ドイツ悪玉論の神話016

ロシアを去って米國に向かう猶太人

猶太人はこれに対して何らの責任も認めないどころか、これを通常の罪のない猶太人に対する異教徒による「迫害」の再来と見た。この憎悪と敵意の結果、猶太人はロシア帝國を自分たちが歓迎されない、危険な土地であると見た。彼らの立場は、その爆発的な人口増加率(欧州の民族で最高)により、更に悪くなり、それが経済的な可能性を制限した。ロシアには、猶太人が多すぎるのに機会は少なすぎた。19世紀末には、彼らはロシアを去る決意をし、大量に「新世界」つまり米國に向かった。1881年から1924年までの間に二百万人以上のロシア・東欧の猶太人が米國に移民した。それは史上最大の猶太人の民族移動だった。20世紀への変わり目には、ニューヨーク市の三分の一がこれらの猶太移民で構成されていた。同時に西欧にも広がった。二つの大きな猶太人の運動、シオニズム共産主義は、猶太居留地で発達・成長し、彼らが米國に移民した時に米國にもたらされた。共産主義は、その時初めてこれらの新たな猶太移民によって持ち込まれたのだ。

米國は、當に彼らが望んだ國であった。そこは猶太人にとって何らの束縛も制限もない、機会の土地であることが分かった。米國人は猶太人と共にいる経験が無かったので、彼らに対して否定的な態度をとる事が無かった。新世界、特にニューヨークに定住すると、彼らはすぐに大学に殺到し、銀行・金融関係の職を見つけ、新聞社を始めた。そして、専門職に殺到した。先に独逸から移民していた猶太人は、既にこれらの分野で有力になっており、彼らはロシアからの同胞を手助けした。彼らの常套手段である強力な情報網、仲間内の協力、それに互助支援により、これら猶太移民は米國に於いて支配階級に上り始めた。そして、彼らのいつもの行動形式に則って、権力のある地位に落ち着くと、例外なく、前職の非猶太人がすべて入れ替わるまで、順に他の猶太人のみを採用するのであった。これらの手段により、彼らは、間もなく、ジャーナリズム、学界、そして、特に、銀行・金融を支配するに至った。

しかし、これらの新興金持ち「米國人」猶太人は、それでもなお、國際猶太國家の重要な部分として残り、そして、彼らは、新たに稼いだ富を國際猶太の利益を支持し、保護するために喜んで差し出した。彼らのロシアに対する心の底からの憎悪は、猶太の精神の一部として残り、しかも彼らのロシアに残った同胞に対する抑圧が継続しているという半狂乱の話により、それは悪化するばかりであった。彼らの力と影響力が米國で強まるに従って、彼らは、皇帝の政権を脆弱化し、滅ぼすために自分たちの力を使って、企みや陰謀を行った。欧州と米國の猶太系銀行は、どちらも皇帝とその政権に打倒をもたらすのに必要な資金をいつでも提供する用意をしていた。ロシアの官僚は勿論この猶太人の反ロシアの企みに気づいており、屡々、西側の國々の猶太人の力と影響力がロシアと皇帝を蝕む事に向けられていると論評していた。

独逸生まれの猶太人、ヤコブ・シフは、世界で最も裕福な銀行家で、ニューヨークの國際的な銀行、クーン・ローブ銀行の経営者であるが、彼はとりわけ、ロシアに対して激しい憎悪を抱いており、帝政を倒すためには出来る限りのことをする決心をしていた。1905年、ロシアと日本が支那の北方、満洲を巡って戦争となった。シフと彼のクーン・ローブ銀行は、戦時の日本に融資するために大量の債券を発行した。一方で、同時にロシアへの融資を阻止するために彼の國際金融の影響力を使った。結果は、衝撃的な日本の勝利であった。日本は、満洲旅順港(アーサー港)にいたロシア陸軍を破り、その後、日本と朝鮮半島の間の水域で、日本海海戦(ツシマ海戦)により、ロシアの艦隊を沈めた。これは、非欧州の軍による欧州列強の軍の最初の敗北となったが、それは、國際猶太の後ろ盾と支持が無ければ、達成できないものであった。

1905年のロシア革命未遂は、猶太人の革命勢力によって画策され、猶太人金融家によって資金援助され、日露戦争に合わせて企てられたものであった。ニューヨーク市の公式「猶太共同体目録」(1917-1918)には、次のような声明が載せられている。
「クーン・ローブ会社[ヤコブ・シフの銀行]は、大量の日本の1904-05戦争債を発行して、日本のロシアに対する勝利を可能ならしめた。シフ氏は、常に彼の財産と影響力を彼の同胞(猶太人)の最善の利益の為に行使した。彼は、独裁ロシアの敵に融資し、その影響力で米國の金融市場からロシアを締め出したのであった。」

 

1917年の革命への金融支援

猶太人金融の二大勢力、ロンドンとパリを拠点にするロスチャイルド家とその広域金融業仲間、それにヤコブ・シフ傘下の所謂独逸系アメリカ金融、これら二大勢力が協力してロシア革命を金融支援した。独逸生まれの猶太人であるシフは、ウォールストリートの國際金融業者で、ニューヨークとハンブルクの(独逸生まれの)ウォーバーグやグッゲンハイム家、ハノーアー家、カーン家などを含む他の独逸や米國の猶太金融業者と緊密に連携していた。ウォーバーグ家は、独逸でも米國でも実はヤコブ・シフの親戚だった。一人は義弟であり、もう一人は女婿であった。他の國際猶太金融業者で、ヤコブ・シフのクーン・ローブ銀行と組んでいたのは、独逸のヴェストファーレン=ラインラント企業連合、パリのラザール・ブラザーズ、ペトログラードサンクトペテルブルク)・東京・パリのギンヅブルク、ロンドン・ニューヨーク・フランクフルトのスパイヤー商会、そして、重要なのは、スウェーデンストックホルムの猶太人、オロフ・アシュベルグ傘下のニア銀行であった。これらの金融勢力は、真の意味で「國際的」であった。それは、國家に対してでなく、國際猶太に対して忠誠を誓った國際猶太人達により所有され、経営されていたからである。

皇帝を引き下ろす使命の中で、二つの金融グループが共同してロシア皇帝に敵対する宣伝工作を資金援助した。それは、世界中にロシア帝國への敵対を生む、意図した通りの効果を上げた。この反ロシア皇帝の宣伝工作は、欧米の全ての大手新聞と他の情報網、殆どすべてが猶太人支配の通信社により、拡散・喧伝された。(これらの通信社・新聞は、同じような、しかももっと大規模な宣伝工作を次は、アドルフ・ヒトラーが首相になった独逸に対して行う事になる。)

前述の様に、ヤコブ・シフは、帝政ロシアを憎しみ、その政権を陰から毀損する企てに特に積極的であった。しかし、1917年のニコライ二世の退位の裏にいたのは、ロスチャイルド家であった。その直後、ゲオルギー・リヴォフ公を首相とする臨時政府が樹立されたが、それもすぐに猶太人アレクサンドル・ケレンスキー(母親の名前は、ナデジュダ・アドラー)に取って代わられた。これも前述したが、このケレンスキーの臨時政府(1917年3月16日)が最初に行った法令の一つが、ロシア全土で、猶太人に対する全ての制限を撤廃する事であった。

それまで、猶太人は政府関連の仕事から締め出されていたが、俄かに、ロシアの政府官庁のどの様な地位に就くことも許された。全ての制限が廃止されたことにより、猶太人は二つ以上の政治政党の指導的立場を獲得するなど、革命のあらゆる局面で急速に活発になった。活躍の場を見た猶太人は、猶太居留地のシュテットルや欧州、米國から大挙してサンクトペテルブルクやモスクワになだれ込んだ。(シュテットルは、イディッシュで「村」の意味で、その生活に関しては、「屋根の上のヴァイオリン弾き」で詳しく描かれている。)これらの猶太人の田舎町、シュテットルは、猶太居留地、つまり、ポーランドウクライナベラルーシモルドバリトアニア全体に分布していた。

今や、皇帝は去り、ロシアの政府不安定化の為にレーニンと他32人のボルシェヴィキ(殆どが猶太人であった)は独逸のプロイセン参謀本部により、列車でスイスからペトログラードに送り込まれた。目的は、ロシアを戦争から離脱させることであった。レーニンは、當初からロシアの参戦に反対していた。そして、一般の兵隊に、人殺しをさせた上官に対して銃を向けるように求めていた。

レーニンとその側近は、1917年4月16日にレニングラードの「フィンランド駅」に到着した。独逸人は、この革命運動の猶太的性質をよく理解しており、猶太人のアレクサンドル・ヘルプハンド(パルヴスのこと)を取り立てて独逸政府とボルシェヴィキの仲介をさせた。ヘルプハンドを通じて、相當額が独逸政府からレーニンボルシェヴィキに送られた。ヘルプハンドは、ベラルーシのシュテットルの生まれで、経済学の博士号を取得してベルリンに移動し、そこで猶太人共産革命家、ローザ・ルクセンブルクの仲間になった。レーニンは、独逸政府と國際猶太金融の両方から財政支援を受けたのだ。この独逸の秘密資金を以って、レーニンはロシアで41に上る新聞と定期刊行物を急遽立ち上げた。その中には、その後、ボルシェヴィキ政権の公式新聞となり、ロシアの民衆に共産主義の視点を吹聴した「プラウダ」も含まれていた。レーニンを財政援助した独逸の利害は、上述した通り、ロシアを戦争から離脱させることにあった。しかし、國際猶太金融にはもう一つの計略があった。レーニンへの財政援助による利益は、帝政ロシア政府の打倒とその猶太人革命政府への置き換えであった。独逸は、後で、自らが悪魔と契約したことを知った。独逸のプロイセン参謀本部の一人が後日、次のように語っている。「我々は、このボルシェヴィキのロシアへの旅の結果が人類にとって危険なものであることを知る由も予見する由もなかった。」

トロツキーのロシアへの帰還を画策したのは、米國・独逸両方に在ったヤコブ・シフのクーン・ローブ銀行とウォーバーグ銀行であった。トロツキーの革命運動は、スウェーデンストックホルムにある猶太人オロフ・アシュベルグ経営のニア銀行を通じて資金援助された。オロフ・アシュベルグは、マックス・ウォーバーグやヤコブ・フォン・ フュルステンベルク[1](どちらも猶太人金融業者)と密接な繋がりがあった。ストックホルムのニア銀行に信託口座が設けられ、そこにクーン・ローブ銀行から何百万ドルと言う資金が預金された。ニア銀行は、「ボルシェヴィキ銀行」として知られるようになった。猶太人の駐スウェーデン米國大使、イラ・ネルソン・モリスは、ストックホルムのニア銀行とニューヨークのクーン・ローブ銀行の間の実質上のパイプとして働いた。モリス大使は、建前上はスウェーデンにおける米國の利害の代表であったが、猶太人として、自分の事務所を國際猶太の利益に供するために使った。

トロツキーと267名のロシア人(実際にはニューヨークの猶太移民共同体のイディッシュ話者の猶太人)は、シフの手助けでレーニンの革命に合流するためにペトログラードに出発した。そして多数のニューヨークの猶太人も付いて行ったのだった。トロツキーは4月17日に到着した。レーニン到着の翌日であった。トロツキーはじめ、彼と同行した猶太人は、米國市民ではなかったにもかかわらず、米國のパスポートを獲得しており、それがロシア再入國を容易にした。これは、猶太人の米國最高裁判事であるルイス・ブランダイスの介入で為された。ブランダイスは、ウィルソン大統領に非常に親密で、ウィルソンを説得し、米國務省にパスポート発行を命じさせたのだった。ペトログラードに到着すると、レーニントロツキーは、力を合わせた。ヤコブ・シフが調達した資金と独逸政府からの資金を合わせて、トロツキーレーニンボルシェヴィキ武装蜂起を組織した。臨時政府は、打ち破られ、1917年11月7日(ロシア暦では、10月25日)にソヴィエト社会主義共和國が設立された。トロツキーは、間を置かず、ロシア陸軍を制圧し、「プロレタリアート赤軍」としての再編成に着手した。先ず、陸軍の支隊、大隊、連隊、および師団すべてに兵隊の「ソヴィエト(評議会)を設立した。それから、皇帝の将校を陸軍から追放した。最後には、これら「ソヴィエト」が司令官とそのスタッフの全てを占めるに至った。結果として、委員会がそれぞれの将官に代わって赤軍内部の組織単位を運営した。これは、うまく行くはずもなく、陸軍の士気を下げてしまった。更に悪いことに、追放された皇帝軍の将校が猶太人の経験の浅い将校に取って代わった。混乱が支配していた。この新しい赤軍では、独逸陸軍に太刀打ちできず、独逸の1918年二月の攻勢に抵抗は出来なかった。こうして、遂にロシアは戦争から離脱した。

 

f:id:caritaspes:20190326030642p:plain

レーニン

f:id:caritaspes:20190326030718p:plain

トロツキー



 

この自ら招いた問題を正すためにトロツキーは、以前のロシア軍将校による軍事顧問としての役割の軍事委員会を作った。遂には、皇帝軍の将校を陸軍に戻さざるを得なくなった(戻すことを強要された)が、新参のボルシェヴィキの陸軍指導者から激しい怒りが起きた。彼らは、赤軍は純粋に革命勢力で構成されるべきと信じていた。彼らは、帝國軍の将官は、潜在的な裏切り者で、これからの軍事から外されるべきで、責任者などとんでもない、と観ていた。トロツキーはこの問題を「政治人民委員」と言う組織を作って解決した。必ずその委員の一人が赤軍の各部隊に配属され、トロツキーに直接報告させた。人民委員は、何事においても最高権力、司令官をも凌ぐ権力となったが、彼らの主な仕事は、通常の陸軍士官を見張り、その態度、言動、活動をトロツキーに直接報告する事であった。人民委員は、誰もトロツキーに逆らえない様にするスパイネットワークを構築した。トロツキーは、個人、グループに関わらず、忠誠心を疑われる者は情け容赦なく抹殺するように計らった。人民委員は殆どが猶太人であった。猶太以外でもロシア民族は居なかった。トロツキーとその猶太人仲間が陸海軍の全ての部署の完全な支配を得たのは、この様な手段によるものだった。

 

f:id:caritaspes:20190326030759p:plain

トロツキー赤軍


未だこの時点では、ボルシェヴィキのロシア掌握は薄弱であり、あらゆる方面から反対派が立ち上がった。コサックや以前の皇帝軍の将校で構成された「白軍」がトロツキーとその猶太人仲間に率いられたボルシェヴィキの新「赤軍」に対して立ち上がったとき、内戦が勃発した。白軍は、キリスト教徒であり、厳しい反猶太主義であった。彼らのスローガンは、「猶太を打倒してロシアを救おう」だった。ロシアとそれを取り巻く國々の若い猶太人は、赤軍の職になだれ込んだ。その多くはロシア語を話すことすらできなかった。米國からも数百人の猶太人が赤軍に参加するために来た。彼らの多くは、ニューヨークのロウワー・イーストサイドからであった。

キリスト教徒の「白軍」が猶太人支配の「赤軍」に敗れた。その理由、そしてたった一つの理由は、猶太人が欧州と米國、更に世界の残りの地域の殆どで、資金供給を支配していたからで、彼らが赤軍に無制限の財政援助と無制限の武器・軍需物資供与をし、同時に白軍への財政援助を拒否したからであった。彼らは更に、影響力を使って白軍への他の資金供給も阻止したのであった。

アントニー・C・サットンは、その著書「ウォール街ボルシェヴィキ革命」(1974年ニューロシェル)で次のように述べている。
「非常に裕福なウォール街の会社の多くの猶太人が、共産政権に貢献した。それは、共産政権の最初の頃だが、もう既に以前の階級だけを理由に殺され、追放され、財産没収された罪なき人々の流血に染まっていた時期だった。大方猶太人の政府は、帝政ロシアで繁栄していた人々に対して恐ろしい復讐を仕掛けていた。ウォール街の資本主義者たちが、専ら資本主義を倒すために打ち立てられた、ほぼ猶太人の、ロシアの支配者を援助する、というのは、何処に住んでいようと、長い間、疎外されてきた民族の連帯の生々しい証拠である。當に血は水よりも濃いのだ。」

猶太人は、ロシアの全人口の2%を構成するに過ぎないが、今や、軍部を含めて、その政府の全ての部署を支配したのであった。

 

[1] ヤーコフ・スタニスラヴォヴィチ・ガネツキーの本名。

(次回はソヴィエトの人民委員会等のウィルトンによる民族付き名簿です)

 

次回 ドイツ悪玉論の神話017   前回 ドイツ悪玉論の神話015