ドイツ悪玉論の神話022

第六章

欧州全域に拡がるボルシェヴィキ革命

ロシア革命は、その世界に与えた衝撃に於いて、大地震震源であった。この様な規模の革命はフランス革命以来起こっていなかった。そしてそれは、フランス革命と多数の点で共通点があった。この革命の闘争はロシアに限られず、すぐに欧州全域でも爆発するに至った。欧州の大部分が第一次大戦の後遺症で経済的・政治的に崩壊の瀬戸際にあった中、百を数える地域で下層階級から革命の予感が沸き上がった。君主・貴族制と言う古い秩序が去り、何か別の秩序、まだ誰も確かではないが、が取って代わるだろうと思われた。最も可能性のあるライバルは、何らかの代議員制民主主義制度か、何らかの社会主義制度 ―そのもっとも極端なものはちょうどその時ロシアを支配したボルシェヴィキ共産主義であった。欧州の下層階級は、彼らに今まで持てなかった力と支配を約束する共産主義イデオロギーに心酔したが、上流・中産階級は、心底ぞっとし、断固として抑圧して欧州で広がるのを食い止めた。

レーニントロツキーが指導するボルシェヴィキは、ロシアでは完全に支配していたにもかかわらず、彼らは未だ安全だとは思っていなかった。彼らは、社会主義革命が全欧州を席巻しない限り、資本主義國の軍事力によって再び撃退され、打破されると信じていた。このため、「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)がロシア政府の出資、および欧米の國際猶太金融の支援で結成された。コミンテルンの目的は、欧州全土で伝統的な体制を打倒し、代わってソヴィエト社会主義共和國を打ち立てるために共産主義革命を扇動することにあった。

ロシアの外で一番大きな共産党があり、コミンテルンの主要な一員であったのは、独逸であった。そして、重要なのは、その構成員の78%が猶太人だった。共産党のネットワークは欧州のあらゆる國に張り巡らされ、その司令部はモスクワにあり、その意図は、全欧州の、そしてその次には全世界の支配を掌握する事であった。これらそれぞれの共産党では猶太人が支配的で構成員の多数を占めていた。そして、彼らは、今ではロシアを運営している猶太人ボルシェヴィキに報告していた。今や二つの文化が欧州の社会経済的且つ文化的将来を決定する巨大な闘争の中にある事は、明白に思われた。一つは、共産主義の旗の下の猶太人の文化、そして今一つは、伝統的な西洋キリスト教文化である。

 

ハンガリー革命と猶太人

ロシアの外で最初に共産主義の手に落ちたのはハンガリーだった。第一次大戦の結果、オーストリアハンガリー帝國は、その構成部分に解体され、その大部分が大混乱の中に放置された。ソ連コミンテルンに資金援助され、支配されていた猶太人ボルシェヴィキは、このハンガリーの混乱を利用した。ハンガリー國内の猶太人(その殆どが共産主義者か、或いはその共鳴者であった)の協力の下、彼らは、1919年3月に政府を倒した。次いで、彼らはハンガリー生まれの猶太人、ではあるが、レーニン代理人であったベーラ・クン(本名:モリッツ・コーエン)の下で、8月12日に至るまで、恐怖政治を行った。クンは、大戦中ハンガリーの兵隊だったが、ロシアの捕虜になった。ボルシェヴィキがロシアを掌握した後、彼は猶太人であったので釈放され、チェーカーの一員となった。後に、ウクライナに送られた。その後、クンは、撰ばれて訓練を受け、祖國ハンガリーに返され、ボルシェビキ代理人になった。

 

f:id:caritaspes:20190401012352p:plain

ベーラ・クン(本名:モリッツ・コーエン)


今やハンガリーを支配しているクンの指導する新しい体制は、すべて猶太人だった。そして更に別の主権國家の猶太人クーデターを起こすのだった。ハンガリーの新たな猶太人支配者には、オットー・コルヴィン(Otto Korvin (Kline))、ベーラ・サーントー(Bela Szanto)、ティボル・サミュエリー(Tibor Szamuely)、イェネー・ヴァルガ、ヨーゼフ・ポガニー(Jozseph Pogany)(Jozseph Swartz)、イェネー・レントラー(Jeno Landler)、ジェルジ・ルカーチ、イェネー・ハンブルゲル(Jeno Hamburger)など、嫌になるほどにたくさん見いだされる。

ハンガリーは、その後、各地方に分割され、それぞれに猶太人が政治委員として任命された。その多くは、最下層の粗野な殺人者・猶太人だった。シナゴーグの小遣いだったのが、地方の政治委員(米國で言えば、州知事)になったという者もいた。テロ分隊が組織され、「赤色テロル」が同時期にロシアで起こったものを真似て、大々的に始まった。全ての私有財産は國有化され、全ての工業が國有化され、収穫は農民から強制的に買い上げられ、農民は全て集団農場に集められた。軍隊と警察は排除され、ボルシェヴィキのテロ分隊が取って代わった。これら猶太人ボルシェヴィキは、次いでキリスト教の聖職者に対して恐怖支配を始め、ハンガリー全土で教会が焼かれ、司祭や牧師は殺された。地主とその家族は、他のブルジョアと同様にトラックに詰め込まれて連行され、何千人の規模で殺された。強姦は風土病の様に広がった。赤軍の兵士は、上流階級の居宅に押し入り、一番の美人や若い女性を未婚既婚の別なく、強制的に連行し、兵舎の裏に何週間も監禁した。兵舎の中では、兵隊全員が順に飽きるまで、次の性奴隷が集められて交代するまで、行為をした。抵抗する者は殺された。多くの女性が家族に再会するよりも寧ろ自殺した。この猶太人ボルシェヴィキによるハンガリーにおけるテロルの全貌は、次の政治委員の一人からの命令で理解できるだろう(全ての政治委員は猶太人だった)
「流血によって委縮するな。何故なら、それなしには価値あるものは何も得られないからだ。流血無しには、恐怖はない、そして恐怖なしには、プロレタリアート独裁はあり得ない。」
この引用は、「ハンガリーの変遷とその欧州史に於ける位置」(著者: ポール・テレキ伯爵、前ハンガリー首相)と言う本より抜粋である。ボルシェヴィキは、裁判を受ける権利と自己防衛の権利を廃止した。「反革命」の罪は、告発が如何にも捏造であっても即刻処刑に帰した。猶太の暴政は、キリスト教ハンガリーへの恐ろしい復讐を悉く晴らしていた。

クンは、いつもの猶太人ボルシェヴィキの宣伝工作手法に訴えて、ハンガリーの文化を弱体化するために、宗教の神聖、愛國主義と道徳を破壊した。保守的なハンガリーの人々のキリスト教的道徳は、放蕩とポルノの全面解禁により、笑い物にされた。

 

f:id:caritaspes:20190401012427p:plain

ミクローシュ・ホルティがハンガリーを救う

 

ハンガリーの海軍少将、ミクローシュ・ホルティは、國を乗っ取ったボルシェヴィキと闘うため、國軍を組織した。ベーラ・クンの赤色テロルに対抗して、ホルティは、「白色テロル」をボルシェヴィキに仕掛けた。ルーマニア軍の支援を以って、ホルティは、1919年の8月1日にクンとボルシェヴィキを倒し、自身が指導する社会民主党の下に新政府を樹立した。クンは、ロシアに何とか逃げ帰った。「赤色テロル」は終わり、キリスト教徒が猶太ボルシェヴィキから支配を取り戻したが、この短期間の支配で猶太人は恐るべき被害をもたらした。


ミクローシュ・ホルティ提督が共産主義者からハンガリーを取り戻す

猶太人のハンガリーの人々に対する残忍さの反動で、激しい反猶太主義の波を起こし、猶太人が権力から脱落するとすぐにハンガリー全土で大規模な虐殺が続いた。猶太人はハンガリー人口の5%に過ぎなかったが、貿易・金融・専門職の半分を占めていた。彼らは、劇場や映画産業を完全に支配し、殆どの新聞を支配していた。1939年にハンガリー政府は、反猶太法を施行し、それによって猶太人の産業や工業に占める割合を12%、専門職は6%に抑えた。猶太人はまた、官公庁の所有を禁じられ、更にジャーナリズム・劇場・映画産業で指導的な役職に就くことを禁じられた。

(次回は独逸革命です。キールの反乱からバイエルン、ベルリン・スパルタクス、そしてフライコープの英雄のお話を二回に分けて公開します。)

 

次回 ドイツ悪玉論の神話023   前回 ドイツ悪玉論の神話021