ドイツ悪玉論の神話061

ヒトラーオーストリア入りに同行したヘルマン・ゲーリングは、その夜、独逸の党幹部に電話して伝えている。「オーストリアでは信じられないくらいのお祝いだ。我々自身、これほど共感が強いとは夢にも思わなかった。」

ヒトラーは、その後、オーストリア中を回りながらウィーンで終わる凱旋旅行した。オーストリアが今、独逸の一部となったことを彼が宣言するのを聞こうと、20万人を超える巨大な群衆が、英雄広場を埋め尽くした。「これは私の人生において最も偉大な業績の時だ。独逸ライヒは、今日存在するように、二度と再び誰にも壊されることは無い」と彼は言った。

独墺統合は、即刻、プレビサイトによる承認により、施行された。適正なオーストリア有権者の登録を経て、選挙(投票)は、独逸・オーストリア両國で1938年4月10日に行われた、独墺統合は、オーストリア人の99.75%の「賛成」票、独逸人の99.2%の「賛成」票で承認された。

ヒトラーは「我が闘争」に書いている。「同じ血統の人々は同じライヒに居るべきだ。」

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オーストリア人は独逸軍の進駐を歓呼して迎えた

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ヒトラーは暖かく迎えられた

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ヒトラーのウィーン到着

 

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オーストリア人は独逸軍の到着に歓喜した

 

 

オーストリアキリスト教社会党の重鎮のテオドール・イニツァー枢機卿は、3月12日に宣言した。「ウィーンのカトリック信者は、この政治的激変が無血で起こったことを神に感謝すべきだ。そして、オーストリアの偉大な未来にお祈りすべきだ。言うまでもなく、皆が新しい体制の秩序に従うべきだ。」

オーストリアプロテスタントの会長、ロバート・カウアーは、3月13日に「35万人のオーストリアの独逸人プロテスタントの救世主で、5年に亙る苦難からの解放者」として、ヒトラーに挨拶した。

オーストリア第一次大戦後最初の首相となったカール・レンナーは、独墺統合への支持を表明し、4月10日には全てのオーストリア人に賛成投票する様に訴えた。

「独墺統合がウィルソン大統領の自己決定権の原理の適用に過ぎないとヒトラーが主張するのは、とても真っ當な尤もな議論である。」

「1938年3月危機(独墺統合への導火線となった)はオーストリア首相のシュシュニックによって挑発されたもので、ヒトラーによってではない。」
-A.J.P. テイラー 英國歴史家

「彼(チェンバレン)は、この不公正がどこにあるのかを困難なく認識した。1919年の平和条約によって未だに國家の再統合が禁止されているオーストリアの独逸人が600万人もいる。願いが一顧だにされないがチェコスロヴァキアの300万人の独逸人、紛れもなく独逸人35万人のダンツィヒの人々がいる」
-A.J.P. テイラー 英國歴史家

「独逸軍がオーストリアを占領した、と言うよりは寧ろ、熱狂する人々の中を進駐した。」-A.J.P. テイラー 英國歴史家

「大きな國の一部となる事により提供される物質的優位により、強められた感情と言語と歴史の引力、それは、國境の柵を無くし、独逸軍が花束の栄冠の中を進駐するとき、本物の歓迎を呼び覚ますのに充分強かったのだ。(中略)そこには広い意味での安堵が、ナチスからは遠い存在の人々にすら、あった。
-アラン・ブロック 英國歴史家

予期される通り、猶太人の書き手は違った見方をしていた。猶太人歴史家のウィリアム・L・シャイラーは、著書「第三帝國の興亡」の中で、独墺統合を「(ナチス独逸による)オーストリアの強姦」と呼んでいる。

ヒトラーは後に論評している。「ある種の外國新聞は、我々が暴力的な方法でオーストリアに降りかかったと書いている。私はただ、次の様に言えるだけだ。奴らは、死んでも嘘を吐くことを止めないだろう。私は、自分の政治的闘争の中で、我が人民からの愛を勝ち取った。しかし、以前の國境を越えて(オーストリアに)入った時、私はそれまでに経験したことのないような愛の流れに遭遇した。我々は、圧制者としてでなく、解放者として来たのだった。」

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