ドイツ悪玉論の神話023

独逸革命と猶太人

社会と経済の秩序の崩壊が始まった1918年の終戦間近の独逸では、兵隊や水兵を含め、労働者階級が、それまで疑義無く戦争遂行に勤しんでいた自分たちの愛國心に疑問を感じ始めた。欲求不満と怒りの感情が軍の間だけでなく、戦争が長引き、先(終戦)が見えなくなると國内の工場や生産現場でも積もってきた。この様な、反抗的な態度の広がりは、共産主義者の革命扇動家により、生み出され、助長された。そしてその大多数が、他の場合と同じく、猶太人であった。

開戦當初から英國海軍は、完全な海上封鎖を維持して、独逸に食料が入る事を防いでいた。1916年までに独逸の人々は飢え始めた。この「飢餓」封鎖により、結果的に百万人に上る独逸人が死に、更に百万人が塗炭の苦しみを味わった。1918年10月30日、独逸最高司令部は、この非人道的な海上封鎖を破るために最後の死に物狂いの猛攻撃を命令した。これは、海軍による独断であり、独逸政府の承認を得ていなかったが、これが、独逸の革命に火をつける火花となった。北部キールの港で、戦争に疲れた独逸軍の水兵は、共産主義者の扇動の結果、反乱を起こしつつあった。遥かに強力な英國の海軍へのそのような攻撃は、自殺行為だと彼らは考えた。彼らは、そのような無意味な、空しい「神々の黄昏[1]」に命を無駄にする意志はない、と将官に反旗を翻した。千人を超える水兵が逮捕された。しかし、その四日後、共産主義者猶太人に先導されたキールの労働者が水兵を助けに来た。ゼネストが決行され、大衆のデモによって水兵は釈放された。この成功に引き続き、2,000人の武装した労働者と水兵が市役所に向けて行進し、占拠し、「労働者と水兵の評議会(ソヴィエト)」を設立し、街を掌握した。独逸革命が始まったのだ! キールから「労働者と兵士の評議会」の動き -ロシア革命に触発され、そして大方、そのロシアの同胞と密接に連絡していた猶太人に唆(そそのか)された- が独逸の國中に拡がった。

独逸の工業の中心地であるルール地方では、工場、武装した陸軍、それどころか町全体が、猶太人の影響を示唆するように、ロシアのソヴィエトの様な「評議会」に掌握された。11月7日までに革命はベルリンに及んだ。首都におけるストライキと行進は、11月9日に独逸國会前での巨大なデモとなった。舊体制の支配者は、革命運動の規模と強さに恐れおののき、混乱し始めた。独逸皇帝は、遂に事態を絶望視した。左翼の政治家の圧力により、皇帝は退位し、そそくさと國境を超えてオランダに亡命した。

権力者は、叛乱する大衆から逃れるため、社会民主党SPD)に転じた。SPD は、独逸最大の労働者を代表すると自任する政治政党であった。現下の大規模デモを懐柔するために11月9日にSPD の指導者フィリップ・シャイデマンは、古い君主制に代わって「独逸共和國」の創設を宣言した。これは、大衆運動を解散させるために彼らの求めたものを与える、いわば計算された企てであった。11月10日には、色々な社会主義グループによる「臨時政府」が設立された-名目上、労働者と兵士の「評議会」の責任者であった。臨時政府は、極左の独立社会民主党(USPD)も、もっと中道のSPD も含んでいた。これらの全く正反対のグループを同じ政府の中で組み合わせる事、しかも名目上、労働者と兵士の評議会に従属することは、本質的に不安定な状況であり、その後の闘争もこれらの派閥の間の対立が主になった。

USPD は、二人の猶太人、フーゴー・ハーゼ(本名:Allenstein)とカール・カウツキーに率いられていた。USPD は、左派連合であり、共産主義者も含んでいた。USPD は、時を経ず分解して解体し、スパルタクス団と呼ばれた極左グループは、別れて共産党を形作り、一方、より穏健な党員はSPD に合流した。スパルタクス団、共産党の前身は、モスクワの共産主義インターナショナルコミンテルン)から資金を受け取っていた猶太人、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトに率いられていた。スパルタクス団は、特にベルリンでの、革命の指導的地位を成していた。スパルタクス団は、都市部の労働者階級の支持が強かったが、独逸人民の大半、特に中産・上流階級は地方の農民と同様、保守的であり、どの様なものであれ社会主義の同調者ではなく、共産主義には強く反対していた。

独逸の政治的不安定は、國内の全てで旧来の政治的構造を崩し始めた。1918年11月7日、700年の歴史を持つヴィッテルスバッハ君主家がバイエルンで倒れた。[2]その後、バイエルンは、猶太人共産主義者、USDPのクルト・アイスナーによって「自由國家」を宣言した。アイスナーはその後、バイエルンの総理になった。ところが1919年2月21日アイスナーは独逸の愛國者、アントン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵に射殺された。彼は、アイスナーの事を
「アイスナーはボルシェヴィスト、猶太人で、独逸人ではなく、独逸人の感覚がなく、全ての愛國的思想と感覚を破壊する。アイスナーは、この國の裏切り者だ。」
と言った。アイスナーの暗殺で伯爵は多くのバイエルン人の英雄となったが、これは、共産主義者を止めることはできなかった。アイスナーの暗殺後、共産主義者無政府主義者バイエルンの権力を掌握した。

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クルト・アイスナー

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アントン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵

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オイゲン・レヴィーネ

 

1919年4月6日、「ソヴィエト共和國」が公式に宣言されたが、指導者の愚かな行為により、たった6日で崩壊した。だが、もう一人の猶太人共産主義者であるオイゲン・レヴィーネが、脇で待ち構えていて「ソヴィエト」政府の新しい指導者になった。レヴィーネは、高級アパートを収容して浮浪者に与えたり工場を労働者の所有にし、管理させるなど、いつもの共産主義者のやり方を踏んだ。レヴィーネは自分自身の軍隊である「赤軍」(紛れもなく)、ロシアの赤軍と同様のものを組織した。溜っていた失業中の労働者の群れが総勢2万人になるまで赤軍に殺到した。「紅衛兵」は、それから、「反革命の容疑者」、つまり共産党の政権奪取に反対するものを拘留し、処刑し始めた。処刑されたものの中には、グスタフ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス殿下とヘーラ・フォン・ヴェスタープ伯爵夫人もいた。ロシアやハンガリーもどきのバイエルンの赤色テロルが始まりつつあった。そして上流階級・ブルジョアがその最初のターゲットであった。

しかし、ロシア式の赤色テロルが始まる前に彼らは右派の愛國的な軍によって打倒された。1919年5月3日、独逸陸軍の兵士9千人による軍勢が、政府とは独立にフライコープ軍(戦争から戻った将兵による義勇準軍隊)と合わせて3万人でミュンヘンに入り、速やかに「バイエルン-ソヴィエト社会主義共和國」に終止符を打った。1000人に上る「赤軍」兵士が殺され、レヴィーネを含む700人のソヴィエト共和國関係者がフライコープによって処刑された。フライコープがバイエルンを救ったのだ。

 

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陸軍部隊とフライコープがミュンヘンに入り、赤軍を駆逐した

 

[1] 世界の終末の戦い。恐らく北欧神話か、若しくは、ワーグナーの楽劇からの著者の隠喩と思われる。

[2]第一次大戦の独逸の敗戦による混乱の中で、ルートヴィヒ三世は家族とともにミュンヘンを逃げ出し、11月13日にクルト・アイスナーが起草した退位宣言書に署名した。1919年にアイスナーが暗殺されると、混乱を嫌ったルートヴィヒはリヒテンシュタインへ、さらにはハンガリーへと向かい、その地で死去した。

(次回 ベルリンの「スパルタクス團の蜂起」です。)

 

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