筈見一郎著 「猶太禍の世界」18

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張学良の暗躍

張学良は、満洲にて失脚するや、暫く、欧州に休養をとるべく遊んだ。

その間に、彼は、例の阿片 ―(あの猶太性イギリスが香港を支那から理不尽に奪取する原因を作ったアヘン) ― (あの上海の猶太富豪サッスーンが、それを一手に買い占め、専ら支那人に売込み、あぶく銭をしこたま、溜めつつあったアヘンだ) ―そのアヘンを喫する長年の習慣を打破するに成功した。

あの痩せっぽちの学良が、まるで人が違ったかのように、今は、すっかり目方を増し、恰幅も堂々たる有様で、支那へ帰って来た。その頬には生気が満ち、その秀麗の眉は、一入(ひとしお)趣を添えて、十年も若く見えて郷党に見(まみ)えた。彼の親近者や友人は、蘇えった張を見て、喜び且つ驚いた。漢口で、張学良は、再び東北軍の指揮をすることになった。彼の部下は、熱烈にその故主の帰還を歓迎した。

張学良は、そこで、彼も只の鼠ではなかった。満洲王であった時分の、だらけ切った日常生活の方法を一変してしまった。早朝六時には必ず蹶起し、烈しい運動をなし、汗を流せるだけ流し、毎日一定の訓練と研究とを怠らず、三度の食事も、質素極まるものとし、あらゆる点で、スパルタ式の厳格な生活を送るに至った。蓋し、彼は、この間、寸時も満洲の恢復(回復)と打倒日本*とを忘れなかったのである。

*これは張作霖(父親)爆殺事件で日本軍を恨んでいたためだが、この爆殺事件自体がコミンテルンの仕業であった疑いが最近の研究で解っており、張学良も騙されていた疑いが濃い

それがため、かくも彼の渾身を傾けた精進が始まったのである。

間もなく、蒋介石には、この更生した張学良の漸次勢力を張って行って、遂には、侮るべからざる存在となるのが、こわくて堪らなくなった。それを防止するため、出来れば、精々、彼の新興勢力を殺(そ)ぎたいものと思って、張を急に左遷し、西南にありて、あの支那でも一筋縄には行かぬ、難物中の難物たる紅軍の討伐を事とするように命じたのであった。

暫くの間、流石は学良だけのことはあった。相当の勝利を得ていたが、昭和十年の十月および十一月の頃には、彼の東北軍は、ゲリラ戦を巧みにやる相手のために大きな敗北を相次いで蒙り、第百〇一師団および百〇九師団の二個師団全部と、それから、第百十の一部を喪(うしな)うに至った。のみならず、数千の東北軍の兵が、いつしか、紅軍に席を移すが如き、思いも寄らぬ事が生じた。しかも、多くの将校が籠絡されたり、捕虜となるの有様であった。

いつしか、スローガンが叫ばれた。「中国人同志が戦ってはならぬ。」標語が、普(あまね)く全東北軍の陣営に浸蝕するに至った。「寧ろ、紅軍と団結して戦い、満州を取り戻せ。」否、学良自身さえ、その意識せぬうちに、強い左翼への影響を受けるに至った。彼はそれが全く自分の将来を全く抛(ほう)ってしまうものであることには毫も気が付かなかった。

それは学良自身の中に残っている支那人としての美点とか善さとかを全くなくしてしまうのを悟らなかった。学良のからだは、かくして、阿片から恢復(回復)したものの、今度は、彼の精神生活には阿片にまさる猶太性の赤い毒薬が、すっかり廻ってしまった。彼は、支那民族精神の貴さを遂に全く忘れるに至った。徒(いたず)らなる猶太の赤き文化のコスモポリタンのそれの影響のみとなってしまった。

しかも共産党は、ただ張学良を一時的に利用する考えのみで彼を引っ張り込んだにすぎなかった。哀れや、学良には、そこまで、すべてを見抜く見識はなかった。そのうち、張の経営する東北大学の学生の多くが、西安に来て、彼の下に協力することになった。情けなや、これらの学生の中にも、若干の共産派が交っていた。昭和十年十二月、日本が北京で抗日運動を除く要求をしたら、学良は、北支の抗日学生のすべてに、その政治的主張の如何を問わず、呼びかけて、それなれば、何も北京に居らなくてもよいではないか、皆のものは、こちらへ早速来るがよい、西安は学生の楽天地あるだよと宣伝して、彼等の多くを招き寄せた。

かくて、南京政府の手で、全支を通じ、苟も抗日を叫ぶ如き不逞のものは、悉く、続々と拘引せられつつあった折でも、ただ、この陝西省西安では、その抗日が却って奨励され、保護されると言う矛盾な現象を呈していた。

蒋政権は、ここに、大きな禍機が伏在していることを察知し得なかった。

赤魔は、東北軍の服装をつけた幾多の代表者を西安に送り、学良の帷幄(いあく:本陣)に参加させた。そして、東北軍に、再組織のための政治的訓練を施すに余念がなかった。新しき共産派の学校が開設され、張学良部下の青年将校等は、政治、経済、社会学、につき深刻な研究を続けさせられ、如何にして日本が満洲を征服し、それによって中国は如何なる損害を受けたかを審か(つまびらか)に検討させた。何百と言う過激な思想を持った学生が、西安に集って来て、今一つ設けられた抗日政治訓練を行うべき学校に入学した。

この学校へは学良自身が、時々、親しく熱烈な抗議をしたり、慷慨悲憤*(こうがいひふん)の演説をしたりして、学生の抗日思想をいやが上にも煽った。この結果、ソヴィエト・ロシアや紅軍によって使用されていた政治委員会制度に似たものが、東北軍の組織の中に植え付けられることになった。だが、これらの驚くべき東北軍の革新が、外部へは絶対秘密の裡(うち)に行われて来たのであった。学良と共産党とのこうした真実の関係などは毫も新聞や雑誌などに出ることはなかった。して、蒋介石から西安へ派遣されているスパイ共にも、一向にこの種のことは気付かれなかった。

*慷慨悲憤:運命や社会の不正などを憤って、悲しみ嘆くこと。

猶太マソンに操られている幾多の領袖の中でも、周恩来と言うのは、殊に学者であって、英仏独の語学にも長け、知識は該博(がいはく)のもので、絶えず、学良とこうして接触を保って居た。周と言う男は、細形で、背は高からず、低からず、どことなく針金を適当に束ねたような弾力性のある体格の持主で、長い黒いあご髭を蓄えているにも拘らず、その面持ちが童顔たるを失わないと言う不思議な人物である。

目は大きく、深く凹んでいるものの、決して冷ややかなものでなく、何処となく暖か味を湛(たた)えている。存外、はにかみ屋で、その風変わりの人格からくる一種言うに言われぬチャームがあり、申し分ない指揮が出来ると言う自信から自ら生ずる磁石のような引力もある些(いささ)か矛盾を免れないタイプの男だ。

毛沢東は、本年四十八歳の働き盛り、紅軍の押しも押されもせぬ首領、生意気にも、ムッソリーニヒトラーを称して山師だと言う。尤も彼の目にはムッソリーニの方が、まだまだスケールが大きく、歴史にも明るく、本当のマキアヴェリ式政治家の典型であろうが、ヒトラーに至っては神経質で、資本家の左右する儘に動く意志なき人形(ヒトラーはこの正反対の癖に!!)だと酷評しているのだからかなわぬ。今更、向きになって辯明し、その認識不足をただしてやるのも馬鹿らしい位。

そう言う失敬なへらず口を叩く毛沢東も、しかしながら、案外、学者であって、あのマルクスの猶太哲学を齧ったばかりに満足せず、古きギリシャ哲学は勿論、スピノザ(猶太人)、カント、ゲーテヘーゲル、ルソー(マソン系のフランス学者特にエミールにより自由主義教育を唱えた)、その他の哲学にも通じているとか。赤の人物にお定まりの如く、毛沢東には、宗教的情操と言うものは藁(わら)に(頼りに)したくもなく、ただ彼の判断は、あの笑うべき唯物の論理や必然性より到達せんとするものらしく観察されるのだ。

彼自身の言を藉れば(借りれば)、今日の支那民族の根本問題は、日本の帝国主義との戦いであらねばならぬ。我が共産党の政策は、決定的にこの争闘によって成功するや否やが条件づけられていると小賢しくもほざいている。彼の思想は英米仏のマソンの口吻(こうふん)プラス赤なのだから真に済度(さいど)のしようがない(救いようがない)のである。彼の思想の根本的に間違っているのは、丁度、彼がヒトラームッソリーニを真に正しく理解し得ないのと等しい。

 

支那事変の真因

毛沢東は、次の三つの条件が具わったら、紅軍は真に日本の偉大な軍組織を潰滅(壊滅)させることが出来ると主張している。

1. 支那における日本の帝国主義に中華国民が挙国一致反撃を加える。
2. 世界的に抗日意識を昂揚(こうよう)する。
3. 日本帝國主義の下に圧制を受けている国民による革命的行為を誘発する。

殊に1.が最も必要であると言っている。

「日本軍は、戦争の始めから、終わりまで、絶えず後方からくる煩雑で、しかも大きな打撃を加える襲撃と戦わなければならぬ悩みがある。

支那はこの上もない大国だ。支那のあらゆる寸土に至るまで征服せられぬ限り、支那は征服されたのではない。

若し日本が支那の大部分を占領し得ても、それでも猶支那が敗けたとは言えない。

なぜなら、依然、支那は日本軍に抗戦し得る大いなる力量を残しているからだ。

軍需品関係では、日本は支那の奥地の兵器廠(しょう:工場)を押さえるわけには行かない。

奥地に兵器廠がある限り、何年でも支那軍は装備に困らない。

支那を長く占領して行けば、費用がかさむは当然だ。

日本の経済は破綻を示すに至るは必定である。

如何に日本軍の精神力が偉大でも、数限りのない勝敗不定の戦いの試練の下にありては挫折するに至る外はない。

若し革命が迅速に日本へ来るものとすれば、戦いは短く、支那の勝利は敏速に達せられるであろう。

さもなければ、戦争は極めて長期に亘るであろう。孰れにせよ、結論は同じだ。日本の方が敗けることに変わりない。」

この毛の言葉は、未だ支那事変が開始されない一年以上も前に、即ち、西安事件が当に突発しようとする少し前に、アメリカの新聞記者エドガー・スノウに語られたものだった。それをよく読めば、紅軍が如何に徹底的な抗日観を、エゴイズムに充つる誤れる結論から持って居るかが、わかるであろう。そうして、支那事変が、彼等の間に何年も前から計画されていたことがわかるであろう。

もし、それ、日本に革命が起こるなど彼等が期待していることなんかは、彼等には日本の真の國體が悟り得ないための全く虫のよ過ぎる注文である。彼等は、また、日本の経済状態を軽視していた。その実、日本の経済は、今後ますます統制せられ強化される現況なのである。英米仏ですら、今では、嘗ての同じような観測が的をはずれていたことを漸く悟って来たではないか。なぜ、蒋が敢然日本へ戦いを挑むことになったか?

それは英米仏の盛んな使嗾(しそう)もあったところへ、かの西安事件を一つの重大なターニング・ポイントとして、蒋の思想に、根底的な変換が遂げられたからに外ならなかった。

 

西安のクーデター

これより先、蒋介石は、張学良の紅軍討伐の実績が、とんと挙がらず、サボ同然に陥っているのに業を煮やし、親しく張を督励(とくれい)すべく西安に乗り込んだのであった。そうして、あの西安の郊外の華清池温泉 ―昔、楊貴妃がその玉の肌を温めたという― 温泉で、休養していたとき、突然、意外な兵変が起こったのであった。それは昭和十一年十二月十二日の夜の出来事であった。

人もあろうに、その夜を期して、張学良が、クーデターを行ったのであった。蒋は心静かに枕を高くして寝ていたのであったが、急に夢を破られた。自分の護衛兵が張学良の軍隊と戦っている銃声が耳に入ったからである。ただごとでないのを忽ち、見抜き、単身、薄い寝巻姿のまま、華清池の裏手、驪山(りざん)の或る岩山の上へと、辛うじて身を脱した。ところが、孫大尉と称する学良の腹心の将校のために遂に追い詰められた。孫は叫んだ。「あなたは蒋委員長でしょう。さあお伴をしましょう。」蒋は、寒さに、がたがた慄(ふる)えて、暫く黙っていた。下手に返事すると、自分は忽ち殺されるだろうと思ったから。

孫は重ねて言った。

「蒋委員長でしょう。我等は、ただ一つのお願いがあるだけです。それは、これから直ちに日本と戦って頂きたいことなのです。」

そこで、始めて、蒋は、自分の命が狙われているのではないことを悟り、安堵の胸を撫で下した。「学良を、兎に角呼べ」

それから、蒋と孫との間に、二三の押し問答があって、蒋は、結局、学良のところへ連れて行かれた。

そこで、蒋は学良のみならず、かねて首領毛沢東から遣わされていた紅軍の代表者周恩来と会見した。蒋は、やむなく、彼等の提出した八箇条の要求を承認した。その眼目は、要するに、南京政府を再組し、救国の共同責任とやらを分かつために、すべての党派を容れることにし、直様、紅軍との戦いを終熄(終息)させて、直ちに日本に対し、武装的抵抗の政策を取れとの、コミンテルンの指令を、蒋に承認させることにあった。

 

猶太人ドナルドの活躍其他

丁度、三日間と言うものは、こうした手続きを完了したり、学良が国民政府から莫大な蒋の身代金を巻き上げるのに費やされた。注意すべきは、この時に、英のドナルド顧問(猶太人)が宋美鈴を伴い、飛行機で誰も外には人を連れず、蒋を救い出しに来たことの一事である。これが、誰か知らん、今回の支那事変の前奏曲そのものであったのである。事件の起こった西安こそは、要するに、それからは赤都延安*の延長とも考えられるに至ったところで、赤の戦術家である朱徳の大いに幅を利かすようになった地である。

*延安は、支那共産党毛沢東一派が北伐と日本の討伐を逃れて本拠を置いたところ

この朱徳は、今年五十七歳、雲南の苗族の流れとか。同省の講武学堂の出身、戦術が却々(なかなか)長けていて、しかも、それはモスクワとは関係がなく、嘗てドイツで仕込まれたものだと言われる。彼は百姓面をしている癖に、愛嬌を振り蒔くには如才なく紅軍の首領として、慥かに一種不可思議な包容力を持って居る。どこやら文豪魯迅を彷彿させるような知的な閃きがあるというから凄まじいではないか。長身痩躯(ちょうしんそうく)、いざとなれば謹厳な武将型をも発揮するとか。頑固一点張りの軍人ではないとの噂。

朱徳毛沢東の前に活躍した一時は支那レーニンと言われた陳独秀もあったが、彼があまりの日和見主義者なので昔の勢力を全く失ってしまったという。朱毛のコンビは、あまりに鮮やかで、五分の隙も見せなかったので、その軍は朱毛軍と呼ばれたことがあった。それで相当の支那通の間にも朱毛と言う人物が紅軍を指導するものと誤解されていたこともあった。中国共産党を理論的に指導したものに、モスクワ仕込みの陳紹禹がある。彼は嘗ての中山大学の副学長ミフとか言うモスクワから来たコミンテルンの代表者の支持を常に受けて、現在のような党の有力者と経のぼったのであった。

陳こそは、何といっても、当時、支那では、蒋だけの人物はない。紅軍として蒋と争ってのみいては、何年たっても芽が出ようはずがない、それよりは蒋と提携するが一番だと主張し、中国共産党の指導方針に大きな変化を与えた男である。

これが、やがて、西安事件、はては、支那事変とまで、大発展してしまったのである。しかも、彼は、まだ、三十を少々出たばかりの、骨の髄まで赤で浸み込んだ男と知られているのだ。最近、愈々松岡外交が実を結び、ソ連は東亜新秩序へ同情を示すべき態度に百八十度の転換を示した。

これというのも、蒋の下心が、ソ連を背景とするコミンテルン支那に於ける勢力を一時に利用することのみにあり、益々その傾向が日を追って明瞭となって来たので、蒋を全く見限り、日本に好意ある中立を将来に維持し、枢軸陣営の衛星となるに至ったのは、慥かに、賢明なスターリンの処置というべきであろう。

かくて暗黙裡に、ソ連としては、今や、わが八紘一宇の理念に基づく、大東亜共栄圏の確率、ひいては、世界の新分野の構成につき諒解(了解)するに至ったものとみて差支えないであろう。これは、やがて、わが支那事変の処理の上にも画期的な新局面を齎(もたら)すに至ったものと解釈して大なる誤りはないであろう。即ち、すべては今後のソ連の披歴すべき誠意の上に係る実行そのもの如何によるとするより外はない。

この上は、英米の猶太閥による我が新秩序構成の妨害を排除粉砕を期すのが何よりの焦眉(しょうび)の(差し迫った)急務となるわけではあるまいか。