ノルウェー・デンマーク作戦
英仏が1939年9月に独逸に宣戦布告した時、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランドは、即座に中立を発表した。そうする事により、これらスカンディナヴィアの國々は、19世紀半ば以来彼らが採って来た政策を引き継いだ。それに呼応して独逸政府は、公式にノルウェーの中立を尊重することに合意したが、それに付け加えて、第三者(勿論英國である)によるノルウェーの中立の侵害は、黙認しないとした。
独逸の経済は、スウェーデンから輸入する1100万トンの鉄鉱石に頼っており、そのうちの約半分は、ノルウェーの不凍港、ナルヴィクを通過した。ノルウェーが中立である限り、独逸の鉱石船はナルヴィクから独逸まで安全に航行でき、残りのノルウェー領海内は、ノルウェーの東海岸に点在する無数の島々を通ってゆっくりと航行できた。この様にして英國の海上封鎖による妨害を受けなかった。しかし、1940年2月16日のアルトマルク号事件 -ノルウェーの軍艦が立ち会う中、ノルウェー領海内で英國の駆逐艦が独逸のタンカー、アルトマルク号に乗り込んだ事件- は、ノルウェーが英國の断固とした強硬さに直面して中立を維持できるかに関してヒトラーが疑いを抱く原因となった。
ノルウェーの國家社会主義党の代表は、独逸の同調者のヴィドクン・クヴィスリングであったが、彼は、何度も英國のノルウェー占領の意図を独逸に警告していた。英國のノルウェー占領、それは、容易くスウェーデンに拡大可能で、そうなると、独逸にとって不可欠な鉄鉱石の供給を完全に遮断し、そうして、独逸の工業生産を酷く損傷するだろう。海軍大臣としてウィンストン・チャーチルは、公然とノルウェーの占領を提案していたが、チェンバレン首相は、チャーチルと比べ戦争には全然熱心ではなかったので、その問題について未だ決断できずにいた。1940年4月8日、海軍大臣としてチャーチルは一方的に独断で独逸への鉄鉱石の輸送を封鎖するために、ノルウェーの沿岸を機雷封鎖する命令を下した。これは、ノルウェーの中立へのあからさまな侵害であり、そして、独逸に忍耐できない脅しをする事であった。
独逸は、そのような不測の事態への緊急時計画を策定しており、それが起こると、素早く反応した。4月9日、チャーチルがノルウェー沿岸の機雷封鎖命令をした翌日、独逸軍は、デンマークにどっとなだれ込み始め、驚いてすぐに降伏したデンマーク軍を圧倒した。独逸は、同時進行でノルウェーを占領するためにデンマーク北部の空港が必要であったためにデンマークを占領したのだった。
独逸のデンマーク・ノルウェー占領
兵士を積んだ独逸の輸送艦は、独逸空軍の護衛を伴って、即刻オスロへと出港した。また、独逸空挺部隊がノルウェーの飛行場に降り立った。空挺部隊は、急いでオスロの周りの全ての飛行場を掌握し、独逸の飛行機がなだれ込んだ。一方で独逸海軍がナルヴィクを含むノルウェーの沿岸の数多くの場所で上陸した。独逸の占領が始まると即座にノルウェー國家社会主義党の代表で独逸同調者のヴィドクン・クヴィスリングが、自分が政府の首脳であると宣言し、ノルウェーの軍部に抵抗を止めるように命令したので、独逸の上陸は殆ど抵抗なしに行われた。作戦全体が、何の障碍もなく為され、それは、独逸の軍隊統率の腕と質を そして、独逸の軍人の能力と士気を証明するものであった。
|
|
********
しかし、海の戦いは少々違った展開だった。最初の独逸の損害はノルウェー軍が沿岸防衛砲台から近距離射撃をしたオスロフィヨルドで起こった。海上での初日の朝、独逸の重巡洋艦ブリュッヒャーが沈められ、殆どの乗組員も戦死した。もう一隻の巡洋艦も損傷し、また、独逸の魚雷艇も沈められた。ナルヴィクでは、4月10日に英独の海軍の交戦で二隻の独逸軍駆逐艦が沈められ、他に5隻が重度の損害を受けた。英國もこの交戦で二隻の駆逐艦を失った。
三日後、戦艦、空母各一隻と数隻の駆逐艦からなる英國海軍が残りの独逸軍艦を海と空からの攻撃で破壊した。この海軍の大損害にも拘らず、二千人の独逸兵士が上陸し、ナルヴィクを掌握した。英國も兵士を上陸させ、あちこちで独逸軍と衝突したが、どこの拠点でも敗北した。結局英國は退却を余儀なくされ、そしてノルウェーから完全に撤退した。1940年6月10日、ノルウェーは、降伏して独逸の支配下に落ちた。独逸はこうして途切れることのない鉄鉱石の供給を確保したが、ノルウェーの占領は、同時に独逸のそのむき出しになっている北の側面を連合國の占領から守ることにもなった。
チャーチルがチェンバレンに替わって首相となる
ノルウェー作戦の一番重大な犠牲者は、ネヴィル・チェンバレン首相であった。英國のノルウェーでの大損害は、問題をどうすべきかについて決定する5月7・8日に行われた二日間に亙る議会の議論を巻き起こした。この議論で、ずっと戦争を声高に主張してきた主戦論者がチェンバレンを優柔不断と決断力不足、それに「ヒトラーに立ち向かう」には弱すぎる、として責任を問い質した。彼は、全ての作戦は、専らチャーチルの手になるものであったにも拘らず、そして、誰かに責任があったとすればそれはチャーチルであるべきところ、ノルウェーでの大失策の責任を負わされた。(チャーチルの経歴は全て、実際にはこの様な軍事的失策の連続として記録されるものであった。)議論の中で、チャーチルとその支持者により、戦争ヒステリーの空気が作られ、そして、「独逸は阻止されるべきだ!」という決議が為された。チャーチルと主戦論者は、独逸のデンマークとノルウェーの占領を 既に繰り返し警告してきた通り、更に反論する余地のないヒトラーの世界征服計画の証拠だと位置づけた。現実には彼らの警告は自己充足的予言に過ぎなかったのだが。英國は容赦のない扇動者であった。独逸の軍事先制は、全ての場合に於いて本質的に「反応性」のものであった。独逸は、デンマークもノルウェーも占領などしたくはなかったが、英國がそれを計画したために、そして英國に拠るノルウェーの中立侵害が理由のみで、そうしたのである。独逸の生命線である鉄鉱石の供給は、どの様な犠牲を払っても守らなければならなかった。更に、独逸の封鎖を主導したのは英國であり、逆ではなかった。
この議論の結果、「独逸は阻止しなければならない」という事が一般に広く決議されたが、同時に、それをする人間はチェンバレンではない、という事も合意した。議論の最後にチェンバレンは、不信任の評決を受け、それに続いて、首相の座を降りた。次の日、ウィンストン・チャーチルが彼に替わり、全ての政党を含めた連立挙國一致政権を作った。チャーチルは、全ての政党は戦争遂行を支援して共に取り組まなければならないと力説した。「開戦派」が、遂に今、運転席に座った。
次回 ドイツ悪玉論の神話083 前回 ドイツ悪玉論の神話081