ドイツ悪玉論の神話101

猶太人の復讐

独逸が打ち負かされて欧州での戦いが終わった時、猶太人は、復讐を果たし、戦利品の分け前に与かる為、何千人と言う集団で独逸になだれ込んだ。彼らは即座にモーゲンソウ計画と猶太人の独逸経済を破壊する復讐の計画の実行に取り掛かかった。独逸をいくつかの小國に分割し、その市民を百万人の単位で奴隷化し、最大二千万人とも言われる人々を抹殺した。幾分正常な高官により、計画は、和らげられたが、大方の計画は、統合参謀本部命令(JCS1067)として、独逸の人々にとっては冷酷な結果を伴って実行された。

猶太人はニュルンベルク裁判に殺到し、独逸の指導者に対する復讐を要求する手段として用いた。裁判に参加した三千人の人々の内、二千四百人が猶太人であったと報告されている。猶太人は、その傀儡の後ろで糸を引いて、自分たちが望むことは何でもできた一方で、敗北し、飢え、ひれ伏す独逸人は、自分たちを弁護する手段が何もなかった。

 

猶太人旅団

そして、今日知っている人は多くはないし、これまでも知られていなかったが、猶太人旅団があった。パレスチナで組織され、英國軍の制服を着て米國軍のジープに乗り、彼らは、連合軍が独逸軍をイタリアから本國に向けて追撃するのについて行った。猶太人旅団の将校と上級士官は、英國の猶太人であったが、兵士たちはパレスチナの猶太人で、多くは独逸からパレスチナに移民した者達であった。猶太人旅団の話は、汚いもので、もっと公開されなければならなかった。旅団は戦争で戦うために設立されたものではなく、英國軍の後ろから独逸に入り、武装解除された無防備の独逸人に復讐する(恨みを晴らす)ために設立された。敗北した独逸に入ると彼らは、上級独逸将校を追い詰めて殺人するために、自身が「復讐分隊」と呼ぶものを組織した。猶太人旅団は、厳密にいえば英國の第八軍の一部であったが、独立して作戦実行し、テルアビブのシオニスト指導者から命令を受けていた。

英國軍の制服と英國軍の資格を用い、彼らは、階級の高い独逸将校を追い詰めて殺しながら独逸とオーストリア國内を駆け巡った。猶太人旅団は英國軍から無制限の兵站支援を受け、必要なものは何でも要求でき、独逸とオーストリア國内は「公式」能力としてどこでも自由に回れたが、彼らは英國軍に対する責任を一切負わなかった。今や独逸の公式記録は全て連合國にあり、それは猶太人旅団もいつでも覗き見ることができた。更に、彼らは独逸語を知っており、独逸のファイルを読むことが出来た。これらの公式文書から独逸人将校の個人宅の住所を取得して、彼らは独逸人将校の家に米軍のジープで乗り付け、英國の士官と称し、そして探している将校を見つけると殺したのだった。この時までに独逸軍は捕らえられ、将校と一覧に名前が載っている人間で、もう戦争捕虜収容所に留め置かれていない者は武器を置いて家に帰っていた。彼ら独逸人将校は、武器も持たず、完全に無防備だった。

モリス・ベックマンによると、彼の著書「猶太人旅団」の中で、「これらは、戦後最初の選ばれたナチス高官の処刑であった。何十という数の復讐分隊が行動しており、一番多い推定の処刑は、1,500人であった。確実な数字は知られることは無いだろう。」これらの将校に対しては、告発の記録もないし、裁判もなく、判決もなく、逮捕すらされていない。彼らは、単に復讐を求める猶太人の気まぐれにより、殺人されたのだ。独逸人将校は、独逸人将校であるというだけで、「有罪」と見做された。彼ら猶太人旅団は、完全な免罪を以て、殺したい者は誰でも殺した。猶太人はこれを「復讐」と呼ぶが、実際にはそれは単なる無防備の、そして独逸の防衛の為に独逸軍に従軍した、有罪かどうかもわからない人間の殺人でしかなかった。

これらの猶太人の処刑者の一人、イスラエル・カルミは、ベックマンの本の中で、選んだ標的にどの様に処遇したか、を説明している。
「容疑者の家に到着した時、我々は、「英國の」憲兵のヘルメットを被り、白いバンドと警察の腕章を着けた。そして、家に入り、容疑者に尋問があると言って連れ出す。普通は、問題なく来た。車に乗ると我々は自分たちが誰であり、何故連行したか告げる。罪を認めるものもいたし、黙秘する者もいた。我々は仕事を実行した。」つまり、彼らは、頭を撃ちぬいた。

「我々は、憎しみで胸が焼けるようだった。ナチスを殺す機会を利用しなければ人々は決して我々を許さないことを知っていた。」

イスラエルの猶太人、マイケル・バー=ゾウハーは1967年に「復讐者(The Avengers)」と言う題の本を書き、その中で彼は無防備の独逸人、非戦闘員と前の軍人に対する終戦直後の猶太人が犯した多数の信じられない残虐行為を記述している。これらの大量殺人は独逸の民衆に知られない様に、米軍によって隠されてきた。多くのその様な出来事の一つが1946年4月15日に起こった。独逸に居る東欧の猶太人集団が(彼らは終戦と共に独逸になだれ込んだ)猶太人の米軍兵士との共謀で、三千斤のパンに毒を入れ、それを3万6千人の親衛隊捕虜を収容する戦争捕虜収容所に配達した。毒の濃度が薄かったことから捕虜は誰も死ななかったが、何千人もが酷い病気になった。

同じ本の別の段落でバー=ゾウハーは、戦闘行為が終わってすぐに独逸に入りつつあった猶太人の兵隊の感じた熱狂的喜びについて記述している。彼らは、独逸に着いたら何をするかについて、どの様に独逸の非戦闘員を殺し、独逸女性を強姦する積もりか、想像した、とバー=ゾウハーは言う。「しかし今、彼らは独逸に向かっている!男たちは、そのニュースを大きな興奮を以て話し合った。それは、本當とも思えないほど良い事だ!一か月もらえれば、たった一か月、我々は、奴らが我々の事を永久に忘れない様なことをするだろう。そこで奴らは、奴らが我々を憎む本當の理由がわかるだろう。我々は、大概、一つしかポグロムをしない。我々は、千の家を焼き、五百人の人々を殺し、百人の女を犯すだろう。」そして、一人ならず猶太人の若者が「私は独逸人を冷酷に殺さなければならない、殺さねば。そして独逸の少女を犯さねばならない。それが我々の戦争目的だ、復讐!ルーズベルトの四つの自由でも大英帝國の偉大な栄光でもスターリンの政治主張でもなく、復讐だ、猶太人の復讐。」と言ったと聞いた。

数多くの英國軍の将校は何が起こっているか気づいていた。そして止めさせようとする者もいたが、英國軍の司令部は行動を起こすことを拒否し、猶太人旅団による独逸人将校の殺人に対して見ないふりを決め込んだ。「英國軍の司令官は何が起きているのか知っていたが彼らは旅団に(中略)同情的だった...」とベックマンは言う。

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独逸人は戦後、全ての占領軍に残虐に扱われ、戦争が終わった後の1,300万人ともいわれる独逸人の死の原因となった。ソヴィエトが西側に対する脅威を見せつけた時にようやく連合國は、独逸人を寛大に扱い始めた。彼らが独逸人を寛大に扱い始めたのは、その頃形作られた冷戦で、独逸人の協力を必要としたからに過ぎない。そこで我々は、独逸に対する調子を変えて、彼らを西側文明の重要な部分と見做し始めたのだ。そして、彼らは急に「いい奴」に豹変した。我々は、ずっと間違っていたのではないのだろうか?パットン将軍はそう考えた。終戦直後、バイエルンの軍事長官となった後、パットンは、独逸人に関して完全に心を入れ替え、我々が間違った敵を相手に戦ってきたことに気づいた。彼は、アイゼンハワーの敗戦國独逸人への残虐な扱いに協力する事を拒否したため、バイエルンの軍事長官としての仕事を追われ、閑職に祭り上げられた。彼はそれから間もなく、謎めいた、怪しい状況で亡くなったが、多くがその反抗の結果として、と信じている。彼が殺されたことは、ほぼ間違いないだろう。

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