ドイツ悪玉論の神話063

3月18日までに當局は、ウィーンの猶太人共同体やシオニスト組織を閉鎖し、ダッハウに移動させた。独墺統合の後の数週間で猶太人は劇場、公民館、図書館、大学等の仕事から解雇された。オーストリアの國中で猶太人は逮捕され、投獄された。

猶太人はウィーンの市内に集められ、街路や壁をブラシで擦って掃除することを強要された。下の写真は、広く公開されたその頃のもので、ウィーンの猶太人がどの様な惨い仕打ちと不適切な屈辱を強いられたか、の一例とされるが、何が起こったかについて、通常報道されていない合理的な説明もある。独墺統合に先立って、シュシュニックがオーストリアの独逸との統合に反対の運動をしていたとき、ウィーンの社会民主党は大多数が彼の支持に回った。殆どのウィーンの猶太人は社会民主党に属しており、猶太人として彼らは、強烈に独逸との統合に反対した。國際猶太は、結局のところ、独逸に対する「聖戦」を戦っており、それは、経済排斥運動と猶太系新聞の反独逸宣伝工作戦を含んでいた。この「聖戦」はオーストリアの猶太人からも熱心に支持され、また参加もしていた。独逸との統合は、絶対にオーストリアの猶太人が望まないことであった。

 

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猶太人はウィーンの歩道にペンキで書いた標語を掃除させられた これらの標語は、しかし、元は独逸との統合に反対する猶太人が書いたものだった

 

シュシュニックの運動を支援する為、猶太人社会民主党員は、反統合運動の標語をウィーンの街中の歩道や建物の壁にペンキで書いていた。これに、ウィーンの非猶太人住民 -大多数が独逸との統合を支持- は大層腹を立てた。街中の歩道や建物の壁に標語をペンキで書きたくったのは猶太人だった。そこで、猶太人はそれを擦り落として掃除する事を強制されたのである。この事実については、國際的な反独逸宣伝工作からは抜かれている。歩道の掃除計画は、確かに屈辱であったかもしれないが、それに正當性がなかったわけではない。しかし、正確に言えば、オーストリアの人々は、これらの裕福で、以前は権力を持っていた猶太人が歩道を掃除させられる屈辱に品の悪い喜びを感じたことも事実であろう。群衆は集まって、掃除している彼らに「シッ!」と言い、罵詈雑言を投げかけたのだった。

同時に猶太人の商店が突撃隊の人間に略奪された。彼らは、時には、(皮肉と合法性の見せかけに)領収書を置いて去った。猶太人の企業はアリアン化された、つまり、猶太人の持ち主がオーストリア人、つまりアリアン人に企業を売ることを強制された。処理方法は、明らかに一方的で例外なく猶太人にとっては大きな財務的損失であった。ウィーンの強欲は、オーストリア人が猶太人の富を手に入れようと互いに踏みつけ合う中で、制御不能に陥った。アメリカの猶太人ジャーナリスト、ウィリアム・シャイラーはこれら全てを目撃し、「サディズムの乱交」と記述している。

猶太人は大挙してオーストリアを去り始めた。役所の手続きを迅速化して、オーストリアからの迅速な猶太人の出國移民を手助けする目的で1938年8月に「ライヒ猶太人移民中央事務所」がウィーンのロスチャイルド宮殿に設立された。親衛隊長アドルフ・アイヒマンが管理者の一人として割り當てられた。1939年6月までにこの事務所は、11万人のオーストリアの猶太人の移民を手助けした。流れ作業の体制が確立され、猶太人はそれを通じて一段階一つの書類(と財産)を放棄しながら本人と家族が出國ビザを手に入れるまで一日で通した。アイヒマンはこの移民 -多くがパレスチナ行き- 手続きを地元の猶太人主導の役務によって実施した。

1939年6月の末にかけて、未だ残って民間部門で働いていた猶太人及び猶太人と結婚した非猶太人は解雇され、國を去ることを「奨励された」。この時までに何百と言う猶太人所有の工場、何千と言う猶太人企業は閉鎖されるか、政府に接収された。

1933年の独逸における猶太人の人口は約50万人、オーストリアでは19万2千人であった。1940年までに独逸にたった16万人、オーストリアに4万人が残っており、独逸とオーストリア合わせて、20万人であった。それ以外の全員は出國移民した。

これで、独墺統合は、ヒトラーが遂行すると宣言した項目の一覧から外れることになった。

(次回からズデーテンラント(チェコスロヴァキアのドイツ人居住地域)の併合です)

 

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