ドイツ悪玉論の神話024

ベルリンの「スパルタクス団の蜂起」

1919年1月5日、共産主義者スパルタクス団の蜂起」がローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒト(どちらも猶太人)の指導でベルリンで始まった。共産主義者は、準軍事組織を作り、それをいつも通り、ロシアのボルシェヴィキ赤軍に因んで「赤軍」と呼んだ。これらの部隊は主に軍隊経験のない、武装した労働者のならず者で組織されていた。スパルタクス団と警察の間で、血なまぐさい市街戦が町中で戦われた。

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ローザ・ルクセンブルク

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カール・リープクネヒト

       どちらも猶太人で、ベルリンのスパルタクス団(共産主義者組織)を率いた

 

政府は、ベルリンでの戦闘を避けてヴァイマル(ワイマール)に遷都した。その後、反乱を鎮めるために「フライコープ」の部隊が投入された。革命は、間もなく、共産主義者ボルシェヴィキを片方、保守の伝統的な中産階級と上流階級がもう一方とする内戦の様相を呈した。

共産主義者赤軍と警察やフライコープとの血なまぐさい市街戦は、他の独逸の町でも起こった。共産主義者は、その典型的なやり方で、まず、政治的指導者や政府の高官を暗殺し、そして、既に火の車であった経済に最大の損害を与えるストライキを組織した。兵舎や海軍造船所は、他の國有財産と同様に強奪され、街路のバリケードによって独逸の大小都市は、政治犯の領國に区切られた。「労働者と兵士の評議会」は、これらの全ての都市で結成され、旧体制の職員や高官は逮捕され、収監された。独逸中の王侯や皇太子は退位し、國外に亡命して消えて行った。

しかしながら、共産主義者の闘士は、規律正しい戦闘経験のあるフライコープの敵ではなかったので、反乱は早期に鎮圧された。共産主義革命家たちに対して容赦はなかった。何千人が殺され、ルクセンブルクとリープクネヒトもフライコープにより処刑された。この敗北の結果、共産主義運動は一時的に頓挫した。そして、革命は、1919年の8月に社会民主党(SDP)、フリードリヒ・エーベルトヴァイマル共和國初代大統領就任で終止符を打った。

この共産主義者の蜂起は、ヴァイマル共和國政府ではなく、それとは独立した独逸の愛國者準軍事組織として知られたフライコープが鎮圧した。フライコープは、共産主義による國家の脅威に反応して独逸各地で起こった動きで、上記の通り、主に戦争から帰還した兵士で構成されていた。彼らは、前職の士官に率いられていたが、國家主義に傾倒し、性格としては愛國的で超保守的であった。敵の赤軍とは異なり、フライコープは、高度に組織化され、指揮官は兵士から堅い忠誠心を得ていた。彼らは共産主義への敵意で結束しており、ヴァイマルの政府は、非公式に左翼革命家の蜂起を鎮圧するために独逸中の町でフライコープを使った。このフライコープの部隊の中にはやがては國家社会主義運動に吸収された部隊もあった。

 

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フライコープ 第一次大戦からの帰還兵による準軍事組織が独逸を救った

革命は失敗に終わったが、独逸はなおも第一次大戦のつらい敗北と同様に、それに引き続いた、復讐心に満ちた、懲罰的な平和条約、そして同時に、ロシアで起こったのと同じようなボルシェヴィキによる乗っ取りの驚くべき不安に起因する一種の被害妄想状態に置かれていた。独逸の人々は、勿論、ハンガリー同様、ロシアでのボルシェヴィキ革命で猶太人が果たした役割についてよく知っていた。そして、終わったばかりの独逸の共産主義革命で過剰出現した猶太人についてもよく気付いたのである。

ボルシェヴィキがロシアを支配した後、皇帝の指揮官に率いられた反対勢力の軍が組織された。彼らは、ボルシェヴィキの「赤軍」に対抗して自軍の事を「白軍」と呼んだ。スローガンは、「猶太人を殺してロシアを救おう」となった。ロシアは今や内戦を戦っており、その残虐性は底知れず、沸き上がる共産主義の國際主義は、まるで巨大な蛸が欧州全土にその足を広げたようであった。フライコープによって鎮圧したばかりの革命は、しかし、ボルシェヴィキの乗っ取りで終わった可能性も充分にあるのだ。独逸の人々は、猶太人-ボルシェヴィキの西洋キリスト教文明に対する陰謀について、そしてそれが独逸に対して実存する脅威であることを嫌と言うほど知らされた。結果として、また、独逸輿論のはっきりとした右傾化と相俟って、独逸人の間で反猶太主義の大きなうねりが生じたのである。

1922年7月2日、亡命中にシカゴトリビューン紙の記者との会見で、独逸皇帝ウィルヘルム二世は、「ロシアのボルシェヴィズムは、猶太人の所為だ、そして独逸もまたそうなのだ。私は王位にある間、余りにも彼らに寛容過ぎた。そして、今になって私は有名な猶太人金融業者に好意的であったことを後悔している。」と語っている。

英國の情報機関は、第一次大戦の開戦以前に既に協調する猶太人の共産主義革命運動を把握していた。1913年の7月16日発行の「英國情報総局」で、毎月の海外における革命運動の進展の検討として、記事の一つが次の様に述べている:
「ボルシェヴィズムは、今や猶太人に支配された國際運動である、という動かしがたい証拠がある。一致団結した行動、という観点での通信が、米・仏・露・英の指導者の間で行き来している。」

猶太人は、伝統的に充分に確立し、高度に効率の良い、猶太の利害に関する情報が素早く行き来する國際網を保持していた。

アドルフ・ヒトラーは、数年後にこの時期の事について振り返り、独逸の状況について次のように述べている。
「独逸は、六百万人を超える共産主義者を抱え、常識のない者だけが無視することが出来るような破滅的災厄の瀬戸際にあった。もしも赤色テロルが独逸全土に吹き荒れていたら、それは、欧州の西側諸國も無関心で居られる問題では無い事を悟ったに違いない。アジアの破壊的な世界強國がライン川と北海に防衛の前哨基地を置くかどうか、さもなくば、同じ土地が素朴な生計と隣接國との友好的な枠組みを望んでいる平和な独逸農民と労働者が住んでいるかどうか、の違いである。独逸を當に破壊しようとしていたこの脅威を防ぐことによって、國家社会主義運動は、独逸國民を守っただけでなく、欧州の残りの地域にも歴史的功績をもたらしたのである。國家社会主義革命にはたった一つの目的がある。それは、我が國の秩序を守る事、我が國の飢えた大衆にパンと仕事を提供し、名誉・忠誠と礼儀を道徳として涵養する事であり、他國を害する事とは全く違い、全ての人々に有益でありうるのだ。」

(次回はボルシェビキユダヤ人によるイタリア・スペインの乗っ取り計画です。)

 

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