ドイツ悪玉論の神話046

ニュルンベルク法-1935年

一方で同時にヒトラーは、独逸での猶太人支配と影響力を減らし、少数民族として問題にならなくする計画を進めていた。ニュルンベルク法、独逸における猶太人の法的地位を変更する法律、が1935年9月15日に施行され、すぐ後の國家社会主義党の年次ニュルンベルク大会に於いてヒトラーの演説により発表された。

ニュルンベルク法は、二つの法令で構成されていた。(1)「ライヒ民法」と(2)「独逸の純潔と独逸の名誉を守る法律」であった。

一つ目の法律は、猶太人から独逸の市民権を剥奪し、彼らを「ライヒの臣民」とした。つまり、合法の永住者だが、市民ではないという事だ。独逸の血統を継ぐ者だけがライヒの市民となることが出来た。二つ目の法律は、猶太人と血統独逸人の結婚や性的関係を禁止した。また、独逸女性(45歳以下)の猶太人家庭での雇用すら禁じた。法律に謳われた目的は、独逸の民族を保護するために必要と見做される独逸人の純潔を守ることにあった。

猶太人は市民でなくなったため、もう選挙で投票する事も出来なくなり、官公庁を持つこともできなくなった。彼らの独逸國内での移動と活動は制限され、彼らのパスポートには大きな赤い「J」の文字が刻印された。ニュルンベルク法は、猶太人をしてもっと友好的な海外に去ることを望ましめた。そしてそれは、正確に独逸が望んだ意図であった。しかしながら、ここで指摘しなければならないことは、第二次大戦が始まるまでは、猶太人は実際には出國することを強要されたことは決してなかった、という事、そして多数の猶太人が戦時中を通して何ら不都合なく独逸に残った事だ。

これらの法律は、國家社会主義者の官僚の間で誰を以って猶太人とすべきか、について熱い議論と大きな混乱という予期しない結果をもたらした。何故なら、多数の混血独逸人がいたからだ。國家社会主義者は、猶太人の祖父母を3人以上持つ人を「完全猶太」として定義することを確定した。混血猶太「Mischling」は、二つの等級で定義された。第一級混血は、二人の猶太人祖父母を持つ者、そして第二級混血は、一人の猶太人祖父母を持つ者とされた。混血猶太でも猶太教を信仰する者は完全猶太と考えられた。完全猶太人は、法律の全ての適用(制限)を受けたが、混血猶太人には、その猶太人性の程度に応じて適用された。混血猶太人は公僕として、また、他の職業でそのまま務めることも出来た。

驚くべきことに、多くの独逸に居た猶太人は、ニュルンベルク法に対してほっとした感覚で反応した。それは、彼らの立場が明白になったからである。彼らは、ある程度の不便を強いられるであろうけれども、これでまた自分たちの生活を続けることが出来るのであった。これらの法律によって立腹するどころか、独逸の猶太人共同体の代表と独逸のシオニスト運動の代表、ゲオルク・カレスキー(Kareski)は、これを支持した。1935年12月23日付のAngriff誌(雑誌)との記者会見で彼は、長年に亙って二つの民族(独逸人と猶太人)を分かつ方法を模索してきたが、この人種差別法は、猶太人にとって有益である、と語っている。猶太人も民族の純潔の維持について独逸人と同じくらい利害を感じていたのである。独逸の猶太人は、長い間、自分たちが徐々に多数派の独逸人に包含或いは吸収されて、猶太人としての固有の帰属意識を失うのではないか、と懸念していた。そして、猶太人の指導者は、長い間猶太人以外との結婚を避けようとしてきたのだった。

ニュルンベルク法の施行後、独逸の猶太人は沈静化して行き、次の4年にかけてそのままだった。即ち、第二次大戦の始まりまで、そして戦争さえなければ、沈静化したままであっただろう。

これが、國家社会主義者シオニストの関係であった。しかしながら、この協力関係は、今日の主流派のメディアや公式歴史文献には顕われない。逆に、そのような情報は、今日、注意深く隠蔽されているのである。

 

シオニスト運動

シオニスト運動」自体は、正式には1897年にオーストリア=ハンガリー帝國のジャーナリスト、テオドール・ヘルツェルにより、彼の著書「猶太國家」の出版後に始まった。その著書の中で彼は、當時オスマン帝國の支配下パレスチナに猶太人の祖國を求めた。シオニスト運動は正式にはヘルツェルに始まったが、パレスチナに猶太人の祖國を と言う考えは、それより幾分前から温められていた。

シオニズムはその運動としては、世界中に離散(ディアスポラ)している猶太人がイスラエルの地に猶太の主権の「回復」を以って「祖國」に「帰還すること」を主張していた。國際猶太はこのシオニズム問題を巡って二分されていた。支持する者もいたが、多くが反対であった。更に、シオニズムの考えにはいくつか間違いがあった。先ず、世界の猶太人の殆どが先祖をイスラエルの地に持っていなかった。何故ならおよそ85%の世界の猶太人は黒海の北側、東欧に住んでいたカザール人の子孫であり、パレスチナセム族ではなかった。しかしそれを別にしても、當時の大多数の猶太人はパレスチナでの居住を望んでいなかった。何故なら彼ら、特に米國に移民した者は、それぞれの場所で仕合わせにしていたかったのである。中にはルイス・ブランダイスの様な熱心なシオニストの顕著な例外は居たが、殆どの米國の猶太人は米國こそ「新しいエルサレム」だと信じていた。猶太人は米國に於いて非常に成功した。それは、世界の猶太人の力が米國に移るほどの成功であった。彼らには全くもって何も去る理由がない。しかし、彼らは欧州に於いても成功している。そして國際猶太の西側全般における力は、どれくらいたくさんの猶太人が居るかにかかっている。彼らは、猶太人の祖國をパレスチナに建國して何百万もの猶太人を呼び寄せることは、猶太の欧米における力を弱めるのではないかと考えた。裕福で有力な猶太人、特に米國の猶太人はその影響力を使って移送協定を妨害工作しようとし始めた。欧米の反シオニスト猶太人は、反「ナチ」宣伝工作の一番の大元であった。シオニスト猶太人は独逸國家社会主義者の指導者と協力する傾向にあった。それは、彼らが独逸の猶太人全てをパレスチナに移民させたかったからであり、一方でシオニズムに反対した猶太人は、辛辣な反独逸宣伝工作戦を続け、更には、独逸に対して宣戦布告までしたのだった。

1939年までに独逸の猶太人の三分の二以上が自発的に平和的な手続きにより、つまり財産も持って行くことを許される中で、移民した。独逸の「猶太人問題」は、三分の二が解決した-平和的に-第二次大戦が始まるまでに。ところが、猶太人のパレスチナイスラエル)への移民は、英國パレスチナ人との政治的な問題により、止められた。これが無ければ、残りの独逸の猶太人の殆ども独逸を出國したかもしれない。1941年10月までに僅か16万人の猶太人が独逸に、4万人がオーストリアに残るのみとなった。

移籍条約の支援によって、数十万人の猶太人が欧州からパレスチナに移民した。1940年9月、パレスチナの猶太の新聞の支局「パルコール(Palcor)」は、50万人の猶太人移民が既にオーストリア、ズデーテン、ボヘミアモラヴィア、そして独逸統治下のポーランドを含む独逸ライヒから到着した、と報告している。にもかかわらず、1950年以降、全欧州諸國からパレスチナへの猶太人移民の数は合計でたった8万人と主張されている。一体、残りの42万人の猶太人は、どうしたのだろうか?1940年時点で、彼らは恐らく、後になって彼らが「ガス室で殺された」と報告されるとは夢にも思わなかったことであろう!

(次回は第一次大戦後、ヒトラー政権に至るドイツの悲惨な経済状態です)

 

次回 ドイツ悪玉論の神話047   前回 ドイツ悪玉論の神話045