ドイツ悪玉論の神話059

第十六章 アンシュルスオーストリア併合(独墺の統合)

1919年の25箇条の演説に始まるヒトラーの最優先の目標の一つは、全ての独逸の人々の単一國民國家への統合であった。ヒトラーオーストリア人であったが、常に自分を独逸人と呼んでおり、オーストリアを独逸の一部と考えていた。第一次大戦後、パリ講和会議で巨大な多民族帝國、オーストリア=ハンガリー帝國はバラバラにされ、オーストリアには、残存部分として、人口680万人の、大部分が独逸人の小さな國家が残された。オーストリア=ハンガリー帝國の一部としてオーストリアは、比較的自給自足できる経済系の最も重要な部分であったが、今や、巨大帝國から削り取られ、ちっぽけな独立國家となり果てたオーストリアは、もはや、経済的に生存できる実体ではなかった。オーストリア=ハンガリー帝國から賄えた原材料資源や製品の輸出市場から切り離された。オーストリアは独逸語圏で、独逸人の國家であり、オーストリア=ハンガリー帝國無き後は、独逸と結びつくことが理に叶っていた。更に、オーストリア、独逸双方にそれに対する強い支持があったが、ヴェルサイユ条約は、特にそれを禁じた。実際問題、第一次大戦は、第一に独逸の領土と力を減じるために戦ったもので、ヴェルサイユ条約は独逸が再び超大國になる事を避けるための方策であった。この理由により、戦勝國は、一貫してオーストリアと独逸の統合に反対した。

オーストリアが経済的に自立できない國であることが明らかになるに連れて、独逸との統合に対する人々の支持は増加した。1930年代初頭までに独逸とオーストリアの人々の間で統合に対する支持は圧倒的であった。少なくとも80%のオーストリア人が独逸との統合を望んていたと推定され、ほぼ同じくらい高い割合で独逸人も望んでいた。準備段階として1931年に独逸とオーストリアの二國間で自由貿易と旅行の自由を許可する税関の統合が試みられたが、協定はフランスとチェコスロヴァキアにより顕著に外からの力で阻止された。この二國はこの協定をヴェルサイユ条約の合意を逃れる企てと観た。25%に上る失業率と飢える國民を前に、オーストリアは、必死で貿易と生産性を増進する方法を探っていた。しかし、それは悉く、外からの力により阻止された。独逸との統合はオーストリアの諸問題をすべて解決するはずであり、また同時に國家社会主義者の「単一独逸國家」の夢を一部実現するものだった。

オーストリアはこの時期、政治的に左翼と右翼の間の争いによって分断されていた。伝統的なオーストリアの地方(田園地域)の殆どは、ブルジョアと共に保守派、カトリックキリスト教社会党を支持しており、一方、主に都市部の労働者、労働組合は、社会民主党を支持していた。共産党(KPO)と國家社会主義(「ナチ」)は、最初は端くれだった。共産党は、殆ど猶太人で構成されていたが、小さくて、独逸で持っていたような牽引力をオーストリアでは得られなかった。オーストリアの猶太人の大部分は社会民主党に属しており、これらの猶太人の殆どは、マルクス主義者を自任していた。党の指導者、オットー・バウアーは猶太人であった。また、平の党員は殆どがオーストリア人の労働者と猶太人に率いられた労働組合員だったが、党内の指導的役職はすべて猶太人で占められていた。

1930年代前半は19万2千人の猶太人がオーストリアに、殆ど全てがウィーンに居住していた。猶太人はオーストリアの人口の2.8%を占めていたが、ウィーンでは人口の10%近かった。ウィーンの総人口は、200万人足らずであった。その人口割合の少なさに拘らず、猶太人はこの首都を完全に支配していた。猶太人は新聞と銀行の三分の二を所有していた。また、大企業・産業の60%を所有していた。ウィーンの50%以上の弁護士、医者、歯科医などが猶太人で、大学教授の三分の一が猶太人であった。

ウィーン最大政党、社会民主党の猶太人支配を通してマルクス主義者の猶太人がウィーン市の行政を支配し、「赤いウィーン」として名を馳せた。彼らは市議会の過半数を擁し、労働組合も支配した。猶太人支配の社会民主党は伝統的に反宗教権力であり、反宗教的な美辞麗句を並べ立て、それをカトリック聖職者は「神無き猶太人ボルシェヴィキ」と揶揄した。

保守のキリスト教社会党は、オーストリアカトリック教会が支援していたが、他の保守政党との連立により、かろうじて、オーストリア政府の権力を掌握した。指導者のエンゲルベルト・ドルフースがオーストリアの首相となった。猶太人支配の社会民主党がウィーン市の行政を支配する一方、國の行政は、キリスト教社会党が支配していた。

この時までにオーストリアには國家社会主義党(ナチ)の支部が設立されていた。党員は独逸の同僚と同じ制服に身を包み、反マルクス主義と反猶太主義の同じ教義に追随していた。彼らは主にブルジョアの低層と農民に受容れられ、彼らの主な政治的目的は、オーストリアと独逸の統合であった。運動は緩慢であり、未だ國家社会主義者は國会に當選者を送るまでには至らなかった。しかしながら、1932年の地方選挙では、いくつかの地方議会で議席を獲得した。1933年にヒトラーが首相に就任すると、アルフレート・フラウエンフェルトに率いられたオーストリアの國家社会主義党は、即座にアンシュルス(独墺統合)実現に向けて勢力を集中し始めた。オーストリアの國家社会主義者は、自分たち自身が独逸に於ける國家社会主義運動の一部分であると考え、ヒトラーから命令を受けた。

ドルフースは、以前は独墺統合に賛同していたが、気が変わり、オーストリアにとって最良の道は独立を守ることだと決心した。ドルフースは敬虔なカトリック教徒で、彼はカトリックの反社会主義権威主義を築きたかった。彼は、独墺統合への反対について猶太人マルクス主義者支配の社会民主党から支持されたが、彼らとも一切関わりたくなかった。彼は、國家社会主義者(ナチ)に反対するのと同じくらい赤にも反対していた。

ドルフースのキリスト教社会党は、今や國家社会主義者共産主義者、そして社会民主主義者と四つ巴の争いを抱えていた。政権を維持するため、ドルフースは議会を解散し、オーストリアの國家社会主義共産主義を禁止し、首相に独裁的権力を集中して統治した。多数の國家社会主義者の指導者が投獄された。短期的な内戦状態となったが、ドルフース政権は勝利した。間もなくローマ法王との間に盟約が発表され、基本的にカトリック教がオーストリアの國教となった。

にも拘らず、ドルフース政権は持たなかった。彼は、なおも続くオーストリアの政争によるクーデター未遂事件で國家社会主義者によって暗殺された。ドルフース首相の後継者、クルト・シュシュニックは、オーストリアの國家社会主義者をこの際一気に潰してしまおうと決意し、即刻、彼らを集めて抑留収容所に拘束するなど、彼らに対する行動を開始した。シュシュニックの抑圧的な政権はオーストリア人に人気が無く、彼らの多数は実際には独逸との統合を支持していた國家社会主義者を好んだ。シュシュニック率いる、オーストリア政府を支配するキリスト教社会党と、ウィーン市の政治を支配する社会民主党(主に猶太人)は、独逸との統合に反対と言うだけの意見の一致により。奇妙な同床異夢関係となったが、他の問題では、殆ど全てで意見が違っていた。一方で、オーストリアの國民は、80%が独逸との統合を望んでいた。

1938年2月12日、ヒトラーはシュシュニックと國家社会主義者との問題について話し合うため、シュシュニックをバイエルンのベルヒテスガーデンの別荘に呼び出した。この会議中、ヒトラーオーストリアの首相に対して非常に高圧的態度で、オーストリアでの政治政党の禁止を解除し、政党の完全な自由を取り戻し、拘留されている國家社会主義者を釈放し、彼らが政府に参加できるよう許可するように殆ど彼に指図した。シュシュニックがこれらの指図に従う事に難色を示すと、ヒトラーは、軍事行動で脅した。シュシュニックは従うほかなかった。オーストリアの軍事力は独逸とは比べ物にならなかった。更に、オーストリア輿論は彼に反するものであった。

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