ドイツ悪玉論の神話026

共産主義者によるチェコスロヴァキア乗っ取りの危険性

チェコスロヴァキアは、第一次大戦後、パリ講和会議によって人為的に造られた國家であった。その人口構成は、チェコ人、独逸人、ハンガリー人、スロヴァキア人、ルテニア人、スラブ人、それに猶太人と言う、種々の和合しない、論争好きな國民性を有する民族で成り立っており、それ故に當初から不安定であった。首都のプラハには猶太人が118,000人もおり、その殆どが共産主義者又はその同調者であった。これら、プラハに住む猶太人は、高度に組織化されており、公然とボルシェヴィキのロシアに同調していた。チェコスロヴァキア共産党(指導者は、ボフミール・シュメラル、クレメント・ゴットワルト、ルドルフ・スラーンスキー、ヴァーツラフ・コペッキー(Kopecký)、ヨーゼフ・グットマンその他全員猶太人)は、モスクワ本拠の共産主義インターナショナルコミンテルン)のメンバーで、虎視眈々とチェコスロヴァキアでの共産主義革命の扇動を狙っていた。

1938年9月に独逸がズデーテンラントを併合したのち、チェコスロヴァキアは、その人口の多い民族分布の線で周囲の國に領土を分割して、分解してしまった。後に残った前チェコスロヴァキアボヘミアモラヴィア-首都はプラハ、は、完全に防御が無くなり、共産主義者の乗っ取りに対して脆弱になった。この災難を防ぐ為にヒトラーは、ボヘミアモラヴィアを独逸の保護國とした。

英仏米の戦争屋は、実際のところ、共産主義をけん制するための手段であったはずのこの動きをそのように見る事はせず、ヒトラーの欧州征服の野望、あるいは世界征服の野望の更なる証拠と見る事を選択したのだった。

 

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    ボヘミアモラヴィアを保護國とした後、プラハで熱烈な歓迎を受けるヒトラーアドルフ・ヒトラーチェコスロヴァキア共産主義から救った

 

コミンテルンの目的? それは、世界征服

欧州での共産主義に対抗する闘争は、全て同じ類型であった。つまり、それぞれ、個々の國の國家主義勢力が、ソ連共産主義インターナショナルコミンテルン)に支払われ、支援された猶太人共産主義者によって指導・扇動された革命勢力に対抗するものであった。そしてソ連自身が猶太人の組織なのであった。共産主義インターナショナルの目的が世界征服であったことは、その記録に明白であり、そこでは次の様に宣言している。

共産主義インターナショナルは、統一世界共産党に至る、様々な地域の共産党の連合体である。世界のプロレタリアートの革命運動の指導者・組織者として、世界規模のプロレタリアート独裁の為に、世界中統一された社会主義ソヴィエト共和國の連合(連邦)の設立の為に闘うのだ。」

共産主義運動とは、疑う余地もなく、ロシアを支配した猶太人ボルシェヴィキがモスクワから指揮し、統率し、支援した猶太人の政治活動であった。彼らの目的は、世界征服だけでなく、或いは、少なくとも西洋文明の征服で、しかも同時にキリスト教の完全なる抹殺と西洋文明の根絶であった。

ロシアの小説家、ドストエフスキーは、(革命より)40年も前に1877年、その著書「作家の日記」の中で次の言葉を残している。

「欧州のあらゆる場所で猶太人が株式市場を支配していることは、理由がない事ではない。彼らが、資本を支配し、信用の元締めである事は理由がない事ではない。繰り返すが、彼らが全ての國際政治の支配者であることは理由がない事ではないのだ。来たるべきは、猶太的思考の完全なる勝利なのだ。人文主義の感傷も、真理への渇望も、キリスト教徒の感覚も、そして國家的な或いは民族的な欧州の誇りもその前にはひれ伏さなければならないのだ。そしてその未来については、猶太人自身にも知れ渡っている。彼らの統治は近づいている、彼らの完全なる統治が。」ドストエフスキー

ウィンストン・チャーチル1920年の記事「シオニズム対ボルシェヴィズム:猶太の人々の魂の戦い」で、彼の信じるところを「國際猶太」は「猶太人の支配による全世界的共産國家」を求めている、と記述している。

しかし、ロシアを除いて、猶太人共産主義の西洋文明に対する暴力は、ホルティ、ムッソリーニフランコヒトラーなどの忠誠心に溢れる人々のおかげで、悉く失敗に終わった。彼らは、共産主義を道半ばで阻止したのだ。今日彼らは、猶太人の宣伝工作の結果、不快な「ファシスト」として貶(けな)され、打ち捨てられているが、本来、彼らは西洋キリスト教文明の英雄として擁護者として持ち上げられるべきなのである。実際にそうであったのだから。

そしてこの欧州の支配をめぐる巨大な闘争は、不可避であり、それは結果的にソヴィエト連邦(國際猶太の代表)と独逸(西洋キリスト教文明の擁護者)の間の戦争に於いて、クライマックスを迎えるはずであった。もしも、英仏米が独逸を好きにさせていたとしたら、いや、寧ろ支援していたとしたら、國際共産主義は、その揺り籠の中で破壊されたことであろうし、今日の世界は随分と変わったものになっていたに違いないのである。

 

【ブログ主より】

今回は短いですが、ちょっと区切りが悪いのでこれまでとします。なお、ヒトラーチェコスロヴァキア保護国化に関してはもう少し後でもっと詳しく述べられています。

次回より、主題は「イスラエル(仮想)国家」と言う問題に切り込みます。

我々自身の問題として是非捉えて頂きたいのですが、国家というのはその国民を守る為に組織されたものです。古くは、「自由」と言うのは個人の自由ではなく、民族の自由を指す言葉でした。つまり、自由と言うのは、所謂ヴェストファーレン条約で決められた国家主権を堂々と主張する自由がある国家、と言う意味でした。そしてそれ故に民族の自由を守る為に戦った人々をどこの国でも英雄として歴史の記憶にとどめ、顯彰してきたのです。更に、その民族・国家を守る為には個人の自由など、ぼろ衣を脱ぎ捨てる様に、潔く打ち捨てて、誰も顧みなかったものです。

しかし、現代のわれわれはいつの間にか、酷く洗脳されて、個人の自由をその文化の範囲内で守ってくれるはずの国家を敵視し、無辺大の個人の自由(単なる我儘)を国家の自由に置き換え、それを声高に主張することが自由の様に錯覚してしまっています。そしてその害毒は遂に国家を敵視するだけでなく、国家を毀損し、その権威を貶め、無きものにしてしまおうという試みに成り下がっています。

当然、個人の自由と家族・社会・民族の仕組みの間には多かれ少なかれ軋轢があります。その中で最大限個人の自由や個性を尊重する姿勢は大切でしょう。しかし、個人の自由の為に家族・社会・民族を犠牲にする、と言うのは完全に間違った考え方です。人間の生活と言うのは個人の自由と家族・民族の伝統・仕組みとの均衡によって成り立つのです。何故なら、無辺大の自由は癌のような存在で、その均衡が崩れると、本来自由を保証してくれている国家に対して叛逆することになるからです。

閑話休題ユダヤ人は、この本来の自由を大切にします。但し、彼らが忠誠を誓うのは自分たちが住んでいる社会の大元の国家ではありません。自分たちが心の中に持っている、或いは宗教的に持っている仮想的な猶太国家に対して忠誠を誓います。従って、彼らは実際の物理的な国家に対して懐疑的であり、そのような国家よりも自由を大切にします。

それだけなら、問題はありません。そう言う民族として他民族の中で暮らせばよいわけです。ところが、彼らはその自由、と言うよりも寧ろ我儘・放蕩を声高に主張し、それを宣伝して自由の名の下に、自分たちが住まわせてもらっている国家とその文化・伝統を弱体化し、毀損しようとします。私には共産主義も形を変えた同じもののように映ります。要するに、何が正義か、何が自由か、と言うところで抑々伝統や民族、あるいは国家とは相容れない存在となってしまっているのです。

これこそが、現代におけるJQ 「ユダヤ問題」なのです。

 

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