ドイツ悪玉論の神話085

マーティン・アランは、自身の著書「ヒトラー・ヘスの欺瞞(The Hitler Hess Deception)」(Harper Collins 2003年)でヒトラーの法律顧問、ルートヴィヒ・ヴァイサウアーを引用している。ヴァイサウアーによると、独逸はフランス侵攻の間にヴァイサウアーの知り合いだったスウェーデン最高裁判事、エーケベリを通じてスウェーデン英國大使ヴィクター・マレットに接触した。エーケベリは英國大使に「ヒトラーは、白色人種の将来に責任を感じている。彼は、心から英國との友好を望んでいる。彼は、平和が維持されることを望んでいる...」と伝えた。

ヒトラーが申し出た和平の条件:

  1. 大英帝國はその全ての植民地と委任地を維持する。
  2. 独逸の大陸に於ける優位性(支配権)には、反論しない。
  3. 地中海とフランス、ベルギー、オランダの植民地に関する問題は交渉する。
  4. ポーランドポーランド國家は存在すべきである。
  5. チェコスロヴァキアは、独逸に帰属する。

エーケベリは、この和平提案で暗示されているのは、独逸に占領された全ての欧州の國家はその主権を回復すると理解した。これら國家の独逸による占領は、本質的に防御的であり、そして独逸に対する軍事的脅しの結果であった。

 

チャーチル:戦争を愛する者

ラルフ・レイコ博士は、1997年の「チャーチル再考」と言う論文で書いている。
「しかし、ウィンストンには、原理と言うものがなかった一方で、彼の人生における不変があった、それは戦争への愛。それは、早くから始まった。子供の頃、彼は、1500体にも上るおもちゃの兵隊の巨大な集積を持っていて、大抵の少年がおもちゃを別のものに変える時期になってもそれで長年遊び続けた。彼らは「全員英國兵だ」と言い、「彼は弟のジャックとそれで戦闘を戦った。ジャックは、色付きの兵隊しか持つ事を許されず、また、色付きの兵隊は、大砲を持つことを許されなかった。」彼は、大学ではなくサンドハーストに入学した、そこは陸軍士官学校で、「その時からチャーチルがサンドハーストを去る迄、(中略)彼は、どこで戦争が起きていても戦いに入る為に全力を尽くした。彼は人生の全てにおいて最もわくわくした(中略)、戦争のみに興奮したのだった。近代の人間は殆ど愛さなかったけれども彼は戦争を愛した。彼は、自分がそう呼ぶ「バンバンと言う音を愛しさえした。」そして彼は、砲火を受けている時でも非常に勇敢だった。チャーチルにとって、戦争のない年月は彼に「平和で平凡な穏やかな空」以外、何も供しなかった。」

1911年、チャーチル海軍大臣となり、適所を得た。彼は手早く政府内の戦争好きを捜し出し、第一次大戦の準備(宣伝)期間には、常に戦争を煽り続けた。チャーチルは、内閣で最初からずっと戦争を支持したただ一人の閣僚で、しかも本當に熱心にしたのだった。アスキス首相は、彼について書いている。「ウィンストンは、非常に好戦的で即刻の動員を要求していた(中略)出陣の用意が出来ているウィンストンは、朝の早いうちから海戦とゲーベン(独逸戦艦)の沈没を心待ちにしていた。この全てが私を悲しみでいっぱいにするのだった。」

第一次大戦中、独逸の周りに飢餓の封鎖を確立したのは、チャーチルであった。そのような事は國際法の違反であったにも拘らず、それは、戦争が終わってからも7か月近く維持され、結果として100万人近くの独逸の民間人が飢え死にした。しかし、人類が戦争による恐怖状態を限定しようとした國際法や協定など、チャーチルはその経歴を通じて全く意に介さなかった。彼は、異様にも、罪なき人々の大量死にも動じず、古代の文化の中心が破壊されることにも動じなかった。それは彼の気まぐれのなせる業だった。チャーチルは、躁鬱病患者で、鬱が発病している間は、「黒い犬」と呼ばれていた。彼は激しい戦争で活躍したが、普通の人の事は殆ど気にしなかった。これは、精神病質者(気違い)の古典的定義である。

フェビアン協会の共同設立者であるベアトリス・ウェッブ男爵夫人は、晩餐会でチャーチルの隣に座った。彼女は、「第一印象:落ち着きがない、殆ど我慢できないほどに。(中略)利己主義、傲慢、軽薄で反動的、しかし、ある種の人を惹きつける力(中略)英國の貴族と言うよりは寧ろ米國人投資家。専ら自分自身の事と選挙運動の計画だけを話す...」と書いている。

チャーチルがルシタニア号の沈没を策動したことは、ほぼ確実である。それは米國第一次大戦に参戦する引き金となった。

今は権力の座に返り咲き、首相としての第一日目、1940年5月10日、チャーチルは無防備な大学の町、フライベルクの空襲を命令し、独逸の民間人を多数殺した。フライベルクの空襲には軍事的目的は何もなかった。フランスが陥落した後、チャーチルは航空機製造大臣のビーヴァーブルック卿に「ちょっと見回して、我々が如何にして戦争に勝てるか、考えてみると、たった一つ確実な方法は、(中略)この國からナチの祖國への重爆撃機による完全に破壊的な殲滅攻撃だ。」と書いている。(強調付加)

ヒトラーにより、ダンケルクの贈り物を与えられながら、チャーチルはそれを認定する事すら拒否し、それどころか、ダンケルクの海岸から英國へ帰還した英軍撤退を英海軍が英雄的奇跡をやってのけた様に塗り替えたのだった。彼は、戦争を続けて行く決断の中で、これまでになく好戦的になったのである。

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ドイツ悪玉論の神話084

英仏のベルギー防衛計画は、アントワープリエージュの間の要塞の列に留まる事であった。これらの要塞が既に侵攻の第一日目に独逸の空挺部隊によって攻略されていたことに気づかず、英仏の軍隊は、5月13日に自分たちが攻撃されている事に気づいた。同時に、連合國の完全な意表をついて、第二の南の独逸軍がアルデンヌの森から現れた。続く二、三日に亙って、連合國の主力部隊は、二つの独逸部隊の間に挟まれ、パリを守ることも、独逸軍の英仏海峡への進軍を止める事も出来ず。閉じ込められた。その時、南からの独逸軍が仏英両軍の間に動いたため、連合軍は分散し、そして更に弱体化した。連合國のベルギー防衛は、疑う余地のない災難となった。

 

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アルデンヌの森から現れた独逸軍戦車


フランスの主力部隊が独逸軍の二つの部隊の間で立ち往生する一方で、英國の遠征軍はフランスの港町ダンケルク付近の海岸まで出た。20万人の英軍と14万人の仏軍、合わせて34万人がダンケルクの海岸で、迫りくる独逸軍にとっては格好の標的として立ち往生していた。

英國遠征隊が海を背に追い詰められ、仏軍と再合流できる見込みもなく、英政府は、遠征隊を撤退させることを決定した。撤退は、ダイナモ作戦と呼ばれ、1940年5月27日に始まり、作戦完了にたっぷり一週間かかった。民間と軍の船、合わせて800艘以上を投入し、独逸空軍の絶え間ない攻撃の中、34万人すべての将兵英仏海峡を渡って英國の地に送り戻した。ダンケルクの撤退は、英國の歴史上、最も英雄的な出来事の一つとして伝わって来た。少なくともこれが公式な話となっている。しかし、実際の話は、幾分異なっている。

 

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ダンケルクの海岸で立ち往生する英仏軍の部隊


眞實の話は、独逸機甲部隊がさっと降りて来てダンケルクの海岸で守りようもなく立ち往生している英國の全軍の塊を滅ぼすか、捕虜にすることが出来たまさにその時に、アドルフ・ヒトラーが、独逸軍機甲部隊を止めたのだった。もしそうしていたなら、英國はそれから後、独逸の侵攻に対して無防備となり、西部戦線の第二次大戦は終わっていただろう。

しかし、ヒトラー英國陸軍を滅ぼしたくなかった。彼は、ただ、英國との和平と友好を望んだのだった。1948年に発行され、フランス侵攻とダンケルクの出来事を取り扱った「丘の向こう側(Other side of the Hill)」の中で、英國の軍事歴史家、ベイジル・リデル=ハート卿は、ヒトラーの停止命令を懸念した独逸のフォン・ブルーメントリット将軍の言葉を引用している。

「彼(ヒトラー)は、大英帝國、その存在の必要性と世界に英國がもたらした文明への尊敬を込めて話し、我々を驚かせた。彼は、肩をすくめて、その帝國の建設は、度々苛酷な手段により成し遂げられたものだが、「かんな掛けをすれば、削りくずは飛ぶ」ものだ。彼は、どちらも世界の安定に重要な要素である、と言って、大英帝國をカトリック教会に擬えた。彼は、自分が英國に望むことは、大陸における独逸の立場を英國は認めてくれるべきで、それだけだ、と言った。独逸の植民地の返還は望ましいが、重要ではないし、英國がどこかで困難に巻き込まれた場合、英國を軍事支援する申し出さえ、するだろう。」

ダンケルクの奇跡」は実のところ、途方もない英國への和平提案だったのである。

ルー・キルツァーは、著書「チャーチルの欺瞞(Churchill's Deception)1994」の中でヒトラーを引用している。「英國人一人一人の血は流すには尊すぎる。我々二つの國民は人種的にそして伝統的に同族である。譬え我々の将軍たちがそれを理解することが出来なくても、それが、私の目的であり、これまでもずっとそうであった。」-アドルフ・ヒトラー

キルツァーによると、ヒトラー英國に和平の説得を試みた。ヒトラーは、英國との和平の交換条件として、フランスから撤退し、低地帯から退却し、ノルウェーデンマークから退却し、ポーランドの大部分も放棄する事すら提案した。ヒトラーは、ボルシェヴィキのロシアと戦うために英國との同盟を望んだ。

英國の歴史家、デイヴィッド・アーヴィングは、その著書「ヒトラーの戦争」の中で、著名な探検家でヒトラーを知っていたスヴェン・ヘディンを次のように引用している。「ヒトラーは、何度も何度も英國に和平と友好の手を差し伸べた、と感じた。そして、その度に、お返しに彼の名誉尊厳を損ねた。」ヘディンによると、ヒトラーは、「大英帝國の生き残りは我々独逸の利益でもある。何故なら、英國がインドを失っても我々は何も得るものはないからだ。」と言った。

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ドイツ悪玉論の神話083

第二十章 独逸が低地帯からフランスを占領 いかさま戦争の終わり

5月10日、チャーチルが首相となった同じ日、独逸はベルギー、オランダ、ルクセンブルグをフランスへの唯一の作戦可能な通り道として占領した。フランスは独逸の優先的目的地であった。これもまた、先制攻撃として見なければならない。と言うのは、英國は既にこの時までに非常に多数の将兵をフランスに送り込み、英仏合わせて50万人の陸軍が独逸占領の為に組織されていた。独逸への宣戦布告以来、英仏はどちらも独逸への総力戦に備えて、気も狂わんばかりに軍事力の増強を続けていた。独逸は、と言うと、以前に論じた通り、英仏との戦争を避けようと試み、ポーランド戦争が終わった後、両國に対して正式に和平提案すら行っていたが、即座に拒否された。英仏は独逸の和平提案を拒否しただけでなく、更に仕掛け、独逸に対して大西洋の戦いとして知られる、容赦のない海戦を始め、独逸の港の封鎖もしていた。連合國の軍備増強の準備が出来たら、すぐに陸戦による独逸攻撃がこれに続くことは明白であった。

 

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フランスのマジノ線


独逸はどうすべきだったのか、どうする事も出来ずに避けようのない占領を待つべきだったというのか?ヒトラーは、再び、機先を制し、5月10日の低地帯の占領とフランスへの急襲によって彼らの先を越したのだった。フランスの難攻不落のマジノ線は独仏國境からの独逸の占領を阻止したが、マジノ線ルクセンブルグ國境までしか伸びていなかった。フランスとベルギー、フランスとルクセンブルグの國境は、英仏海峡に至るまで強化されていなかった。フランスへの侵攻はマジノ線を除けて行かねばならず、ただ一つの使える経路、それは、オランダ、ベルギー、或いはルクセンブルグ(低地帯)を通してであった。やはり、ヒトラーの先制は、本質的に「反応性」であり、本質的に「攻撃的」の逆で「防御的」であった。全てのヒトラーの軍事先制は、この本質によるものであった。つまりすべて連合國側の挑発か、連合國の脅しの結果であった。チャーチルに率いられた英國は、最後までずっと挑発的であった。

首相に就任してから三日後、つまり、同じく独逸が低地帯を侵攻してから三日後、チャーチルは、英國下院で演説し、彼の「感傷的低俗劇(メロドラマ)」の様な「血と汗と涙」演説を行った。この演説の中で彼は、英國の戦争目的を「勝利、どの様な代償を払っても勝利。全ての恐怖にも拘らず勝利。勝利、どんなに長く険しい道となろうとも、何故なら、勝利なしには生き延びられない。」と宣言した。チャーチルは、アドルフ・ヒトラーが沢山の和平提案を英國にしていた事実、何度も大英帝國への尊敬を表明していたこと、大英帝國が必要であれば、独逸の軍事顧問を提供する用意がある事、それに、何度も英國と友好関係を樹立する試みをしたこと、それらすべてが(英國に)はねつけられたこと、を故意に無視したのだった。独逸は、英國に対して悪だくみなどは全くなく、それどころか、何よりも戦争を避ける事を願っていた。更に思い出してほしいのは、独逸に宣戦布告したのは英仏であって独逸が宣戦布告したのではない。独逸のノルウェー占領、同様に低地帯の侵攻は、実際には本質的に防御的であったが、チャーチルと彼の「開戦派」は、これらを独逸の世界征服計画の究極の証拠であるとして挙げた。彼らはそれを信じさえした可能性がある。チャーチルの人生の夢が遂に叶ったのである。彼は、今や英國の首相で、彼の作り上げた運命を成し遂げ、大英帝國を戦争の勝利に英雄的に導いていた。独逸との和平は、彼の心からは最も遠い事であった。

1940年5月10日、独逸の爆撃機は、フランス、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダの空軍基地を爆撃し、連合國の飛行機を多数地上で破壊し、連合國の対空防衛を麻痺させた。独逸空挺部隊の精鋭が前線に沿った連合國の強化拠点に降下し、フランスの防衛戦略の重要拠点を無力化した。

地上では、独逸軍は二手に分かれて進軍した。一つは、オランダとベルギー北部を通過する経路(英仏が見込んだ通りのもの)、そして、もう一つは、大軍を南に、ルクセンブルグとアルデンヌの森を通ってフランスの心臓部に直接至る経路(これは完全に意表を突くもの)であった。アルデンヌの森を通って南から進撃する独逸軍に気づかないまま、英仏は大部分の軍をベルギーに送った。

攻撃の第一日目は、独逸のブリュッセルとハーグに向けた進軍は、オランダ軍による手ごわい抵抗により、思いがけなく遅くなった。5月14日、オランダ軍が降伏を拒否した時、独逸空軍は、ロッテルダムの中心部に大空襲を行うために飛び立った。オランダが急に交渉に応じた時、爆撃機を呼び戻す努力が為されたが、二、三人の独逸の飛行士しか帰還命令の伝言を受信できなかった。残りの爆撃機は作戦を続け、街を空襲し、800人の民間人が犠牲になった。オランダは、同日、降伏した。

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ドイツ悪玉論の神話082

ノルウェーデンマーク作戦

英仏が1939年9月に独逸に宣戦布告した時、ノルウェースウェーデンデンマークフィンランドは、即座に中立を発表した。そうする事により、これらスカンディナヴィアの國々は、19世紀半ば以来彼らが採って来た政策を引き継いだ。それに呼応して独逸政府は、公式にノルウェーの中立を尊重することに合意したが、それに付け加えて、第三者(勿論英國である)によるノルウェーの中立の侵害は、黙認しないとした。

独逸の経済は、スウェーデンから輸入する1100万トンの鉄鉱石に頼っており、そのうちの約半分は、ノルウェー不凍港、ナルヴィクを通過した。ノルウェーが中立である限り、独逸の鉱石船はナルヴィクから独逸まで安全に航行でき、残りのノルウェー領海内は、ノルウェー東海岸に点在する無数の島々を通ってゆっくりと航行できた。この様にして英國海上封鎖による妨害を受けなかった。しかし、1940年2月16日のアルトマルク号事件 -ノルウェーの軍艦が立ち会う中、ノルウェー領海内で英國駆逐艦が独逸のタンカー、アルトマルク号に乗り込んだ事件- は、ノルウェー英國の断固とした強硬さに直面して中立を維持できるかに関してヒトラーが疑いを抱く原因となった。

ノルウェーの國家社会主義党の代表は、独逸の同調者のヴィドクン・クヴィスリングであったが、彼は、何度も英國ノルウェー占領の意図を独逸に警告していた。英國ノルウェー占領、それは、容易くスウェーデンに拡大可能で、そうなると、独逸にとって不可欠な鉄鉱石の供給を完全に遮断し、そうして、独逸の工業生産を酷く損傷するだろう。海軍大臣としてウィンストン・チャーチルは、公然とノルウェーの占領を提案していたが、チェンバレン首相は、チャーチルと比べ戦争には全然熱心ではなかったので、その問題について未だ決断できずにいた。1940年4月8日、海軍大臣としてチャーチルは一方的に独断で独逸への鉄鉱石の輸送を封鎖するために、ノルウェーの沿岸を機雷封鎖する命令を下した。これは、ノルウェーの中立へのあからさまな侵害であり、そして、独逸に忍耐できない脅しをする事であった。

独逸は、そのような不測の事態への緊急時計画を策定しており、それが起こると、素早く反応した。4月9日、チャーチルノルウェー沿岸の機雷封鎖命令をした翌日、独逸軍は、デンマークにどっとなだれ込み始め、驚いてすぐに降伏したデンマーク軍を圧倒した。独逸は、同時進行でノルウェーを占領するためにデンマーク北部の空港が必要であったためにデンマークを占領したのだった。

 

独逸のデンマークノルウェー占領

兵士を積んだ独逸の輸送艦は、独逸空軍の護衛を伴って、即刻オスロへと出港した。また、独逸空挺部隊ノルウェーの飛行場に降り立った。空挺部隊は、急いでオスロの周りの全ての飛行場を掌握し、独逸の飛行機がなだれ込んだ。一方で独逸海軍がナルヴィクを含むノルウェーの沿岸の数多くの場所で上陸した。独逸の占領が始まると即座にノルウェー國家社会主義党の代表で独逸同調者のヴィドクン・クヴィスリングが、自分が政府の首脳であると宣言し、ノルウェーの軍部に抵抗を止めるように命令したので、独逸の上陸は殆ど抵抗なしに行われた。作戦全体が、何の障碍もなく為され、それは、独逸の軍隊統率の腕と質を そして、独逸の軍人の能力と士気を証明するものであった。

 

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デンマークノルウェー占領の地図

 

 

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ノルウェー行きの飛行機に搭乗する独逸軍兵士

 

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ノルウェーに上陸する独逸軍兵士

 

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ノルウェーに入る、兵士を載せた独逸空軍の輸送機

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独逸軍を歓迎するノルウェー國家社会主義 労働者党の代表、ヴィドクン・クヴィスリング

 

                 ********

しかし、海の戦いは少々違った展開だった。最初の独逸の損害はノルウェー軍が沿岸防衛砲台から近距離射撃をしたオスロフィヨルドで起こった。海上での初日の朝、独逸の重巡洋艦ブリュッヒャーが沈められ、殆どの乗組員も戦死した。もう一隻の巡洋艦も損傷し、また、独逸の魚雷艇も沈められた。ナルヴィクでは、4月10日に英独の海軍の交戦で二隻の独逸軍駆逐艦が沈められ、他に5隻が重度の損害を受けた。英國もこの交戦で二隻の駆逐艦を失った。

三日後、戦艦、空母各一隻と数隻の駆逐艦からなる英國海軍が残りの独逸軍艦を海と空からの攻撃で破壊した。この海軍の大損害にも拘らず、二千人の独逸兵士が上陸し、ナルヴィクを掌握した。英國も兵士を上陸させ、あちこちで独逸軍と衝突したが、どこの拠点でも敗北した。結局英國は退却を余儀なくされ、そしてノルウェーから完全に撤退した。1940年6月10日、ノルウェーは、降伏して独逸の支配下に落ちた。独逸はこうして途切れることのない鉄鉱石の供給を確保したが、ノルウェーの占領は、同時に独逸のそのむき出しになっている北の側面を連合國の占領から守ることにもなった。

 

チャーチルチェンバレンに替わって首相となる

ノルウェー作戦の一番重大な犠牲者は、ネヴィル・チェンバレン首相であった。英國ノルウェーでの大損害は、問題をどうすべきかについて決定する5月7・8日に行われた二日間に亙る議会の議論を巻き起こした。この議論で、ずっと戦争を声高に主張してきた主戦論者がチェンバレンを優柔不断と決断力不足、それに「ヒトラーに立ち向かう」には弱すぎる、として責任を問い質した。彼は、全ての作戦は、専らチャーチルの手になるものであったにも拘らず、そして、誰かに責任があったとすればそれはチャーチルであるべきところ、ノルウェーでの大失策の責任を負わされた。(チャーチルの経歴は全て、実際にはこの様な軍事的失策の連続として記録されるものであった。)議論の中で、チャーチルとその支持者により、戦争ヒステリーの空気が作られ、そして、「独逸は阻止されるべきだ!」という決議が為された。チャーチル主戦論者は、独逸のデンマークノルウェーの占領を 既に繰り返し警告してきた通り、更に反論する余地のないヒトラーの世界征服計画の証拠だと位置づけた。現実には彼らの警告は自己充足的予言に過ぎなかったのだが。英國は容赦のない扇動者であった。独逸の軍事先制は、全ての場合に於いて本質的に「反応性」のものであった。独逸は、デンマークノルウェーも占領などしたくはなかったが、英國がそれを計画したために、そして英國に拠るノルウェーの中立侵害が理由のみで、そうしたのである。独逸の生命線である鉄鉱石の供給は、どの様な犠牲を払っても守らなければならなかった。更に、独逸の封鎖を主導したのは英國であり、逆ではなかった。

この議論の結果、「独逸は阻止しなければならない」という事が一般に広く決議されたが、同時に、それをする人間はチェンバレンではない、という事も合意した。議論の最後にチェンバレンは、不信任の評決を受け、それに続いて、首相の座を降りた。次の日、ウィンストン・チャーチルが彼に替わり、全ての政党を含めた連立挙國一致政権を作った。チャーチルは、全ての政党は戦争遂行を支援して共に取り組まなければならないと力説した。「開戦派」が、遂に今、運転席に座った。

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ディープステートについての考察00

~Jeremy Stone 「ディープステートの歴史」を読んで~

ディープステートの定義

「『ディープステート』と言う用語は、内部にある異国であり、独立して機能し、我々の主権の存する「国民国家」に真っ向から反する政府と言う意味である。この種の「影の政府」は内部にあってしかも異国人なのである。何故ならその構成員はほぼすべての合衆国政府部署の中で現に機能しており、彼らは異国人なのは、彼らが以前の政権から埋め込まれた間諜活動をし、そもそもが我々の国家を弱体化する試みの中で敵対する外国政府に引き入れられ、究極の目標は我々の国民国家を世界唯一の共産主義国家に入れ替える事だからである。」

                        ―ジェレミー・ストーン

と、ストーン氏はその著書の中で述べています。果たしてそのような概念・団体が実際に存在可能なのでしょうか? 

端的に、答えは「可能なのです。」

では、そいつらは、どのようにして自分たちの指令をその「国民」に伝えるのか?どのようにして「国民」を教育するのか?どのようにしてその「国民」を律するのか? と言う疑問が直ぐに浮かんでくると思います。この答えは、意外にも簡単で、国家の仕組みのある部分を抑えれば、相当程度に自動的に出来るものなのです。

この時点で、「貴様はとんでもない陰謀論者だ。そのような組織的な実体のないものがこの社会に存在できるはずがない。」と思われるようでしたら、ここから先は、幻想の世界ですので、お読みにならずにお幸せに目覚めることなく、お過ごしください。

ディープステートの構成要素

 WGIP(戦争贖罪意識情報工作)に目覚めた日本人なら上述の謎掛けの殆どは答えが分かってしまったと思われます。

ここで、仲の良い家族が居たとします。祖父母は優しく、父は厳しいが常に家族のことを第一に考え、家族の安全を慮っています。そして、母は良妻賢母で、子供たちと家の面倒を毎日こまめに見ています。子供たちも祖父母を尊敬し、父母の言うことをよく聞き、学業を一生懸命修めています。

そして、貴方はこの家族を隣人としていつも羨ましく妬ましく思っているのです。

貴方はこの家族を壊す為に、どの様な陰謀を企てるでしょうか?

これは、既に日本が戦後、アメリ共産党によって為されたことですので、今更考えるまでもないことですので、次に挙げましょう。

・祖父母を貶める。(天皇陛下の所謂「人間宣言」ですね。)

・父を貶める。(実は親爺さんは戦争で罪もない無抵抗の人を殺した人殺しだ、と子供に吹聴する - 「南京大虐殺」ですね。)

・母を貶める。(奥さんの身持ちについて不審があると、ご主人にそれとなく仄かす - 「慰安婦問題」ですね。)

・子供を騙す。(学校で習っていることは嘘だ、と言いくるめる - 「教科書の墨塗り」ですね。)

・子供を唆しておカネを貸し与え、それをネタに恐喝する。或いは、儲け話を吹っ掛けて父母を破産に追い込み、おカネを貸す。(戦後の賠償問題と世界銀行IMF による日本への投資ですね。)

・自分の意を受けた他人をその家族の家に下宿させる。(移民政策ですね。所謂「第三国人」の特権を与えて朝鮮人を暴れさせた政策ですね。)

そして、これらを絶対に忘れないようにそれを制度化するのです - 日本国憲法教育基本法東京裁判GHQ による報道検閲・焚書、外国人反国家勢力の潜入ですね。

 つまり、構成要素とは、

・國體の弱体化(米國の場合、特に憲法の死文化或いは曲解となりますね)

・司法の乗っ取り

・教育の乗っ取り

・メディアの乗っ取り

・経済の(外国人による)乗っ取り

・外国人反国家勢力の潜入

これらが入り乱れて構成されているのが、つまり、ディープステートなのです。

 

では、次回からこの様な仕組みがどの様にして成立し、それが、どの様にして國を乗っ取って来たかについて、私なりにこの本から理解したことを引用しながら述べていきたいと思います。

なお、この連載は、毎日、と言う訳には参りません。一週間に1~2度になると思いますが、是非、読んでいただければ幸甚に存じます。宜しくお願い申し上げます。

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ドイツ悪玉論の神話081

第十九章 いかさま戦争

西洋文明の未来は、独逸と他の欧州諸國、とりわけ独逸のアリアン従姉妹、英國米國との緊密な協力に依存すると、ヒトラーは確信していた。ヒトラーにとって、実在する西洋文明の大きな脅威は、共産主義ロシアであり、彼はそれを猶太人の世界への野望の基地と見做していた。彼は、まだ若い頃、政治を志した當初にこの結論に達していた。彼は、ボルシェヴィキ猶太人がロシアを掌握し、赤色テロルを開始する様子を見ていた。彼はまた、猶太人に指導された共産主義革命が欧州全土で突発し、それがロシアに根差すコミンテルンにより、組織され、資金援助されており、また、國際猶太金融に支援されていることを見た。彼は、反共主義者として独逸の政権に就き、共産主義と闘い、キリスト教の欧州を席巻しようとした猶太人共産主義の大波から欧州を守る防波堤に独逸を育て上げることを人生の使命と観たのだった。彼は、あらゆる試みをして英國との同盟を作ろうとし、米國とも友好関係を持とうとしたが、彼の提案がどの時点でもにべもなく拒絶されたことにがっくりした。彼は、共産主義ロシアによって西洋文明に投げかけられた脅威が、自分にとって明らかであったようには、米英の指導者に明らかでなかったことに非常に懸念し悲しんだ。

ヒトラーは、独逸が最後には共産主義ロシアと戦争する事になるのを不可避であると観ていた。それは、するしないの問題ではなく、いつするか、の問題であった。ソヴィエトの指導者も同じ心持だった。ヒトラーは、共産主義ロシアが、そんなに先の未来ではなく、ソヴィエトがそうするのに充分力があると感じた時に、独逸を手始めに欧州を占領すると確信していた。ソヴィエトロシアに根差した國際共産主義コミンテルン)は、既に本書の前の章で述べた様に、猶太人に導かれた共産主義革命を独逸も含め、欧州各國で唆したが、すべて失敗した。ボルシェヴィキは、欧州を支配するについて何ら気が変わっていない。ソヴィエトの軍隊に依る明らかな占領は、當然次に起こる、と言うあらゆる兆候があり、しかもそれは、恐らくしばらくたってからではなく、早い段階で、である。その日が来た時、ヒトラーが何よりも望んだのは二正面戦争を避ける事だった。ヒトラーは、その観点のみから、類似の状況を避ける為、他の西欧列強、とりわけ英米との友好関係の構築と維持に非常に積極的に取り組んだ。しかし彼は同時に他の欧州諸國とも良い関係を望んでいた。何故なら彼は、それらの欧州諸国は全て、各々に、独逸同様、無神論的猶太人ボルシェヴィズムに取り囲まれた、西側キリスト教文明の重要な要素であると考えていたからだ。ヒトラーが一番望んでいなかったのが英仏との間の戦争であった。ピューリッツァー賞受賞の著述家、ルー・キルツァーは、その著書「チャーチルの欺瞞(Churchill’s Deception)Simon & Schuster 1994」で確証として、「ヒトラーは世界大戦など望んでいなかったし、英國と闘う肚などなかった。」と書いている。しかし、英仏における強大な力が、独逸との戦争を望んでいた。

英仏は、ポーランドに干渉できる立場になかったが、彼らは時を置かずに、独逸に軍事行動を仕掛けて来た。英仏が独逸に宣戦布告した次の日(1939年9月3日)、英國空軍の爆撃機が独逸の戦艦をヘルゴラント湾(エルベ川が北海に注いでいる処)で爆撃した。9月7日にはフランスが40部隊を以てライン川沿いに入り、ザール攻撃を仕掛けたが、本気ではなく、攻撃は、取るに足らない数回の小競り合いがあっただけで、ジークフリート線で知られる独逸の防御線の少し手前で止まった。独逸軍はポーランド戦線に集中しており、反撃には出なかった。独逸のポーランド占領には、何ら軍事反攻は無かった。そして、種々の名前で知られる幕間(戦闘停止期間)が始まった。米國では、Phony War(偽の戦争)、英國ではTwilight war(夕暮れ戰爭)、独逸ではSitzkrieg(いんちき戰爭)と呼ばれ、1939年の9月に始まり、1940年4月まで続いた。場合によっては、状況は殆ど休戦に思われた。陸上では何も起こらなかったが、大西洋の戦いとして知られるようになる残忍な海の戦いは進行中であった。英國の大きな強みはその海軍にあったが、それにフランスを伴い、独逸との如何なる出入りの海運も排除する海軍による完全な封鎖を即座に整えた。これは、第一次大戦の、独逸に飢餓を起こして屈服させた、完全封鎖に似ていた。独逸は、潜水艦の戦力を以てこの封鎖に報復した。

大西洋の戦いの最初の一発は、1939年9月3日、独逸のUボートが、アイルランド沖で英國の客船アセニア号を沈めたものである。仏英が独逸に宣戦布告した時、ヒトラーは未だ、外交的な解決の希望を持っていた。彼は、ポーランドの戦いが完了して問題が再び落ち着いたときに仏英に戦争を思いとどまらせることが出来るかもしれないと信じていた。その為、彼は、如何なる挑発も避けたかったので、Uボートが軍の艦船以外の船を攻撃する事に対して厳しい命令を発していた。不運な事にUボートに沈められた初めての船が客船のアセニアであり、それはヒトラーの命令に背くものであった。ヒトラーが予期した通り、これは、連合國のみならず、中立國の間にも憤慨を生んだ。アセニア号の撃沈は、第一次大戦と同様に、独逸が無差別の潜水艦戦争を意図しているという間違った印象を与えてしまった。しかし、撃沈は夕闇の中、視界が悪いときに間違って行われたものであった。Uボートの司令官はアセニアを戦艦と信じていた。ヒトラーは激怒したが、損害は為されてしまったもので、潜水艦の司令官にはお咎めは無かった。

9月18日、別の独逸潜水艦が英國の空母カレイジャスをスコットランド沖で沈めた。

1939年9月27日、ポーランドでの戦争が早くも終わった時、ヒトラーは、英仏に和平提案をしたが、どちらからも拒否された。今やチャーチル海軍大臣として英國政府に戻っており、公然と、対独総力戦を声高に叫んでいた。チャーチルは独逸のポーランド占領を以って、自分が「ナチス」の世界征服計画についてずっと警告していたことの正しさの証明と考えていた。勿論、前章で述べた様にヒトラーにはそのような意図はなく、西欧の國家に対する如何なる計画も持ち合わせていなかった。しかしながら、チャーチルとダフ・クーパー、ハリファックス閣下、アンソニー・エデン、ロバート・ヴァンシタート、そして猶太人支配の新聞を含む彼らの戦争屋仲間は、戦争ヒステリーを急いで作り上げるのに突貫工事中なのであった。

いかさま戦争の間、連合國の戦略は、陸地では防御態勢の一方、独逸の経済を弱体化するために海軍の海上封鎖を維持し、相當な英國の遠征部隊をフランスに送り込む事であった。ベルギーとオランダは、戦争にはかかわらないことを決めた。彼らは、厳格な中立を維持し、英仏からの軍隊の進駐の圧力に屈する事を拒否した。

10月8日、Uボート三隻が英國に沈められ、10月13日には更に一隻が沈められた。10月14日、報復に独逸のUボートスカパ・フローに入り、停泊していた英戦艦ロイヤルオークを沈めた。陸上ではまだ何も起きていなかったが、空と海の戦いは、猛烈に拡大した。独逸のUボートは、英國の商船に対する攻撃を強め、損害の懸念を起こした。装甲艦、アドミラル・グラーフ・シュペーは、特に南大西洋で破壊的攻撃を主導し、1939年秋に9隻の商船を破壊した。英國巡洋艦エクセターとエイジャックス、それにニュージーランド巡洋艦アキレスが12月13日、ウルグアイ沖の戦闘でグラーフ・シュペーを損傷した。グラーフ・シュペーはウルグアイの中立港、モンテヴィデオに避難したが、ウルグアイ人は、72時間のみ居られる(72時間猶予するから立ち去れ)、と主張した。港のすぐ外の國際海域で待ち受けている連合國艦船による確実な破壊に直面し、グラーフ・シュペーの艦長は、12月17日、港内で、船体に孔を空けて沈めるよう命令した。

 

ロシア-フィンランド戰爭

独ソ不可侵条約にも拘らず、スターリンは独逸を信頼しておらず、バルト諸國を通して想定される独逸の攻撃に対するロシアの弱点を懸念していた。1939年の9月と10月、スターリンは、小國のエストニア、ラトヴィア、リトアニアの領内にソヴィエトの軍隊が駐屯できるように合意するよう圧力をかけ、この経路を閉じようとした。10月7日、ソヴィエトは、ソヴィエトの部隊が駐屯できるようにフィンランドに領土の一部を放棄するよう要求し、更にフィンランドのハン海軍基地の使用も要求した。全て交換条件は、フィンランドの東部に接するソヴィエトの領土だった。フィンランドは、海軍基地以外の全てに合意したが、ロシアは、固執した。これらの交渉は、11月30日にソヴィエト連邦フィンランドを占領して終わった。

数も圧倒的に少なく、装備も貧弱だったが、フィンランドは、不屈で、よく訓練されていた。そして、みんなが驚いたことには、強大なソヴィエト軍を押し返してしまった。これは、三万人に上るロシア人将校が殺された1937年のスターリンの軍幹部粛清がソヴィエトの軍隊を激しく弱体化したためで、それは、ヒトラーも注意深く注目していた点だった。しかしソヴィエトは、立て直して、1940年1月、もう一度攻撃し、今回は、前より成功した。1940年3月12日、フィンランドは、平和条約に署名し、ソヴィエトが最初に要求していたこと全てと、更に付け加えて受け容れるよう強要された。フィンランドは、ソヴィエトの要求に抵抗して結局何も得られなかった。英仏はソヴィエトに対するフィンランド支援を画策するが、計画が完成するまでにフィンランドは降伏してしまった。

次回 ドイツ悪玉論の神話082   前回 ドイツ悪玉論の神話080

もっと広めないと洗脳教育に敗ける(悲)

毎月余り日(31日)は連載はお休みさせていただいております。

ドイツ悪玉論の神話は、この後、第二次大戦の歴史を追究し、誰が一番戦争を楽しんだか、誰が一番戦争で人殺しをしたか、誰が一番戦争を悲観し、それを最小限で食い止めようとしたか、誰が、戦争を回避することを躊躇い、或いは、寧ろ積極的にけしかけ、積極的に参戦しようとし、積極的に嘘の宣伝工作をしたか、を明らかにします。

答は、残念乍ら、第一次大戦のときとほぼ同じ勢力ですよね。

この勢力は表だっては非常に立派な「進歩的」「知的」「自由主義的」「開明的」「啓蒙的」或いは、呆れたことに「利他的」すら演出するのですが、そもそもの考え方に裏表があり、自己正当化の天才であり、神を騙って悪を為す勢力です。

今もそう言う勢力が残念乍ら、マスコミや教育機関を牛耳っていて、眞實は巧妙に隠され続けています。

日本は戦前の教育はこのような立派な事は全く掲げませんでした。日本では社会的な動きの推進や所謂進歩的な謳い文句は戦前は教育の淵源にありませんでした。ただ只管、自己修練を説き、より忠に孝に祖先伝来の伝統を守り、日本文化を守り、その中で近代の物質的豊かさを享受し、我々の文化をより深くより良い物にする努力をしてきました。教育は、聞くほどに立派な謳い文句を掲げ、立派な自己正当化だけを考え、その裏で恐ろしいことを考えることを教える場であってはなりません。或いは、そのような類の人間の言うことが眞實と工作宣伝する場であってはなりません。

そして歴史は

「the truth, the whole truth and nothing but the truth」

「眞實を 何も隠さぬ眞實を そして眞實のみを」根拠に組み立てなければなりません。況や歴史教育をや。

この、「何も隠さぬ眞實」と言うのが、訳者によっては「ありのままの眞實」なのですが、敢えて、「何も隠さぬ」と言うところが一番大切なのではないでしょうか?

・一応眞實は話すけれども、自分に都合の悪い部分は省く。

・一応98%まで眞實を話すけれども、2%の嘘(或いは自分の意見)を含める。

そう言う歴史学者が海外には大勢います。

ジェイソン・モーガンさんが、日本人の歴史に対する取り組みを絶賛してくださっていますが、それは、少なくとも日本では学者の名誉にかけて真実を追究してそれを根拠に歴史を考察する、と言う最も大切な原理が活用されている為らしいです。

これは我々日本人にとっては、少し明るい話であり、記紀をただの捏造話として全く取り上げない今の日本のリベラルな歴史学者に対する最大の皮肉のように感じます。

また明日から連載します。恐らく、あと二十数話かと思いますが、頑張って続けますので、義憤を感じた皆さん、改めて正史の嘘に気付き、広めなければならないという使命を感じた皆さん、是非大いにこのブログを広めてくださいますよう、宜しくお願い申し上げます。そして眞實が広まりますよう、八百萬の神々にお祈り申し上げる次第です。