筈見一郎著 「猶太禍の世界」01

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第一章 序曲篇 世界文明の癌

 

ヒットラーと彼の忌憚なき猶太観

一体、刻下世界の痛切に悩む猶太禍は、それ自身数世紀以来重りに重って来た癌とも称すべきもので、既に化石して動きの取れない旧態制世界から、より以上健全で溌剌新鮮な世界文明を齎すためには、それがどんな過程を経過して根治されて行くべきか? が、恐らく、今世紀の最大の宿題であり、それが逸早く独逸や伊太利に於いて着手され、日本もやがてそれに追随して善処しなければならない現況となった。

日本は猶太禍を対岸の火災視してはならない。否、それ処か、今日まで我国が知らず識らずに蒙った、その意外に甚大で猛烈な火の子を振り払うばかりに満足せず、それに対し飽くまで重大な根本対策を講じなければならない。

日本へも猶太禍は単に支那事変という姿でのみならず、文化や思想や科学哲学神学の色々な形式でやって来ている。この経過の非常に古いコズモポリタンな性質の慢性病は通例の正攻法で解剖を試みようとしては却々その正体を暴露し難く、その叙述も、動もすれば乾燥無味に流れ易い。

以下のページには、それであるから出来る丈、砕けた調子で、物語ともエッセイとも論策とも称されない形式で、これが本質に漸次肉迫して行くように努めたいと思う。

話は、便宜上、七年前の独逸から始めよう。

 

ベルヒテスガーデンの初夏

「次の戰は前の大戦とは全然様相を異にするだろう。歩兵の攻撃や、厖大な密集陣の備えを成すということなんかは時代遅れとなるよ。あのスイス国境からドーヴァの海岸まで蜒々とした大陣地を築き合って所謂膠着した前線を四年間も保ち、どちらも完全に突破出来なかったという苦がい経験は最早繰返されぬだろうよ。あんなこっちゃ、戦争の退歩だよ。我が独逸は断然昔のより以上優れた自在を極めた機動戦に復して見せるよ。」

斯く話し出した主人公はヒットラー其人であった。頃は一九三三年の六月のこと、處はベルヒテスガーデンの山荘のヴェランダで滴るばかりの新緑を見下し、心持のよい山気をウンと胸一杯に吸ってであった。集った客は孰れも彼の腹心の気の利いた人物ばかり数名。

今から七年前のこの時ヒットラーはまだ宰相で翌年物故したヒンデンブルグに代って総統となる一歩手前であり、今日程もその口が重々しくはなく、尠くとも彼の親近のものには宰相が絶えず其心中に如何なることを考え、如何なることを実行に移そうとして居るか、格別よくわかっていた時代であった。皆はその盤石のような絶大な自信や抱負に蹴落され引きづられ説得され、しかも其片言隻句がいつかは悉くうそやいつわりでない厳然たる現実となるので、ヒットラーの一言一行には予言者否な神にもまさるような尊敬を早やひそかに衷心から捧げていたのであった。

世界を懾伏させる運命を担ったこの偉人の驚くべき的確な現実への見識とか、将来への見透しというものは、恐ろしく時流を抜いたものであった。時に天才は狂気にさえ見えるものだ。彼は団栗の背くらべも同然な英・米・佛・その他の名ばかりいかめしい第一流の政治家とか、軍人とか、学者とか、論客とかとは其見解を全く異にしていた。

 

ヒットラーの信条対猶太文化

ヒットラーはその信条とする国家社会主義に基く、生々流転して寸刻も休むことのない活力に充ち満ちた科学のみの必要を主張し、あの最早その当然な機能を発揮することの出来なくなった事実に於いて化石状態に陥り、死んだも同然な猶太人本位の自由主義や民主主義の科学を疾くより排斥して来たのであって、そのような科学には純然たる真理も道徳もあろう筈がないと、時には極言をさえ敢てして来たといわれる。一言にして謂えば、ヒットラーは実行の科学なり哲学なりを主張しているのだ。実行を外にしてはそれらは何等の価値をも生ぜぬというのだ。この点、勿論相当の例外は許されようが、今日まで猶太人が中心になって作り上げた彼等に都合のよい主義や学問が、口ばかり達者で実行には意外に疎いのとは大分趣を異にする訳である。

ヒットラーは世界の現実に堅忍な意志、燃えるような熱情、決然たる行動を以て常にぶつかって来た。そこに彼の彼らしい本領が窺われる。

 

ヒットラーの特異なゲーテ

ヒットラーは、必ずしもゲーテの愛好家ではないが、ゲーテの、「抑もこの世界の初めには実行があった」という不磨の文句には堪らない愛着を感ずるという。この文句があればこそゲーテには他に多くの不満を感ずるが恕(ゆる)してやってもよいと常によく物語っているのである。実行する人々のみが現実の世界を正視出来る。実行をせずして知識を要らぬ方面に誤用するのは怪しからぬと彼はいつもいきまくのである。人がこの世界に生れた以上は、その所信を実行せねばうそだ。実行する人間こそは、この世界の天職を立派に果して行くものだ。彼是、理屈ばかり唱える時代は最早や疾(と)うの昔に過ぎ去った。徒らに思索ばかりに耽けるものは生命の位置を沒却(ぼっきゃく)した死人だ。

たゞ行為及び絶えざる活動のみが生命に意義を与える。彼は偏見から離れた氷のように冷静な広大な何等拘束されない態度を以て、あらゆる事物にぶつかって行く。ヒットラーはこの世界を偏狭な猶太の自由主義や民主主義から解放すべき人類の最大救済者たることを自ら任じていて、そこに天帝の摂意があると信じてやまない。

 

ワグネルを熱愛するヒットラー

ヒットラーの心中には、ワグネルという彼の思想の力強い鼓舞者があるのだ。ヒットラーはワグネルを単なる音楽家や詩人としては片付けない。偉大な独逸民族精神を昂揚した予言者として見ている。

ヒットラーは年少の時から、偶然であったか、それとも天の思召であったか、ワグネルを耽読し、言い知れぬ価値を悟るに至った。そこに書かれているもの表現されているものは奇しくも若きヒットラー自身の胸奥の琴線に触れ鏗然(こうぜん)と魂が高鳴った。彼のそれまで眠っていた潜在意識や自信をもくもくと躍動させるに至った。

一旦廓然(かくぜん)とドイツ民族の偉大な精神に目覚めたヒットラーは、それと共に忽ちこの世界が猶太の文化に掩有されているのに異常な嫌悪を感じるようになった。彼としてはさもあるべきであった。この時から猶太人に対する嫌悪は募って行った。真の独逸を打ち立てるのには、先ず独逸のあらゆる事物を猶太文化から引き離さねばうそだと思い立つに至った。

 

ヒットラーのアンチ・セミチズムと基督教の問題

ヒットラーの反猶太思想というものはかくして根本的なものとなった。彼は啻に猶太教を信ずる猶太人を排斥するばかりか、猶太人のイエスによって始められた基督教そのものは世界の文化をゆがめている。ドイツ民族の精神を表面から抹殺さえしてしまったと憤慨しているのである。このヒットラーの心持は基督教に凝り固っている英米人には一寸理解が出来ないであろうが、皇道を重んずる日本人にはよく判るであろう。

 

日本神道ヒットラーの神の観念

それならヒットラー無神論者かというと、そうでもない。彼の民族精神中に発見される神を信じているのだ。換言すれば彼自身中に髪を発見しているのだ。これは日本人の神への観念に余程近づいている。ただ日本人程に、祖先崇拝は徹底していないようである。この点は物足らない感じがするが、それは國體の相違が、先ず第一に然らしめるのであろう。

日本基督教の行衛はどうなる?

これは余論であるが、こういう意味で、日本でも今後の基督教の取扱いというものは、大分に喧しいものとなって行くのが当然である。仏教でさえ完全に日本化された。今日の基督教は、もっともっと日本化されるべき必要が存するのではないかと、私は思っている。今までの我国の基督教の扱い方は余りに寛大であったように感ぜられる。本年の四月一日に宗教法が発動された。

日本の基督教の各派は従来の外国依存を全く脱してしまった。今後もっと日本精神をウンと高調した基督教とすべき必要に迫られている。この意味で日本で常用されるべき聖書の内容には、もっと多くの検討を加えられるべき急務があると思うが、どうであろう。

今の聖書には千古不磨の名言も夥しくあるかわり、排斥すべき譫言もそれに劣らず随分沢山あるではないか、後者には猶太流の尤もらしい牽強付会な解釋を付して誤魔化しているが。それにあの聖書には要らぬ重複があまりに多い。今や日本の基督教は一つになって、それらをすべて純化簡約すべき義務が負わされている。然らざれば急テンポの世の中に我が日本の基督教は全く置いてけぼりを喰うの外はないであろう。

さて、ナチスの領袖は、すべてヒットラーの以上に述べたような宗教観を肯定し、是認しているのである。さもなければドイツ民族の興隆は望まれぬとしている。

 

山荘の話は酣(たけなわ)

話は本筋に帰って、ベルヒテスガーデンの山荘でのヒットラーを中心とした主客の談話は一層はずんで来る。

ヘスが尋ねた。「宰相、それでは佛蘭西のマヂノ戦はどうして突破するのですか。どうしてあの抵抗力を無くすのですか。新しき電撃戦でもやるのですか、それともバクテリア戦ですが。」
バクテリア戦には自ら限りがあるよ。毒ガス戦も些か古いね。それは敵方に利用されることはされるだろうが。それに対しドイツも対抗上用いなければならぬとすると、その毒ガスたるや必然的に空前の猛烈なものとなるよ。併し、将来の戦線は既に言った通り膠着しないのだから、そいつの利用はあまりないだろう。使おうとしても使う機会を与えないのだから、将来の戦争には前線ばかりか国民と国民との総力戦をも意味することは必定だ。それに思想戦も必ず伴うよ。ただに相手方の肉体力ばかりか精神力を消磨させなければ本当の戦いとは言えなくなる。その点我等は平時にあっても戦時にあってもユダヤの国際秘密力には大いに警戒しそれを撲滅する要を感じているよ。戦争に臨みては戈を交える以前に当りて相手の気力活力を殺いで置く必要があるね。僕は次の戦いにはこの意味で神経戦を亦大いにやろうと思うよ。」ここに至り宰相の意気は天を衝くの慨があった。彼は確信に充ちた言葉で更に話を進めた。
「こうしてこそ始めて英国を参らすことが出来るのだ。」

 

猶太化のアメリカは恐れるに足らぬ

ゲッベルスが問うた。「アメリカは再び欧州の事柄に嘴を入れるでしょうか。」
「そいつは何とかして止めにゃならん。それには吾輩に秘策がある。アメリカというやつは、何も恐れるには足らぬ。現下の合衆国はいつ革命が爆発するかしれない棄権に瀕している。

余に取っては適当な時期にアメリカに不安を醸成させ、場合によれば反乱を起させるのは容易だよ。戦争は前線に戦うものの夫れではなく銃後の善処如何が究極の勝負を決するものだ。その点になると猶太化のアメリカは駄目だね。余は戦うとすれば一九一四年にカイゼルが始めたような馬鹿な戦争を再演しない。断じてそんなことはやらない。勝算歴々でなければ立ち上がらない。

からして前轍をふまぬように自分は最善の努力を払っているわけだ。自分は過去の小さな経験には囚われぬつもりだ。必ず新らしい何人にも、意外な戦法に出るよ。今時の軍人の頭は古くて化石している。誰がそんなものを学ぶものか。マジノ線なんか余の企図を阻止することは到底出来っこないのだ。独逸の空軍は、今に見てい給え、圧倒的に世界最強のものとなるよ。」

列座のものはヒットラーのこの凄まじい意気込みに全く頭から呑み込まれたからだ。

 

来るべき戰は猶太財閥の望む如く長期戦か

「空襲は空前を極めた惨状を呈するだろう。敵国はドイツの空襲に全くまともに抵抗する手段も発見出来ぬだろう。勢い可哀そうな話だが、敵の民衆もその側杖を喰うに極っている。それは何とも致し方がない。だが、これは却って彼ら全体にとっては福音となる。何故なら、かくして戦争が早く終結を告げるからだ。次の戦はこの前のようにそう長くは掛からない。遥かに、この意味だけでも、短く片付くよ。正直のところ、當てごとと何とやらは、外れやすいとの下世話の通り、これは戦争製造を商売にする猶太財閥の大痛たごとになるだろう。この点、僕の仕事は、ビスマルク又はその後の如何なる名将以上に困難を極めるのだ。余の大体の目論見はマイン・カンプ即ち『我が闘争』に出てもいるが、次の戦争は、要するに、単純な軍事的に勝利を博するを以て満足してはならないのだ。否、単にヴェルサイユ旧体制の破壊のみを以てしては不十分なのである。欧州に新秩序を形成し、民主主義や自由主義の痕跡もなくして仕舞いたいと思っている。彼のマルクス一派の空想する階級なき社会なんかはもとより狂気の沙汰だ。それかと言って、階級をば金の袋の重さ次第で決めている民主主義の考えも等しく気狂いと称してよい。真正の意味の階級があってこそ初めて世界の新秩序が保たれるのだ。純粋の意味の少数の指導者が国家の中枢にガッチリ坐っていてこそ、国家の活力は存分に培養されるのだ。こうした適正な指導階級があってこそ国民に怨嗟なく真実の服従も生ずる。余には毛頭人間の不平等を廃止しようという考えはない。それ処か、人間の当然生ぜねばならぬ懸隔を必要に応じて深めてさえ行きたい。この見解に於いて昔に偉大な文明が生まれていたではないか。そこに全体としての国家の能率がウンと向上するわけだ。すべての人に同じ実行力がない以上平等な権利などがあるべきものではない。否、これを大にしては、国家の間にも平等はない筈だ。それぞれの国家には優劣が自ら生じ大小強弱が自ら生ずるのは勢いの赴くところやむを得ない自然の鉄則である。」ヒットラーの持ち前の淀みのない雄弁は江河の滔々と流れるが如く底止するところを知らない。

「ではブルジョアジーはどうなるのですか」一座の或る者が尋ねた。