筈見一郎著 「猶太禍の世界」16

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ルーズヴェルト大統領

この両者を最もうまく操っているのがルーズヴェルト大統領である。そこに彼の取り柄がある。ただでさえ人気取りの彼の第二の強味がある。陽に輿論政治家と号する彼の面目が躍っているのである。だが、このルーズヴェルトこそは裏面に於いてチャンと英国系のマソンと手を握っているのである。

ハーバード大学の法律科を卒業、ニューヨーク州の州上院議員をしていた頃、フィラデルフィア民主党大会(一九一二年)で、その翌年、海軍長官になったダニエルスに認められたのがルーズヴェルトの今日の如き出世の第一歩。ダニエルス・スウォンソンの下で海軍次官を七年も勤め、次いでニューヨーク州知事、その頃民主党の副大統領候補に推されたが落選した。一九三二年の最初の大統領戦に打って出た時、全国に大掛かりなルーズヴェルト後援会を組織させ、その会員からくる手紙には、彼が一人残らず署名入りの返事を出した話は今に有名である。

それと言うのも、死んだカーネル・ハウと言う主席秘書の下に、数十人からなる手紙整理専門の係をつくったものによるものだった。このルーズヴェルトの血管には猶太の血が流れている。彼のフル・ネームは、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトというのであって、その父のジェームス・ルーズヴェルトは一九〇〇年一二月八日死去。その母はサラ・デラノと称した。ル大統領は、要するに、嘗て、スペインでのユダヤ人排斥のため追われて、オランダに亡命したところのクラエス・マルテンザン・ヴァン・ローゼンヴェルト(Claes Martenzan Van Rosenvelt)の八代目の直系子孫ということになるのである。

この先祖のローゼンヴェルトが、十七世紀にニュー・アムステルダム市(今のニューヨーク市)に移住して、ジャネッチ・サミュエルズと言う女と結婚、夫婦とも一六六〇年に死亡、その末っ子のニコラスなる男が一七〇〇年と一七一五年との二回、ニューヨーク市の市参事会員となった。このニューヨーク市参事会員ニコラスの次男、即ち、一六八九年を以て生まれたヨハナスの数代目の子孫こそは、あの日露戦争の講和談判を斡旋した米大統領セオドア・ルーズベルトであった。

また、前記ニコラスの三男ヤコブス(一六九二年生)の数代目の子孫こそは、実に現米大統領フランクリン・ルーズヴェルトその人であるのである。現大統領フランクリン・ルーズヴェルト夫人は、先の大統領セオドア・ルーズヴェルトの弟エリオット・ルーズヴェルトの娘である。かく、現ル大統領は、争われないユダヤ人の系統であるのみならず、シュライナー結社と言われるフリー・メーソンの一派の会員でもある。

シュライナー結社と言えば、ケレンスキーレーニントロツキージノヴィエフ、ペラ・クーンなどの嘗て属したフリー・メーソンの中でも格別警戒すべき派なることは言うまでもない。

 

ルーズヴェルトのブレーン・トラスト

ルーズヴェルト政府の重要な椅子と言う椅子は殆ど猶太人で固められ、各州の知事、市長、警察署長、郵便局長、これ亦夥しい猶太人に占められている。若しそれ、ルーズヴェルトの周囲を取り巻くブレーン・トラストの如きは、全部例外なく、猶太人であるから驚く。

アメリカでも、民主主義の兵器工廠となった関係上か、デモクラシー国家の字引にはない筈の総力戦とか国家総動員とかの言葉を盛んに使う。その意味で、最近ル大統領は、彼の直接の部下たるべき歴代米大統領が常例として使用するブレーン・トラストの外に、クヌードセン(今国防生産管理局長官をしている)とか、ステティニアス、ロックフェラーなどの、モルガンやデュポン関係でなければロックフェラー等々の大資本系統の重なる人々、その中には、ゼネラル・モータース(今ではアリソンと言う世界的に優秀と言われる液冷発動機を大量に造っている)の社長シー・イー・ウィルソンやユー・エス・スティールの会長などもひっくるめて、所謂「一ヶ年の報酬一ドル」のみの専門家に進んで奉仕的公務に就いて貰うとて、それら猶太閥紳商(一流商人)を利用しているのは確かに彼の大衆政治家(デマゴーグ)としての頭のよさを語っている。またそう所謂紳商連も結局はそれが自己の大きな仕事を捗(はかど)らせ、より以上、凄まじい金儲けが出来ることとなるので喜んで大統領の相談に応ずる。大統領は大統領で斯くして彼等を楽に操ったり利用したりするてなことになっている。これは全く我が世の春さ、この塩梅だと、三選は愚か、五選、七選、或いは一生を通じてもアメリカの元首たり得るだろうと、今のところ、大いにやに下がっている*恰好である。

*やに下がる」は、男性が、美人を見たり、女性に囲まれたりしていい気分になり、にやにやしている様子。 「脂下がる」とも書く。 「にやける」は、男性が過度に身を飾ったり、なよなよしていること。 

そうして、下手をすれば、ぱくっとアメリカの前途に開くまいとも知れぬ暗い運命なんかは彼のそうした熱度が下がらぬ以上、一寸悟り兼ねるように見えているのは、寧ろ、こちらの僻目(ひがみ)であろうか?すべては時が裁きをつけるのを静かに待つとしよう。

 

ドノヴァン大佐とユーゴ工作

ルーズヴェルトの直接の部下のブレーン・トラストの中にも出色の人物が相当にある。ドノヴァン大佐なんか最近世人の注視をあびて来た如何にも猶太人らしい策士型に出来ており、大統領の懐刀として、殊の外、重宝がられている。昨年十一月ハンガリールーマニアの枢軸陣営参加、それに続く独軍ルーマニア進駐等々によってバルカンは漸次全面的に枢軸色に塗りつぶされんとした。

慌てたのは英米である。この上は何とかしてブルガリアとユーゴだけなりとも、枢軸接近を阻害しなければ、取り返しのつかぬことになるとて、英国は例のイーデン外相やディル参謀総長が、バルカンへ出張するし、アメリカも大統領の特使としてこのドノヴァン大佐を遣わすという騒ぎ。ドノヴァンは昨年十二月上旬、英国へ赴き、チャーチル首相その他と会見後、アフリカ経由でブルガリアユーゴスラヴィアギリシャ、トルコを歴訪、それから近東各国を廻りバルカン近東工作を施したと言われる。

謂わば、彼は前の大戦当時ウィルソン顧問ハウス大佐が勤めたような特使を仰せつかったのであった。ドノヴァンはそう言ったル大統領の腹心で、彼の本職はと言えば辯護士、前大戦の時出征、ニューヨークの第六十九連隊を指揮、「ワイルド・ビル」(ビルは彼の名ウィリアムの縮称、「凶暴なビル」)と言う綽名を頂戴し、戦傷を受けること三度と言う歴戦の豪傑だ。この結果は、どうかと言うと、ブルガリアは到頭枢軸の側の陣営に取られたが、少なくともユーゴには英国と相呼応して彼の与えた薬が十二分に効き過ぎた。

ユーゴはいったん三月二十五日に枢軸陣営には入ったものの、翌二十六日深更十二時に、クーデターを行い、首相以下を忽ち逮捕、叛軍の大将シモヴィッチ将軍(ユーゴ國陸軍参謀長兼空軍司令官)は、摂政を廃し、十七歳の何も解らぬ御寝中のペテル二世に強いて謁を求め、「陛下、只今から陛下はユーゴ國王としての全権をご掌握なさいました」とナイト・ガウンの儘、目をこすって居られた少年君主に声高く叫んだ。米国政府は流石はドノヴァンが行っただけのことはあったと大いに喜び、

「他国から侵入を受けた暁には、米国はあらゆる援助を惜しまない。あくまで自重を希望する。」

 と二階から目薬のような、通牒を電送した。

英国は、英国で、これも、イーデンの得意な工作の結果さと有頂天になる。

全ユーゴ民衆よ。蹶起せよ!! 反独戦線へ!!
こういう趣旨のビラを態々(わざわざ)本国で印刷し、飛行機でユーゴの空へバラ撒いた。

ロンドン放送局は、ダフ・クーパー情報省(猶太人)の命令で、これはよき宣伝の機会とばかり、世界中へ聞こえよがしに、

ブルガリアにも三国同盟に反対のクーデターが勃発した。
とまことしやかな、デマさえ飛ばした。

 

ユーゴへの天譴(てんけん:天罰)

だが、天譴は忽ちユーゴへ降った。ユーゴは独伊連合軍の鉄蹄のもとに蹂躙され、忽ち国は滅びてしまった。次いで、ギリシャの英・ギ連合軍も大敗、ギリシャは無条件降伏してしまった。

「一九三三年以来、予は前大戦におけるユーゴの敵性を不問に付して、ユーゴとの友好関係を設定し、これを維持すべく努力してきたが、ユーゴが三国同盟条約に調印を終わるか終わらぬに、イギリスの走狗達は、永遠に陰謀のみをたくらむユーゴ軍部に働きかけて、クーデターを起こすに至った・・・。

われわれ名誉あるドイツ国民は新秩序の建設の指導者たるべき大国民として、もはや、かかる事態を寛恕することは出来ないのだ。

実に、かかる暴虐を働きつつある、この国民こそ、かつて、一九一四年、イギリス諜報網の買収と使嗾(しそう:指図してそそのかすこと)との下に、かのサラエヴォの爆弾一擲*、時のオーストリア皇太子を暗殺して、全世界を悲惨のどん底に突き落としたと同じ国民なのである・・・。

*乾坤一擲(けんこんいってき)から:すべてを賭して投げつける意

ドイツ国民はセルビア人に対して微塵の憎悪をも抱くものでなく、クロアート(クロアチア)人並びにスロヴェーン(スロヴェニア)人に対しても戦を挑む理由は全くないのである・・・。願わくは、神よ。われらの将士の行く手を守り恵みを垂れ給え。」

以上は、ユーゴを粉砕するに当たりてのヒトラーの歴史的布告の一節であった。

 

ユーゴ背後の英米マソン

右にもある通り、ユーゴのこの叛乱は、英米マソンの執拗な使嗾(しそう)の結果であった。イギリス諜報網とはヒトラーの未だ婉曲な措辞(そじ:言い回し)に過ぎない。一九一四年と同じようなマソンの魔手が暗躍した結果、バルカンの火薬庫に遂に火を発した。

第一のサラエヴォ事件にユーゴが採ったのと全く同じ手で、彼等はドイツやイタリアを裏切り、イギリス側に加担したのであった。ヒトラーがまなじりを決して怒ったのも無理はなかった。何という奇怪、卑劣、陰謀で、それはあったぞ!!

第一の事件のときは、英仏がセルビアオーストリア=ハンガリーに多大の不満を持って居るのを察知し、得意のマソンによる工作を行ったので、あの悲劇が持ちあがったのであった。その時、英仏はセルビアオーストリア太子をやっつけたら独立国にしてやると約束したのであった。

その結果、生まれたのが大英百科辞典(ブリタニカ)にも「ヴェルサイユ体制の中から生まれた最も複雑な國」とある昔のセルビアを中心とするユーゴ・スラヴィア國(それも最初はセルビアクロアチアスロヴェニア王国と言う長い名であった)であった。かのユーゴが三国同盟に入るのに辞職を賭してまで極力反対した三閣僚の中の急先鋒であったコンスタンチノウィッチ法相こそは、特に記憶すべきであろう。猶ユーゴ國には異民族があまたある中にも、純真の猶太教を奉ずるものが、六万八千四百五人もあるそうで、これを以ても、ユダヤの影響が少々でないのを察せられるではないか。それが大部分、ベオグラードサラエボの都市にのみ住んでいるのであるから、これらの都市へのユダヤの勢力は想像以上なのであった。

バルカンが如何に六かしい(難しい)ところで、陰謀の中心であるかは、去る四月五日、テレキーハンガリー首相が謎の自殺を遂げたことでも察せられるであろう。テレキー伯爵は、享年六十二歳、日本に関する地理学の立派な著述があり、ブダペストの極東研究協会長をも勤めたことさえある親日の惜しむべき人物であった。

以上を以てしても、折角の使いもバルカンでは結局実を結ばぬことになり、ドノヴァン大佐の目覚めは猶更悪いものになってしまった。彼は今またその未知数の近東工作に纔(わず)かに望みを繋いでいるが、それも段々見込みが外れて行くらしい。

 

猶太貴族の子スチムソン

ル大統領はその内閣を強化するため、これより先、スティムソンやノックスを反対党(共和党)から引き抜いてそれぞれ陸相及び海相に任じ、米国のみならず世界を驚かした。スティムソンと言うのは、フル・ネームをヘンリー・ルイス・スティムソンと称し、一八六七年米国ニューヨーク州の歴とした猶太系の金融貴族の子として生まれ、エール大学、ハーヴァード法律学校などを卒業、一九一一年、タフト大統領のとき陸相に就任、一九二七年ニカラグアに政治的紛争が起こったとき、米国大統領代表として派遣され、圧力を以て紛争を解決しその手腕を認められた。

一九二八年、フィリピン総督となり、殊更、自由主義的施政を行って有名になった。ここに彼の猶太人らしい特色が大いに発揮されていた。一九二九年、フーヴァー大統領の下に国務長官となり、一九三〇年ロンドン海軍会議代表、一九三一年から同三二年に掛け、國際聯盟軍縮会議代表をつとめ、昭和七、八年の満州事変および第一次上海事変起こるに及び、国務長官として、國際聯盟と呼応して、対日圧迫に躍起となったので我国でもその名はよく知られている。

彼は陸相としては二度の勤め、ル大統領の知遇に感謝しているとか。彼は“不承認主義”の本家本元だ。何でも都合の悪いことは“不承認”で行こうとの肚なのだ。ル大統領は、従来、反対党ながら、スティムソンの“不承認”主義には共鳴していた。

「僕の先祖が支那と盛んに通商したことを知っているだろう。

僕は支那人には前々から常に深い同情を寄せていたのだ。

僕がスティムソン氏と一緒になって、日本を相手にすることはないだろうなんて。

どうして考えることが出来るのだい。」

こういう調子で、いつもスティムソンを支持して来た。

一九三六年の秋、スティムソンは『極東の危機』と題する本を著して、その自画自賛的の己の持論の歴史的沿革や意義を説いた。スティムソンは対支侵略不協力委員会ともいうべき全アメリカにはびこる反日諸団体の元締めともいうべき機関の理事長でもある。スティムソンは満洲事変で、イギリスの外相サイモンに見事肩すかしを食わされたことにつき、遺恨骨髄に徹するとその本に述懐している。

 

連合艦隊司令長官キンメル少将

今一人、ルーズヴェルトの股肱と言うべき男がある。それはハズバンド・キンメル少将である。少将は嘗て彼の猶太的ブレーン・トラストの中でも錚々(そうそう)たるものであった。このキンメル少将は、いくら型破りのアメリカでも、未だ少将の身分でありながら、彼のつい前まではリチャードソン大将のつとめていたアメリ連合艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官の椅子に本年一月八日に突如ル大統領の眼鏡で、ノックス海軍長官の快き承認の下に、滑り込んでしまった幸運児として世を驚かした。キンメル提督は、今年五十八歳で、早くから砲術の鬼才として聞こえ、アメリカ海軍でも強硬主戦派の一人であることをわれらは銘記すべきであろう。

ルーズヴェルトの対日攻勢は、かくて、益々強化されるに至った。

 

故上院外交委員長ピットマン

猶、昨年十一月十日(前英首相チェンバレンの逝去から丁度二日だけ遅れて)を以て死去した対日強硬論者の米上院議員でその外交委員長であった故ピットマンも一八七二年九月ミシシッピ州ヴィックスバーグ市のユダヤ人の豪家に生れ、大学を卒業してから、米国上流社会の有閑青年として社会に出で、色々の経緯を経て遂にあの地位に至った。彼は日本の極東に於ける立場を殊更曲解し、その暴言は米国の識者間にも非難を買っていたほどであった。

その排日の動機が、猶太人の彼らしいから面白い。それはシャトルで辯護士を開業した折のことであるが、性来の冒険好きから丁度その頃盛んになりかけたアラスカの砂金発見にも態々(わざわざ)飛び出し、ドーソンを振り出しに、採金地を血眼になって駆け廻った挙句、到頭ネヴァダの山中のトノバーで幸運にも金ではないが至って有望な銀鉱を見付け、とんとん拍子でその事業は発展し、民主党から選ばれて、上院議員ともなる機会さえ握(つか)んでしまった。

それで、議会でのピットマンの立場と言うものは、自己の地盤であるネヴァダ州の銀を売り込むこと以外には何物もないので、銀貨の正貨併用とか銀買い上げ値段の引上げとかの銀問題のみを頭の中に入れ、銀のためなら、愛国も何も糞もない、どんな問題にでも妥協し、その代償としてル大統領の頤使*(いし)にさえ甘んじ、殊に一九三三年三月上院の外交委員長におさまってからは、彼は己も許し人も許す有名な反日家となったわけであった。

*頤使:いばって、人を使うこと。頤(あご)で使うこと。

彼は、それだから、支那を援助することによって支那の銀購買力を増進させようとした。ところが結果は、銀の対米流出と言う反対の現象を呈し、彼の思惑は外れてしまった。それを、ピットマンは、逆怨みして、日本をあらゆる機会に罵倒した。ル大統領三選なったので、彼はピットマンの毒舌は愈々冴えんとした折柄、天この利己主義一点張りの猶太人に壽*を仮さず、彼は享年六十九であの世に去ってしまった。

 *不明の字

大審院判事フランクフルター

ルーズヴェルトの今一人の乾分(子分)に米国大審院判事フェリックス・フランクフルターがある。元ハーバード大学の教授であり、一八八二年ウィーンの猶太法師の子として生まれ、十二歳で渡米、後の国務卿スティムソンの下で暫くニューヨークで補助検事をつとめ、それからハーバードで行政法の講座を受け持つに至り彼の今日あるの基礎を遂に造った。

タフトが大統領の時、スティムソンに従って陸軍省に入ったこともあったが、又ハーバードへ復帰した。彼もル大統領のブレーン・トラストの一人、砕けて謂えば腰巾着として信任が厚いといわれる。

 

ブナイ・ブリスの組織

米国は何といっても猶太人の楽土である。それで、ニューヨークをジューヨーク、ニュースペーパーをジューズペーパー(「猶太人の新聞」の意となる)、ニュー・ディールをジュー・ディールの如く米国人中の皮肉屋は盛んに文字っている位である。かくも米国には猶太人が幅を利かしている関係上、猶太人ばかりのブナイ・ブリス(Bnai Brith)と称するフラン・マソンの結社すらあるのである。

その他、米国猶太人代表会議(American Jewish Congress)、米国猶太委員会(American Jewish Committee)猶太労働委員会(Jewish Labor Committee)などの三団体もあり、ブナイ・ブリスと連絡をとって活動している。

ブナイ・ブリスとは、ヘブライ語で、「聖約の兄弟」と言う意味である。その本部はシカゴ市にあるが、この結社の始めて生まれたのは、一八四三年ニューヨーク市エセックス街に於いてである。爾来、三十年余り米国内で発展を遂げ、一八八五年にはベルリンへその第八号結社を設け海外への雄飛に便することとなった。続いて、それは、ルーマニアオーストリアハンガリー等々の国々にも拡大して行った。

今は、英国、近東地方にも及び、上海にも数年前この支部が出来た模様である。その総結社数四百二十六、世界中に十一の本部を設け、その中でも七つは米国内にある。普通のマソンは他民族を会員に入れるが、このブナイ・ブリスは猶太人以外は決して入会させない。マソン結社員で猶太人であれば、共通の意味で容易に入会出来るのだ。米国の各学校の教科書から、シェークスピアの『ヴェニスの商人』がシャイロックと言う猶太人の金貸しを侮辱的に描写しているとて、これを除く運動に成功したのも、このブナイ・ブリスであった。

最近では、反アンチ・セミティズム運動のため百万ドルを支出したり、反猶太運動に対抗のための国際的聯盟をさえ組織し、敢闘を続けているそうだ。

 

敗戦英国の運命は?

英国は元来、あのカール・マルクスがこの国へ亡命中、例の『資本論』をロンドンの世界一の図書館と称せられる大英博物館で完成し、英国でその最後の骨を埋めただけあって、お国柄に似合わず、共産主義の勢力は存外根強く、第一次マクドナルド労働党内閣成立当時には、実際、英国共産党の黄金時代を現出した位であった。ところが、何故、このマクドナルド内閣が久しからずして倒壊したかと言うと、それは共産党の驚くべき陰謀が露見したがためであった。

現在、共産党員は、英国の議会では僅か一名の議席しか有するに過ぎないが、知識階級や労働階級にはそれに未練を有するものがあり、その地盤は未だに必ずしも崩壊してはいないのであるから困ったものだ。

今度の欧州戦以後、彼等は潜かにモスクワの指令を受けながら暗躍をはかりつつある現状である。この英国の共産党の活発な運動の展開に関し、コミンテルンは相当の関心を有し、その機関誌『共産インターナショナル』や、米国で別に発行せられる共産党の機関誌『コミュニスト』で絶えずその模様を報道している。

敗残の色漸く濃くなりつつある英本国には、「戦争により富めるものは、ますます富み、労働者の窮乏はいよいよ増大している」とか、「生活必需品の騰貴二十一パーセント、労賃増額七パーセント」などの文句は、刺激性に富み、彼等の宣伝は地獄に囁く甘き言葉のように聞こえ、その影響はじりじりに大きくなってくようである。

この塩梅ではこれが極端に行くと、第一次大戦後のドイツの如き敗戦主義者の思想が時を得顔にのさばる可能性がありはせぬか、英当局は戦々兢々(せんせんきょうきょう)たる有様である。自由党労働組合の御用幹部は、労働者にとりて破滅的な政策を担ぎ出しているとは彼ら共産主義者の常套な言葉となっている。

爆撃下の英国大衆にとって、一番、反感的に思われるのは、富裕階級は完備した防空壕の中で悠々と贅沢な日常生活を楽しみ、戦争によって莫大な利潤を収めつつある一方、プロレタリアートは、家を焼かれ、街路を右往左往しながら、「死の雨」を浴びて儚く死んでいくと言う、眼前にまざまざ見える現象でそれは共産主義の温床とはからずもなっている。

しかし、これと対蹠的なファシズム乃至英国固有の民族主義の主張は共産主義の動向をそれとなく矯正し、今一つの新しい国運の展開の可能性を暗示しつつあるとも見られぬわけでもない。そこに英国の将来性の如何が横たわっている。

今後の英国が単なる民主主義、自由主義のみを以てして、果たして従来の如く生き続けて行かれるかどうかは、世紀の宿題であろう。米国も、若し誤って参戦すれば、遠からず同じような宿題を突き付けられることになりはせぬか。これらは、何人にも慥かに興味ある今のところ簡明に解き難きクエスチョンではあるまいか。