猶太と世界戰爭(新仮名)05

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

日本と猶太

かような次第で、ユダヤ人と我々とは住んでいる世界が違うと言わねばならないのであり、或いはもっと適切に言いますと、我々とユダヤ人とは存在の次元が違うのであります。従ってユダヤ人と我々との間には、神観に於ても世界観に於ても人生観に於ても、単に百八十度の差があるのではなく、ぐるりと一廻りして三百六十度の差があるのであります。この点は既に前にも申しましたが、これを私は底面を合した二つのピラミッドを使って比喩的に説明するのを常としているのであります。即ち二つの底面の合する所が人間の中にあって人間をして人間たらしめる所の人間の属性の最低面をなしており、これより上方へ向ったピラミッドが普通の人間の存在を象徴し、底面より下へ出ているピラミッドがユダヤ人及びその同類の人間を象徴していると考えるのであります。

以上でたとえ日本とユダヤとがある点に於て似ているような事がありましても、それが決して本質的に然りであり得ない事は、これ以上の説明なしで明瞭になった事と信じます。現人神を上にいただく我々はかの上方のピラミッドの先端に位置するのでありますが、ユダヤはかの下向のピラミッドの下方の尖端に位置しているのであります。何れもピラミッドの尖端でありますから、皮相な観察眼を以てしますならば、種々の類似点を生ずる如くに見えるのでありますが、しかし実際に於ては、形式的に類似すればする程差異の大なる事の証拠となるのであります。これは日本とユダヤとの歴史、國體(国体)、民族性等を正当な批評眼を以て見る人には自明すぎる事でありましょう。

 

人類混淆の問題

ではユダヤ人は何故に上述のような次元に住む民族になったのでありましょうか。この問題は実に困難な問題でありまして、容易に解決は出来ないのであります。以上のように神観も人間観も違っているからそうなったのだとも言えるのでありますが、しかしそうした神観や人間観が出て来るのは、ユダヤ人が非ユダヤ人とは別な次元に住んでいるからであるとも言えますので、神観や人生観が先かユダヤ人そのものが先かという問題は、卵が先か鶏が先かというのと同じく、結局は解決の出来ない哲学上の問題となってしまいますので、ここではそんな複雑な問題に論及することは差控えまして、現代の我々に取っても将来のために重大な参考となる点と関係させて、ただ一つの点についてのみ述べておきたいと思うのであります。

それは実に所謂民族混淆の問題でありまして、ユダヤ人はその四千年の歴史の当初の頃に於ては、放浪生活の結果として到る処で他の民族と混淆した事が伝わっておりますが、それがユダヤ人をしてかかる低い次元の存在たらしめた一つの重大な理由だとされるのであります。歴史的に見ますと、ユダヤ民族は、旧約に出て来るネヘミヤ及びエズラの頃には、他民族との混血の結果として将に滅亡に瀕していたのだそうでありますが、これを上述の二人の指導者が出て、ユダヤ民族を滅亡から救うために他民族との混淆を厳禁したのであります。その結果として現在に至る迄もユダヤの血は絶えずに続き、國土を失い政治的中心を失ったかに見えましても、なおその逞しい生存力を保持しているのであります。かくてその後のユダヤの血は純粋なのでありますが、しかしその血は既に混血の極に達していた血でありますので、換言すれば退化した血をそのまま純粋に保存して来たのでありますので、善良なる血を純粋に保存して来た場合と反対に、マイナス的な要素が却って強化される結果を生んだとも言えるのであります。この点からユダヤ的存在の低次元性は或程度まで説明出来ると存じますが、なお一歩進めて何故に混血現象が民族を滅亡させるに至るかと言いますのに、それは現実の世界にその例を取ってお考えになりますれば直ちに判明致しますように、混血児には諸種の人生問題の解決に当って何れに就くべきかに迷う事が多く、結局は自己の利益に従う外はなくなるのであります。換言しますと、混血人には志操がなく、義務観念がなく、犠牲的精神がなくなるのであります。従ってこの点からもユダヤ魂の本質として我々の論じたような利己主義の出て来ることは説明がつくでありましょう。もう少し哲学的に申しますと、各民族にはそれぞれ神の指示した特性と使命とがあり、従って各民族はそれぞれ特異な理念的存在でありますから、それの混淆はその存在の理念を曖昧にするのであります。従ってそうした民族は滅亡するか、或いはユダヤ的な次元に転落する外はないとも言えると思うのであります。

以上のことは、十九世紀的な唯物論が人種の混淆を人種改良と申したこともありますので、支那事変以来、特に大東亜戦以来、諸種の民族と接触することの多くなった我々と致しましては、充分考慮すべき点ではないかと考えましたので、一言論及したのであります。

 

ユダヤ人の世界政策

さてここでまた話を転じまして、ユダヤ人の世界支配計画は現在に於ては如何なる段階にまで到達しているかという点について少しく考え、以て時局の参考に致し度いのであります。結論から先に申しますと、神命によるユダヤの世界支配の段階は、今次の世界戦争によって世界革命を誘致し、それによってその世界支配を完成しようという所まで来ているのであります。そう言いましても、これは事実その通りに運んでいるというのではないのでありまして、ユダヤ人の希望的観察からはそうなって来ているというのであります。しかしまたよく歴史的に考察して見ますと、ユダヤ人がそう信じているのも全然理由がないとは言えないのでありまして、非ユダヤ人の善良さがこの儘で相変らず正しい批判力を伴わぬと致しますと、場合によってはユダヤ人の希望的観察が実現するのではないかとさえ我々は危ぶまずには居られないのであります。勿論我々は、わが國體(国体)に対する絶対の信念がありますので、結局に於て悪の勝利が来るとは考えないのでありますが、しかしなお真の八紘為宇が世界に実現されるに至るまでに無意義な犠牲の多からんことを思っては、出来得べくんば善良なる非ユダヤ人の蒙を啓いて、かの無意義なる犠牲を最小限に止めたいと念願しているのであります。

ではどうして現在が、ユダヤ人の希望的観察からにもせよ、かような段階に達しているかと申しますと、それはフランス革命以来の世界の動きがユダヤ人の方策通りに動いてきているかに見えるからであります。本日はこの点を詳述致しておる暇はないのでありますが、「自由・平等・博愛」なるフリイ・メイスン秘密結社のモットーを表看板としてなされましたこの革命は、この結社が精神的にも政治的にもユダヤ勢力の支配下にあるのにふさわしく、結局はユダヤ人の解放ということをその最大の結果として生んだのであります。つまりこの悪平等思想は、ユダヤ人を在来のゲットー生活から解放するに至ったのでありますが、元来ゲットーはユダヤ人が自発的に形成して来たものでありますから、それよりの解放は、ユダヤ人に取っては却って迷惑であるか、或いはユダヤ人に取って特に有利となるかの二つの道しかないのでありますが、ユダヤ人はその裏面的勢力によって自己に不利な道を選ぶ筈はないのでありますから、フランス革命によるユダヤ解放は何か大きな利益を齎(もたら)すものであったということになりますが、それはこの革命によって、ユダヤ人が今迄ゲットーに隠れてする必要のあったことを今や公然と非ユダヤ人の間に混じってなし得るようになったということを意味するのであります。従ってフランス革命は、ユダヤ人に取っては大きな特権の獲得であって、よく世間で言われるような同権程度のものの獲得ではなかったのであります。

それから種々の小段階を経まして、第一次世界大戦となり、ここに永く準備された金権方面の世界支配はほぼ確立されたのであります。衆愚政治としての政党政治の支配する所謂デモクラシー諸國又はその亜流の諸國は、この時以後殆ど完全にユダヤの経済的覇権の下に入ったのでありまして、わが國の如きも、この分野におきましては大差のない状況にあったようであります。

然も一方に於てユダヤの政治上の完全な支配は、世界的規模にまではまだ到達することが出来ないで、ロシヤ人の無智文盲を利用してロシヤに於て先ず見本的に成就されたのでありました。この革命が人的要素から見ても資本的見地から見ても、ユダヤの仕事であったことは、今は多少事情に通じた人には常識なのであります。従ってここに於てかの先ず他民族殲滅の見本を実行し、幾百万の人を殺戮したのであります。そしてここを根城として、ユダヤ資本力と宣伝力とを利用して、ユダヤ的な我欲に長じた非ユダヤ人をたぶらかし、コミンテルンとして各國を撹乱し、各民族を先ず内部的に弱体化することによってその殲滅を期しつつあるのであります。

併し先程申しましたように、ユダヤの現在の世界支配策の段階は世界戦争に依る世界革命の誘発であるのでありまして、これが今次の第二次世界戦争の真因なのであります。そしてこれに依って残された政治的方面の世界支配を完成するならば、神命としての世界支配は文字通りに完成するというのでありまして、そのためには今次の世界戦争を長期戦化し、枢軸國を弱体化して内部的に革命を起こさせようとすると同時に、所謂デモクラシー國をも再起不可能にまで荒廃させて、同じく内部的に革命に導き、それによって文字通りに他民族を殲滅しようというのであります。勿論他民族の殲滅といっても、文字通りに一人残らず殺戮することは不可能でありまして、これは抽象的にそうするというのであります。ルーズヴェルトは「今モーゼ」と称せられてユダヤの尊崇を一身に集めているそうですが、これは彼が恐らくオランダから移住して来たユダヤ人の血を享けているという事の外に、世界戦争を拡大し長期化しようというユダヤの方策に従って忠実に働いているからでありまして、彼を先頭に秘密結社員チャーチル、イーデン、ハルや、ユダヤ人リトヴィノフ、ホア・ベリシャ[1]等の演じている八百長芝居は、単に枢軸打倒では割切れない要素を多分に含有しているのでありまして、米英人そのものをも含む他民族殲滅のユダヤの政略を考慮しない限りは、ルーズヴェルトチャーチルの赤化迎合政策に見られる半祖国的傾向は理解が出来ないのであります。米英合邦とか称せられていることは、形式と時季とは不明であると致しても、早晩実現することでありましょう。否、既にもう実質的には実現されていると言っても差支えないのではありますまいか。

 

[1] Leslie Hore-Belisha, 1st Baron Hore-Belisha(7 September 1893年9月7日~1957年2月16日)は、英国の自由党、挙国一致下院の自由派議員で国務大臣。後に保守党員。1934年~37年交通相として英国の道路網の近代化に貢献した。1937年~1940年戦争省政務官となったが、参謀部とやり合って1940年に罷免された。情報大臣就任の指名が拒絶されたのは反猶太主義によると言われる。(Wiki 英語より)

 

結び

ここで大急ぎで以上のような観点よりする時局対処策について、貧しい結論ではありますが一言させていただきたいと思います。

上述のようなユダヤ的原理は、既に論じましたことからも判明致しますように、我々自身のうちにも決して全く存在しないものではないのでありまして、人間の中にあって人間をして人間たらしむるに足らぬものでありますから、もし我々が自己の中にあるかの卑しむべき我欲的本能に屈従致しますならば、我々もまたユダヤと変りはない存在に堕するのであります。これは悲しむべき事でありますが、自己の身辺にもしばしば見うけられるのでありますから、我々は決して気を許してはならないのであります。自己の利欲の外に何もない利己主義が最もユダヤ的なのであります。東洋に在住した或るユダヤの指導的な地位の金持はいよいよ大東亜戦が近接して来て上海を去るべく余儀なくされるに至った時、「人間に悪のある限りユダヤは亡びず」という捨科白(すてぜりふ)を残して米國へ去ったと或る人から聞いたことがありますが、ユダヤには平常これだけの覚悟と自覚とがあるのであります。これをもう少し一般的な思想史上の言葉で表現致しますと、我々は唯物論のあらゆる形式のものをこの際徹底的に克服しなくてはならないのであります。漠然と米英思想の撃滅などと言っても変な話でありまして、もっと正確に、もっと勇敢にその本拠をつかなくてはならないのであります。勝って兜の緒を締めよという意味は特にここにあるのであります。防諜の本義がここにあることも言うまでもありません。

以上は一般論でありますが、ここになお戦時下に特に注目すべきユダヤ勢力の侵寇に関して具体的な場合を、外よりする場合と内よりする場合とに分けて、二三述べておき度いと存じます。

先ず外よりの侵寇でありますが、それが米英のみならず中立國等を利用してのわが國銃後撹乱策であることは申し上げる迄もありません。しかしかような一般の場合はこの講演の使命外であると考えますので、私としてはそんな点は論じないことに致し度いと存じます。また占領地等に於て、例の「時が微笑むものには結びつくべし」という指示に従って幾千年の訓練を得たユダヤ式の偽装によって協力を粧って(よそおって)来るものがありましょうが、これはフリイ・メイスン秘密結社の厳重な検察その他によって峻厳すぎる程峻厳な処置を講じても決して行き過ぎではないのであります。國内に於ても最近の共産派の検挙によっても判明致しますように、ユダヤ的原理は偽装をその本領とするとも言えるのでありますから、なかなか油断がならないのであります。

しかし戦線方面のことは当局に信頼致すことに致しまして、我々ユダヤ問題研究者として特に銃後の問題として注意致さねばならないのは、前からその蠢動[2](しゅんどう)はありながらも、最近に至って特に著しく地下的動きを示しつつあるかに見える日猶同祖説であると存じます。これは小谷部とか酒井とかいう一見日本主義的側面を有するかに見せる親猶主義者、否、拝猶主義者、及びその亜流が意識的及び無意識的に説いたのが代表的なものでありまして、その日本主義的偽装にたぶらかされて、無批判且つ軽薄な日本主義者の一部分にも帰依者を有するようでありますが、何れも何等かの連絡でユダヤと近接関係にある者のユダヤ的偽装術にひっかかっているのでありまして、時としては不敬罪をも犯して平然たる所のある非國民が多いのであります。英國が現在のようにその貴族の血に至るまでがユダヤの血によって汚されるに至った原因の一つは、たしかにかの英猶同祖説のためでありまして、この点については他日研究を発表致し度いと思いますが、ユダヤの他民族侵寇の手の一つがこの〇猶同祖説なのであります。遠大なユダヤの策謀は、時としては唯物主義的、自然科学的研究のみを事実として承認する類似ユダヤ主義者を迷わせて旧約の風俗その他を利用させたり、或いは空想以上に無根拠な言霊(ことだま)学などを盲信して、日猶同祖説を説くようなことをさせるかも知れないのでありますが、それは人間の眼が二個である限り、また人間の声音機関が日本人に於てもユダヤ人に於ても大差のない限りは、先入主を以て類似点のみを探査する場合にはあらゆる場合に成立する同祖関係論でありまして、この種の親猶主義者に特徴的であるのは、類似さえあれば爪の垢ほどのことも重大視しながら、差異のある点は如何に重大な事であっても決して考慮に入れないことであります。誠に情ないほどの幼稚な無批判さでありますが、先入主の力は実に大きいものでありますので、我々としては特にユダヤ魂の本質を明らかにしなくてはならないのであります。如何に末葉のことが類似していましても、上述のような次元に住むユダヤ人が我々と同祖である筈はないのであります。或いは全人類創成の頃に遡って申しますならば、或いは日猶も同祖でありましょう。然しこれは全人類が同祖であるということに外ならないのでありまして、そのうち特に日猶関係のみを取り上げる理由はないのであります。ユダヤ問題に正確な批判を持つためには、些細な事実に拘泥する唯物論実証主義の立場のみに止まらないで、正しい理想と正しい思想とを持ち、真の日本的自覚に立たねばならないのであります。

以上で外部からの侵寇の問題を終り、内からの侵寇の問題に移りたいと思います。否、よく考えて見ますと、既に同祖説が証しますように、実際に於ては侵寇には内外部の差はないのでありまして、これから注意致しますことも勿論単なる内部的問題ではないのでありまして、ただ策謀の根源が主として内部にあると言うにすぎません。その第一として申し上げ度いのは、ユダヤ利用説でありまして、占領地の開発その他にユダヤの金力を利用しようというのがその代表的なものであり、唯物論的な物の見方を卒業できない十九世紀主義者には極めてしばしば見られる議論であります。しかしユダヤの金が本質的に見て如何にして蓄積された富であるかを我々の説いた所から了察する事の出来る人は、かかる汚らわしき金を利用することが我々としては死に価する屈辱であり恥辱であるのを直ちに感得するのが出来ると思うのであります。唯物思想に毒されて、「武士は食わねど高楊枝」という言葉を軽蔑したことも我々の過去にはありますが、今や我々はかかるユダヤ的米英的立場を根本的に超克して、正しい日本武士道の伝統に帰らねばならないのであります。

次に一言致したいのは既に論及したこともある通りの時局乗便(便乗)の徒についてであります。殊に注目すべきことは、偽装をその本領とするマルクス主義者の國内のみならず、戦線へまでの進出及び跋扈(ばっこ)でありまして、これは支那事変最初から屡々見られました通りに、なかなか油断の出来ないことなのであります。元来赤色系であった言論機関が名目も当事者も何の変更もなく存在しておりますのを見るにつけましても、この点は大いに警戒を要するのではないかと思います。殊に米英資本主義國を倒すかに見える今次大戦の外面的相貌は、ユダヤマルクス主義者にも立働く領域を残しておりますから、一層彼等の偽装時局便乗は巧妙に行われるのであります。しかし今次の大戦がかような赤化主義的な意図を以て戦われるとすれば、それは全く無意義なのでありまして、この点は以上申上げましたことからも、恐らく御了察願えたかと思うのであります。長らくなりましたので、これで失礼いたします。(一七・二)

 

[2] 蠢動:虫などがうごめくこと。転じて、取るに足りない者が策動すること

 

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