ドイツ悪玉論の神話060

オーストリアに帰國後、シュシュニックは、ヒトラーの指図に従い、弁護士で國家社会主義党の党員であるアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に指名した。彼は更にヒトラーの指図でアルフレート・ジャンザ(Alfred Jansa)将軍をオーストリア陸軍の参謀長から解任した。何故なら、ジャンザは独逸による如何なる軍事介入にも抵抗すると表明したからであった。ヒトラーは何としてもそのような対決は避けたかった。

しかし、ヒトラーの脅しからうまく身をかわすと、シュシュニックは独逸との統合に抵抗する立場に逆戻りし、その立場を続けた。彼は同時に独逸との統合を主張するオーストリアの國家社会主義党に対する抑圧姿勢も続けた。猶太人が殆どの社会民主党キリスト教社会党と同意する事は殆どなかったが、彼らは、シュシュニックを独逸との統合に反対する立場から支持する力となった。これら社会民主党(殆ど全員猶太人)の集団は、ウィーンの街じゅうに出て歩道や建物の壁にオーストリアの独立を支持する標語や独逸との統合に反対する標語をペンキで書きたくった。オーストリアの猶太人は、ヒトラーオーストリアのものも含めて、猛烈に國家社会主義者に反対し、ヒトラーの独逸と一切関わりたくなかったし、當然統合にも反対だった。ここで思い出してほしいのだが、國際猶太は、オーストリアの猶太人も含めてその頃も独逸に対する「聖戦」を続けていた。これは、だが、彼らをして直接オーストリアの人々に反対せしめ、既に高まっていたオーストリアでの反猶太主義の火に一層油を注ぐこととなった。

ヒトラーの指図に反して、シュシュニックは、プレビサイト(國民投票)を直後のオーストリア独立記念日である1938年3月13日に行い、オーストリアが独逸と統合すべきか否か決めると発表した。彼はそうしておいてオーストラリア全土を遊説し、オーストリア人の愛國心を急遽鼓舞して人々に独逸との統合に反対し、オーストリアの独立に投票するよう説き伏せる積もりであった。

シュシュニックのプレビサイトは、全てのオーストリア有権者を対象としていたが、年齢が24歳以上に制限されていた。独逸との統合に対して圧倒的に支持しているのは、若者、特に24歳以下の若者であった。他にも独逸との統合に反する投票を積み上げる為の様々な仕掛けがされた。仕掛けの一つは、有権者に統合に投票したと思わせながら、実は独立に投票させる紛らわしい言葉遣いであった。

 

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(左)アルトゥル・ザイス=インクヴァルトヒトラー (右)クルト・シュシュニックオーストリア首相


ヒトラーは、シュシュニックに激怒し、この状況の下でのプレビサイトを行う事は許せないと宣言した。ヒトラーオーストリアについて次の様に書いている。「長年に亙って選挙が全くなかった、そして投票する資格があるのは誰なのか決める手段のない國で、投票が発表されて、三日半足らずの間に行われる選挙だ。」ヒトラーは続けた。「有権者の名簿がない、投票用紙がない、有権者かどうか判別する手段がない、投票用紙の秘匿性を維持する義務がない、公平無私の選挙が行われる保証がない、票が適切に数えられる保証がない、等だ。」

ヒトラーは3月11日、シュシュニックに最後通牒を突きつけ、彼の退陣と國家社会主義者への権力移譲を要求し、聞き入れなければ占領する、と言った。伊仏英いずれの支持も得られず、また、國内の支持も少なかったシュシュニックは首相を辞任した。そして、國家社会主義者の内務大臣、ザイス=インクヴァルトが首相になった。これで國家社会主義党がオーストリア政府を取り仕切った。

独逸との統合問題を巡ってオーストリア中で暴動が発生した。そこで、新首相、ザイス=インクヴァルトは、ヒトラーに独逸軍を出動してもらうよう依頼した。そんなことが本當に必要であったかは定かではないが、それが独逸軍がオーストリアに進駐する口実として使われた。次の日、3月12日の朝、独逸の第8軍がオーストリアに越境してきた。彼らは全く抵抗に遭わなかった。それどころか、オーストリア人の歓呼する群衆に迎えられた。ヒトラーは同じ日の昼過ぎに車でオーストリアに入國した。彼の最初に立ち寄ったところは、彼の生地、ブラウナウだった。夕方には彼が育った町、リンツに入った。両方の町で彼は、圧倒的な歓迎を受けた。

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