ドイツ悪玉論の神話049

ヒトラーは、階級闘争に終止符を打ち、人間の最も大切なことを生産における重要要素として復興したかった。独逸は産業への資金投入を金(ゴールド)なしで出来ると彼は信じていた。いずれにせよ、独逸は破産しており、手持ちの金などなかった。ほかのものが産業投資に使えるだろう、そしてそれは見つけられるだろう、しかし、「働くこと」は産業にとっても経済にとっても不可欠な基盤だった。労働者は独逸の社会から疎外されていた。と言うのは、労働者は伝統的に蔑みと侮りで扱われていたからだ。ヒトラーは、祖國に労働者の信頼を取り戻すには、これから先、労働者は社会的に劣る「生産手段」としてでなく、平等に扱われるべきだ、と信じていた。ヒトラーは、以前の所謂民主主義政府に於いては、政府を動かす人間が、國家的価値の階層構造の中で「働くこと」が當に人生の本質であるという事を理解できなかったのであると議論している。単純な問題だ、鉄であろうが、金であろうが、どんな種類の金銭であろうが、それは、手段に過ぎないのである。

ヒトラーが目論んでいたのは、完全な革命であった。彼は次の様に言った。「人民は、経済の為にこの地上に送られたのではなく、また経済は、資本のために存在するのでもない。逆に、資本は、経済に仕えるものであり、経済は、見返りに人々に仕えるべきものだ。」何千と言う閉鎖した工場を再開するだけでは充分ではない、人々を仕事に戻し、通常通りに業務を続けることだ。物事を徹底的に変えない限り、労働者は、以前と同じままでいるだろう、つまり、単なる生きている機械に過ぎない。顔もなく、替えが利く。ヒトラーは、労働者と資本主義の間に新しい道徳の均衡を断固打ち立てようとしていた。彼は断固として、その適正な機能に於いて、資本は、労働者が労働で生み出す物を手助けするために使われるべきだとした。「それは私の人生の誇りとなるであろう。結果として独逸の労働者を取り戻し、ライヒの相応しい立場に復帰したと言えるならば。」とヒトラーは言った。

ヒトラーは、そのような革命は、独逸のその頃の構造では成し得ないだろうと解っていた。独逸を構成する25の違う州がお互いに競争し、ベルリンの中央政府と相反する政策を実施していた。この状態が存在する限り、何ら経済再生に向けた首尾一貫した國家計画も実施できなかった。革命にしても、数十もの政党と何千ものあらゆる派閥の代理人が、みんながみんな、言い争いや闘争をしている限り、到底覚束ない。革命を成功させるには、中央集権による支配が必要だ。更に共産主義者(殆どが猶太人)が居り、独逸國家を弱体化するために活動をせっせと続け、ロシア式のソヴィエト社会主義共和國に変えようとしていた。共産主義者にも同時に対応しなければならない。

ヒトラーは、いくつもの手順を経て独逸全土で完全な権力を確保した。そしてそれは、一貫した再生計画を実施するために不可欠だった。先ず、彼は、独逸の25の独立した州政府を廃止し、ヒトラーと國家社会主義政権だけに責任を負うライヒ行政長官を置いた。

次に彼は、共産主義者を厳しく取り締まった。突撃隊と親衛隊が彼らを何千人単位で集め、ミュンヘンの近く、ダッハウの再教育センター(後に「強制収容所」と呼ばれた)に拘束した。独逸共産党の党員の78%が猶太人であった。だから、共産主義者を逮捕すればそれは常に、殆ど猶太人を逮捕する事であった。つまり猶太人が猶太人であったために選って逮捕されたのではなかった。彼らは共産主義者を逮捕し、逮捕者は殆ど全てが猶太人であった。ヒトラーは、共産主義者を独逸人民の敵と観ていた。

連邦の権力をベルリンに中央集権化し、共産主義者を拘束する事により、ヒトラーは、絶え間ない言い争いと州の間の利害がぶつかる状態に終止符を打ち、國の復興に必要な合理的で一貫した政策と計画を築き始めた。一歩一歩、ヒトラーは計画を進めた。

 

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ダッハウの猶太人囚人 1938年



1933年5月2日、ヒトラーは、労働組合を非合法化し、突撃隊にその指導者を逮捕するように命令した。これもたまたま、殆どが猶太人であった。彼らもダッハウに送られた。ヒトラーは、次に独逸で唯一認められた労働組合、「独逸労働戦線」を設立し、ロベルト・ライ博士をその責任者とした。彼は、知識豊かで勤勉であり、國家社会主義党の党員になる前は、第一次大戦の飛行士として、また、化学者として働いていた。ライは、労働組合の資金を押収してそれを「喜びを通じた力」企画につぎ込んだ。これは、独逸の労働者の労働環境と生活水準を増進するための広範な計画であった。この計画の一つとして、ライは、独逸の労働者を海外旅行の休暇に連れて行くために二隻の客船の建造を命令した。1938年には、推定で18万人の人々がマデイラ諸島ノルウェーフィヨルドなどの様な場所に船旅に出かけた。それ以外には独逸國内で自由な休暇を与えた。

 

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ヒトラーとロベルト・ライ 独逸労働戦線の新局長


「喜びを通じた力」企画はまた、スポーツ施設を建設し、劇場訪問をし、更に旅の楽団の財政支援もした。独逸の労働者は、これらの公益の為に給料の一部を義務として納めたのではあるが、人々に休暇を与え、また、娯楽に援助したことは國家社会主義政府の大きな宣伝価値となった。更にそれは独逸の労働者の生活を広範囲に向上した。

「喜びを通じた力」企画は、また、フォルクスワーゲンとして知られる人民の乗用車の開発を助成した。アメリカの自動車会社、ヘンリー・フォードは、ヒトラーの労働者びいきの独逸変革計画の熱心な後援者であった。実際、ヒトラーは、1931年に「ヘンリー・フォードは私の創造的刺激と見做している」と語っている。ヒトラーの(そしてライの)フォルクスワーゲン車の大量生産は、フォードの大量生産、低価格、労働者には高賃金の形式を擬したものであった。フォードはまたヒトラーの猶太人に関する意見を共有した。

労働組合を廃止することでヒトラーは賃金を抑えながら産業が反映して成長する機会を与えた。労働組合は、強請りの仕事をしていると言われた。彼らは工場主からストやストの脅しにより、或いは仕事を緩慢にしたり、機械や設備の稼働を妨害したり、産業の成長と発展に極端に害毒となるあらゆることをして、出来得る限り高い賃金を強請っていた。労働組合の目的は、米國の組合の指導者、サミュエル・ゴンパースのコメントに要約されている。労働組合が何を欲しているか聞かれたとき、彼は、「もっとだ」と答えた。最後には自滅するけれども、労働組合は、もっと高い賃金と福利厚生を要求する事を 会社が遂には続けられなくなる迄止めない。労働組合を非合法化し、政府が管理する「独逸労働戦線」を設立する事により、ヒトラーは、組合員だけでなく、全独逸人労働者に公正な賃金レベルを維持することが出来、更に、同時に組合が独逸の産業の首を絞めることを終わらせることが出来たのだった。

1933年7月14日、共産党社民党が禁止された。党の活動家で、未だ國内に居た者は逮捕され、強制収容所に送られた。ヒトラーは、彼らがその立場に居たら、同じように別の方法で独逸を浄化したであろうと判断を下した。ゲシュタポが乞食、売春婦、同性愛者、アルコール中毒者、そして、働くことを拒むもの、彼らが呼ぶところの「仕事嫌い」を逮捕し、投獄した。一つの法律が施行され、國家社会主義党以外のあらゆる政治政党が禁止された。

これら全ての方策は、國際猶太の新聞の大げさな宣伝工作の酷評に遭い、その中で、出来事は、実際の重要性に比べて針小棒大に誇張されたのである。労働組合共産党、それにあらゆる左翼運動と組織は「独逸人民の敵」として特にヒトラーと國家社会主義者の標的となった。猶太人は非常に高い割合で労働組合、更にその他のあらゆる左翼運動と組織を代表していたので、彼らはやはり高い割合で逮捕され、ダッハウに収監されることになった。これは、國際猶太の新聞では、猶太人に対する攻撃として記述された。國家社会主義者は、猶太人であるというだけの理由で猶太人を特に選って逮捕していると非難された。現実には、この時点で、國家社会主義者には猶太人を標的にする計画は、それ自体がなかった。にもかかわらず、國際猶太は、この機会を反独逸宣伝工作戦争に最大限使ったのであった。

(次回は長いナイフの夜・突撃隊の粛清です)

 

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