筈見一郎著 「猶太禍の世界」22(完)

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ヒトラーの排猶主義の徹底

ヒトラーは一九三八年より徹底的な排猶方針を実行し始めた。しかし、それは、彼が久しき以前から計画していたものを実行したに過ぎなかった。以下は、一九三三年の十月、ドイツが、国際聯盟を脱退した直後の話である。

ゲッベルスは、彼の任務としてヒトラーの聯盟脱退の命令が実行された一伍一什を報告に来た。

ヒトラーは、一文字に堅く口を噤(つぐ)んで、その報告を仔細となく聴取した。

それが終わるや、彼は始めて口を開いた。

「聯盟の手合いは孰れも揃いも揃って感心な船員どもじゃったのう。あれらは決して実行に移らなかったからね。いつも、口先のみで異議ばかり唱えていたね。そうして、いつも機宜の処置が講ぜられず、時期ばかり失しているんだよ。あいつらが戦いたかったら戦うがいいや。その方がこちらも好都合さ。

一体イギリスのサイモン(当時の外相)と言うのは何だい? あれは猶太人と言うが本当だろう?

いや、あれは猶太人に決まってるさ。そうしてドイツを亡ぼそうと企んでいるのだよ。

フランスのボールタールは何じゃい? あれはどういう種類の人間かね?

矢張り猶太人じゃないか?

そんなものに操られて国際聯盟なんか七里けっぱい(誰も近づけない、寄せ付けない処の喩え)だ。

ドイツは青春の血に富む。猶太の毒汁を受けてのみいては、堪らんよ。

だから、僕は思い切って、僕の外交に於けるそうした猶太の人為的の橋は焼き落してしまったのだよ。

かくしてこそ、始めて自分は、西欧諸国に優越なドイツを建設し得るのだ。

僕は成功を確信している。なぜなれば、マルキシズムを始め、凡てのデモクラシーやリベラリズムの表面ばかり偉そうに見える人物の肚の底を聯盟を通じて既に看破し得たのであり、彼等の国々の弱点を底まで究め得たのだからね。

我が国家社会主義の成功は、要するに、ブルジョアジーや、彼等の信ずる政治的理想の永久に挽回し難いこの世からの葬送を、しかと認識している点にあるのである。

今に見よ、未曽有の雪崩がこの世界に押し寄せて、現在の政治地理は全く趣を異にしてしまうからね。

刻下の不安な欧州の国家や社会の秩序というものは、偉大な爆発に崩壊を受ける機会が迫りつつあるのじゃ。

中にも聯盟の如きは猶太式デモクラシーの機構中でも一番新しい筈なのに、もう、すっかり腐敗しちょる。他は推して知るべしじゃ。

予はドイツ国民をして偉大なる道筋を行かせる責務を大いに感じている。

 

アンシュルス(独墺統合)以後とヒットラー

一九三四年の初めのことであった。

リッベントロップはヒトラーにこう話しかけた。

ポーランドはドイツが西部ヨーロッパを処理している間に果して中立を守るでしょうか?」

ヒトラーは莞爾(かんじ:にっこりと笑うさま)と、ほほ笑んだ。

「ドイツが、アンシュルス(独墺統合)を強行したら、ポーランドはどう出るであろうかね。」

「それよりも、その場合、問題になるのはイタリアの態度でしょう?」

「イタリアには諒解を勿論遂げて置く必要があるよ。その結果、却ってイタリアはドイツの友邦となる可能性があるよ。

ドイツは、イタリアとあくまでも盟邦関係を結ばなければ、ドイツの地位の争うべからざる向上は期し難い。将来は極東の日本とも提携してソ連を牽制する必要もあるね。」

「それでは、フューラーは、ポーランドの援助を受けてソ連を討とうとされるのですか?」

「ロシアは、却々(なかなか)難しい相手だよ。ロシアを攻撃するなんてことには恐らくならないだろう。ロシアさえ不了見をしなければ。

兎に角、ドイツとしては、ロシアと戦っては損だなあ。そう、僕は直覚するよ。

それよりかは、ポーランドの分割なんかは易々として行われるよ。

自分は本当の肚を言うと、ポーランドと心からして結ぶ考えはないね。ポーランド自身の肚が汚いからね。あれは英仏の猶太閥に左右される可能性が、あまりに多いと認められるからね。だが、ソ連ポーランドを分割しあうことも却々(なかなか)その影響は大きいよ。

正直のところ、ドイツの失うところも少なからずだね。出来れば、それを避けたいと思うがね。何しろ英仏のソ連への策謀もあるから、そいつも十分考慮しなければならん。

兎に角、愈々となれば、ソ連をこちらに積極的ではないが、好意的に味方させるのは容易だよ。

かく言えばとて、ドイツが必ずしもコミンテルンの主義を認めることにはならないよ。イデオロギーは違っても、国と国とは時に握手もなし得るさ。そこだて、外交の六つかしいのは。

英国の決意はいつも、にぶり勝ち。君も知っている通り、フランスの内部はマソンの跳梁(ちょうりょう)であのざまじゃ。戦わねばならぬ暁が来たら、フランスは恐らく鎧袖一触(がいしゅういっしょく忽ち敗北する)じゃろう。あれの内部が、しっかりして居たら、そうして、マソンの勢力が及んでいなかったら、フランスは強敵だがね。

その場合には、却ってドイツとイデオロギーも同じになり、英国の悪企くみのおだてには乗らないじゃろ。却ってドイツに味方するかも知れぬ。しかし現状じゃその正反対さ。思えばフランスもよい政治家がなくて気の毒なものさ。」

「いざ英独戦争となればどうなるでしょう?」

「英国は勿論絶対にドイツの敵にあらずさ。

堅固な意思のある方へ運命は追随するものだからね。」

 

英国は最早駄目だ

ヒトラーは唾をぐっと呑み下した。

「大英国は今や廃頽(退廃)と瓦解の極に達しているよ。それに堅固な意思を持った指導者がないしね。今に英国はその優柔不断を後悔するに決まってるよ。

今にドイツの指導下に、イタリアとの完全なる了解の下にオランダ、ベルギー、フランダース、北フランス等の西欧同盟と、それから、デンマークノルウェイ、東部ポーランド等の北欧同盟が出来上がるさ。事局の発展次第ではバルカンもそうなるかも知れない。

ソ連に関しては、ドイツが赤化することは決してあり得ない。却ってソ連の方がドイツの国家社会主義に大いに傾く可能性があるよ。最早、その兆候さえ見えてきているじゃないか?

そこに、ドイツとソ連とは手を握り得る点が又あるのだ。

この点、少なくとも外交上、ドイツはソ連と結ばざるを得なくなるだろう。だが、これは全くデリケートな問題だから、君極秘に付して置かなければいけないよ。真の外交の機微がそこに横たわっているからね。ソ連が汎スラヴ主義さえ守り、世界赤化を思い切れば、独ソに将来衝突はないだろう。

それかといって、主義に於いてソ連とどの程度たりとも、道連れとなる意志はない。外交は外交、主義は主義だ。君、混同してはならないよ。

ソ連よりも寧ろ警戒すべきは英米の潜航的なマソン思想だよ。

両国とも、猶太思想で固まっている。良心と言う言葉は猶太性のお体裁だけのものだ。」

 

ヒットラーの排猶はその処世哲学

ヒトラーは猶太思想を何より嫌っている。彼は一九二三年の四月一日から意を決してドイツのジュウの徹底的清掃をはかるに至った。一九三八年のプログラムでは、それがスケールを更に増大した。猶太主義さえ攻撃すれば、全世界の思想を健全ならしめ得ることをヒトラーは知っているのだ。

要するに、ヒトラーの今次の戦いの目的は猶太人に対して善処されているのである。猶太人はローマ帝国の敵であった。この意味でムッソリーニヒトラーの聖戦に欣然(きんぜん)と参加したのであった。

猶太人はエジプトやバビロンの敵でもあった。

だから、イラクが今猶太を代表している英国に敢然雄々しくも立ち上がり弓を引き始めたのである。現在の経済組織なるものはジュウの創造に係るものなるをヒトラーは誰よりもよく知っているのである。

猶太財閥が今全世界の上の超国家たるを彼は是非永久に打破しなければならぬと思っている。猶太人は何一つドイツ人と共通なところあるを認め難いと彼は言っている。シオンの長者のプロトコールヒトラーは読んで大いに驚き入ったのであった。フリー・メーソンやそれの別動隊であるロータリーの巧妙な奸策もヒトラーは既に看破しているのである。アリアンとジュウとは月と鼈(すっぽん)の如く離れている。

この二つは決して合致し難いことを彼は悟っているのである。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」21

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第十一章 今次聖戦の目的(終章)

 

ベルヒテスガーデンの秋夜

ヒトラーが総統になってから間もなくのことであった。彼はその重立った部下と打ち連れて、フレデリック大王の映画を観覧に行き帰って来た或る晩のことであった。夜色は、沈々としてベルヒテスガーデンの内外に立ち肇(はじ)めていた。

きらめく大小の星の無数の光は、山荘の薄暗いながらも澄み切った秋の夜空に一入(ひとしお)の風情を添えていた。

ゲッベルスが、先ず口を切った。

「素晴らしい映画でしたね」

ヒトラーはそれに異議なく相槌を打った。

「刻下、フレデリック大王の映画の如きはドイツ民族精神を高揚するには持って来いのものだね。」

ゲーリングはあの小柄ではあるが精悍な顔を突き出して、微笑を一杯に口許の浮かべて和した。

「そうですとも。現在のドイツには、ああいう映画こそ、最も好適するものでしょうね。」

ヒトラーの話が続く。

「宗教と言うものは煎じ詰めると一つさ。だから、ムッソリーニファシズムがローマの教会と妥協し得られるんだよ。僕とても、それをやろうとすれば出来るがね。」

「だが、此処に一つ問題が横たわるよ」と、ヒトラーは咳一咳して説く。

「それは国民性の相違だ。イタリア人は、あれで、却々(なかなか)無邪気な国民だよ。同時に、ローマの古来の英雄崇拝を中心としたイタリア民族精神の発祥ともいうべき、古ローマのアポロ以下の多神教をも信ずることも出来れば、また、今まで通りローマン・カトリック教徒でもあることも出来るのだよ。ローマ法王がイタリアの民族精神の源流である上古の多神教をさえ敢えて正面から否定しなければ、それでよいのだ。国民性のこの段になると、フランス人も同一轍のところがあるよ。元来、イタリアやフランスは基督教にのみ拘泥わらずして済むのだよ。彼等固有の民族の神々をも信じ得るのだ。その点になると、彼等の基督教と言うものは、美人と似て、皮一重さ。」

ヒトラーは、そこで、その面持ちは漸次紅潮を帯びて来る。彼は、シトロンのコップを半分やおら飲み、彼一流の論陣を進める。ヘス、ゲーリングゲッベルスヒムラー、リッベントロップの面々が孰れも、じっと耳を傾ける。「ところが、わがドイツ人は違うんだ。根本的に違うんだ。ドイツの国民性は、何でもやることには真剣で徹底しなければ承知しないんだ。つまり、宗教の問題となると、ドイツ民族自身の固有の神を信仰すべきか? それとも、基督教を無条件に信仰すべきか? 二つに一つの問題しか考えないのだよ。ドイツ国民はね。民族固有の神をも信仰し、同時に基督教徒たることは到底出来ないんだ。そこに難関があるのだ。解ったかね。」

一座のものは、ドイツ魂が満身に漲(みなぎ)っているのでこのヒトラーの言には正に彼等の胸奥を衝き、魂の底の底まで揺り動くような気がした。ところが、そこにヘルマン・ラウシュニングと言う、ドイツ人ではないが、ヒトラーの当時、相当に信頼して、ポーランドのフェルターとの連絡に絶えず奔走を命じている男があった。彼は、基督教徒で凝り固まり本当の独逸精神には、到底、触れることが出来ぬので如何にも解せぬ顔をして坐っていた。

ヒトラーは、それを目敏(めざと)く、眺めた。

「貴様だけには、可哀想に、この話がよく会得行かぬようだの。まあ、仕方がない。それだから、お前のようなポーランド人は困るよ。却々(なかなか)、ドイツ精神の本当のよさが君には解らんのも無理はないさ。まあ、折角、ドイツ精神を、今のうちに勉強して置くさ。」

これには、流石のラウシュニングも恥ずかしくなって目を伏せてしまった。しかし、その内心は相かわらず不服そうに見受けられた。ヒトラーは最早、彼に構わず話をどんどん進めた。

「のみならず、ムッソリーニは、ファシストの仲間から英雄が出るとは期待していないんだよ。ムッソリーニは彼一人のみが、将来のイタリアを指導すべき唯一無二の英雄的人物だと信じ切っているのだよ。だから、ファシストの連中が、基督教徒であろうが、そうでなかろうが、大して問題にはしていないんだよ。よいかね。これはムッソリーニ自身著わした『全体への闘争』の彼独自の思想的発展を辿って行けば、誰にも、よく判ることなんだ。彼の伝記そのものが、また、僕のこの観点を一層よく明らかにするよ。ムッソリーニは、あれで、却々(なかなか)偉いところがあるよ。彼は千年、二千年の後には、イタリアの新興の神様と基督以上に崇められるであろう。わがドイツは、イタリアと将来提携して行くのでなければ損だよ。いま世界をずっと見渡しても、ムッソリーニだけの人物は一寸見つからんよ。正直のところ、あれも一代の英雄さ。僕は、ひそかに、ムッソリーニには敬意を払っているんだよ。」

一座の者は無言で顔を見合わせた。英雄よく英雄を知るとは、恐らくこの事であろう。ヒトラーは残ったもう泡も立たない、しかし香りは失せないシトロンをそこで、ぐっと、甘そうに呑み乾してしまった。

「だがね。わがドイツ国民と来ては、あの女々しい憐憫を専ら信条とする猶太性の基督教をそのまま認めるか? それとも、ドイツ民族の祖先の間に自然に胚胎して来た、力強い英雄的神の信仰、即ち、換言すれば、我等の心中にある神、我等ドイツ国民の運命そのものの裡(うち)に存する神、我等の暖かい血液の中にたぎっている神そのものを信仰するか? 孰れか、一つを選び、他を断然棄ててしまわなければならぬと言う根本問題からして先ず解決して行かないと、困るんだ。」

「どうだい。君等は、どっちをとるかね」

一座の者は、ラウシュニング一人を除く外は、皆異口同音にドイツ民族の神をとるのが正しいと主張した。これにはヒトラー総統は、非常に満足な表情を顔一杯にただよわせた。

「勿論、そうでなくては、ドイツ民族は興隆しないよ。何が大切と言ってこの信仰問題ほど大切なものはないよ。

君等、ハウストン・スチュワート・チェンバレンの書を読んだことがあるかい。

それに拠るとね。旧約であろうが、新約であろうが、はた又、イエスの単純な言葉であろうが、悉く、猶太人の欺瞞に過ぎぬものだと言うのだよ。

そんなものを信仰しては、決してドイツはいつまでも自由であるわけには行かないよ。」

ラウシュニングの顔色は、ここに至ってさっと変わってしまったが、皆がヒトラーの話がますます佳境に入ったので夢中になっているので、それに気付かないので、僅かに彼の胸をほっと撫でおろした。

 

ヒットラーの教会観と民族観

「ドイツの教会や、ドイツのキリスト教は、ペテンに過ぎないよ。

そこで問題がもっと、はっきりした見解を取らねばならないことになる。

即ち、われわれドイツ国民は、こういう大問題に結局ぶつからねばならぬことになるのだ。

つまり、我等がドイツ国民であるか? それとも基督教徒のコスモポリタンであるのに甘んずるか? 孰れか一つを断固として選ばねばならぬことになるのだ。

この場合、双股膏薬*(ふたまたこうやく)は断じてならないのだよ。

*双股膏薬:定見なく、あっちへついたり、こっちへついたりする節操のない人。 ▽「二股」は内股の意。 「膏薬」は練り薬。 内股に貼はった薬は、歩くうちに左右の足にあちこちつくことからいう。

君等はあの癇癪(かんしゃく)の発作同然のパウロの奴を基督教から追い出す位の程度なら無論出来るさ。それを断行した前人もあるからね。

君等はイエス・キリストを崇高な道徳的人間として取り扱おうとすれば、その通りにも出来るさ。だがね、その場合には、論理の必然的帰結として、折角のイエスの神性なり、彼の救世主としての役割をば当然否定しなければならないことになるよ。

実のところ、世人はこれを幾世紀もなして来たのであった。

即ち、現在でも、英国や米国の所謂基督教徒で、全くそういうユニタリアン又はそれに類したような態度を執るものがあるよ。彼等自ら、それを言明さえしているのだ。

ところが僕はドイツ国民の一人として、そんな生ぬるい中途半端なことは大嫌いなのだ。

我等の衷心から要求するのは、神様が我等の中に在りと直覚し悟りを開き得るような真の拘束なきドイツ国民なのだ。

今更イエスをアリアン人種にするわけにはどうしても行かないね。

かくまで悟って来ると、チェンバレンの説だって、ひいき目にも、何をくどくどと謂っているかと、馬鹿らしく感じて来る位だよ。

大衆の心が再びキリスト教として帰って来ると真に誰かが考えているとすると、それはナンセンスだよ」

ヒトラーの視線は眩しげに見上げているラウシュニングに皮肉たっぷりの様子で落ちた。しかし、ラウシュニングも、ここに至って、平気を装うよりしか外はなかった。

「決して、基督教と言うものは、断じて、我が大衆の心には戻らないと予は敢えて誓うよ。そいつは、もう昔の譚(はなし)さ。牧師先生が、そんな時代錯誤を試みようとすると、自分で自分の墓を掘らなければならなくなるわけだ。その暁には、彼等のみじめな小さい葬式とか結婚とかに関わる仕事や収入が、まるっきり台なしになってしまうかも知れぬよ。

イースター祭なんて、最早、復活祭じゃないよ。それは永遠の我国民の更生を寧ろ意味することになるのだ。

クリスマスとは結局、我等自身の中に在るイエスとは全く違った、もっとドイツ国民としては力強い頼もしい意味を持つ新しい救世主の誕生のこととならなければいかんね。

即ち、僕の言う新しい救世主とは、我が国民の英雄主義及び独立主義の精神そのものを謂うことになるのだよ。

今後、ドイツの教会なり、牧師なりには、こういう民族的信仰を伝えさせねばならぬ。

彼等は、皆、唯々諾々として予の指導に従う外ないよ。それがいやなら彼等自身が勝手に破滅するがいいさ。

ヘッケルやダーウィンゲーテや、ステファン・ジョージは勿論、彼等基督教の預言者たちは、孰れも、そうでなかったかね。

それと同様に彼等はその十字架を我等のスワスティカと喜んで代えるに違いないよ。

最早今後は、彼等の従来の救世主の疾くに死んだつまらない血を崇拝せずして、わがドイツ民族の内部に現実に暖かく通う、いとも貴い純血を崇拝することになるだろう。

予は幸いにしてカトリックであった。それだから、カトリックでなければ洞察し得ぬ教会の弱点をよく承知している。

ビスマルク、彼が偉人であったことを認めはするが、彼はこの点ではえらい手抜かりをしたものじゃった。なぜなら、彼はプロテスタントであったので、教会のからくりを、どうしても、彼の燗眼(らんがん:慧眼)を以てしても、愚かしくも見抜くこと出来なかったのじゃ。

プロテスタントでは、今日でも、如何な賢人でも、教会がどんなものか、解りっこはないのさ。

ビスマルクはただ法律の文句に拘っていただけであった。彼としては、それが関の山であったのじゃ。抜本塞源*(ばっぽんそくげん)的なことはビスマルクには無理じゃったよ。だから、ビスマルクの排猶政策には、時々、緩厳を免れなかったのじゃ。是非もない次第さ。

*抜本塞源:一番もとになる原因を抜きとって、弊害を大もとからなくすこと

カトリック教会は、真にそれ自身尨然(ぼうぜん:巨大なこと)たる本体を持って居るよ。立派な驚歎(驚嘆)すべき組織から成っているよ。何しろ殆ど二千年もあの形体は無事に続いたのだからね。

我等は政治をなすに、カトリックから大いに学ばねばならぬところがあるよ。カトリックの組織の背後には人間性の目から鼻へ抜けたような賢(さか)しさと、知性の結晶があるのだよ。

カトリックの坊さんは流石に、靴のどの辺が痛むか、先刻ご承知なのだから全く恐れ入るよ。

だが、愈々彼等の最後の日が来たんだ。しかも、彼等は、もう、それを知っているんだよ。

カトリックの坊さんは、実に賢い。それだから、是を知らないでいるなんてことは断じてないのだ。彼等は希望のない戦いを挑もうとは最早しないのだ。

第一、あのムッソリーニの鉄腕の下に、ぐうの音も出ないカトリック教会の姿を見るがよい。

僕は出来ればカトリックの仮面を剥ぎ取り赤裸々のところを世間に見せてやりたいと思う位なのだ。

あの今迄のカトリックの一部のナンセンス、利己主義、圧制主義、偽瞞(欺瞞)は暴露されるべきである。

彼等は、今まで、如何に国家から金子を搾り取って来たか? 如何に世界人類の幸福を無視して、その代わりに猶太人と不正な結託をして来たか? 如何にペテンの限りを尽くして来たか? 僕はわが親愛なるドイツ国民に一番手っ取り早くてわかりよいシネマで、いずれそのうち暴露して見せる計画である。」

 

ドイツ民族精神を解し損ったポーランド

一座はそれに対し拍手を一斉にした。ラウシュニングも、自分一人だけそうしないでも居れぬので同じく形式ばかり気のない拍手をして見せて、ヒトラーの演説に応じたかのように装った。彼の母国はドイツ民族の精神を理解できず、今次の大戦の序幕を演じ、忽ち亡国となるに至った。その果敢ない運命をばラウシュニングには到底前以て想到する(想い到る)ことが出来なかった。

「若し自分がそう望んだならば、数年にして教会みたいなものは打破してみせるよ。あれは、最早、内部はうつろで、中心は全く腐りきっているからね。一つ押せば、全体のあの建築は忽ち崩壊してしまうよ。」

ここに至ってヒトラーの意気は愈々昂然として上がって行くのであった。

「だが、今数年間は彼等に死刑猶予を与えてやるつもりだ。教会の奴らは決して馬鹿じゃないからね。」

ヒトラーはここで、その持ち前の侠気(きょうき:弱いものの味方をする男気)を見せたのであった。

 

プロテスタントカトリック

プロテスタントじゃ、教会は一体どんなものか、毛筋程も解りっこないよ。プロテスタントでは、真剣に考え得る程度の宗教的内容が第一欠如しているではないか? また、其方では、一向にローマのような彼等自身を擁護すべき大きな機構と言うものも無いではないか?」

このヒトラーの言は、日本の基督教徒ことに新教の範疇にある信者なり指導者なりに少なからざる反省を促さねばならぬサムシングが大いにあるようだ。

「ドイツの農民はその真の宗教を忘れないでいることは、いつぞや、僕が話した筈だがね。

基督教の伝説が今迄はそいつを厚く脂肪の層で隠蔽していたのだ。だが今やその民族精神が蘇みがえり旺んになったのはドイツ國のために大いに祝すべきことである。

さあ、わが愛すべき誇るべきドイツ国のため、在り合わせのシトロンで乾杯をあげて今晩のところは散会としよう」

皆はそこでドイツ国のために一斉に乾杯をあげた。ゲッベルスは、次にはフューエラーのために乾杯しようと提議した。皆は元気よくそれに和した。

「ハイル・ヒトラー、ハイル・ヒトラー

その声は山荘を勢いよく震撼した。客は悉く新興ドイツの清秋の息吹を、ここにも強く感じてヒトラーの許を辞去(じきょ)した。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」20

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大戦の血を吸う猶太財閥

英米の猶太財閥は、第一次大戦の死傷者二千八百万人の血を吸って、五十倍の太りかたをしたバンパイアであるが、それに慊(あきた)らず、又もや大きい戦いを枢軸国に挑んで、もっと、もっと太りたいというのである。それに対し、フンク独経済相の画期的声明は、慥かに頂門の一針(一番痛い所を突かれることの喩え)と言うべきであったろう。例せば、かのバシル・ザハロフの如きは、第一次大戦の時の英首相ロイド・ジョージに政治資金を惜しげなく貢ぐと共に、英国として盛んに彼に軍属品を注文させ英国民の膏血(こうけつ:苦労して得た収益や財産)を絞り、世界一の軍需品王といわれるに至ったのである。

 

支那事変と猶太禍

猶太人は決して赤禍を以てのみ支那に迫っているのではない。猶太人の赴くところ、その現在の国籍如何を問わず、何らかの問題を起こさないでは居られないのであるから、実に困ったものである。彼のヘルツルは、その著『猶太國』(一八九六年刊)で「猶太人は資本家としても、又社会主義者としても顕著な地位を占めている」と指摘したが、その資本家が、その社会主義者に劣らず、その活動している国に非常な害毒を与えているのである。だから、嘗て、タイムスの主筆であった故ダブリュー・ステッドの如きは、「著述家も、政治家も、外交官も、猶太問題に、思い切って、手を突っ込まなければ一人前とはなれない」と、言った位である。

啻(ただ)に、猶太人は、社会主義者共産主義者の方面で、世界のバチルス(病原体)であるのみならず、また世界金融の争うべからざる統制者支配者でもあり、同時に世界言論界の少なくとも八割は彼らの手に帰しているのであるから、猶太問題の真相を知るのは実に容易ならぬことなのである。そうして彼等ユダヤ人の遣り口が遣り口なので自ら墓穴を掘りつつある現状を知るまでには、世界の本当の政治外交の動きかた、国際経済金融の消長、思想の行くべき方向を悟るのは寧ろ困難であろう。

逸早く一九三八年九月三十日を以て、フランスの反猶紙ラ・フランス・アンシェーネーの如きは、

日独伊三国が敵として戦っているのは、実は、猶太人を隠れた相手としてである。

第一次大戦で金儲けしたところの彼等ユダヤ人は、今、正に第二次大戦をば発火させようと、そのせい一杯の秘策を講じつつある最中だ。

と報じている位なのである。

勿論、支那事変の蔭には、単にコミンテルンが跳ねていたのみならず、それにも増した英米仏等の猶太財閥の盛んな糸引きがあるのである。先ず第一に現在、蒋政権の首脳部は、孰れも、紛れなくフリー・メーソンの秘密結社に属して居るのは見逃し難い事実である。

 

孫文と日本

孫文は、その革命の資金を当時、米国系ユダヤ人の有力者アルフレッド・モーリス・コーエン(コーエンは『米国猶太人連合協議会』と言う年々金五千万ドルの基金を積み立てていると伝えられる猶太人最高司令機関を一九三三年六月廿二日に成立させるのに尽力したので有名な男である)から貰ったという説もあるが、日本を孰れかと言えば大いに徳としていた。彼は清朝に圧迫されて日本へ亡命、犬養毅頭山満などの志士の心からなる義侠心と同情との下に私的援助を受けた関係もあり、決して彼自身排日などの挙措(きょそ)に出たことはなかった。

これを排日テロまで発展させたのは、英国側の猶太閥の使嗾(しそう)に遂に乗った蒋介石の不見識なのによったことは勿論であろう。

孫文の昔は、支那では、寧ろ排英こそあったものの、未だ排日と言いうことはなかった筈である。

孫文の唱えた三民主義蒋介石一派には大分に歪曲されている形跡あることは勿論であって、現在の汪兆銘に率いられている正しい国民党は、この点に於いて、その依然信条とする三民主義に関しては孫文の昔に帰り、漢民族数千年来の伝統的思想を近代的に科学する心で体系づけているばかりか、一切の不純とか誤謬とかの潜入の跡あるを悉く清浄化してしまったのを、我等はよく銘記しなければならぬのである。

 

蒋介石と親猶

蒋介石は、何を隠そう、米国のマサチューセッツ大結社所属のパゴダ・ロッジの会員なのである。彼のほか、孔祥熙宋子文、王正延、顧維釣、顔恵慶は皆それぞれ、マソンの会員である。お多分に洩れず蒋の婦人宋美鈴さえも同じくマソンの秘密結社員なのである。この見地から蒋介石以下所謂欧米派と言うものは、凡てマソンである関係上、ソ連よりも寧ろ英米仏の猶太財閥とより以上交渉が深いわけで、蒋としては単にその政策上コミンテルンの援助を求めんがために所謂国共合作をはかったのであった。そうして、陽にコミンテルンとの親しさを装ったのであった。

蒋の最近の新四路軍の抑圧および征討は、彼の本心を暴露したものであるから、コミンテルンは最早蒋政権に愛想づかし、却って日本と相互中立条約を結ぶの機運をさえ遂に迎えるに至った。

 

猶太財閥の大芝

此処に不思議に堪えない現象が一つ見受けられた。それは、常識ではどうしても理解の出来ない現象であった。連戦連敗の蒋政権の対外信用の目安ともいうべき法幣の為替率が大して下落しない事であった。しかも、将来性のますます薄弱となって行く法幣を支えるべく英米は数次の巨額のクレジットを争って供与するのであった。

これこそは支那にはびこっている英米などの猶太財閥の死に物狂いの援助によるものに外ならなかった。上海には特にこうした猶太人の金持ちがすっかり根を下ろしている。サッスーン、エヅラ、カドリー、ジョセフ、ハードンなど上海の五大財閥と言われているが、孰れも悉く猶太人であるから驚く。

中でもサッスーンと言うのは、その旗頭とも称すべきもので、サッスーン・バンキング・コーポレーションを経営し、上海の財界を壟断(ろうだん:独り占め)している有様。その本拠は、ロンドンにあり、英、米、仏、ベルギー、その他の猶太の銀行または会社をその組合員とし、香港上海銀行や英蘭銀行とも連絡を保って、上海のありとあらゆる事業に関与し、それが金融とか保証とか為替の売買などを行っているのである。

あの事変の初期に支那飛行機の盲爆に遭い、敵性英米の連中が殊更、それをば、日本の飛行機の所為に帰せようとまで計って日本側をして切歯扼腕*(せっしやくわん)させたものの、色々の現実の証拠が支那側に全く不利なるを暴露した、あのキャセイ・ホテルのある上海第一の高楼サッスーン・ビルディングをその根城として、何でも、総額数十億ドルに上る種々な事業をコントロールしているのだ。その勢力は今に牢固(ろうこ)として抜く能わざるものがある。またエヅラは、どうかと言えば、あの上海の目抜きである南京路、俗に上海の銀座と言われる場所の土地や家屋の大抵のものは彼の所有と称しても可なる位なので、それに上海名物のハイアライダンスホール、競馬場、映画館、カフェ等の享楽機関の目ぼしいものは、彼によって経営されてるか、彼の息が、ちゃんと、かかっているのである。エヅラがこれらによって日々儲けるあぶく銭と言ったら大したものである。

*切歯扼腕:歯をくいしばり、自分の腕を握りしめて、ひどくくやしがったり怒ったりすること。

その他、猶太の表裏のすべての重なる機関と言えば、こういう調子で、猶太人に独占せられて居る次第である。これら英米等の猶太閥は、上海だけでは、彼等の巨資の活用が思うようにできないので、実は満洲方面へも旺(さか)んに手を出しかけようとした。それで張親子(張作霖・学良)を裏面から盛んに焚きつけて、あの満洲事変を起こさせるような風に誘って行った。つまり、邪魔になる日本の勢力をば満洲から総退却させようと計ったのだ。しかし、その彼等の計画は固より、まんまと失敗してしまった。

 

ハリマンと小村

満洲には日本の生命線である満鉄がある。遂に、これが、きっかけで、満洲帝国の誕生とまでなった。今に敗残蒋政権が満洲恢復(回復)を叫ぶのは、その背後に猶太財閥が儼然(厳然)と控えているからだ。必ずしも蒋政権そのもののみの声ではないのである。日露戦争の結果、日本は満洲を租借することとなり、満鉄は日本の領有に帰した。それなのに、小村外相がポーツマス会議から帰朝に先立ち、逸早くアメリカの猶太人ハリマンが、やって来て日本の要路の大官をうまく説きつけて満鉄譲与を承諾させてしまった。

小村が帰って来て、その不所存を詰(なじ)ったので、それは急に沙汰やみとなった話は今更詳しくここに述べるまでもなく有名なものである。その時分から英米仏等の猶太閥は隙さえあれば満鉄へ喰い込もうと図っていたのだ。

 

支那事変に喰い込む猶太の金持

支那事変に於いて悉く日本に敵性を発揮して来たのは、何も彼等が支那を ―否、蒋政権を― ひいきにしたり、又はかわいがっているためではなく、彼等自身の財的勢力を極東一円に拡め、彼等猶太人の企む世界共和国の一翼たらしめんことを希望しているがために外ならない。蒋政権なんかは、一時、彼等のそうした飽くなき貪欲のために便宜利用せられるだけに止まっているのである。然るに蒋以下は、そんなことには一向気がつかず、真実に支那をそういう魔手から救おうとしている義侠日本に対して楯をついているのだからお話しにならないのである。

さて、そういう彼等自身の資本のみが可愛いと言うわけ合いで、乗りかかった船の都合もあり、彼等は是が非でも、敗残蒋政権を援助している。その一つの現れこそは、先年の支那の幣制改革であった。

 

支那の幣制改革

これを目論んだのは、サッスーンであり、態々(わざわざ)これが実行のため英本国から政府の経済顧問であるリース・ロス(猶太人)を極東へ呼び寄せたのであった。サッスーンは、これが実施には、英国政府の後援のみでは不充分であると見て取り、ひそかにアメリカに渡り、ロサンゼルスに病気と称して滞在、ナショナル・シティ銀行の猶太人の支配人であるエマーソンと会見、彼を通じてアメリカの猶太財閥やアメリカ政府の諒解(了解)を得ることに遂に成功、あの大がかりな幣制改革という彼一世一代の芝居を打ったのであった。

リース・ロスは、態(わざ)と日本へ立ち寄って、支那に於ける銀貨廃止によるこの幣制改革の相談を真面目に持ち込み、その協力を依頼したが、固より日本当局はそのような一見無謀な計画には絶対反対を表明したのは、却ってリース・ロスやサッスーンの一味の思う坪に嵌った。彼らは斯くして日本をば、のけものにして、この計画を熟させることにしてしまった。

かくて、銀貨とか銀塊とかは一つ残らず、支那から英米猶太閥の彼等の手中にそのまま転げ込むことになった。その代り、彼等が支那へ交付したのは、結局は無価値になっても差支えない米国で彼等が勝手に印刷した新しい法幣なのであった。結局、それが実施されるに至るとは、夢にも思わない日本側は、この幣制改革の具を大いに笑っていたのであった。だが、彼等の計画の実行には、日本の財界などは全然眼中になかった。英米両政府の後援もあるので彼等の成功率は百パーセントであることが始めから解っていた。

これがためには、イギリスの駐米大使ヒューゲッセン(猶太人)やフランスの駐支大使ナジャール(矢張り猶太人)は、サッスーンやリース・ロスのため、あらゆる尽力を惜しまず、犬馬の労をとったものであった。この時の彼等猶太財閥のこの幣制改革によるボロイ金儲けと言うものは素晴らしいものであった。何しろ、これが実施されることになって、銀を持って居る支那人は一人残らず、その保有銀を法定の通貨即ちサッスーン自身発行のペーパー・マネーに現銀一円に対し紙幣六十銭の割で無理やりに交換させられてしまったのであった。

ところが、実際のところ、英米クロス・レートの関係上、海外の市場では支那一円の現銀というものは、ロンドンで一円八十銭の相場をその直前まで唱えていたのであるから、それまでに支那の銀と言うものは奔流の勢いで海外へ逸走(いっそう)していた。そいつへ、当時の国民政府は、多大の輸出税を課して一挙に前後二重の利益を獲得した。

かくして、引き上げられた銀貨と言う銀貨は、右から左へと、猶太系銀行により、ロンドンやニューヨークで一円八十銭の相場で盛んに売り飛ばされてしまった。それは凄まじい彼等の金儲けとなってしまったことは言うまでもなかった。

日本側の在支銀行はそんなことになるとは夢にも知らず現銀を後生大事と抱えたままであった。間もなく、それが一円八十銭から三分の一の六十銭となるとは一向に事前には関知し得なかったのである。これがためわが*日本財界が受けた損害と言うものは、蓋(けだ)し莫大なものであったことは、云うまでもない。支那四億の民衆と日本とは同時に同じような損害を隠して一挙に背負い込まされたのであった。実に言語道断な処置であった。かくて、支那に於ける財界の実勢力と言うものは、北支を除いては完全に猶太財閥の手に帰してしまったのであった。

原文:これがわがため

これらの夥しい利得が、やがて支那側の抗戦資金ともなり、前に数倍した猶太財閥側の抗日助勢の手段ともなり、日本側の苦痛を幾重にも増したのであった。

その他、支那に於ける猶太財閥の対日敵性の悉くを一々列挙しようとしたならば並大抵のことではないのである。これでも猶太人の財閥は果たして日本へは全く無害だったといえるであろうか?ここにも、我が日本がドイツやイタリアと連携して三国同盟を結び、東亜大共栄圏をつくろうとする企図に益々邁進するのは、自営上、まことに至緊至要なることが何人にも解るであろう。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」19

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第十章 極東と欧米猶太閥

 

長髪賊*と猶太人(*太平天国の別名)

遠い昔のことは此処では不問に付して置いて、欧米の猶太閥が支那にその著しい勢力を扶植(ふしょく:増加)するに至った第一にきっかけをつくったのは、何といっても、一八四〇年の阿片戦争、この結果イギリスが香港を奪取するに至って以来、それから、あの長髪賊の乱(太平天国の乱)ありて愈々その勢いを熾(さかん)にするに至った時からのものと見てよい。

*太平天国の乱では、支那全土で二千万人以上が犠牲になったと言われる。住民の虐殺も相次いだらしい

長髪賊の首魁(しゅかい:首領)洪秀全清朝に叛旗を翻したのは西暦一八五〇年即ち我が嘉永三年のことであって、彼は、広東から起こって、忽ち疾風枯葉を捲(ま)くがように、江西、湖南、湖北等を席捲(席巻)し、長江に沿うて下って、遂に、我が嘉永五年、即ちフランスではナポレオン三世が帝位に即(つ)いた年に、南京に都し、国号を太平天国と称し、それから、一八六四年、我が元治元年、日本では尊王攘夷問題がクライマックスに達した年に滅亡するまで、猛威を逞(たくま)しうした。

この長髪賊を平らげるのに功績のあったのは、英の常勝将軍といわれたゴードン(猶太人)であった。ゴードンの成功したのは、よくナポレオン戦争後の近代戦術を応用し、進んで火器を使用したがために外ならなかった。このゴードンの勢威は、これを契機として、素晴らしいものとなり、清朝は彼の一切の提言には唯々諾々としてただこれ従うと言う有様であったので、ゴードンは印度その他の東洋の地方に既に来て居った間に合いそうな人物、それも主として猶太系のものを専ら羅致(人材登用)して、彼等の思う存分の活躍を許した。

これがため、上海の如きは、漸次、集り寄って来た欧米の猶太人のため、殷賑*(いんしん)の土地となり、遂に、今日のような、あの特殊なコスモポリタンな都市を形成し、その租界の如きは、支那にとりて容易に治し難き一種の癌とさえなってしまった。

*賑やかで活気に満ちたさま。

 

猶太人の世界的活躍

一八六九年(明治二年)、仏国系ユダヤ人レセップスによって例のスエズ運河が開鑿(開削)されたので、欧州と東洋との接触は一層頻繁なものとなり、西力東漸の勢いは最早支那方面でも決定的なものとなったのであった。

次いで、同じ猶太人の計画によって成るに至ったパナマ運河のその後の開通は、欧米の猶太閥をして世界征伐と言うとんでもない一大野望を起こさせてしまった。大西洋、地中海、印度洋、太平洋等の沿岸の都市では猶太人が勢力を振るっている。東洋と西洋との間に行われる貿易や商業を独占しながら海上に雄飛している。そればかりか、彼等猶太人は、西印度(米大陸・カリブ海方面)へ向けて初航海の商船を支度したり、南米や中米との通商を開いてブラジルを開拓したり、西半球に製糖業を興したり、ニューヨークをして今日あらしめる基礎を作ったりした。

 

猶太人の嘗つてのみじめさ

しかも、流石に、こういう猶太人たちも、ドイツでは、見すぼらしい、不安な生活を送っていたことがあった。十四世紀には、三百五十数区以上の猶太人が斬り殺され、溺死し、焼死した。彼等の折角の紡績機械は破壊され、生命や財産のみか家庭まで奪われた。

生き残ったうちで、大抵の者はポーランド方面へさまよって行ったが、それ以来と言うものは、名にし負う神聖ローマ帝国に住む猶太人の人口も、めっきり減ってしまって、ドイツ人六百人に対し、猶太人一人と言う割合となった。その僅かな猶太人たちは、一般ドイツ人を始め、官憲の巧妙な圧迫の下に、不安で、難儀な、憂鬱な日を送っていた。手工業、その他、自由職業と名付けられるものは禁止される。当局から否応なしの命令で、ひどく厄介な物品を購(あがな)わされ、服装にまで干渉される。狭苦しいゲットーとやらに追い込まれる。

こうした猶太人の特殊街は、彼等の人口が殖えても平面に拡がることを許されない。止むを得ず上へ上へと階を積み重ねて行く。

それなので、猶太人の町は、ますます狭く薄暗く、迷宮のように廻りくねってしまう。勿論、草木や花などの繁茂するような地面の余裕なんてない。雑草が陽の通らない、碌々空気さえ通わない、汚れ切った湿っぽい泥土に、かたまり合って生えているのが精々だ。

此処で生まれた子供は、十人のうち七人までは死んでしまう。それでも、彼等は互いに助け合い、支え合って、悲惨の中にも親密に暮らし続け来た。みんな秘密をも分けあっていた。彼等に、法律では何ら庇(かば)って貰えない不安とか危険とかを、保護して呉れるものは、ただ金、金、金あるのみだった。それが、この世のあらゆる危なっかしい足場の中でも、たった一つの頼みになる堅固な土台であった。

同じ猶太人の中でも、金持ちの家の前には、その筋の見張りが立つようなことはなかった。金さえあれば評判も悪くなかった。政府のかしら立った人達でも、白い眼を向けるどころか、特別な扱いをして呉れて、帽子さえかぶるのを許された。王侯や領主たちにとっても、金持ちのユダヤ人がなかった日には、何しろ、戦争することも、軍隊を集めることも、出来なかったので、彼等の斯くして段々に勢力を張って行くのを、黙って見ているより外はなかった。だが、そういう金力による特権を得ているユダヤ人は極めて少数に過ぎなかった。

欧州、アメリカ、印度を含む東洋の通商貿易を一手に支配し、自分らのオフィスで、各国の戦争や平和までも左右して勝ち誇った顔をするユダヤ人が居た、ドイツのユダヤ町には、汚らしい、踏みにじられた卑しいその同族が住んでいた。

 

今のユダヤ人は白色人種のみではない

マホメットの王宮、ペルシャの宮廷、はてはモロッコのサルタンのハレムなどでは、猶太人の大臣や医者などが、素晴らしく羽振りを利かせているのに、ポーランドの諸市では、虱(しらみ)だらけの、ユダヤ人の連中が、下積みになって、悲惨な状態の中に辛うじて呼吸を続けていた。

そうした不遇の時代に、地方を歩いて居たユダヤ人の行商人たちは、犬に追われたり、町の悪童に狩り立てられたり、官憲に小突き廻されたりして、だんだん屈辱的な境遇へと落ち込んでいった。多くの無知なユダヤ人にとって、それは不可解な現象だった。

だが、インテリのものには、その原因が、何から何まで明白なものであった。でも、彼等は、それを、知って知らぬふりをしていた。ただ、単に権力の行使とか維持とかは、決して本当に大切なものではないことを信じていたらしい。巨人の偉大な権力でも、跡から跡へと破壊されて、亡ぶに違いないことを信じていたらしい。

 

猶太人は権力を信ぜず

権力が無価値と言うのは、当たれりや否やを知らないが、猶太人なれば、地位の高下、政治自由があるかないかを問わず、老若男女を区別するまでも無く、その官能の中に体得していたものと見える。それが、猶太人をして、敵を向こうに廻して、必ず謎のような、不遜(ふそん)な微笑を口許に我知らず洩れさせ、余計に相手を怒らせるのであった。

二千年間の歴史を、この様な状態で辿って行くうちに、彼等ユダヤ人は、いつしか、他民族と雑婚をさえ試みて、単にホワイトのそれのみにあらず、茶、黒、黄などの異なった皮膚のユダヤ人を生ずるに至った。この意味で、嘗て二百五十年の鎖国を続けたことのある日本は、世界のどの人種よりも純血を保ち久しく、ユダヤ禍を免れることが出来たのであった。

ユダヤ人には政府もない。故国もない。パレスチナをば彼等の國と称しても、実は彼等ユダヤ人の祖先が例のカナーンに移り住むまでに、既に今のトルコ人やアラビア人の祖先のものであり、彼等は一時的にそれを占めたもののついにそこからも放逐されてしまったのだ。彼等の本当の故国はメソポタミアで、そこで有史以前に亡んでしまっていたのだ。だが、彼等はパレスチナのたった三代のあの果敢なかった栄華とやらが、未だにどうしても忘れられないのである。彼等のあたまの中にシオニズムが、こびりついて離れないのも無理はない。のみならず、あのエホバの約束が、「神の選民たる」(?)彼等を今に鼓舞しているのであるから、どうにも、こうにも、致しかたがない。彼等ユダヤ人には、この世で唯一絶対のものは、ただイスラエルの神久遠無限と信ぜられるエホバがあるのみである。旧約聖書は今に伝えられるバイブルの実に九分の七を占めているが、ユダヤ人にとって、お互いに結び合うただ一つの貴い紐帯(ちゅうたい)となっている。これは、表向きだけ、巧みに装う例の改宗ユダヤ人にも無論適用されるわけである。或いは、無神論を叫び又は都合のよいゼスチャーをするユダヤ人ですら、結局は、彼等が然(さ)か欲すると欲せざるとに論なく、それに、しっかり金剛不壊の状態で結ばれているに違いないのだ。

 

聖書はユダヤ人の唯一の持物

広い意味で、聖書は、ユダヤ人の種族であり、国家であり、家庭であり、祖先からの遺産であり、全財産であるのである。そうして、これを真実所有し、理解し、判断するはユダヤ人を措いて他にはないことを彼等は確信しているのである。

基督教が弘がるということは、随って、それがギリシャ正教であろうが、天主教であろうが、新教であろうが、間接に、彼等の精神的心霊的優秀さを知らせる良い宣伝になる、彼等の将来世界に覇王たらんとする善き手段となると、考えているのだ。モーゼの第五の書(ふみ)の中には、嘗て人間の頭脳がつくった最も恐ろしい呪文がしるされているのだ。

「神、汝の上に呪いとなやみとそしりを与えむ。そは、汝をして他人に然(さ)かせしめんがためなり。」

「汝、妻を娶らば、他人これを横取りせむ。汝、家を建てんとも、その中に住む能わじ。」

「神、汝を敵の前に撃ち倒さるるものとせむ。敵に抗(む)かう道は一つにして、そを逃るる道は七つなり。」

「神、汝らを四方の國民(くにたみ)の中に散りじりにせむ。汝等、その中にありて平和なるを得じ。また、足は休息(やすみ)を得る能わず。神の汝等に与ふるものは、ただ胸のおののきと、眼の衰えと、心の悲しみなり。」

「汝の命は風前の灯(ともしび)の如し。日夜恐るるとも、汝等の命を守る者あらじ。」

これらの文句は余りに冷酷極まるので悉くのユダ人が、そんな不幸な目に遭うまいとて、恐れ戦いて読みとばすところなのである。だが、彼等は、その空恐ろしい運命が、やがて他民族の上に訪れるべきを確(かた)く信じているのである。

 

金銭万能主義の猶太人

嘗て、人の価値は地位と門閥とのみによって決定されたが、今日では金銭のみによって決まるのではないか? 論より証拠、ユダヤ人は、要するに、他民族の侮蔑と罵詈*(ばり)との間から起こって、遂に、世界の金銭の独裁者や統制者となり、時に超国家の威力を発揮しているのではないか? 即ち金銭こそは、国家組織、社会組織の血液となってしまっている。そこに彼等の世界を動かす原動力あり、決定力ありとしている。この世に金銭より貴いものはない。若しやその歯車を世界から撤去してしまうとすると、国家も社会も個人も、忽ち、立ち行かなくなるとは彼等の唯一の信条なのである。

*口ぎたなくののしること。罵詈雑言ばりぞうごん)。

哀れや、ユダ人こそは、例外なしに、こうした行き過ぎた資本主義金銭万能主義の奴隷なのである。そこに彼等が人生の目的を取り違えて、彼等自身行き詰まりを来たした原因が伏在するのである。今度の枢軸大半枢軸の戦いこそは、一面、正にこの堕落した思想を是正し千年の平和を将来せんとするにある。そうして精神は物よりも貴く、物は金銭より貴く、即ち精神があり、物ありてこそ金銭が始めて貴くなる所以が、実践の上で、もっと、もっと、はっきり、解る時が来たらんとしているのである。

 

フンク獨経済相の爆弾的意見

昨年七月、ドイツのフンク経済相が、欧州新秩序の構想を述べた際、

金は将来、ヨーロッパの通貨の基礎としては、もはや、如何なる役割をも演じないであろう。けだし、通貨なるものは、その金準備に依存するものではなく、却ってその通貨こそは、国家 ―即ち、国家によって規制された経済秩序が与える価値に依存するものであるからである。

と言及したことが、国際的センセーションを捲き起こしたことは、読者の猶(なお)、まざまざと記憶するところであろう。わけても、これは全世界保有金の八割即ち二百億ドルあまり、円に換算して八百五十億円以上を一手に擁するアメリカ及びその背後の猶太金融閥に最も大きな聳動*(しょうどう)を与えたことは、諸君も承知であろう。

*恐れおののくこと。恐れおののかせること。

 

虫のよいモーゲンソーの反駁

これに対し、アメリカのヘンリー・モーゲンソー財務長官は、むきになって反駁した。

世界が一つ乃至二つの国家または国家群に統一されて国際決済が廃絶されぬ限り金の国際決済の機能は失われない。

一つの健全な方法は、米国への金流入を減少せしめると共に、米国に流入した金の復帰を促進して、これを金流出国において有効に使用させるようにすることである。

かくの如き方法こそは、米国が全力を尽くして、世界を平和な状態に戻すと同時に、貿易を通常の状態に復帰せしめることにほかならない。

この典型的猶太政治家は、却々(なかなか)虫の善い我田引水な見解を以てフンクに酬(むく)いているのである。

 

英米クロス・レートと日本経済

兎に角、将来は、英米等の猶太財閥が、その勝手に上下する英米クロス・レートによりて国際為替相場を動かし、巨利を博するが如きことは、最早行われず、彼等は如何に金を多く持つとも、勢い、従前より、もっと公平で正しいバーター制度、為替清算制度により、世界の通商が実施されることとなり、物を提供せざる以上、宝の持ち腐れとなる時代がやって来ることだけは明らかであろう。下手をすれば、モーゲンソーが、第一に懸念したことさえ実現する可能なしとしない。

 

マイダス王の黄金禍

彼のマイダス王の黄金禍*がその時には文字通り行われ、黄金を持ちながらも破産するという面白い現象さえ見られるに至るかも知れぬ。その時こそは、黄金万能の思想の全く破れるときであろう。

*ミダス王とも。触ったもの全てを黄金に変える能力("Midas touch")のため、愛する人まで全て黄金に変えて嘆いたというギリシャ神話に出て来る王様。

けだし、金そのものは、これによって物資を獲得し得られる限り、経済的価値を有するのであって、要するに、我等に必要なものは物資であって、黄金ではない以上、金はたといなくとも、フンクの賢くも道破した如く、独自の経済秩序を樹てることは慥かに可能なのである。しかし、これは金が絶対に要らぬというのではなくて、ない場合よりも有るに越したことはないのは勿論である。

この意味で、世界に上述のような経済新秩序がたとい予期せられても、我が日本としては万全の策として、金の集中策をますます強化し、産金奨励に力を入れているのは固より当然の処置であろう。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」18

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張学良の暗躍

張学良は、満洲にて失脚するや、暫く、欧州に休養をとるべく遊んだ。

その間に、彼は、例の阿片 ―(あの猶太性イギリスが香港を支那から理不尽に奪取する原因を作ったアヘン) ― (あの上海の猶太富豪サッスーンが、それを一手に買い占め、専ら支那人に売込み、あぶく銭をしこたま、溜めつつあったアヘンだ) ―そのアヘンを喫する長年の習慣を打破するに成功した。

あの痩せっぽちの学良が、まるで人が違ったかのように、今は、すっかり目方を増し、恰幅も堂々たる有様で、支那へ帰って来た。その頬には生気が満ち、その秀麗の眉は、一入(ひとしお)趣を添えて、十年も若く見えて郷党に見(まみ)えた。彼の親近者や友人は、蘇えった張を見て、喜び且つ驚いた。漢口で、張学良は、再び東北軍の指揮をすることになった。彼の部下は、熱烈にその故主の帰還を歓迎した。

張学良は、そこで、彼も只の鼠ではなかった。満洲王であった時分の、だらけ切った日常生活の方法を一変してしまった。早朝六時には必ず蹶起し、烈しい運動をなし、汗を流せるだけ流し、毎日一定の訓練と研究とを怠らず、三度の食事も、質素極まるものとし、あらゆる点で、スパルタ式の厳格な生活を送るに至った。蓋し、彼は、この間、寸時も満洲の恢復(回復)と打倒日本*とを忘れなかったのである。

*これは張作霖(父親)爆殺事件で日本軍を恨んでいたためだが、この爆殺事件自体がコミンテルンの仕業であった疑いが最近の研究で解っており、張学良も騙されていた疑いが濃い

それがため、かくも彼の渾身を傾けた精進が始まったのである。

間もなく、蒋介石には、この更生した張学良の漸次勢力を張って行って、遂には、侮るべからざる存在となるのが、こわくて堪らなくなった。それを防止するため、出来れば、精々、彼の新興勢力を殺(そ)ぎたいものと思って、張を急に左遷し、西南にありて、あの支那でも一筋縄には行かぬ、難物中の難物たる紅軍の討伐を事とするように命じたのであった。

暫くの間、流石は学良だけのことはあった。相当の勝利を得ていたが、昭和十年の十月および十一月の頃には、彼の東北軍は、ゲリラ戦を巧みにやる相手のために大きな敗北を相次いで蒙り、第百〇一師団および百〇九師団の二個師団全部と、それから、第百十の一部を喪(うしな)うに至った。のみならず、数千の東北軍の兵が、いつしか、紅軍に席を移すが如き、思いも寄らぬ事が生じた。しかも、多くの将校が籠絡されたり、捕虜となるの有様であった。

いつしか、スローガンが叫ばれた。「中国人同志が戦ってはならぬ。」標語が、普(あまね)く全東北軍の陣営に浸蝕するに至った。「寧ろ、紅軍と団結して戦い、満州を取り戻せ。」否、学良自身さえ、その意識せぬうちに、強い左翼への影響を受けるに至った。彼はそれが全く自分の将来を全く抛(ほう)ってしまうものであることには毫も気が付かなかった。

それは学良自身の中に残っている支那人としての美点とか善さとかを全くなくしてしまうのを悟らなかった。学良のからだは、かくして、阿片から恢復(回復)したものの、今度は、彼の精神生活には阿片にまさる猶太性の赤い毒薬が、すっかり廻ってしまった。彼は、支那民族精神の貴さを遂に全く忘れるに至った。徒(いたず)らなる猶太の赤き文化のコスモポリタンのそれの影響のみとなってしまった。

しかも共産党は、ただ張学良を一時的に利用する考えのみで彼を引っ張り込んだにすぎなかった。哀れや、学良には、そこまで、すべてを見抜く見識はなかった。そのうち、張の経営する東北大学の学生の多くが、西安に来て、彼の下に協力することになった。情けなや、これらの学生の中にも、若干の共産派が交っていた。昭和十年十二月、日本が北京で抗日運動を除く要求をしたら、学良は、北支の抗日学生のすべてに、その政治的主張の如何を問わず、呼びかけて、それなれば、何も北京に居らなくてもよいではないか、皆のものは、こちらへ早速来るがよい、西安は学生の楽天地あるだよと宣伝して、彼等の多くを招き寄せた。

かくて、南京政府の手で、全支を通じ、苟も抗日を叫ぶ如き不逞のものは、悉く、続々と拘引せられつつあった折でも、ただ、この陝西省西安では、その抗日が却って奨励され、保護されると言う矛盾な現象を呈していた。

蒋政権は、ここに、大きな禍機が伏在していることを察知し得なかった。

赤魔は、東北軍の服装をつけた幾多の代表者を西安に送り、学良の帷幄(いあく:本陣)に参加させた。そして、東北軍に、再組織のための政治的訓練を施すに余念がなかった。新しき共産派の学校が開設され、張学良部下の青年将校等は、政治、経済、社会学、につき深刻な研究を続けさせられ、如何にして日本が満洲を征服し、それによって中国は如何なる損害を受けたかを審か(つまびらか)に検討させた。何百と言う過激な思想を持った学生が、西安に集って来て、今一つ設けられた抗日政治訓練を行うべき学校に入学した。

この学校へは学良自身が、時々、親しく熱烈な抗議をしたり、慷慨悲憤*(こうがいひふん)の演説をしたりして、学生の抗日思想をいやが上にも煽った。この結果、ソヴィエト・ロシアや紅軍によって使用されていた政治委員会制度に似たものが、東北軍の組織の中に植え付けられることになった。だが、これらの驚くべき東北軍の革新が、外部へは絶対秘密の裡(うち)に行われて来たのであった。学良と共産党とのこうした真実の関係などは毫も新聞や雑誌などに出ることはなかった。して、蒋介石から西安へ派遣されているスパイ共にも、一向にこの種のことは気付かれなかった。

*慷慨悲憤:運命や社会の不正などを憤って、悲しみ嘆くこと。

猶太マソンに操られている幾多の領袖の中でも、周恩来と言うのは、殊に学者であって、英仏独の語学にも長け、知識は該博(がいはく)のもので、絶えず、学良とこうして接触を保って居た。周と言う男は、細形で、背は高からず、低からず、どことなく針金を適当に束ねたような弾力性のある体格の持主で、長い黒いあご髭を蓄えているにも拘らず、その面持ちが童顔たるを失わないと言う不思議な人物である。

目は大きく、深く凹んでいるものの、決して冷ややかなものでなく、何処となく暖か味を湛(たた)えている。存外、はにかみ屋で、その風変わりの人格からくる一種言うに言われぬチャームがあり、申し分ない指揮が出来ると言う自信から自ら生ずる磁石のような引力もある些(いささ)か矛盾を免れないタイプの男だ。

毛沢東は、本年四十八歳の働き盛り、紅軍の押しも押されもせぬ首領、生意気にも、ムッソリーニヒトラーを称して山師だと言う。尤も彼の目にはムッソリーニの方が、まだまだスケールが大きく、歴史にも明るく、本当のマキアヴェリ式政治家の典型であろうが、ヒトラーに至っては神経質で、資本家の左右する儘に動く意志なき人形(ヒトラーはこの正反対の癖に!!)だと酷評しているのだからかなわぬ。今更、向きになって辯明し、その認識不足をただしてやるのも馬鹿らしい位。

そう言う失敬なへらず口を叩く毛沢東も、しかしながら、案外、学者であって、あのマルクスの猶太哲学を齧ったばかりに満足せず、古きギリシャ哲学は勿論、スピノザ(猶太人)、カント、ゲーテヘーゲル、ルソー(マソン系のフランス学者特にエミールにより自由主義教育を唱えた)、その他の哲学にも通じているとか。赤の人物にお定まりの如く、毛沢東には、宗教的情操と言うものは藁(わら)に(頼りに)したくもなく、ただ彼の判断は、あの笑うべき唯物の論理や必然性より到達せんとするものらしく観察されるのだ。

彼自身の言を藉れば(借りれば)、今日の支那民族の根本問題は、日本の帝国主義との戦いであらねばならぬ。我が共産党の政策は、決定的にこの争闘によって成功するや否やが条件づけられていると小賢しくもほざいている。彼の思想は英米仏のマソンの口吻(こうふん)プラス赤なのだから真に済度(さいど)のしようがない(救いようがない)のである。彼の思想の根本的に間違っているのは、丁度、彼がヒトラームッソリーニを真に正しく理解し得ないのと等しい。

 

支那事変の真因

毛沢東は、次の三つの条件が具わったら、紅軍は真に日本の偉大な軍組織を潰滅(壊滅)させることが出来ると主張している。

1. 支那における日本の帝国主義に中華国民が挙国一致反撃を加える。
2. 世界的に抗日意識を昂揚(こうよう)する。
3. 日本帝國主義の下に圧制を受けている国民による革命的行為を誘発する。

殊に1.が最も必要であると言っている。

「日本軍は、戦争の始めから、終わりまで、絶えず後方からくる煩雑で、しかも大きな打撃を加える襲撃と戦わなければならぬ悩みがある。

支那はこの上もない大国だ。支那のあらゆる寸土に至るまで征服せられぬ限り、支那は征服されたのではない。

若し日本が支那の大部分を占領し得ても、それでも猶支那が敗けたとは言えない。

なぜなら、依然、支那は日本軍に抗戦し得る大いなる力量を残しているからだ。

軍需品関係では、日本は支那の奥地の兵器廠(しょう:工場)を押さえるわけには行かない。

奥地に兵器廠がある限り、何年でも支那軍は装備に困らない。

支那を長く占領して行けば、費用がかさむは当然だ。

日本の経済は破綻を示すに至るは必定である。

如何に日本軍の精神力が偉大でも、数限りのない勝敗不定の戦いの試練の下にありては挫折するに至る外はない。

若し革命が迅速に日本へ来るものとすれば、戦いは短く、支那の勝利は敏速に達せられるであろう。

さもなければ、戦争は極めて長期に亘るであろう。孰れにせよ、結論は同じだ。日本の方が敗けることに変わりない。」

この毛の言葉は、未だ支那事変が開始されない一年以上も前に、即ち、西安事件が当に突発しようとする少し前に、アメリカの新聞記者エドガー・スノウに語られたものだった。それをよく読めば、紅軍が如何に徹底的な抗日観を、エゴイズムに充つる誤れる結論から持って居るかが、わかるであろう。そうして、支那事変が、彼等の間に何年も前から計画されていたことがわかるであろう。

もし、それ、日本に革命が起こるなど彼等が期待していることなんかは、彼等には日本の真の國體が悟り得ないための全く虫のよ過ぎる注文である。彼等は、また、日本の経済状態を軽視していた。その実、日本の経済は、今後ますます統制せられ強化される現況なのである。英米仏ですら、今では、嘗ての同じような観測が的をはずれていたことを漸く悟って来たではないか。なぜ、蒋が敢然日本へ戦いを挑むことになったか?

それは英米仏の盛んな使嗾(しそう)もあったところへ、かの西安事件を一つの重大なターニング・ポイントとして、蒋の思想に、根底的な変換が遂げられたからに外ならなかった。

 

西安のクーデター

これより先、蒋介石は、張学良の紅軍討伐の実績が、とんと挙がらず、サボ同然に陥っているのに業を煮やし、親しく張を督励(とくれい)すべく西安に乗り込んだのであった。そうして、あの西安の郊外の華清池温泉 ―昔、楊貴妃がその玉の肌を温めたという― 温泉で、休養していたとき、突然、意外な兵変が起こったのであった。それは昭和十一年十二月十二日の夜の出来事であった。

人もあろうに、その夜を期して、張学良が、クーデターを行ったのであった。蒋は心静かに枕を高くして寝ていたのであったが、急に夢を破られた。自分の護衛兵が張学良の軍隊と戦っている銃声が耳に入ったからである。ただごとでないのを忽ち、見抜き、単身、薄い寝巻姿のまま、華清池の裏手、驪山(りざん)の或る岩山の上へと、辛うじて身を脱した。ところが、孫大尉と称する学良の腹心の将校のために遂に追い詰められた。孫は叫んだ。「あなたは蒋委員長でしょう。さあお伴をしましょう。」蒋は、寒さに、がたがた慄(ふる)えて、暫く黙っていた。下手に返事すると、自分は忽ち殺されるだろうと思ったから。

孫は重ねて言った。

「蒋委員長でしょう。我等は、ただ一つのお願いがあるだけです。それは、これから直ちに日本と戦って頂きたいことなのです。」

そこで、始めて、蒋は、自分の命が狙われているのではないことを悟り、安堵の胸を撫で下した。「学良を、兎に角呼べ」

それから、蒋と孫との間に、二三の押し問答があって、蒋は、結局、学良のところへ連れて行かれた。

そこで、蒋は学良のみならず、かねて首領毛沢東から遣わされていた紅軍の代表者周恩来と会見した。蒋は、やむなく、彼等の提出した八箇条の要求を承認した。その眼目は、要するに、南京政府を再組し、救国の共同責任とやらを分かつために、すべての党派を容れることにし、直様、紅軍との戦いを終熄(終息)させて、直ちに日本に対し、武装的抵抗の政策を取れとの、コミンテルンの指令を、蒋に承認させることにあった。

 

猶太人ドナルドの活躍其他

丁度、三日間と言うものは、こうした手続きを完了したり、学良が国民政府から莫大な蒋の身代金を巻き上げるのに費やされた。注意すべきは、この時に、英のドナルド顧問(猶太人)が宋美鈴を伴い、飛行機で誰も外には人を連れず、蒋を救い出しに来たことの一事である。これが、誰か知らん、今回の支那事変の前奏曲そのものであったのである。事件の起こった西安こそは、要するに、それからは赤都延安*の延長とも考えられるに至ったところで、赤の戦術家である朱徳の大いに幅を利かすようになった地である。

*延安は、支那共産党毛沢東一派が北伐と日本の討伐を逃れて本拠を置いたところ

この朱徳は、今年五十七歳、雲南の苗族の流れとか。同省の講武学堂の出身、戦術が却々(なかなか)長けていて、しかも、それはモスクワとは関係がなく、嘗てドイツで仕込まれたものだと言われる。彼は百姓面をしている癖に、愛嬌を振り蒔くには如才なく紅軍の首領として、慥かに一種不可思議な包容力を持って居る。どこやら文豪魯迅を彷彿させるような知的な閃きがあるというから凄まじいではないか。長身痩躯(ちょうしんそうく)、いざとなれば謹厳な武将型をも発揮するとか。頑固一点張りの軍人ではないとの噂。

朱徳毛沢東の前に活躍した一時は支那レーニンと言われた陳独秀もあったが、彼があまりの日和見主義者なので昔の勢力を全く失ってしまったという。朱毛のコンビは、あまりに鮮やかで、五分の隙も見せなかったので、その軍は朱毛軍と呼ばれたことがあった。それで相当の支那通の間にも朱毛と言う人物が紅軍を指導するものと誤解されていたこともあった。中国共産党を理論的に指導したものに、モスクワ仕込みの陳紹禹がある。彼は嘗ての中山大学の副学長ミフとか言うモスクワから来たコミンテルンの代表者の支持を常に受けて、現在のような党の有力者と経のぼったのであった。

陳こそは、何といっても、当時、支那では、蒋だけの人物はない。紅軍として蒋と争ってのみいては、何年たっても芽が出ようはずがない、それよりは蒋と提携するが一番だと主張し、中国共産党の指導方針に大きな変化を与えた男である。

これが、やがて、西安事件、はては、支那事変とまで、大発展してしまったのである。しかも、彼は、まだ、三十を少々出たばかりの、骨の髄まで赤で浸み込んだ男と知られているのだ。最近、愈々松岡外交が実を結び、ソ連は東亜新秩序へ同情を示すべき態度に百八十度の転換を示した。

これというのも、蒋の下心が、ソ連を背景とするコミンテルン支那に於ける勢力を一時に利用することのみにあり、益々その傾向が日を追って明瞭となって来たので、蒋を全く見限り、日本に好意ある中立を将来に維持し、枢軸陣営の衛星となるに至ったのは、慥かに、賢明なスターリンの処置というべきであろう。

かくて暗黙裡に、ソ連としては、今や、わが八紘一宇の理念に基づく、大東亜共栄圏の確率、ひいては、世界の新分野の構成につき諒解(了解)するに至ったものとみて差支えないであろう。これは、やがて、わが支那事変の処理の上にも画期的な新局面を齎(もたら)すに至ったものと解釈して大なる誤りはないであろう。即ち、すべては今後のソ連の披歴すべき誠意の上に係る実行そのもの如何によるとするより外はない。

この上は、英米の猶太閥による我が新秩序構成の妨害を排除粉砕を期すのが何よりの焦眉(しょうび)の(差し迫った)急務となるわけではあるまいか。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」17

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第九章 支那赤化と日本

 

コミンテルン支那撹乱の始め

顧みれば、世界平和の攪乱者、コミンテルンをして、支那側の抗日に今日のような程度まで関心を持たせるに至った、抑も最初の支那コミュニストは誰かと言えば、恐らく、ラオ・シ・タオ(Lao Hsiu-chao*)であろうか。

*Lao Hsiu-chao(漢字不詳):ミルロード・ドラッコヴィッチ著:「コミンテルンの伝記的事典」の246~247頁に次のような記述がある。

1892年、支那で生まれたが、五歳の時から帝政ロシアで過ごした。1917年の革命中ボルシェヴィキの運動を支持し、1918年にボルシェヴィキが外国共産主義者の集団を組織し始めて、12月にラオは在露支那人労働者連合の中央執行委員に選ばれた。1919年3月のコミンテルン設立会議に於いてラオは支那社会主義労働者党を代表し、挨拶の演説を行い、顧問としての議決権を有した。支那人労働組合の議長としてラオは、1919年11月に支那の革命に関して面会したことのあるレーニンを含めたソヴィエト指導者と連絡を取っていた。1920年コミンテルン第二回大会では、ラオは再び支那の代表となり、植民地問題について発言し、大会の終わりの8月11日にはレーニンと再び会談をした。その後、コミンテルンの年報からラオの活動に関してのことは一切姿を消したが、1949年の中共の勝利後はその新政権で様々な外交の役職に就いた。1954年ラオは中共の人民政治顧問会議の一員となり、1960年代初期には中共外交部の司法部門の顧問であった。(燈照隅訳)

 

ラオは大正九年コミンテルン第二回世界大会に出席し、植民地問題付議の席上、それより三年前、支那が大戦に参加し、ドイツを敵として開戦を宣告したものの、ヴェルサイユ会議は、結局、支那には何物をも与えなかったことを指摘して、当時の北京政府の失政と無能振りとを難じ、日本を引合に出し、国内問題を抗日に結び付ける彼一流の論議を展開した。

日本は世界大戦中、支那によって得たもの(青島を諷したものか)を確保しているではないか?

だから、支那代表が、ヴェルサイユから帰った後、北京政府および日本に抗(あらが)う深刻な運動が始められた。

殊に、これがため、日貨のボイコットが扇動されるに至った。

こういう風に、ラオは日本を誣(し)いて*毒舌を振るった。恐らく、これがきっかけで赤魔が極東問題へ付け込み、それが段々昂じて、今日のような悲しむべき事態を生むに至った。

*誣いる:事実と違うことを言う。特に、事実を曲げて人を悪く言う。

それは、翌年(大正十年)の同じモスクワで開かれたコミンテルン第三回世界大会で、どんな排日の議論が、更に推し進められたかを検討すれば容易にわかることである。張太雷と言う支那の代表が、この大会に出席し、世界赤化の何より障害たるべき日本の地位を論じ、コミンテルン指導者の著しい注目を惹いた。

張は、日本を赤化することが、極東に赤色政権を樹(た)てる何よりの重大な前提となし、これこそは、全世界プロレタリアートの死活問題だとまで力説し、日本を赤化する問題が解かれざる限りは、日本はソ連に取り不断の危険な存在であって、極東民族にとっても共産主義への道を塞ぐものだ。日本打倒こそは、世界の三大資本主義(日、英、米)の支柱を顛覆(転覆)するの一事に外ならぬことを強調した。この張太雷の主張は、昭和三年、第六回の世界大会で、コミンテルン綱領の中に採用せられ、赤化運動に当たりて、日本は最も重要な対象の一つとして取り扱われるようになった。

それからというものは、赤の思想が澎湃*として日本を襲おうとした。最高学府の一部にそれが波及するに至り、京大の河上博士その他が検挙されるような歎わしい状態をさえ産んだ。半可通**の学生や若い思慮の定まらないものなどが、この左傾思想の熱に一時浮かされた。だが、結局、日本の國體は、左様な浅薄な思想に微動だもするものではなかった。

*物事が盛んな勢いでわき起こるさま。

**特に中途半端な知識しかないのに、そのことに通じているようなふりをすることをいう。

 

支那への猶太財閥の武器売込

一体、蒋介石が抗日戦のような無謀なことを何故思いついたか?その由来や経緯は相当複雑であるところへ、本書の意図する目的には、あまり用がないから省くことにしたい。ただ、一つの観測として指摘したいのは、それは啻(ただ)にコミンテルンの煽動があったのみならず、専ら支那へ武器を売り込みたいと熱望した英米仏の猶太人武器商人の使嗾(しそう:そそのかし)があったからだということである。なぜなら、彼等は、支那こそは世界で一番有望な武器売り込み先だということを承知していたからである。少なくとも、今度の欧州の戦いが始まる前まではそうであった。

それも彼等は別に支那を愛しているからではない。自分らの金儲けが何よりかわいいからであった。しかも英米仏の政府は百パーセントそれらの武器商人を援助し、彼等猶太閥の欲するがままに動いていたからである。

 

共産党と国民党

是より先、蒋介石によって率いられた国民党なるものは、最早、その創始者孫文の遺志に基づくそれとはまったく異なっていた。あの民族主義を高調し、「民族の利益は何ものよりも高し」と言うスローガンを持っている筈の国民党の真に志している筈の精神が、いつの間にか、藻抜けの殻となり、猶太化し始めたのは相当、淵源(えんげん)が深く、大正十二年六月広東で催された中国共産党第三次全国代表大会(俗に三全大会と略称す)に於いて、中国共産党の領袖が、それぞれ個人の資格で国民党へ加入すべき決議を行ったのに始まるのである。

これは明らかにモスクワのコミンテルンの指令に基づいた彼らの行動であった。そのことが、支那が意識せるとせざるとを問わず、その後の所謂国共合作、即ち国民政府が連露容共の誤った道を歩こうとする、抑もの最初のステップであった。だが、孫文彼自身は、心からの容共主義者ではなかったらしい。

単に政策上、その入党を許可し、中国を一日も早く統一に導かんとするに外ならなかった。また、実際、孫逸仙孫文の本名)としては、その当時、共産党の実力などは大して計算のうちには入れて居らなかった。固より、彼等が、後になって國を売る獅子身中の虫となるなどのことは一向に予期してはいなかった。何分、孫文と言う清濁合わせ呑む大人格があったので、この若干の共産党員のリーダーの国民党加入も、大して、当時は、問題にならなかった。

だが、大正十四年三月、孫文が、北京で客死するや、国民党に一大動揺を来たした。また、それが、きっかけとなって、当然来るべき国民党の容共政策に分裂を来たすに至った。

反共産派、即ち国民党の真実の伝統を守らんとするものと、支那本然のものならぬ猶太思想にかぶれていたものとの間に、ここに公然な対立が生じた。蒋介石は、当時、すでに実際の軍事権を掌握していたので、左右両派を、高圧的に調停し、妥協させるのに成功した。

その時の蒋の宣言は双股膏薬のものであった。

「国民党が国民革命の責任を完成し、直接に、わが故孫文総理の理想とした三民主義を実行するのは、即ち、間接に国際共産主義を実行することと、同じわけになるのである。

三民主義の成功と共産主義の発展とは、両者全く双関関係に置かれている。

予は三民主義の信徒であると同時に、共産主義に対しても忠実な同志である。」

これが、彼の声明であった。

ここに於いて、孫文の折角の三民主義の理想が、実行に於いて、著しく歪曲されるに至った。が、蒋も決して腹からの共産主義謳歌者ではなかった。暫くして、共産派の増長が漸く目に余るものがあった。蒋は、その弊害の国府の根本にも及ぶかのようになったのを懼(おそ)れ、遂に共産派の弾圧に着手した。

謂わば、ポグロムの如きものが行われたのであった。即ち、大正十五年一月、国民党第四次全国代表大会直後のチャンスを掴んで、それを実行した。この大会で、国民党中央執行委員長に王精衛が、同執行委員の一人に蒋自身が当選、蒋は、事実上、国民党の実権を公式に掌握するに至り、最早、左右両派の葛藤を許すべき時に非ずとて、俄然、今までの態度を豹変して、恰も先の宣言を忘却したかのように、共産派に武力的弾圧を加えるに成功した。

かくして、同年の七月、広東から北伐の途へと進発した蒋は、国民革命総司令官に就任、爾後、二ヶ年後の昭和三年七月には、北伐を輝かしくも完成、その年十二月には、残った東三省にも、青天白日旗を翻えさせ、彼の支那統一の目的を殆ど達成したのであった。

一方、労農(ソヴィエト)ロシア社会主義連邦政府支那赤化の歴史を顧みれば、却々(なかなか)に由来が古いのである。ソヴィエト革命がモスクワで成立したのは、大正六年のことであった。ソ連政府は、支那赤化の先駆者として、間もなく、例のヨッフェやカラハンなどを、大使として派遣し、じりじりと、赤化をはかった。

その最初の具体策として、昭和六年十一月七日から二十日まで、中国における共産主義を奉ずるものが、モスクワのコミンテルンの指令で、審議の結果、中華ソヴィエト共和国臨時政府と言う、大それたものを、支那の一角に樹立するに至った。

勿論、それは表向きのものでなく、地中に潜ってのことであった。そのとき、無慮六十三名の中央執行委員が選ばれた。その重なる顔触れは、

朱徳毛沢東周恩来、陳紹禹(ちんしょうう)、彭徳懐(ほうとくかい)、項英、張國燾(ちょうこくとう)などの手合いであった。

 

西安事件の直前

一方、蒋介石の権威は、中国の殆ど全部を圧するの慨(がい)があり、蒋の地位は金輪際安全と思われていたのに、ここに、意外の出来事が醸され、中外を青天の霹靂のように驚かした。それは、忘れもしない、昭和十一年十二月十二日のことであった。

蒋介石は突如として張学良の手により西安に監禁されるという一大珍事が持ちあがったのであった。この西安事件の真相に至りては、何分、御本尊の蒋自身が、必要以上に、日本を刺激するのを恐れ、ひた隠しに隠していた関係もあって、遺憾ながら、当時の日本のニュースや言論では、正鵠を得た観測は、一つもなかった。実際、これは、共産党の久しき以前から、極秘の間に企んで来た、非常手段(クーデター)なのであった。

世界中の誰もが、この奇々怪々たる事件が、その間際、刻一刻と忍び寄るのを、全然関心しなかった。否、蒋介石自身の大本営ですら、中国の官僚的スパイ機関たる藍衣社*にすら、つい鼻先の西安の警察の縦横に張りめぐらされた蟻の這う余地すらない厳戒振りの間にも、何事が起ころうとしていたか? 一向に気が付かれなかったのである。

*蒋介石を永久最高の領袖としていただく反共秘密政治結社

当時、西安の刑務所には、約三百人余りの共産党禁錮されたままであった。しかも、藍衣社は、なおも、旺(さか)んに、共産党狩りをなしつつある真っ最中であった。極度に緊張の雰囲気が西安の市中に漲(みなぎ)っていた。スパイが到る処を監視しているばかりか、そのスパイをさらにスパイする峻烈な空気が、あたりを森然と支配していた。

 

 

筈見一郎著 「猶太禍の世界」16

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ルーズヴェルト大統領

この両者を最もうまく操っているのがルーズヴェルト大統領である。そこに彼の取り柄がある。ただでさえ人気取りの彼の第二の強味がある。陽に輿論政治家と号する彼の面目が躍っているのである。だが、このルーズヴェルトこそは裏面に於いてチャンと英国系のマソンと手を握っているのである。

ハーバード大学の法律科を卒業、ニューヨーク州の州上院議員をしていた頃、フィラデルフィア民主党大会(一九一二年)で、その翌年、海軍長官になったダニエルスに認められたのがルーズヴェルトの今日の如き出世の第一歩。ダニエルス・スウォンソンの下で海軍次官を七年も勤め、次いでニューヨーク州知事、その頃民主党の副大統領候補に推されたが落選した。一九三二年の最初の大統領戦に打って出た時、全国に大掛かりなルーズヴェルト後援会を組織させ、その会員からくる手紙には、彼が一人残らず署名入りの返事を出した話は今に有名である。

それと言うのも、死んだカーネル・ハウと言う主席秘書の下に、数十人からなる手紙整理専門の係をつくったものによるものだった。このルーズヴェルトの血管には猶太の血が流れている。彼のフル・ネームは、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトというのであって、その父のジェームス・ルーズヴェルトは一九〇〇年一二月八日死去。その母はサラ・デラノと称した。ル大統領は、要するに、嘗て、スペインでのユダヤ人排斥のため追われて、オランダに亡命したところのクラエス・マルテンザン・ヴァン・ローゼンヴェルト(Claes Martenzan Van Rosenvelt)の八代目の直系子孫ということになるのである。

この先祖のローゼンヴェルトが、十七世紀にニュー・アムステルダム市(今のニューヨーク市)に移住して、ジャネッチ・サミュエルズと言う女と結婚、夫婦とも一六六〇年に死亡、その末っ子のニコラスなる男が一七〇〇年と一七一五年との二回、ニューヨーク市の市参事会員となった。このニューヨーク市参事会員ニコラスの次男、即ち、一六八九年を以て生まれたヨハナスの数代目の子孫こそは、あの日露戦争の講和談判を斡旋した米大統領セオドア・ルーズベルトであった。

また、前記ニコラスの三男ヤコブス(一六九二年生)の数代目の子孫こそは、実に現米大統領フランクリン・ルーズヴェルトその人であるのである。現大統領フランクリン・ルーズヴェルト夫人は、先の大統領セオドア・ルーズヴェルトの弟エリオット・ルーズヴェルトの娘である。かく、現ル大統領は、争われないユダヤ人の系統であるのみならず、シュライナー結社と言われるフリー・メーソンの一派の会員でもある。

シュライナー結社と言えば、ケレンスキーレーニントロツキージノヴィエフ、ペラ・クーンなどの嘗て属したフリー・メーソンの中でも格別警戒すべき派なることは言うまでもない。

 

ルーズヴェルトのブレーン・トラスト

ルーズヴェルト政府の重要な椅子と言う椅子は殆ど猶太人で固められ、各州の知事、市長、警察署長、郵便局長、これ亦夥しい猶太人に占められている。若しそれ、ルーズヴェルトの周囲を取り巻くブレーン・トラストの如きは、全部例外なく、猶太人であるから驚く。

アメリカでも、民主主義の兵器工廠となった関係上か、デモクラシー国家の字引にはない筈の総力戦とか国家総動員とかの言葉を盛んに使う。その意味で、最近ル大統領は、彼の直接の部下たるべき歴代米大統領が常例として使用するブレーン・トラストの外に、クヌードセン(今国防生産管理局長官をしている)とか、ステティニアス、ロックフェラーなどの、モルガンやデュポン関係でなければロックフェラー等々の大資本系統の重なる人々、その中には、ゼネラル・モータース(今ではアリソンと言う世界的に優秀と言われる液冷発動機を大量に造っている)の社長シー・イー・ウィルソンやユー・エス・スティールの会長などもひっくるめて、所謂「一ヶ年の報酬一ドル」のみの専門家に進んで奉仕的公務に就いて貰うとて、それら猶太閥紳商(一流商人)を利用しているのは確かに彼の大衆政治家(デマゴーグ)としての頭のよさを語っている。またそう所謂紳商連も結局はそれが自己の大きな仕事を捗(はかど)らせ、より以上、凄まじい金儲けが出来ることとなるので喜んで大統領の相談に応ずる。大統領は大統領で斯くして彼等を楽に操ったり利用したりするてなことになっている。これは全く我が世の春さ、この塩梅だと、三選は愚か、五選、七選、或いは一生を通じてもアメリカの元首たり得るだろうと、今のところ、大いにやに下がっている*恰好である。

*やに下がる」は、男性が、美人を見たり、女性に囲まれたりしていい気分になり、にやにやしている様子。 「脂下がる」とも書く。 「にやける」は、男性が過度に身を飾ったり、なよなよしていること。 

そうして、下手をすれば、ぱくっとアメリカの前途に開くまいとも知れぬ暗い運命なんかは彼のそうした熱度が下がらぬ以上、一寸悟り兼ねるように見えているのは、寧ろ、こちらの僻目(ひがみ)であろうか?すべては時が裁きをつけるのを静かに待つとしよう。

 

ドノヴァン大佐とユーゴ工作

ルーズヴェルトの直接の部下のブレーン・トラストの中にも出色の人物が相当にある。ドノヴァン大佐なんか最近世人の注視をあびて来た如何にも猶太人らしい策士型に出来ており、大統領の懐刀として、殊の外、重宝がられている。昨年十一月ハンガリールーマニアの枢軸陣営参加、それに続く独軍ルーマニア進駐等々によってバルカンは漸次全面的に枢軸色に塗りつぶされんとした。

慌てたのは英米である。この上は何とかしてブルガリアとユーゴだけなりとも、枢軸接近を阻害しなければ、取り返しのつかぬことになるとて、英国は例のイーデン外相やディル参謀総長が、バルカンへ出張するし、アメリカも大統領の特使としてこのドノヴァン大佐を遣わすという騒ぎ。ドノヴァンは昨年十二月上旬、英国へ赴き、チャーチル首相その他と会見後、アフリカ経由でブルガリアユーゴスラヴィアギリシャ、トルコを歴訪、それから近東各国を廻りバルカン近東工作を施したと言われる。

謂わば、彼は前の大戦当時ウィルソン顧問ハウス大佐が勤めたような特使を仰せつかったのであった。ドノヴァンはそう言ったル大統領の腹心で、彼の本職はと言えば辯護士、前大戦の時出征、ニューヨークの第六十九連隊を指揮、「ワイルド・ビル」(ビルは彼の名ウィリアムの縮称、「凶暴なビル」)と言う綽名を頂戴し、戦傷を受けること三度と言う歴戦の豪傑だ。この結果は、どうかと言うと、ブルガリアは到頭枢軸の側の陣営に取られたが、少なくともユーゴには英国と相呼応して彼の与えた薬が十二分に効き過ぎた。

ユーゴはいったん三月二十五日に枢軸陣営には入ったものの、翌二十六日深更十二時に、クーデターを行い、首相以下を忽ち逮捕、叛軍の大将シモヴィッチ将軍(ユーゴ國陸軍参謀長兼空軍司令官)は、摂政を廃し、十七歳の何も解らぬ御寝中のペテル二世に強いて謁を求め、「陛下、只今から陛下はユーゴ國王としての全権をご掌握なさいました」とナイト・ガウンの儘、目をこすって居られた少年君主に声高く叫んだ。米国政府は流石はドノヴァンが行っただけのことはあったと大いに喜び、

「他国から侵入を受けた暁には、米国はあらゆる援助を惜しまない。あくまで自重を希望する。」

 と二階から目薬のような、通牒を電送した。

英国は、英国で、これも、イーデンの得意な工作の結果さと有頂天になる。

全ユーゴ民衆よ。蹶起せよ!! 反独戦線へ!!
こういう趣旨のビラを態々(わざわざ)本国で印刷し、飛行機でユーゴの空へバラ撒いた。

ロンドン放送局は、ダフ・クーパー情報省(猶太人)の命令で、これはよき宣伝の機会とばかり、世界中へ聞こえよがしに、

ブルガリアにも三国同盟に反対のクーデターが勃発した。
とまことしやかな、デマさえ飛ばした。

 

ユーゴへの天譴(てんけん:天罰)

だが、天譴は忽ちユーゴへ降った。ユーゴは独伊連合軍の鉄蹄のもとに蹂躙され、忽ち国は滅びてしまった。次いで、ギリシャの英・ギ連合軍も大敗、ギリシャは無条件降伏してしまった。

「一九三三年以来、予は前大戦におけるユーゴの敵性を不問に付して、ユーゴとの友好関係を設定し、これを維持すべく努力してきたが、ユーゴが三国同盟条約に調印を終わるか終わらぬに、イギリスの走狗達は、永遠に陰謀のみをたくらむユーゴ軍部に働きかけて、クーデターを起こすに至った・・・。

われわれ名誉あるドイツ国民は新秩序の建設の指導者たるべき大国民として、もはや、かかる事態を寛恕することは出来ないのだ。

実に、かかる暴虐を働きつつある、この国民こそ、かつて、一九一四年、イギリス諜報網の買収と使嗾(しそう:指図してそそのかすこと)との下に、かのサラエヴォの爆弾一擲*、時のオーストリア皇太子を暗殺して、全世界を悲惨のどん底に突き落としたと同じ国民なのである・・・。

*乾坤一擲(けんこんいってき)から:すべてを賭して投げつける意

ドイツ国民はセルビア人に対して微塵の憎悪をも抱くものでなく、クロアート(クロアチア)人並びにスロヴェーン(スロヴェニア)人に対しても戦を挑む理由は全くないのである・・・。願わくは、神よ。われらの将士の行く手を守り恵みを垂れ給え。」

以上は、ユーゴを粉砕するに当たりてのヒトラーの歴史的布告の一節であった。

 

ユーゴ背後の英米マソン

右にもある通り、ユーゴのこの叛乱は、英米マソンの執拗な使嗾(しそう)の結果であった。イギリス諜報網とはヒトラーの未だ婉曲な措辞(そじ:言い回し)に過ぎない。一九一四年と同じようなマソンの魔手が暗躍した結果、バルカンの火薬庫に遂に火を発した。

第一のサラエヴォ事件にユーゴが採ったのと全く同じ手で、彼等はドイツやイタリアを裏切り、イギリス側に加担したのであった。ヒトラーがまなじりを決して怒ったのも無理はなかった。何という奇怪、卑劣、陰謀で、それはあったぞ!!

第一の事件のときは、英仏がセルビアオーストリア=ハンガリーに多大の不満を持って居るのを察知し、得意のマソンによる工作を行ったので、あの悲劇が持ちあがったのであった。その時、英仏はセルビアオーストリア太子をやっつけたら独立国にしてやると約束したのであった。

その結果、生まれたのが大英百科辞典(ブリタニカ)にも「ヴェルサイユ体制の中から生まれた最も複雑な國」とある昔のセルビアを中心とするユーゴ・スラヴィア國(それも最初はセルビアクロアチアスロヴェニア王国と言う長い名であった)であった。かのユーゴが三国同盟に入るのに辞職を賭してまで極力反対した三閣僚の中の急先鋒であったコンスタンチノウィッチ法相こそは、特に記憶すべきであろう。猶ユーゴ國には異民族があまたある中にも、純真の猶太教を奉ずるものが、六万八千四百五人もあるそうで、これを以ても、ユダヤの影響が少々でないのを察せられるではないか。それが大部分、ベオグラードサラエボの都市にのみ住んでいるのであるから、これらの都市へのユダヤの勢力は想像以上なのであった。

バルカンが如何に六かしい(難しい)ところで、陰謀の中心であるかは、去る四月五日、テレキーハンガリー首相が謎の自殺を遂げたことでも察せられるであろう。テレキー伯爵は、享年六十二歳、日本に関する地理学の立派な著述があり、ブダペストの極東研究協会長をも勤めたことさえある親日の惜しむべき人物であった。

以上を以てしても、折角の使いもバルカンでは結局実を結ばぬことになり、ドノヴァン大佐の目覚めは猶更悪いものになってしまった。彼は今またその未知数の近東工作に纔(わず)かに望みを繋いでいるが、それも段々見込みが外れて行くらしい。

 

猶太貴族の子スチムソン

ル大統領はその内閣を強化するため、これより先、スティムソンやノックスを反対党(共和党)から引き抜いてそれぞれ陸相及び海相に任じ、米国のみならず世界を驚かした。スティムソンと言うのは、フル・ネームをヘンリー・ルイス・スティムソンと称し、一八六七年米国ニューヨーク州の歴とした猶太系の金融貴族の子として生まれ、エール大学、ハーヴァード法律学校などを卒業、一九一一年、タフト大統領のとき陸相に就任、一九二七年ニカラグアに政治的紛争が起こったとき、米国大統領代表として派遣され、圧力を以て紛争を解決しその手腕を認められた。

一九二八年、フィリピン総督となり、殊更、自由主義的施政を行って有名になった。ここに彼の猶太人らしい特色が大いに発揮されていた。一九二九年、フーヴァー大統領の下に国務長官となり、一九三〇年ロンドン海軍会議代表、一九三一年から同三二年に掛け、國際聯盟軍縮会議代表をつとめ、昭和七、八年の満州事変および第一次上海事変起こるに及び、国務長官として、國際聯盟と呼応して、対日圧迫に躍起となったので我国でもその名はよく知られている。

彼は陸相としては二度の勤め、ル大統領の知遇に感謝しているとか。彼は“不承認主義”の本家本元だ。何でも都合の悪いことは“不承認”で行こうとの肚なのだ。ル大統領は、従来、反対党ながら、スティムソンの“不承認”主義には共鳴していた。

「僕の先祖が支那と盛んに通商したことを知っているだろう。

僕は支那人には前々から常に深い同情を寄せていたのだ。

僕がスティムソン氏と一緒になって、日本を相手にすることはないだろうなんて。

どうして考えることが出来るのだい。」

こういう調子で、いつもスティムソンを支持して来た。

一九三六年の秋、スティムソンは『極東の危機』と題する本を著して、その自画自賛的の己の持論の歴史的沿革や意義を説いた。スティムソンは対支侵略不協力委員会ともいうべき全アメリカにはびこる反日諸団体の元締めともいうべき機関の理事長でもある。スティムソンは満洲事変で、イギリスの外相サイモンに見事肩すかしを食わされたことにつき、遺恨骨髄に徹するとその本に述懐している。

 

連合艦隊司令長官キンメル少将

今一人、ルーズヴェルトの股肱と言うべき男がある。それはハズバンド・キンメル少将である。少将は嘗て彼の猶太的ブレーン・トラストの中でも錚々(そうそう)たるものであった。このキンメル少将は、いくら型破りのアメリカでも、未だ少将の身分でありながら、彼のつい前まではリチャードソン大将のつとめていたアメリ連合艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官の椅子に本年一月八日に突如ル大統領の眼鏡で、ノックス海軍長官の快き承認の下に、滑り込んでしまった幸運児として世を驚かした。キンメル提督は、今年五十八歳で、早くから砲術の鬼才として聞こえ、アメリカ海軍でも強硬主戦派の一人であることをわれらは銘記すべきであろう。

ルーズヴェルトの対日攻勢は、かくて、益々強化されるに至った。

 

故上院外交委員長ピットマン

猶、昨年十一月十日(前英首相チェンバレンの逝去から丁度二日だけ遅れて)を以て死去した対日強硬論者の米上院議員でその外交委員長であった故ピットマンも一八七二年九月ミシシッピ州ヴィックスバーグ市のユダヤ人の豪家に生れ、大学を卒業してから、米国上流社会の有閑青年として社会に出で、色々の経緯を経て遂にあの地位に至った。彼は日本の極東に於ける立場を殊更曲解し、その暴言は米国の識者間にも非難を買っていたほどであった。

その排日の動機が、猶太人の彼らしいから面白い。それはシャトルで辯護士を開業した折のことであるが、性来の冒険好きから丁度その頃盛んになりかけたアラスカの砂金発見にも態々(わざわざ)飛び出し、ドーソンを振り出しに、採金地を血眼になって駆け廻った挙句、到頭ネヴァダの山中のトノバーで幸運にも金ではないが至って有望な銀鉱を見付け、とんとん拍子でその事業は発展し、民主党から選ばれて、上院議員ともなる機会さえ握(つか)んでしまった。

それで、議会でのピットマンの立場と言うものは、自己の地盤であるネヴァダ州の銀を売り込むこと以外には何物もないので、銀貨の正貨併用とか銀買い上げ値段の引上げとかの銀問題のみを頭の中に入れ、銀のためなら、愛国も何も糞もない、どんな問題にでも妥協し、その代償としてル大統領の頤使*(いし)にさえ甘んじ、殊に一九三三年三月上院の外交委員長におさまってからは、彼は己も許し人も許す有名な反日家となったわけであった。

*頤使:いばって、人を使うこと。頤(あご)で使うこと。

彼は、それだから、支那を援助することによって支那の銀購買力を増進させようとした。ところが結果は、銀の対米流出と言う反対の現象を呈し、彼の思惑は外れてしまった。それを、ピットマンは、逆怨みして、日本をあらゆる機会に罵倒した。ル大統領三選なったので、彼はピットマンの毒舌は愈々冴えんとした折柄、天この利己主義一点張りの猶太人に壽*を仮さず、彼は享年六十九であの世に去ってしまった。

 *不明の字

大審院判事フランクフルター

ルーズヴェルトの今一人の乾分(子分)に米国大審院判事フェリックス・フランクフルターがある。元ハーバード大学の教授であり、一八八二年ウィーンの猶太法師の子として生まれ、十二歳で渡米、後の国務卿スティムソンの下で暫くニューヨークで補助検事をつとめ、それからハーバードで行政法の講座を受け持つに至り彼の今日あるの基礎を遂に造った。

タフトが大統領の時、スティムソンに従って陸軍省に入ったこともあったが、又ハーバードへ復帰した。彼もル大統領のブレーン・トラストの一人、砕けて謂えば腰巾着として信任が厚いといわれる。

 

ブナイ・ブリスの組織

米国は何といっても猶太人の楽土である。それで、ニューヨークをジューヨーク、ニュースペーパーをジューズペーパー(「猶太人の新聞」の意となる)、ニュー・ディールをジュー・ディールの如く米国人中の皮肉屋は盛んに文字っている位である。かくも米国には猶太人が幅を利かしている関係上、猶太人ばかりのブナイ・ブリス(Bnai Brith)と称するフラン・マソンの結社すらあるのである。

その他、米国猶太人代表会議(American Jewish Congress)、米国猶太委員会(American Jewish Committee)猶太労働委員会(Jewish Labor Committee)などの三団体もあり、ブナイ・ブリスと連絡をとって活動している。

ブナイ・ブリスとは、ヘブライ語で、「聖約の兄弟」と言う意味である。その本部はシカゴ市にあるが、この結社の始めて生まれたのは、一八四三年ニューヨーク市エセックス街に於いてである。爾来、三十年余り米国内で発展を遂げ、一八八五年にはベルリンへその第八号結社を設け海外への雄飛に便することとなった。続いて、それは、ルーマニアオーストリアハンガリー等々の国々にも拡大して行った。

今は、英国、近東地方にも及び、上海にも数年前この支部が出来た模様である。その総結社数四百二十六、世界中に十一の本部を設け、その中でも七つは米国内にある。普通のマソンは他民族を会員に入れるが、このブナイ・ブリスは猶太人以外は決して入会させない。マソン結社員で猶太人であれば、共通の意味で容易に入会出来るのだ。米国の各学校の教科書から、シェークスピアの『ヴェニスの商人』がシャイロックと言う猶太人の金貸しを侮辱的に描写しているとて、これを除く運動に成功したのも、このブナイ・ブリスであった。

最近では、反アンチ・セミティズム運動のため百万ドルを支出したり、反猶太運動に対抗のための国際的聯盟をさえ組織し、敢闘を続けているそうだ。

 

敗戦英国の運命は?

英国は元来、あのカール・マルクスがこの国へ亡命中、例の『資本論』をロンドンの世界一の図書館と称せられる大英博物館で完成し、英国でその最後の骨を埋めただけあって、お国柄に似合わず、共産主義の勢力は存外根強く、第一次マクドナルド労働党内閣成立当時には、実際、英国共産党の黄金時代を現出した位であった。ところが、何故、このマクドナルド内閣が久しからずして倒壊したかと言うと、それは共産党の驚くべき陰謀が露見したがためであった。

現在、共産党員は、英国の議会では僅か一名の議席しか有するに過ぎないが、知識階級や労働階級にはそれに未練を有するものがあり、その地盤は未だに必ずしも崩壊してはいないのであるから困ったものだ。

今度の欧州戦以後、彼等は潜かにモスクワの指令を受けながら暗躍をはかりつつある現状である。この英国の共産党の活発な運動の展開に関し、コミンテルンは相当の関心を有し、その機関誌『共産インターナショナル』や、米国で別に発行せられる共産党の機関誌『コミュニスト』で絶えずその模様を報道している。

敗残の色漸く濃くなりつつある英本国には、「戦争により富めるものは、ますます富み、労働者の窮乏はいよいよ増大している」とか、「生活必需品の騰貴二十一パーセント、労賃増額七パーセント」などの文句は、刺激性に富み、彼等の宣伝は地獄に囁く甘き言葉のように聞こえ、その影響はじりじりに大きくなってくようである。

この塩梅ではこれが極端に行くと、第一次大戦後のドイツの如き敗戦主義者の思想が時を得顔にのさばる可能性がありはせぬか、英当局は戦々兢々(せんせんきょうきょう)たる有様である。自由党労働組合の御用幹部は、労働者にとりて破滅的な政策を担ぎ出しているとは彼ら共産主義者の常套な言葉となっている。

爆撃下の英国大衆にとって、一番、反感的に思われるのは、富裕階級は完備した防空壕の中で悠々と贅沢な日常生活を楽しみ、戦争によって莫大な利潤を収めつつある一方、プロレタリアートは、家を焼かれ、街路を右往左往しながら、「死の雨」を浴びて儚く死んでいくと言う、眼前にまざまざ見える現象でそれは共産主義の温床とはからずもなっている。

しかし、これと対蹠的なファシズム乃至英国固有の民族主義の主張は共産主義の動向をそれとなく矯正し、今一つの新しい国運の展開の可能性を暗示しつつあるとも見られぬわけでもない。そこに英国の将来性の如何が横たわっている。

今後の英国が単なる民主主義、自由主義のみを以てして、果たして従来の如く生き続けて行かれるかどうかは、世紀の宿題であろう。米国も、若し誤って参戦すれば、遠からず同じような宿題を突き付けられることになりはせぬか。これらは、何人にも慥かに興味ある今のところ簡明に解き難きクエスチョンではあるまいか。