ドイツ悪玉論の神話021

ウクライナの飢饉(ホロドモール)

1929年、スターリンの下、ボルシェヴィキは、最初の五か年計画で、急速なロシアの工業化とソヴィエト全域で農業の集団化を発表した。ロシア中の大地主・領主とその家族は1917年の革命中に全て殺害されていたが、ボルシェヴィキは次に数百万の自作農の農民を支配することを画策し始めた。彼らの意図は、個人経営の農家を全て排除し、そのあとに巨大な集団農場を造る事であった。農民は全て國家の雇用人になって集団農場で働くこととしていた。

ウクライナは、ソヴィエト連邦で最も農業生産の高い地域で、「欧州のパン籠」として知られていた。ウクライナの繁栄した自作農家は、高い独立性が普通であり、ウクライナの國家主義的感情を心に抱いていた。皇帝の失脚後、ウクライナ文化と言語の復興 -それはロシアと似て非なるものであった- が広く支持された。ウクライナの人々(多くは自営農家であった)の目標は、完全な独立、そうでなければ、ソヴィエト帝國の中での高い自治権であった。

この時期までにレーニンは死亡し、トロツキーは亡命し、スターリンソヴィエト連邦を支配していた。スターリンは自身は猶太人ではなかったが(彼はロシア人でもなく、ジョージアグルジア)人であった)共産党の殆どの官僚は、相変わらず猶太人で占められており、スターリンの取り巻きも彼の一番の同志、ラーザリ・カガノーヴィチを含めて、殆どが猶太人であった。スターリンとカガノーヴィチは、断固としてウクライナ独立運動を阻止し、出来るだけ早期にウクライナ農業を集団化しようとしていた。

集団化の過程は、全ての人々にとって非常に破滅的であり、また極端に不人気であった。ロシアに於いては、集団化はまずまず予定通りに進んでいたが、ウクライナは、集団化が行き詰まるところまで抵抗した。ウクライナの農民は、協力を拒否し、國に農園を渡すくらいなら、家畜を殺処分するくらいであった。スターリンとカガノーヴィチはこれを我慢できなかった。1932年、遂にウクライナに対するテロ闘争を発動した。その残虐性は、先例を見ないほどであった。2万5千人に上る狂信的な党の軍人が送り込まれ、一千万人に上るウクライナの農民に集団農場化を押し付けた。この2万5千の軍勢では充分でないと解ると、大勢のチェーカー隊員が民衆を脅すために大量処刑を開始するよう命じられた。しかし抵抗は衰えずに続いたので、無差別大量殺戮が続いた。殺人数をノルマ化する事さえ行われた。チェーカー隊員が週間処刑数を達成できないので、スターリンは事態を任せるために、その補佐官、カガノーヴィチを他の猶太人軍幹部団と共に送り込んだ。また、猶太人、ヤコヴレフ・エプシュテイン(Yakovlev-Epshtein)を集団化の責任者とした。

 

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猶太人ボルシェヴィキ、ラーザリ・カガノーヴィチ

        農業集団化を巡ってウクライナを屈服させるために飢餓を起こした首謀。
      900万人のウクライナ人が彼の手になる飢餓で1932年~33年にかけて殺害された。

 

カガノーヴィチは、殺人ノルマを週に1万人(ウクライナ人)に設定した。しかし、それだけ多数の人々を撃つだけのチェーカー隊員は居なかった。そこで、カガノーヴィチとスターリンは、もっと安上がりで、もっと効率の良い殺戮方法を決心した - それが、飢餓だった。

軍隊が送り込まれ、植え付け用の種、穀類、サイロの中身、家畜などすべてがウクライナの農場から押収された。チェーカーの隊員と赤軍が全ての道路と鉄道を封印し、何も入らず、出ない様にした。出て行こうとするものは射殺された。農場は、家宅捜索され、食物と燃料の全てが押収された。食べるものは何も残っていなかった。食糧の窃盗犯は、それが一握りの穀物でも射殺された。ウクライナ人は飢餓・寒さと病気で、大量に死に始めた。

米國のジャーナリスト、ユージーン・ライオンズは、UPI 社の主特派員として1928年にロシアに送られた。熱心な共産主義者として到着した彼は、ソヴィエトの実験を直接経験することが出来たが、見聞きしたことにより、完全に幻滅してしまった。彼は、1937年に発行した著書「ユートピアの課題」(Assignment in Utopia)で次の様に記述している。
「ロシアの7万に上る村々では、地獄が現出している。スイスかデンマークの総人口に當たるくらいの民衆が、全ての財産を残らず奪われてしまっていた。彼らは銃剣によって鉄道の駅に集められ、家畜用や荷物用の貨車に無差別に詰め込まれ、何週間か後には、凍える北の木材切り出し場、中央アジアの不毛の地、いや、労働力が必要なところならどこでも、そこで生きるか死ぬかわからないが、貨車から降ろされた。」

ライオンズは、自身猶太人であったが、この人道に対する罪の責任は全て直接カガノーヴィチにあるとした。「ラーザリ・カガノーヴィチ、政治部に農業集団化を始動させたのは彼の思い付きであり、ボルシェヴィキの冷酷な感情を適用したのは彼の専制支配であった。」スターリンは単にカガノーヴィチの計画を実行しただけであった。

1932年から1933年の極寒の冬の間、カガノーヴィチによって作り出された大飢饉により、強烈な数字が上がった。ウクライナ人は見つけられるものは、ペット、皮ブーツ、皮ベルト、木の皮、草、根に至るまで何でも食べた。食人が普通の事になった。子供を食べる両親もいた。

この作為的飢餓により、命を落としたり、同様にチェーカーにより射殺されたウクライナ人の数は、未だに知られていない。しかし、KGB 自身の最近公開された記録によると、少なくとも700万人のウクライナ人が死んだ。ウクライナ歴史学者は、実際はもっと酷かったとして、900万人としている。丸ごとウクライナ人口の25%に當たる人々がこの故意に人災による絶滅飢餓によって抹殺されたのだった。

 

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村から出て食料を探す飢饉下のウクライナ

 

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通りで横になり、死んでいく人々

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                                      飢餓で死に直面するウクライナの子供たち

 

 

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                                      飢餓で死に直面するウクライナの子供たち

 

この残酷なウクライナの数字に加えて、ソヴィエト連邦の他の地域全般で何百万もの農民がこの農業の集団化計画の間に、飢餓により死に、或いは射殺された。スターリンは第二次大戦中の会談で、チャーチルに対して1930年代に農業の集団化を達成するために一千万人に上る非協力的農民を殺害せざるを得なかったことを認めている。これにチェーカーによるエストニアラトビアリトアニアの大量処刑を加え、更にUSSR の300万人のイスラム教徒の大量虐殺、コサックとヴォルガ独逸人の虐殺を加えると、ボルシェヴィキ猶太人がロシアを支配した間に、全部で少なくとも4千万のキリスト教徒がボルシェヴィキ猶太人に殺されたことになるのだ。

このロシアにおけるあまりにも酷い大量殺戮については、それが起こっているまさにその時に、独逸やその他の欧州諸國では広く流布しており、また、それが大部分が猶太人によって為されたことも同様に良く知られていた。ボルシェヴィズム、共産主義、そして猶太教は、独逸人の心の中で正確に混ぜ合わされ、それらは同じことを意味するようになった。独逸の人々が猶太人に対して恐怖と敵意を抱き、独逸人自身の存在にとって脅威であると見て取ったことに、何ら不思議はなかったのである。

(次回より章が改まり、第六章で 欧州に波及するボルシェヴィキ革命を命を懸けて食い止めた、忘れ去られた英雄たちのお話、先ずはハンガリーです。

― ハンガリー革命 ― ハンガリー革命と聞くと1950年代のハンガリー動乱を思い出される方もおられるかもしれませんが、これは、1919年のソヴィエトの傀儡、ユダヤ人ベーラ・クンによるハンガリー掌握と虐殺事件です。)

 

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