女イルミナティ20

かなり多くの研究がある猶太人一家や個人が、隠れた上部組織の実効ある代理人として仕えたことを明かして来たが、何故猶太人がそのように行動して来たかを掘り下げた作家は殆ど居ない。通常、猶太人が悪性の存在であり、悪行を犯し、悪を成す者に仕えるのが猶太人の天性であるとると徹頭徹尾決めつけている。しかしこれが全体として真実でなければどうであろう? 結局のところ、猶太人無しではキリスト教も資本主義も我々が今日知る形では存在しなかったろう。我々の個人主義、自由、民族主義、そして倫理の思想もその僅かすら形成されなかったであろう。

もう一つの重要な事実はどの西側国家にも存在する比較的少数の猶太人に関わる。そのかなり大きな影響力にも拘らず、どのヨーロッパの街でも猶太人は常に僅かな人口構成しか成していない。それに加えて、我々は常に中傷者や反猶主義者の告発に相反する、猶太人の肯定的な影響も比較検討しなければならない。我々は常に、誰が告発していて、その理由が如何なるものかを熟考しなければならない。結局のところ、猶太人に敵は居ないのか? そしてこれらの敵は他の罪深き悪事を行う者たちから注意を逸らすための猶太人の名誉棄損活動の中で身を低くかがめていなくないだろうか? 告発者はイスラム教徒、キリスト教徒、無神論者、保守、自由主義者(リベラル)であろうか? 彼らの言っていることのどの程度が、汚く偏向していて、どの程度が動かぬ証拠により実証されているであろうか?

更に、「猶太人の陰謀」を暴露する作品を読んでも猶太の歴史の正確な説明は滅多に見かけない。旧約聖書預言者や賢者の目立った道徳にも拘らず、我々はごく少数の背教者や気狂いの類の犯罪や非行を理由に、中傷する人間が猶太人を祖先に持つあらゆる人間を非難しているのを見る。我々はこれが正しいかどうかを自問しなければならない。ツァーリ・ニコライ二世とその家族の暗殺について、全ての猶太人の前に責めを負わせることは正しいか、道理に適っているのだろうか? そうであるのなら、我々は「血の日曜日」虐殺(アイルランドのロンドンデリーで起こった事件)について全ての英国人に、聖バレンタインデーの虐殺アメリカで起きたイタリア人による事件)について全てのイタリア人に、責めを負わせねばならないであろう。

猶太人の中に株式市場の操作を通じて國を弱体化した者がいる、とか、猶太人がある国々(例えば帝政ロシア)を弱体化するのに重要な役割を果たした、とか、猶太人の中には巧みな第五列や手先として暴かれたものがいると言うことで、その最も主要な原動力がシオニストの猶太人の間の執念深い、時には凶暴なほどの、彼らの所謂「約束の地」―イスラエル国家の創設への渇望であることに我々は注目して来ただろうか? この途轍もなく重要な事実に心して、イスラエルが建国した後の猶太人の策謀継続を我々は主張できるであろうか? 個人的に著者はそうは思わない。大半の猶太人はそうではなかろう。

著者が思うに、世界の陰謀の中でのユダヤ人の役割は1948年以降、相当溶けてなくなったのではないか。これは、それが完全に排除されたと言っているのではない。しかし物事が劇的に変化してきたにも拘らず、それでも反猶太的作家はこの事実を認めようとしない。実際、西欧の指導者が猶太人の要求に応え、猶太人が何世紀も無駄に求めて来たものを提供した後では、誠実なシオニストネオコン猶太を西欧文化の友人や支持者として見る方が理に適っているのである。

猶太人の陰謀で残っていることは、今や、外敵からイスラエルの国家を保護することに大きく焦点を当てている。今日猶太の一番主要な敵がイスラムであることは疑う余地が殆どない。それはまた、死を招くイスラム共産主義の組み合わせで、陰謀論者が滅多に議論しない悪魔のような雑種である。実際、イスラム共産主義は、ちっぽけなイスラエルの国家のみならず、西側世界全体に脅威を及ぼしている。最近の巨大な程度の移民は猶太の利害によって組織化されたものではない。かかわった猶太人は大かたが無神論者-共産主義者のようで、言葉通りの意味での猶太人ではなく、従って、猶太人にも非猶太人にも同様に敵である。

明らかに、彼らは少数民族であるけれども、猶太人の中にはトルコ、イラン、シリアでのように國の首脳にまでなった者も居た。これ自体、彼ら全てが悪に仕えたことを意味するのだろうか? これは、彼らがその成功で反感を招いたことを意味するだろうか? 弱くて頻繁に迫害される集団として猶太人は自分たちを守るために、そして困難な状況の下で単に生き残るために賞賛されるに満たない行動をすることを学んだ、と想定する方がもっと論理的ではないだろうか。この通りだとしたら、彼らの振舞いは同じ境遇の他の少数集団と違ったのであろうか? 猶太人は、生き残ろうとする時に道義に反する手段を以て行動する唯一の弱小民族なのだろうか? ありそうもない悲惨な状況に苛まれて不道徳に行動することは、その人間が芯から悪であることを意味しない。高い道徳的立場から他民族のことを非難することは従って近視眼的、吝嗇(狭量)で道理に合わないことである。

そして、滞在国・地方の指導者から、或いは敵意のある偏見を持った隣人から自らが緊急に人道的扱いを受ける必要に迫られれば、法律を変えることで報いてくれる人間や禁制を除いてくれる人間や出世の機会を申し出てくれる人間に、例えばカネを貸すことでその好意を保証するように強いられはすまいか? 些細な不道徳の行動を以て、その人間自身やその人間の属する民族により大きな結果(実り)を確保することは、正当化されまいか? そのような振舞いは普遍的である。全ての種類の集団に於いて、何百となくこの様な例は多数ある。この点に於いて猶太人が特有であることはない。我々は皆こうするのである。

明らかに正常な人間はどのような集団或いは社会内でも悪い人間が潜伏して策謀することを認識する。(道徳的)罪 ―詐欺を、姦淫を、中絶を、そして大量殺人を― 犯す数え切れないカトリック教徒がいる。彼らはそれでも未だカトリック教徒と考えられる。完全にイスラムの経典に反する行いをする多くのイスラム教徒が居る。それらの人間をイスラム教徒でないと考える者はいない。再三悪い猶太人は猶太の長老や社会に破門されて来たが、それでもまだその苗字故に猶太人と考えられるのである。これらすべての状況に於いて、ごく少数の悪いキリスト教徒、イスラム教徒、或いは猶太人は、決してそれぞれのより広範な共同体の適切な代表とは言えない筈である。それは我々を何処に導くこともなく、ただ問題の真実を雲間に隠すだけである。

余りにも多くの反猶太主義の著作家が忘れているように、猶太民族の人々が何千年も通して、滞在地の国家から如何に魔物のような残虐行為に苦しんだか、忘れないで欲しい。猶太人により過去に行われてきたであろう不正な行為が、数え切れない凶悪なポグロム、殺戮、財産没収、追放、裏切り、職業的差別?(bar?)で埋め合わせするよりももっと多いと言うのは、妬みを抱く非猶太人により一部で彼らに為されるものだ。我々は、猶太人をその正当化できる軽蔑や優秀性で非難できるだろうか? 事実の客観的研究から導かれるのは、偏向していない人が少数の猶太家系に与えられた特権はよく、本当に得られたもの(つまり得るべくして得たもの)であると理解する、と言うことである。

「…猶太人は嘗てその希望を挫かれ、ギリシャとローマの継続する大君主の地位に屈服しなければならなかったのである」―R・G・S・ミード

「…『我が闘争』は猶太人に対する侮辱と中傷の不断の列挙である。猶太人は資本主義者であることからボリシェヴィキであることに至るまで、ノルマンの女性に対して無能であることから色情することに至るまで、文化的に取るに足らないことから世界征服の追求者であることに至るまで全てのことで非難されるのである。その告発は矛盾に満ちており、同時に真実であることは不可能である。」―ディネシュ・ドゥスーザ

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 カール・マルクスの短編作品「猶太問題に関して」


皮肉なことにここで著者が挙げる点はカール・マルクスによって完全に実証されている。彼の短編『猶太問題に関して』と言う本に見られるユダヤ教に関する下品な攻撃が全てを明かすのである。放蕩者で事大主義のマルクスは、猶太人が成功した資本家であることを以て公然と非難することでその馬脚を露すのである。彼は不注意にも、実際に、自らやその仲間のような破壊的な似非猶太人が普通のリベラル或いは保守的猶太人以外にいることを確認する。これは、普通の猶太人が存在し、彼らは政治的破壊に与していないことを意味する。マルクスの道徳性に対する憎しみは彼をして勤勉で神を愛する猶太人への悪意ある軽蔑を裏切らしめた。つまり彼の反ユダヤ主義は大半の猶太人が誰にも害にならないことを意味し、彼らの恐るべき敵は今も昔も彼自身のようなルシファー信仰者の似非猶太人であることを明確にした。(詳しくはこちら:https://www.amazon.com/Left-Wing-Anti-Semitism-internal-Jewish-spiritual-ebook/dp/B07DH8PTNR/ref=sr_1_1?keywords=left-wing+anti-semitism&qid=1582408152&s=digital-text&sr=1-1

勿論、我々はそれでも未だ中心的な逆説に対処しなければならない。道徳的猶太人は、陰謀的で殺人的な猶太人と混同できない。それは良いが、何故後者は存在し、何故その悪魔的振舞いとものの見方が存在するのだろうか? 著述家も研究者も誰一人としてこの問題に一貫した洞察を与えてくれない。然しながら、猶太教の秘儀(オカルト)の歴史深く探求すると答が明かされるのである。