ドイツ悪玉論の神話081

第十九章 いかさま戦争

西洋文明の未来は、独逸と他の欧州諸國、とりわけ独逸のアリアン従姉妹、英國米國との緊密な協力に依存すると、ヒトラーは確信していた。ヒトラーにとって、実在する西洋文明の大きな脅威は、共産主義ロシアであり、彼はそれを猶太人の世界への野望の基地と見做していた。彼は、まだ若い頃、政治を志した當初にこの結論に達していた。彼は、ボルシェヴィキ猶太人がロシアを掌握し、赤色テロルを開始する様子を見ていた。彼はまた、猶太人に指導された共産主義革命が欧州全土で突発し、それがロシアに根差すコミンテルンにより、組織され、資金援助されており、また、國際猶太金融に支援されていることを見た。彼は、反共主義者として独逸の政権に就き、共産主義と闘い、キリスト教の欧州を席巻しようとした猶太人共産主義の大波から欧州を守る防波堤に独逸を育て上げることを人生の使命と観たのだった。彼は、あらゆる試みをして英國との同盟を作ろうとし、米國とも友好関係を持とうとしたが、彼の提案がどの時点でもにべもなく拒絶されたことにがっくりした。彼は、共産主義ロシアによって西洋文明に投げかけられた脅威が、自分にとって明らかであったようには、米英の指導者に明らかでなかったことに非常に懸念し悲しんだ。

ヒトラーは、独逸が最後には共産主義ロシアと戦争する事になるのを不可避であると観ていた。それは、するしないの問題ではなく、いつするか、の問題であった。ソヴィエトの指導者も同じ心持だった。ヒトラーは、共産主義ロシアが、そんなに先の未来ではなく、ソヴィエトがそうするのに充分力があると感じた時に、独逸を手始めに欧州を占領すると確信していた。ソヴィエトロシアに根差した國際共産主義コミンテルン)は、既に本書の前の章で述べた様に、猶太人に導かれた共産主義革命を独逸も含め、欧州各國で唆したが、すべて失敗した。ボルシェヴィキは、欧州を支配するについて何ら気が変わっていない。ソヴィエトの軍隊に依る明らかな占領は、當然次に起こる、と言うあらゆる兆候があり、しかもそれは、恐らくしばらくたってからではなく、早い段階で、である。その日が来た時、ヒトラーが何よりも望んだのは二正面戦争を避ける事だった。ヒトラーは、その観点のみから、類似の状況を避ける為、他の西欧列強、とりわけ英米との友好関係の構築と維持に非常に積極的に取り組んだ。しかし彼は同時に他の欧州諸國とも良い関係を望んでいた。何故なら彼は、それらの欧州諸国は全て、各々に、独逸同様、無神論的猶太人ボルシェヴィズムに取り囲まれた、西側キリスト教文明の重要な要素であると考えていたからだ。ヒトラーが一番望んでいなかったのが英仏との間の戦争であった。ピューリッツァー賞受賞の著述家、ルー・キルツァーは、その著書「チャーチルの欺瞞(Churchill’s Deception)Simon & Schuster 1994」で確証として、「ヒトラーは世界大戦など望んでいなかったし、英國と闘う肚などなかった。」と書いている。しかし、英仏における強大な力が、独逸との戦争を望んでいた。

英仏は、ポーランドに干渉できる立場になかったが、彼らは時を置かずに、独逸に軍事行動を仕掛けて来た。英仏が独逸に宣戦布告した次の日(1939年9月3日)、英國空軍の爆撃機が独逸の戦艦をヘルゴラント湾(エルベ川が北海に注いでいる処)で爆撃した。9月7日にはフランスが40部隊を以てライン川沿いに入り、ザール攻撃を仕掛けたが、本気ではなく、攻撃は、取るに足らない数回の小競り合いがあっただけで、ジークフリート線で知られる独逸の防御線の少し手前で止まった。独逸軍はポーランド戦線に集中しており、反撃には出なかった。独逸のポーランド占領には、何ら軍事反攻は無かった。そして、種々の名前で知られる幕間(戦闘停止期間)が始まった。米國では、Phony War(偽の戦争)、英國ではTwilight war(夕暮れ戰爭)、独逸ではSitzkrieg(いんちき戰爭)と呼ばれ、1939年の9月に始まり、1940年4月まで続いた。場合によっては、状況は殆ど休戦に思われた。陸上では何も起こらなかったが、大西洋の戦いとして知られるようになる残忍な海の戦いは進行中であった。英國の大きな強みはその海軍にあったが、それにフランスを伴い、独逸との如何なる出入りの海運も排除する海軍による完全な封鎖を即座に整えた。これは、第一次大戦の、独逸に飢餓を起こして屈服させた、完全封鎖に似ていた。独逸は、潜水艦の戦力を以てこの封鎖に報復した。

大西洋の戦いの最初の一発は、1939年9月3日、独逸のUボートが、アイルランド沖で英國の客船アセニア号を沈めたものである。仏英が独逸に宣戦布告した時、ヒトラーは未だ、外交的な解決の希望を持っていた。彼は、ポーランドの戦いが完了して問題が再び落ち着いたときに仏英に戦争を思いとどまらせることが出来るかもしれないと信じていた。その為、彼は、如何なる挑発も避けたかったので、Uボートが軍の艦船以外の船を攻撃する事に対して厳しい命令を発していた。不運な事にUボートに沈められた初めての船が客船のアセニアであり、それはヒトラーの命令に背くものであった。ヒトラーが予期した通り、これは、連合國のみならず、中立國の間にも憤慨を生んだ。アセニア号の撃沈は、第一次大戦と同様に、独逸が無差別の潜水艦戦争を意図しているという間違った印象を与えてしまった。しかし、撃沈は夕闇の中、視界が悪いときに間違って行われたものであった。Uボートの司令官はアセニアを戦艦と信じていた。ヒトラーは激怒したが、損害は為されてしまったもので、潜水艦の司令官にはお咎めは無かった。

9月18日、別の独逸潜水艦が英國の空母カレイジャスをスコットランド沖で沈めた。

1939年9月27日、ポーランドでの戦争が早くも終わった時、ヒトラーは、英仏に和平提案をしたが、どちらからも拒否された。今やチャーチル海軍大臣として英國政府に戻っており、公然と、対独総力戦を声高に叫んでいた。チャーチルは独逸のポーランド占領を以って、自分が「ナチス」の世界征服計画についてずっと警告していたことの正しさの証明と考えていた。勿論、前章で述べた様にヒトラーにはそのような意図はなく、西欧の國家に対する如何なる計画も持ち合わせていなかった。しかしながら、チャーチルとダフ・クーパー、ハリファックス閣下、アンソニー・エデン、ロバート・ヴァンシタート、そして猶太人支配の新聞を含む彼らの戦争屋仲間は、戦争ヒステリーを急いで作り上げるのに突貫工事中なのであった。

いかさま戦争の間、連合國の戦略は、陸地では防御態勢の一方、独逸の経済を弱体化するために海軍の海上封鎖を維持し、相當な英國の遠征部隊をフランスに送り込む事であった。ベルギーとオランダは、戦争にはかかわらないことを決めた。彼らは、厳格な中立を維持し、英仏からの軍隊の進駐の圧力に屈する事を拒否した。

10月8日、Uボート三隻が英國に沈められ、10月13日には更に一隻が沈められた。10月14日、報復に独逸のUボートスカパ・フローに入り、停泊していた英戦艦ロイヤルオークを沈めた。陸上ではまだ何も起きていなかったが、空と海の戦いは、猛烈に拡大した。独逸のUボートは、英國の商船に対する攻撃を強め、損害の懸念を起こした。装甲艦、アドミラル・グラーフ・シュペーは、特に南大西洋で破壊的攻撃を主導し、1939年秋に9隻の商船を破壊した。英國巡洋艦エクセターとエイジャックス、それにニュージーランド巡洋艦アキレスが12月13日、ウルグアイ沖の戦闘でグラーフ・シュペーを損傷した。グラーフ・シュペーはウルグアイの中立港、モンテヴィデオに避難したが、ウルグアイ人は、72時間のみ居られる(72時間猶予するから立ち去れ)、と主張した。港のすぐ外の國際海域で待ち受けている連合國艦船による確実な破壊に直面し、グラーフ・シュペーの艦長は、12月17日、港内で、船体に孔を空けて沈めるよう命令した。

 

ロシア-フィンランド戰爭

独ソ不可侵条約にも拘らず、スターリンは独逸を信頼しておらず、バルト諸國を通して想定される独逸の攻撃に対するロシアの弱点を懸念していた。1939年の9月と10月、スターリンは、小國のエストニア、ラトヴィア、リトアニアの領内にソヴィエトの軍隊が駐屯できるように合意するよう圧力をかけ、この経路を閉じようとした。10月7日、ソヴィエトは、ソヴィエトの部隊が駐屯できるようにフィンランドに領土の一部を放棄するよう要求し、更にフィンランドのハン海軍基地の使用も要求した。全て交換条件は、フィンランドの東部に接するソヴィエトの領土だった。フィンランドは、海軍基地以外の全てに合意したが、ロシアは、固執した。これらの交渉は、11月30日にソヴィエト連邦フィンランドを占領して終わった。

数も圧倒的に少なく、装備も貧弱だったが、フィンランドは、不屈で、よく訓練されていた。そして、みんなが驚いたことには、強大なソヴィエト軍を押し返してしまった。これは、三万人に上るロシア人将校が殺された1937年のスターリンの軍幹部粛清がソヴィエトの軍隊を激しく弱体化したためで、それは、ヒトラーも注意深く注目していた点だった。しかしソヴィエトは、立て直して、1940年1月、もう一度攻撃し、今回は、前より成功した。1940年3月12日、フィンランドは、平和条約に署名し、ソヴィエトが最初に要求していたこと全てと、更に付け加えて受け容れるよう強要された。フィンランドは、ソヴィエトの要求に抵抗して結局何も得られなかった。英仏はソヴィエトに対するフィンランド支援を画策するが、計画が完成するまでにフィンランドは降伏してしまった。