筈見一郎著 「猶太禍の世界」17

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第九章 支那赤化と日本

 

コミンテルン支那撹乱の始め

顧みれば、世界平和の攪乱者、コミンテルンをして、支那側の抗日に今日のような程度まで関心を持たせるに至った、抑も最初の支那コミュニストは誰かと言えば、恐らく、ラオ・シ・タオ(Lao Hsiu-chao*)であろうか。

*Lao Hsiu-chao(漢字不詳):ミルロード・ドラッコヴィッチ著:「コミンテルンの伝記的事典」の246~247頁に次のような記述がある。

1892年、支那で生まれたが、五歳の時から帝政ロシアで過ごした。1917年の革命中ボルシェヴィキの運動を支持し、1918年にボルシェヴィキが外国共産主義者の集団を組織し始めて、12月にラオは在露支那人労働者連合の中央執行委員に選ばれた。1919年3月のコミンテルン設立会議に於いてラオは支那社会主義労働者党を代表し、挨拶の演説を行い、顧問としての議決権を有した。支那人労働組合の議長としてラオは、1919年11月に支那の革命に関して面会したことのあるレーニンを含めたソヴィエト指導者と連絡を取っていた。1920年コミンテルン第二回大会では、ラオは再び支那の代表となり、植民地問題について発言し、大会の終わりの8月11日にはレーニンと再び会談をした。その後、コミンテルンの年報からラオの活動に関してのことは一切姿を消したが、1949年の中共の勝利後はその新政権で様々な外交の役職に就いた。1954年ラオは中共の人民政治顧問会議の一員となり、1960年代初期には中共外交部の司法部門の顧問であった。(燈照隅訳)

 

ラオは大正九年コミンテルン第二回世界大会に出席し、植民地問題付議の席上、それより三年前、支那が大戦に参加し、ドイツを敵として開戦を宣告したものの、ヴェルサイユ会議は、結局、支那には何物をも与えなかったことを指摘して、当時の北京政府の失政と無能振りとを難じ、日本を引合に出し、国内問題を抗日に結び付ける彼一流の論議を展開した。

日本は世界大戦中、支那によって得たもの(青島を諷したものか)を確保しているではないか?

だから、支那代表が、ヴェルサイユから帰った後、北京政府および日本に抗(あらが)う深刻な運動が始められた。

殊に、これがため、日貨のボイコットが扇動されるに至った。

こういう風に、ラオは日本を誣(し)いて*毒舌を振るった。恐らく、これがきっかけで赤魔が極東問題へ付け込み、それが段々昂じて、今日のような悲しむべき事態を生むに至った。

*誣いる:事実と違うことを言う。特に、事実を曲げて人を悪く言う。

それは、翌年(大正十年)の同じモスクワで開かれたコミンテルン第三回世界大会で、どんな排日の議論が、更に推し進められたかを検討すれば容易にわかることである。張太雷と言う支那の代表が、この大会に出席し、世界赤化の何より障害たるべき日本の地位を論じ、コミンテルン指導者の著しい注目を惹いた。

張は、日本を赤化することが、極東に赤色政権を樹(た)てる何よりの重大な前提となし、これこそは、全世界プロレタリアートの死活問題だとまで力説し、日本を赤化する問題が解かれざる限りは、日本はソ連に取り不断の危険な存在であって、極東民族にとっても共産主義への道を塞ぐものだ。日本打倒こそは、世界の三大資本主義(日、英、米)の支柱を顛覆(転覆)するの一事に外ならぬことを強調した。この張太雷の主張は、昭和三年、第六回の世界大会で、コミンテルン綱領の中に採用せられ、赤化運動に当たりて、日本は最も重要な対象の一つとして取り扱われるようになった。

それからというものは、赤の思想が澎湃*として日本を襲おうとした。最高学府の一部にそれが波及するに至り、京大の河上博士その他が検挙されるような歎わしい状態をさえ産んだ。半可通**の学生や若い思慮の定まらないものなどが、この左傾思想の熱に一時浮かされた。だが、結局、日本の國體は、左様な浅薄な思想に微動だもするものではなかった。

*物事が盛んな勢いでわき起こるさま。

**特に中途半端な知識しかないのに、そのことに通じているようなふりをすることをいう。

 

支那への猶太財閥の武器売込

一体、蒋介石が抗日戦のような無謀なことを何故思いついたか?その由来や経緯は相当複雑であるところへ、本書の意図する目的には、あまり用がないから省くことにしたい。ただ、一つの観測として指摘したいのは、それは啻(ただ)にコミンテルンの煽動があったのみならず、専ら支那へ武器を売り込みたいと熱望した英米仏の猶太人武器商人の使嗾(しそう:そそのかし)があったからだということである。なぜなら、彼等は、支那こそは世界で一番有望な武器売り込み先だということを承知していたからである。少なくとも、今度の欧州の戦いが始まる前まではそうであった。

それも彼等は別に支那を愛しているからではない。自分らの金儲けが何よりかわいいからであった。しかも英米仏の政府は百パーセントそれらの武器商人を援助し、彼等猶太閥の欲するがままに動いていたからである。

 

共産党と国民党

是より先、蒋介石によって率いられた国民党なるものは、最早、その創始者孫文の遺志に基づくそれとはまったく異なっていた。あの民族主義を高調し、「民族の利益は何ものよりも高し」と言うスローガンを持っている筈の国民党の真に志している筈の精神が、いつの間にか、藻抜けの殻となり、猶太化し始めたのは相当、淵源(えんげん)が深く、大正十二年六月広東で催された中国共産党第三次全国代表大会(俗に三全大会と略称す)に於いて、中国共産党の領袖が、それぞれ個人の資格で国民党へ加入すべき決議を行ったのに始まるのである。

これは明らかにモスクワのコミンテルンの指令に基づいた彼らの行動であった。そのことが、支那が意識せるとせざるとを問わず、その後の所謂国共合作、即ち国民政府が連露容共の誤った道を歩こうとする、抑もの最初のステップであった。だが、孫文彼自身は、心からの容共主義者ではなかったらしい。

単に政策上、その入党を許可し、中国を一日も早く統一に導かんとするに外ならなかった。また、実際、孫逸仙孫文の本名)としては、その当時、共産党の実力などは大して計算のうちには入れて居らなかった。固より、彼等が、後になって國を売る獅子身中の虫となるなどのことは一向に予期してはいなかった。何分、孫文と言う清濁合わせ呑む大人格があったので、この若干の共産党員のリーダーの国民党加入も、大して、当時は、問題にならなかった。

だが、大正十四年三月、孫文が、北京で客死するや、国民党に一大動揺を来たした。また、それが、きっかけとなって、当然来るべき国民党の容共政策に分裂を来たすに至った。

反共産派、即ち国民党の真実の伝統を守らんとするものと、支那本然のものならぬ猶太思想にかぶれていたものとの間に、ここに公然な対立が生じた。蒋介石は、当時、すでに実際の軍事権を掌握していたので、左右両派を、高圧的に調停し、妥協させるのに成功した。

その時の蒋の宣言は双股膏薬のものであった。

「国民党が国民革命の責任を完成し、直接に、わが故孫文総理の理想とした三民主義を実行するのは、即ち、間接に国際共産主義を実行することと、同じわけになるのである。

三民主義の成功と共産主義の発展とは、両者全く双関関係に置かれている。

予は三民主義の信徒であると同時に、共産主義に対しても忠実な同志である。」

これが、彼の声明であった。

ここに於いて、孫文の折角の三民主義の理想が、実行に於いて、著しく歪曲されるに至った。が、蒋も決して腹からの共産主義謳歌者ではなかった。暫くして、共産派の増長が漸く目に余るものがあった。蒋は、その弊害の国府の根本にも及ぶかのようになったのを懼(おそ)れ、遂に共産派の弾圧に着手した。

謂わば、ポグロムの如きものが行われたのであった。即ち、大正十五年一月、国民党第四次全国代表大会直後のチャンスを掴んで、それを実行した。この大会で、国民党中央執行委員長に王精衛が、同執行委員の一人に蒋自身が当選、蒋は、事実上、国民党の実権を公式に掌握するに至り、最早、左右両派の葛藤を許すべき時に非ずとて、俄然、今までの態度を豹変して、恰も先の宣言を忘却したかのように、共産派に武力的弾圧を加えるに成功した。

かくして、同年の七月、広東から北伐の途へと進発した蒋は、国民革命総司令官に就任、爾後、二ヶ年後の昭和三年七月には、北伐を輝かしくも完成、その年十二月には、残った東三省にも、青天白日旗を翻えさせ、彼の支那統一の目的を殆ど達成したのであった。

一方、労農(ソヴィエト)ロシア社会主義連邦政府支那赤化の歴史を顧みれば、却々(なかなか)に由来が古いのである。ソヴィエト革命がモスクワで成立したのは、大正六年のことであった。ソ連政府は、支那赤化の先駆者として、間もなく、例のヨッフェやカラハンなどを、大使として派遣し、じりじりと、赤化をはかった。

その最初の具体策として、昭和六年十一月七日から二十日まで、中国における共産主義を奉ずるものが、モスクワのコミンテルンの指令で、審議の結果、中華ソヴィエト共和国臨時政府と言う、大それたものを、支那の一角に樹立するに至った。

勿論、それは表向きのものでなく、地中に潜ってのことであった。そのとき、無慮六十三名の中央執行委員が選ばれた。その重なる顔触れは、

朱徳毛沢東周恩来、陳紹禹(ちんしょうう)、彭徳懐(ほうとくかい)、項英、張國燾(ちょうこくとう)などの手合いであった。

 

西安事件の直前

一方、蒋介石の権威は、中国の殆ど全部を圧するの慨(がい)があり、蒋の地位は金輪際安全と思われていたのに、ここに、意外の出来事が醸され、中外を青天の霹靂のように驚かした。それは、忘れもしない、昭和十一年十二月十二日のことであった。

蒋介石は突如として張学良の手により西安に監禁されるという一大珍事が持ちあがったのであった。この西安事件の真相に至りては、何分、御本尊の蒋自身が、必要以上に、日本を刺激するのを恐れ、ひた隠しに隠していた関係もあって、遺憾ながら、当時の日本のニュースや言論では、正鵠を得た観測は、一つもなかった。実際、これは、共産党の久しき以前から、極秘の間に企んで来た、非常手段(クーデター)なのであった。

世界中の誰もが、この奇々怪々たる事件が、その間際、刻一刻と忍び寄るのを、全然関心しなかった。否、蒋介石自身の大本営ですら、中国の官僚的スパイ機関たる藍衣社*にすら、つい鼻先の西安の警察の縦横に張りめぐらされた蟻の這う余地すらない厳戒振りの間にも、何事が起ころうとしていたか? 一向に気が付かれなかったのである。

*蒋介石を永久最高の領袖としていただく反共秘密政治結社

当時、西安の刑務所には、約三百人余りの共産党禁錮されたままであった。しかも、藍衣社は、なおも、旺(さか)んに、共産党狩りをなしつつある真っ最中であった。極度に緊張の雰囲気が西安の市中に漲(みなぎ)っていた。スパイが到る処を監視しているばかりか、そのスパイをさらにスパイする峻烈な空気が、あたりを森然と支配していた。