ドイツ悪玉論の神話032

國家社会主義党は、発展し続け、新党員が集まった。1923年10月30日に行われたミュンヘンでの党大会に於いて、ヒトラーは、彼が宣言するところの猶太人の支配下にある左翼的ヴァイマル共和國の終焉を求めた。この大会期間中、共産主義と猶太人の政府を排除するベルリンへの進軍を呼び掛けた。それから数日後の1923年11月8日、ヒトラーミュンヘンのビアホールで決起集会を開き、革命を宣言した。次の日、彼は二千人の武装した「褐色シャツ」(突撃隊)を率いてミュンヘンバイエルン政府を掌握しようと企てた。ヒトラーは、第一次大戦の英雄、エーリヒ・ルーデンドルフ将軍と将軍に付き従う保守的國家主義的支持者と合流した。ミュンヘンを掌握したらヒトラールーデンドルフ将軍は、このバイエルンの首都をベルリンの政府に対する作戦の基地として使う計画であった。しかし、彼らの野望にはそれを実現する力を伴わなかったため、結局のところ「叛乱」の企ては、警察によって簡単に抑えられてしまったのである。

ヒトラールーデンドルフは、反逆罪容疑で逮捕されたが、ルーデンドルフは、戦争の英雄と言う評判により、すぐに釈放された。しかし、ヒトラーは、起訴された。裁判で判事は、結果として、ヒトラーの考え方に同情的で、彼は、ヒトラーに裁判を宣伝の公開討論に利用する事を許可した。ヒトラーは、有罪となりミュンヘンからおよそ60キロほど西にあるランツベルク刑務所での快適な環境での懲役5年という軽い判決を受けた。彼は、結局のところそこで8か月だけ服役した。そしてその8か月を非常に有益に過ごした。ランツベルクで服役中、ルドルフ・ヘスの助力でヒトラーは「Mein Kampf (我が闘争)」を著した。この本は、結果として一千万部を売り上げ、ヒトラーは、裕福になった。

我が闘争」の中でヒトラーは、独逸人の将来について彼の考え方を展開した。彼は、猶太人を独逸の問題、布いては世界中の大半の問題の原因として、猶太人による、ロシアに於ける殺人的政権、独逸に於ける1918~19の未遂に終わった共産主義革命、そして1919年の猶太人共産主義者によるハンガリー乗っ取りで誰の目にも明らかになったとして、猶太人を非難した。ヒトラーは、猶太人を独逸國家の真の敵と考えていると、解り易く説明した。彼らには自身の文化が無く、独逸文化の様な他の文化に寄生してその文化を堕落させる、と彼は主張した。つまり、彼らは、民族ではなく、反民族なのだ、とヒトラーは言った。

我が闘争」の中で示されたもう一つの主要な考えが、先に25箇条の中でも示された考えで、独逸が國家として生き残るためには、その過密人口の為の「レーベンスラウム」、生存圏を獲得しなければならない、と言う考え方であった。これは、彼が言うには、東方で見つけることが出来るだろうという事で、つまり、それは、現在(その當時)、猶太人共産主義者が支配しているロシア・ウクライナの地域の事であった。「伝統と偏見を考慮に入れなければ、それ(独逸)は、我々の人民を集める勇気とその人民が、現在の制限された生活空間から新しい領土と土地に導く道を進む強さを見出さなければならないし、そしてそれによりこの世から消えてしまう危険、さもなければ、他人種に奴隷として奉仕する國民に成り下がる事から自らを解放するのだ。」

レーベンスラウム(生存圏)の地政学的な概念は、ヒトラーのオリジナルではない。カールハウスホーファー英國ハルフォード・マッキンダーフリードリヒ・ラッツェルらにより、ヒトラーが権力の座に就くずっと以前から独逸では提唱されていたことだ。「レーベンスラウム」と言う言葉を最初に作り出したのはラッツェルだった。1871年には「レーベンスラウム」は、独逸の國家統一の中では受けの良い政治スローガンであった。その頃は、普通、レーベンスラウムは、英國やフランスの例に倣った新たな植民地の付加による「生活空間」を見つけることを意味していた。しかし、(第一次)大戦後、独逸の植民地はヴェルサイユ条約によって全て召し上げられてしまい、過剰人口の行き先が無くなったので独逸は他の可能性を探らなければならなかった。独逸は、欧州随一の人口過密國で、しかも急激に増えつつあった。「レーベンスラウム」の発見は不可欠に見えた。

上述の様に独逸が拡張できる領土はヒトラーが「我が闘争」で説明している通り、明白に、常に東方であった。「地球が次第に國家によって分割されつつある時代、中には殆ど大陸全体を包括する國もあるが、そのような時代に於いて、その政治的母國が高々50万平方キロの馬鹿げた制限地域に形作られていることとの関係で、我々は世界の列強を語る事は出来ない。」

「東方」は、欧州の他の地域と比べて人口がまばらで、他の欧州と同じく、独逸人にとって「東方」は、米國人にとっての「西部の荒野」と同じように思われるのだった。1926年にハンス・グリムの「Volks ohne Raum (土地無き人々)」が発行された。この本は、独逸の領土の必要性についての古典となり、この本の題名はすぐに國家社会主義の人受けするスローガンとなった。ヒトラーはじめ、独逸では誰一人として西ヨーロッパへの拡張は考えたこともなかった。

ヒトラーは、独逸がその他の地域を植民地にするのではなく、欧州内で拡大するためにレーベンスラウムを東方に見い出す論理を説明している。「この問題の解決するには植民地の獲得ではなく、専ら母國の國土を拡張する、協定による領土取得でなければならない。そして、だからこそ、そこの元からの最も親密な共同体に新しい入植者を止め置くだけでなく、地域全体でその統合されたことによる規模の利点を確保しなければならない。」(アドルフ・ヒトラー我が闘争」)

ヒトラーは、ソヴィエト連邦が、主に独逸人血統であったロシアの上流階級を殺害した猶太人によって運営されている事を指摘して、独逸のロシア領土への拡張を正當化した。ロシア皇帝は、他の殆どの貴族階級と同様、独逸人の血統であった。

「ロシアは、何世紀にも亙って、その指導者たる上流階級の独逸的な核から糧を取り出してきた。今日、それは、殆ど完全に絶滅し、消滅してしまったと見做される。それは、猶太人に置き換っわったのである。ロシア人が彼自身の力で、彼自身の資源によって猶太人の軛を振り払う事は、不可能であるのと同じように、猶太人が永久に強大な帝國を維持する事も、また不可能なのである。彼自身は、組織の要素なのではなく、その分解の酵素なのだ... そして、猶太人によるロシア支配の終焉は、ロシアにとっても國家としての終焉となる。」(アドルフ・ヒトラー我が闘争」)

國家社会主義者イデオロギーでは、「レーベンスラウム」は、独逸人農民の独逸の東方地域への入植を意味した。スラブ人は、独逸の農民が移動するに連れて、追い出されることになるのであった。これは、インディアンがその間追い出されたところの、米國の西部への拡張の繰り返しだった。またこれは、パレスチナ人の地主が猶太人入植者に明け渡すために追い出されたところの、近代のイスラエルパレスチナへの猶太人入植とも相似の事である。第三帝國(ライヒ)に於いては、國家社会主義のレーベンスラウム理論は独逸の外交政策となった。

刑務所から釈放されると、ヒトラーは、権力を握る最善の方法は、合憲的方法である、と決断した-つまり、選挙に勝つことだった。自身が投獄されたクーデターや、叛乱の類は現実的ではないと判断した。彼は、國中を遊説(選挙運動)し始めた。その間、彼は独逸の民衆から熱烈に支持された。運動が進むにつれて、彼はますます群衆を引き入れた。その、人を魅了する雄弁で、彼は猶太人と共産主義の軛に抵抗し、独逸人の為の新しい独逸を造ろう、と独逸人に呼び掛けた。彼は、猶太人が独逸の最大の敵であると力説し、ロシアで、そして、ハンガリーで短期間、更に独逸で未遂に終わった様に、猶太人が独逸をソヴィエト連邦にしようとしていると非難した。ある演説では、彼は、次の様に主張した。「(猶太人の)究極の目的は國民の変性、他民族の見境なき交雑化、独逸の知識人の絶滅と猶太人による置き換えを通じて人種の寄せ集めとして支配することと同様に、質の高い民族の質の低下なのである。」

今日のアメリカで、多文化共生主義、自由移民、民族交雑、「結社の自由」の否定、などの背後に居るのは猶太人である。今日、彼らの狙いは、嘗て支配的地位にいた白人、欧州出身米國人を弱体化して、彼らを自身の國に於いて少数民族化してしまう事にある。上記のヒトラーの言葉は、今日米國で起きつつある事そのものである。

選挙活動の中で、ヒトラーは意図的に本来保守的で國家主義的な小さな町の農家や管理職(ホワイトカラー)に訴えかけた。これらの人々こそ、左翼ヴァイマル共和國に対して最も反感を持っていた人口集団であった。1930年9月に行われた選挙でNSDAP は18%の票を獲得した。突然、國家社会主義党は、考慮に値する党となった。1932年、ヒトラーは大統領選挙に立候補し、國民の30%の支持を得、パウル・フォン・ヒンデンブルクとの間での決選投票に持ち込んだ。決選投票ではフォン・ヒンデンブルクが勝ったが、ヒトラー投票率でそんなに引けを取らなかった。ヒトラーは、連立内閣の組閣に合意し、1933年1月、独逸の大統領、フォン・ヒンデンブルクヒトラーを首相に指名した。

 

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1933年1月30日、フォン・ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に指名した。

(次回は、ヒトラー政権に対する評価の虚実)