ドイツ悪玉論の神話047

第十三章 ヒトラー政権下の独逸の暮らし

ヒトラーが政権に就いたとき独逸はどん底の破産と深刻な借金の中にあった。ヴェルサイユ条約は、独逸人民にとてつもない賠償、独逸が第一次大戦の連合國の戦費をすべて支払うという要求をする賠償を課した。これは全く現実的ではなかった。と言うのは、すべて合わせた戦費は、独逸の全ての國内資産の合計の三倍にも上ったからで、完全に独逸の支払い能力を超えるものであった。それと同時に条約は、独逸にこの非現実的な賠償を他の手段、炭鉱や商船や最も肥沃な農業地帯を接収し、他國に割譲するなど、を以って支払うように要求したので、独逸の支払い能力は一層低下した。これらの要求が非現実的だったことと同様に、フランスは、それでも賠償金を予定通りに支払う事とし、そして賠償金の支払いを強要する目的を以てラインラントに兵を送り、占領した。独逸の陸軍は条約により10万人に制限され、侵攻に対決するには少なすぎるどころか、國内の治安も効果的に出来ない状態であった。

独逸は二重の縛りの中にあった。独逸は、賠償金を支払うよりほかなかった。しかし、何を以って支払えるのか?返済計画通りに支払う為に、独逸政府は、紙幣を印刷する手段に訴えた。しかしそれは、予見できるように、インフレを誘発した。一度インフレが始まると、個人の通貨投資家が飛び入り、インフレによって金を稼ごうと、マルクを短期売りした。これは独逸マルクの価値の急落を招き、インフレスパイラルとなり、直ぐに制御不能に陥った。猶太人は、独逸の財政と金融市場を完全に支配しており、これら通貨投資家の殆どが猶太人であった。彼らがこのインフレスパイラルに果たした役割は大々的に公開され、従って独逸の人々にはよく知られていた。インフレは制御不能となり、最悪の時には、乳母車一杯のマルク紙幣でパン一斤が買えないほどであった。

倹約家で、いつも思慮深く貯蓄していた独逸の中流階級は、このインフレにより広範に被害を被った。彼らの貯金はただ単に目の前で蒸発したのである。マルクの価値が余りにも急激に落ちたので、物価は一日に何度も上方修正されるほどだった。これを補償するため、雇用主は雇用者に一日二回支払いを始めた。これら、憐れな独逸の人々は、賃金を手に、文字通り見境なく商店に駆け込み、価格が上がる前に何でもよいから価値のあるものを購入した。どんな商品でも、価値のあるものは當然、時間刻みで値打ちが下がる彼らの手持ちのマルクよりは好ましかった。この野性的な消費は、独逸に束の間の経済ブームを巻き起こし、直ぐに萎んだ。インフレスパイラルの余りの速度に物価は急速に上がり、人々は稼いだ賃金では充分な食糧さえ買うことが出来なかった。彼らは、物価の急激な上昇に賃金や給料の支払いが(時間差があり過ぎて)追い付かず、やけくそになって持ち物を売り飛ばしてはやっとのことで自分たちと家族を養うのに充分な食糧を購入した。質屋は繁盛した。数えきれない家屋、農場、それに商業ビルが銀行に接収された。外資が扱える者、特にドルが扱える者が独逸中の資産を二束三文で買いあさり始めた。私営の銀行や質屋はその殆どが猶太人の経営であり、猶太人こそが外資を扱える者であった。結果として猶太人はインフレで裕福になる一方、普通の独逸人はあばら家に住む身分に没落し、多くの場合、餓死した。

 

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1923年のハイパーインフレ時に価値のなくなったマルク紙幣を掃いている


英國の歴史家、アーサー・ブライアント卿の著書「未完の勝利(Unfinished Victory)」(1940)によると、
「この千載一遇の機会を掴むことが出来たのは、國際的な集団に属し、金融に関する世襲の才能を持っていた猶太人であった。彼らはそれを実に効果的に成し遂げたので、1938年11月時点、つまり反猶太政権と迫害の5年を経てすら、ベルリンのタイムスの特派員によると、彼らは未だライヒの不動産の三分の一程度を所有していたそうだ。それらの大部分はこのインフレの最中に彼らの手に渡ったものだ。しかし、これら全てのものを失った人々にとっては、この途方に暮れる譲渡は、恐ろしく不正義に思われた。長期に亙る艱難辛苦の末に、彼らは自分たちの最後の財産を奪われたのである。彼らは、これらの所有物が全く知らない人間の手に、その大半が同じ犠牲を払ったものでもなければ、自分たちの國の規範や伝統にこれっぽちも敬意を示さない人間の手に、渡るのを見たのだった。」

1923年のインフレは、結果として、独逸史上最大の、ある集団から別の集団-独逸人から猶太人-への財の移動となった。そして、予想される通り、これにより、猶太人に対する激しい怒りと敵意を持つようになった。

これだけではまだ充分でない、と言わんばかりに、インフレのすぐ後には、世界大恐慌が起こり、既に脆くなっていた独逸の経済は特に酷くやられた。独逸の失業率は恐慌の最悪時には欧州で最も高く、30%に上った。これは、米國での24%をも超えるものであった。独逸の大恐慌米國より単に酷かったのではなく、ずっと深刻であった。悲嘆に暮れる親が、飢える子供たちをどうする事も出来ず、死んでいくのを看取る事しかできなかった。人々は家を失った。梱包用の木枠で作った掘っ立て小屋の町が独逸中のあちこちの街にそして森に現れた。彼らは生き残るために炊き出しのスープを蕪、馬鈴薯、雑草などせびり取れるものは何でも使って作った。

1933年の初めごろには、独逸の人々の悲惨は、殆ど全体に行き渡っていた。少なくとも600万人の失業者と空腹の労働者が目的もなく、食べるものは何でも、或いは食べ物を得る為の僅かな稼ぎを得ようと街をうろついていた。政府は失業手當を支払ったがそれは半年に限った事であった。その後は、何も保障は無くなった。それに、手當で支払われたものも全く不充分であった。しかもこれらの失業者は家族を養わなければならず、結果的に二千万人程の独逸人、つまり人口の三分の一が飢餓状態にあった。

 

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失業事務所の行列(1930年独逸のハノーヴァー)


福祉予算(支出)は、独逸政府の歳入の57%に上った。社会全体が崩壊に瀕していた。幸運にも仕事にありついていた人々も賃金・報酬が厳しく減らされていた為、そんなに恵まれていなかった。知識階級も同様に、いや寧ろ労働者階級よりももっと酷く打ちのめされた。大学卒業者の失業率は60%に達した。高い教育を受けた人々が、どの様な仕事でも引き受けます、と背中に書いているのがベルリンの街で見られた。しかし、仕事は無かった。一番酷かったのは建設業の労働者であった。90%が失業した。

農民もこの二つの経済的災難、インフレと数年後それに続いた大恐慌でやはり破滅した。多数が住居や土地を抵當にすることを強要された。しかしそこで、経済が「破綻」し、不動産の価値が急落し、1932年には、今日の用語で言えば、これらは、借金の価値との割合で「不良債権」となった。利息が支払えなくなった人々は、自分たちの住居や農場が競売に付され、結果的に外資の取引ができる人間(再度、主に猶太人)が普通の、しかし不幸な独逸人の窮乏につけ込んで金持ちになった。1931年と32年、17,157件の農場、総面積にして115万エーカー(約46万5千ヘクタール、68キロ四方)が、この様にして借金のかたに換金されたのだった。

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