)いはらい給わん。汝は急速に彼等を滅しつくすべからず。恐らくは野の獣殖(ふ)えて汝等に迫らん。汝の神エホバ彼等を汝に付し、大いにこれを惶(おそ)れ慄(おのの)かしめて、遂にこれを滅し尽し、彼等の王を汝の手に付したまわん。汝彼等の名を天の下より削り去るべし。汝には抗することを得るものなくして、汝遂に彼等を滅しつくすに至らん。」
とあるのであります。またその二〇には、

「汝の神エホバこれを汝の手に付したまうに至らば、刀もてその中の男を盡(ことごと)く撃殺すべし。ただその婦女、子供、家畜及びすべてその邑(むら)の中にて汝が奪い獲たる物は、盡く己に取るべし。抑(そもそも)汝がその敵より奪い獲たる物は汝の神エホバの汝に賜うものなれば、汝これもて楽しむべし。汝の離れること遠き邑々、即ち是等の國々に属せざる邑々には、すべてかくの如く行うべし。但し汝の神エホバの汝に与えて産業となさしめ給うこの國々の邑々に於ては、呼吸する者を一人も生かしおくべからず。」
と、書かれているのであります。即ちヤーヴェはユダヤ人に他民族の殲滅を命じているのであります。そしてその際に取るべき方策についても旧約中に於て、特に申命記に於て、詳細に教えているのでありますが、この引用の部分のみを見ましても、他民族の宗教の破壊とその王者の除去を説いているのであります。なお実際的な方策としては、急速に他民族殲滅をする時には、野の獣が殖えて汝に迫ることもあろうから、その野獣を亡ぼすためには非猶太人を利用せよとか、男は殺戮しても、婦女子家畜は享楽せよ、などというような点にまで注意が及んでいるのであります。今はこれ以上の例を挙げている暇はないのでありますが、この種の言説は旧約中には極めて多いのでありまして、一言にして言えば、他民族、他國家、他宗教の殲滅がユダヤの世界支配の前提となるのでありまして、この点では世界の各民族各國家をして各々その所を得しめる真の八紘為宇の精神とは百八十度、否、三百六十度の差異があり、一見類似するかの如くに見えたユダヤと日本との祭政一致の如きも、その本質を全く異にし、その存在の次元を全く別にしていることが判明するのであります。かように考えて参りますと、かかる信仰に幾千年を生きて来たユダヤ人に対しては、徹底的な膺懲(ようちょう:征伐してこらしめること)の外に道のないこともお分りになると存じます。

 

猶太人の人間観

ここでまた話題を転じまして、ユダヤ魂の本質を知るための第二の大問題であるユダヤ人の人間観を見る事に致したいと思います。そしてこれが明瞭になると、前の神観がまた特別な明瞭さを加えると考えられますし、また前の神観からは当然次のような人間観の出て来る理由も明らかになって来るのであります。

前にも申しましたように、ユダヤ人にはその二重性格に照応してあらゆる問題に関して二重の標準があるのでありますが、それがこの人間観に於ては特に明瞭に見られるのであります。即ち一口に人間観と言いましても、ユダヤ人に於てはユダヤ人観と非ユダヤ人観とが根本的に異なっているのであります。ではユダヤ人はユダヤ人そのものをどう見て居るかと申しますと、タルムードには「ユダヤ人は何処へ行こうともその地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とか言うような、既に前にも引用致しましたものの外に、

ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであって、非ユダヤ人は動物と呼ばれる。」

「神より生れたものはユダヤ人のみであって、ユダヤ人以外の民族は悪魔の子である。」

「人間が動物よりも高等であるように、ユダヤ人は人間よりも高等である。もしこの世にユダヤ人が居ないならば、如何なる幸福もなく、輝く太陽もなく、人類も到底生存することは出来ない。」

「聖書に隣人と書かれてある場合に、非ユダヤ人はその中に含まれていない。」

というようなのがあるのであります。これらの言葉に見られる非ユダヤ人観こそユダヤ人の非ユダヤ人に対するあらゆる言行の基礎になっているのでありまして、前の神観と共にこの非ユダヤ人観が充分理解されない時には、ユダヤ人の他民族殲滅の謀略の真相は判明しないのであります。一言にして言えば、ユダヤ人から見れば非ユダヤ人は人間ではないのでありまして、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度はすべてここから出発しているのであります。そこで次にはこの点に関して派生して来る諸問題を少し許り考察してみたいと思うのであります。

先ず旧約全書から材料を拾って行くことに致しましょう。既に前に引用しました部分に、「汝慎しみて汝の往くところの民と契約を結ぶべからず」とありましたが、また申命記には、「彼等と契約を結びて和することなく、また彼等を憫み見るべからず」とあるのであります。この契約を結ぶべからずという神命と冷酷たれという神命とは、ユダヤ人に於ては誠に徹底したものでありまして、契約を結ぶかに見え、また温情を示すかに見える場合は、何れも何か下心があっての場合と見做してもよいのであります。そしてこの場合にも忘れてはならないことは、ユダヤ人が非ユダヤ人を「人間」視してはいないことであって、この点からして、以上のような対非ユダヤ人態度もユダヤ人には何等良心の呵責を伴わない許りか、反って神意に叶うものとして宗教的意義を持つ敬虔な行事なのであります。即ちユダヤ人に取っては、「隣人」即ちユダヤ人同志の間には責任感はあり得るのですが、他民族に対しては我々が畜類に対する程度ほどの責任感もないようであります。勿論ユダヤ人にも種々の型がありますので、程度の差異はあるかも知れないのでありますが、しかし注目すべきことは、上述のような点はその幾千年の宗教的信仰となっておりますので、如何なる「善良な」ユダヤ人にも本能として存在しているのでありまして、平常はそんな傾向の毫もないような所謂開化ユダヤ人も、一旦自己の利害に関した事件等に際会しますと、その本能がむくむくと頭を擡(もた)げて来るようであります。この点の充分の認識がないと、或程度まで悲境に陥っている場合にはユダヤ人は得意の「頭のよさ」で正直な人をたぶらかしてしまうのであります。この点は余程注意を要するのでありまして、相当程度にユダヤ問題を研究したとうぬぼれている人でも、充分な思想的批判力がなかったり、甘い感傷主義者であります場合には、屡々直接にユダヤ人に面接するようになると丸められてしまうのであります。殊に八紘為宇がどうのこうのとうまい所を突いて来るので、いい気になってユダヤ人のお先棒をかつがされる場合もあるので注意が要るのであります。この警告は決して無駄ではなく、外國許りでなく、その例が我々の身辺にさえ幾つもあるのであります。そうした人の場合はその眼を直視すればすぐ分るのでありまして、これはフリイ・メイスン秘密結社員を識別するのには「眼を見よ」と言われているのと一致するのであります。話が多少わき道へそれて来ましたので、ここでまた旧約からの引用に戻りたいと思いますが、今後すべての引用も、上に述べました事を根本にして考えますならば、殆ど何の説明もなく理解が出来ると思われるのであります。

「他の國人よりは汝利息を取るもよし、唯汝の兄弟よりは利息を取るべからず、」と申命記にはありますが、これを同じ申命記の次の部分と結合するとなかなか興味深いのであります。

「汝の神エホバ汝に与えんと誓いたりし地に汝を導き入れ、汝が建てたるにあらざる大なる美しき品々を得させ、汝が盈(みた)せるに非ざる諸々の佳(よ)き物を盈(みた)せる家を得させ、汝が掘りたるに非ざる井戸を得させ、汝の植えたるに非ざる葡萄園、橄欖(かんらん)園*を得させ給うべし。汝は食いて飽かん。」*橄欖はオリーブのこと

序(つい)でにもう一つ引用致しますならば、イザヤ書には、

「海の富はうつりて汝につき、もろもろの國の財貨は汝に来るべし。…異邦人は汝の石垣を築き、彼等の王等は汝に事(つか)えん。…汝の門は常に開きて、夜も閉すことなし。そは人もろもろの國の財貨を汝に携へ来り、その王等を率い来らんためなり。汝に事えざる國と民は亡び、その國は全く荒れすたるべし。…汝を苦しめたるものの子等はかがみて汝に来り、汝をさげしめたる者はことごとく汝の足下に伏すべし。…汝前には捨てられ憎まれてその中を過ぎる者なりしが、今はわれ汝をとこしえの華美、代々の歓喜となさん。汝またもろもろの國の乳をすい、王たちの乳房をすわん。」

 

他民族の利用

このイザヤ書は、トーラに入っては居りませんが、申命記にも比肩すべきものでありまして、その中にはまだまだこの種の資料はあるのですが、引用はこれ位に致しましょう。要するにユダヤ人は、自分では労働を避けて、他人をして働かしめ、その生産したものは無償で自己の手に収めるのを得意とするのでありますが、それがまた宗教的信仰に基づくことがこれらの引用から判明するのであります。例えば熱烈なユダヤ教徒マルクスの案出しましたマルクス主義の如きも、その代表的なものの一つでありまして、あれはプロレタリヤなるものを利用して非ユダヤ人の資本をユダヤに捲きあげる仕掛になっておるのであります。それからまた、これらの引用からして、ユダヤ人が何故に金儲けに巧みであり、特に高利貸とか仲買とかに堪能であるかということも説明なくして明瞭であると思います。ただこの際に一言しておきたいと思いますのは、ユダヤ人の金銭欲の強いという点についてでありまして、これも成程事実には相違ないのでありますが、しかしこの搾取は、他民族殲滅をその根本の目標としているのでありますから、それに役立つと考える場合には、百年一日の如く営々として貯えた金をも何の惜しげもなく相当程度に投げだすこともあるのでありまして、これが分らないとまたユダヤ人の謀略にひっかかってしまうのであります。ユダヤ人の行動の最高方針は神命としての世界支配と、何等仮借する所のないその実行とであって、手段は選ぶことは決してないのであります。

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)02

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猶太と世界戦争

汝は汝の神エホバの汝に付し給わんところの民を
ことごとく滅しつくすべし

申命記七・一六―

 

第一章 猶太魂の本質

二、猶太魂の本質(昭和17年2月)

 

猶太問題研究上の困難

お集りの皆様には既に充分お分りの事と存じますが、ユダヤ問題の研究ということはいろいろな不便を伴っております上に、時とすると一部インテリ層の間では誤解を受け易いのであります。ユダヤ自由主義マルクス主義を利用して久しく煙幕を張って来ていますので、この問題の存在することさえ分らない程にお目出度い人が所謂インテリの中には相当あるように見受けられるからであります。既に幾度かユダヤ禍のために悩まされた欧米では、一般の人々は、復讐を恐れて口には出しませんでも、この問題の存在や意味位は常識として知っておりますが、日本は幸か不幸か無経験のために上述のような状態におるのでありますが、そうした無準備のままで現在の非常時局に突入してしまったのであります。それで今迄はそれでよかったとしましても、今後はこの世界の舞台裏の秘密力にまで眼を及ぼして、皇國悠久の将来の為の計を立てねばならないのであります。それに今なお、ユダヤ問題を研究して批判を加えるのは少数民族の排撃である、などという感傷的なユダヤの宣伝が鵜呑みにされていることがありますが、一度冷静な批評眼を備えてユダヤ四千年の歴史を見るならば、こんなユダヤの常套的な宣伝にのせられる筈はないのであります。現代のような急激に進展して行く時代には、インテリというものは「本」が読めるために反って時代に遅れるという皮肉な現象が屡々起こるのでありますが、ユダヤ問題の場合はその最もよい例なのであります。

少数民族排撃云々の問題から眼を転じて、ユダヤ人のゲットー生活の問題を取り上げましても、在来は猶太人の宣伝の結果、ユダヤ人がゲットー内に隔離生活を送らされて来たのは他民族に強要された結果である、というように考えられ勝ちでありました。しかしこれは事実とは大きな差異でありまして、少数の例外の場合を除きましては、かの隔離生活はユダヤ人がみずから選んだ生活形式でありまして、所謂「國家中の國家」を形成するための一方策だったのであります。そしてその内部に於てユダヤ人特有の陰謀を他人に監視される心配なしに企てて来たのであります。それを「頭のよい」ユダヤ人は「頭の悪い」非ユダヤ人を欺くのに自己に好都合な解釈を加えて宣伝してきましたので、とかく真相が隠され勝ちで今まで来ているのであります。

以上僅か二つの著しい例を挙げただけでも判明致しますように、非ユダヤ人というものは全体として正直者でありますから、なかなかユダヤの謀略を見抜くことはむつかしいのであります。しかし正直さというものは、それに伴う正当なる批判力のないとき、所謂馬鹿正直となってしまうのであります。時として世間には、ユダヤ問題の如き世界の裏面の研究をしている時には、万事に物の裏を思う暗い習慣に陥るのではないか、という人もあるようですが、これは大抵の場合ユダヤ自由主義に染った人の言葉でありまして、正直にユダヤ問題の研究を拒否すると云う勇気の欠如している結果として、かような尤もらしい遁辞を設けるのであります。真の叡智は善も悪も解する能力を与えた良識に立脚するものでなくてはなりません。殊に今や我々の身辺には、一寸油断をすると家庭の内部にまでユダヤの魔手がなおあらゆる形でのびて来ているのでありますから、この度の世界皇化による新秩序の樹立のためには、甘い感傷主義を捨てて何処までも毅然とした態度で進まなくてはならないのであります。

 

猶太魂探求の法

そこで私が本日ここで多少皆様に申上げて見たいと思いますのは、例えば上述の二つの問題の如きでさえもかほど巧みに真相を隠すことに成功して来たユダヤ人の「頭のよさ」の基く所が何処にあるか、という点についてであります。世間ではよくユダヤ人のメシア思想と申しますが、私の本日お話し致したいのは、そのメシヤ思想の拠って立つ根本の地盤とでも云うものについてであります。それを私は本日の演題の「ユダヤ魂の本質」と称しておるのであります。所で問題は、それを研究するのには如何なる道を取るべきかという事になって参りますが、これにはいくつもの道があるのでありまして、富士に登る道が幾つもあるのと同様に、「ユダヤ魂の本質」を明らかにする道も幾つもあるのであります。先程も論及致しましたように、ユダヤの歴史四千年の推移を研究することもその一でありますし、特に現代に於けるユダヤ人の暗躍振りを跡づけるのもまたその一つであります。しかしこの二つの道ながらにそれ相当の困難が伴っているのでありまして、第一の道の如きは、現在では所謂枢軸國には相当の信頼すべき文献が存在しておりますが、それ以外では材料の入手が困難なのであります。殊にデモクラシーと称する金権支配の米英や、プロレタリヤを利用してユダヤの天下を招致しようという赤色帝國主義の國に於ては、ユダヤ人に関する研究は猶太人そのものの允可(いんか:許し)を経ないものは公刊の機会が殆どありませんし、たとえ、勇気を振るって公刊しても、決して店頭に取り次いでは貰えないのであります。これはヒットラー及びムッソリーニ以前の独伊に於ても事情は同じでありますし、フランスに於てはペタン政府以後も相当程度の旧態を残しているようであります。従ってわが國に於ては、ユダヤの歴史を見るといいましても書物に依る外はないにも拘らず、その書物がこういう制限を受けているのですから、この道に依る研究が容易でないことが、お分かり願えたかと存じます。次に現在の世界に於けるユダヤの暗躍振りを見るやり方でありますが、枢軸國以外の世界の通信機関の殆ど全部を支配しておりますユダヤのことでありますから、なかなか容易にはその正体を見せることは無いのであります。

それではこれ等の道によっては研究は不可能かと言いますのに、盟邦独伊の識者の研究に依ることも出来ますので、現在では割合に容易なのでありますが、しかし独伊のものも、それが國家的な支持を得て公然と研究し得るようになったのは僅か数年以来のことでありますので、まだ研究が完備しているとは申されないのであります。また独伊には独伊としての立場もありますので、我々にはその研究を全部そのまま受け容れることの出来ないことのあるのは言う迄もありません。

しかし独伊の研究に教えを受ける場合にしましても、また直接に現在の世界の動きから研究するに致しましても、研究が或点まで達しますと、案外容易に事の真相が明瞭に把握される時期がやって参るのであります。これはおそらく誰にも経験のあることと存じますが、或一事に相当に通じますと、それから先は道が容易に開けて来るのであります。例えば上述しましたような事情下にある外國電報の如きも、少し許り慣れて参りますと、その出所を知ることによって直ちにその含有する真偽性の程度が直感されるようになるのであります。そうしてこの程度に到達致しますと、独伊側の研究ではなく、英米側のユダヤ系の宣伝的著作にしましても、その真偽の割合が正確に把握されるようになるのであります。そしてここまで到達しないではユダヤ問題は分からないのでありますが、本日私が多少申上げ度いと存じますのは、この点にまで到達するのに役立つ一つの捷径(しょうけい:近道)に関してであります。

 

猶太教とその経典

よく世間では、ユダヤ人は宗教的な民族だと言いますが、それは全くその通りでございまして、たとえばかの「聖書」の如きがその民族の産んだものであることからも、このことは肯定されるのであります。御存じの通りユダヤ人には國家もなく、定住する國土もないのであります。しかもそのユダヤ人が現在の世界に見られるように見事な統一を持って動いておりますのは、秘密の指導者の有無は問題外と致しまして、その宗教的訓練の結果なのであります。従ってユダヤ人の場合の宗教は、我々が日常考えて居ります宗教とは異なったものでありまして、それは宗教であると同時に、政治でもあれば、経済でもあり、法律でもあれば、教育でもあるのであります。これを換言致しますと、ユダヤ人は祭政教一致の民族であるとも言い得るのであります。そして、この点ではわが國本来の姿と一面に於て類似している如くに見えるのでありますが、我國は上に万世一系の 天皇陛下を奉戴し、いまだ嘗て敵に汚されたことのない國土に國家を形成して来ているのでありますから、実質的には文字通り天地霄壤(しょうじょう:天と地)の差があるのであります。

この点の差異につきましては後にまた触れることに致し度いと存じますが、とにかく宗教がユダヤ人の生活に如何に大なる意義を持つかは以上でもお分り願えたことと存じます。然もユダヤ教の拠って立つ所は所謂聖書中の旧約聖書であり、また「タルムード」でありますので、私は「ユダヤ魂の本質」を知る捷径(近道)は第一にこれらのユダヤ聖典を研究することであると申し上げたいのであります。或著名のユダヤ人は「我々には祖國はないが、ユダヤ聖典こそはその祖國なのであって、この祖國のある限り我々は亡びることはない」と申しておりますが、ユダヤ人にとってかく國家と國土との二役を引き受けているユダヤ聖典こそは、我々が、ユダヤを知るために第一に考慮すべきものであろうと思います。従って、本日はユダヤ聖典を中心としてお話し致し度いと存じますが、それが旧約聖書と「タルムード」とであることは既に申し上げました通りであります。しかし旧約聖書と申しましても大部のものでありますので、特にユダヤ人が「トーラ」の名の下に尊崇致しております旧約聖書の初めの五巻を中心として本日はお話し致し度いのであります。

ユダヤ人がこの「トーラ」を尊崇致しますことは非常なものでありまして、「神さえもトーラを研究し給う」とさえ言い、神そのものよりも「トーラ」を重視いたしている位なのであります。同じことは今一つのユダヤ聖典「タルムード」に関しても言われているのでありまして、「神もまた夜間にはタルムードを研究し給う」と「タルムード」そのものに記されております。ではこの「タルムード」とは何であるかと申しますと、これは先程申上げましたトーラに対する「解釈」の集成をその重要部分としているのであります。その成立は大体西暦五、六世紀の頃ということになっており、既にユダヤ人が特殊の意図を有してその編纂に当っていることが歴然としているのであります。ついでにここでかの旧約聖書の成立についても一言しておきますならば、それも矢張同じ頃だという説がこの頃大分唱えられております。従ってこの旧約もまたユダヤ人が或特殊の意図を以て編纂したものであり、特に「トーラ」の第一巻の始めにある宇宙創造の話は印度からの借物なのだそうであります。

ここで話をまた「タルムード」に帰しますが、ユダヤ教聖典の一つであり、極めて屡々「トーラ」そのものよりも重視せられるこの聖典が上述の如く「解釈」をその本領と致しておりますことは、ユダヤ魂の本質を見ようとする者に取っては、極めて重大なことでありまして、独逸などでよくユダヤ人には独創はなく、その長所は単に解釈の能力のみであると言われるのは、恐らくこの点を根拠とした説であろうと思われます。ユダヤ文化の根源ともいうべき旧約の始めの宇宙創造の話が借物であることをも入れて考えて見ますと、ユダヤ人無独創説は相当の根拠を有するものと言わねばなりません。しかし事一度「解釈」の領域になりますと、ユダヤ人の独壇場でありまして、近頃の解釈学的哲学・現象学・形式社会学・純粋法学、その他文学・美術・音楽の解釈より、相対性理論に至るまで、その精神に貫かれておらないものは皆無であると言っても過言ではないのであります。この事を別の言葉で申しますと、ユダヤ人は天才的に「嘘がうまい」ということになるのであります。この事情は、「タルムード」そのものに、「彼はモーゼに立法を与え給うたが、それは、同一の事柄をそれぞれ四十九種のやり方で不潔とも清潔とも証明することを許すだけの余裕のあるものとなっている、」とあるのでも充分窺われるのであります。この言葉については後にもう一度論及致したいと思っております。

話が多少わき道へそれましたが、ここで我々は、世上往々ユダヤに頼まれたかの如くに次のような疑問乃至反対をする人がありますので、そうした疑問や反対は、ユダヤ人の豊富な報酬を当にする者以外は愼しむべきことである、と言っておき度いと存じます。即ち、「トーラ」にせよ、「タルムード」にせよ、何れも、少なくとも千幾百年以前の著作物であるから、近代文化の恩沢に浴しているユダヤ人がそんなものを文字通りに信仰している筈はないというのが、その疑問乃至反対であります。しかしこれはユダヤ魂の本質に盲目であることの証拠である許りでなく、日本の哲学界でも一時は非常に有名でありましたドイツのマルブルグ派のユダヤ哲学者コーエンその人によって反駁されているのであります。即ち彼は、一八八八年に裁判所の宣誓に於て、「タルムードに含まれている信仰並びに慣習に関する諸規則は、ユダヤ人に対して拘束力を有するものである、それらは律法と認められている、」と言っているのであります。勿論ユダヤ人は二千万近く居るのでありますから、その中には種々の傾向の者も居りますので、所謂モダーンなユダヤ人の中には、「同化ユダヤ人」と称せられて、ユダヤの慣習を捨てて近代化した者も居るのであります。しかしこの場合の大部分はそう偽装するのでありまして、ここでもユダヤ人の「頭のよさ」を見なくてはなりません。時として本人自身そう真面目に信じておりましても、なお本能的にはユダヤ根性がいざという場合には出て来るのであります。同一事を四十九種にも黒白といいくるめる術を幾千年間修行して来ているのでありますから、嘘のうまさ乃至偽装の巧みさが文字通りに超天才的であることは、前にも申上げた通りなのであります。従って口先で「タルムード」を否定するユダヤ人こそ反って生粋のユダヤ魂を持っているのかも知れないのであります。実に「タルムード」とはかような精神から生まれ、かような精神を育てて来たのであります。

なおユダヤ魂の本質の研究には、皆様ご承知の「シュルハン・アルフ」や「シオンの議定書」などもありますが、本日はこれらには論及する暇はないのであります。前者については、これもまた「タルムード」のような解釈の書であること、後者については、それの真偽はその内面的真実性を重んずる非唯物論的立場にまで高昇し得る者のみが判断し得るものである、ということだけを述べさせていただくにとどめたいと思います。

 

猶太の民族神エホバ

前置が余り長くなって参りましたので、この辺で本論へ進む事に致します。さてドイツの詩人ゲーテは、或人が如何なる人であるかはその人の神観を見れば分る、と申しておりますが、私もその意味に於て先ずユダヤ人の神観を明らかにし、これによってユダヤ魂の本質の一斑(いっぱん:一部分)を把握してみたいと思うのであります。勿論こう言いましても、唯物論者等の申しますように神の存在を否定するのではないのでありまして、実在する至高の神を如何に感受するかは感受する人間如何によって異る、という意味なのであります。例えば我々日本人の祖先のようにその神を先ず天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の如くに感受するか、或いはユダヤ人の如くにヤーヴェ(エホバ)の如き神として感受するかは、その民族の民族性如何によって定まるというのであります。

ではユダヤの神ヤーヴェとは如何なるものでありましょうか。然し我々はこの問題に答える前に、旧約聖書にはヤーヴェの外に、その最初の創世記の巻には別の神があって、この神が宇宙の創造をする、ということになっている事を想起したいのでありますが、しかしこの神に関しましては、この創世記が印度方面よりの借物であるという説もあります上に、ユダヤ人そのものはこの神をヤーヴェと同一視して来ているようでありますので、我々も今日は直ちにヤーヴェをユダヤの神として論じても差支えなかろうと信ずるのであります。

ではヤーヴェとは、通俗的に言いましてエホバとは、如何なる神でありましょうか。これを歴史的に見ますと、ヤーヴェと申しますのはユダヤ人が移住して参りましたカナーン地方の土俗神であったということであります。しかし我々は今日はユダヤ聖典によってその神観を明らかにしようとしているのでありますから、このような意味のヤーヴェについては語ることを避けたいと思うのであります。それから既に前に申しましたように、ユダヤ聖典「タルムード」に依れば、神は「トーラ」のみならず、「タルムード」そのものをも研究し給うというのでありますが、かような属性を持つヤーヴェについても今日は語ることを避けたいのであります。とにかくヤーヴェなるユダヤの神は、旧約又は「タルムード」を中心にして見ましても種々の属性を持っているのでありますが、本日はそれらの諸属性を一貫して流れているもの、或いはヤーヴェの根本特質とでもいうもののみを研究して見たいと思うのであります。

今申しましたような立場から観察致しますと、旧約全書に見られるヤーヴェというものはユダヤ人だけの民族神であって、ユダヤ人のみを偏愛する神であることが明瞭なのであります。例えば創世記の二六には、「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫にこれ等の國を与えん。汝の子孫によりて天下の國民皆福祉を得べし、」とありますし、申命記の二には、「汝の神エホバ地の面の諸の民の中より汝を択びて己の宝の民となし給えり、」と書かれておりますし、所謂「トーラ」以外の部分にも例えばレビ記の二〇には、「我は汝等の神エホバにして、汝等を他の民より区別せり、」と記されているのであります。世間でよく言われるユダヤ選民思想はこれらの言葉を根拠とするものなのでありますが、とにかく以上の引用文から見て明らかなことは、エホバが決して宇宙神ではなく、世界創造の神でもなくて、ユダヤ人を偏愛する民族神に過ぎないということであります。

それでこの民族神がユダヤ人を愛するのは当然でありまして、この民族神が民族神として活動するだけで、その本性の埒(らち)を出て宇宙神だの世界の創造神だのと僭越なことを言わなければ、我々としても何等の異議はないのであります。たとえ民族に対する愛が偏愛の程度に達している時でも、我々としては辛抱出来るのであります。ところがこの神が、自分こそ世界の唯一の支配者であるとか、唯一神であるとか言って、自己の相対的な地位を忘れて絶対位を僭称するようになりますと、其処に問題が生じて来るのであります。殊にヤーヴェとユダヤ人との関係を一層詳しく調べ、ヤーヴェがユダヤ人に約束することを検討し、就中(なかんづく)その命令乃至約束の成就のために奨める所の手段方法にまで眼を及ぼして見ますと、一体このヤーヴェはユダヤの民族神であるのか、否、もっと適切に申しますと、果してこのヤーヴェは民族神程度としても神の名に値する存在であるか否かさえ、怪しくなって来るのであります。結論から先に申しますならば、ヤーヴェなるものは如何なる意味に於ても決して神の名に値しないものであり、強いて名を求めるならば、西洋人の言う悪魔か、我々日本人の考えます狐狸(こり)の怨霊の類であると考えられるのであります。勿論、旧約又は「タルムード」は大部のものでありますから、ヤーヴェには別な特性もあるのでありますが、しかし他に如何に偉(すぐ)れた属性があっても、以下に紹介しますような特性もまた存在しています以上は、矢張ヤーヴェは如何にしても余り高貴の神ではないのであります。

 

エホバと猶太民族との関係

ではまずヤーヴェの民族神としての性格を明らかにするための第一の問題としまして、この神とユダヤ人との関係そのものを見ることに致しましょう。そこで先ず考慮したいのは申命記の二八であります。

「汝もし汝の神エホバの言に従い、わが今日汝等に命ずるその一切の誡命(かいめい:いましめと命令)を守りて行わば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の國人の上に立たしめ給うべし。汝もし汝の神エホバの言に従う時は、この諸(もろもろ)の福祉汝に臨み汝に及ばん。…汝は入るにも福祉を得、出るにも福祉を得ん。汝の敵起ちて汝を攻めるあらば、エホバ汝をしてこれを打破らしめ給うべし。彼等は一条の路より攻め来り、汝の前にて七条の路より逃げ去らん。…汝もし汝の神エホバの誡命を守りてその道に歩まば、エホバ汝に誓いし如く汝を立てて己の聖民になし給うべし。然る時は他の民みな汝がエホバの名をもて称えられるを見て汝を畏(おそ)れん。エホバが汝に与えんと汝の先祖等に誓い賜いし地に於てエホバその実の蔵なる天を啓(ひら)き、雨をその時に従いて汝の地に降し、汝の手の諸々の行為に祝福を賜わん。汝は許多の國々の民に貸すことをなすに至らんも、借りることなかるべし。エホバ汝をして首とならしめ給わん、尾とならしめ給わじ。汝は只上に居らん、下には居らじ。汝もしわが今日汝に命ずる汝の神エホバの誡命に従いてこれを守り行かば、かならずかくの如くなるべし。」

ヤーヴェとユダヤ人との関係がいま挙げたようなものだけでありますれば、ヤーヴェが民族神であることから見て、これ位の偏愛や約束は当然のこととも考えられるでありましょう。ただ今引用しました中には、「エホバ汝に誓いし如く」とか「汝等の先祖等に誓い賜いし」などという点に、ヤーヴェとユダヤ人との間柄が、真に民族を愛する民族神とその民との間の関係と見るにしては余りにも商売的な契約の感を抱かせる点がありますし、また「汝は許多(きょた:おおく)の國々の民に貸す」という言葉がユダヤ人の四千年の歴史を暗示しているような点もありますし、またもう一つ「汝をして首とならしめ」とか、「汝は只上に居らん」とかいう言葉でユダヤの世界支配欲を表示しているような点もありますが、これ等の点については後にもう一度触れることに致しまして、ここではただ、以上だけがヤーヴェとユダヤ人の関係でありますならば、先にも旧約より引用しました際に申しましたように、我々他民族も大体に於て異議はなく、従って民族神とその民との関係としてもそう不思議ではないのであります。しかし事情は、今の引用の続きの部分を見ますと大いに変って来るのであります。

「汝わが今日汝に命ずるこの言葉をはなれて、右又は左に曲がりて、他の神々に仕えることをすべからず。汝もし汝の神エホバの言に従わずして、わが今日汝に命ずるその一切の誡命と法度(はっと)とを守り行わずば、この諸々の呪詛(じゅそ)汝に臨み、汝に及ぶべし。汝は邑(むら)の内にても詛(のろ)われ、田野にても詛われん。…汝は入るにも詛われ、出るにも詛われん。エホバ汝をしてその凡ての手をもて為す所に於て呪詛と恐懼(きょうく:おそれかしこまること)と譴責(けんせき:戒めて責めること)とを蒙らしめ給うべければ、汝は滅びて、速かにうせはてん。こは汝悪しき事を行いて、我を棄てるによりてなり。 …汝はエホバの汝を遣わし給う國々にて人の怪しむ者となり、諺となり、諷刺とならん。汝の中にある他國の人々はますます高くなり行きて、汝の上に出で、汝はますます卑くなり行かん。彼は汝に貸す事をし、汝は彼に貸すことを得じ。彼は首となり、汝は尾とならん。この諸の災禍汝に臨み、汝を追い汝に及びて、遂に汝を亡ぼさん。 …汝万の物の豊饒なる中にて心に歓び楽しみて汝の神エホバに仕えざるに因り、汝は飢え渇き、かつ裸になり、万の物に乏しくして、エホバの汝に攻め来らしめ給うところの敵に仕えるに至らん。 …エホバ先に汝等を美しくし、汝等を多くすることを喜びし如く、今はエホバ汝等を滅し絶すことを喜び給わん。 …エホバ地のこの極よりかの極まで汝等を散し給わん。…」

今引用致しましたのは原文の全部ではないのでありまして、殊に後の威嚇と呪詛の部分は前の部分の約五倍に上っており、いま紹介致した程度の内容ではなく、実に最大級最上級の威嚇と呪詛の連続なのであります。即ちもしユダヤ人がヤーヴェの命に叛く時には、凡ゆる不幸と災厄とがその身に及び、遂には滅亡し果てるというのであります。それでこの後の部分に見られるヤーヴェとユダヤ人との関係は、慈愛の深い民族の守護神とその民との関係と見るのには余りにも峻厳なのであります。深く大きい愛は、迷える子供をも時至れば許すだけの度量のあるものと思われますが、ヤーヴェにはその大度(たいど:度量が大きい事)はなく、旧約の外の諸部分にも見られるように、この神は民族神としても偏愛の神であると共に残忍性そのものの具体化のような神であります。しかしユダヤの四千年の歴史の事実を知っております者には、ヤーヴェのこの呪詛と威嚇とはユダヤ人の運命に相当に実現されているように見えるのであります。勿論まだ滅亡とまでは行っておりませんが、その点を除けば、引用文の示す限りに於ては大部分実現しているとさえ見えるのであります。そしてこのヤーヴェの呪詛と威嚇との中に、ユダヤの四千年の歴史を通じてずっと流れていながらも、他の民族には容易に理解の出来ないユダヤ人の二重人格性の発生の地盤があるのではないかと思われるのであります。そのユダヤ人の二重人格性とは、別の言葉で言えば、前に言いました「頭がよい」とか「嘘がうまい」とか言うこともその中に含まれて来るのであります。これをまた別の方面から言いますと、ユダヤ人が幾千年間常に二重の標準を以て万事を処理し、万事に処して来ているのも、その心理的な根拠はここにあるのであります。即ちかのメシヤ思想に基く誇大妄想のユダヤ人自身すらも、自己の四千年の歴史を回顧する時、それが決してヤーヴェの呪詛と威嚇とを全く免れ得るだけのものでないことを承認せざるを得ないので、ここにユダヤ人は神命としての滅亡から自己を救うためには、手段を択(えら)ぶことなく、何等かの間道(かんどう:抜け道)を求めなくてはならないのであります。然も精神的には真の独創がなく、また筋肉労働を神罰の一種として軽蔑し回避する慣習のあるユダヤ人は、かの二重の標準を用いて、かの「嘘」と「頭のよさ」とを以て、神意としての滅亡から自己を救いたいと思うようになったのであります。それ故にユダヤ人のあらゆる行動には、自由意思に基くというよりは、一種の憑かれた人とでも言うべき所が見られるのでありまして、ユダヤ人が世間周知の金儲けその他の場合に普通の人間には理解の出来ないような事を平気でやってのけますのも、この心理状態に基づくのであると思われます。つまりユダヤ人に取っては、普通の人間から見て極悪非道と見えることも、神命としての滅亡から自己を救うために役立つものは正しいのであり、また神命として彼等に課せられているものとも感ぜられるのであります。

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)03 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)01

猶太と世界戰爭(新仮名)01

 

燈照隅より

この本の原典は、昭和13年8月から昭和17年11月にかけて発表されたものでありますので、その発表時期をそれぞれの巻頭に明記しました。

当時の日本、つまり、支那事変がほぼ軍事的に解決したにも拘らず、蒋介石共産党もそれぞれ重慶・延安に落ち延び、秘密裡にそれぞれ米ソから援助を受けて敗北を認めず膠着状態にある中で、日本の情報部は、支那事変の真の敵が誰であるかを次第にはっきりと見極め、また、友邦ドイツからの情報も合わせてその敵の姿を認識しつつも、米國による日本排斥・通好条約破棄などにより次第に欧州で起こった戦争に巻き込まれて行き、遂には真珠湾攻撃から蘭印を占領する過程の中での発表文でありますので、是非、その発表時期の日本の状況をよく理解した上でお読み頂くとなお一層、理解が深まると思います。

(なお、旧字体はほぼ全て新字体に直しましたが、私の勝手な判断にて以下の三文字と「國體=国体」は旧字体のままです。

國=国: 國の本来の字義、國境内の人を武力で守ると言う字義を大切にしたいため

辯=弁、辨=弁:新字体にするとどちらも弁となり、それぞれの字義が曖昧になるため
・辯=語る、言葉巧み、言葉遣い、方言
・辨=わける、わきまえる、処理する

・國體=国体:国民体育大会ではないため)

 

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猶太と世界戦争

汝は汝の神エホバの汝に付し給わんところの民を
ことごとく滅しつくすべし

申命記七・一六―


世界的規模に於て戦われつつある今次の大戦は、果して枢軸國家群対反枢軸國家群の戦争という一事によって全部的に説明され得るであろうか。またそれは、暴慢なるアングロサクソン民族に対する被圧迫民族の戦いという一事によってその真相を尽され得るであろうか。時として説かれる所の東亜新秩序乃至世界新秩序の建設は、単に連合國の打倒とアングロサクソン民族の撃滅とによって達成され得るであろうか。
かつて我々は支那事変の経過中に、我々の真の敵は米英等であることが到る処に於て確認されていながらも、それと明らかに指摘し得ざる種々の事情のために、時として我々の敵愾心の向け方に多少とも迷ったことはなかったであろうか。そしてその敵愾心が、大東亜戦によって初めて真の敵が明示されることによって、一時に天をも衝かん許りに燃え上るのを感じたのではなかったか。
しかしその後時日の経つに連れて、再び我々の心には、大東亜戦の真の敵が単に米英に非ざることを予感しつつありはしないであろうか。これは最近の世界状勢を多少とも達観し得る者には、意識の程度に差こそあれ、必ず感得されつつあるかの如くである。しかしながら、如何なる理由に依ってか、いまだわが國に於てはそれを公然と口にすることが遠慮されつつあるかの感を抱かしめられる。勿論この遠慮が、米英の背後に敵を見ることとは米英を敵として戦いつつある我々の戦争目標を曖昧にするという心配より爲される場合には、一面に於ては尤ものことであって、我々としても決してそれを非議しようとする者ではないが、しかし事実はさように簡単ならざるごとく見えることも否定し得ないのである。日支事変中に真の敵を指示することを遠慮せしめたと同一乃至類似の理由が、或いはこの場合にも存在しているのではないかと思わせられるのである。
然しながら我々はこの序文に於てはこれ以上に論議することを避けるであろ う。本書の全部がかかる疑問に答えるものだからである。当時者が声を嗄らして呼号する対米英敵愾心の如きも、上述の点に関して勇気ある決断が下される時おのずから焔々と燃え上るであろう。その時には、我々の敵が同時に枢軸諸國の敵である許りか、また人類全部の敵である真相も判明するに至るであろうし、また我々の敵が如何に奸悪であり、従ってまた如何に強力であるかが判明する許りか、我々の建設しようとする東亞乃至世界の新秩序の内容と意義もまたおのずから明らかになるであろう。


  × × ×


ここに集められた諸篇はかつて雑誌その他に発表されたものより選択されたのであるので、その性質上多少の重複を来している点もあるが、機会に触れてなされた言説のうちに反って我々の立場の正当性も証されると考えるので、各部の始めに「はしがき」めいたるものを加えるにとどめて、他の部分への加筆は差控えることにした。切に読者の寛恕(かんじょ)を乞う所以である。


昭和十八年七月
    著者識

 

 

 

第一章 猶太魂の本質

かつて「猶太禍の迷妄」を説き、またフリイ・メイスン祕密結社
人道主義的団体なりとして擁護することによつて猶太に忠勤を
励んだ「人爲的猶太人」の一群があつたが、其の伝統は今は、猶
太問題は猶太人に國土又は國家を与えれば解決するという「志願
シオニスト」の一団となっている。二つに共通の非日本的なる傲
岸不遜さは、無知に基づく生兵法の結果とのみ片づけられないエ
ホバ的妖気を帯びており、怪奇なる日猶同祖説とその猶太性に於
ては大差のない陰慘なる背景を感ぜしめる。本第一部はかかる妖
気を退散せしめんがための破邪顕正の筆剣である。

 

一、猶太問題研究の精神史的意義(昭和16年5月)

あらゆる人間的行為に前提があるように、すべての学術にもまた前提がある。十九世紀の欧州に於て「無前提性」を標榜したところの学問も、実際に於ては決して無前提ではなかったのであって、唯物論実証主義こそその前提だったのである。多少逆説的に言うならば「無前提性」の説かれる場合こそ反って強烈な前提が存在しているのである。この意味に於て猶太問題研究にもまた明らかに前提が存在しているのであるが、それが如何なるものであるかはおのずから明瞭になって来ると考えるので、問題の全面的理解のためにはこの前提の問題が極めて重大であるにも拘らず、ここでは直ちに猶太問題そのものの持つ意味を見ることに移り度いと思う。

猶太問題もまた、あらゆる人間界の重大問題と同じく、単なる部分的人生問題ではない。即ち、それは、在来屡々欧州に於ても考えられたような単なる宗教問題ではなく、実に英國宰相ビーコンスフィールド卿こと猶太人ディスレイリも言っているように、先ず第一に民族の問題であり、また猶太人が過去に於ても現在に於ても「國家中の國家」を形成している点に於ては重大なる國家的問題であり、世界の富の七割乃至八割を少数民族として独占しているという意味に於ては注目すべき経済問題であり、更にまた、殆どあらゆる極左的思想の創案者乃至宣伝者であるという関係に於ては由々しき思想問題であり、全体としては國家と民族との存立如何に多大の関係を有する危険なる社会問題である。

猶太問題の全貌がかような広汎なものであるとすれば、それの研究はまた同様に広汎なものとならねばならない。従ってかような研究は、その対象の性質の然らしむる所として、研究者の側に於ける態度決定の如何によって全く相背反した結果をも生ずることは自明であろう。ここに吾々が既に論及しておいた学術の前提が再び問題となって来るのであるが、この場合にも吾々はそれがやがておのずから明瞭になることを信ずるので、先ず現在の世界の諸國に於て猶太問題が如何なる様相を示しているかを端的に述べることにしたいと思う。

何人にも明白な事実は、現在の世界が大体に於て二つのイデオロギー的陣営に分れていることである。これは恐らく世界の常識に属すしていると考えられるが、現在の世界の対立が、二つと言われていて三つと称せられていない点は特に注目に値するのであって、現在の世界の猶太問題の考察に当っても、このことは重要な意味を持って来るのである。この事情を精神史的に言えば、世界の一方にはいまだ十九世紀的唯物思想にその存在の根拠をおいている所謂デモクラシー諸國があり、他方には、それらの諸國からは有名無実の悪評を浴せかけられている二十世紀新興勢力としての所謂ファシズム諸國が対立的に存在しているのである。然るに十九世紀と言えば、フリイ・メイスン秘密結社のモットーである「自由・平等・博愛」を看板として遂行された猶太解放革命としてのフランス革命に始まる世紀であって、その本質は合理主義・個体主義・相対主義・唯物主義等の特質を持つ悪平等思想の支配した時代であるに過ぎず、またその猶太解放は実質的には猶太の世界支配の容認にすぎなかったので、十九世紀は即ち猶太の世界支配の確立の世紀に外ならないとさえ言い得るのである。そしてかのデモクラシーとは、実質は猶太独裁の別名に外ならない。現在のデモクラシー國家なるものは、それが今なおデモクラシー的本質を残存している程度に正比例して、猶太独裁に服しているのである。これに反して所謂ファシズム諸國に於ては、それが全体主義でありまた民族主義である程度に正比例して、猶太独裁は清算されているのである。

然しここに或人は、ボルシェヴィズムのソ連は如何であるかの問題を提出するであろう。然しこれは単にボルシェヴィズムの仇敵がファシズムであった一事のみからも極めて明瞭である通りに、ボルシェヴィズムも自由主義も本質的には何等の相違わないのである。これを近来の著名の語で言えば、自由主義共産主義の温床である、というのである。言葉を変えて言うならば、前者は後者の頽廃的段階たるのである。従って両者は、共同の敵としての新興勢力が台頭する場合には、例えば日支事変に於ける英・米・仏・ソ連の仲のよさが証明して余りあるように、直ちに共同戦線を張るに至るのである。自由主義の地盤としての資本主義も、ボルシェヴィズムの地盤としての共産主義も、共に何れも合理主義であり、相対主義であり、個体主義であり、就中、拝物宗であるからである。これを吾々の当面の問題である猶太問題から見る時には、この二つの國際主義の代表者であり、支持者であり、宣伝者であり、統一者である所のものは、同一の猶太に外ならないのである。ソ連なるものは、その成立より見るも、スターリンを第一線に立たしめて督戦しているカガーノヴィッチ閨閥の支配状況から見るも、米國フリイ・メイスン系金融猶太人の投資の一形式であると言っても決して過言ではないのである。それ故にソ連の真相を掴もうとする者は、時折演出されるその内部に於ける内輪喧嘩を過大に評価して、既に全猶太がソ連を見捨てたと誤信してはならない。パレスチナ系乃至トロツキー第四インター系の猶太人がスターリンに不満であることが万一にも事実であるとしても、米國猶太はその巨額の投資をそう容易に断念し得る筈はないのである。最近カガーノヴィッチ閨閥に異状があったと称せられるが、これが事実ならば或いはソ連の動向にも何等かの根本的変化があるかも知れないが、今それを論ずることは早急に過ぎるであろう。

そしてこれら諸國に於ける猶太問題の扱い方は、それらの國に於て占める猶太勢力の大さに正比例した結果を示している。即ち、かの所謂デモクラシー國家に於ては、それがたとえ全くの禁止を喰うてはいないにもせよ、この問題の特志研究家は身辺にあらゆる意味の迫害を受ける。この事情は、活眼をもってそれら諸國の動静を見るならば、容易に明瞭となるのである。そして國際共産主義國として完全なる猶太独裁下にあるソ連に於ては、猶太問題の論議乃至研究は生命にかけて厳禁されているのである。勿論一般民衆間の反猶主義は極めて根深く、早晩それが爆発点に達することは歴史の論理であるが、しかし一九三六年十一月のフランスの「ル・ジュルナル」誌の報ずる如くにスターリンもまたその母より猶太の血を承けているとすれば、ロシア人のロシアの出現は容易のことではないであろう。

最後に、ファシズム諸國の場合であるが、これらの國に於て猶太問題が、当然かくあるべき処置を受け、また受けつつあることは、今更詳記の要はないであろう。

以上見たように、現代は正に新旧二つのイデオロギーの対立時代であるが、これは単に國家の性格が示しているだけのものではなくて、何れの國家の内部に於てもまたより小規模に於て認められ得る世相である。然して今や世界の重要な一環である所のわが國に於ても、事情は決して例外ではないのであって、全國力を挙げての日支事変下の現在に於ても実に然りなのである。この事実は、一部のお人好しや為にする所のある連中からは否定されるか、或いは黙視乃至看過さるべきであると主張されるのが常であって、「我が國は大和の國である、」等という空疎極りなき僞装的言説さえ叫ばれる事もあるが、これは世界の現状と、歴史の本質と、現在日本の世界的地位とを知らぬ低能者流の寝言であるか、或いは事変中又は事変後の或る時期を待ち設けて策動せんとする人民戦線残党の仕事であるに過ぎない。世界がイデオロギー的に分裂しているのに照応して、悠久幾千年の光輝ある歴史を有する皇國日本もまた今やその内部に同じイデオロギー的対立を蔵しているのである。従って現在の世界に於てボルシェヴィズムを尖端とする自由主義が全くの「反動」であるのに照応して、皇國日本に於てもその系統に属すする思想の信奉者はいずれも反動化している。勿論吾々は、皇國の将来に関してはいささかの不安も感じないものであるが、しかしこれらの反動主義を放置することは、所謂自由主義的「文化」主義者 - 現代の所謂映画に「文化」ありとする程度の ― の場合であろうと、赤化主義的「科学」主義者 ― 十九世紀的唯物論に「科学」ありとする程度の ― の場合であろうと、彼等の持つ猶太戦線性のために幾多の犠牲を生ずることを憂えざるを得ないので、それらの犠牲を最小限に止めるために適切な英断的処置を切に期待する者である。犠牲は既に救出し難く泥沼の深みに陥沒している彼等のみで充分であって、幾多の若人をその道連れとして泥沼に陥沒せしめる必要はないのである。殊に興味深く且つ残念なのは、特に満洲事変以来日本インテリの祖國戦線より猶太戦線への落伍の状況であって、その事変以来の内外の一事件毎に彼等は ― 所謂「日本主義者」の場合もまた例外ではない ― 落第して行ったのである。そしてその最後の大試練が現在の日支事変であって、辛うじて今まで及第して来た者の中にも、「二十世紀入学試験」とも言うべき今度の事変に際しては、遂に落第の憂目を見た者がかなり数えられるのである。此度の欧州戦争がこの事情を促進しつつあることは言う迄もない。然も彼等は、世の落第生に共通の僻みと嫉妬と陰険さとをもって、所謂文化主義と科学主義との華かなりし昔を偲ぶと言う程度の許さるべき回顧のみに満足することが出来ず、國民精神総動員下の間隙に乗じては、皇國をその本来の姿に還そうと身命を賭して努力しつつある精英に対して、彼等が精英であり、また日本的であり、行為的であるとの理由のみからして、事毎にその毒息を吹きかけようとしている。そして國際的に見てデモクラシーとボルシェヴィズムとが「お手々をつないで」を実習して教えている範例に従って、ここ國内に於ても、赤色と桃色とはお手々をつないで、猶太戦線に躍り躍らされているのである。

この猶太戦線の志願戦士と猶太問題との関係は如何であるかというのに、この点に於ても事情は世界の大勢と合致している。即ち、かの所謂桃色文化主義者連はしばしばその怠惰のために、そしてまた多くの場合には彼等の十九世紀的思想のために、換言すれば、その合理主義・個体主義・唯物主義・相対主義のために、本来猶太的傾向を帯びてしまっているので、たとえ日常生活の各瞬間に猶太問題を想起せしめるような事件が続発しても、それには気が付かないのである。そして時たま気のつく者があるとしても、それの批判が直ちに自己の存在の根本への批判となることを感ずるので、時には本能的に、時には意識的に、斯かる問題を取りあげる事の非人道的であることを主張する。そして「自由・平等・博愛」という如き悪平等思想に基づくヒューマニズムが生きた世界には存在しないことさえ知らないのである。この二種の桃色主義者は、猶太が金力によって思うままに支配している世界の通信網と言論機関とが黙殺し隠蔽するところのものはすべて一般に存在しないと思惟し、或いはまた日本人以外の者乃至猶太人ならば、如何に少数者が多数を搾取しようと、虐待しようと、大量殺人をしようと、少しも人道に背反するところはない、と考えるのである。これは実に所謂「先進文明」を取入れるに急であった明治時代の舶来上等イデオロギーの残滓にすぎないのであって、横文字で説かれ、片仮名で書かれてあるものならば、ただもうそれだけで有難いのである。従って彼等は、赤色派となるだけの勇気はないが、しかし人間性から見ても、歴史的に観察しても、その創始者の意図とその利用者の何人種であるかより見るも、決して「科学的」でも「進歩的」でもなく、単に猶太的であるにすぎないマルクス主義に対してさえも批判がなく、マルクスの理論は正しいが、現在の日本の政策と合致しないから自分はそれを取らない、という程度の羨むべき心境にあるのである。殊に顰蹙すべきは、プラトーン、カント、ヘーゲルに重大関心を示しながら、また或者はキリスト教の信者であると誇称しながら、拝物宗の批判さえ不可能な者の場合である。然しこの種の哲学の徒やキリストの徒に取っては、哲学することは単なる頭の遊戯であり、キリスト教徒たることは、自分が高等民族に仲間入りした事を誇示するためであるに過ぎないのであるから、十九世紀的地盤上に最後の流行として栄えたものに対する批判に及び得ないのは当然である。実に彼等は、カントの「タルムード」的解釈を哲学として尊敬したり、旧約聖書新約聖書との差を認識し得ぬ程度の盲目人種に過ぎない。従って彼等は、一方に於てはイデアを現実に生かす道を知らず、猶太民族神としてのエホバと唯一最高神との区別にも思い到らぬのである。然しこの人種の特質は、自己の利益に関係のない事には極めて冷淡であって、國家の安泰の如きは屡々交際上の話の種としての価値さえもないのである。然し事一度自己の利害に関する時には、國を売るだけの勇気はないとしても、友を売り師に背いて何等の良心の苦痛を感ぜず、例外なくエゴツェントリストとなるのである。なお猶太問題を否定する者のうちには、この問題の研究の結果が余りに整然たるの故に信じ得ずとなす者がある。もしこの論者の主張が、現実は深くして単なる合理主義にては解釈し得ない、というのであれば尊敬すべき識見であるが、しかしこの拒否も多くの場合は拒否のための口実に過ぎないのであって、彼等の多くは、自由主義には「自由」があるとか、マルクス神話には「理論」があるとか言って随喜の涙を流す程度の者であるのである。所謂「物のわかる」「頭のよい」彼等にとっては、意識的乃至無意識猶太戦線の一兵士として、その戦線と自己の地盤を搖るがすものは「括弧に入れ」て「判断中止」をするのが得意の手であるのである。

國際場裏のボルシェヴィズムに照応する國内の志願猶太戦線が猶太問題に対してボルシェヴィズム的態度で反応することは、今更説明の要はないであろう。否、この志願兵の群は更に百尺竿頭一歩を進めて、これこそ正真正銘の「タルムード論理」を以て巧に僞装的転向をし、積極的に金儲けに従事するのである。勿論事変下に於ては昔日の如き儲けはないであろうが、然し彼等は僞装の点に於てもまた猶太の先師に学ぶことを忘れず、今なお相変わらず相当の金儲けに従事している如く見受けられる。そしてボルシェヴィズムとデモクラシーの馴れ合いの模範は、その縮図としてこの場合にも繰り返されていることは言う迄もない事であって、桃色主義者が一歩前進し、赤色主義者が一歩後退した現代に於ては、舞台を世界に取ろうと、或一國に取ろうと、両者の間には既に本来の同一性が実証されている。

事変下の現在に於て日本的日本人の最も関心すべきことは、これらの憎むべくまた憐むべき猶太的國籍喪失者がその無恥にして巧妙なる僞装の下に暗躍し、直接又は間接に猶太の世界支配を助長するであろうことに対して、祖國日本の悠久の生命のために対策を講ずることである。(一六・五)

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)02 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)00

 

猶太と世界戰爭(新仮名)00

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あなた方は、あなた方の神エホバがあなた方に添え給う民を
ことごとく滅ぼしつくさなければならない

申命記7.16―

巷で猶太陰謀論陰謀論者として忌避されてきた思想は、今やトランプ大統領の登場によって米国の政府と覃府(たんぷ:ディープステートを私はこのように名付けた)の重層構造の発覚により、その姿を明るみに出してきたわけですが、この構造自体は主に仏蘭西革命に伴う啓蒙思想フリーメーソン、そして解放された猶太人により、200年から300年もの長年月をかけて世界の学問、通信、そして金融を通じて今や世界の隅々まで広められたものです。

この思想は表立っては、自由、平等、博愛、進歩を謳っているのでありますが、その真の目的は決してそのような理想主義的なものではなく、寧ろその理想主義の部分が光り輝いて人の目を眩ませる分、本音の影の部分はより一層暗く陰惨・残酷なものであるようです。

今から80年前、日本は當にこの世界の暗黒に向かって立ち向かい、自身は深く傷つきつつも、アジア同胞を植民地の悪政から解き放ち、更にアジア・アフリカの多くの民を勇気づけて、独立させたのです。

然るに、日本が道半ばで敗戦する中、いつしか、日本の戦争目的は闇に葬られ、すべてを《彼等》の歴史観と価値観に置き換えられ、更に許すまじきことには、こうして独立した多くの若い日本精神の申し子をも旧態の《彼等》の仕組みの中に組み入れてしまったのです。

この本は、《彼等》の正体を暴くことにより、日本の真の戦争目的を今一度、くっきりと浮かび上がらせ、我々日本人の人類に対する使命を80年の時を経て明かしてくれる、文字通り啓蒙の書であります。

是非、お読み頂いて、いま世界で起きていることと照応しながら、我々日本人の使命とそれを実行する意志・決心を新たにして下されば、これ以上嬉しいことはありません。

 

  燈照隅

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)01