ロシア・ボルシェヴィキ政権の猶太人
英國の新聞記者・ジャーナリストのロバート・ウィルトンの著書「ロマノフ王朝の最後の日々」(1920年)によると、ロシアのボルシェヴィキ政府は完全に猶太人が支配していた。ウィルトンは、1902年から1919年まで、ロンドンのタイムズ紙の「モスクワの男」であったので革命時に何が起こったか、そして裏にいたのは誰か、全てを目撃する立場に居り、定期的にそれを報告した。ウィルトンはまた、1904-05年の日露戦争の衝撃的なロシアの敗北の時から、ロシアの内政の全ての圧迫と緊張、1905年のポチョムキンの叛乱、血の日曜日事件、そして、レーニンとトロツキーの亡命から不吉な革命運動に至るまで、ずっとロシアにいた。彼は、第一次大戦(1914-1918)中もロシアにあり、その後の混乱状態も目撃した。彼は、ロシア革命についても目撃し、それを報告した。彼は、他にほとんど知られていないことも知っていた。彼は、革命の裏にいたのは猶太人であり、ロシアの國家を乗っ取ったのは猶太人であることを知っており、また報告した。
1919年、ソヴィエトの新聞は、ソヴィエト政府の重要な人物556人の一覧表をその民族と共に発表した。ウィルトンは、この一覧表を入手し、ロンドンに報告している。彼は同時にこれを自著「ロマノフ王朝の最後の日々」(1920)の「付録」にも含めている。私もそのコピーを持っている。一覧表には、ロシア人17名、ウクライナ人2名、アルメニア人11名、レット(ラトビア)人35名、独逸人15名、ハンガリー人1名、ジョージア(グルジア)人10名、ポーランド人3名、フィンランド人3名、チェコ人1名、カライム人(猶太の一族)1名に対して、457名の猶太人が含まれる。この一覧表は、猶太人がソヴィエトの共産主義政府を支配していたことに反論の余地を残さないために、以下に掲載する。
(註:ネットで確認できる名前のみ日本語化。その他は綴り間違いの可能性のある場合は?と共に記載。)
中央委員
62 名 42 名猶太人 20 名非猶太人
名 前 |
民 族 |
名 前 |
民 族 |
スヴェルドロフ(会長) |
猶太 |
Roudzoutas |
猶太 |
アヴァネソフ(秘書) |
Rosine |
猶太 |
|
Bruno |
ラトヴィア |
Smidovitch |
猶太 (ラトヴィア) |
Babtchinski |
猶太 |
Stoutchka |
ラトヴィア |
ロシア |
ナハムキス(スチェクローフ) |
猶太 |
|
Gailiss |
猶太 |
Sosnovski |
猶太 |
Ganzburg |
猶太 |
Skrytnik(スクリプニク?) |
猶太 |
Danichevski |
猶太 |
ブロンシュテイン(トロツキー) |
猶太 |
Starck |
ドイツ |
Teodorovitch |
猶太 |
Scheinmann |
猶太 |
Terian |
|
Erdling |
猶太 |
Ouritski |
猶太 |
Landauer |
猶太 |
Telechkine |
ロシア |
Linder |
チェコ (多分猶太) |
Feldmann |
猶太 |
Dimanstein |
猶太 |
Froumkine |
猶太 |
Encukidze |
Souriupa |
||
Ermann |
猶太 |
Tchavtchevadze |
|
ヨッフェ |
猶太 |
Scheikmann |
猶太 |
Karkline |
猶太 |
Rosental |
猶太 |
Knigissen |
猶太 |
Achkinazi |
イメレシア (猶太) |
ローゼンフェルト(カーメネフ) |
猶太 |
Karakhane |
カライム (猶太) |
アプフェルバウム(ジノビエフ) |
猶太 |
Rose |
猶太 |
クライレンコ |
ロシア |
Sobelson (Radek) |
猶太 |
Krassikof Sachs |
猶太 |
Schlichter |
猶太 |
Kaprik |
猶太 |
Schikolini |
猶太 |
Kaoul |
ラトヴィア |
Chklianski |
猶太 |
ウリヤノフ(レーニン) |
ロシア(猶太) |
Levine (Prafdine) |
猶太 |
Latisis |
猶太 |
|
|
Lander |
猶太 |
|
|
Lounstcharski |
ロシア |
|
|
Peterson |
ラトヴィア |
|
|
Peters |
ラトヴィア |
|
|
註:イメレシアはグルジアの一地方。 カライムはリトアニア・ウクライナの猶太人
また、ジョージアは紛らわしいので旧名グルジアと表示
モスクワ特命委員会
総勢36 名 24 名猶太人 12 名非猶太人
名前 |
民族 |
名前 |
民族 |
ジェルジンスキー(president) |
ポーランド (猶太) |
Antonof |
ロシア |
Peters (vice-president) |
ラトヴィア |
Delafabre |
猶太 |
Chklovski |
猶太 |
Tsitkine |
猶太 |
Kheifiss |
猶太 |
Roskirovitch |
猶太 |
Zeistine |
猶太 |
G. Sverdlof |
猶太 |
Razmirovitch |
猶太 |
Beisenski |
猶太 |
Kronberg |
猶太 |
Blioumkine |
猶太 |
Khaikina |
猶太 |
Alexandrevitch |
ロシア |
Karlson |
ラトヴィア |
I. Model |
猶太 |
Schaumann |
猶太 |
Routenberg |
猶太 |
Leontovitch |
猶太 |
Pines |
猶太 |
Jacob Goldine |
猶太 |
Sachs |
猶太 |
Glaperstein |
猶太 |
Daybol |
ラトヴィア |
Kniggisen |
猶太 |
Saissoune |
|
Latzis(Katzis?) |
ラトヴィア |
Daylkenen |
ラトヴィア |
Schillenkuss |
猶太 |
Liebert |
猶太 |
Janson |
ラトヴィア |
Bogel |
ドイツ |
Rivkine |
猶太 |
Zakiss |
ラトヴィア |
人民委員会
総勢22 名 17 名猶太人 5 名非猶太人
Ministry |
Name |
Nationality |
President |
ウリヤノフ(レーニン) |
ロシア(¼猶太) |
Foreign Affairs |
Tchitcherine |
ロシア |
Nationalities |
ジュガシヴィリ(スターリン) |
|
Agriculture |
プロシヤン |
|
Economic Council |
Lourie (Larine) |
猶太 |
Food |
Schlichter |
猶太 |
Army & Navy |
ブロンシュテイン(トロツキー) |
猶太 |
State Control |
Lander |
猶太 |
State Lands |
Kauffman |
猶太 |
Works |
V. Schmidt |
猶太 |
Social Relief E. |
Lelina (Knigissen) |
猶太女性 |
Public Instructions |
Lounatcharsky |
ロシア |
Religions |
Spitzberg |
猶太 |
Interior |
アプフェルバウム(ジノヴィエフ) |
猶太 |
Hygiene |
アンヴァルト |
猶太 |
Finance |
Isidore Goukovski |
猶太 |
Press |
ヴォロダルスキ― |
猶太 |
Elections |
ウリツキー |
猶太 |
Justice |
I. Steinberg |
猶太 |
Refugees |
Fenigstein |
猶太 |
Refugees (assist.) |
Savitch |
猶太 |
Refugees (assist.) |
Zaslavski |
猶太 |
ボルシェヴィキ党中央委員
総勢12 名 10 名猶太人 2 名非猶太人
名前 |
民族 |
名前 |
民族 |
ブロンシュテイン(トロツキー) |
猶太 |
Smidovitch |
猶太 |
アプフェルバウム(ジノヴィエフ) |
猶太 |
Y.スヴェルドロフ |
猶太 |
Lourie (Larine) |
猶太 |
ナハムキス |
猶太 |
ウリツキー |
猶太 |
ウリヤノフ(レーニン) |
ロシア (¼猶太) |
ヴォロダルスキー |
猶太 |
クライレンコ |
ロシア |
ローゼンフェルト(カーメネフ) |
猶太 |
ルナチャルスキー |
ロシア |
中央委員
メンシェヴィキ 11 名全員猶太人
人民共産党 総勢 6 名: 5 名猶太人
社会主義革命党(右派) 総勢15名:13名猶太人
社会主義革命党(左派) 総勢12名:10名猶太人
無政府主義委員会 総勢 5名: 4名猶太人
人民委員会
総勢22 名 17 名猶太人 5 名非猶太人
中央執行委員
総勢61 名 41 名猶太人 20 名非猶太人
よく知られている事だが、猶太人は、普通に自分の名前を変える唯一の民族である。彼らが力を得て支配する手段の一つが、自分たちが猶太人である事実を隠して、徐々に、「狡猾」に高官に就くことだ。ロシアでロシア風の名前に、アメリカで英國風の名前に付け替えるのもその目的の為である。それこそが、ロシア革命に関わった猶太人ボルシェヴィキのあまりにも多くが違う名前を名乗った理由なのだ。
アルバート・S・リンデマンによると、著書「エサウの涙 近代反猶太主義と猶太の勃興」「Esau’s Tears, Modern Anti-Semitism and the Rise of the Jews」(1997)の中で、レーニンを含むボルシェヴィキ運動の指導的非猶太人達を「猶太化した非猶太人」と命名できそうだ、としている。例えば、彼は、「レーニンは、繰り返し、公然と、革命運動の中で猶太人の果たした役割を称賛していた。」と書いている。レーニンは、イディッシュを話す猶太人と結婚し、子供もイディッシュを話した。レーニンは、「ロシア人の知識人は殆ど常に猶太人か猶太人の血を引くものである」と語ったことがある。レーニン自身は4分の1の猶太人であったかもしれないが、猶太人として生き、周りも猶太人で取り囲まれていた。
英國政府はその1919年4月の白書で、「ロシア政府の転覆と世界の他の地域に予測できない結果をもたらした権力の奪取が、大方、國際猶太革命勢力によって組織されたことは、公然の秘密だ。世界で最も広い版図は、乗っ取られたのだ」と記述している。
在サンクトペテルブルクのオランダ政府の代表で、ボルシェヴィキの英國大使館閉鎖後の英國の権益責任者であった、M.オウデンダイク(Oudendyke)氏は、英國の外務長官アーサー・バルフォア卿に次の様に報告している。
「私は、ボルシェヴィズムの一刻も早い鎮圧が、世界が前にする最も大きな問題であると考え、戦争は未だ続行していますが、戦争すら、手段として例外ではありません。そして、ボルシェヴィズムを未だ芽の間に即刻、摘まなければ、やがては、何らかの形で欧州、そして世界中に広がる事は確実です。それは、猶太人によって支配され動かされているからです。彼らには、「國籍」がありません。だから彼らにとって、目的はただ一つ、彼らの行きつく先の為に既存の秩序を破壊する事なのです。」
ウィンストン・チャーチルは、「Illustrated Sunday Herald」紙に1920年2月8日に寄せた記事でこの見方に次の様に同意していた。
「この驚くべき種族(猶太人)は、現在の時点で道徳と哲学の、キリスト教の善意であるところと同等に悪意の、もう一つの体系を提供する過程にあるのかも知れない。そして阻止されなければ、キリスト教が可能ならしめた一切を粉々に打ち砕くであろう。猶太人の中ではこの動きは新しいものではない。それは19世紀の間ずっとあらゆる破壊活動の推進力であり続けた。そして今、遂にこの欧州と米國の大都市の地下組織からの尋常ならざる性格の一団は、自らの髪の毛でロシアの人々を捕らえ、そして実質上、その巨大な帝國の議論の余地が無い支配者になってしまったのだ。」
ヒレア・ベロックは、1937年2月4日の雑誌「British G. K. Weekly」で次のように述べている。
「現在のロシアにおける革命運動が猶太人によるものであるという事を知らない人に関する限り、私が言える事はただ一つ、その人は、きっと我々の卑劣なメディアの抑制(報道しない自由)に取り込まれているに違いない、という事だ。」
猶太人でさえ、これを否定していない。1919年4月4日の「猶太の歴史」(Jewish Chronicle)の記事は次のように記述している。
「ボルシェヴィズムの概念は、猶太教の考え方と多くの点で、調和している。」
Yuri Slezkine (ユリ・スレズキン?)は、その著書「猶太の世紀」(The Jewish Century)の中でソヴィエト社会の革命後の驚くべき猶太人の全ての分野 - 文化、大学、専門職、メディア、そして政府 - でのエリート階級への台頭について記述している。スレズキンは、彼自身ロシア系猶太人で1983年に米國に移民し、カリフォルニア大学バークレー校の教授になった。彼は、
「革命後、何百万もの猶太人は、ロシアのシュテットルの町を後にしてモスクワやその他のロシアの都市にエリート職に就くために移り住んだ。」と記述している。
悪名高きウィンストン・チャーチルの従姉妹で、良く知られた彫刻家で、レフ・トロツキーの友人でもあったクレア・シェリダンは、1920年秋にレーニン、トロツキー、ジェルジンスキー、カメーネフなどを含むボルシェヴィキの重要人物の彫刻を造るためにロシアを旅行した。彼女は、「共産主義者は、猶太人よ、そして、ロシアは完全に彼らに管理運営されているの。彼らはあらゆる政府官庁に居るわ。彼らは、ロシア人を締め出しつつあるのよ。」と語った。
1933年1月6日の「猶太の歴史」(Jewish Chronicle)は次の様に記述する。
「ロシアにいる猶太人の三分の一以上が公職についている。」
M.Cohen は、1919年4月12日の「共産主義者」(The Communist)の中で次の様に書いている。
「偉大なロシア革命は、本當に猶太人の手によって成し遂げられた。兵卒に関する限り、赤軍には猶太人の高官は居ないが、委員会やソヴィエト組織の委員として、猶太人は颯爽と大衆をリードしている。猶太の象徴がロシアプロレタリアートの象徴となった。それは、昔シオニズムと猶太の象徴であった五芒星が採用されたことに観られるとおりだ。」
アリアドナ・チルコヴァ・ウィリアムズ(Adriana Tyrkova-Williams)はその著書「自由からブレスト=リトフスクまで」(From Liberty to Brest-Litovsk)(McMillan, 1919)の中で、次の様に記述している。
「ボルシェヴィストの人形操り師の中にはロシア人はほとんどいない(ロシアの全ての文化伝統に染まった人間やロシア人の利益を考える人は殆どいない。)彼らの中には誰も、以前のロシアの生活のいかなる場面においても、いかなる意味に於いても傑出していた人物はいない(中略)明白に外國人であるほかに、ボルシェヴィズムは、たくさんの信望者を外國で長期間過ごした亡命者から採用した。ロシアに来た事が無い人間もいた。特に多数の猶太人がいた。下手くそなロシア語しか話さなかった。彼らが権力を掌握した國家は、異邦人であった。そして更に、彼らは、征服した國の征服者として振舞った。革命期間中、一般的に、そして特にボルシェヴィズムにおいて猶太人は非常に影響力の大きい立場を占めた。この現象は、奇異であり、複雑でもある。」
広く知られたフランスの雑誌、「L'Illustration」は1918年9月14日の記事で次のような論評を掲載した。
「ボルシェヴィキ政府に務める役人と常時接触する生活をするとある特徴に注意をひかれる。それは、彼らの殆ど全員が猶太人であることだ。私は反猶太主義者ではない。が、私は、自分の目を疑う事を述べなければならない。ペトログラードにせよ、モスクワにせよ、あるいは田舎の地方にせよ、警察にせよ、役所にせよ、スモリヌイ(ペトログラードの中心街)にせよ、ソヴィエトにせよ、私は、猶太人にしか出会わない。次に会うのもまた猶太人だ。」
そして、1937年9月のアドルフ・ヒトラーによる演説の中で:
「1936年、我々は、驚くべき統計の数々により、ロシアに於いて、指導的な役職は、98%より多くの割合で猶太人によって占められている事を証明した(中略)バイエルンレーテ共和國の指導者は誰だった? スパルタクス団運動のリーダーは誰だった? 共産党の真のリーダーと資金提供者は誰だった? 猶太人だ。全て猶太人だった。ハンガリーやスペインの赤化地域も同じことだ。」
そして、再びチャーチル、彼が1920年2月8日に書いた「Illustrated Sunday Herald」紙の記事より:
「これら國際猶太人、そして、大部分が、無神論的猶太人によって、ボルシェヴィズムが創設され、そしてロシア革命が実際に引き起こされたことを誇張する必要はないであろう。これは、疑いなく、非常に大きなことで、恐らく他の何よりも重要な事である。明らかに例外であるレーニン(レーニンは1/4猶太人、イディッシュを話し、妻は猶太人)を除いて主な指導者は猶太人だ。更に、重要な発想と精力的な力は猶太人指導者から来ている(中略)ソヴィエトの制度に於いて、猶太人の支配は、更にもっと驚きである。そして「反革命運動と戦うための特命委員会」(チェーカー)に応用されたテロリズムの組織の中で主要な部分が、猶太人で占められた...」
ロシア革命の猶太的性質とボルシェヴィキ政府の猶太人支配の証明、同様にその後、欧州を一掃した彼らの共産革命における役割は、反論の余地が無い。しかしながら、この情報は、欧米の大学の現代の教科書には見出すことが出来ない。どの学者も、主要な出版社から本を出版し、販促してもらいたかったら、或いは、学者としての活動を望むなら、これらの史実を述べる事も本に書くこともできない。どの政治家も政治家であり続けたいなら、まさかこれらの史実を口に出すことは出来ない。することが許されているただ一つの話は、猶太人が今もいつも西欧キリスト教文明の何の罪もない犠牲者であるという事なのだ。これ(ロシア革命の猶太的本質)を口にすることは、直ちに反猶太主義者になり、文明社会から投げ出されてしまうだけのことになってしまう。これが、猶太の力の本質なのだ。
(次回から、赤色テロル ―猶太によるロシア人ホロコースト― の実態を3回に分けて掲載します。)
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