ドイツ悪玉論の神話038

ヒトラーと國家社会主義の下での独逸の出来事は、猶太人の新聞の中で、故意に誤って伝えられた。小さな出来事を その実際の意味とは丸っきり違う程度まで大げさに誇張した。どんな行動の噂も、そして問題にならない小さなことでさえ、反猶太の事は大げさに、おまけに大量虐殺が間近に迫っている様に喧伝された。國家社会主義者についての猥褻な噂は、事実として公表され、そしてかの有名な「目撃者証言」(後に、鑑識的な証拠がない中で「ホロコースト」説の元となった証言)により支持され、大々的に流布された。

このヒトラー政権に対する宣伝工作戦は、第一次大戦中に独逸に対して行われた捏造宣伝工作戦を思い起こさせるものだ。それは、独逸兵が、赤ん坊を銃剣で刺した、とか、少年の手首を切り落とした、とか、少女を強姦した、などと言う戦後になって全てが反独逸感情の憎悪を煽るための捏造であったことが証明された出来事であった。

國家社会主義党の幹部は、これらの誹謗中傷と猶太の新聞で広められた虚偽を憤慨を以って否定し、そして、正式な、書面の抗議書さえ発行したが、誰も聞く耳を持たなかった。猶太人は兎に角反「ナチ」・反独逸宣伝工作戦に大成功であったが、それは猶太人が西側すべてで主要なメディアを支配していたからであった。独逸には、誹謗に対抗する手段がなかった。そして、誹謗中傷は信じられた。この宣伝工作の結果、特に英米の大衆の意識が独逸と國家社会主義に反対するように毒されただけではなく、本来ならもっと知っているべき公機関の高官までもが取り込まれ、熱心な「ナチ」憎悪者になり果てたのである。

ルーズベルト大統領自身、誰よりも毒舌の独逸嫌いとなった。彼は、屡々ヒトラーや他の國家社会主義政権の人間について、個人的に軽蔑的な、見下げた意見を公の場で述べ、それが米國と独逸の友好的な外交関係の可能性を悉く破壊した。ルーズベルトが辛辣な反独逸になったのは、彼が反独逸の猶太人の顧問、中でも、ハンス・モーゲンソウ、バーナード・バルーク、それにフェリックス・フランクファーターなどに囲まれていたからだった。歴史家のアーサー・シュレジンジャー・ジュニア(彼自身猶太人である)は、ルーズベルト大統領に関して次の様に特筆している。「猶太人をこれほど多く公職に指名した大統領は居ない。猶太人の顧問をこれほど多く自分の周りに配置した大統領は居ない。反猶太主義をこんなに雄弁にしかも執拗に非難した大統領は居ない。猶太人は、このはるか昔日には殆ど全員がリベラルであった。そして大多数がFDR に4度とも投票した。」

ヒトラーと國家社会主義者が政権に就くと即刻開始した反独逸宣伝工作戦に加えて、猶太の指導者は大規模な反「ナチ」デモを英國を含む全欧州、そして特に米國で組織した。1933年3月12日、ヒトラーに全権を与える法律が通過するより11日も前に、また、独逸で猶太人に反する行動がとられるよりもずっと前に、全米猶太人会議は、3月27日にニューヨークのマディソンスクエアガーデンで大規模な反「ナチ」抗議集会を開く、と発表した。猶太人退役軍人の最高司令官は、独逸製品の不買運動を呼び掛けた。3月23日、ニューヨークの市庁舎前で猶太人二万人による抗議集会が開かれた。集会はさらに北独逸ロイド&ハンブルクアメリカン商船会社の外でも行われ、そしてニューヨーク市全域の店舗・企業で独逸製品の排斥運動を組織した。この時点まで独逸では猶太人に指一本触れてはいない。猶太人に敵対する施策はただの一つも行われていなかった。猶太人による全てのヒステリックな反独逸活動は、単に「ナチス」がするかもしれない、と言う「予感」が前提だった。

1933年3月24日、ヒトラーが首相に就任して一日後、ロンドンの「デイリー・エキスプレス紙」は、ヘッドラインに「猶太が独逸に宣戦布告-世界中の猶太人が結束して行動-独逸製品の排斥-大規模デモ」と公表する見出しを出した。(下図を参照)記事は、独逸に対する計画的「聖戦」について記述し、更に全ての地域の猶太人に独逸製品の不買を請い、独逸の経済利益に反対する大規模デモへの参加を呼び掛けている。「デイリーエクスプレス」に依ると、「全世界のイスラエル全体(國際猶太)が結束して対独逸の経済及び金融戦争を宣言する。新しい独逸のシンボルとしての鍵十字の出現は、古い猶太の戦争のシンボルを新しく蘇らせた。一千四百万の世界に散らばった猶太人は、同胞信者の独逸人迫害者に宣戦布告するために、一人の人間の様に固く結ばれた。このヒトラーの人民に対する聖戦に参加するために、猶太人の卸商は、その店をやめ、銀行家はその株式をやめ、商人はその商売をやめ、乞食はその小屋をやめるだろう。」

 

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デイリーエクスプレスの記事


「デイリー・エクスプレス」は、独逸が「これからその貿易、金融、そして産業で、國際的な排斥運動に直面する。...そしてロンドン、ニューヨーク、パリ、ワルシャワで猶太人実業家は結束して経済十字軍を続けるだろう」と述べた。

この「デイリー・エクスプレス」の報告は、猶太人の指導者が、國際猶太金融の巨大な利害と組み合わせて、新しいヒトラー政権を打倒すために、既に先の読めない独逸経済を更に損傷する目的のために特にわざわざ独逸に対する排斥運動を始めたのであった。

「ロンドンのデイリー・ヘラルドは、著名な猶太人指導者に記者会見し、その指導者は、「指導者は躊躇った」が、猶太の人々は「指導者を強制した」と認めた。既に排斥運動は「数十万ポンドに上る独逸の貿易」に被害を与えた。」(エドウィン・ブラック、猶太人の記者。譲渡契約書・ページ34)

「ロンドンのホワイトチャペル地区では、殆ど全ての猶太人の店で独逸人販売員の拒否と反ナチ不買運動の看板を掲げていた。十代の若者が通りを警備巡回し、独逸製品の不買運動を呼び掛けるビラを手渡していた...」。」(エドウィン・ブラック、猶太人の記者。譲渡契約書・ページ46/47)

 

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ニューヨーク市の商店の反独逸不買運動の看板


猶太人の独逸排斥運動支持の大規模集会がポーランド全土で開催された。最大のワルシャワ猶太人商業機構は「独逸からの輸入品の不買運動により最も過激な手段を使う」という拘束性の決議を通した。

この人目を引き付ける宣戦布告の後、この様な挑発は何らかの反発を招くであろうことは、全ての猶太人、特に独逸國内の猶太人には明白であったはずである。この宣戦布告は、独逸の人々の猶太人への敵対心を強め、また、独逸の人々が猶太人を独逸の「内に巣食う敵」である、と観る原因を作った以外、独逸の猶太人に何(の利益)ももたらさなかった。

猶太人による排斥運動の直後の結果は、ニューヨークでの独逸の蒸気船会社への対抗、例えば荷積みをキャンセルされたことや乗客の乗船券の不買に至ったことに見られた。國際猶太組織網は、排斥運動がリトアニア、フランス、オランダ、英國、それにエジプトで急激に展開した時、その効果を実例を以って示した。猶太人が支配していた英米労働組合は、あらゆる場所で、「独逸製品不買」の看板を広めた。企業の中には独逸製品の注文のキャンセルを始めるところもあった。

 

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独逸で猶太人に反する行動がとられる以前、1933年に猶太人は独逸に宣戦布告した

 

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國家元帥 ヘルマン・ゲーリング

独逸は、事態を非常に懸念した。ヘルマン・ゲーリングは、独逸の主要な3つの猶太人組織の指導者を事務所に呼び出し、独逸に反する擾乱の全ての責任について彼らを非難した。彼は、「今すぐこれらの不當な非難を止めなければ、独逸における猶太人の安全を保障することは出来ない。」と彼らに伝えた。ゲーリングは、彼らにロンドンと米國に行って独逸の猶太人には何も起きていないと、猶太人の指導者を説得することを望んだ。実際、猶太人組織「中央協会(Central Verein)」の副代表エルンスト・ワラック(Ernst Wallach)は、既に米國入りして當にそうしており、また、全米猶太人会議に対して反独逸活動を思いとどまらせようとしていた。三人の独逸の猶太人組織の指導者は、全員ゲーリングの要請したことに同意した。

この会談の後、これら猶太人指導者は、その組織を動員して米英の公衆に独逸の猶太人に対する虐待のヒステリックな報告は事実ではない、と伝えた。三人の独逸の猶太人指導者は、ロンドンを訪れ、全米猶太人会議の代表、スティーヴン・ワイズに会って3月27日にマディソンスクエアガーデンで予定されているデモを中止する様に請い求めた。「中央協会」のエルンスト・ワラックもまた、スティーヴン・ワイズに要請し、もし中止が無理なら、少なくとも感情を抑える様にするべきだと言った。

猶太人メディア(新聞ラジオ)により吐き出された大げさな反「ナチ」宣伝工作の為にその勢いは余りにも大きく、ワイズには集会をキャンセルすることが出来なかった。1933年3月27日、計画されたマディソンスクエアガーデンでの抗議集会は予定通り開かれ、4万人(ほとんどが猶太人)が集まった。しかしワイズは、集会での融和的な演説を以って少しだけ抗議を和らげることが出来た。同様の集会と抗議の行進が他の都市でも猶太人の集団によって開かれた。

これらの猶太人指導者の反「ナチ」ヒステリー症状を収めようとする努力にも拘わらず、発表された独逸製品排斥運動は、その意図した効果を上げ始めた。排斥運動が発表された二日後、猶太人戦争退役軍人と呼ばれる組織は、二百万ドル(1933年當時の米ドル・現在価値で三千五百万ドル)の独逸への注文のキャンセルが表面化したという情報を流した。

ヒトラーはその前に國際猶太の独逸に対抗する活動が止まなければ独逸國内の猶太人の店を排斥すると脅していたが、それは止まなかった。そこで3月27日のマディソンスクエアガーデンの集会の次の日、ヒトラーは演説し、その中で、独逸國内で猶太人商店と猶太製品の一日不買を命令した。これは、勿論、独逸製品不買に対する直接の対抗措置であった。不買運動は結果的に効果なく終わった。何故なら、それは独逸國民に大部分無視されたからであった。

ヒトラーのこの猶太人商店と製品の一日不買運動は今日の歴史の本や當時の事を書いた記事では広く取り上げられているが、それを引き起こした猶太人による独逸製品の排斥運動には、全くと言っていいほど触れられない。ヒトラーの猶太人商店不買運動はたった一日であったが、猶太人による独逸製品排斥運動は、ずっと続き、後年更に酷くなった。

(次回はヒトラーの改革断行です)

 

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