ドイツ悪玉論の神話015

ロシア人の猶太人に対するポグロム(虐殺)の原因

20世紀の変わり目、大多数の猶太人はロシア帝國の支配領域に住んでいた。その頃、650に上る反猶太の法規が公式の法律として存在した。―それは、ロシア人を猶太人の強欲な富の欲望から守るために必要と見做された。世界中の國で、最低レベルの役人から、陸軍を構成していた普通のロシアの兵隊、ロシア正教会、政府、そして皇帝自身に至るまで、反猶太主義がこれほど根深いところはなかった。これらの組織団体にいた、そしてそれ故にその権力の下にあった数百万人の生活を統制し、規制していた者は、ロシアの猶太人への疑念、畏れと激しい憎悪を殆ど全員が一致して抱いていた。猶太人は、反抗的で何かと問題を起こすと同時に、受入れ國の異教徒の國民・キリスト教徒に対して、強欲で攻撃的な搾取者である、という悪評があった。

歴代ロシア皇帝は、キリスト教の信仰の擁護者であり、ロシア民衆の保護者であるという意識があったため、中世以来、彼らは、猶太人をロシアから排除してきた。ところが、1772年のポーランド分割以後、ポーランドの東側がロシアの一部になり、大多数の東欧猶太人がロシア帝國に編入されるに至った。エカチェリーナ大帝の時にウクライナとクリミアの併合(1783)により、更に猶太人臣民が加わった。この新たな「猶太人問題」に対処する為、悪名高き「猶太人居留地(Pale of Settlement)」が1791年に制定された。この猶太人居留地は、ロシア帝國の西端から始まり、ポーランドリトアニアウクライナベラルーシベッサラビアを含む地域だ。これが、ロシア帝國にとって、猶太人を含む「望ましくない」人々が住むことを定められたところだ。ロシア政府は、猶太人を「ロシア國家の継続的安寧にとって恒常的な脅威」と見做した。猶太人が、恒常的な問題を引き起こす、と言うこの見方は、1789年のフランス革命以降、革命での猶太人の大きな役割が知られるようになって、益々強くなった。(フランス革命を扇動したジャコバン派は、もし全員でなければその大部分が猶太人だった。また、フランス革命を資金援助したのも、例えばロンドンのベンジャミン・ゴールズミッド(Goldsmid)、その弟、アブラハム・ゴールズミッド(Goldsmid)、そのパートナー、モーゼズ・モカッタ、その甥、モーゼズ・モンテフォリーなど、ベルリンのダニエル・イツィッヒ?(Itsig)、その女婿、ダヴィッド・フリードランデル(Friedlander)、それにアルザスのHerz Cerfbeer など、猶太人だった。)歴代ロシア皇帝は、ロシア帝國の安定を懸念していた。そして、猶太人の革命を扇動する傾向を懸念していた。猶太人に課せられた厳しい制限はロシアを防衛する為のものであり、猶太人の生活を困難にするだけの為に制定されたのではなかった。

アレクサンドル二世、誰の目にも思いやりに溢れ、哀れみ深い人が、1855年ロシア皇帝に即位し、ロシアにとって重要な変革を実施し始めた。1861年農奴解放令は、注目すべきものである。そして、良心的な意図を以って猶太人に対する制限も大幅に緩和した。商人、医者、職人などの「役に立つ」猶太人がロシア領内に定住する事を条件付きで許可した。譬え条件付きとはいえ、ロシアの國境を猶太移民に一旦開くと統制し難く、猶太人が大量にロシアになだれ込んできた。猶太人社会が、特にサンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサなどで急速に大きくなった。彼らの緊密な仲間内の協力、高等教育の重視、彼ら特有の排他的な仲間内で仕事をして自分達と仲間の猶太人だけ出世するというやり方で、間もなく、医薬、ジャーナリズム、法律、金融、事業経営などの業種を支配し始めた。さらに猶太人は、酒、たばこ、小売業などで、異教徒を排除しながら、徐々に独占形態を達成した。この行動パターンが、ロシア人の間に敵意を生み出し、予測される反猶太主義の波が続いて起こった。猶太人は、ロシアを支配し、搾取するために「國家の中に國家」を築いている、と非難された。

f:id:caritaspes:20190325032413p:plain

猶太居留地のシュテットル

f:id:caritaspes:20190325032443p:plain

 

f:id:caritaspes:20190325032526p:plain



アレクサンドル三世とニコライ二世の政治顧問をしていたコンスタンチン・ペトローヴィッチ・ポベドノスツェフは、公然の反猶太主義者であったフョードル・ドストエフスキーへの手紙の中で、次の様に書いている。
「貴殿が猶太人についてお書きになっている事は、全く正しい。彼らは、全てを夢中にし、全てを弱体化してしまった。しかし、世紀の精神が彼らを支持している。彼らは、革命的社会主義者運動の核心に居り、大逆罪(皇帝弑逆)の核心にいる。彼らは、定期刊行物を所有している。彼らは金融市場をその手中に持っている。人々は、全体的に、彼らの金融奴隷に落ちぶれる。彼らは、今の科学の原理すら支配している。そして、それをキリスト教文明の枠外に配置しようと懸命になっている。」

ロシア國内で達成できる繁栄やロシア皇帝によって得られた公正な待遇にも拘らず、猶太人は、社会不安、特に労働者の不安を煽り始め、革命活動に関わった。例えば、猶太人は皇帝を引き下ろすことを具体的な目的とした「社会革命党」を創った。「無政府主義」と「虚無主義」はどちらも猶太人の運動であった。1881年、皇帝アレクサンドル二世は、猶太人の革命家グループに暗殺された。この直後から、この同じグループによる一連の政府要人や公務員に対する暗殺が始まった。1901年、皇帝の政権の教育大臣が暗殺、1902年には内務大臣、1903年にはウファの知事がそれぞれ暗殺され、1904年にはロシアの首相、1905年は、皇帝の叔父のセルゲイ大公が殺された。そして、1905年、猶太人は遂に皇帝の政権の転覆を謀ったが、成功しなかった。1906年、Dubrassov 将軍が暗殺された。1911年、猶太人テロリスト、モルデカイ・(ドミトリー)・ボグロフは、ピョートル・ストルイピン首相を暗殺した。彼は皇帝も参加していたキエフのお祭りで、後頭部を撃たれた。(猶太人の間では、猶太人の利益に立ちはだかる人間の暗殺は、昔からの伝統である。イスラエルモサド(MOSSAD)は、今日でも日常的に暗殺を実行している。最近では、イランの核科学者5人がモサドに暗殺されている。モサドの暗殺実行が描かれた映画「ミュンヘン」を見ると良い。)

猶太人によるこれらの暗殺や革命活動、就中、自身の父親の暗殺に、次の皇帝、アレクサンドル三世はあまりに激怒し、次のような声明を発した。
「しばらくの間、政府は、猶太人の主導によってキリスト教徒の居住者にもたらされた悲しむべき商業上の状態を確かめた上の見方で猶太人を注視し、更に帝國内の猶太人と残りの居住者との関係に注目してきた。過去20年に亙り、猶太人は徐々にあらゆる貿易・全ての商業を所有してきたのみならず、購入・農業経営により土地も所有してきた。二、三の例外を除いて、彼らは、全体として、國を益し、豊かにするのではなく、策略を巡らして、他の居住者、特に貧困な居住者を騙すことに没頭してきた。この様な彼らの振る舞いは、暴力的行為で明らかになったように、それらの人々の抗議を呼び起した。我が政府は、一方で障害を取り除き、猶太人を抑圧と虐殺から助け出すことに最善を尽くすが、その一方で、緊急かつ正義の問題として、良く知られている通り社会不安の原因となっている猶太人による他の居住者への抑圧行為に終止符を打つための厳しい対処と、彼らによる背信行為を國から一掃する事を考えている。」

皇帝の政権は、厳しい取り締まりを命令した。一人ずつ、殆どの猶太人が捕らえられ、裁判に掛けられた。これは、當然、正當化以前のことであったが、皇帝の猶太人暗殺者に対する報復は、いつもの様に「反猶太主義」や「迫害」と言う激しい抗議を生み、同様に「民族絶滅」の予言まで生み、これらの訴えは、國際猶太メディアによって大げさに吹聴された。ロシアの人々はとうとう、猶太人に愛想が尽き、猶太人が特に多いロシアの西南地域全域でポグロムの波が広がった。1881年だけで、その期間の長さと苛酷さは様々だが、250回ものポグロムが起きた。これらの殆どは、キリスト教徒のロシア人による自発的な猶太人への攻撃であって、皇帝の政権の手になるものではなかった。

これらのポグロムは、當時の國際猶太雑誌や新聞で、いつもの様に煽情的な誇張と民族虐殺の恐ろしい予言と共に、広範に報道された。國際猶太のロシアへの報復の渇望は、息つく暇もない誇張と、皇帝への攻撃の悪意に満ちた宣伝工作により、極端に増大した。事実は、ポグロムの背後にいたのは、皇帝の政権ではなく、ロシアの民衆自身であったのだ。皇帝の政権は、誰が背後にいるのか、捜査までしたし、予防するためにできるだけの事はした。捜査の結果は、ポグロムは、猶太人の金融による農民の搾取とその結果による積もり積もった農民の恨みの結果である、と言うことであった。

猶太人はロシア全土で次から次へと問題を誘発し続けた。既に述べた様に、彼らはロシアの役人を暗殺し、労働者を雇用主に対抗させることにより、動揺を煽り、デモを組織し、革命を煽る企てを繰り返した。この革命運動を食い止めるために政府は1882年に猶太人抑圧政策を始め、1917年のロシア革命まで続けた。1888年、アレクサンドル三世は、猶太人をロシアから追放し、猶太居留地に戻し始めた。猶太人は、ロシア國内で土地家屋(財産)の購入・賃借を禁止された。彼らは公的職業に就けなくなり、日曜日とキリスト教の祝日に取引する事を禁止された。ニコライ二世は、1894年に父、アレクサンドル三世を継ぎ、猶太人に対する厳しい規制を続けた。彼は、ロシアの人々を猶太人の陰謀と策謀から守り、また同時に社会の混乱を避けるためにそれが必要と感じた。しかし彼はごく普通のロシア人が行っていたポグロムを止めさせることが出来なかった。これは、猶太人に対する憎悪と敵意によって自発的に、定期的に発生するように思われた。

(次回はユダヤアメリカとの係わり、アメリカによる革命支援について)