筈見一郎著 「猶太禍の世界」15

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

英の軍需工場ヴィッカース

殊に英国のヴィッカースがその後軍需会社として世界に君臨するに至ったのは、実にザハロフ(英国で遂にナイトの称号を許されたサー・バシル・ザハロフ Sir Basil Zaharoff)その人の全く比類を絶した数十年間絶えず暗(や)みに躍り続けた国際的怪腕のお蔭であった。

若しイギリスが「議会政治の生みの母親」と称せられ得べくば、ヴィッカース会社は、その「議会の継母」であると断言し得るのである。ヴィッカース会社の創立者は、もと、ドイツのクルップ会社の見習い工を勤めたタマス・イー・ヴィッカースである。その武器製造を始めたのは、一八六〇年頃であった。そうして、間もなくイギリスにはなくてはならぬ存在となった。

この会社はイギリスの海外発展が目覚ましくなるにつれ、南北アフリカで巧みにその侵略政策により植民地を築き上げたセシル・ローズ(英国系ユダヤ人)の成功に刺戟され、積極的にその武器を輸出するようになった。このヴィッカースは、速射砲の外、その特許品である「ポムポム」と言われたマキシム機関銃をば、ザハロフの手を経て、イギリスに対し叛旗を掲げたボーア軍にさえ売り込み、これがため英軍は一時敗北に帰したと言う売国的行為を敢えてしたことは、有名な話である。

日清戦争にはヴィッカースは未曽有の金儲けをした。当時、日本の陸海軍はその最大の得意先であったことは申すまでもないことである。

だが、日露戦争ではさらに比較的の出来ぬボロい利益を得た。日本へ売り込んだのみか、日本の敵のロシアへも盛んに売り込むのを決して忘れなかった。

その眼中には、日英同盟(明治三十五年一月締結)も何もあったものではなかった。ヴィッカースは国際取引の甘い汁を、かくて、存分に吸った。

 

英の軍需工場アームストロング

この前後に、ヴィッカースの強敵が偶々(たまたま)現れた。それは外でもないアームストロング会社であった。後に、英国の軍需会社の双璧として、ヴィッカースと並び称されるこの会社は、アール・エム・トムソンという、ザハロフに劣らない位の凄い腕の販売員があったため、ウンと発展するに至ったのである。

このアームストロングも日本へ日清日露の両役(えき)に当たり、しこたま、その武器を売り込んだ。その南米諸国への発展も侮ることが出来ぬものであった。トムソンはあのマソンの息のかかっているロンドンタイムスの特派員だという触れ込みで、その実、アームストロングの武器を盛んに売っていた。

この男は一九〇四年(明治三十七年)アームストロングを相手取り、未払い俸給手数料賠償請求の訴訟を提起しセンセーションを惹き起こし、タイムスの特派員と言うのは表面だけで、彼がその実アームストロングの私設大使格なることが世間にパッと判ってしまった。トムソンはアルゼンチンとチリとの間に戦雲漠々たるとき、特にチリへ軍艦を売り込んで巨利を収めたのが、その最初の事業であった。

現在ではヴィッカースとアームストロングとは合併されて一つの会社となり、英の猶太財閥にその完全なる実権を握られ、何よりの金穴(きんけつ:ドル箱のこと)となっているのである。

 

アメリカのモルガン商会

アメリカのモルガンと謂えば、紛れもないユダヤ人だ。その傘下に属して居るのが、既に述べたデュポン会社、ベツレヘム鋼鉄会社、ユウ・エス鋼鉄会社、その他、アメリカで一流どころの銅、石油、電気器具、機関車、電信電話等の会社は皆モルガンの幕下(手下)に属して居る。

そればかりか、日本の横浜正金のような財的地位にあるナショナル・シティ銀行、コーン・エクスチェンジ銀行、チェース・ナショナル銀行その他一流の諸銀行が皆モルガンの直接間接の統制下にある。これらの銀行とタイ・アップしてモルガン系の軍需工場がアメリカに活躍しているわけである。

そう言う偉大なモルガン財閥の本拠と言えば、あのニューヨークの高さ天を凌駕するかと怪しまれるようなスカイ・スクレーパーの五十階乃至百階を下らぬ、例せば、クライスラーとかウール・ワース乃至はゼネラル・モータースなどの摩天楼が、ずらりと並んだ街の中でも、格別、目立つ建物を占めていると誰しも思うであろう。ところが、豈(あ)に図らんや、我々の想像とはそれが、まるで正反対なのであるから吃驚(びっく)りせざるを得ない。

そのモルガンの本拠と言えば、裏には、二、三階があるが、全体としては平家建てとしか見えない旧式な、ビルとは決してお愛想にも言えない家屋であり、それが、まるでそれ自身多くのスカイ・スクレーパーの千仞(じん)の谷間に落ち込んでいるかのように、あのブロードウェイとウォール・ストリートの交叉点の角っこに、哀れな今はまるで流行らぬ前世紀の遺物その儘の姿を、そっくり、とどめているのだ。これがあの大モルガンの心臓乃(すなわ)ちアメリカそのものの生命の源だとは誰に思われるであろうか。

表面から言うと、既往十ヶ年のアメリカの歴史は、この主人公のモルガンとルーズヴェルトとの闘争の歴史だったと評し得るかも知れない。

即ち、それは、ウォール街(ニューヨークの株式街)とホワイト・ハウスとの間に醸されたオールマイティー弗(ドル)と所謂ニュー・ディールの争いの歴史だったと言う人があるかも知れない。

少なくとも外患はそうに違いなかった。ルーズヴェルトが大衆の力強い圧力とやらに掉さして、あのアメリカの大恐慌時代(一九二九~三二)に、モルガン財閥を美ん事(見事)、叩きのめし、彼をばアメリカの第一線から、あの狭いウォール街の一角に屏息(へいそく)させてしまったかのように見えたのであった。

ところが、今度、独伊と英仏(後にフランスはドロップしたが)との戦争が、おっぱじまった。

それでルーズヴェルトはそのたった向こう一ヶ年二ヶ月に費消すべき七十億ドルと言う凄まじい予算案を含む援英武器貸与法案を到頭(とうとう)遮二無二アメリカのコングレスやセネートをば通過せしめるのに成功せしめた。あの孤立派の指導者と言われるポイーラー(ウィーラー)上院議員は、これにつきルーズベルトとモルガンとの暗黙な了解につき左の様な暴露のテーブル・スピーチを先般その友人の邸でしたという。

 

「自分は七十億ドルの数字には別に驚かない。これはルーズヴェルトが、ヨーロッパ戦争をたきつける、ほんの序の口に過ぎないからだ。アメリカの納税者は既にル大統領にあのような、どえらい権限を与えてしまった今日では、我々は最悪の結果の来るのを覚悟しておらなければならない。

恐らく我等の納税額が現在の二倍となり、公債発行額の最高限度も今の六百五十億ドルから一躍一千億ドルに改定される日のくるのも遠くはあるまい。

これこそは、正にモルガン財閥と、國際銀行家たちの何よりも希望している事柄である。」

 

そうだとすると、前の大戦の時、アメリカ参戦の口火を切ったモルガン財閥が、今度こそは六百五十億ドルの公債と一緒くたに、又もや、ライムライトを浴びて驚く大衆の前にカム・バックしたわけである。

さて現在、アメリカの財界は、ひっくるめていうと二つの主要な系統に截然と(せつぜんと:はっきりくっきりと)別れるのである。

一つは言うまでもなく、英米の金融をその一手に握るジェー・ピー・モルガンのモルガン銀行系統、今一つは、アルドリッチ(この人の妻君は猶太人大富豪ロックフェラーの当主の娘だ)を重役会長とするチェース・ナショナル銀行系である。しかし、既に述べた如く、そのチェースすら、結局のところは間接に大モルガンに包括されてしまうのであるから、アメリカの財界は、全く、モルガンの思うままに動くより外はないのである。

だが、兎に角、この二大系統に分ける方が現在のアメリカ財界のことを述べるのに甚だ都合がよい。既に一寸触れて置いた如く。例のナショナル・シティ銀行を始め、ギャランティー・トラストを始め無慮五十一銀行、八十六会社、この総資産はざっと、四百六十二億ドルと註されるものが、凡てモルガンの直接の支配下に入るのである。この中から、外国会社の資産に属する三十億ドルを除くと、跡の四百三十二億ドルと言うものは、モルガンの純アメリカ資産であって、これは、アメリカのあらゆる銀行会社資産の約六分の一に該当するわけになる。

猶、多少とも、モルガンの支配に関係する他の銀行会社を入れたら、その純資金七百七十六億ドル、その外国資産に属する五十億ドルを除いたにしろ、差引、七百二十六億ドルある。これは実にアメリカ全会社の富の四分の一以上に当たるわけである。もし、それ、チェース系やその他の間接にモルガンの勢力下に入って来るものを数え立てるとすると、もうきりが無くなってしまって、うんざりしてしまうこと必定である。

ゼネラル・モータースがモルガン系、鉄道および運輸会社が都合十四、電信、電話、電灯、ラジオなどの公共事業会社が都合十三、その雑産業十四等々とモルガンの指導権を握っているのが却々(なかなか)に多い。一般に「アメリカ六大家」と呼ばれるロックフェラー、フォード、ハークネス、ヴァンダービルト、メロン、デュポンなどに比べると、モルガン家個人の富は、ロックフェラー、メロンは愚か、フォードよりも少ないかも知れない。だが、モルガンがアメリカ財界に揮っているその強大な金融権力に至っては、いくら、ロックフェラーやフォード等々が束になってかかっても全然角力にはならないのである。

これらのアメリカの財界人は、世界の富の八割を積み上げ、その黄金は、昨年七月の発表によれば、アメリ財務省の下に保有の金二百億一千四百八十二万余ドルを計上し、世界産出の金の四分の三以上だと言われる。因みに現アメリカ財務長官のモーゲンソーは名うての猶太人である。さて、モルガン商会の一番番頭は誰かと言うと、タマス・ラモントと言う、シカゴの新聞記者あがりの男で、それが、いつの間にか、大モルガンの筆頭重役とまでのし上げたのである。もう七十あまりの老人である。

このラモントの娘コルリスは社会主義者の夫を持って居るが、ラモントがそれを一向介意しないところ、流石に猶太財閥の番頭らしい面目が躍如としているではないか?

 

なぜアメリカは前の大戦に参加を決定したか?

一九一四年、世界大戦が勃発したが、アメリカのウィルソン大統領は中立を宣言した。それから四年経った一九一八年休戦条約がサインされた時分、アメリカには二万一千人の戦時成金が出来、一株二十ドルしたデュポンの株が一千ドルに暴騰していたばかりか、ジェー・ピー・モルガンはこの最初の二カ年間に、亡き親爺のモルガンが一生かかって作り上げた資財より遥かに多い金を儲けていたのであった。ところが、人も知る如く、ドイツは驚くべき忍耐力と潜勢力とで二ヶ年間も十倍もの敵を四面より受けて少しも屈せず、あらゆる方面に連合国よりも卓越した武力を示した。

それまでに、アメリカは既に二ヶ年間も莫大な軍需品や物資を無抵当貸金の形式で連合側へどしどし送り続けた関係上、こう英仏などがドイツに敗けてばかりいては、末は一体どうなるのであろうか?折角、貸したものは、果たして、後になって取れるであろうか? 心配で心配でたまらなくなった。

こうした憂慮が、期せずして、アメリカの各方面に起きるや否や、ウォール街では、忽ち前途を悲観して、それまで羨望の種となっていた軍需株が、俄然軟化して甚だしいのは五十ポイントまで暴落し、財界は忽ち大混乱に陥った。就中、モルガン財閥は色を失ってしまった。彼等は、そこで、手を変え品を替え、時にはその独特の圧力を政府に加え、輿論さえも製造して、アメリカの即時参戦の絶対的必要なる所以を大手からめ手から頻りにウィルソンに説いた。

ウィルソン大統領は、一九一七年四月十六日、遂にその歴史的な宣戦布告をドイツに対して行った。ために軍需株は又もや一斉に暴騰した。この日程、ウォール街の猶太人の金持ちに驚喜を与えたことはなかった。彼等は手の舞い足の踏むところをさえ知らなかった。

就中、ナショナル・シティ―銀行の頭取猶太人ヴァンダーリップの如きは「それは百パーセント(因みにこの百パーセントという言葉そのものはこうした何事も算盤で行くアメリカ猶太人の言い出したことなのであった)アメリカ式である」と、ウィルソン大統領のこの引きずられた果断を大いに賞揚したのであった。

このところ、ウィルソンはアメリカの歴史あって以来未曽有の絶大な人気ある大統領とまで謳われた。だが、このウィルソンは哀れなるかな、実のところ、また、マソンの傀儡でしか、あり得なかった。

かく声を大にしてアメリカは参戦したものの、どうしても船のやりくりが付かず、精々五千人の陸兵しか欧州へ送られなかった。またその飛行機で戦線の上を飛んだものは一台だってありはしなかった。ドイツは、何も戦いそのもので敗けたのではなく、極端な物資の不足に付け込んで、国内の猶太人が潜かに企てた銃後思想の攪乱のために、遂にあのただでさえ無念千万な屈服を遂に余儀なくされてしまったのであった。兎に角、現在のアメリカでは、ウィルソンの時代と露かわらず、否、それ以上に輪をかけて、ウォール街の王様のモルガンの勢力と言うものはアメリカを思うままに動かし、ルーズヴェルト大統領などは全然それに頭が上がらぬと言うのが偽らぬ真相である。

これにアメリカの軍需王クヌードセンその他の一、二枚を加えれば、米国の最高の実力のスタッフが出来あがるわけである。

 

ジョン・ルイスとウィリヤム・グリーン

尤も、ここに同じくアメリカの実際勢力として無視できぬものにその労働界の二大立役者であるC・I・O(産業別労働組合連合会)のジョン・ルイスとA・F・L(アメリカ労働総連盟)のウィリアム・グリーンがある。

これら指導者のルイスの年俸が二万五千ドル、グリーンの年俸が一万二千ドル、アメリカの大臣の年俸一万五千ドルと比べて、ルイスの如きは遥かに上越すのである。彼等は労働貴族と言うべきである。

C・I・Oは、固より赤の臭いが濃厚でその猶太共産主義傾向があるのを絶えず非難されているし、A・F・Lの方は、比較的に政府と協調し得る態度を見せているが、それもその筈マソンに操られていると言う。殊に後者の最初の指導者、今は亡きサミュエル・ゴンパースは猶太人として知られている。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」14

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

第八章 英米仏等の猶太閥

 

アングロ・サクソンの実質的主人公

ユダヤ民族は何といっても世界での不可思議な存在である。彼等は、謂わば、英米財界政界の実質的主人公である。今次の欧州戦乱の真相と言うのは、要するに、ユダヤが表面だけ英米と称する国家機関をまるで自分の手足であるかのようにして、ナチスなりファッショなりと戦っているという観方は、この意味で、決して当を失しては居らない。ユダヤ人の動きは想像以上に複雑を極めている。蓋し彼等の背後には少なくとも二千年の歴史が控えているからである。

ユダヤの問題は、歴史的に斯くも、その奥行きが深いところへ、地理的にも、その間口が、無限に広いのであるから、これを追求するのは容易でない。ユダヤ人のこの不抜の勢力が、今や枢軸の中でも特にベルリン次いではローマを震源として漸くゆらぎ始めた。欧州に於けるその全面的崩壊も意外に近い将来に実現される可能性が濃くなりつつある。

 

米国は猶太人の天国

しかし、今日のところ、依然、米国は猶太人の天国であるかのような観を呈している。それに、米国では、マソンが、英国に劣らず、幅を利かしている。猶太人ならずとするも、マソンに入った「人為的猶太人」は米国ではとりわけ、出世が早い現象を呈している。

今日の米国の米国らしい特徴は、この角度から吟味して行かないと、その真相は慥かに捕えにくい。そこに米国の弱点の多くも潜んでいる。米国の民衆は実は米国の猶太閥に踊らされ動く意志なき人形に近いのである。あの米国の輿論は民衆のそれではなくユダヤの財閥政治閥軍人閥に引きずられて、自ら生ずるものに過ぎない。彼等は結局、その輿論をどちらへでも好きな方向に転換させることが出来るのである。そういう猶太閥がどうして米国でかくも強大になったか? 時には便宜、他の話にも及ぶかも知れないが、本章では、特に、そういう米国の猶太閥 ―主として軍需関係が多い― を中心とした事柄を取り扱ってみたいと思う。

 

バーナード・ショウの喜劇

さて、諸君は、英国の劇曲家で、皮肉屋としてもよく通っている、あのバーナード・ショウの『バーバラ陸軍少佐』“Major Barbara”と言う劇の本を読んだことがあるか。

これには、主人公のアンダーシャフトの言葉として、

 

「人物や主義の如何に拘らず、苟くも正当な値段を支払うすべての者に、武器を与えるということ、例せば、貴族と共和主義者、無政府主義者とツァー、資本主義者と社会主義者、新教徒と旧教徒、泥棒と巡査、黒人坊と白人と黄色人種などに論なく、ありとあらゆる国民、信徒、馬鹿者、一切の主義者、諸々の犯罪者を問わず、武器を供給するのが、武器製造家のアンダーシャフトの信条でもある。」

 

この言葉は、やがて、遷して、コールト特許武器製造会社長サムエル・エス・ストーンのそれと見做してよいのである。なぜなら、右はストーン自身の言葉をば、ショウ翁がアンダーシャフトに語らせたに過ぎないからだ。

 

軍縮と海軍連盟

一九三〇年(昭和五年)に日英米の間に、軍縮条約が成立した。が、不都合にも、これを契機としてアメリカでは海軍聯盟と言う団体が突如生まれた。この創立者は誰かといえば、それまで米国政府へ毎年二千万ドルに上る甲鉄板や色々の機材を売り込んでいたミドウェル・スチール会社の外に、同じアメリカの武器製造会社として有名なベスレヘム・スチール会社の社長チャールス・エム・シュワヴ、海軍をば専らその得意とするエフ・エス鋼鉄会社の重役ジェー・ピー・モルガン、砲弾に是非なくてはならぬニッケルの製造元として名高い國際ニッケル会社のアール・エム・タムソン陸軍少佐、また嘗てカーネギー・スチール会社の顧問辯護士だった前海軍上長官ピー・エフ・トレーシーなど、猶太人または少なくとも猶太の息のかかった連中のみであった。

この連盟は海軍大拡張を寧ろ主張し、折角の軍縮の効果を無にして仕舞おうとたくらんだのであった。

 

平気で國を売る猶太人

これは、ヒトラーが、今日のドイツを築くまでの話に属するが、予(かね)てより、己等の住む国土への愛国心などは微塵も持ち合わさず、寧ろその国には敵国と考えてよい、ドイツ ―ヒトラーの漸く政権を握り始めたドイツ― に対し、あの世界的に知られたチェコ国の大軍需工場スコダ会社の猶太人重役のフォン・アルターベルとフォン・ドスシュニツの二人の如きは、その予期する莫大な利益の前には、自分らの属する、ちっぽけた國のチェコ位は売ってもよいという、大それた了見で、ヒトラーの目論む軍拡を極力勧め大々的に援助すべく乗り出し、ヒトラーとしても、そいつを大いに利用するのを得策と考えてきた時代さえあった。

のみならず、ドイツとはお互いに仮想敵国である筈の仏国随一の軍需工場のシュナイダー会社の社長である猶太人ユージン・シュナイダーも、喜んで、自らかくして漸く台頭を示したヒトラーのドル箱たらんことを進んで申し出、彼のドイツの軍備強化に力を加えて来たのであった。このシュナイダー会社というのは、スコダ会社の下風に立つ、所謂、持株会者の一つであり、且つシュナイダー自身はフランスの鋼鉄業組合の首領としても、フランスの同業者を切り廻していて、剰(おま)けに、自己輩下にパリのタンやジュールナル・デ・ヴァの如き有力な新聞社を持ち、フランスの輿論と言うものをいつも、自分らに都合のよい様にでっちあげていたのであるから、いやはや、彼等国際猶太人の非愛国極まるコスモポリタン振りには、何人も、一旦、その真相を知ったら、驚かざるを得なかったのである。

即ち、これらの新聞は軍縮の危機とドイツの脅威とを表面だけは、さも愛国の急先鋒であるかのように盛んに叫ぶ癖に、その肝腎の親方のシュナイダーは、裏面に於いてヒトラーやドイツをして、出来る丈多くその製品を買い込ますよう絶えず働きかけていたのであった。

こうした国際猶太人の非愛国振りを雄辯に物語る今一つの証拠がある。イギリスのベッドフォード公園内には今でも世界大戦中にドイツから捕獲した大砲をそのまま飾ってあるであろうが、これは、驚くなかれ、大戦前とは言え、英国の武器会社が、ドイツへ盛んに売り込んだ大砲の一つである歴とした英国の商標のある代物なのであったとは!!

それからこの前の大戦中に、英国海軍が当時、ドイツに味方したトルコの領域であったダーダネルス海峡を攻撃し、英国の軍艦が、そこにトルコ側により布設されてあった英国製の機械水雷で沈没したというナンセンスな話さえもあるのだから、英国の猶太系の武器会社の売国振りは真に想像以上なのである。

要するに猶太系の武器会社は孰れも利益にさえなれば敵と味方とを決して区別しない。甚だしきは、たとい交戦中でも敵方へ相変わらず武器を売って恬(てん)(平然)として恥じないような行為を第一次の大戦の間に、数えるに遑(いとま)あらざる程、犯して来たのであった。

もう一つ驚くことには、かの大戦以前に、ドイツのクルップ会社は、手榴弾に特別のヒューズを付けることを発明した。ところが、イギリスのヴィッカーズ会社は、大戦中に英国当局からの註文もあり、この独逸の発明をそのまま利用して、英国製の手榴弾にもつけた。それがやがて、多数のドイツ兵を殺戮した。戦い終わって、クルップはヴィッカーズを相手に、ヒューズ一個につき一シリング、即ち総計一億二千三百シリングの損害賠償を寄越せとの訴訟を真面目に提起した。

これなど日本人にはどうしても理解の出来ぬコスモポリタンな猶太人同志の醜争と言わねばならぬ。だが、これが示談となり、ヴィッカーズはその賠償としてクルップにスペインに於けるヴィッカーズの子会社の持株を引き渡して、漸く鳬(けり)が付いたという。ますます驚くべきユダヤ人の心理状態である。国家なんかは、全く彼等の眼中にはないのである。

 

偽善家の猶太人

彼等は国と国とを自己の製造の武器で戦わせて甘い汁さえ吸えばよいのである。そうして、世界中を疲弊させて、彼等の理想とする世界共和国を彼等の金銭の力で、泡よくば、造り上げようと意図しているのである。

だが、一方猶太人は却々(なかなか)の偽善家でもある。

あの世界のダイナマイト王と称せられるアルフレッド・ノーベルの如きは、ノーベル賞と言う、いま世界で誰知らぬもののない平和賞を制定した。このノーベルは「自分は世界の市民だ。自分の祖国とは自分の働くところであり、自分はどこでも仕事をする」と叫んだことがある。

 

日本の生糸貿易を脅かすデュポン

話はアメリカへ移る。アメリカの火薬王デュポンは、その会社の株主総会で、心にもない、軍縮謳歌するような演説を態(わざ)としたことがある。

このデュポン会社は、現在我が四億円内外にも上る生糸貿易を将来根底から覆す目的を以て生糸よりも光沢こそ劣れ質に於いて倍強いと言われるナイロンと言うものを発明し、その靴下を既に昨年五月十五日から始めてアメリカで売り出し、昨年中の右生産高だけでも実に二百九十八万六千ダースを市場に吐き出させ、本年は少なくともその十倍以上を売り上げる計画であり、着々、絹靴下の販路に喰い入らせている。今は値段が馬鹿に高いのでまだ助かるが、近き将来にはウンとその値段を下げて行く方針なることは、言うまでもない。

これは将来我が国の生糸を太宗とする対米輸出貿易に致命的な効果を発揮するに違いないと思うのである。我が国には、ナイロンは絹の持ち味には敵わぬとかその他幾多の楽観説が行われているが、わが生糸関係業者は将来の根本的方針を今より講じておかないと臍(ほぞ)を噛むも遂に及ばぬ後悔をしなければならぬであろう。

猶太の日本への進攻はかく経済的にも着々と迫ってきているのであるから、われらは寸刻も油断ががならぬのである。

デュポンは昔を言えば、その創業者の父はフランス系統の「人為的」猶太人マソンのメンバーであった。結社でフランス大革命の際マリー・アントワネットの死刑を議決したが、それに反対し、フランスにいたたまれず、アメリカへ逃げて来た。その子のイー・アイ・デュポン(即ち創業者)がナポレオン一世の後援を得てアメリカに火薬工場を設立したのに始まるのである。彼は最初の四カ年間に六十万ポンドの優秀火薬を製造し、それまでアメリカ市場を一手で独占していた英国の同業者に致命的な打撃を与えてしまった。彼の事業は一八四〇年頃には、もう、押しも押されもせぬ基礎が随って固まっていた。それは勿論南北戦争以前のことであった。クリミア戦争にも、彼は、その火薬を英仏土(トルコ)に供給し巨利を博した。

一九〇五年にはデュポン会社は、アメリカ陸海軍の火薬を全部その一手で納入する権利を得た。愈々世界大戦に際してはデュポン会社に未曽有の好景気が訪れたのはいうまでもなかった。現在デュポン会社は国内二十二州に亘り六十有余の大工場を所有又は経営している。火薬以外に、今では、化学薬品、ペンキ、ニス、ゴム製品、セロファン、レーヨン、ナイロン等を盛んに製造している。

デュポン会社は、デラウェア州のウィルミントン市にその本社を持って居るが、事実上、デラウェア全州を「所有」していると巷間に取り沙汰される程、偉大な勢力を揮っている。この州だけでも三大新聞を支配し、言論上、その地位に微動だも与えぬように抜け目なく講じてある。

 

國際武器工場の醸もす悲喜劇

明治三十七・八年の日露戦争で、帝政ロシアは日本のため散々敗北したが、戦後、間もなく、その陸海軍備の再建に着手した。

その計画たるや、相当大きなもので、世界の注目はそれへ集まった。我勝ちに、英、佛、ベルギー、独、オーストリア、米などの国々は、軍需品の註文を露国政府から取った。各国の軍需工場の代表者は、セント・ペテルブルグに争って押し掛けた。そうして死に物狂いになって註文の獲得に努めた。

斯くて、英のヴィッカースは機関銃を、米のレミントン会社は小銃を、英のアームストロング会社は海軍用の機材を、殊にクルップは啻(ただ)に陸軍の機材のみならずバルチック艦隊の再建のため各種のものの註文をも、どの他の工場よりも著しく大量に獲得した。だが、それらの孰れもが、全く出来あがらぬうちに、一九一四年の世界大戦が突発し、英米の工場はすべて一時その作業を中止しなければならなかった。

ドイツの工場だけは、しかしながら、別に大した損害も受けず、却って、製造中の露国向き品が、その儘、軍に使用されることを知り、それらを敢然、ドイツ国軍の分に転用させることにして予期以上の大なる戦果を収めた。

それで、結局、ロシアは専ら自国用にとドイツへ註文した筈の武器で自国を攻められると言う思いもよらぬ損な立場となってしまった。

 

軍需品王ザハロフ

各国への武器の売込みと謂えば、逸してはならぬ男が一人ある。それは大戦前後世界の軍需品王と謳われたバシル・ザハロフその人のことである。ザハロフは一八四九年、ギリシャアナトリアで生まれた猶太人である。少年時代は箸にも棒にもかからない不良児であったが、長ずるに従い、物を売る天才が段々と光って来た。トルコの首府コンスタンチノープル(今のイスタンブル)へ来て、同じ猶太人の両替屋の小僧に雇われた。

それから、間もなく輸入貿易を営む叔父の店に転じた。或る日、彼は店の金を拐帯(かいたい)して逐電(ちくでん:とんずら)してしまった。だが、叔父は彼を厳探し、ロンドンへ走ったことを知り、スコットランド・ヤードロンドン警視庁)の手を煩わして彼を逮捕して貰った。

法廷に引き出されたザハロフは平然と問題の金は自分の当然受取るはずの利益金の一部だと主張した。検事の論告は彼に固より不利であったが、色々の経緯があった末、彼は釈放されるに至った。それから、アテネに赴き、そこの政界の有力者エチェン・スクルディスにその天稟(てんぴん:天賦)の外交的才能を見込まれて、英スウェーデン系の軍需会社ノルデンフェルトのアテネ代理店の主任に据えられた。これが、実に、ザハロフの世界の軍需王として雄飛するに至るスタートとなったのであった。

時、恰も、露土戦争(一八五七~一八七八)終局後の軍備拡張の機運が欧米に漲(みなぎ)っていた折柄であった。貧弱なギリシャすら、三千六百万円と言う軍事予算を決議し、先ず二万の常備軍を一躍十万にすることにしたのであった。スウェーデンのノルデンフェルト会社は、孰れかと言えば、当時、クルップ、シュナイダー、ヴィッカースと競争していつも敗者たるの憂き目を喫していた。

それで、武器を製造するにも、全然他とは視野を変えて、世界でも未だ新奇と言われた潜水艇を売り込もうとしていた。ザハロフは、この未知数の潜水艇をば、親分のスクルディスを説得し、ギリシャの海軍の要人をうまく抱き込み、到頭、ギリシャ政府へ一隻だけ売り込むのに成功した。

ところが、それを聞いたトルコが、なんで安閑で居られようか、ギリシャ政府の上を越して、彼ザハロフを通じて、二隻の潜水艇をノルデンフェルトへ直ちに注文した。

ザハロフは生来のギリシャ人でありながら、敵国トルコのこの註文を平気で受けられたのも、彼が元来、猶太人で祖国の観念が薄いためであったことは言うまでもない。

この時、ザハロフは、「ギリシャでも、トルコでも、ルーマニアでも、ロシアでも、潜水艇が入用なら、いくらも用立てるよ、金儲けには国境がないからね。自分は、スウェーデンのノルデンフェルト会社の一介のエージェントであるから尚更さ」とうそぶいていた。ザハロフは間もなくマキシム機関銃の威力を知り、己の会社に勧めて、マキシムと提携して、ノルデンフェルト・マキシム会社なる工場を建てさせた。

丁度、この頃、日清戦争が始まった。ザハロフはマキシム機関銃の見本を持って東洋へ来たり、日支両国へこれを大いに売り込むべき画策した。

次いで起こった希土戦争にも、彼は双方からマキシム機関銃の巨額の註文を獲得した。米西戦争でも、彼は二千五百弗(ドル)に値する武器の註文をスペイン政府から獲た。

それから欧州での軍需品の売込みには必ずザハロフの影が映らぬ商談とては殆どないようになった。

ザハロフは何時の間にか軍需品の世界一流の売込み商人となっっていた。その怪腕は実に物凄いものであった。彼の姿は、ロシアにも、勿論盛んに現れた。英仏独の三大軍需品工場と角逐(かくちく)して、その註文獲得に火花を発する競争を演じたが、いつも彼が最後の勝利を博した。ザハロフは一手でトルコ海軍再建のための一切の註文をも引き受けた。その委ねられた使命を完全に果たしたので、彼はトルコ政府から叙勲された位でもあった。

ザハロフはイギリスへの活動をも忘れなかった。マルコニー会社の株主の一人として巨額の株式を英国政府に買わせその株式を大いにつり上げ巨利を博したのは誰あろう彼であった。ところが、これに纏わったスキャンダルが計らずも暴露し、有名なマルコニー事件として英国政界の大問題となった。一時は総理大臣のロイド・ジョージにもこの事件の飛沫がかかるかの形勢となり、大変な騒ぎを醸した。ザハロフは事件に密接な関係のあったジョン・モーレーを巧みにアメリカへ落してやり、この火の手をどうやらこうやら本当の大火とならぬように揉み消した。

フランスのクレマンソーもザハロフの薬籠中に丸められた(道具の傀儡になってしまった)一人であった。ザハロフは、自己の金儲けをより以上大きくする目的で、如何にも殊勝げに、フランスの有名なソルボンヌ大学へ巨額の寄付をなし、フランス政府から、レジオン・ドノール勲章を授けられたこともあった。フランスには、シュナイダーがあり、尋常一様の手段では、ザハロフの如き、外国系軍需品を売り込むのが至難であったが、彼はフランス政府の高官を己の味方に引き込み、その一切の目的を貫いたのであった。

ザハロフはその後フランスの有名な新聞紙エキセル・ショアを潜かに買収、フランスでの排英思想を緩和するに努め、間接に、自己の商品の売込みを便ならしめるようにあらゆる方法を講じた。フランスの新聞が、世界での億万長者の顔触れを発表したとき、彼ザハロフは、アメリカのロックフェラーやモルガンの次に自分の名前を挙げさせ、彼自らの世界的宣伝に便ならしめた。もう、この時分には、イギリスの軍需工業界は殆ど彼のあごの動きの儘に従っていた。ザハロフは、ヴィッカースの大株主ともなっていた。

一九一三年にフランスにホワイトヘッド魚形水雷株式会社が設立されたが、その会社の実権はザハロフが握っていた。その株主にはヴィッカース会社の関係者のほか、仏、独の名士若干の名前も不思議や列(つら)ねられてあった。ザハロフは勿論スコダの重役にもなっていた。クルップの株もウンと所持していた。これらの会社に隷属した幾多の子会社の株主中にも、ちゃんと、ザハロフの名は聳えていた。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」13

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

日ソ仲立条約のエピソード

ここに、一つ面白いエピソードが伝えられている。それはこうである。右の日ソ中立条約が去る四月十三日に調印されたとき、モロトフソ連首相が署名している折柄、我が建川中ソ大使は、自分の印判を取り出し、列席の皆に見せたところが、その印判の頂きに「豚」(実は猪か?)の彫刻があるのを見つけて、松岡外相が、スターリン書記長を顧みて、「建川大使は、この彫刻と同じですよ」と彼一流の軽い皮肉交じりの冗談を言った。

ところが、スターリンは、色をかえると思いきや、その冗談を正面から平気で受けて、「豚はこの国では芽出度い動物なんです」と即座に答えたので、皆はどっと大笑いをしたという和気靄然(わきあいぜん)たる情景を呈した。

この逸話は、はからずも、スターリン書記長が、既に述べた如く最早猶太人トロツキーの嘗て拘泥したようなタルムッド的の偏狭で迷妄な、実行不可能なマルキシストの古臭いイデオロギーだけは慥かに清算している。殊に彼自身は猶太人でない、列席のモロトフ首相も生粋の露人であるから、そんな物には気にも掛けず、同じ哄笑(こうしょう)の仲間に平気で入ることが出来たことなどを、偶々(たまたま)語るものではあるまいか。こういう処に、敵の痛いところを気軽にちょいちょい突(つつ)いて見る、そうして敵の気を引いてみる。松岡外交の秘訣の一つが横(よこたわ)っているらしかった。道理で、スターリン書記長は、「君のような正直な男には今迄遇(あ)ったことがない」と松岡を褒め上げ、彼の一通りの説明後、僅か十二三分の後、「ハラショ」(承知した)という電撃外交に遂に出で、世界をしてその決断の早いのに驚嘆させたのであった。

 

レーニン主義は限られた共産主義

さて、国際的見解から言うと、兎に角、スターリンの頭から信奉するレーニン主義共産主義そのものに、トロツキーのそれよりももっと明瞭なロシア人気質を与えねばならぬことになっている。レーニン主義は要するに、あのフランス人によって祭り上げられた如き純理を装う宗旨なんかとは趣を異にしているのである。従ってレーニン主義が一つの宗教ともなるに随い、そのより以上の共産主義への不自然な拡大は自ら阻止されることともなったのである。

今日のソ連共産主義共産主義でも最早あのフランケンシュタインの怪物の如きを造り上げようとはしていないのである。フランケンシュタインの怪物なんかは、ジェスイット(イエズス会士)のやりそうな事柄に過ぎないからだ。

 

カリーニンスターリン

ソ連では表面上、カリーニンが中央施行委員会(ZIK)の会長ということで、最高の位置についているように見えているが、このZIKなるものは、ポリツブロに監督され、命令を受けて動くに過ぎない。

それで党の書記長でポリツブロを牛耳っているスターリンこそは争うべからざる本当のソ連の元首と言うわけになる。

 

三人の眞實の幹部

あのソ連の内閣ともいうべき人民委員会の議長であり、併せてその外務人民委員であるモロトフは勿論、このスターリンの指揮を絶えず受けて動くのである。貿易人民委員のミコヤンもそうである。ミコヤンや、スターリンと同じコーカサスジョージア人でスターリンの覚えが却々(なかなか)に目出たい。この三人は現在ソ連で意気最も相投合しているものの如くで、最も重要の国務や党務は専らこの非猶太人である三人の胸三寸の裡(うち)に決せられているようである。

 

カガノウィッチとジュダノフ

次に勢力のあるのは、スターリン夫人の兄である猶太人のラザール・カガノウィッチ、次いで同じく猶太人のジュダノフであろう。しかし、最近は、この二人の勢力も多少衰えて来たようである。殊にラザール・カガノウィッチ(重工業人民委員)のすぐ下の弟、ミハイル・カガノウィッチの如きは先般まで、航空工業人民委員を勤めていたのを、その職より廃黜(はいちゅつ:官職を取り上げ、退けること)せられたばかりか、本年二月二十日の第十八回全ソ共産党会議の決議の結果、猶勤めている党中央委員としても、成績不良だから、今後新たな仕事を善く遂行し、且つ党及び政府から委任されるべき責務を満足に仕遂げない場合には、党中央委員をも除名されるかも知れないという警告を受けるに至ったと言われる。尤もカガノウィッチ三人兄弟の中の末弟、ユーリ・カガノウィッチはミコヤン貿易人民委員の下にその代理として現在も働いている。

 

スターリン政治は漸く健全性に積極性に

最近では、ボルシェヴィズムに道徳的要素を加えることが、ソ連の実力を言い知れぬ位強大にするものなることを、スターリンは知るに至った。

それで彼はその如何に親密で愛している部下にも苟も非違(違法)があれば絶対に仮借せず、それを飽くまで正さねば承知せぬ態度を執るようになった。そうして綱紀を粛正するに骨を折った。これは大いに効果があったと言う。

最近、スターリンは段々とその蔭武者としての自己を表面に現わす機会が多くなった。それと言うのも、彼の最大の政敵が最早亡き人となり、最早彼にとりて取り立てて称すべき心配や憂慮がなくなったからである。

 

トロツキーは忘れられつゝある

トロツキーは一九〇五年、シベリアに流しものとなるや、レーニンスターリンをそのお伴につれて行った位であった。そのトロツキーが、ロシアでは、今や日増しに忘れ去られようとしているのだ。

あの有名なアイゼンスタインの『十月』 というボルシェヴィストの革命を描いたフィルムにも、当然あらわれるはずのトロツキーが殆ど姿を見せない、否、殆ど見せるのを許されなかった始末である。

 

スターリンの大敵はトロツキーであった

如何に、これを以ても、スターリンが、トロツキーを内心必要以上に怖れていたか、察することが出来よう。

だが、そのトロツキーも今は亡き人なので、スターリンも枕を高くして眠られるのである。事実、嘗ては、生きた革命の最大元勲であったトロツキーが、メキシコに亡命したと言う一事は、共産党を文字通り二分させたのであった。

しかも、それは、例せば、英国に於ける保守党と進歩等との争いや、日本に於ける嘗ての民政党と政友会との争いなどとは、到底日を同じうして論ぜられるものではなかった。

 

ボルシェヴィキ二分するの大騒動

それは、物凄い暗闘が絶え間なく、トロツキー失脚後も捲き起こされたのであった。ために、ソ連から、そのスターリンに反対した党員は、悉く十把一絡げに國外に放逐されると言う前代未聞の珍事を惹起した位なのであった。

それらのものは、全面的に、トロツキーの純理的な、より過激的なインターナショナルの思想を現実にさせるのに忠実に狂奔した手合いのみであった。それらのものには、トロツキーが國外へ流されても、決してその主張を断念しなかった。なぜなら、トロツキーが生きている限り、その勢力と言うものは完全には失墜していなかったからである。

 

トロツキーの随喜者

トロツキーの随喜者には実際、共産党員中でも最も熱のある狂信的な分子が多かった。トロツキーの随喜者と言いうものは海外にあまりに沢山あったので、ソ連国内の共産党が二つに大きく分裂するの騒ぎが忽ち生じたのであった。

トロツキーは磁石のように人を惹きつける力が大きかった。全身全霊これ共産主義で白熱的に沸騰し続けていた。その演説というものは火のように聴衆を駆り立てて、彼の陣営へ引きずり込むと言う摩訶不思議な魅力を備えていた。

 

なぜ英国はスターリンに嫌われてゐるか

ロイド・ジョージすら、嘗てトロツキーを評して、「彼こそは、ロシアのナポレオンである」と褒めちぎったことがあった。だが、トロツキーとしては「ロイド・ジョージの言うことは違う。自分は決してナポレオンではない」と辯じたことがあった。ロイド・ジョージは、他のイギリスの多くの政治家も然るが如く、トロツキーの熱心な講演者の一人であった。チェンバレンもそうであった。

スターリン治下のチェンバレンの人気というものは想像以上に悪かったのも道理であった。

スターリンは意志の人として、少しもあせらず闘い抜いて、遂にトロツキーに永劫に勝った。

 

再び「自分も亦亜細亜人ですよ」

トロツキーは永久の革命主義者であり、本能的なインターナショナリストであり、スターリンの如く農民を対照としたデモクラシーを布き、都市をば社会主義的政治で治めればそれでよいとした、孤立主義なロシアには到底甘んずることが出来なかった。絶えず、その脳裏に大きい世界共和国を夢見ていた。

だが、スターリンは世界の革命は慥かに望ましい、また、結局は、避けがたいものだとの信念を持って居ることはいたが、それは別に急ぎもせず、待ってもよいという方なのである。換言すれば、スターリンは、本能的に露国的であり、アジア人的*なのである。

*この見解は、「露国的であり、アジア人的なのである」ではなく、「よりフランクフルト学派に近いのである」、とすべきでしょうね ―燈照隅

スターリンは、嘗て、その面会を許したことのある、ある有力な日本の新聞社の特派員に、先般、松岡外相にそう話したのと同じように「自分も亦アジア人ですよ」と話しかけたということである。スターリンの面目は、この一語にたしかに躍如としているのである。過去に於いてこのソ連の独裁者にあったと言ういと少ない日本人の中で、故後藤新平伯や久原房之助も、多分スターリンから同じ挨拶を受けたものであったらしい。スターリンは格別、ロシアの農民が好きである。トロツキーはそれと正反対であった。スターリンは、農民こそ国家の中心であり、国家の活力の源泉であると信じているのである。農民程祖国に愛着するもの又は祖国の精神の発露するものはない。スターリンはそのような愛着心を祖国に持って居り、ロシアそのものを愛し、ロシア精神を信じているのである。

この点、猶太根性のどこまでも付き纏ったコスモポリタントロツキーとは大分に趣がちがうではないか。露国の政権にトロツキーが敗退したことは、とりも直さず、更に露国の中に世界革命の精神が敗退したことを意味するものであった。それは、即ち、トロツキーを暗黙の中に背後より推進させようとした英仏米のマソンの明らかな敗退とも称すべきであった。因みにトロツキーは、昨年(1940年)八月二十二日、その亡命先のメキシコ市郊外の寓居で終にソ連から、差し廻しの者の凶手に倒れ、事実上、スターリンは最後の所謂適者生存ともなった。

これが、ソ連が反猶太になった瞬間なのであろう。この後は、KGBのみが猶太人の拠りどころとなったが、それもジューコフ元帥によって1953年に終わった。プーチンスターリンを評価するのもこの一種の民族主義によるものと思われる ―燈照隅

ここ、二、三年以来、特にソ連政府が急に帝政時代の汎スラブ主義に逆戻りしたという批評とか報道などが頻々(ひんぴん)としてあるのは、固より間違った観測ではないのであって、実に以上述べたような色々の事情に基づくのでソ連としては当然のコースを辿ったわけである。

 

スターリンの女房役モロトフ

スターリンをあらゆる意味で助けるモロトフ首相は、既に述べた如く純ロシア人であって、北露はヴォトカ生まれの巨大な才槌頭(さいづちあたま)を持った男で、彼の本名は、スクリヤビンと実はいうのだが、今では、ロシアの「槌」という意味の「モロトフ」という変名の方がよく知れ、まるで本名のようになっている。モロトフは実際、我が桂公(桂太郎)を思い出させる才槌頭である。

彼はカザン中学、ペテルブルグ工科大学を卒業後、革命運動の枢機に参加し、投獄、流刑数回の辛酸を嘗めながらも、飽くまで国内に踏みとどまり、一九一七年二月革命起これりと聞くや真っ先にペテルブルグに乗り込んでスターリンと共に『プラウダ』の編輯(へんしゅう)に当たり、レーニンからは「素晴らしい書記だぞ」と賞揚された、ボルシェヴィキとしては最も古い経歴のある人物で、インテリとして知られている。

トロツキーとの闘争には、モロトフは、終始、ミコヤンと共にスターリンの最高幕僚として、その智嚢(知恵袋)を傾けた、功績により、一九二七年四十歳という若さで、ソ連の首相に抜擢されたのであった。現在五十一歳、彼の存在する限り、スターリンの政策は益々明朗化堅実化を加えていくであろう。

 

精力絶倫のミコヤン

アナスタス・イワノウィッチ・ミコヤンは今年四十六歳、労働者の出であり、スターリンと郷関(きょうかん:故郷)を同じうして肝胆相照らす仲(互いに心の底まで打ち明けた仲)で、コーカサスで党の青年部を指導、あの十月革命後はバキンスク党代表であった。

だが当時、英国の勢力下に陥っていたバクーで彼は遂に反革命派のため逮捕せられ、僅かに極刑だけは免れて脱獄、國内戦終了後、予(か)ねて相知れるスターリンを通じて、ソヴィエト政権により重要視されることとなり、北コーカサス地方の党部から中央へと復帰し、一九二六年にはスターリンの御覚益々芽出度く(上司からの評判が良いこと)、何よりも幅を利かすポリツブロのメンバーとなり、同時に、内国通商委員、次いで外国人民委員に転ずる素晴らしい出世を見、今日に至っているのである。

彼はソ連五箇年計画に、よく善処して、毫も誤りがなく、その手腕人物はスターリンの大いに推服するところになっている。彼は外交手腕に富み、リトヴィノフの失脚直前はその外交の大目付さえも勤め、彼自身、外国貿易人民委員として、独ソ経済協定、その他各国との通商協定締結の当事者となっていた。彼はスターリンの重点主義政治の要諦をよく心得ていて、ソ連外交の推進力として不可欠の人物と見做されている。

 

ソ連最近の姿

ソ連は、今や、高速度国防国家の完成を目ざして、第三次五ヶ年計画に続く新十五ヶ年計画を立案、工業生産、鉄、燃料、電力、その他の生産手段生産部門及び消費物資生産部門の孰れに於いても、全資本主義諸国を凌駕せんとし、赤軍の力は国家の経済力に依って左右される。真の軍事力はどうしても工業の力の上に打ち樹てられねばならない。また動員計画は輸送能力に依存するところが大である、これらをすべて完成することは、社会主義祖国を真に世界一とする唯一の方法であると非常に意気込んで、國力充実に邁進しているのである。

それが今日のソ連の姿である。そこには帝政ロシアの長所も今や多分に蘇りつつあるのである。ソ連は最早単純な共産主義一点張りの國ではない。そこに侮れぬ将来性が窺われるではないか。これは単なる猶太性のみのよくするところであろうか。

[追補]本書組版中に、ゆくりなくも私の以上述べたような観測は外れず、久しい間の蔭の人、スターリンは遂に表面に躍り出でて、首相の印綬を自ら引受け、名実共にソ連の実際政治の担当者となり、その結果、モロトフは外相専任となるに至った。世界の地図面に根本的な大改革が行われんとする刻下、愈々必然的にソ連の国際的出方如何は、大体枢軸に味方する線に沿うものと期待されるものの、世界の深甚な注視の的となるであろう*。
*当時は、皆このように考えていたのであろう。実際、戦争が始まっても英国とソ連はいがみ合っていて、ソ連のスパイに浸透されたアメリカがなければ、後の連合国は形成されなかったとも思える。そうなると、ヒトラーによるロシア攻撃も、あの時点では起こり得なかったとも思われる。情報を押さえることが如何に重大なことか、よく解る歴史の推移である ―燈照隅

筈見一郎著 「猶太禍の世界」12

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

トロツキーはなぜ失脚したか?

トロツキーなるものは、明敏なチャーチルが、よくも唱破した如く、ただ、もう、猶太人であった悲しさに、遂に露国の実権を握り得なかったのであった。だが、可成り後になって、少なくとも、トロツキーのよさが、そのよさは彼等にとって至って利己的なよさではあったが、トロツキーを袖(そで)にした軍人共に漸くわかって来た。

 

トロツキートハチェフスキー事件

後にトハチェフスキー事件の如きものが起こったのは、一方、スターリンの政策に反動的な嫌悪をさえ感じ、トロツキーの比類なき軍人への知遇を思い出した彼等が、トロツキーの遠くメキシコから熱心指導につとめた又スターリン運動に呼応した結果に外ならなかった。

トハチェフスキー事件は、取りかえしのつかぬ大事の一歩手前で、喰い止められ、それを契機にソ連の国軍の大改革となり、それが事件と密接な裏面のつながりを持って居た外交界にも及んだ。否、あの事件の真相こそは恐らく意外に遠大な外国の殊に英米のマソン的後援が背後に控えていたと見るのがもっと正鵠な観測と見るべきではなかったろうか? そこに現在の如きソ連と英国との間の越ゆべからざる国交上の深淵が生じたと見るのが恐らく正しいのではないか? 実は、このトハチェフスキー事件の如きものは、もっと速やかに、勃発すべき可能性があったのである。

 

マソンとトハチェフスキー

即ちジョージ五世の諒闇(りょうあん:天皇が喪に服する期間)中に、リトヴィノフやトハチェフスキーが、密かに、英国当局と会合してドイツのラインラント再占領をよき機会に、露国と英仏とはスクラムを組んでドイツへ宣戦を布告し、露国は、ドイツと戦う間に、そのどさくさまぎれの充分熟した潮あいをみて、トハチェフスキースターリンの政権を倒壊し、もとのような猶太人の絶対多数を占めるソ連を再建せんと図った形跡があったが、肝腎の戦争が、すでに前章に述べたような事情で中止になったので、その一切の計画が沙汰やみとなり、例のトハチェフスキー事件の実行なるものは一先ず後廻しとなり、それが、後に又機熟し、あわや発せんとする間際になって露見したのである。

こういう、いきさつがあり、スターリンとしては当然英国に含むところが少なからずあったので、ソ連は、今次の戦いの前夜には、どうしても、英国のあの必至になって秋波を送るにも拘らずどうしてもお御輿を挙げず、却って、ドイツと好意ある不可侵条約を結び全世界をアッと言わせたのであった。

 

マソンとトロツキー

メキシコにあったトロツキーにはその蔭には英米のマソンのひそかなる援助があったことは勿論である。

亡命のトロツキーを米国に匿(かくま)わずして、メキシコにその隠れ家を提供したということは米ソの微妙な国際外交上の影響を英米のマソンが案じて、比較的無難で、しかも、英米の彼等結社と連絡するにも便利が良い第三国に置いたまでのことである。

今の英米のマソンには、実の処、猶太人がソ連で受けている待遇が、気に入らないのだ。

 

ジャックス・マリテンの現ソ連

この私の観測は、改宗基督教徒の猶太人の学者と認められるジャックス・マリテンの一九三九年にニューヨークで公刊した『基督教徒の猶太問題観』“A Christian Looks at The Jewish Question”を見れば、更によく解ることである。

ジャックス・マリテン(Jacques Maritain)は、その本の「ロシアの猶太人」という項でこう明らかに言っているのである。

 

「多分、人によっては、私が次のように言ったとしたら意外に思う者があるかも知れない。

ソ連は、正式には、アンティ・セミティズムを禁止したのを誇り且つそれを正当に認めているのではないか?

他の異教徒のグループに属するメンバーが享有する(生まれながら持って居る)如く、ソ連内の猶太人には法律上の平等は勿論学校や大学へ自由に学び得るように許されている筈ではないか。

全く、表面はそれに違いない。

だが、実の処は、ロシアこそは、イスラエルが最も脅威を感じている世界の国々の一つに属して居るのだ。

私は敢えて、此処で、ソ連政府が、猶太人の大衆へ、加えたところの経済上の零落をば単に語ろうとはしない。往時は、ロシアの猶太人の九割というものは、商いや、産業や、手内職等に従事して生活をしていた。ところが、新しいソ連政府は、最早、商売人とか、独立の職人とかの存在を許さないのだから、彼等猶太人の生活の手段と言うものは、多数の水呑百姓の境遇よりも、遥かに辛いみじめな打撃を受けるようになった。

彼等猶太人に対しては、経済上の不幸と言うものは、徹底的なものである。就中、ここに私が特に指摘しなければならぬことは、ロシアに於いて、如何に悲惨な状態なりとは謂え、生活し得るとするも、猶太民族主義とか猶太性とかを奉じたとすれば、死刑に処せられるより外なき運命となることだ。

彼等の同化、強制的同化と言うものは、ただもう「あまりに工合(具合)よく」成功しつつあるのである。この闘争は、或いは言わん、猶太民族に対しては、行われたることなく、又行われていないと、併しながら、すべての宗教と同様に、猶太人の宗教に対しても行われていることだけは確実だ。

無神論者の猶太人によって導かれた猛烈な迫害は宗教心のある猶太人に急に襲いかかったのであった。あの一九三四年(昭和九年)ニューヨークで刊行された猶太人の著作家アーサー・ルパンの『現代世界の猶太人』の中でも「事ここに到って、猶太人が猶太人自身の最悪の敵となっている」と叫んでいる。

最後に、歎かわしいのは、猶太青年の大多数が、かくして、宗教から全然立ち切られていることである。そりゃ、老人達であったら、どうにかこうにか辛抱が出来よう。だが、かくも、正面から、治者階級の敵対があっては、どうにもこうにも動きが取れない。宗教は結局滅亡の外はない。

ルパンがまた謂う。「二十年以前には、猶太人が、依然、猶太性の最も堅固な牙城であったこのロシアには、今や、猶太の宗教は正に破壊されようとしているではないか。」

して、これとまったく同じように、猶太の文化もソ連内では滅亡の途を辿っているのだ。

猶太法師(ラビ)の学校や殆どあらゆる猶太会堂(シナゴーグ)は閉鎖されてしまっている。

ヘブライ語の教授、伝説、宗教上の祭日、割礼、モーゼの律法の儀式など、すべてのものは、殆ど禁止されたも同然である。他方、強大な国家の圧力が雑婚を奨励する方面に作用している。その必然の結果として、猶太独特の人種的又は文化的統一と言うものは急激に露国では消滅しつつある。同じように、“帝国主義”の運動と見做されているシオニズムは、厳重に抑圧されている。シオニストの宣伝をなすものがあれば、如何なる事情にあっても、必ず直ちに捕縛され流刑を免れざる有様になっている。

猶太人によって専ら居住されているソ連内のあのジュウイッシュ・ステートにありても、 ―このジュウイッシュ・ステートとは、ソ連がビロビジャン*(Birobidjan)に特にソ連邦の一翼を為すものとして設けられた国であるが― この猶太國にありても、特に猶太の文化と言うものは、あまりぱっとした存在ではないのである。」

*満洲国境の西側にある名目上、猶太人自治州の名前 

 

マソンと現代ソ連との関係は如何?

これを以てしても、現在のソ連は、最早、その実質に於いて、英米の猶太マソンとは完全に遊離するに至っているのであって、随って、猶太人が依然その政権の一部を担当しているとは謂え、猶太性を大いに脱却するに至った。今では寧ろ単純な狭い猶太根性に捉われぬロシア人本位の汎スラヴの国家と称するのが寧ろ妥当と言わねばならぬのではあるまいか。

 

ロシアで最も勢力のある人物

さて、現在、ロシアで最も勢力のある人物は、それに見(まみ)えることが一番容易である。毎日、五時から七時までの間なれば、レッド・スケーア(赤の脅威)の彼の家で面会することが出来る。それは不思議な家屋である。如何なる建築の線と雖も、これ位、厳しいのは外にない。これ程、調和の効果を奏しているものは他にない。

訪れるものは、低い戸口の前で長い列をなして待つ。その両側には、赤軍の長いコートと三角形のヘルメットを被った番兵が二人、銃剣を突き付けて、立っているのである。

その荘厳な戸口を這入る人は、誰でも知らず知らずに頭を下げるのである。狭い階段を地下へと降りて行き、狭い廊下をば廻って歩く。訪れるものに見(まみ)えるのは、硝子箱に収められた人物である。それは、深紅の色に包まれた円蓋の天井の下に据えてある。思ったよりも綺麗な姿をしている。あの伝説が動もすれば、この人と連想するところの、辛辣なエネルギー、悪魔的な微笑、或いは超人間的な智慧が何処にあるかと怪しまれる位である。

ただ静寂のみがこの姿を支配している。全体は少々しぼんでいて、あご髭はちょびちょび生えている程度、額は秀でており、頬骨は広濶(闊)である。彼は大して偉いような顔もしていない。彼の棺の深紅のベルベットにも拘らず、まるで田舎の街から来た辯護士のような風采である。

胸には赤旗の徽章を付けている。彼を木乃伊(ミイラ)にした術は美事な出来栄えであった。専門家の言い分に拠ると、彼は少なくとも向こう八十年間は立派に保(も)つとのことだ。だが、彼の木乃伊は他日塵に帰することあるも、果たして、現代のロシアを見たものが、あのウラジミル・イリッチ(レーニン)が、伝説、信仰、魔術のような言葉、として最早存在せぬようになる時代が来るかを容易く信じ得るものがあろうか。

レーニンは、彼の名を例のメシア的伝道運動とやらに捧げたのだった。

 

レーニン主義マルキシズムの相違

今では、ロシアで共産主義を彼是(かれこれ)云爲(うんい 言動)するものが段々少なくなっている。そうして益々レーニン主義謳歌せんとする勢いである。ロシアには到る処、レーニンの像が普及している。モスクワだけでも大変な数に上る。一言にして謂えば、ロシアではレーニンが基督の代わりとなりつつあるのである。

マルキシズムとはユダヤの法典のタルムッドから生まれたものである。どうしても、それ自身、空論であるのを免れない。それには現代的なパリサイ(戒律主義者)がある。 ―それは、ロシアの知識階級であり、それを嘗て代表したものがレオン・トロツキーその人であった。

マルキシズムとは、要するに、その生活の智識とか、労働者の汗とかを、毫も実際には即せず、唯だ大英博物館の図書堆積の裡(うち)から抽(ぬ)き出して来たところの、或る一人の才気煥発した総合的な頭脳の結論であるに過ぎない。ところが、レーニン主義は、生きた動力の源であって、信仰にまでなっているのである。

ロシアではレーニンが生前定めたコミンテルンの指導方針から離れることを何人たりとも決して許されていない。あの革命の主要な原動者であり、赤軍の設立者であったトロツキーすらもこの鉄則よりはずれては許されっこはなかったのも道理であった。

 

元駐日大使ヨッフェの悲惨なる最後

あの広大もない勢力を揮ったことのあるトロツキーが失脚してから、その最後の演説を、嘗て駐日ソ連大使として時めいたことのある猶太人アドルフ・ヨッフェの葬儀の棺を前に控えて、 ―彼、トロツキーとして、最後の演説をしたことがあった。最早トロツキーの演説と謂えば、非常に警戒されたものであった。吹雪の中で数百の男女がそれを聴いていたが、それは、ただ推理の力を以てしなければ、察知することが出来ない婉曲(えんきょく:遠回し)を極めた政府の方針を批判した箇処(かしょ)が、あればあると判断せられる程度の、常識では先ず無難と考えられた演説であった。

それにも拘わらず、翌日の莫斯科(モスクワ)の新聞には、ただ、「土地租借委員会の主事がその節に簡単な演説したのみであった」と報道されただけであった。土地租借委員会の主事とは!! 何たる職名だ。そうして、トロツキーの名前さえも挙げられなかった!! とは。

ヨッフェは、これより先、トロツキーの味方としてクレムリンに既に睨まれていた。医者が、ヨッフェの生命はサナトリウム生活をすれば、助かると診断した。それで、クレムリンにヨッフェは一千弗(ドル)に相当する金額の融通方を申し込んだが、クレムリンはそれを受け付けず、ヨッフェは右の葬儀の日より二、三日前に幻滅と失望落胆のあまり未だ四十歳の春秋に富む身で自殺したのであった。

 

笑うべき某外国大使のスターリン

スターリンは、ソ連でユニークな存在である。彼は外国の使臣には合わないことを原則としている。或る人が、永いこと、モスクワの外交団の首席をしていた某外国大使に「スターリンとは、どういう人物だろうか」と尋ねたことがあった。その答えは頗る振るっていた。

「自分は何年もモスクワに居た、だが知らない。スターリンには嘗て面会したことさえもない。スターリンは、先ず、そうさね。共産主義のサー・バシル・ザハロフ*だろうよ。」

*ザハロフは、トルコ生まれの武器商人。ヴィッカース社など数々の武器製造業者の代理人として武器取引に関わり、死の商人の代表格と看做されると共に神秘の男と渾名された。

 

スターリンの巧みな外交辞令

これを思っても、わが、松岡外相が、先日、モスクワで、このスターリンと二回までも、会見し、直接忌憚なき意見を交換し、日ソ中立条約を両国間の今更致し方のないイデオロギーの差は別問題として、相互の国交を調整の目的で遂に見事締結したのは、真に破天荒な出来事であった。停車場まで、スターリンが態々(わざわざ)見送ったなど、ソ連としては未だ嘗て先例のないことであった。

これは、松岡外相の手腕もさることながら、全く背後に、畏くも陛下の御稜威(みいつ:威光)がお輝き遊ばされていたばかりか、我国の実力そのものが物を言ったからでもあった。

スターリンは我が松岡外相と同じ六十二歳、外相と遭ったとき、「自分もアジア人だ」と言った。事実、全体から言って、ロシア人の少なくとも半分の要素はアジア人なので、最近はこの点に於いて西欧と異なる特色が具わっていると言う自覚を持ち出したようである。それは、成程、尤もなことである。随って、スターリンも彼が純粋のアジア大陸人であるだけ、何処かそれらしい茫洋たる風貌が有り、トロツキーのような純理を徒に弄し、却って、しまいにはそれがために時々行き詰まりを来たし自縄自縛に陥ると言うタイプとは正反対に、最初から、実際政治家として終始し遂にソ連で最も傑出した最重要な人物となったのは、さこそと首肯(うなず)かれるのである。

しかも彼には深淵のように奥底の知れない吸引力なり神秘的力なりが備わっている。これが、彼をして、一九二四年にその最大の敵手トロツキーを、まんまと、追い出し得た、抑もの原動力となったようでもある。危険極まるマルキシズムの純理に何とかして徹底しようと、もがきにもがいた、あのトロツキーの代わりに、こうした、より穏健な実行家的タイプのスターリンが、レーニンの後継者となったのは、彼に於いて従来の対日外交又は対日敵性発揮に於いて、遽(にわ)かに我等の寛容し難い点が少なからずあるとはいえ、大局から考えて、太平洋頻(しき)りに波騒がしくなった今日の日本の勿怪(もっけ)の幸いでもあるし、世界の安危の上でも、可成り意を安んじ得べきところがあるのである。ただ我等が注視しなければならぬのは、ソ連の今後の対日誠意が日露間の諸懸案に如何に先ず現れるかであろう。

若しトロツキーレーニンの政権を襲って(継承して)いたなれば彼には猪突あるのみで、反省はないのであるから、今日戦われつつある独伊対英(米)の戦争の相貌そのものもそれだけ比較的異なったところが生じていたかも知れない。

或いは、今頃は仮定されたトロツキー治下のソ連ありては、下手に英仏に加勢して、或いは露国自身が戦いの口火を切って、先ずドイツの猛攻により疾く(とく)に今日のフランスに近い状態になっていたかもしれない。スターリンは、トハチェフスキー事件から多大の教訓を得たので、英米のマソンの煽動には毫も乗らず、現時の國際政局に処して、フィンランドに多少手を焼いたほかは、終始、最も賢明な平和態度を持続し、殆ど手を濡らさずしてポーランドの分割に与り、その西欧に於ける国際的地位を大いに高めるを得たのは、慥(たし)かに、非凡な政治家と謂わなけらばならない。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」11

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

第七章 ソ連コミンテルンの真相

 

怖るべきシオンのプロトコールの実現

一八九七年(明治三十年)バーゼルで開かれた第一回シオン会議の議事録*を読んだ人には、二百年来、英国の指導して来たフリー・メーソンこそは、ドイツを第一次大戦の結果あのような動きのとれぬ窮地に陥れた次第や、英国のフリー・メーソンが全力を尽くして米国を同じ世界大戦に誘い込んだ次第、はては、ウィルソンの平和条件の十四箇条なるものは、実は、フリー・メーソンの目的に応わしい様に作成されたこと、カイザー打倒の目的を達するや否や、ドイツ人を扇動して彼等自身が残れるドイツの王侯をば一切放逐させる方法を執らせ、それにも甘んぜずして、こうしたドイツの革命をば、やがて、猶太人自身のドイツ乗っ取りまで発展させた次第、一方、如何にして露国革命を企図し、ツァーの帝國を顛覆(転覆)し、猶太人の露国を実現せしめたかの一切の予定されたる筋書きを直ちに感知し得るであろう。

 *所謂「シオン長老の議定書」のこと。

プロトコールの内容

即ち右のプロトコルは、

(1)世界戰爭の誘発、

(2)オーストリアハンガリー、ロシア、ドイツの帝政の覆滅、

(3)共産主義を奉ずるフリー・メーソンの結社員が各国に混乱を醸生して、それぞれの国に猶太人の天下を天下を建設すること

等々の目的を達せんことをすでに議決していた。

我等猶太人は国家に「自由」なる毒薬を注射し終わった今日、既に各国は、壊血病に侵され危篤の状態に瀕している。間もなくその臨終の時が来るに違いない。我等猶太人は掌中にある黄金の力と、容易で隠密のうちに働かし得る我等の結社の力、その他あらゆる可能な方法で、一般的に経済上の危機を醸成することに努めて、ヨーロッパ各国の労働者全部を街頭に抛(ほう)り出してやろう。さすれば、馬鹿正直なこれらの群衆は、幼時から嫉んでいた者達の血を流そうと狂奔して、到る処に馳せ走り、人々の財産を掠奪することになるだろう。

自由とか平等とかいうものは元来服従を規定する天地の法則に背くものだが、四海同胞主義を表看板に、無知の大衆を釣り、その実は不平等な扱いをしてやればよい。一体、人民などに宗教などを与えるのが抑も間違いのもとだ。特に非猶太人の頭からは、神とか、民族とかの苟くも統一の憂ある精神を取り去り、その代わりに全然打算的な物質上の欲求のみを残すようにしなければならない。そうすると、我等猶太人の指導者は国政を無事に保持することが出来る。

非猶太人に、こうした我等の意図を気付かさせないように、又考えめぐらせないように、彼等の頭を商工業の利益問題にのみ熱中させて他を省みないように仕向けなければならない。皆を我利我利亡者にしてしまえば、彼等共同の敵は誰なるかに就いて、一向に気づかなくなるであろう。工業はすべて投機的基礎に置くがよい。そうすると、工業の株式の投機的争奪に非猶太人等は血眼になるに決まっている。

その挙句の果ては、肝腎の工業の実質そのものは我等猶太人の手にこっそり渡ることになる。これが非猶太人の社会を徹底的に破壊し堕落させる妙案である。

非猶太人に黄金崇拝の観念を折角植え付けるように努める。黄金の齎(もたら)すところの物質的快楽のみを追求させるようにする。そうすると善に仕えるというよりも、また富を蓄積すると言うよりも、単に特権者に対する憎しみから、非猶太人の下層階級なるものは、我等猶太人に追随して、現在、我等を虐げている権力上の競争者である非猶太人の上流者に自然反抗して行くことになるではないか。かくすると、富は巧妙な奸計の助けのみで得られることとなり、社会の放縦は盛んとなり、道徳は精選された原則などにはよらなくて、ただもう峻烈な懲罰と冷酷な法律でのみ維持されることとなる。

彼等は祖国の伝統的な観念や宗教などをコスモポリタニズムですっかり忘れ去ってしまう。かくして、我等猶太人は、社会一切の勢力を掌握するため、特別な形式の中央集権を創設し、我等に不満を懐いたり、反抗したりする非猶太人をいつどこでも膺懲(ようちょう:こらしめること)することが出来る偉大な専制政治を布き得るに至るだろう。民衆の輿論に対しては、態(わざ)と各方面から彼等の迷うような色々の反対論を主張して、「政治問題に就いては別に意見らしいものを持たない方がよい」と思う位に、輿論を迷路に立たせるがよい。

政治などは一般の人々の知る必要はない。指導する者ばかりが、承知して居ればよいことだ。是が大衆を治める第一の秘訣である。次には個人的独創性を無力ならしめるがよい。自由の行動は、他の自由とぶつかって、相互の力を衰退させる働きしかない。そのために重大な精神上の打撃や、失望や失敗が頻々(ひんぴん:しばしば)として起こるのが必定だ。

非猶太人を疲弊させるにはこの方法が一番だ。しかも、自由は結局毒薬であることを利己主義で目を掩われた彼等は悟り得ないから占めたものである。かくて、非猶太人は否でも応でも、我等猶太人に最高政府を国際的に建設し得る主権を提供せざるを得ないことになる。尤も外交に関しては、巧妙な辞令を以て、逆戦術を執り、正直で従順であるが如く装うがよい。外交家の言葉と行動とは一致してはならない。経済的危機とは、我等猶太人が、時々その欲する貨幣を金融界から取り上げんがために非猶太人を対象として作ったものだ。我等猶太人は強烈な名誉心、燃えるが如き所有慾、劇(はげ)しい復讐心及び憎悪を抱いて居る。

猶太人に依って、世界が統一された暁には、非猶太人に取って「自由」も、「権利」もなくなることは当たり前である。我等は絶対的盲従を強いるため、恐怖政治を布かせねばならぬ。労働者には、労働(賃金)の増加を要求させるが、労働者は却ってそれがために大損をすることになる。なぜなれば、我等猶太人は同時に、生活必需品や日用品の価格を騰貴させてやるからである。

フリー・メーソンの本当の仕事を指導するのは我等猶太人の外にあってはならぬ。猶太人のみが結社の真の目的を知っているのであって、非猶太人はたとい結社に入っても、全く結社の本旨を知らずして経過させるがよい。フリー・メーソンの結社の刑罰は、我等の仲間以外には、その当人さえも、自然の死によって死ぬものだと思うようにして実行するのだ。

実に戦慄すべき内容を持ったプロトコルではあるまいか。固より以上はその大要に過ぎない。

 

プロトコールはなぜ伝わったか

これは元来、露国政府がバーゼルで第一回シオン会議が開かれた際、ペテルブルグの某省の首脳者を密偵として入り込ませ、それが、猶太人幹部の信任を博しているある男を買収して、会議終了後、そのプロトコールをフランクフルトの結社のクラブに届けることを知り、この使者が途中宿泊した折、筆記者数名と共に一晩の中に写し取られるだけを摘録したので、今に伝わることになった。

即ち、露国政府は、この仏文をば、セルゲイ・ニルスと言う男に翻訳させた。それが一九〇二年露訳第一版として公刊されたから、この議定書の内容が今日明らさまとなった次第である。これはたしか第四版まで重ね、今一つの別訳さえ出たと言われる。だから、このプロトコールユダヤ人の主張する如く決して偽物ではないとのことである。ケレンスキー内閣当時、この露訳が没収され、レーニン治下にありては、その一部でも持って居たことを発見されたものは忽ち死刑に処せられたと言う。要するに、バーゼルプロトコールで定められた指導方針によって、あの露国の革命は遂に達成されたのであった。

 

レーニン以下の革命運動

レーニンその人は、本名をウリヤノフ・ツェーデルンボーム(ゼーデルンバウム)と称するが、大戦前から夙にスイスのあるフリー・メーソンの秘密結社に属して居た。勿論、トロツキー(本名ブロンシュタイン)やラデック(本名ゾベルソーン)もレーニンと同一の結社員であり、組合の世界革命の企図に孰(いず)れも参画していた。

猶太民族はロシアの革命運動に於いて当初からその主役を演じ、殆ど最後の仕上げまで右運動の指導を引き受けたのであった。一九一七年(大正六年)ツァーの政府はその神経過敏な不徹底極まる方針のため、最早、抜き差しもならぬ状態に陥ってしまっていた。

 

二月革命ケレンスキーの臨時政府

斯くて革命党派によって煽動を受けて興奮した大衆は政府軍に対し血腥(ちなまぐさ)い抗争を挑んだ結果、両者の衝突となり、ツァーの限られた軍隊は遂に脆くも降服するに至った。ために一挙にして、さしもに偉大を誇ったツァーの支配権は解体してしまった。

臨時政府がそこで国家の管理を担当し、次いで間もなく例のケレンスキーがその総理となったものの、未だ猶太人の指導した急進党はその政府に於いては代表されて居らなかった。実は狡智に長けた猶太人は、態(わざ)と、これに加わることを差控え、チャンスが到来し次第、改めて政府の全面的権力を掌握しようと虎視眈々と事局の発展を静観していた。

この間にも、到る処、彼等猶太人の指導の下に労働者や兵士の会議が結集され、着々と勢力の扶植(ふしょく)を見、これらの組織は、間もなく臨時政府より強大なものとなり、凄まじい権力を彼等自身左右するようになった。

 

ボルシェヴィズムの台頭

そこで、機は正に到れりとて、これらの会議の背後に、始めてボルシェヴィズムの恐ろしい姿が頭角をあらわすことになった。というのは、一九〇三年(明治三十六年)以来、ロシアの社会民主党は、過激派のボルシェヴィキ(元来は多数党の意味)と、穏和派のメンシェヴィキ(元来は少数派の意味)との二派に分裂してしまった。

而して上に述べた一九一七年の二月革命が勃発して当座と言うものは、ボルシェヴィキ派の重立った幹部連は孰れも外国にいた。彼等は海外で愈々ロシアの帝政が瓦解したことを耳にするや、皆争って故国に馳せ帰った。スイスからは御大レーニンのお伴をしてジノヴィエフ、ラデック、ソコルニコフ、ローゼンブルム、アブラモウィッチ、ヘレーネマン、ゴーベルマン、シャイネスゾーンの手合いが、アメリカからは、トロツキー、シベリア方面からは流謫(るたく:島流し流罪)中のカーメネフ、ヤロスラウスキー、ウンシュリフト等の輩が、驚破(すわ)こそ我が世の春至れりと雪崩を打ってロシアへと帰来した。

そこで、彼等は前から本国にあった猶太系ボルシェヴィキ派の指導者であるスウェルドロフ、ウリツキー、ヨッフェ、ゴロシュチェキン、グーセフ、コロンタイなどの面々と一緒になったのであった。この時、純粋のロシア人として彼等に参加したのは、スターリングルジア人)、モロトフ、ルイコフ、ブハーリン以下の人々であった。

 

十月革命なる

御大のレーニンは少なくとも二十五%だけは猶太人と認められている。何となればレーニンの母方の祖父であるアレキサンダー・フランクはソヴィエトの猶太人の仲間では改宗基督教に属する猶太人と考えられていたからである。事実、フランクと言う名前は、とりわけ、露国では猶太人に珍しくない名前であるからである。のみならず、レーニンの親猶態度は誰も知らぬものはない事実である。同年四月十七日、レーニンは全革命党会議の席上でその第一回の革命煽動演説を行った。

七月に彼等の形勢が益々不穏となり、棄てては置けぬので、その首魁(しゅかい)と認められたトロツキージノヴィエフカーメネフ等が捕縛されるに至った。ボルシェヴィキ派は、同年十月二十三日はケレンスキー内閣に公然闘いを挑み、クーデターの決議を行った。

そうして暴動の指導者として七名の政治局員が任命され、就中、トロツキージノヴィエフカーメネフ、ソコルニコフの四名は孰れも猶太人で全体の過半数即ち絶対多数を占めていた。かくて、十一月七日、八日には遂に臨時政府に最後の日が訪れ、各大臣は逮捕され、総理のケレンスキーアメリカへ亡命した。遂に猶太のボルシェヴィキがロシアの政治の実権を握るに至った。これを十月革命と一般に言っている。

 

革命の主導者トロツキー

この国家草創の時代に当たり、赤軍建設に主として力を注ぎ、又政治そのものにその信条とする社会主義の理念に基づき、整然たる体系を与えたのは、何といっても、トロツキーの功であった。レーニンの下にありて、終始、事実上の十月革命を指導したのも、トロツキーその人であった。この間に、ツァーは、一九一八年七月一日その流謫地(るたくち:軟禁先)エカテリンブルグでソ連政府差し回しの猶太人ヤンケリュローフスキー外十六名(加害者の猶太人は全部で女とも十四人、外にロシア人一名、ラトヴィア人二名)の手で、皇后、皇太子、皇女二名と共に遂に兇弾の犠牲となってしまった。

レーニン時代は猶太人は依然圧倒的に、ソ連国家及びコミンテルンの最高の地位を占めていた。ところが、レーニンが、一九二四年歿するや、間もなく烈しい内部的葛藤が持ち上がった。それは、要するに、トロツキーを御大とする猶太人の幹部達が相かわらず、優先的地位を占むべきや否やにその闘争の焦点が懸っていた。

 

十月革命の責任幹部

顧みれば、一九一七年十月革命の責任幹部は左記のものから成り立っていた。

レーニン(四分の三はロシア人)  スウェルドロフ(猶太人)

トロツキー(猶太人)            ウリツキー(猶太人)

ソコルニコフ(猶太人)          スターリンジョージア人)

ジノヴィエフ(猶太人)          ジェルジンスキーポーランド人)

カーメネフ(猶太人)            ブブノフ(純ロシア人)

こういう顔触れであった。

 

レーニン死去二年前の幹部の色別と死後の確執

ところが、レーニン死去の二年前の政治局員七人の種族別は左記のとおりである。

ロシア人三名    猶太人三名  非ロシア人一名
猶太人の絶対多数の立場はなくなり、剰(おま)けにレーニンは既に実際の政治界には最早退隠していた*。

*レーニンの死因は脳梅毒と言われて居り、その発症後は最早政治的活動が出来なかったのではないか?(燈照隅の推測)

それで、結局左記の四人が孰れもレーニンの後釜を狙って争うことになり、レーニンの死後、それが白熱化するに至った。

トロツキー(猶太人)

ジノヴィエフ(猶太人)

カーメネフ(猶太人)[註、カーメネフの妻君はトロツキーの愛妹であった。]

スターリンコーカサスジョージア(旧グルジア)出身)

これは結局、トロツキースターリンとの勢力争いになってしまった。

 

チャーチル英首相のトロツキー

これに関しては、現英首相チャーチルの一九三〇年頃に認(したた)めたと言うトロツキー評が却々(なかなか)面白く書けているから、その主要なところを爰(ここ)に掲げてみよう。

 

「レオン・トロツキー(又の名ブロンシュタイン)

ロシア、あのトロツキー自身のものと謂ってよい赤きロシアは、他の物を苦しめ、また、彼自身への危険をも省みず、彼が心の欲するままに組み立て、形づくったものなのに、到頭、彼トロツキーを追い出してしまった。

一切彼が切り盛りした陰謀より出発し、一切彼が敢行し、一切彼が書き上げ、一切彼が演説をなし、一切彼が残虐を犯し、一切彼が成就した仕事であったにも拘らず、遂に、こういう結果になってしまった。今一人の仲間、革命の階級では彼の下僚であり、犯罪の上では必ずしもそうではなかろうが、智慧の点では彼より劣るものが、今やロシアを治めている。しかるに、往日は、一度彼が渋面を作らんか、何千人と言うものに死を与え、意気揚々としていた彼トロツキーが、失望の身となっている。恨みの塊りも同然 ―骨と皮ばかりとなって、一時は黒海の岸の暗礁に乗り上げ、今やメキシコ湾に漂着の身分となっている。

だが、このトロツキーは普通とは趣のかわった却々(なかなか)の気六(きむず)かしい男であったに違いない。トロツキーには、ツァーが気に入らなかった。それで、彼はツァー及びその家族を殺戮してしまった。トロツキーには帝政ロシアが気に入らなかった。それで、彼はその政府を吹き飛ばしてしまった。

トロツキーにはグチコヴやミリューコヴの自由主義がきにいらなかった。それで、彼は彼等を押し倒してしまった。

トロツキーには、ケレンスキーやサヴィンコヴの社会革命主義の低温さが、とても、堪えられなかった。それで、彼は彼等の地位を奪ってしまった。彼がロシア全国に亘り一生懸命に努力して勢力を扶植し作り上げたところの共和主義政権が遂に樹立され、プロレタリアの独裁権が最高の地位を占め、社会の新しい秩序が夢想から現実へと転換し、個人主義時代の憎むべき文化や伝統が根絶され、秘密警察が第三インターナショナルの従順な下僕となり、一言にして謂えば、彼のユートピア(理想郷)が成就された暁に於いてすら、彼はなお不満足であった。

トロツキーはそれでもなお頭から湯気を上げる位、ぷんぷん怒って、吼えたくり、罵り、噛みつき、只管これ陰謀ばかりを道楽としていた。トロツキーは金持ちに対抗させて貧乏人を引き上げてやった。トロツキーは貧乏人に対抗させて鐚(びた)一文無しの者を引き上げてやった。トロツキーは鐚一文無しの者に対抗させて、犯罪人を引き上げてやった。すべてのものは、彼の意図した通り、すっかりその地位を失ってしまった。

それでも猶(なお)人間社会の悪徳と言うものには新しい笞(しもと:鞭)が必要であった。一番深い底で、彼トロツキーは、死に物狂いの根気を以て、より以上深いものを求めんとした。だが、可哀そうに、トロツキーは遂にどうしても打ち破れぬ底つ岩根(岩盤)に達してしまった。

共産主義者の犯罪人居階級よりも下のものはどうしても見つけることが出来なかった。

彼はその眺めを野獣に向けて見たが、駄目であった。猿たちには彼の雄弁の真価が解らなかった。彼の施政中に著しく数を増したところの豺狼(さいろう:やまいぬとおおかみ)をば彼は入用に望んで動員することが出来なかった。そこで、彼トロツキーが折角取り立てて役を付けてやって置いたところの犯罪人共は、寄り集まって彼を邪魔になると遂に除け者にしてしまった・・・。

だから、彼は止むなくメキシコへ亡命した・・・。恐らく、トロツキーには肝腎のマルクスの信条そのものが未だ嘗て合点が行かなかったらしい。

だが、彼の一生がそのままマルクスのあらゆる説の稽古台を勤め上げた点では、トロツキーは真に他に比べるものもない立派な先生だ。トロツキーはその稟性(ひんせい:生まれながらにそなえている性質)中に公民権を破壊する術にとり必要な特質を悉く具備していた・・・。

同情は薬にしたくも無く、人間としての血族関係の如何なるものかの感じも無く、霊的なものの真価を知ろうとはせず、ために、実行に対する彼の高度で倦(う)むことを知らない能力を却って弱めるに至った。癌のバチルス*(細胞)の如く、彼は成長し、食を取り、人を苦しめ、人を殺し、その稟性(ひんせい)を欲するがままに充実せんとしている。

*ここでは本来のバチルスの意味ではなく、癌細胞の意味でつかわれていると思われる(燈照隅の解釈)

トロツキーには共産主義の信仰を同じく持って居た糟糠(そうこう)の妻*があった。彼女は彼の側にありて働き且つ計画をめぐらした。ツァーの時代に、この妻は、シベリアへの流刑にトロツキーと行を同じうした。彼女はトロツキーのために数人の子供を産んだ。彼の女はトロツキーの逃亡を助けてやった。しかも、トロツキーは彼女を棄てて省みなかった・・・。

*糟糠の妻:貧苦の時代から苦労を共にして来た妻

トロツキーはその母のことについては冷淡な少しも曖昧のない言葉で語っている。

トロツキーの父のブロンシュタイン爺さんは、一九二〇年(大正九年)に八十三の齢でチフスに罹って死んだ。しかし、彼の息子の最も得意な全盛時代にありても、それは、この正直で刻苦勉励した神を信ずる猶太人には何等の慰労をも齎(もたら)さなかった。

ブルジョアだと言って赤い思想の人には迫害されるし、トロツキーの親爺は彼奴さと言われれば白系ロシア人には睨まれるし、揚句の果てには、当の忰(せがれ)に全然見捨てられる目に遭うし、ロシア名物の洪水には浮き沈みのままに任せられるし、その生涯を終えるまでただ苦闘あるのみであった・・・。トロツキーは野心満々であった。その野心と言うのは世俗に言うそれと少しも変わりはなかった。彼には世界中のあらゆるものが自分の手許にころがって来たが、それでも猶、彼の病的になり致命的になったところのエゴイズムから彼を救うことは、どうしても出来なかった。トロツキーに取っては、プロレタリアート独裁ということは、無条件の服従を意味するのであった。

呻(うめ)いて働く大衆、労農ソヴィエト会議、カール・マルクスの福音とか、それへの敬仰(けいぎょう)とか、果ては、ソヴィエト労農社会主義連邦とかは、すべて、彼にとりては、たった一つの言葉、即ちトロツキーと綴られてあるかのような気がした。これが遂に面倒を醸すようになった。仲間のものが彼を嫉視(しっし:妬みの目で見ること)するようになった。仲間のものが彼に疑念を懐くようになった。

名状し難い困難と危険の間に、彼自身が改造したところの露国陸軍の首領として、トロツキーはロマノフ家の空いた玉座に今すんでのことで滑り込むばかりになっていた。新しい模範軍隊の将校や兵卒はロシアの他の何人よりも、上等な食物を給せられ、結構な衣類を着せられ、立派な待遇を与えられたのであった。何千と言う旧ツァー政府の将校が続々とトロツキーの蜜のような甘い口車に乗せられて戻って来た。

「政治なんか糞喰らえ。軍こそはロシアを済(すく)うものだ」
この挨拶が復旧された。
階級や特権の徽章が元通り使用されることになった。

司令官の権威が昔通りに押し樹(た)てられた。軍の高級の指揮官は、この共産主義の成り上り者によって、ツァーの大臣達からは決して受けた経験のない保護を以て熱く待遇されることになった。それで、一九二二年には、このトロツキーの個人的に発揮した好意ある態度や制度に対する感激と言うものは非常なものであり、彼は軍の総意により全露の独裁官として立派に収まりかえることが差支えないように見受けられた。

ところが、トロツキーには、たった一つの致命的な障碍(しょうがい)が存在していたのであった。それは彼が猶太人であったことであった。彼が依然猶太人であったことであった。何物もその障碍を突破するわけには行かなかった・・・

して、この彼の越え難き猶太人だという不幸は、打ち続いて、それよりも遥かに大きい不幸を齎(もたら)したのであった。失望のすぐ跡を追って破滅が薄気味悪く迫った。

なぜなら、この間にも、仲間のものは決してじっと傍観をしたままではいなかったからである。仲間の者にも、将校達が、どんな話をしあっているかが、ちゃんと、耳に這入ったからである。彼等とてもロシアの国軍が旧き要素から再組織さるべき可能性を見て取ったからであった。だが、レーニンが生きていた間は、差し迫らんとする危険は遠いもののように見えた。事実、レーニンは革命の最大元勲であったトロツキーを彼の政治的後継者と見做していた。ところが、一九二四年(大正十三年)レーニンが他界した。

トロツキーは、依然、忙しく彼の軍を統轄し、依然、行政の実権を握り、依然、かのニコライ二世に対し往年、鳴り響いていたところの喝采と同じ喝采に迎えられていた彼自身であった筈なのに、いつの間にか、彼に対し、組織されるに至ったいと手剛(てごわ)い、早や充分に鍛えに鍛えられている反対党の存在していたのに、面を向けさせられた。

ジョージア人のスターリンは謂わば政府機関の書記長とも称すべき地位にいた。スターリンコミンテルンの幹部の秘密会議を支配していた。数知れない委員会の牛耳を執っていた。スターリンは辛抱強く、すべての糸と言う糸をば我が手の中にたぐり集めた。その意図に明瞭な見透かしをつけて、それに従って、すべての糸を引っ張り込んでしまった。トロツキーが我が物顔に洋々たる希望を輝かせて、真に自信たっぷりで、レーニンの相続権を受け取ろうと進み出たところ、党の機構と言うものが、全然違った方向へと、作用して行くのを発見した。

共産党の活動の純然たる政治領域に於いては、トロツキーは、電撃的に計略の裏をかかれているのを知った。トロツキーは“反レーニン主義”の彼の大量な文書の若干を証拠に告発を受けた。トロツキーは正直に彼の異端な見解を持って居るのを認め、何が故に彼をしてそういう風にさせるようになったか、極めて辻褄のよく合った理由を滔々(とうとう)と熱烈に軍人や労働者に説明を試みた。

トロツキーの堂々たる意見の発表は空疎な驚駭(きょうがい:驚愕)を以てしか迎えられなかった。ゲー・ベー・ウーは動かされた。苟も、トロツキーの恩顧を被せているものと取り沙汰された将校はすべてその官職を剥奪されてしまった。

嵐の跡の静かな緊張の期間が過ぎたかと思うと、トロツキーは休日を取るように勧められた。スターリンはこの成功を利用して一層大なる成功を築き上げるに至った。政治局は、かくて、彼のレーニンの魔力もトロツキーの圧力もないことになったので、その残存せる実勢力の要素をば、引続いて清掃されることになった。

ロシア革命をこしらえ上げたところの政治家は、すべて、免職に処せられることになった。彼等は、すべて、党のマネージャーによって、懲(こ)らさせられ、あく抜きをさせられ、挙げ句の果ては、すっかり無気力なものにさせられてしまった。

コミンテルンの秘密幹部会が内閣をば、すっかり薬籠中のもの*にしてしまった。そうしてスターリンをその元首としての現在の如き露国政府が成り立ったのであった。」

*薬籠中のもの:手なずけてあって、自分の言うことを忠実に聞く手下や部下のこと。 

 

チャーチルトロツキースターリンとの間の確執の顛末を活写した以上の如き名筆は恐らくそれ自身不朽のものであろう。そこには若干の誇張も言い過ぎもあるであろう。若干の真相を取り違えた点もあるであろう。だが、それは、彼の特殊の地位に居って収拾し得た豊富な粗材を基として、彼一流の透徹した見識を以てここまで兎に角描写することが出来たのである、その大きく狙った見当は依然毫も外れていない。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」10

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

猶太人の英国に於ける活動―其代表的人物

あの十七世紀から十八世紀にかけての英国の海外発展には、それであるから、ユニオン・ジャックの旗の下に多数の猶太人が出掛けて行って、印度南ア等にその素晴らしい植民地を造り上げたのであった。それが如何なる方法によったか、記すも筆が汚れる位である。印度を遂に英国の手に収めてしまったあの辣腕家のクライヴ、あれは、紛れもない猶太人であった。こういう関係上、あの南ア・トランスバールのダイヤモンド工場の如きも今に英国系の猶太人の所有になっている有様である。

英国のヴィクトリア朝のあの「偉大なる老翁」と称せられた自由党の政治家グラッドストーン(一八〇九-九八)はリバプールの猶太人商家の出身であるし、それと、相対抗して一八七四年から一八八〇まで保守党の領袖として首相の印綬を帯びたディズレイリ(ビーコンスフィールド伯)の如きも、矢張り猶太人であった。英国での最初の大審院長で、後に印度総督、更にマクドナルド内閣に自由党を代表して外務大臣となったことのあるレディング侯(本名:ルーファス・アイザック Rufus Daniel Isaacs)も矢張り生粋の猶太人である。

それから、あの満洲事変や上海事変で日本を制肘(せいちゅう:脇からいろいろ干渉して、自由な行動を妨げること)すべく種々暗躍したことのある駐支英国公使ランプソンも猶太人である。それから日支事変で同じく敵性を盛んに発揮した前駐支英大使ヒューゲッセンの猶太人であったことも隠れもない話だ。

嘗て、英国外相であったサー・ジョン・サイモンや英国の現外相であるイーデンも矢張り猶太人である。殊にイーデンは、この間までソ連外務人民委員として羽振りがよかったが、今は全く失脚しているリトヴィノフの義弟だと言うのだから興味がある。

また、独英間に大戦突発直前まで駐独英国大使であったサー・ネヴィル・ヘンダーソンも猶太人。初代の国際聯盟の事務総長故サー・ジェームズ・エリック・ドラモンドも同じく猶太人であった。聯盟が最初から猶太化していることは、これだけでも判然するであろう。英仏等の猶太人は聯盟によりてシオンの理想を実現せんと如何にも夢想したらしいが、今ではその夢が完全に打ち破られている。英国の前首相チェンバレンは五〇パーセント猶太人である。何となれば彼の母系ハーベンから猶太の血統を受けているからである。のみならず一説に拠れば現英首相ウィンストン・チャーチルその人でさえ猶太人であるとも謂われるが、これは、チャーチルの熱心な親猶者なることが、恐らく誤り伝えられたのであろう。チャーチル自身は猶太人ではないようだ。

陸相で嘗ての軍備拡張論の急先鋒であり、今は下院議員で現イーデン外相の最近のバルカンに於ける措置は全然失当であったと攻撃をしたと言うホーア・ベリシャ*自身も同じく生粋の猶太人としてあまりに有名だ。それから、英国経済顧問のリース・ロス**や英蘭銀行総裁のモンターギュ・ノーマンなど英国財政界の利けものも矢張り猶太人として知られている。

*レズリー・ホア=ベリシャ(Leslie Hore-Belisha)

**フレデリック・リース=ロス(Frederick Leith-Ross)

その他、一々挙げたら際限は無いであろう。それほども、英国の知名の人士に猶太人が多いのである。既に言ったが、あのフランス大革命を遂行した原動力はフラン・マソンであった。あの絶世の美人と聞こえた女王のマリー・アントワネットはマソンの命令で断頭台上の露と果敢なく消えたのであった。

 

マソンの世界的魔手

一九〇五年スペインの先ごろ亡くなられたばかりのアルフォンソ十三世の暗殺を企て、未遂に終わったが、その犯人はマソン関係者であった。このアルフォンソ十三世はその後、スペインマソンの脅迫により国内にいたたまれぬことになり遂に廃帝となられた。明治四十二年の十月には時の枢密院議長伊藤博文は露國行の途次、ハルピンで朝鮮人安重根のため暗殺された。これは日露両国間の国交調整を障(さまた)げんとした露国猶太系マソン結社員の使嗾(しそう)によって決行されたものであった。

若しそれ、セルヴィアの青年ガブリロ・プリンツィプなるものが、マソンの差し金で、一九一四年(大正三年)八月墺國皇太子フェルディナンド及同妃殿下をサラエヴォで共犯の猶太人チガノウィチ(シガノヴィチ)から渡された拳銃で暗殺したことは第一次大戦の口火となったことは、あまりに有名である。

セルヴィアの法廷で、現場で捕らえられたこの両人の犯人を調べたところ、それは猶太勢力下にあるフラン・マソンの結社の陰謀によるものなることが、明瞭に判った。しかも、これより先、二か年も前の一九一二年(明治四五年)五月三十一日に、セルヴィアの首都ベオグラードで開催されたセルヴィア・フラン・マソンの最高会議で墺國皇太子暗殺の件を決議されたものの(この暗殺は、元来、同じ一九一二年にフランス・グラン・トリアンにてそれから先に決議され、セルヴィアのマソンへとその旨移牒された結果と言われる)、適当の下手人が見付からなかったため止むを得ず一九一四年まで延期されたものと伝えられているから、彼等の計画の却々(なかなか)に周到で遠大なるには今更驚くの外はない。

 

世界共和国建設とフリー・メーソン

フリー・メーソンが世界共和国の建設を目論んでいることは紛れもない事実である。しかも、それは、あのパリに於ける一八八九年(明治二十二年)七月十六日と同十七日とに掛けて催された第一回萬國フリー・メーソン会議、これはフランス大革命壹百年記念として開かれたものだが、その会議で、アメリカの副大統領フランクリンがフリー・メーソン会員として親しく臨席、左の演説を行ったのでも明らかである。

「各国は君主政治及び宗教の没落する日が、来るであろう。

その日の到来も最早遠からざる将来である。吾人は、この日を只管期待しているのである。

この日に於いて、フリー・メーソン的四海同胞の実が挙げられるであろう。

これ、即ち、吾人の将来に対する理想である。この日の一日も速やかに来たらんことを努めるのは我等の責任である。」

フランクリンは実にこのように絶叫したのである。これが後々のフリー・メーソンの指導精神と何処までもなったのであった。

 

エスペラント語とマソン

それから越えて一九一三年(大正二年)の八月二十五日乃至三十一日を以てスイスのベルンにエスペラント会議が招集された ―元来、エスペラント語なるものは露国系の猶太人ザメンホフ博士により創作されたものであって、その目的こそ猶太人の世界統一を容易にするため、この人造世界語を全世界に普及せんとするにあった―この絶好の機会を利用してフリー・メーソン世界同盟が創設せられる運びとなり、同時にエスペラント語を同じ同盟が使用すべき世界語として議決した。

如何にフリー・メーソンは周到な用意を以て、我が日本に働きかけようとしたか、これにてもよく判るであろう。エスペラント語を利用してマソン組織を同時に日本へ植え付けようとまで計ったのであった。

 

フリー・メーソンと猶太要素

これより先、猶太人のフラン・マソン社員グスターフ・カルペレスは一九〇二年にこう明言している。

「フリー・メーソンの思想は、猶太主義から出たものである。

イスラエルの最も高貴な花であるソロモン王が、その創設者と目されている。

その風習の大切な部分は、ソロモンの殿堂と関係があり、その言葉や記号は、大部分ヘブライ語から取ってある。」

あの歴史的に相当高いトルコの青年トルコ党なるものは全然フリー・メーソンの社員から成っているのである。それだから、今次の大戦でも、英国のこうした隠微(いんび)な息のかかっているトルコの向背(こうはい:敵か味方かの成行)は枢軸側に少なからず問題となって居るわけである。

イタリアも一時はフリー・メーソンの巣と言うべき処であったが、今やムッソリーニ首相の果断でそれは完全に退治せられ、イタリアの国礎は往時に比し盤石の重みを加えるに至ったのは慶(けい)すべきである。英国ではフリー・メーソンの結社員の五分の一は猶太人で占められている。英国にありては、「誰がフリー・メーソンの社員か」と野暮な問いを発するよりも「誰々がフリー・メーソンの社員でないか」と聞く方が、寧ろ手取り早いと言われる程フリー・メーソンは普及しているのである。

事実、少しでも名の知れた英国の人物であれば、殆ど例外なしと言ってよい位に、フリー・メーソンの結社に加入しているのである。あの有名なロンドンのタイムス社の入り口の上には、公然と、例のフリーメーソンの三角定規とコンパスのぶっ違いの徽章が掲げられて居るくらいである。

英国の新聞アイ・ウィットネスの記事として、嘗て、こう断言したのさえあった。

「今日、英国に於ける猶太人の地位は如何にと言うに、猶太人が、秘密結社のフリー・メーソンで占めている地位を見れば、一番はっきりと判る。」

 

フリー・メーソンとコミンテルン

英国のフリー・メーソンは英国では決して謀叛を企てない。その代り、常に世界的に大規模な政策を施すのを忘れず、これが目的達成のためには、決して手段を擇ばないのである。

随って、その主義として、外国における謀叛と見做すべき運動には、すべて、指示を与える方針なのである。この点、英国のフリー・メーソンは、コミンテルンに敢えて劣らぬ陰険ぶりを発揮するのである。しかも、英国政府自身が、いつも、チャンスさえあれば、フリー・メーソンの理想を実行しよう時としているのであるから、油断がならないのである。

日支事変に英国が公私ともあらわしている日本への敵性発揮などは、あまりに露骨で、何人も呆れる位なのである。

この英国のフリー・メーソンは世界中でも一番鞏固(きょうこ)な組織を持って居る。それもその筈である。現在、英国聯合フリー・メーソン大組合の大棟梁こそは、誰あろう英国の故エドワード七世の弟君に当たらせられ、一度日本へも来朝されたことのあるコンノート大公殿下その人なのである。エドワード七世ご自身は、別段、表面上、フリー・メーソンの高級社員ではあらせられなかったが、フリー・メーソンの内情には非常に精通遊ばされていた。

元来、英国の国王陛下は、一六八九年以来、政治上の実権とてはお持ちにならぬのを例として来られたが、エドワード七世は、事実上、フリー・メーソンの隠れた長(おさ)として、英本国の上下に本当の御勢力を持っておられたのであった。だから、一九〇二年のフリー・メーソン・クロニクルには、

「英国が今日の大をなしたのは、全くフリー・メーソンの功績である。」

自画自賛して居るくらいなのである。

英国は、フリー・メーソンの組織を何処までも隠微の中に活用するに努力し、他国内の動乱を進んで助長してやったり、謀叛を計るものには、その目的のためには、豊富な資金を惜しまず供給して来たのであった。従来、英国が外国の元首や重立った有力政治家の首に懸けた多額の賞金などは年々五百万ポンド(今はもっと増されたことであろう)もあるが孰れもこうした方向に専ら使う機密費から支出されて来たとまで謂われる。

この意味で、フリー・メーソンの英国政府に於ける関係は、コミンテルンソ連政府に於ける関係と酷似していると称しても決して過言ではないであろう。英国政府もフリー・メーソンも共に世界共和国の完成を夢見ているのであり、双方の利害は完全に一致しているからである。

 

独伊今次戦争の真の目的

ドイツやイタリアは漸く国内的の「ユダヤ人のドイツ」とか「ユダヤ人のイタリア」とかの状態を、ヒトラームッソリーニの見識ある全体主義政治により脱することを得たものの、国際的に猶(なお)も独伊を冒そうとする猶太の勢力を抜本的に除去するため、今次の戦争を勇ましく世界人類の究極の降伏のために闘っているわけである。随って、こうした独伊とがっちり組んだ日本の世界における責務と言うものは、それだけ、極めて有意義となっているわけである。

かのドイツの大思想家ゲーテですら、世界の猶太禍についてはこう言っているのである。

「ユデンツムは全人類に対する敵愾心を根拠として建てられたものなのであるから、怖るべきものである。」

ロシアの彼得(ピョートル)皇帝すら嘗て次のような感懐を洩らしたことがある。

「猶太人は、詐欺師で、剰(おま)けに詭計を平然と行う。」

また以て真に思い半ばに過ぎるものがあろう。

ドイツゲッチンゲン大学の有名な東方学者として聞こえるラガード教授の如きは、猶太教の利己的一神論、猶太精神の誇る独自性、猶太教のいかがわしき倫理などに堂々として徹底的な筋道のよく立った攻撃を加えて、

「異分子は生体に於いて、不快、疾病、化膿等を招き、遂には死を齎(もたら)すと同じく、猶太人は欧州各国に於いて異分子であり、国家腐朽の原因たる異分子を形成して居るから最も怖るべきものである。」

との意見を吐いている程である。

 

エドワード八世の英邁

人も知る如く英国のジョージ五世が崩去されてから、その跡に即位されたのは、あの英国の内外に比類なき重望を持って居られたエドワード八世陛下であった。ところが、案の定、このエドワード八世は稀に見る英主で在らわしました。

国政に関しては、頗る進歩的な従来の遣り口に拘泥(こだ)わられぬ多くの卓見を持っておられ、殊に國際政局に関しては一隻眼(いっせきがん:物を見抜く力のある独得の見識)を具(そな)え、非常な関心を寄せられ、急所急所をよく押えられ、どうも、フリー・メーソンに操られている英国政府に取りてその皇帝としての御存在が煙たくてしょうがなくなった。

「皇帝は君臨さるるも統治せず」という英国の帝王の伝統的常識には、陛下は、孰れかとはづれさせられることが多く、殊に第二次欧州大戦を起こさせるマソンのかねてより企む陰謀には大の御反対であらせられた。一九三六年の春三月、ドイツ軍は突然ラインラントを再び占領した。英国政府は、実はこのドイツのヴェルサイユ条約違反の行動を何よりの好機と見て、それを早速利用し、戦争の口火を切ろうとまでしていた。

この時、ロシアの外相リトヴィノフの如きは、ドイツに対し、「四十八時間以内にラインラントを撤退せよ」との最後の通牒を発し、若し聞かざれば、戦禍を開く提案を英国に致した位であった。

恰もジョージ五世の御大葬に参列するため、あの丸顔の小柄なからだで、ひどい癖のある英語を流暢に喋るリトヴィノフ(猶太人)は勿論、一時は赤軍で事実上の統帥者とまで言われ、何人にもその手腕を疑われなかった例のソ連の国防次官トハチェフスキー将軍を始め、次のバルカン陰謀の中心とまで一時は憂慮された親英親露のルーマニアのカロル王等々がやって来たのを幸い、時の英国外相イーデン(猶太人で露外相リトヴィノフの義弟に当たるそうだ。即ちリトヴィノフの妻君はイーデンの妹で、嘗てのロンドン市長の姪にも当たると言われている。)や英国航空次官サッスーン(猶太人 有名な上海のサッスーンと親戚関係にある人)などの間に、リトヴィノフのこの案が殆ど成立せんとして、ロンドンは、何となく不安な空気が、しめやかな御大葬の雰囲気の中に漲(みなぎ)っていた。更でだにマソンから既にこれに関し秘密な指令に接していたイーデンはこのソ連の提案に一も二もなく賛同の意を表した。これに関し国際聯盟もジュネーブで本会議を開くべき手筈を整えながらも、その予備会議をパリで開くことになり、イーデン外相はそれに出席しようとしていた。

 

皇帝ボウルドウインやイーデンを窘める

ところへ、イーデンは俄かにボールドウィン首相と共にセント・ジェームス宮にお召しの御沙汰を受けた。

何事かと思って早速両人は参内すると、エドワード八世陛下には、

ジュネーブで聯盟の会議が開かれたら、四十八時間以内に第二の欧州大戦が勃発するだろう。それではならぬ。ジュネーブ行きは勿論、パリ行きも見合わせよ。

と、凛としてと勅命になった。

それで、ジュネーブ本会議は勿論、パリの予備会議はおジャンとなってしまった。代わりにロンドン会議が行われたが、最早、英国はリトヴィノフの提案の如く動かないことになっていた。リトヴィノフは地団太踏んでこれをくやしがった。

陛下は、その後も首相以下関係をお喚び出しになって懇々と彼等の不心得を御諭しになった。これは英國皇帝としては実に前代未聞の出来事であった。これは、英国を背後から操縦するマソン政治にとりては一大聳動でもあり青天の霹靂でもあった。このエドワード八世の御見解は真に正しいものであった。

 

ウインストン・チャーチルの予見

それは現首相ウィンストン・チャーチルすら、既に、それより一年前の一九三五年にヒトラーに就いて次のような言説を公にして英国の上下をそれとなく警(いまし)めていたからである。

 

アドルフ・ヒトラーは戦いで散々敗北を蒙った偉大な帝國の怒り及び悲しみの兒である。

ヒトラーはドイツをば、今や欧州でも最も強力な地位に復(よみが)えらせた。否、ただに、ヒトラーはその国の地位を元の通りにしたのみならず、極めて大なる程度にまで折角の大戦の結果を反対のものにすらしてしまった。

ベルリンでサー・ジョン・サイモンは、英国の外相として、彼が勝者と敗者との間には何等の差別を設けていないと言った。

事実は、そのような差別が今でも、存在している。だが、それは、敗けた方が、勝った者となる過程を現在示していることで、勝者は地位を顛倒(転倒)して敗者となりつつあることなのである。

ヒトラーが政権に近づいた時には、ドイツは連合国の脚下に哀れにも平伏していた。

だが、孰れヒトラーが、ドイツ以外の欧州の諸國が、ドイツの足下に膝まづいて平伏する日を見ることになる可能性があるであろう。

ヒトラーの功績は、慥かに、全世界の古今の歴史を通じて真にこの比儔(ひちゅう:比べるもの)を見ざる偉大なものである。こうしたヒトラーの成功、彼の政治的力としての存在も、若し、フランスや英国の政府が、大戦以後に、特に最近の三カ年間(一九三二-三五)に於けるような午睡と痴愚とがなかったならば、決して可能ではなかったであろう。

猶太人が大戦の終わりに於いて、ドイツの国家に不忠な行動を取り平和主義を宣伝し、共産思想を撒布し、あらゆる形態の敗戦者の学説を植え付けたと言う嫌疑の下に、何十万と言うドイツの猶太人の社会が、一切の権利を剥奪され、国家及び社会生活のあらゆる地位から追放され、一切の知的の自由職業から放逐され、言論の自由を全く奪われ、汚らわしい厭うべき民族と宣告されたのであった。

ドイツ政府及び大衆によりて旺盛なる蛮力(ばんりょく:向こう見ずな勇気による力)を以て、これらの詛(のろ)うべき学説の宣布されたのみならず実行されたのを、二十世紀は驚異の目を以て目撃したのであった。

同様な鉄椎(鉄槌)が、ドイツ国内のあらゆる方面の社会主義者共産主義にも容赦なく加えられた。

商業組合主義者のインテリゲンチャ(註、実は自由主義者を言う)なども、同様に粉砕されるの目に遭ってしまった。

ドイツ国家の行為を些かにても非議するものがあれば国法を犯すものと見做された。独逸では、猶太人の憎悪が基督教の歴史的基礎へまでも攻撃を加えるの論理的転換をさえ遂に惹き起こすに至った。

斯くて、ドイツに於ける闘争は迅速にその範囲を拡大されるの勢いとなり、カトリックプロテスタントの牧師などは、ドイツ民族の新しき宗教となりつつあるところのもの、即ち、ノルトの異端宗教の古い神々の象徴の下にドイツの礼拝を集中せしめるような事態に強圧されて、すべて再起不能になってしまった。」

 

以上が、チャーチルの『当代の偉人』と題する本の中でもヒトラー及び彼の精鋭を論じた一章に出ている。これによると、チャーチルは、少なくとも、アメリカの全幅的な援英なしには、英仏等連合国側がドイツと戦っては、到底、勝味(勝ち目)なきことを、今から六年前に早や予言しているわけである。これを、本書の劈頭(へきとう)の章に述べたベルヒテスガーデンの六、七年前のヒトラー自身の卓上の談話と比べて読んだら、真に興味津々たるものがあろう。エドワード八世陛下は、チャーチルと同じく、その登極以前の英仏等の外交軍事が全く当てを失して、最早、英国は、たとえ、露国の援助を得るも、ドイツには到底勝味なきことを賢明にも見抜いて居られたので、既に述べたような非常措置を施し、その政府のマソンの煽動による非常識の脱線を前以て抑制されたのであった。

今日、エドワード八世のような英明な帝王が依然英国に君臨して居られたとすれば、恐らく今次のような戦は終に起こらず、世界は少なくとも当分は平和であったかも知れなかった。だが、マソンの陰謀によりこの英主が、例のシンプソン事件により、御退位になったのは、今から想えば、返す返すも、英国として遺憾なことであった。

 

シンプソン事件

シンプソン事件なるものは、その年の冬十二月二日にイギリスに発表され、世界を、あっと、驚かしたのであった。当時、英国の民衆と右翼とは、エドワード八世陛下の忠実な支持者であった。チャーチルも、ロザミア卿と共にボールドウィン首相の謁見を攻撃した者であった。だが、一国の風教上、これは捨てて置かれぬと主張したカンタベリーの大僧正が、皇帝たるものが、身分のない婦人と内縁関係を結ぶなどは以ての外と攻撃しロンドン大学の教授ラスキーがそれを支持したのは、遂に英国の決定的意嚮(意向)と極まってしまった。こんな場合の輿論と言うものは、甚だ力があるようで、その実頼りのないもので、忽ち時の政府の力でその方へ傾いてしまった。皇帝はマソンの思う坪に嵌って退位せざるを得なくなってしまった。

ボルドウィン首相は、纔(わず)かにその後(一九三七年五月十二日)に御践祚遊ばされたエドワード八世の弟御のジョージ六世陛下の御大典が修了すると共に責任を負うて予定の辞職しただけのことであった。その跡に首相となったのが例のネヴィル・チェンバレンであった。そうして、ボルドウィンは英国の國體に忠実な模範的政治家として、当時の新聞紙に宣伝されたものであった。

こんなマソンの狂言に重大な役割を買って出たカンタベリー大僧正は、蔭で親猶派に大いに感謝された。ラスキー教授*は猶太の金持ちの息子で、オックスフォード出身の秀才と謳われたもの、一時米国のハーバード大学教授を務めたが今ロンドン大学の国家主権論のオーソリティーとして崇められている。こんな大僧正や大学教授を持って居る英国は禍なるかなである。相語らい合って、宗教的にも学説的にも、皇帝の御在位を否認する挙にでたので、不臣の限りであった。かくて、廃帝エドワード八世は、ウィンザー公としてその後はシンプソン夫人と暮らされることとなった。その御退英直後、落ち着かれた先は、ウィーンの猶太人のルイス・ロスチャイルドの山荘エンツェルフェルト・キャッスルであったと言う。

*ハロルド・ジョセフ・ラスキ(Harold Joseph Laski)ポーランドユダヤ

これで猶太マソンの皇帝エドワード八世の御失脚なさるように書き上げた筋書きは見事完成したのであった。これより先、フリー・メーソンの総指揮たるメルヴィル・ジョンソンは皇弟ヨーク公(現皇帝)を大棟梁に任命するために、スコットランドへ旅行さえしたともいわれている。如何に彼等があらゆる方法で皇帝エドワード八世を廃し奉る筋書きの完成に努力したか、これでよく窺われるではないか。

シンプソン夫人は、歴とした猶太人であって、シンプソン・アーネストの妻(このシンプソン夫人は米国の社会主義の作家である猶太人のアプトン・シンクレアの実の姪だ)で、それまでも不倫の恋を数回経験した、あばずれ女であった。そういう、曰く付きの女を態(わざ)と、皇帝に取り持ったと言う、大それた紹介役を勤めたのは、誰あろう、米国の猶太人の大金持ちと知られるモルガンの娘のファーネス子爵夫人であったと言うから驚く。かくて、マソンはあらゆる方法で両者の関係を深めることに努め、万事が熱してから、暴露戦術に出たのであった。

流石のエドワード八世も、クレオパトラの容色に迷って遂に失脚したアントニーの二の舞を演じまんまとマソンの計略に陥ってしまった。しかもアントニーの場合は相手がエジプトの女王であったのに、皇帝の場合には、海千山千の手連手管*(てれんてくだ)を持った市井のそれまでは名も知られなかった猶太の人妻との不倫な恋路であったので極めて始末が悪かった。そこに、マソンの陰謀の深刻性も勿論蔵されていた。彼等は皇帝を抜き差しならぬ羽目へと残酷にも追いやったのであった。

*「手練」は巧みな技、「手管」は人を自由に操る(騙す)手段。 ともに人をだます手段や技術のことを指す同義語であり、これを重ねて強調した言葉

筈見一郎著 「猶太禍の世界」09

f:id:caritaspes:20201223113229p:plain

 

第六章 第一次大戦の真因とフラン・マソン(フリーメーソン

キリスト教内部の猶太勢力

今日の国際猶太人の指導階級は最早単なる猶太教の狭くて古い殻の中にのみに閉じ籠っているのは決して得策ではないとし、その最後の怪奇極まる目的なり理想なりを達すべく、その手段を選ばないようになった。否、これは既に古くからそういう傾向になって居ったので、あのジェスイットの東洋布教なんかにも、この目的が潜在していたことは歴史の證明(証明)するとことである。

だから、今日では、猶更、表面上、どんなに猶太教と基督教との間には、犬猿の間柄しか存在しないかのように見えていても、その実、基督教の現在享有している国際的の最大勢力を彼等猶太人は何で見逃すであろうか、疾くの昔から、彼等はその内部組織に様々の方法を用いて散々喰い入って、彼等の本当の勢力をそこに既に扶植してしまっているのである。それが特にプロテスタントに於いて今日では甚だしいように思われる。否、世界のあらゆる宗教、マホメット教やヒンドゥー教その他にも彼等の勢力が最早喰い入っているものとさえ見なければならない。仏教でさえも多少その影響を受けている点がなきにしもあらずである。

 

猶太性に感染した日本の自称史学者

真に純乎(じゅんこ:混じりけがないさま)として清醇玉のような内容を持って居るのは日本の神道あるのみだ。尤も、この日本の神道又は我が国の発祥地をさえも、猶太と結びつけようとした酒井勝軍とか、木村鷹太郎とか其の他四五の不心得の自称史学者がこの日本にもあった。又現にあるようだ。これらの人々は、恐らく意識的ではなかろうが、本人自身もそれと気付かない間に世界的の影響を与えている猶太性に感染してしまったのであろう。これは日本人として大いに警戒しなければならぬ。

皇道日本は世界無比の國體なのである。汚らわしい猶太なんかとは寸毫もそうした意味の高尚らしいものは認められないのだ。皇室の尊い菊の御紋は猶太から始まった形跡があるそれが日本を猶太に結び付け得る一つの証左だと得意然と説く不敬観さえも居るが、それは明らかに時代錯誤を犯しているのである。

彼等は後鳥羽上皇の頃から日本皇室の菊の御紋御使用が始まったことを露知らず、あんな迷論を吐くのである。これは固より真面目に相手にする価値のあるものではないが、うっかり、そういう違見に迷わされるような日本人があってはならないから爰(ここ)に一寸老婆心を以て書き添えて置く次第である。

元来、日本人外来説すら違っている。一寸と(ちょっと)した言語の偶然の類似から日本人を馬來(マレー)人種と同一視するが如き議論が一部の史学者に行われていたことがあったから、こんな名論卓説が我が物顔に行われるのだ、実に歎(なげか)わしい次第ではあるまいか。

 

猶太と日本の戦い

それは偖て措いて(さておいて)実際、基督教の隠然たる国際的の団結力と布教力とは、ますます猶太人に利用されて行く傾向が今日において甚だしい。あの英国のカンタベリー大僧正は日支事変に際して如何なる暴言を日本に対して吐いたか? 英国の教会における猶太の勢力の浸潤と言うものは実に想像にあまるものがあるのだ。

それも彼等は、背後のマソンの勢力に操られていたからだ。

ドイツのアルフレッド・ストッス少佐の如きは、その著『猶太と日本との戦い』で、この問題に触れており、国際猶太人はその世界支配の目的野望を達成せんがために、単に英米の基督教のみならず、ローマ旧教にも喰い入り、彼等の世界的支配力を遺憾なく利用して、所謂基督マソン的な世界支配体制と雁行(がんこう)して、両々相応じて、その物凄い計画を是が非でも遂行せずしては止まないとまで指摘しているのである。

 

フォードの猶太観

アメリカの自動車王ヘンリー・フォードは誰の耳にも熟している人だ。この人は、反猶太主義の急先鋒と認められる人物であるが、その著『世界の猶太組織』の中でこう言っている。

若し基督教会のあらゆる神学校のライブラリー(図書室)に、既往十五ヶ年間のアメリカに出た限りの在米猶太人の文献と言う文献が、すべて備え付けられ、神学生が、それらを読むように要望されたとすれば、アメリカ合衆国の教会への猶太的宣伝にとって、これほど棚ぼた同然なうまい話はなく、また、その実現は洵(まこと)に易々たるものだ。

いやそれ処か、次の四分の一世紀の間には、あらゆる神学校が、近代猶太人の影響とプロトコールとの研究講座を設ける必要に迫られるだろう。猶太人がモーゼの律法に忠実な旧約の民であると言うお伽噺(おとぎばなし)同然なお話は、その時に至ってこそ打破されなければならなくなる。

そうして臆病な基督教徒さえも、彼の「われ、汝らを祝福するものを祝福し、呪詛するものを呪詛せん」と言う一章の誤解とやらを去り、猶太人のことは口だにしないと言う迷信を棄て去らなければならなくなる。勢い、そうなると、牧師は新約の所謂猶太の恐怖とやらから教会を解放する使命をば否でも応でも負わされるだろう。否、牧師は、亦、猶太とイスラエルが同義語であるとの誤謬とやらから、教会を解放する使命をさえ、そうなると、結局、負わされるに違いない。

聖書の誤読から、猶太とイスラエルとの混同が起こり、イスラエル人と言う言葉を悉く猶太人を意味する言葉に今では一般に解釈されているが、そういう混乱はなくなるであろう。(!!)教会内の猶太勢力の根源を究めようとする牧師には、所謂ドイツ(?)の聖書高等批評家の学説を知らせ、それらの人々の人種が実は猶太人なることを考えさせるがよかろう。

それに、あの無神論者で金箔付きの猶太人であるフランス人? を加えたならば、何人も近世の自由主義の源流を完全に知り得るようになるだろう。即ち、ヴェルハウゼン、シュトラウスエヴァルト、キュウネ、ヒッツィヒ、ルナンの手合いの何たるかを知りさえすれば。

このフォードの言説は多大の示唆を投げかけている。尤も彼の猶太とイスラエルとは別だとの主張には、却って、飛んでもない誤謬が横たわっていると思う。これはフォードが基督教徒である立場から生じた気やすめの意見に過ぎないと、我等は寧ろ軽くその行き過ぎをば見逃すがよいであろう。

 

ルーデンドルフと猶太禍

ドイツのルーデンドルフ将軍は次の如くその『国家総力戦』で謂っている。

基督教を信じている国民は、あの政府と国民との結合、国民と軍隊との結合、並びに全体の形を以てする国民生活を基調とする固有の信仰を持って居る日本国民の如き幸福な境遇に置かれているものは一つもない有様である。抑も基督の教義は我等ドイツの民族的伝統とは、甚だしくその根本精神が排馳していて、ドイツ国民の伝統を絶ち切り、固有の精神的団結力を奪ってドイツ民族の抵抗力をば皆無にしようとしているものである。

元来、猶太人や基督教会は、民族の血統を全然絶やさせることは出来ないので、止むを得ず、各国民の民族的をある程度まで認めてはいるが、他方では、それを利用して各国民をばお互いに反目嫉視させるように仕向けているのである。

でも、これがために、各国家の中にいる個人へ及ぼす基督教の効果には別段変わりはなく、それは依然有害であるのを免れない。即ち、基督教の教義そのものに従えば、結局、猶太民族のみが、自分の民族の欲するままの生活を許されているわけになるからである。

予が、この由々しい一大事を認識したのは、世界大戦で、ドイツ国民の死活を制する戦争に臨み、どうして、猶太人やローマ教会が、ドイツ国民の団結を破壊することが出来たのであろうかを検討これ努めた結果であり、他方、戦争そのものの経験に基づき、歴史の典拠並びに聖書自体の研究をば一層深刻にやり遂げた結果なのであって、実際、聖書の明文の中には、猶太人の目的と宣伝の方法を教える基督教義があまりに露骨に現れている。(著者註、本書の第二章をさらに参照熟読せば、このルーデンドルフの意見の当たれることが一層よく判然するであろう)

以上の真剣な検討で気付くことは、全く世界共和国又は基督教国家(勿論猶太式の)の建設を目的とする猶太人及びローマ教の努力に於いて、基督教それ自身こそは、やがて、各国民の特性を奪うのみか、その国民間に彼等に好適な宣伝を果たすのを何よりの使命としている点である。

旧約聖書は猶太民族の神であり且つ基督教徒の世界神とも認めるべきエホバの選民であるところの猶太民族に対する各国民支配への指標と、その目的達成の方法とを率直に明示し、この教は、またローマ法王がそのまま取って、その宗教的支配を正当づけ、これを行使するために、恰もそれが神意を出たかのように示すのに用いられている。

このルーデンドルフの意見は、取りも直さず、現在のヒトラー自身の意見をそのまま既に代弁していたのであった。

尤も、現在のローマン・カトリックに於いては、ムッソリーニのイタリア全体主義の非常な勢力が自然働きかけている関係上、反猶勢力と言うものは意外に澎湃(ほうはい:盛んな勢いで盛り上がるさま)としてその内部に高まっている。

その点は、大いに意を強うせねばならない。しかし英米プロテスタントには、却々(なかなか)、それどころか、一層熾烈に親猶主義が蔓延しようとしている。否、英米の新教のチャーチは最早猶太人によりて、すっかり乗っ取られているといっても過言ではあるまい。

 

フラン・マソンの潜勢力

それなら、それは如何なる方法によってかと言うと、猶太マソンの勢力を通じてである。フラン・マソンはこの意味に於いて、その全組織中に必然的に非猶太人を夥しく包容しているとはいえ、それ自身、人為的ユダヤ人と称せられている。

仏国の如きは、その左右両翼の政党とも巧みにこの猶太式フラン・マソンの蚕食に遭い、すっかり、マソンの勢力で固められ、殊更、内訌(内紛)など起こさしたりして、遂に、手もなく独伊の鋭鋒の下に無条件の降伏を敢えてしなければならぬ運命を見るに至ったのである。

 

猶太人アンドレ・モーロワ*(原典はモーロア)

それで、あの猶太人のアンドレ・モーロワの如きは『フランス敗れたり』と言う書を颯爽(さっそう)として著わし、その持ち前の猶太人的気味の悪い怪笑をニタリとその蔭に洩らしたのであった。モーロワの如き輩には、勿論、フランスに対する愛国心などは微塵もないのである。彼の『英國史』の如きも、猶太人の立場から書いたものであって、真実の英國史とは言えない。あれには、マコーレーの『英國史』に見られるような英国固有の民族主義が熾烈に要求するであろうところの気魄などは全然見受けられない。平気で殺風景な自由主義のジユウ(猶太)的精神が低劣に流れているだけである。

私はあの本を読んで、そのあまりにコスモポリタンで、一向に真実の英国国民の姿を捉えて居らぬのに驚き呆れた。殆ど何の感興も起こさぬこんな本が活字になって多少でも読者があったとはどうしても解せられなかった。強いてその長所を言えば、流石は彼がジュウであるだけクロムウェルを従来とは多少違った角度からスケッチしている点であろう。しかし、私には彼のクロンウェル観にはどうしても同意が出来兼ねる箇処がある。英国の歴史を如実に活写しているのは、何といっても、時代こそ古けれ、マコーレーの『英國史』であろう。私は青年時代にそれを通読し、一種のマナリズム(マンネリズム)を免れないとは言えその驚く可く華々しいスタイル、その奔馬空を行くような豊かな想像力、時流を抜くよく透徹した彼一流の史眼、その燃え上がるような民族精神、歴史の本当の書き方は、これでなくてはと、大いに敬意を払ったことがある。

私は一日も早く、英国の国民が挙って、こうした健全で溌剌(はつらつ)たる彼ら自身を発見する民族精神に復(かえ)らんことを希望してやまない。若し、現在のようなマソンの魔手に躍り、猶太の財閥の頤使(いし:威張って人をあごで使うこと)に何処までも甘んずるような英国であったならばただもう永久に亡国の憾(うら)みを喞つ(かこつ)に至る外はないだろう。独伊の今、英国と戦っているのは、この意味で、英国民の真の更生を促す救世の手段であると解釈し得るであろう。

哲人は達観するとは、よく謂ったものである、猶太のデモクラシーの中毒を完全に受けている憐れむべき英国民も、孰れ近いうちに、カーライルのあの『英雄及び英雄崇拝』の精神に復帰し、より力強いジョン・ブルの本然の姿に戻るであろう。しかし、その必然の過程として、ヒトラーの益々猛烈に浴びせるであろうところの戦火の洗礼を十二分に受けなくては、そうした更生がどうしても出来ぬのは、蓋し亦やむを得ない彼ら英国民の運命でもあろう。それは恐らく彼等の不心得千万の為政者それを蔭から操る財閥の永年犯し続けた罪に対する宿業の致す所であって、今更、詮方(せんかた)ないことであろう。

 

フラン・マソンの意義と歴史

さて斯くも恐ろしい影響を国際的に与えている仏語で、フラン・マソン、英語でフリー・メーソン、ドイツ語ではフライ・マウレライと呼ばれる秘密結社なるものは、元来、どういうものかと言うと、最初は、左官、石工、大工などの共済乃至博愛を目的とする組合を言うのであって、その棟梁(メートル)に当たるものが、建築とか土木とかの職業上の秘密をその徒弟或いは職人に伝授することより始められたのである。

この古い職工本位のフリー・メーソンの歴史と謂えば、随って、少なくとも、十世紀の昔にまで遡り得るわけである。中には、こうしたマソンは夐(はる)かに遠くソロモンの殿堂を建てた石工が組織したのに始まるとか、或いはローマの建築組合に起源があるとか、但しは十字軍時代の聖堂騎士団の名残だとか称するものもある。併し現存しているもっとも古い証拠は、西暦九三六年の英国でこの種の結社集会の記録であろう。

これらは、英国やスコットランドの外、ドイツでも相当隆盛を極めたものであったが、その後、土木建築術の衰退と共に、いつしか、この種の職工組合と言うものは衰えて行った。そこで、一七一七年(日本の享保二年)、ロンドン並びにウェストミンスターにあった四つの由緒の古いフリー・メーソン組合の如きは、遂に合同して一個の大きい組合を形成し、同年六月二十四日のセント・ヨハネスの洗礼日に大饗宴を催し、一人の大棟梁(この大棟梁は英語でグランド・マスター、フランス語でグラン・メートルと呼ぶ)を選挙し、それと一緒に、幾人かの学者、神学者などの後援を依頼することとして、組合そのものの儀式とか憲法とかを集大成するに至った。これには、勿論、古来の伝統的メーソンの紋章とか、秘密にされた合図即ちその記号、言葉、ゼスチャーなどが、神話的に伝えられたまま、保存されたわけであって、それらが、今日まで相変わらず伝承されているのである。この規約は一七二二年に印刷され、今日、全世界に広がっている、あらゆるマソンの約款の基準ともなっている。実にフリー・メーソンが、秘密結社の組織となったのは、この時からであった。

この結社員の第一の義務は服従であった。結社員はその民族および信仰の如何に拘らず、飽くまで、善良であり、忠実を期し、名誉を重んじ、公明正大でなければならぬと言う信条が、何より大切だとされた。

この信条からして、結局、結社員たるものは、全人類の一致する宗教を信奉しなければならぬということを強調するに至った。これは頗(すこぶ)る注目すべき、マソン自身の精神的霊的統一の企図であった。

それで、組合なるものは、これを転機として、単に石工等を中心とする建築方面の職工のみならず、何ら、往時の組合員の本業とは何らの関係のない人々をすら、その組合員として受け入れると言う、フリー・メーソン自身の内容の変化すらいつしか遂げるに至ったのであった。即ち古の単なる職工メーソンから、ずっと広い意味合いの精神的メーソンとなったのであった。

同時にいつの間にか、このメーソンが猶太人そのものの機関同然となってしまった。智、真理、愛とかを行いの規範として、唯一絶対無限の神を信じ、組合員各自の品性を陶冶(とうや)し、引いては、社会なり国家なりを真善美のユートピア(理想郷)にまで改善しようと殊勝らしく唱えているのであるが、それは、その組合員中に普(あまね)く非猶太人を吸引しようとするカムフラージュに過ぎないこと勿論である。否、それどころか、フリー・メーソン自身に直接の不利を来たさない限りは、結社員は、一定の約束された前提の外なれば、謀叛及び革命を煽動し得る権利あることを規約命令しているのであるから驚かざるを得ない。

一八七五年(フランス共和国憲法が制定された年、我が明治八年のこと)ロンドンで発行される結社の機関新聞の『フリー・メーソン・クロニクル』には次のような記事が掲げられた。

若し、我ら結社員が、フリー・メーソンなるものは、どんな事情に置かれても、悪政府に対し、武器を取って反抗してはならないと言うのであるならば、結社員自身の最高にして最も神聖であるべき筈の市民としての責務をば破棄することになるではないか。

謀叛は、ある場合に於いては、一つの神聖な義務である。

こういう不逞な目的を有しているフリー・メーソンは、特に各国の猶太人の歓迎するところとなり、時日を追うて、驚くべき迅速な発達を遂げるようになり、忽ち全欧州に行き亘るような勢いを示し、すべての國の首府には大組合が続々創設されるようになった。ところが、何分、既に述べたように、謀叛の権利を行使するも辞せずと言う規約があり、しかも、それを頻々(ひんぴん:しきりに)と実行するに至ったため、いずれの国家でも治安維持上、これを圧迫又は禁止するに至った。

たとえば、ナポリ(一七三一年)ポーランド(一七三四年、後再建され、一七三八年再び禁遏(きんあつ:禁止)を見る)、オランダ(一七三五年、その後許さる)、フランス(一七三七年、その後許さる)、ローマ法王庁(一七三八年)など、それぞれ創立されるや否や禁止されるの運命を見た。現在、フリー・メーソンは、ドイツ、イタリア、ハンガリーポルトガル等では、格別、峻烈な弾圧が加えられていることは、読者周知の通りである。

オーストリアの如きは、フリー・メーソンは、一七九四年以来禁ぜられており、これを犯すものは、結党罪に問われて来たが、それでも、何分、秘密結社のこととて、政府の耳目を掠(かす)めて、組合が益々増加するの有様であったが、最近のアンシュルス(独墺統合)以後はそれらが全く屏息(息を殺してじっとすること)解散するに至ったらしい。何となれば、それらの結社の骨子をなす猶太人のオーストリア居住それ自身が事実上不可能となったからである。だが、これらマソンの新規会員への呼びかけは却々(なかなか)に美しい言葉を以てするのである。

曰く、「結社員たらんとする者は、高尚なる思想を持し、自覚して、人類の使命を果すために努力すべし」と。

フリー・メーソンの結社員自身から言えば、フリー・メーソンなるものは、別段、秘密結社ではなく、単に公開されて居らない結社であって、彼等の秘密としているのは、その記号とか儀式とかの類だと主張するに違いない。フリー・メーソンの地方支部又は集会所をば、通常、ロッジと名付ける。それが合したものが、グランド・ロッジであって、それが、全世界に普及、統一的に各国へ号令するの組織となっているのである。結社員たるものは沈黙の宣誓を、先ず、しなければならない。元来、フリー・メーソンの記号の大部分と言うものは、結社員がこの沈黙の誓いを破った場合に受けるべき重い罰を思い出させるようなものばかりだ。例せば、そうした記号のあるものは、斬首とか、心臓摘出とか、腹部切開とかを意味しているのだ。その他はしかるべく類推すべきである。

フリー・メーソンの公用語、象徴や儀式を吟味すれば殆ど猶太的起源を有していることを何人も発見するだろう。しかも、それらの多くは、旧約のソロモンの殿堂建立に関する記事から引用されたものだ。例せば、メーソンの象徴でも、殊に大切なものと認められている「ヤビンの柱*」とか、「ポアズの柱(ソロモン神殿の正面の2本の柱のうちの一つ)」とかは、慥かにそれに由来している。

*ヤビンは旧約聖書ヨシュア記に出て来る猶太に対抗したパレスチナの王の名、ヤビンの柱については不明?

殊にフリー・メーソンの中でも、世界的に勢力を伸ばしていて、嘗ては日本へも働きかけたと言われる、あのスコットランド系統のメーソンの儀式に於いては、その公文書の期日は全部ヘブライ語の月日を用い、年号の唱え方さえも猶太的なものを採用し、その書き方は、サマリア系又はフェニキア系のヘブライの文学に基づいているのであるから驚くではないか。

 

マソンと猶太関係濃化

フランス大革命以降には、フランスに於いてのフリー・メーソンと猶太人との関係は一層濃厚で密接なものとなった。そのフランスに於ける一大分派である大東社(グラン・トリアン)の最高会議では一八六八年乃至一八八十年に亘って、猶太人アドルフ・クレミュー(Adolf Cremieu)をば、その首領と仰いだことだけでも、大凡(おおよそ)その模様は知れよう。

尤もドイツでは長い間、猶太人がロッジの会員たることを禁ぜられていた。これに関し、一八三六年(我が天保七年)に、アムステルダムのロッジから、ドイツのグランド・ロッジに対し、なぜ、前者に属した猶太人の会員を受け容れないのかと抗議したことさえもあった。だが一八四四年には名実ともに猶太人の加入を許すようになり、その後は間もなく猶太人が専ら重要な地位を壟断(壟断:独り占め)するに至った。

英国では、猶太人が最初から何より幅が利き、猶太人結社員のみの多数のロッジさえあり、その他、普通のロッジでも猶太人は大手を振ってその会員になっている有様である。しかも、その会員でも却々(なかなか)重要な階級に上っている者が多い。

 

なぜ英国ではマソンが危険視されぬか

英国では、他の國とは違って、マソンは別にその国家の利益と背馳(はいち)した行為には出ないが他の国家に対しては如何なる陰謀も術策も施すに躊躇しない危険な存在である。その理由は至って簡単である。何となれば今の英国と言うものは猶太人の治めている国家であると殆ど称しても差支えないからである。事実、英国は、オランダのアムステルダムを中心として活躍して居た猶太人が、ロンドンを占領し、海賊王朝をまんまと乗っ取ることによって、始めて、その七つの海に君臨する日没せざる世界帝国へと発展することが出来たからである。

現在のグレート・ブリテンなるものは、彼のクロンウェルの革命以来濃厚に猶太色を呈したのみならず、又それから四十七年経って、ウィリアム・オレンジ公が例のロンドン入りをなしたことによって、即ち一六八九年(我が貞享二年)以来と言うものは、全くその政権は猶太化するに至ったと言うも差支えない処へ、剰(おま)けに現在、事実上、王様或いは皇帝陛下なるものは単にイギリス王国又は帝国の所謂、立法政体に於いては、表面上の機関であるに過ぎず、即ち、王政乃至帝政なるものは名義丈に過ぎないので、その実、猶太共和国も同然であるから、いくら猶太人だって、既に自己のものであるものを殊更顛覆(てんぷく)する様な愚挙には出る筈がないからである。

*しかし、猶太人の財力の中心がアメリカに移るにつれて、英国は無用となりつつあり、徐々に見放されるようになってきた。それが英国の20世紀の偽らざる歴史であろう。―燈照隅

嘗て、我が国の憲法学者で、こういう本質的な英国の國體乃至政体の成り立ちを一向に辨えず、英国の憲法論をそのまま直訳して我が宇内(うだい:世界)に比類のない尊い國體なり政体なりをよく承知せず天皇機関説を主張したものがあったのは、今から顧みれば洵(まこと)に申すも畏れ多き次第であった。現在では、そのような邪説僻見(偏見)と言うものは全く粉砕され、妖雲(よううん)がすっかり晴れ、赫々(かくかく)たる一点曇りなき太陽が我が至重至貴な國體の上に照り輝き、我が皇道は愈々神武天皇以来の国是となっている八紘一宇の大理念を世界に拡充せんとしつつあるのは我ら大日本国民の最も意を強くしなければならぬ欣快(きんかい:喜ばしいこと)事である。

元来、英国は一二九〇年(我が伏見天皇の正庁二年)エドワード二世時代に、ユダヤ人追放を行って以来、約四百年と言うものは猶太禍と言うものを全く知らなかったのであった。

ところが、あのクロンウェルが一六四二年(寛永一九年)に叛旗を翻し、革命を企てた時以後、十六世紀末から、オランダ、ポーランドポルトガルなどの国籍を装った猶太の商人が、続々と英国の商界乃至財界に侵入し、クロンウェルの清教徒を表看板とする猶太マソン的存在(「清教徒ヘブライ主義から出たものである」と猶太人の歴史家のヒヤムソンが断言している)を一層強化し、英国を挙げて、遂に猶太人の前に殆ど全てのものを捧げるを余儀なくされたのであった。