ドイツ悪玉論の神話011

しかしながら、シオニストパレスチナに猶太居住地を獲得する好機と見て、英國支持に切り替えたことにより、國際猶太國家は一夜にして逆の立場に切り替え、公言する敵は、独逸となった。彼らは独逸から金融支援を引き揚げただけでなく、独逸に対して、悪意に満ちた宣伝工作の攻撃を開始した。英米の猶太人が、既に始まっていた英國政府による激しい反独逸宣伝工作戦に加勢したのだ。猶太人所有の全ての新聞とその他の出版物、同様に、猶太所有のハリウッドも攻撃に加勢した。独逸人、それは、その頃猶太人の一番好きな國民だったはずだが、は、突如、國際猶太情報網で、残忍で知性の低い乱暴な、赤ん坊殺しの「フン」になった。國際猶太金融は、独逸の財政支援を切り、英仏に資金を流し始めた。在独逸の猶太系銀行ですらそれ以上の独逸の戦費調達を拒否した。

戦前、独逸は猶太人にとって歓迎された國であった。猶太人への制限が一切なかったため、独逸では猶太人が非常に力を持ち、その金融・銀行支配を通じて独逸の工業力の大きな部分を支配することが出来た。イギリスによるパレスチナの約束がされると、猶太系独逸人でさえ、独逸の戦争遂行に進んで協力しなくなった。それどころか、彼らは、独逸國内で、連合軍の「第五列」のような状態になり、自らが住んでいる國を裏切った。独逸の猶太系新聞は、戦争を非難・批判し始めた。独逸の労働組合の猶太人指導者たちは、ストライキや労働停止など、扇動を始め、猶太人の共産主義者の指導者たちは、革命の扇動を始めた。この様な猶太人による連携した軍需生産の弱体化や独逸人の間に社会不安を起こす事は、独逸の戦争遂行に非常に有害だった。猶太人は英國の賄賂を受け取り、また、結局のところ、彼らの利害は、「猶太人にとって良い事」でしかないこと、彼らが忠誠を尽くす最優先且つ最重要なものは、(住んでいる國ではなく)國際國家イスラエル、である事を証明したのだった。

英國パレスチナで猶太居住地を約束した直後から、米國の猶太人は、ウィルソン政権に対独参戦の圧力をかけ始めた。ウッドロウ・ウィルソン大統領は、その政治活動・経歴を猶太人の金融・メディア支援に負っており、その政治経歴を通じて猶太人と密接に関係してきたため、非常に猶太人に対して従順であった。彼の非猶太人の右腕であるエドワード・マンデル・ハウス「大佐」でさえ、ウィルソンと出会う以前に猶太人と密接な関係があった。ハウスは、「ロスチャイルドの猶太の家」で代理人として雇われ、米國の木綿の買い付けの交渉をしたことがあった。ウィルソンのニュージャージー州知事選の選挙資金は、猶太銀行家と金融家、クーン・ローブ銀行頭取のヤコブ・シフ、シフの義弟、ポール・ウォーバーグ(彼はウィルソンに連邦準備制度理事に指名された)、そして、金融業者でウィルソンにオスマン帝國の大使に指名されたヘンリー・モーゲンソウ・シニアなどが支援した。ウィルソンの大統領の選挙活動も同じ面々と更にその他の猶太人も同様に支援した。その他の猶太人でウィルソンに影響力を及ぼしたのは、米國最初の猶太人最高裁判事にウィルソンが指名した、ルイス・ブランダイス、裕福で有力な金融業者、バーナード・バルーク、ラビ(猶太教司祭)で1897年にアメリシオニスト聯盟設立者(後にウィルソンが最も信頼を寄せたアドバイザー)であるステファン・ワイズ、共産党の秘密党員で後にFDR に最高裁長官に指名されたフェリックス・フランクファーターなどがいる。

 

 

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ポール・ウォーバーグ

 

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ヘンリー・モーゲンソウ シニア[1]

 

 

 

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ヤコブ・シフ

 

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バーナード・バルーク

 

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ラビ ステファン・ワイズ

 

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ルイス・ブランダイス

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フェリックス・フランクファーター

             これら、有力なアメリカの猶太人は、ウッドロウ・ウィルソン大統領の政治活動に
                   お金を融通することで、大統領を支配した。彼らは、その影響力を使って、
                                            大統領に
対独参戦するように圧力をかけた。

 

これら猶太人は、ウィルソンの政治経歴を牛耳っていたので、事実上ウィルソンを支配していた。彼ら全てがウィルソンに対独参戦の厳しい圧力を加えた。そして、前述の様にウィルソン自身、既にその動きに傾いていた。そしてその間にも猶太人の情報・娯楽メディアは、米國の世論を参戦反対から寧ろ、参戦要求に転換した。ウィルソン自身、アメリカの参戦を決定し、下院に対独宣戦布告を説得した。

1917年4月6日、猶太人シオニスト米國参戦を約束したヴァイツマンと英國指導者との会談後、半年を経ずして、合衆國下院は、独逸に宣戦布告した。

1917年11月2日、交換条件として、英國政府はバルフォア宣言英國政府からシオニスト、ウォルター・ロスチャイルド男爵への手紙と言う形で発布し、パレスチナを猶太居住地にすることを約束した。

戦争は1918年11月11日に、停戦協定が調印されたことで、ウィルソンの「14か条」を基本として終結した。戦後にパリで行われた平和条約を仕上げるための和平会議がその約束を守り、ウィルソンの14か条を基本にして条約を作っていたならば、全く異なる結果となっていたはずだが、前章でも概説した通りそうはならなかった。和平会議はウィルソンの14か条 -それは、どちら側にも正義の和平を約束するものだった- を無視した。独逸を非難し、戦争責任を押し付け、苛酷で懲罰的な、およそ正義の平和とは別物の条約が作成された。それは、独逸人にとって破壊的で、社会規範を乱すものだった。条約は、「命令」と言う形で独逸に示され、独逸は調印するように脅迫され、強要された。独逸の人々は条約の中身を知って驚愕した。彼らは、激怒し、誰かに責任を押し付けようとした。そして彼らの怒りは猶太人に向けられた。

こうして、「背後の一突き」論が語られ、敗戦と同様に厳しい平和条約の責任を共産主義者と猶太人に押し付けた。これらの主張には、広範に信じられるに充分な事実があった。國際猶太勢力は、実際、パレスチナ居住地の約束-それは、英國のみが与えられる立場であった-と交換に独逸に敵対した。猶太人は同時に、英仏に戦費を調達し、國際金融への影響力を使って、独逸への資金を切ったのだ。更に、これらの猶太人の大多数は、独逸の猶太人で、自分自身の國を弱体化する挙に出たのだった。

(次回は、パリ講和会議でのの猶太人と英国貴族の猶太系譜です)

[1] FDR政権の財務長官、ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニアの父

 

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