ドイツ悪玉論の神話045

第十二章 國家社会主義者シオニストは、実は猶太人の独逸からの移民で協力していた

猶太人の独逸からの移民の話に関しては、近年の歴史文献では完全に歪曲されており、また誤って伝えられている。独逸から出國する猶太人の移民は、ある種の密やかな企てで、出國を希望する猶太人は夜陰に紛れて、こっそりと國境を越え、山脈を超え、しかも全財産を捨て置いて去らねばならなかったような話として典型的に描かれている。その他の脚本では、猶太人が出國ビザの為に支払わなければならなかった法外な価格が描かれる。これらの琴線に触れる物語は、ただの馬鹿げた幻想にすぎない。

独逸政府が猶太人に独逸を去ってほしかった事、それに、そう説得する為に政府が圧力を強めた事も疑う余地がない。ライヒの反猶太行政は、否定することが出来ない歴史的事実である。また、猶太人には苛酷な苦難が課せられたことも現実である。しかし、猶太人の記憶に留まっているあらゆる誇張された物語と冒険話とは裏腹に、猶太人の独逸からの出國移民は、確立され、公開された手順による法的な出来事であった。

実際、独逸の政府機関と猶太人組織は、共に手を取り合って猶太人の独逸からの移民を促進するために協同した。独逸から出國移民に興味のある猶太人は、広範な助言・相談ができ、相當な援助を受け取った。独逸からの真夜中の危険な逃避行についてのあらゆる話は、全くの馬鹿げた与太話である。國家社会主義者は民族的に純粋な独逸人の國民國家を創りたかったのだ。独逸政府は猶太人に独逸から去ってほしかった。独逸政府は、猶太人の出國移民の邪魔などしなかった。そうすることは、自分自身の計画を危うくすることであったはずだ。だから、真夜中にこっそりスーツケースを手に独逸から抜け出さなければならなかったような猶太人などいなかった。

國家社会主義の本質は、独逸人が固有の民族であり、民族的・宗教的に同質の祖國を持つあらゆる権利がある、と言う訓戒であった。シオニストは、國家社会主義者に劣らず國家主義的で、同様に、猶太人が固有の民族で、否、他民族より優秀な民族、つまり彼らの言を借りれば「神に選ばれし民族」であると宣言していたのである。シオニストは、独逸が独逸人の同質の祖國を欲していたのと同様に、パレスチナを民族的・宗教的に同質の祖國にしようと欲していた。その意味に於いて、今日のイスラエルは、1930年代の独逸と何ら変わりない。「國家主義」は、國家社会主義の時代、欧州に於いて受け容れられた概念であり、それは、それぞれの「國籍」または「民族集団」は、國民國家を創立する自然権を持っている、と言う意味であった。ウィルソン大統領の「あらゆる人民の自己決定権」の概念が「國家主義」の概念の確認であった。國家社会主義者の、独逸民族占有の独逸の國民國家を持つ、という目的は、當時は、常軌を逸したことではなく、況してや異常なことなどでは決してなかった。独逸人が自分たちの民族集団に特別高い誇り(敬意)を持つことも當時としては何ら例外的な事ではなかったのである。

ほんの少数の猶太人を除くと、独逸は、1920年代から30年代には、殆ど完全に同質であった。猶太人の独逸からの出國移民促進は國の政策となった。そして、少なくとも第二次大戦が始まるまでは、実際に猶太人が出國を強要されることは無かった。この政策は、二つの目的に役立った。第一は、独逸からの外國的要素の「純化」であり、第二には、独逸の國家機関の支配を猶太人の手から独逸人の手に、もぎ取って取り戻す事であった。

独逸の猶太人出國移民促進計画は更に、パレスチナに猶太の祖國を造りたいシオニストの目的にも役立った。この目的に向けてシオニストと國家社会主義者は力を合わせ、積極的に協同して独逸からの猶太人をパレスチナに移民させることを手助けした。独逸のシオニスト聯盟(独逸國内のシオニスト猶太人の組織)は、新・國家社会主義政府に独逸人と猶太人の関係を「再検討する」役割の詳細な覚書を提出した。この覚書は、正式に猶太人の独逸出國移民の計画について國家社会主義者へのシオニストの支持を申し出た。第一段階として、覚書が示唆したのは、独逸人と猶太人の國民的違いの素直な認識でなければならなかった。覚書には次の様に記述してある。

「...我々の猶太人國民の認識は、独逸の人民とその國民的且つ民族的現実に対し、明確で誠実な関係をもたらすものである。當に我々がこの基本を偽らず誤魔化さないことを望み、また、我々も同様に雑婚に反対し、猶太人集団の民族的な純潔を維持し、文化的領域への侵害を拒否する為、- 既に独逸語と独逸文化の下で育てられたが-我々は、独逸文化の功績と価値観に尊敬と内面的思いやりを以って利害を示すことが出来る...

その現実的な目的のため、シオニズムは、基本的に猶太人に敵対する政府とでも協力を勝ち取ることができることを望む。何故なら、猶太人問題と取り組む際は、感情的なものを絡めず、その解決が全ての人民のそして現在特に独逸の人民の利益となる、実質的な問題を...

排斥運動の宣伝工作-現在独逸に対して多面的に行われているような事-は、元来非シオニスト的である。シオニズムは戦いをしたいわけではなく、説得して建設したいからである...

我々は、猶太人問題が現に存在し、将来に亙って存在するであろう事実に目を瞑ることはない。異常な状況では、彼らにとって激しい不都合の結果となるだけでなく、他の人民にとっても忍従しがたい状況になる。」

ヒトラーシオニストとの協力に非常に好意的な傾向にあり、シオニストもまたそうであった。英國の歴史家、デイヴィッド・アーヴィングに依ると、國家社会主義党の二大貢献者は、ベルリンの二大銀行の頭取、どちらも猶太人で一人は独逸のシオニズムの指導者であった。アーヴィングはこの事実を 彼の本「チャーチルの戦争」の研究中に、独逸のヒトラーの前任者首相であるハインリヒ・ブリューニング博士がウィンストン・チャーチル宛に1949年に書いた手紙の中で暴露している。

ヒトラーは猶太人が独逸の國内問題で支配的である問題を取り除きたかったので、シオニストと協力したかった。シオニストパレスチナに猶太人の独立した祖國を設立することに取り組んでおり、出来る事ならすべての独逸の猶太人にパレスチナに移民してほしかった。1933年の8月25日、ヒトラーは、猶太人代理人の代表、後にイスラエルの指導者となった構成員、と条約を結んだ。この条約は、ハーヴァラ協定、または移送協定(Transfer Agreement)と呼ばれ、猶太人を独逸からパレスチナに移動する計画であった。「ハーヴァラ」とは、ヘブライ語で移動、または、引っ越しを意味する。独逸の内務省は、この計画の物流担當となり、独逸銀行(Reichsbank)と独逸の國庫が大量移民の財務の責任者となった。1933年の11月までにこの計画は大々的になり、1942年に入ってもしばらくは機能していた。その目的は、出来るだけ猶太人に不都合なく、平和的で痛みのない独逸からパレスチナへの猶太人の移動を主導する事にあった。移動を快く受け容れない人々への強制的な手段も使われた。シオニストは、独逸出國の移民の手続きを早くする様々な方法についての示唆まで提供していた。例えば、独逸の猶太人に黄色い星を着けることを強要したのもシオニストの発案であった。猶太人に圧力をかければかけるほど、独逸を去るようになるだろう、と判断(理由付け)したのだった。

今日の一般的な神話に反して、独逸の猶太人は、特に全ての持ち物と、全ての資産を独逸の猶太人経営の、テル・アビブエルサレムに支店がある銀行に預けることにより全ての財産を持って去ることを許されていたのである。パレスチナに到着すると、彼らは、個別の契約条件により、自分たちの資産を引き出すことが出来た。これら二つの猶太人の銀行の独逸の資本は独逸政府により保証されていた。戦後に至るまで、これらの資産は猶太人の持ち主またはその代理人に完全に用立てられるようになっていた。當面独逸に残ることに決めた猶太人でさえ、これらの二行を通して全ての資産を独逸からパレスチナに移すことが可能であった。

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夏季キャンプのスポーツ大会で集まった猶太人の子供たち


将来のパレスチナ入植者として新しい生活を訓練するために独逸の國中で、40に上るキャンプが設けられた。独逸の学校から締め出された猶太人の生徒の為に特別な学校が設立され、猶太人の先生、中にはパレスチナからの先生も、かれらを指導するために雇われた。これらのキャンプでは、彼らは、集会や研究会、スポーツ集会、ヨットや田園でのハイキングなどが催され、シオニズムの小冊子を配ることも許されていた。最初のキブツ農場(集団農場)が将来の猶太人入植者に農業を教えるために独逸で設立された。これらのキャンプの中には1942年まで活動していたものもあった。これらのキャンプでは青と白にダビデの星が描かれた旗、後にイスラエルの國旗となった旗、が掲げられた。これらすべては独逸政府によって負担され、相當な出費であった。この計画を推進する出費に加えて大量の材料と道具が独逸政府によりパレスチナに送られた。これらには、石炭、鉄、金属製品、海水の淡水化をする機械などが含まれていた。1933年から1941年まで100もの猶太人入植地が独逸(政府)の支援によりパレスチナに建設された。ハーヴァラ(移送)協定は、独逸政府により財政支援されていたが、それにより猶太人の代理人は破産を免れた。世界猶太会議の設立者の一人、ナフーム・ゴルトマン博士によると、移送条約は、イスラエル國家の創設に不可欠の要素であった。

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夏季キャンプのスポーツ大会で集まった猶太人の子供たち


1933年と1934年、親衛隊猶太問題事務所の親衛隊少尉、レオポルド・フォン・ミルデンシュタインは、パレスチナに事実検証の任務で旅行し、シオニストの幹部に付き添われた。彼の最後の旅は6か月に及び、その間彼は、多数のキブツ農場で歓迎される賓客であった。独逸に帰國後の彼の報告は、独逸の猶太人のパレスチナ入植者による実績についての誉め言葉と敬意に満ち満ちていたのでゲッベルスは國家社会主義者シオニストの間の相互努力を称える記念特別硬貨を発行したほどだ。硬貨には片面にダビデの星、そして反対側には鍵十字があしらわれた。この硬貨を称えて、パレスチナで最大の果樹栽培会社は、ジャッファオレンジの広告に鍵十字の旗を傍らにダビデ王の肖像を飾った。

 

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猶太人の独逸からパレスチナへの移籍の國家社会主義者シオニストの協同作業の 栄光を記念して発行された硬貨



 (次回はニュルンベルク法シオニストです)

 

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