フリーメーソンと世界革命10(現代文)

11.イタリアに於ける革命的フリーメーソン

 

1805年イタリアのジェノヴァに生まれたマッツィーニは、1821年以後、欧州各国で行われた革命の代表者と称することの出来る人物である。若い時から革命思想を持って政治的活動を行い1831年には青年イタリア(Giovine Italia[1])を創設した。同団の目的は、イタリアを統一して自由な共和国を建設することであった。1831年には、ドイツ、ポーランドの同志の青年を説得して、青年ヨーロッパを作った。マッツィーニの主要な目的は、イタリアを滅ぼし、法王の權力を除き、全世界に共和國を建設することであった。彼は各国の有名な革命家と交わった。彼は世界の平和は革命及び戦争によって得られるべしと説いた。彼はガリバルディの戦闘行為を極力支援した。マッツィーニもガリバルディも、共にフリーメーソン結社員であったが、マッツィーニは未だフリーメーソンの勢力を政治上に応用するには至らなかった。それは当時未だフリーメーソンに、それほどの力がなかったからである。1872年になり、初めてイタリアのフリーメーソンは統一され、マッツィーニの意図のように指導されるに至った。今次の大戦に、イタリアが善戦したのは、フリーメーソンの力によるものが最も大きかったのである。

イタリアのフリーメーソンは1870年に、法王の世界的勢力を絶滅すべきことを主張した。又イタリア統一主義者の中にも、多数のフリーメーソン結社員がいた。イタリアのフリーメーソンはヨーゼフ一世を爆弾で暗殺しようと計画して殺された犯人を殉教者と崇めた。マッツィーニは「復讐のために人を殺すのは犯罪であるが、国民の幸福のために暴君を除くのは、一つの戦争行為であり、また道徳である」と言った。マッツィーニ自身もカール・アルベルト王を暗殺しようとした男に直接匕首(あいくち)を手渡したことがある。(この暗殺はこの男が心変わりしたので行われなかった。)かつてマッツィーニの率いる団体は、フェルディナンド二世の殺害を決議し、十万ドゥカーテン[2]の賞金を懸けた。1858年にある兵卒がこれを決行したが捕らえられて殺された。ガリバルディは、その四年後にナポリに侵入した後、その兵卒の母に国家より恩給を支給することにした。要するにマッツィーニもガリバルディも、一生革命家で、且つ共和主義者(つまり反王政)であったが、*イタリア王は彼等を尊敬せざるを得なかった。(*イタリア王は寧ろ彼等に臣従したのであった。原典より燈照隅意訳

イタリアのフリーメーソン社員は、彼等の遺志を継いでその最後の要求である王政及び貴族廃止を実現する時機を待っているのである。因みにフンベルト一世を暗殺した者[3]は、アナーキストであったが、その自白によると、結社員に傭われてそれを実行したのであった。

 

[1] 青年イタリア、青年イタリア党、あるいはジョーヴィネ・イタリアは、1831年ジュゼッペ・マッツィーニが結成した政治結社である。カルボナリ衰退後のイタリア統一運動の中心を担い、共和主義によるイタリア統一を企てて反乱を繰り返したが、弾圧を受けて凋落した。カルボナリは、19世紀前半にイタリアとフランスに興った急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げる革命的秘密結社。

[2] ドゥカートDukaten(ドイツ語)/ducat(英語)は中世から20世紀後半まで欧州で広く使用された硬貨。

[3] 原典・原文ともウンベルト二世となっているが、ウンベルト一世の間違いに思われる。【暗殺事件】犯人は無政府主義者のガエタノ・ブレーシ(原典ではAngelo Pressi)。トスカナ生まれでアメリカ育ち。1898年にパンの高騰に抗議デモをした民衆を武力鎮圧した将軍を王が賞賛したことが動機。彼は1900年7月29日、モンツァを訪れていたウンベルト一世を3回銃撃した。裁判で重労働の懲役刑となったが、収監後一年足らずで彼は監獄で死んでいるのが発見された。死因は自殺によるものとされたが、裁判中フリーメーソン結社員に雇われたことを自白した爲に看守によって殺害されたと考えられている。

 

 

12.スペイン及びポルトガルに於ける革命的フリーメーソン

 

スペインの大組合(大東社)は、現在組合百二十個を有し、会員数五千二百人に及んでいる。この会員数は戦役間に約20%の増加があった結果で、戦時におけるフリーメーソン幹部の活動振りを想像することが出来る。スペインのフリーメーソンは1728年英国から入って来たもので、1751年には政治に関係したと言う廉(かど)で禁止されたが、この禁令はあまり励行されず、組合数は徐々に増加し、1767年には英国の大組合から分離して独立し、1780年に大組合を創設した。1808年、ブルボン王家が没落した時は、スペインのフリーメーソンは大いに喜んだ。フランス統治時代、ジョセフ・ボナパルトが、スペイン大組合の長となった当時、フリーメーソンがどの程度まで革命に参与したかは詳しく分からないが、最近ではすべての革命的企図に参加し、公然と共和政体の採用を主張している。1905年、アルフォンソ十三世の婚儀の行列に爆弾を投げつけ[4]、王の暗殺を計画した無政府主義者は、フリーメーソン社員とも関係があった。この無政府主義者は、裁判の結果、意外にも無罪放免となった。その弁護人は結社員であった。これを見ても、スペインフリーメーソンの精神は明瞭である。

ポルトガルでは、組合数百三十三個、会員数四千三百四十一人で、その長は有名な革命家リマであって、同氏は1915年成立した内閣では、労働大臣の職に就いた。彼は世界フリーメーソンを通じての有名者、指導者で、すでに1907年パリの組合で行なった講和の際「ポルトガルの王政没落、共和政治の必要」を説いたが、その後数週にして、同国王は皇太子と共に暗殺された。その後マヌエル王が立ったが、この王も間もなくフリーメーソンを首謀者とする革命のために、その位を追われた。(1910年革命)

 

[4] 実行犯であるマテオ・モラル(Mateu Morral)は、1906年5月31日、花束に隠した爆弾をホテルの一室から婚礼の列に投げつけた。アルフォンソ13世と花嫁ビクトリア・エウヘニアは無事だったが、観衆と兵士24人が死亡し、百人以上がけがをする惨事となった。モラルはジャーナリストのホゼ・ナケンスを頼って逃げた。二日後、隠匿協力者を疑って逃げたモラルは、その二日後、警察の追及の結果、捕縛しようとした民兵一人を射殺した後、自殺した。

その後の捜査でバルセロナ無政府主義無宗教主義、自由主義の思想教育をする学校を運営して居たフリーメーソン無政府主義者、フランセスク・ファレー・イ・グアルディア(Francisco Ferrer)が主犯として逮捕されたが、裁判で証拠不十分とされ釈放されている。

なお、フランセスク・ファレーはその後、バルセロナで1909年8月に起きた「悲劇の週」と呼ばれる無政府主義者の暴動の策謀者として逮捕され、軍法会議の結果、1909年10月13日に処刑された。この処刑に対しては、欧州の国々から「証拠もなく冤罪である」と、多くの批判が寄せられた。(報道新聞をフリーメーソンが握っていた爲。更に1930年代のスペイン内戦への伏線。)

 

 

13.トルコに於ける革命的フリーメーソン

 

十九世紀は、トルコに取って最も不幸な時代であった。その属領は相次いで離反し、多数の国王はその位を奪われた。即ちセリム三世[5]は1808年に弑され、ムスタファ四世[6]は1809年、その兄弟マフムト二世[7]は殺され、アブデュルアズィズ[8]は廃せられ、ムラト五世[9]は1876年に王位を追われた。この内ムラト五世などは、フリーメーソンの高級の階級を持って居た。しかもアブドルハミドは、フリーメーソンを恐れ、多数の諜者を使って警戒した。

1900年頃以来、フランスの大組合は、トルコの国内の状況について考慮し始めた。青年トルコ党[10]は、主としてユダヤ人、ギリシャ人、及びアルメニア人からなっているのだが、その政治上の成績が思わしくないので、フリーメーソンに援助を求めたところ、その成果はたちまち現れた。青年トルコ秘密委員会なるものが組織され、その本部をサロニカに置いた。サロニカは有名なユダヤ人の街で人口十一万の内七万はユダヤ人である。そのほか同地に多数の組合が組織されたが、これらは列国外交の保護を受けたため、トルコ王はこれに如何ともすることが出来なかった。青年トルコ党は組合に入って革命を準備した。つまり、党員は殆ど全部フリーメーソン社員で、その内ユダヤ人が最有力な地位を占めた。このようにして革命は成就し、フリーメーソンは凱歌を奏したのである。

 

[5] Selim III.(1762~1808)セリム三世は、は、オスマン帝国の第28代皇帝(在位:1789年4月7日 - 1807年5月29日)。第26代皇帝・ムスタファ三世の子。

[6] Mustafa IV.(1779~1808)ムスタファ四世は、オスマン帝国の第29代皇帝(在位:1807年5月29日 - 1808年7月28日)。第27代皇帝アブデュルハミト1世の子でマフムト2世の兄。

[7] Mahmud II.(1785~1839)マフムト二世は、オスマン帝国の第30代皇帝(在位:1808年 - 1839年)。父は第27代皇帝アブデュルハミト1世、母ナクシディル・スルタンはフランス人でナポレオン1世の義理の従妹とする伝説が有名だが、実際は不詳である。第29代ムスタファ4世の異母弟。

[8] Abdülaziz(1830~1876)アブデュルアズィズは、オスマン帝国の第32代皇帝(在位:1861年 - 1876年)。第30代皇帝マフムト2世の子で、第31代皇帝アブデュルメジト1世の弟。子にアブデュルメジト2世

[9] Murat V(1840~1904)ムラト五世はオスマン帝国の第33代皇帝(在位:1876年5月30日 - 1876年8月31日)。第31代皇帝アブデュルメジト1世の長男で、アブデュルハミト2世、メフメト5世、メフメト6世の兄。オスマン帝国のスルタンとして唯一のフリーメイソン会員。

[10]青年トルコ党」と屡々呼ばれている、青年トルコ人とは、19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世専制政治を打倒し、オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家たちのことをいう総称である。特定の政治結社を言うものではない。

我々がトルコを救った英雄のように学校で習った「ケマル・アタチュルク」も実は青年トルコ党ユダヤ人青年であった。

 

 

14.セルビアの革命的フリーメーソン
オーストリア皇太子暗殺の真相)

 

1912年5月23日、ベオグラードに創設されたセルビアフリーメーソンの最高会議は、1914年5月31日、フランクフルト・アム・マインで開催したドイツ大組合の会合において承認を受けたが、その四週間後の6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド大公はサラエヴォにおいて、セルビアフリーメーソン社員に暗殺された。この社員らは大セルビア秘密結社Narodna Odbrana[11](国民軍)(セルビアフリーメーソンはこの政治的秘密結社との結合によりその力を増大した)の援助を受けて、これを実行した。爆弾投擲者に武器を交付し、且つその用法を教授したタンコシッチ[12]少佐も、暗殺者にブローニング[13](拳銃)及び爆弾を手交したシガノヴィチ[14]も、共にフリーメーソン社員であった。この両人はNarodra Odbrana(国民軍)の指導者でもあった。ベオグラード組合は大セルビア秘密結社Narodna Odbranaの本部のある家屋内に於てその集会を催した。暗殺者中チャブリノヴィッチ[15]は、その自白によると同じくフリーメーソン結社員であった。暗殺の爲の費用はフリーメーソン結社員カジミロヴィッチ[16]が、1914年4月中、仏英両国に旅行して調達した。これ等はすべて公文書に記録された事実である。最後にサラエヴォの裁判の際、多数の証人が、オーストリア皇太子の暗殺は既に1912年にフランス大組合が決定した事で、唯暗殺実行者が居なかったために、まだ実行されずにあった事を確認した。今、当時の訴訟調書中で、フリーメーソンに関係ある部分を速記録から抜粋して見よう。

 

当時の自由主義フリーメーソン的)の新聞は、この訴訟について、全く記載しなかったり、或いは記載しても真相の分からない様に、切り詰めて書いただけであった、この暗殺事件に関する組合の代表者は、セルビア人のカジミロヴィッチであった。彼について被告爆弾投擲者チャブリノヴィッチは次の様に言った。

[チャブリノヴィッチ] 彼(カジミロヴィッチ)は、フリーメーソン社員で、然も其の領袖株の一人だったと思う。彼は暗殺を決定した後、全世界に旅行した。彼はブダペスト、ロシア及びフランスにも行った。私がシガノヴィチに、一件はどうなっているかと聞く毎に、彼はいつも「カジミロヴィッチが帰って来たなら……」と言うのであった。当時シガノヴィチは、又私に向かい、フリーメーソン社員は、既に二年前(1912年)オーストリア皇太子に死刑の宣告を与えたが、この判決の執行者が居なかったのだと語った。その後彼が私にブローニング(拳銃)と弾薬を渡した時に、「あの男は、昨晩ブダペストから帰って来た」と言った。私はこの人が我々の要件と関連して旅行し、且つ外国で或る一定の人々と商議したことを知っている」

[裁  判  長]         貴方の話すことは作り話ではないか。

[チャブリノヴィッチ]  これは全くの事実で、Narodna Odbranaに関するあなたの書類より、百倍も本当である。

[弁護任ブレムジッツ]  貴方はロッジの書を読んだことがあるか。

[チャブリノヴィッチ]  私は、彼のフリーメーソンに関する論文を読んだ。

[ブレムジッツ]            その書類はベオグラードに分配されたのか。

[チャブリノヴィッチ]  私は植字工として、この書類の活字を組んだ。

[ブレムジッツ]            貴方は神、或いは何か、或る物を信ずるか。

[チャブリノヴィッチ]  否。

[ブレムジッツ]            貴方はフリーメーソンか。

[チャブリノヴィッチ]  (狼狽して暫く沈黙する。その後、ブレムジッツに向かい、彼を見て)貴方はなぜそれを私に聞くのか。私はそれについては答えることは出来ない。

[ブレムジッツ]            タンコシッチはフリーメーソン社員か。

[チャブリノヴィッチ]  (再び狼狽して沈黙する)なぜ、それを尋ねるか。
(暫く沈黙の後)そうです。それからシガノヴィチも……

[裁  判  長]     それで汝もフリーメーソン社員だということになる。何故なら、フリーメーソン社員は、同結社員以外の者に対しては、決して自分がフリーメーソン社員であることを言わないから。

[チャブリノヴィッチ]  その事は聞いて下さるな、そのことについては答えません。

[裁  判  長]         問いに答えないものは、この問いに対し、肯定するものである。

[チャブリノヴィッチ]  …………

[裁  判  長]         動機についても少し述べよ。貴方が殺害の決心をする前に、タンコシッチ及びシガノヴィチがフリーメーソン社員だということが分かったか。貴方及び彼等がフリーメーソン社員だということが、貴方の決心に影響したか。

[チャブリノヴィッチ]  その通り。

[裁  判  長]         貴方は彼等から暗殺実行の任務を受けたか、説明せよ。

[チャブリノヴィッチ]  私は誰からもその任務を受けなかった。フリーメーソンは、私の決心を強めたという点において、私の行為と関係がある。

                                        フリーメーソンでは、殺人は許されている。シガノヴィチは、私にフランツ・フェルディナンド大公は、既に一年前に死刑の宣告を受けたことを語った。

[裁  判  長]         彼はそのことをすぐに貴方に語ったか。それとも貴方が実行しようと言った後に語ったか。

[チャブリノヴィッチ]  我々はその以前に於て、フリーメーソンについて話したが、彼は我等が確かに殺害の決心をするまでは、我等に対しこの死刑の判決についてはちっとも話さなかった。

[裁  判  長]         貴方はシガノヴィチとフリーメーソンについて話したことがあるか。

プリンツィプ[17]]          (ユダヤ人、当の下手人)
(大胆に)何故私にそれを尋ねるか。

[裁  判  長]         私はそれを知りたいがために尋ねるのである。貴方は彼とこの事について話したか、否か。

プリンツィプ]            話した。彼は自分がフリーメーソン社員だということも私に語った。

[裁  判  長]         彼がフリーメーソン社員だということを、何時貴方に話したか。

プリンツィプ]            私が殺害実行の費用について、彼に問うた時に彼はそれを言った。且つ彼はある一定の人と話をして、この人からその費用を受けると語った。また他の機会に、彼は私にオーストリア皇太子は、フリーメーソンのある組合で、死刑の宣告を受けたことを語った。

[裁  判  長]         そして貴方は!貴方も多分フリーメーソン社員だろうね。

プリンツィプ]            何のためにそんなことを尋ねられるか。(一寸間を置いて)私は社員ではない。

[裁  判  長]         チャブリノヴィッチは、フリーメーソン社員か。

プリンツィプ]            私はそれを知らないが、或いはそうかも知れない。彼は話のついでにある組合に入会する筈だと私に語ったことがある。

以上の記事によっても、暗殺の計画はフリーメーソンから出ていることは極めて明瞭である。唯暗殺実行者を得られなかったために、一年以上を経過してしまった。そこで不思議な方法で、「チャブリノヴィッチ」、「プリンツィプ」その他の者に暗殺の考えを起こさせ、彼等を使って、長らくの間準備した行為を実行させたのである。その詳細についてはここに述べることが出来ないが、唯調書に基づき、暗殺者等にブローニング、弾薬、金子及び爆弾を交付したシガノヴィチは、他の者らと同じくボスニア生まれで、ベオグラードの鉄道下級従業員であった事を挙げるに止めよう。彼はフリーメーソン社員タンコシッチ少佐から金を受け取った。少佐は豊富に金を持って居て、自ら武器を購入した。

オーストリアフリーメーソン新聞は、皇太子暗殺の報を得ても、これに関しその新聞紙上に何も掲載しなかったが、フランスフリーメーソン新聞アカシアは、この暗殺を英雄的事業だと賞賛した。パリにおいては既に1910年にオーストリア皇室に近く凶変があると予言するものがあった。同時にドイツのホーエンツォレルン王朝も1910年には終わりを告げると言われた。併し予言の時期は、事実よりも五年早すぎではあったが、だからと言ってこの事実に対する努力の始まった時期をおおよそうかがい知ることが出来る。パリの有名な女予言者テベス夫人[18]は、社会各方面の人士と交際し、その予言の資料を得て、毎年十二月にその予言書を発表した。1910年の発表で「オーストリア皇太子は即位しない。その代わりに、今では皇位継承者ではない青年が、即位することになる」と言った。そしてオーストリア皇室の凶変が、予言した1913年に行なわれなかった時、この予言夫人は、一向平気で「今年は行われなかったが、来年(1914年)前半期には必ず実現する」と予言した。(皇太子暗殺は六月二十八日)オーストリア=ハンガリー帝国の新聞も大概毎年この記事を掲げ、幾万の読者は興味を以て之を読んだが、やがて忘れてしまった。テーベ夫人の予言で満足しない人は、1912年に著された小冊子に次の様な記事があるのを見るがよい。

人々は、スイスのある高級フリーメーソン社員が皇太子の事に関して言った次の言葉を了解する時があるであろう。「彼は非常に優秀な人物であるが、気の毒ながら、彼は既に判決を受けた。彼は王位につくに先立って死ぬであろう」と。

ここで、我々は次の疑問が生ずるのを禁じ得ない。つまりドイツの大組合会議は、この事を知って居たか、Narodna Odbrana(国民軍)の事業を知っていたか。セルビアフリーメーソンが、高等政治的の実質を持っていることを知っていたか。その指揮者を知っていたか。Narodna Odbranaと、セルビアフリーメーソンとの関係を知っていたか、と。ドイツの大棟梁は南方及び西方諸国のフリーメーソンは、その企図を隠す為に、常に国家的団体(イタリアのカルボナリ党[19]、トルコの青年トルコ党等)を利用していたことを知らなかったのだろうか。何れにしても、セルビアフリーメーソン最高会議を承認したドイツの大組合は、世界戦争の発起点たるセルビアフリーメーソンの活動について無関係ということは出来ない。

皇太子フランツ・フェルディナンドはその生まれながらの資質が英邁で、近い将来、必ず強力な皇帝、即ちフリーメーソン側から言えば「暴君」となったに違いない。これも同皇太子と、ドイツカイザーとの良好なる関係と相俟って[20]フリーメーソンの第一目標となった主なる原因であった。

 

 

 

 

[11] ナロドナ・オドブラナは、ボスニアヘルツェゴビナオーストリアハンガリー併合に対する反応として1908年10月8日に設立されたセルビア民族主義組織。この外にセルビア民族主義組織「Black Hand」なる秘密結社もあった。

[12] Vojislav Tankosićヴォジスラヴ・タンコシッチは、セルビア軍将校、セルビア・チェトニク組織のボイヴォダ、セルビア軍の大部隊、そして5月のクーデターに参加し、フェルディナンド大公の暗殺に関与したとして告発されたブラック・ハンドのメンバー。墺国セルビアを攻撃したとき許されて釈放され、第一次大戦で戦死。

[13] Brownings ジョン・ブローニングが開発し、暗殺に使われたFN ブローニングM1910自動式拳銃のこと。

[14] Milan Ciganović ミラン・シガノヴィチはサラエヴォ事件の主犯格、カブリノビッチ、プリンチプ、グラベスに4つのリボルバー、6つの爆弾、毒の小瓶を与えた

[15] Nedeljko Čabrinović ネデリュコ・チャブリノヴィッチはサラエヴォ事件で皇太子の車に爆弾を投擲した実行犯の七人の一人。

[16] Dr. Radoslav Kazimirović ラドスラフ・カジミロヴィッチは「ナロドナ・オドブラナ」の指導者の一人でチャブリノヴィッチの自白によるとセルビアの高階級フリーメーソン(詳細不明)

[17] Gavrilo Principはオーストリア皇太子暗殺の実行犯。

[18] Anne Victorine Savigny(1845~1916)の筆名。フランスの千里眼・予言者・手相占い師。ボーア戦争日露戦争サラエボ事件などを予言したと言われる。

[19] カルボナリは、19世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げた。カルボナリは炭焼き職人のことで、炭焼き職人のギルドを模した秘密結社ともいわれる。徒弟制度の階層構造はフリーメーソンのそれと同質である。

[20] 原文:関係が。前後の文脈から「関係と相俟って」に変更した。

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フリーメーソンと世界革命10(原文)

11.伊太利に於ける革命的フリーメーソン

 

1805年伊太利ジェノヴァに生まれたるマッツィーニは、1821年以後、歐洲各國に行はれたる革命の代表者と稱することの出來る人物である。若い時から革命思想を持して政治的活動をなし1831年には青年伊太利(Giovine Italia[1])を創設した。同団の目的は、イタリアを統一して自由なる共和國を建設するにあつた。1831年には、独逸、波蘭の同志の青年を説いて、青年欧羅巴を作った。マッツィーニの主要なる目的は、伊太利を滅ぼし、法王の權力を除き、全世界に共和國を建設するにあった。彼は各國知名の革命家と交つた。彼は世界の平和は革命及戦爭に依つて得られるべしと説いた。彼はガリバルディの戦闘行爲を極力支援した。マッツィーニもガリバルディも、共にフリーメーソン結社員であつたが、マッツィーニはまだフリーメーソンの勢力を政治上に應用するには至らなかつた。それは當時まだフリーメーソンに、それ程の力がなかつたからである。1872年に至り、初めて伊太利のフリーメーソンは統一され、マッツィーニの意圖の如く指導さるゝに至つた。今次の大戦に、伊太利の善戦したのは、フリーメーソンが與かつて最も力があつたのである。

伊太利のフリーメーソンは1870年に、法王の世界的勢力を絶滅すべきことを主張した。又伊太利統一主義者中にも、多數のフリーメーソン結社員がある。伊太利のフリーメーソンはヨーゼフ一世を爆弾を以て暗殺しやうと計りて殺された犯人を以て殉教者と崇めた。マッツィーニは「復讐の爲に人を殺すのは犯罪であるが、國民の幸福の爲に暴君を除くのは、一の戦爭行爲であり、又道徳である」と云つた。マッツィーニ自身もカール・アルベルト王を暗殺せんとした男に手づから匕首を與へたことがある。(此暗殺は此男が變心したので行はれなかつた。)嘗てマッツィーニの率ゐる団體は、フェルディナンド二世の殺害を決議し、十萬ドゥカーテン[2]の懸賞をかけた。1858年に或る兵卒が之を試みたが捕へられて殺された。ガリバルディは、其四年後にナポリに侵入した後、其兵卒の母に國家より恩給を支給することにした。要するにマッツィーニもガリバルディも、一生革命家で、且共和主義者(つまり反王政)であつたが、*伊太利王は彼等を尊敬せざるを得なかつた。(*伊太利王は寧ろ彼等に臣従したのであった。原典より燈照隅意訳

伊太利のフリーメーソン社員は、彼等の遺志を継いで其最後の要求たる王政及貴族廃止を實現する時機を待つてゐるのである。因にフンベルト一世を暗殺した者[3]は、アナーキストであつたが、其自白によると、結社員に傭はれて之を實行したのであつた。

 

[1] 青年イタリア、青年イタリア党、あるいはジョーヴィネ・イタリアは、1831年ジュゼッペ・マッツィーニが結成した政治結社である。カルボナリ衰退後のイタリア統一運動の中心を担い、共和主義によるイタリア統一を企てて反乱を繰り返したが、弾圧を受けて凋落した。カルボナリは、19世紀前半にイタリアとフランスに興った急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げる革命的秘密結社。

[2] ドゥカートDukaten(ドイツ語)/ducat(英語)は中世から20世紀後半まで欧州で広く使用された硬貨。

[3] 原典・原文ともウンベルト二世となっているが、ウンベルト一世の間違いと思われる。【暗殺事件】犯人は無政府主義者のガエタノ・ブレーシ(原典ではAngelo Pressi)。トスカナ生まれでアメリカ育ち。1898年にパンの高騰に抗議デモをした民衆を武力鎮圧した将軍を王が賞賛したことが動機。彼は1900年7月29日、モンツァを訪れていたウンベルト一世を3回銃撃した。裁判で重労働の懲役刑となったが、収監後一年足らずで彼は監獄で死んでいるのが発見された。死因は自殺によるものとされたが、裁判中フリーメーソン結社員に雇われたことを自白した爲に看守によって殺害されたと考えられている。

 

 

12.西班牙及び葡萄牙に於ける革命的フリーメーソン

 

スペインの大組合(大東社)は、現在組合120個を有し、會員數5,200人に及んで居る。此會員數は戦役間に約20%の増加があつた結果で、戦時に於けるフリーメーソン幹部の活動振を想見することが出來る。西班牙のフリーメーソンは1728年英國から入つて來たもので、1751年には政治に關係したと云ふ廉(かど)で禁止されたが、此禁令は餘り勵行されず、組合數は漸次増加し、1767年には英國の大組合から分離して独立し、1780年に大組合を創設した。1808年、ブルボン王家が没落した時は、西班牙のフリーメーソンは大に喜んだ。佛國統治時代、ジョセフ・ボナパルトが、西班牙大組合の長となつた當時、フリーメーソンが幾何(いくばく)の程度まで革命に参與したかは詳(つまび)らかでないが、近時は凡ての革命的企圖に参加し、公然共和政體の採用を主張して居る。1905年、アルフォンソ十三世の婚儀の行列に爆弾を投げ附け[4]、王の暗殺を計つた無政府主義者は、フリーメーソン社員とも關係があつた。此無政府主義者は、裁判の結果、意外にも無罪放免となつた。其辯護人は結社員であつた。之を以てしても、西班牙フリーメーソンの精神は明瞭である。

葡萄牙では、組合數133個、會員數4,341人で、其長は有名なる革命家リマであつて、同氏は1915年成立した内閣では、労働大臣の職に就いた。彼は世界フリーメーソンを通じての有名者、指導者で、彼は既に1907年巴里の組合で行つた講話の際「葡萄牙の王政没落、共和政治の必要」を説いたが、其後數週にして、同國王は皇太子と共に暗殺せられた。其後マヌエル王が立つたが、此王も間もなくフリーメーソンを首謀者とせる革命の爲に、其位を逐はれた。(1910年革命)

 

[4] 実行犯であるマテオ・モラル(Mateu Morral)は、1906年5月31日、花束に隠した爆弾をホテルの一室から婚礼の列に投げつけた。アルフォンソ13世と花嫁ビクトリア・エウヘニアは無事だったが、観衆と兵士24人が死亡し、百人以上がけがをする惨事となった。モラルはジャーナリストのホゼ・ナケンスを頼って逃げた。二日後、隠匿協力者を疑って逃げたモラルは、その二日後、警察の追及の結果、捕縛しようとした民兵一人を射殺した後、自殺した。

 その後の捜査でバルセロナ無政府主義無宗教主義、自由主義の思想教育をする学校を運営して居たフリーメーソン無政府主義者、フランセスク・ファレー・イ・グアルディア(Francisco Ferrer)が主犯として逮捕されたが、裁判で証拠不十分とされ釈放されている。

なお、フランセスク・ファレーはその後、バルセロナで1909年8月に起きた「悲劇の週」と呼ばれる無政府主義者の暴動の策謀者として逮捕され、軍法会議の結果、1909年10月13日に處刑された。この處刑に対しては、欧州の国々から「証拠もなく冤罪である」と、多くの批判が寄せられた。(報道新聞をフリーメーソンが握っていた爲。更に1930年代のスペイン内戦への伏線。)

 

 

13.土耳古に於ける革命的フリーメーソン

 

第十九世紀は、土耳古に取りて最も不幸なる時代であつた。其属領は相踵いて離反し、多數の國王は其位を奪はれた。即ちセリム三世[5]は1808年に弑せられ、ムスタファ四世[6]は1809年、其兄弟マフムト二世[7]は殺され、アブデュルアズィズ[8]は廃せられ、ムラト五世[9]は1876年に王位を逐はれた。此の内ムラト五世の如きは、フリーメーソンの高級の階級を持つて居た。而もアブドルハミドは、フリーメーソンを恐れ、多數の諜者を使つて警戒した。

1900年頃以來、佛國の大組合は、土耳古の國内の情況に就て考慮し始めた。青年土耳古[10]は、主として猶太人、希臘人、及アルメニア人から成つて居るのだが、其政治上の成績思はしくないので、フリーメーソンに援助を求めた處、其成果は忽ち現はれた。即ち青年土耳古秘密委員會なるものが組織せられ、其本部をサロニカに置いた。サロニカは有名なる猶太人の市街で人口十一萬の内七萬は猶太人である。其外同地に多數の組合が組織せられたが、之等は列國外交の保護を受けた爲、土耳古王は之に對し如何ともすることが出來なかつた。青年土耳古黨は組合に入つて革命を準備した。即ち該黨員は殆ど全部フリーメーソン社員で、其内猶太人が最有力な地位を占めた。斯くて革命は成就し、フリーメーソンは凱歌を奏したのである。

 

[5] Selim III.(1762~1808)セリム三世は、は、オスマン帝国の第28代皇帝(在位:1789年4月7日 - 1807年5月29日)。第26代皇帝・ムスタファ三世の子。

[6] Mustafa IV.(1779~1808)ムスタファ四世は、オスマン帝国の第29代皇帝(在位:1807年5月29日 - 1808年7月28日)。第27代皇帝アブデュルハミト1世の子でマフムト2世の兄。

[7] Mahmud II.(1785~1839)マフムト二世は、オスマン帝国の第30代皇帝(在位:1808年 - 1839年)。父は第27代皇帝アブデュルハミト1世、母ナクシディル・スルタンはフランス人でナポレオン1世の義理の従妹とする伝説が有名だが、実際は不詳である。第29代ムスタファ4世の異母弟。

[8] Abdülaziz(1830~1876)アブデュルアズィズは、オスマン帝国の第32代皇帝(在位:1861年 - 1876年)。第30代皇帝マフムト2世の子で、第31代皇帝アブデュルメジト1世の弟。子にアブデュルメジト2世

[9] Murat V(1840~1904)ムラト五世はオスマン帝国の第33代皇帝(在位:1876年5月30日 - 1876年8月31日)。第31代皇帝アブデュルメジト1世の長男で、アブデュルハミト2世、メフメト5世、メフメト6世の兄。オスマン帝国のスルタンとして唯一のフリーメイソン会員。

[10]青年トルコ党」と屡々呼ばれている、青年トルコ人とは、19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世専制政治を打倒し、オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家たちのことをいう総称である。特定の政治結社を云ふものではない。

 

 

14.塞耳比亜(セルビア)の革命的フリーメーソン
(墺國皇儲暗殺の眞相)

 

1912年5月23日、ベオグラードに創設せられたるセルビアフリーメーソンの最高會議は、1914年5月31日、フランクフルト・アム・マインに開催せる獨逸大組合の會合に於て承認を受けたが、其の四週間後の6月28日、墺國皇儲フランツ・フェルディナンド大公はサラエヴォに於て、セルビアフリーメーソン社員の爲めに暗殺された。此社員等は大セルビア秘密結社Narodna Odbrana[11](國民軍)(セルビアフリーメーソンは此政治的秘密結社との結合により其の力を増大した)の援助を受けて、之を實行した。爆弾投擲者に武器を交附し、且其の用法を教授したタンコシッチ[12]少佐も、暗殺者にブローニング[13](拳銃)及び爆弾を手交したシガノヴィチ[14]も、共にフリーメーソン社員であつた。此の両人はNarodra Odbrana(國民軍)の指導者でもあつた。ベオグラード組合は大セルビア秘密結社Narodna Odbranaの本部のある家屋内に於て其の集會を催ほした。暗殺者中カブリノヴィチ[15]は、其の自白に依ると同じくフリーメーソン結社員であつた。暗殺の爲めの費用はフリーメーソン結社員カジミロヴィッチ[16]が、1914年4月中、佛、英両國に旅行して調達した。之等は凡て公文書に記録された事實である。最後にサラエヴォの裁判の際、多數の證人は、墺國皇儲の暗殺は、既に1912年に佛國大組合が決定した事で、唯暗殺實行者が居なかつた爲めに、まだ實行されずにあつた事が確かめられた。今、當時の訴訟調書中、フリーメーソンに關係ある部分を速記録から抜粋して見やう。

 

當時の自由主義フリーメーソン的)の新聞は、此訴訟に就て、全く記載しなかつたり、或は記載しても眞相の分らない様に、切り詰めて書いただけであつた、此暗殺事件に關する組合の代表者は、セルビア人のカジミロヴィッチであつた。彼に就て被告爆弾投擲者チャブリノヴィッチは次の様に言つた。

[チャブリノヴィッチ] 彼(カジミロヴィッチ)は、フリーメーソン社員で、然も其の領袖株の一人だつたと思ふ。彼は暗殺を決定した後、全世界に旅行した。彼はブダペスト、露國、及び佛國にも行つた。予がシガノヴィチに、一件はどうなつて居るかと聞く毎に、彼は「カジミロヴィッチが帰つて來たなら……」と云ふのを常とした。當時シガノヴィチは、又予に向い、フリーメーソン社員は、既に二年前(1912年)墺國皇儲に死刑の宣告を與へたが、此判決の執行者が居なかつたのだと語つた。其後彼が予にブローニング(拳銃)と弾薬を渡した時に、「彼の男は、昨晩ブダペストから帰つて來た」と言つた。予は此人が吾人の要件と關連して旅行し、且外國で或る一定の人々と商議したことを知つて居る。」

[裁  判  長]         汝の話すことは作り話ではないか。

[チャブリノヴィッチ]  之は全くの事實で、Narodna Odbranaに關する貴方の書類より、百倍も本當である。

[辯護人ブレムジッツ]  汝はロッヂの書を読んだことがあるか。

[チャブリノヴィッチ]  予は、彼のフリーメーソンに關する論文を読んだ。

[ブレムジッツ]            其書類はベオグラードに分配されたのか。

[チャブリノヴィッチ]  予は植字工として、此書の活字を組んだ。

[ブレムジッツ]            汝は神、或は何か、或物を信ずるか。

[チャブリノヴィッチ]  否。

[ブレムジッツ]            汝はフリーメーソンか。

[チャブリノヴィッチ]  (狼狽して暫らく沈黙す。尋(つい)でブレムジッツに向ひ、彼を見て)貴方はなぜそれを予に聞くのか。予はそれに就ては答へることは出來ない。

[ブレムジッツ]            タンコシッチはフリーメーソン社員か。

[チャブリノヴィッチ]  (再び狼狽して沈黙す)なぜ、それを尋ねるか。
(暫く沈黙して後)そうです。それからシガノヴィチも……

[裁  判  長]     それで汝もフリーメーソン社員だと云ふことになる。何となれば、フリーメーソン社員は、同結社員以外の者に對しては、決して自分がフリーメーソン社員なることを云はないから。

[チャブリノヴィッチ]  その事は聞いて下さるな、そのことに就ては答へません。

[裁  判  長]         問いに答へぬ者は、此問に對し、肯定する者である。

[チャブリノヴィッチ]  …………

[裁  判  長]         動機に就ても少し述べよ。汝が殺害の決心をする前に、タンコシッチ及びシガノヴィチがフリーメーソン社員だと云ふことが分かつたか。汝及び彼等がフリーメーソン社員だと云ふことが、汝の決心に影響したか。

[チャブリノヴィッチ]  然り。

[裁  判  長]         汝は彼等から暗殺實行の任務を受けたか、説明せよ。

[チャブリノヴィッチ]  予は誰からも其任務を受けなかつた。フリーメーソンは、予の決心を強めたといふ點に於て、予の行爲と關係がある。

                                        フリーメーソンでは、殺人は許されて居る。シガノヴィチは、予にフランツ・フェルディナンド大公は、既に一年前に死刑の宣告を受けたことを語つた。

[裁  判  長]         彼はそのことをすぐに汝に語つたか。それとも汝が實行しやうと言つた後に語つたか。

[チャブリノヴィッチ]  吾々は其の以前に於て、フリーメーソンに就て話したが、彼は我等が確かに殺害の決心をするまでは、我等に對し此死刑の判決に就ては、ちつとも話さなかつた。

[裁  判  長]         汝はシガノヴィチと、フリーメーソンに就て話したことがあるか。

プリンツィプ[17]]          (猶太人、當の下手人)
(大膽に)何故予にそれを尋ねるか。

[裁  判  長]         予はそれを知らんと欲するが故に尋ねるのである。汝は彼と此事に就て話したか、否か。

プリンツィプ]            話した。彼は彼がフリーメーソン社員だといふことも、予に語つた。

[裁  判  長]         彼がフリーメーソン社員だと云ふことを、何時汝に話したか。

プリンツィプ]            予が殺害實行の費用に就て、彼に問ふた時に彼はそれを云つた。且彼は或る一定の人と話をして、此人から其の費用を受けると語つた。又他の機會に於て、彼は予に墺國皇儲は、フリーメーソンの或る組合で、死刑の宣告を受けたことを語つた。

[裁  判  長]         そして汝は!汝も多分フリーメーソン社員だらうね。

プリンツィプ]            何の爲めにそんなことを尋ねられるか。(一寸間を置いて)。予は社員ではない。

[裁  判  長]         チャブリノヴィッチは、フリーメーソン社員か。

プリンツィプ]            予はそれを知らないが、或はそうかも知れない。彼は話の序(ついで)に或る組合に入會する筈だと予に語つたことがある。

以上の記事に依つても、暗殺の計畫はフリーメーソンから出て居ることは極めて明瞭である。唯暗殺實行者を得られなかつた爲めに、一年以上を経過してしまつた。そこで不思議なる方法で、「チャブリノヴィッチ」、「プリンツィプ」其他の者に暗殺の考へを起させ、彼等を使つて、長らくの間準備した行爲を實行させたのである。其の詳細に就ては茲に述べることが出來ぬが、唯調書に基き、暗殺者等にブローニング、弾薬、金子及び爆弾を交附したシガノヴィチは、他の者等と同じくボスニア生まれで、ベオグラードの鉄道下級従業員であつた事を擧げるに止めやう。彼はフリーメーソン社員タンコシッチ少佐から金を受取つた。少佐は豊富に金を持つて居て、自ら武器を購入した。

墺國のフリーメーソン新聞は、皇太子暗殺の報を得ても、之に關し其新聞紙上に何も掲載しなかつたが、佛國フリーメーソン新聞アカシアは、此暗殺を以て英雄的事業だと賞賛した。巴里に於ては既に1910年に墺國皇室に近く凶變があると豫言するものがあつた。同時に獨逸のホーエンツォレルン王朝も1910年には終りを告げると云はれた。併し豫言の時期は、事實よりも五年過早ではあつたが、之に依つて此事實に對する努力の始まつた時期をば大凡(おおよそ)窺ひ知ることが出來る。巴里の有名なる女豫言者テベス夫人[18]は、社會各方面の人士と交際して、其の豫言の資料を得て、毎年十二月に其の豫言書を發表した。1910年の發表で「墺國皇儲は即位しない。其の代りに、今では皇位継承者ではない青年が、即位することになる」と云つた。而して墺國皇室の凶變が、豫言した1913年に行はれなかつた時に、此豫言夫人は、一向平気で「今年は行はれなかつたが、來年(1914年)前半期には必ず實現する」と豫言した。(皇儲暗殺は六月二十八日)墺匈國の新聞も大概毎年此記事を掲げ、幾萬の読者は興味を以て之を読んだが、軈(やが)て忘れてしまつた。テーベ夫人の豫言で満足しない人は、1912年に著はされた小冊子に次の様な記事があるのを見るがよい。

人々は、瑞西のある高級フリーメーソン社員が皇儲の事に關して云つた次の言を了解する時があるであらう。「彼は非常に優秀な人物であるが、気の毒ながら、彼は既に判決を受けた。彼は王位に即くに先だち死するのであらう」と。

是に於て、吾人は次の疑問を生ずるのを禁じ得ない。即ち獨逸の大組合會議は、此事を知つて居たか、Narodna Odbrana(國民軍)の事業を知つて居たか。セルビアフリーメーソンが、高等政治的の實質を有せるを知つて居たか。其指揮者を知つて居たか。Narodna Odbranaと、セルビアフリーメーソンとの關係を知つて居たかと。獨逸の大棟梁は南方及び西方諸國のフリーメーソンが、其企圖を隠蔽する爲めに、常に國家的団體(伊太利のカルボナリ黨[19]土耳古の青年土耳古黨等)を利用して居たことを知らなかつたらうか。何れにても、セルビアフリーメーソン最高會議を承認したる獨逸の大組合は、世界戦爭の發起點たるセルビアフリーメーソンの活動に就ては無關係といふことは出來ない。

皇儲フランツ・フェルディナンドは其天資英邁にして、近き将來に於て必ず強力なる皇帝、即ちフリーメーソン側から云へば「暴君」となつたに違ひない。これも同皇儲と、獨逸カイザーとの良好なる關係(と相俟って)[20]フリーメーソンの第一目標となつた主なる原因であつた。

 

 

 

 

[11] ナロドナ・オドブラナは、ボスニアヘルツェゴビナオーストリアハンガリー併合に対する反応として1908年10月8日に設立されたセルビア民族主義組織。この外にセルビア民族主義組織「Black Hand」なる秘密結社もあった。

[12] Vojislav Tankosićヴォジスラヴ・タンコシッチは、セルビア軍将校、セルビア・チェトニク組織のボイヴォダ、セルビア軍の大部隊、そして5月のクーデターに参加し、フェルディナンド大公の暗殺に関与したとして告発されたブラック・ハンドのメンバー。墺国セルビアを攻撃したとき許されて釈放され、第一次大戦で戦死。

[13] Brownings ジョン・ブローニングが開発し、暗殺に使われたFN ブローニングM1910自動式拳銃のこと。

[14] Milan Ciganović ミラン・シガノヴィチはサラエヴォ事件の主犯格、カブリノヴィチ、プリンチプ、グラベスに4つのリボルバー、6つの爆弾、毒の小瓶を与えた

[15] Nedeljko Čabrinović ネデリュコ・チャブリノヴィッチはサラエヴォ事件で皇太子の車に爆弾を投擲した実行犯の七人の一人。

[16] Dr. Radoslav Kazimirović ラドスラフ・カジミロヴィッチは「ナロドナ・オドブラナ」の指導者の一人でチャブリノヴィッチの自白によるとセルビアの高階級フリーメーソン(詳細不明)

[17] Gavrilo Principはオーストリア皇太子暗殺の実行犯。

[18] Anne Victorine Savigny(1845~1916)の筆名。フランスの千里眼・予言者・手相占い師。ボーア戦争日露戦争サラエボ事件などを豫言したと言われる。

[19] カルボナリは、19世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げた。カルボナリは炭焼き職人のことで、炭焼き職人のギルドを模した秘密結社ともいわれる。徒弟制度の階層構造はフリーメーソンのそれと同質である。

[20] 原文:関係が。前後の文脈から(と相俟って)に変更した。

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フリーメーソンと世界革命09(現代文)

第三部

10.革命的フリーメーソン
(特に米国およびフランスに於ける)

 

スコットランド教義の第三十階級(騎士カドッシ階級)は、全組織中の最重要な階級であるが、この階級付与式の際、当該人は法王冠および王冠に剣を以て刺突を加える儀式がある。これは法王及び王の専制政治の無辜の犠牲となり、1314年3月18日に焚き殺された棟梁ジャック・ド・モレー[1]の処刑[2]を象徴しているものである。この儀式があることは、フリーメーソンも認めており、又多少フリーメーソンの事を知っている者の間には、相当に知れ渡っている事であるが、この儀式の中に含まれている復讐心は昔も今も変わりはない。米国の高級フリーメーソンの総長であったアルバート・パイクは、世界のフリーメーソンに次の回章[3](かいしょう)を発したが、その文中にはすべての「暴君」(フリーメーソンの所謂「暴君」とは、すべての君主を指している)に対する復讐心を含んでいる。

 

吾々は人類の進歩を促進し、人の精神の解放、及び平等の実現のために努力をしなければならない。国民が自由、精神の独立及びその奪われた当然の権利を獲得しようとして蹶起する時、我々は常にこれに最も温かい同情を注ぐのである。

 

これを見ると「謀反の権利」は明瞭に認められている。世界のフリーメーソンは、自由解放のために努力する国民に対し、常に援助を与え、且つ憎むべき「暴君」に対する革命を常に支持しようとするのである。パイクは「暴君」(即ち君主)を憎んでいるが、これはフリーメーソン一般の思想だということが出来る。英国のフリーメーソン新聞(1889年)に次の記事がある。

 

高尚で遠大な理想を抱くフリーメーソンは、勇敢に暴君に対して打撃を与えることが出来る。同時に、耐えられない様な虐げられた状態にある者を、そう言う者を救うためでなければ非難されるような方法手段を行使してでも救おうと、同志と結束(共謀)するのである。

 

右の『そう言う者を救うためでなければ非難されるような方法手段』とは買収、暗殺、陰謀等を言うのである。故にヘルマン・グルーベル[4]が『フリーメーソンは全世界に亘る陰謀の結社員だ』と言ったのはもっともな事である。ハンガリーフリーメーソン紙ケレト[5]は、公然とこれを承認して、次の様に言っている。「我々は現時の社会組織に反抗し、これを打破しようとする秘密結社である」と。この社会組織なる語は、主として君主政体を意味しているのである。フリーメーソンの著述家フィンデル[6]も、間接的にこれを承認し、「フランス革命の精神は民衆の間に満ち渡り、多くの古い圧制政治(君主政治)はすでに崩壊し、未だ崩壊していない者もその最後に近づいている[7]」と書いている。フランスのフリーメーソン、ドプローゾル[8]は、フリーメーソンを「革命の母」と名づけているが、実際において革命の理想はフリーメーソンから出て、且つフリーメーソンの手によって培われ、広められているのである。故に同じくフランスの結社員ペリンは、フランスのフリーメーソン組合を以て、革命思想の擁護者と見なしている。第三十三階級に属するマッケイ[9]は、公然『謀叛はフリーメーソンの罪に当たらない、従ってフリーメーソンから処罰を受けることはない』と言っているが、実際において革命はフリーメーソンの権利でもあり、又時によっては「神聖なる義務」で(すら)ある。

フリーメーソンは、革命に成功した者を名誉ある英雄として尊敬し、若し革命に失敗した時は、殉教者として援助及び保護を惜しまないのである(実例は略す)。

故に結社員スタルク[10]フランス革命に関し「秘密結社がなければ、秘密政治委員会も置く事が出来ず、従って革命は成就しなかったことは確実だろう」と言ったのは、当に急所を突いた言葉であって、今現在でもこの通りである。過去二百年間世界における革命やその他の政治的事変に、フリーメーソンの加わっていないものがないのは、大方、疑いないことであろう。

1776年、米国独立戦争も、フリーメーソンの力によるところが大きい。米国フリーメーソン結社員である二三の人物を挙げれば、ジェファーソンは合衆国の憲法中に「権利の宣告」を加え、ラファイエット[11]は米国独立戦争にも、その後行われたフランス革命にも大いに貢献する所があった。米国の国家的英雄たるジョージ・ワシントンも同じくフリーメーソン社員であった。米国の政治家で避雷針の発明者でもあるベンジャミン・フランクリンも、フリーメーソン社員で三十歳の時既に一部の長となり、間もなく大棟梁となった。メキシコでも同様で同国の結社員(第三十三階級)医師クルム=ヘラー[12]は、同国の結社員カランサ[13]の友人であるが、カランサが革命に成功したとき、大佐に任命された。彼はメキシコの歴史を著述し、その中にメキシコ及び米国の政変はすべてフリーメーソン社員がひき起こしたものであると書いている。南米にでも全くこれと同様である。即ち南米諸国がスペインに対して起こした独立戦争にあたり、指導者の地位に立った者は、同じくフリーメーソン社員である、オーストリアフリーメーソン週刊誌チルケル(Der Zirkel)に、次の要旨の記事がある。(1913年4月13日同紙)

フリーメーソン社員ミラン[14]は、最初スペイン王に掛け合って平和的に米国のスペイン領に独立を与えようと計画したのだが、この企図は失敗に帰した。そこで力をもって解決するほかなくなり、彼はスペインの圧制を排除することを第一の目的とした組合(フリーメーソン)を組織した。この組合はスペイン植民地の首府であるメキシコシティ、カラカス(ヴェネズエラ)、リマ(ペルー)、ラパス(ボリヴィア)、サンチャゴ(チリ)及びブエノスアイレス(アルゼンチン)を相結束し、一つの記号の下で殆ど同時に事を起こすことを可能にした。これはその成功に対して決定的効果をもたらしたのである。当時ブエノスアイレスの組合の長は、サンマルチン将軍であった。彼はアルゼンチンでのみならず、チリ、ペルー、及びボリヴィアでもスペイン政府軍に致命的打撃を与えた。

南米諸国の採用(1811年乃至1823年)した共和政体が、果たしてこれら諸国民のためになったかどうかはここでは敢えて論断しないが、ただこれ等の諸国でそれ以降数十年にわたって、惨憺たる内戦が行われ、これら諸国の発展を阻害したことは事実である。

1789年のフランス革命が、終始フリーメーソンの事業であったことについては、無数の証拠がある。その精神的準備は所謂百科全書家によって行われた。その内優秀なのはヴォルテール[15]モンテスキュー[16]コンドルセ[17]ディドロ[18]、エルヴェシウス[19]ダランベール[20]等で、何れもフリーメーソン結社員である。ヴォルテールは1723~1730年の間にロンドンで入社し、1778年盛大な儀式と共に、パリの一組合に採用された。フランス革命の第一の目的は、ブルボン王朝を倒し、フランスフリーメーソンの長たるオルレアン公ルイ・フィリップをフランス王とすることにあった。ところが、彼等はその道具として下層民を使用したため、かえって賤民政治を生じ、フリーメーソン結社員もその渦中に巻き込まれてしまった。市中で公然と殺戮を行なった恐怖政治を発生した事については、フリーメーソンが自らその責を負わねばならない。彼等はその集会で恐怖手段を実行すべきことを議決し、且つ先ずこの犠牲にする者の人名を記録し、「これらの人々をこの光栄あるフランス革命」の第一週に、パリ市内で殺しその首を槍の先に刺して市中を持ち廻った。この事についてはミラボー[21](結社員)が証明している。ダントン[22]ロベスピエール[23]その他多数の者も同じく結社員であった。彼等は革命の計画を立案し、下級の結社員がその実行を任されたのである。ルイ十六世の処刑もまた、オルレアン公フィリップの邸内で秘密集会を開いたフリーメーソン結社員が決定した事であった(この事については結社員カデ・ド・ガシクール[24]が我々に通知した)ルイ十六世の処刑は既に1786年にフリーメーソン社員が決定していた事であったのは、永年結社員であった人々が詳細に証明する所である。「フランス革命は組合の仕事にその端を発した」と結社員ポルタール[25]が言ったのは事実である。又フランスのフリーメーソン社員は、1789年の革命をもって彼等の行った事業だとしているのは正当な事である。当時全世界のフリーメーソンがこの「光栄ある」革命を非常なる歓喜を以て迎えたのも当然の事である。当時フランスに於ける組合の数は七百に達して、今日よりも約百個だけ多かった。この数から考えても、当時フリーメーソンの革命に対する働きが尋常でなかったことを察することが出来る。併しながらこの「光栄ある」革命も、フリーメーソン自身に危害を及ぼすに至った。即ち其の領袖たちは賤民のために殺され、組合の数は1794年には僅かに十二となり、パリには僅かに一個の組合があっただけで、然もフリーメーソンの長は投獄されていた。その後彼等は共和党、反オルレアン党の二つに分裂し、更にその後ナポレオン一世を支持するに至った。ナポレオンは早くにコルシカ島フリーメーソンに入社し、以後これを利用して共和政体を倒すことが出来たのである。

フランスフリーメーソンは、最近(第二十世紀の初め)に「フリーメーソンは実際1789年の革命を準備し、且つ彼等の主義たる自由・平等・親睦(博愛)を革命の方式にしたのである。」と公式に声明している。「自由・平等・親睦」は、1740年以来、フランス組合の標語であったもので、ラファイエットの提言に基づき、1785年フランス憲法の冒頭に置かれた「人権及び市民権の宣言」とも、密接な関係を有しているのである。フランスのフリーメーソン機関紙アカシア(1903年4月)も、1789年の革命は、フリーメーソンの教義を具体化しようとする試みであったと記述している。ところが独り歴史家のみは、これについて何等知るところなく、殊更に事実の前に目を瞑っている。例えば有名な研究家H.Taine[26] 及びA. Aulard[27]フランス革命の原因、及び準備を研究するために何等フリーメーソンが関係した形跡を発見しないと論説している。ところがアカシア紙には憲法制定国民大会の会員の多数の者は結社員であったこと、及びこの結社員がこの大会にあたり、ブルトン[28]倶楽部、憲法協会、ジャコバン[29]倶楽部等を創設した事、これ等はすべてフリーメーソンの規則に則り、たびたび公会秘密会を開いたこと、又この秘密会には結社員のみに入場を許したこと等を記述してある。(1901年アカシア第六十五号)。

プロシャの大臣で、かつて結社員であったことのあるハウグワイツ[30]伯が、1822年ヴェローナ[31]の君侯会議に送った有名な覚書に次の文言がある「1788年及び1789年に始まった戯曲即ちフランス革命、及びその際行われた王の殺害、その他の惨事は、すべてフリーメーソン結社の最高指導部で議定した事であるだけでなく、この結社の事業、及び宣誓の成果であることについては確信を得た」と。かの憐れむべきマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮中で、当時の事情を洞察し、その兄のレオポルド二世に次の様に書き送った。

フリーメーソン結社については、よくご注意あれ。この悪魔共は、各国に於て同一の方法を以て同一の目的を達成しようとしている。神よ、願わくはわが祖国、及び貴君*を此の不幸より救い給え。

処刑台上でその最後を遂げたこの憐れむべき皇后は、実にその理由を語ったのである。以上我々はフランス革命についてはその本来の画策者を明らかならしめる為、やや詳細に述べたが、尚これで満足しない者は、これに関する専門書類を一覧すれば、上記の外、多数の実証を知り得るであろう。

フリーメーソンが、ナポレオンの支配下、及びその後のフランスの争乱中如何なる態度をとったかについて、少々述べよう。ナポレオン一世は、自身フリーメーソンであったが、巧みにこれを利用した。皇后ジョセフィーヌ以下、宮中の貴婦人連は、フリーメーソンに入り、ナポレオンの兄ジョセフ(スペイン王)、義弟ミュラ[32]ナポリ王)、ボアルネ[33]ナポリ副王)、その他ナポレオン配下の諸将、例えばマッセナ[34]、ケルレルマン[35]、ペルナドット[36]等は、皆フリーメーソンの高級の地位に就いた。フリーメーソン社員でナポレオンの俘虜となった者は、特別に寛大な取扱いを受けた。要するにナポレオンはその雄大なる企図を実行する為、フリーメーソンをその道具に使い、又全世界にわたる結社の勢力を、彼の世界政策に従属させた。ナポレオンの第一回没落後フリーメーソンは再びブルボン王家のルイ十八世に服従し、ナポレオンがエルバより帰還した時は、再びその配下に馳せ参じ、ワーテルローの戦闘後、彼等は更にナポレオンを見棄て、ルイ十八世に忠誠を誓った。ジョセフ、ボナパルト、及びミュラは組合から其の職を奪われたが、その他の者は依然その職に止まった。これはルイ十八世が、その兄弟の殺害者を処罰しようとしなかったのと、ルイ十八世自身もまた、1776年以後結社員だったためである。彼に次いで1824年、王位に上がったシャルル十世も結社員であったが、フリーメーソンの間に人望がなかった。オルレアン公フィリップ[37]は、巧みにフリーメーソンの勢力を育て、シャルル十世[38]を追い、自らその後ろを襲った。ここで共和政体は一時忘れられた形となったが、結社員はフィリップが結社員でその保護者であると言うので、敢えてこれに反しなかった。しかし時日の経過と共に、フリーメーソン社員はこの状況に満足せず、共和政体の樹立を策し、1848年その成功を見るに至り、この共和政府には多数のフリーメーソンがいた。そしてこの新政府は、諸般の社会主義的組織を実行しようとしたが、失敗し、激烈な市街戦となり、軍人執政となり、ルイ・ナポレオンの統領政治となり、彼は遂に1852年ナポレオン三世として帝位に即いた。新聞アカシアは、ナポレオン三世は、フリーメーソン社員であったと言っている。尚彼はイタリアの秘密結社の一員であった。併し彼が帝位についた後は、フリーメーソンを圧迫しようとしたので、その晩年にはフリーメーソンは、こぞって彼に反対の態度をとるに至った。故に彼の没落(1870年9月4日)はフリーメーソンの喜ぶ所となった。

異常を要約すると、フランスのフリーメーソンは、十九世紀に於ては節操、主義等の見るべきものが無い状態で、少なくともその表面はご都合主義で、ただ当時の権力者に迎合し、最後には又その出発点(共和政体)に帰った。しかし彼等は常に革命的で、1830年、1848年の革命を操った。1870年に始まった第三共和政治は、殆ど全くフランスフリーメーソンの勢力下に入ったので、彼らは最早他に阿る必要がなくなった。グレウィー[39]カルノー[40]以下多数の大統領、大臣等は結社員であった。今日ではポアンカレ、クレマンソー、ブリアン、ヴィヴィアニ[41]、ミルラン、デルカッセその他多数の有力なる政治家は、フリーメーソンに属し、共和国の実権を完全にその手中に収めたがなおこれに満足せず、世界戦争(*第一次大戦のこと)に賭けて、アルザス、ロレーヌを奪回し、他国の君主を没落させることになった。

 

[1] 原文:モライ、処刑日3月1日。原典:Jakob Molay、処刑日3月11日。ジャック・ド・モレー (Jacques de Molay 1244?~1314)は、第23代目テンプル騎士団総長にして、最後の総長であった人物。聖地から追われた後、一つの王国以上の資産を擁していた騎士団の財政をうらやんだフランス王フィリップ4世により、異端の濡れ衣を着せられ、異端審問のうえ有罪とされた。パリ・シテ島の刑場で火刑に処された。亡くなる前にフィリップ4世とローマ教皇クレメンス5世らを呪ったとされる(1314年にフィリップ4世とクレメンス5世は急死している)。また、カペー家直系の断絶をも呪ったと言われ、これも実際1328年にフランス王位はヴァロワ家に継承されている。

[2] 原文:所刑

[3]  順に回して見せる文書、書状。ふつう、あて名が列記してある。回文。回状。

[4] Hermann Gruber著「Mazzini, Freimaurerei usw(Mazzini, Freemasonry etc.)」62頁

[5] 原典:Kelet

[6] Joseph Gabriel Findel(1828~1905)はドイツのフリーメーソン著述家。

[7] J.G.Findel「Grundsätze der Freimaurerei im Völkerleben」165頁。

[8] Justin Sicard de Plauzoles(1872~1968)ジュスタン・シカール・ド・プローゾルはフランスの医師。

[9] Albert Gallatin Mackey(1807~1881)アルバート・マッケイはアメリカの医師・著述家。

[10] Johann August Starck/Stark(1741~1816)はケーニヒスブルクの神学者、著述家で、特に「イルミナティの煽動による陰謀がフランス革命をもたらした」という発言で有名。

[11] Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette(1757~1834)ラファイエット侯爵マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエは、アメリカ独立戦争フランス革命双方で活躍したフランスの貴族(侯爵)で軍人。

[12] Heinrich Arnold Krumm-Heller(1876~1949)アーノルド・クルム・ヘラーはドイツの医師 、 オカルティスト 、 バラ十字 、およびブラジルで運営されている伝統的な秘密結社であるFraternitas Rosicruciana Antiqua (FRA)の創設者。 彼はまた、 メキシコ革命第一次世界大戦中にドイツの海軍の間諜であった。 多作な作家である彼は、25冊の難解な本、小説、歴史書、伝記、および彼の雑誌Rosa Cruzおよび類似の出版物で無数の記事を出版した。

[13] Venustiano Carranza(1859~1920)ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサは、メキシコ革命の指導者のうちの一人、メキシコ大統領。彼の大統領職中に現在のメキシコ憲法が起草された。

[14] Sebastián Francisco de Miranda y Rodríguez de Espinoza(1750~1816)フランシスコ・デ・ミランダは現ヴェネズエラのカラカス生まれの革命家で、アメリカ独立戦争フランス革命ラテンアメリカ独立戦争すべてに関与し、ラテンアメリカすべての国々の独立を夢見た人物。

[15] Voltaire、本名François-Marie Arouet(1694~1778)は仏国の哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物。

[16] Montesquieu、本名Charles-Louis de Secondatシャルル=ルイ・ド・スゴンダ(1689~1755)はフランスの哲学者。モンテスキューは領地の名前。著書『法の精神』で有名。

[17] Nicolas de Condorcet、本名Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet(1743~1794)コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタは、18世紀仏国の数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人。

[18] Denis Diderot(1713~1784)ドゥニ・ディドロは仏国の哲学者、美術批評家、作家。主に美学、芸術の研究で知られる。ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物

[19] Claude-Adrien Helvétius(1715~1771)クロード=アドリアン・エルヴェシウスは、18世紀仏国の哲学者、啓蒙思想家。親交のあったドルバックとともに、啓蒙時代の唯物論の代表的作家。エルベシウスとも表記。

[20] Jean Le Rond d'Alembert(1717~1783)ジャン・ル・ロン・ダランベールは、18世紀仏国の哲学者、数学者、物理学者。ドゥニ・ディドロらと並び、百科全書派知識人の中心者。

[21] Honoré-Gabriel de Riqueti/Riquetti, Comte de Mirabeau(1749~1791)ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケティはフランス革命初期の指導者。

[22] Georges Jacques Danton(1759~1794)は、フランス革命で活躍した代表的な政治家。モンターニュ右派のダントン派(寛容派)の首領。

[23] Maximilien François Marie Isidore de Robespierre(1758~1794)は、フランス革命期で最も有力な政治家で代表的な革命家。特に革命の中の恐怖政治で多くの貴族・政治家を断頭台に送ったことで有名。

[24] Louis Claude Cadet de Gassicourt(1731~1799)ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール

[25] Felix Portal(高い階級のフリーメーソン社員)詳細不明。

[26] Hippolyte Adolphe Taine(1828~1893)イポリート・テーヌは仏国の哲学者・批評家・文学史家。

[27] François Victor Alphonse Aulard(1849~1928)アルフォンス・オラールはフランス革命とナポレオン研究のフランスの歴史家。フリーメーソンであった。

[28]ブルターニュ地方の議員で構成された政治結社フランス革命中の過激派(後のジャコバン党)の原型。

[29] ブリトンクラブは、ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会を行なうになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになった。フランス革命中の急進派で、ロベスピエールの指導で恐怖政治を行った。

[30] Christian Graf von Haugwitz(1752~1832)はドイツの政治家で、ナポレオン戦争中のプロイセン外務大臣

[31] Veronaはミラノとヴェネツィアの中間あたりにあるイタリアの町。

[32] Joachim Murat-Jordy(1767~1815)ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ。フランスの軍人で元帥。ナポリ王国の国王としてジョアッキーノ1世を称した。

[33] Eugène Rose de Beauharnais(1781~1824)ウジェーヌ・ド・ボアルネ。ナポレオン夫人ジョセフィーヌの前夫ボアルネ子爵(ブルターニュに起源を持つ貴族・1794年処刑)との連れ子でナポレオンの養子となった。

[34] André Masséna(1758~1817)フランスの軍人。第一帝政下の元帥。エスリンク大侯爵。リヴォリ公爵。

[35] François Christophe Kellermann(1735~1820)1792年、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍を撃退し、一躍有名になった。第一帝政期の1804年5月19日、69歳で元老院から名誉元帥に選ばれた。1808年6月3日、ヴァルミー公爵に叙された。

[36] Jean-Baptiste Jules Bernadotte(1763~1844)元フランス平民出身の軍人。1810年スウェーデン議会に王位継承者に選ばれ、1818年、スウェーデンノルウェー連合王国の国王カール14世ヨハン(ノルウェイではカール3世ヨハン)となった。現代まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖。

[37] Louis-Philippe Ier(1773~1850)(在位:1830~1848)ルイ・フィリップ一世 オルレアン公爵はルイ・フィリップ2世ジョゼフ(フィリップ・エガリテ(Philippe Égalité))の息子。

[38] Charles X(1757~1836)シャルル10世復古王政ブルボン朝最後の仏国王(在位:1824~1830)である。

[39] François Paul Jules Grévy(1807~1891)ジュール・グレヴィはフランスの弁護士・政治家。第4代大統領(第三共和政)。

[40] Lazare Nicolas Marguerite Carnot(1753~1823)ラザール・カルノーは、フランスの軍人、政治家、数学者。フランス革命戦争にあたってフランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。また数学者としても功績を残した。

[41] Jean Raphaël Adrien René Viviani(1863~1925)ルネ・ヴィヴィアニはフランス第三共和国の政治家。第一次大戦当時の首相。

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フリーメーソンと世界革命09(原文)

第三部

10.革命的フリーメーソン
(特に米國及佛國に於ける)

 

蘇格蘭教義の第三十階級(騎士カドッシ階級)は、全組織中の最重要な階級であるが、此階級附與式の際、當該人は法王冠及王冠に剣を以て刺突を加へる儀式がある。之は法王及王の専制政治の無辜の犠牲となり、1314年3月18日に焚き殺された棟梁ヤコブ・モライ[1]の處刑[2]を象徴して居るものである。此儀式のあることは、フリーメーソンも之を認め、又多少フリーメーソンの事を知つて居るものゝ間には、相當に知れ渡つて居ることであるが、此儀式の内に含まれて居る復讐心は昔も今も變りはない。米國の高級フリーメーソンの総長たるアルバート・パイクは、世界のフリーメーソンに次の回章[3](かいしょう)を發したが、其文中には凡ての「暴君」(フリーメーソンの所謂「暴君」とは、凡ての君主を指して居るのである)に對する復讐心を含んで居る。

吾人は人類の進歩を促進し、人の精神の解放、及平等の實現の為に努力をせねばならぬ。國民が自由、精神の独立及其奪はれたる當然の權利を獲得せんが爲に蹶起する時、吾人は常に之に最も温き同情を注ぐのである。

之を見ると「謀反の權利」は明瞭に認められて居る。世界のフリーメーソンは、自由解放の爲に努力する國民に對し、常に援助を與え、且憎むべき「暴君」に對する革命を常に支持せんとするのである。パイクは「暴君」(即ち君主)を憎んで居るが、之はフリーメーソン一般の思想だと云ふことが出來る。英國フリーメーソン新聞(1889年)に次の記事がある。

高遠の理想を懐けるフリーメーソンは、勇敢に暴君に對して打撃を與へることが出來る。且忍ぶべからざる、虐げられたる状態にある者を、其他の場合には非難すべき方法手段を以て救はんが爲め、同志と結束(共謀)するのである。

右の『其他の場合には非難すべき方法手段』とは買収、暗殺、陰謀等を云ふのである。故にヘルマン・グルーベル[4]が『フリーメーソンは全世界に亙る陰謀の結社員だ』と云つたのは尤ものことである。匈牙利のフリーメーソン紙ケレト[5]は、公然これを承認して、次の如く云つて居る。「吾人は現時の社會組織に反抗し、之を打破せんとする秘密結社である」と。此社會組織なる語は、主として君主政體を意味して居るのである。フリーメーソンの著述家フィンデル[6]も、間接に、之を承認し、「佛蘭西革命の精神は民衆の間に満ち渡り、多くの古き壓制政治(君主政治)は既に崩壊し、然らざるものも其最後に近いて居る[7]」と書いて居る。佛國のフリーメーソン、ドプローゾル[8]は、フリーメーソンを「革命の母」と名づけて居るが、實際に於て革命の理想はフリーメーソンから出て、且フリーメーソンの手に依りて培養せられ、廣められて居るのである。故に同じく佛國の結社員ペリンは、佛國のフリーメーソン組合を以て、革命思想の擁護者と見做して居る。第三十三階級に属するマッケイ[9]は、公然『謀叛はフリーメーソンの罪に當らない、従つてフリーメーソンから處罰を受けることはない』と云つて居るが、實際に於て革命はフリーメーソンの權利でもあり、又時によりては「神聖なる義務」で(すら)ある。

フリーメーソンは、革命に成功せる者を名譽ある英雄として尊敬し、若し革命に失敗せる時は、殉教者として援助及保護を惜しまないのである(實例は略す)。故に結社員スタルク[10]が佛蘭西革命に關し「秘密結社なかりせば、秘密政治委員會も存置するを得ざるべく、従つて革命を成就する能はざりしや必せり」と云つたのは、肯綮(こうけい)に中(あた)れる言であつて、現時に於ても此通りである。過去二百年間世界に於ける革命其他の政治的事變に、フリーメーソンの加はつて居らぬ事のないのは、多く怪むに足らない所である。

1776年、米國独立戦爭も、フリーメーソンの力與つて大なるものがある。米國フリーメーソン結社員たる二三の人物を擧ぐれば、ジェファーソンは合衆國の憲法中に「權利の宣告」を加へ、ラファイエット[11]米國独立戦爭にも、其後行はれた佛蘭西革命にも大に貢献する所があつた。米國の國家的英雄たるジョージ・ワシントンも同じくフリーメーソン社員であつた。米國の政治家にして避雷針の發明者たるベンジャミン・フランクリンも、フリーメーソン社員で三十歳の時既に一部の長となり、間もなく大棟梁となつた。墨西哥(メキシコ)でも同様で同國の結社員(第三十三階級)医師クルム=ヘラー[12]は、同國の結社員カランサ[13]の友人であるが、カランサが革命に成功した時、大佐に任命された。彼は墨西哥の歴史を著述し、其中に墨西哥米國の政變は凡てフリーメーソン社員の惹起したものであると書いて居る。南米に於ても全く右と同様である。即ち南米諸國が西班牙に對して起した独立戦爭に方(あた)り、指導者の地位に立つた者は、同じくフリーメーソン社員である、墺國のフリーメーソン週刊誌チルケル(Der Zirkel)に、次の要旨の記事がある。(1913年4月13日同紙)

フリーメーソン社員ミラン[14]は、最初西班牙王をして平和的に米國の西班牙領に独立を附與せしめんと計つたのであるが、此企圖は失敗に帰した。是に於てか力を以て之を解決するの外なきに至り、彼は西班牙の壓制を排除することを第一の目的とせる組合(フリーメーソン)を組織した。此組合は西班牙植民地の首府たるメキシコ、カラカス(ヴェネズエラ)、リマ(ペルー)、ラパス(ボリヴィア)、サンチャゴ(チリ)及ブエノスアイレス(アルゼンチン)をして相結束せしめ、以て一記號の下に殆ど時を同じくして事を擧ぐることを得せしめた。之は事の成功に對し、決定的効果を齎したのである。當時ブエノスアイレスに於ける組合の長は、サンマルチン将軍であつた。彼はアルゼンチンに於てのみならず、チリ、ペルー、及びボリヴィアに於て西班牙政府軍に致命的打撃を與えた。

南米諸國の採用(1811年乃至1823年)した共和政體が、果たして之等諸國民の爲になつたかどうかは茲に敢て論断しないが、唯だ之等の諸國に於て爾後數十年に至り、惨憺たる内國戦が行はれ、之等諸國の發展を阻害したのは事實である。

1789年の佛蘭西革命が、終始フリーメーソンの事業であつたことに就いては、無數の證據がある。其精神的準備は所謂百科全書家に依つて行はれた。其内優秀なのはヴォルテール[15]モンテスキュー[16]コンドルセ[17]ディドロ[18]、エルヴェシウス[19]ダランベール[20]等で、何れもフリーメーソン結社員である。ヴォルテールは1723~1730年の間に於て倫敦に於て入社し、1778年盛大なる儀式を以て、巴里の一組合に採用せられた。佛蘭西革命の第一の目的は、ブルボン王朝を倒し、佛國フリーメーソンの長たるオルレアン公ルイ・フィリップを佛國王とするにあつた。然るに彼等は其道具として下層民を使用した爲め、却つて賤民政治を發生し、フリーメーソン結社員も、其渦中に陥るに至つた。市中で公然殺戮を行つた恐怖政治を發生した事に就ては、フリーメーソン自ら其責を負はねばならぬ。彼等は其集會に於て恐怖手段を實行すべき事を議決し、且先づ之が犠牲たるべき者の人名を記録し「之等の人々を此光栄ある佛蘭西革命」の第一週に、巴里市内に於て殺し、其首は槍の先に刺して市中を持ち廻つた。此事に就てはミラボー[21](結社員)が證明して居る。ダントン[22]ロベスピエール[23]其他多數の者も同じく結社員であつた。彼等は革命の計畫を立案し、下級の結社員が其實行に任じたのである。ルイ十六世の處刑も亦、オルレアン公フィリップの邸内に秘密集會を開いたフリーメーソン結社員の決定した事であつた(此事に就ては結社員カデ・ド・ガシクール[24]が吾人に通知した)ルイ十六世の處刑は既に1786年にフリーメーソン社員の決定した事であつたことは、永年結社員たりし人々の詳細に證明する所である。「佛蘭西革命は組合の仕事に其の端を發した」と結社員ポルタール[25]が云つたのは事實である。又佛國のフリーメーソン社員は、1789年の革命を以て彼等の行つた事業だとして居るのは正當の事である。當時全世界のフリーメーソンが此「光栄ある」革命を非常なる歓喜を以つて迎へたのも當然の事である。當時佛國に於ける組合の數は七百に達して、今日よりも約百個だけ多かつた。此の數から考へても、當時フリーメーソンの革命に對する働きが尋常でなかつたのを察する事が出來る。併しながら此「光栄ある」革命も、フリーメーソン自身に危害を及ぼすに至つた。即ち其領袖連は賤民の爲に殺され、組合の數は1794年には僅かに十二となり、巴里には僅に一個の組合があつたばかりで、然もフリーメーソンの長は投獄されてをつた。其後彼等は共和黨、反オルレアン黨の二つに分裂し、更に其後ナポレオン一世を支持するに至つた。ナポレオンは夙(つと)にコルシカ島で、フリーメーソンに入社し、後之を利用して共和政體を倒すことが出來たのである。

佛國フリーメーソンは、最近(第二十世紀の初め)に「フリーメーソンは實際1789年の革命を準備し、且彼等の主義たる自由・平等・親睦を以て革命の方式たらしめたのである。」と公式に聲明して居る。「自由・平等・親睦」は、1740年以來、佛國組合の標語たりしもので、ラファイエットの提言に基き、1789年佛國憲法の劈頭に置かれた「人權及市民權の宣言」とも、密接なる關係を有して居るのである。佛國のフリーメーソン機關紙アカシア(1901年4月)も、1789年の革命は、フリーメーソンの教義を具體化せんとする試みであつたと記述して居る。然るに独り歴史家のみは、之に就て何等知る所なく、殊更に事實の前に目を掩つて居る。例へば有名なる研究家H.Taine[26] 及A. Aulard[27]は佛蘭西革命の原因、及び準備を研究するに何等フリーメーソンの之に關係する形跡を發見しないと説見して居る。然るにアカシア紙には憲法制定國民大會の會員中の多數の者は結社員であつたこと、及此結社員が此大會に方(あた)り、ブルトン[28]倶楽部、憲法協會、ジャコバン[29]倶楽部等を創設したこと、之等は凡てフリーメーソンの範に則り、屡々公會秘密會を開いたこと、又此秘密會には結社員のみに入場を許したこと等を記述してある。(1901年アカシア第六十五號)。

プロシャの大臣にして、嘗て結社員たりしことのあるハウグワイツ[30]伯が、1822年ヴェローナ[31]の君侯會議に送つた有名なる覺書に次の文句がある「1788年及び1789年に始つた戯曲即ち佛蘭西革命、及其際行はれた王の殺害、其他の惨事は、凡てフリーメーソン結社の最高指導部に於て議定した事であるのみならず、此結社の事業、及宣誓の成果であることに就ては確信を得た」と。彼の憐れむべきマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮中において、當時の事情を洞察し、其兄弟レオポルド二世に次の様に書き送つた。

フリーメーソン結社に就ては、よくご注意あれ。此悪魔共は、各國に於て同一の方法を以て同一の目的を達成せんとして居る。神よ、願わくは我祖國、及貴君*を此不幸より救ひ給へ。

處刑台上に其最後を遂げた、此憐れむべき皇后は、實に其理を語つたのである。以上吾人は佛蘭西革命に就ては其本來の畫策者を明らかならしむる爲、稍々(やや)詳細に述べたが、尚之に満足せざる者は、之に關する専門書類を一覧せば、上記の外、多數の實證を知り得るであらう。

フリーメーソンが、ナポレオンの支配下、及其後の佛國の爭亂中如何なる態度を執つたかに就て、少しく述べやう。ナポレオン一世は、自身フリーメーソンであつたが、巧みに之を利用した。皇后ジョセフィーヌ以下、宮中の貴婦人連は、フリーメーソンに入り、ナポレオンの兄ジョセフ(西班牙王)、義弟ミュラ[32]ナポリ王)、ボアルネ[33]ナポリ副王)、其他ナポレオン麾下(きか)の諸将、例へばマッセナ[34]、ケラーマン[35]、ベルナドット[36]等は、皆フリーメーソンの高級の地位に就いた。フリーメーソン社員にしてナポレオンの俘虜となりし者は、特別に寛大の取扱を受けた。要するにナポレオンは其雄大なる企圖を實行する爲め、フリーメーソンを其道具に使ひ、又全世界に亘る結社の勢力を、彼の世界政策に従属せしめた。ナポレオンの第一回没落後フリーメーソンは再びブルボン王家のルイ十八世に服従し、ナポレオンがエルバより帰還した時は、再び其麾下に馳せ参じ、ワーテルローの戦闘後、彼等は更にナポレオンを見棄て、ルイ十八世に忠誠を誓つた。ジョセフ、ボナパルト、及ミュラは組合より其の職を奪はれたが、其他の者は依然其職に止まつた。之はルイ十八世が、其兄弟の殺害者を處罰しやうとしなかつたのと、ルイ十八世自身も亦、1776年以後結社員だつた爲である。彼に次いで1824年、王位に上つたシャルル十世も結社員であつたが、フリーメーソンの間に人望がなかつた。オルレアン公フィリップ[37]は、巧にフリーメーソンの勢力を培養し、シャルル十世[38]を追ひ、自ら其後を襲うた。是に於て共和政體は一時忘れられた形となつたが、結社員はフィリップが結社員で其保護者であると云ふので、敢て之を意としなかつた。併し時日の経過と共に、フリーメーソン社員は此状況に満足せず、共和政體の樹立を策し、1848年其成功を見るに至り、此共和政府には多數のフリーメーソンが居つた。而して此新政府は、諸般の社會主義的組織を實行せんとしたが、失敗し、劇烈なる市街戦となり、軍人執政となり、ルイ・ナポレオンの統領政治となり、彼は終に1852年ナポレオン三世として帝位に即いた。新聞アカシアは、ナポレオン三世は、フリーメーソン社員であつたと云ふて居る。尚彼は伊太利の秘密結社の一員であつた。併し彼が帝位に即いた後は、フリーメーソンを壓迫せんとしたので、其晩年にはフリーメーソンは、擧(こぞ)つて彼に反對の態度を執るに至つた。故に彼の没落(1870年9月4日)はフリーメーソンの喜ぶ所となつた。

之を要するに佛國のフリーメーソンは、十九世紀に於ては節操、主義等の見るべきものがない状態で、少なくも其表面は御都合主義で、唯當時の權力者に迎合し、最後には又其出發點(共和政體)に帰つた。併し彼等は常に革命的で、1830年、1848年の革命を操縦した。1870年に始まつた第三共和政治は、殆ど全く佛國フリーメーソンの勢力下に入つたので、彼等は最早他に阿附する(あふする:阿る)の必要がなくなつた。グレウィー[39]カルノー[40]以下多數の大統領、大臣等は結社員であつた。今日ではポアンカレ、クレマンソー、ブリアン、ヴィヴィアニ[41]、ミルラン、デルカッセ其他多數の有力なる政治家は、フリーメーソンに属し、共和國の實權を全然其手に収めたが尚之に満足せずして、世界戦爭(*第一次大戦のこと)を賭して、アルザス、ロレーヌを奪回し、他國の君主を没落せしむるに至つた。

 

[1] 原文:モライ、処刑日3月1日。原典:Jakob Molay、処刑日3月11日。ジャック・ド・モレー (Jacques de Molay 1244?~1314)は、第23代目テンプル騎士団総長にして、最後の総長であった人物。聖地から追われた後、一つの王国以上の資産を擁していた騎士団の財政をうらやんだフランス王フィリップ4世により、異端の濡れ衣を着せられ、異端審問のうえ有罪とされた。パリ・シテ島の刑場で火刑に處された。亡くなる前にフィリップ4世とローマ教皇クレメンス5世らを呪ったとされる(1314年にフィリップ4世とクレメンス5世は急死している)。また、カペー家直系の断絶をも呪ったと言われ、これも実際1328年にフランス王位はヴァロワ家に継承されている。

[2] 原文:所刑

[3]  順に回して見せる文書、書状。ふつう、あて名が列記してある。回文。回状。

[4] Hermann Gruber著「Mazzini, Freimaurerei usw(Mazzini, Freemasonry etc.)」62頁

[5] 原典:Kelet

[6] Joseph Gabriel Findel(1828~1905)はドイツのフリーメーソン著述家。

[7] J.G.Findel「Grundsätze der Freimaurerei im Völkerleben」165頁。

[8] Justin Sicard de Plauzoles(1872~1968)ジュスタン・シカール・ド・プローゾルはフランスの医師。

[9] Albert Gallatin Mackey(1807~1881)アルバート・マッケイはアメリカの医師・著述家。

[10] Johann August Starck/Stark(1741~1816)はケーニヒスブルクの神学者、著述家で、特に「イルミナティの煽動による陰謀がフランス革命をもたらした」という発言で有名。

[11] Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette(1757~1834)ラファイエット侯爵マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエは、アメリカ独立戦争フランス革命双方で活躍したフランスの貴族(侯爵)で軍人。

[12] Heinrich Arnold Krumm-Heller(1876~1949)アーノルド・クルム・ヘラーはドイツの医師 、 オカルティスト 、 バラ十字 、およびブラジルで運営されている伝統的な秘密結社であるFraternitas Rosicruciana Antiqua (FRA)の創設者。 彼はまた、 メキシコ革命第一次世界大戦中にドイツの海軍の間諜であった。 多作な作家である彼は、25冊の難解な本、小説、歴史書、伝記、および彼の雑誌Rosa Cruzおよび類似の出版物で無数の記事を出版した。

[13] Venustiano Carranza(1859~1920)ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサは、メキシコ革命の指導者のうちの一人、メキシコ大統領。彼の大統領職中に現在のメキシコ憲法が起草された。

[14] Sebastián Francisco de Miranda y Rodríguez de Espinoza(1750~1816)フランシスコ・デ・ミランダは現ヴェネズエラのカラカス生まれの革命家で、アメリカ独立戦争フランス革命ラテンアメリカ独立戦争すべてに関与し、ラテンアメリカすべての国々の独立を夢見た人物。

[15] Voltaire、本名François-Marie Arouet(1694~1778)は仏国の哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物。

[16] Montesquieu、本名Charles-Louis de Secondatシャルル=ルイ・ド・スゴンダ(1689~1755)はフランスの哲学者。モンテスキューは領地の名前。著書『法の精神』で有名。

[17] Nicolas de Condorcet、本名Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet(1743~1794)コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタは、18世紀仏国の数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人。

[18] Denis Diderot(1713~1784)ドゥニ・ディドロは仏国の哲学者、美術批評家、作家。主に美学、芸術の研究で知られる。ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物

[19] Claude-Adrien Helvétius(1715~1771)クロード=アドリアン・エルヴェシウスは、18世紀仏国の哲学者、啓蒙思想家。親交のあったドルバックとともに、啓蒙時代の唯物論の代表的作家。エルベシウスとも表記。

[20] Jean Le Rond d'Alembert(1717~1783)ジャン・ル・ロン・ダランベールは、18世紀仏国の哲学者、数学者、物理学者。ドゥニ・ディドロらと並び、百科全書派知識人の中心者。

[21] Honoré-Gabriel de Riqueti/Riquetti, Comte de Mirabeau(1749~1791)ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケティはフランス革命初期の指導者。

[22] Georges Jacques Danton(1759~1794)は、フランス革命で活躍した代表的な政治家。モンターニュ右派のダントン派(寛容派)の首領。

[23] Maximilien François Marie Isidore de Robespierre(1758~1794)は、フランス革命期で最も有力な政治家で代表的な革命家。特に革命の中の恐怖政治で多くの貴族・政治家を断頭台に送ったことで有名。

[24] Louis Claude Cadet de Gassicourt(1731~1799)ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール

[25] Felix Portal(高い階級のフリーメーソン社員)詳細不明。

[26] Hippolyte Adolphe Taine(1828~1893)イポリート・テーヌは仏国の哲学者・批評家・文学史家。

[27] François Victor Alphonse Aulard(1849~1928)アルフォンス・オラールはフランス革命とナポレオン研究のフランスの歴史家。フリーメーソンであった。

[28]ブルターニュ地方の議員で構成された政治結社フランス革命中の過激派(後のジャコバン党)の原型。

[29] ブリトンクラブは、ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会を行なうになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになった。フランス革命中の急進派で、ロベスピエールの指導で恐怖政治を行った。

[30] Christian Graf von Haugwitz(1752~1832)はドイツの政治家で、ナポレオン戦争中のプロイセン外務大臣

[31] Veronaはミラノとヴェネツィアの中間あたりにあるイタリアの町。

[32] Joachim Murat-Jordy(1767~1815)ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ。フランスの軍人で元帥。ナポリ王国の国王としてジョアッキーノ1世を称した。

[33] Eugène Rose de Beauharnais(1781~1824)ウジェーヌ・ド・ボアルネ。ナポレオン夫人ジョセフィーヌの前夫ボアルネ子爵(ブルターニュに起源を持つ貴族・1794年處刑)との連れ子でナポレオンの養子となった。

[34] André Masséna(1758~1817)フランスの軍人。第一帝政下の元帥。エスリンク大侯爵。リヴォリ公爵。

[35] François Christophe Kellermann(1735~1820)1792年、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍を撃退し、一躍有名になった。第一帝政期の1804年5月19日、69歳で元老院から名誉元帥に選ばれた。1808年6月3日、ヴァルミー公爵に叙された。

[36] Jean-Baptiste Jules Bernadotte(1763~1844)元フランス平民出身の軍人。1810年スウェーデン議会に王位継承者に選ばれ、1818年、スウェーデンノルウェー連合王国の国王カール14世ヨハン(ノルウェイではカール3世ヨハン)となった。現代まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖。

[37] Louis-Philippe Ier(1773~1850)(在位:1830~1848)ルイ・フィリップ一世 オルレアン公爵はルイ・フィリップ2世ジョゼフ(フィリップ・エガリテ(Philippe Égalité))の息子。

[38] Charles X(1757~1836)シャルル10世復古王政ブルボン朝最後の仏国王(在位:1824~1830)である。

[39] François Paul Jules Grévy(1807~1891)ジュール・グレヴィはフランスの弁護士・政治家。第4代大統領(第三共和政)。

[40] Lazare Nicolas Marguerite Carnot(1753~1823)ラザール・カルノーは、フランスの軍人、政治家、数学者。フランス革命戦争にあたってフランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。また数学者としても功績を残した。

[41] Jean Raphaël Adrien René Viviani(1863~1925)ルネ・ヴィヴィアニはフランス第三共和国の政治家。第一次大戦当時の首相。

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フリーメーソンと世界革命08(現代文)

9.フリーメーソンの事業(慈善か政治か)

 

フリーメーソンには、二つの傾向がある。その一はその任務を会員の修養向上に限り、その二は人道のために政治に携わる必要があるとするものである。ドイツ[1]フリーメーソンは、一般にその一の傾向を有し、各種の社会的施設に力を貸し、拝金主義を排し、真の社会生活の核心たるべきものは、犠牲的精神であるとしている。又彼等は、組合は人類愛を教育する学校と見做している。従って組合は、慈善事業の爲多数の学校、孤児収容所、貸金會社、埋葬金貸出所、産婦収容所等を設立している。ハンガリーフリーメーソンの目的は、専ら政治であって、政党員、官吏の重要な地位には必ず結社員がいる。そしてその政治上の主義は急進社会主義である。オーストリアフリーメーソンは、慈善的施設もしてはいるが、その主とする所は政治にある。このため1794年以来官憲に禁止され、それ以後は表面上単に修養団体として存在したのである。

フリーメーソンの政治的表現の形式は、かつては自由主義であったが、自由主義の没落後は、社会民主党にその勢力を及ぼすことに勉め、それに対する反対に打ち勝つためには「自由・平等・親睦(博愛)」の標語を用い、容易にその目的を達することが出来た。即ち此の標語はフリーメーソンの創意になるものであるがその後フランス革命の「戦闘の叫び」となり、遂に共和制の政治は、すべてこれをその標語とするに至り、従って社会民主党も此の標語を採用する事となった。特にユダヤ人のフリーメーソンは、社会民主党と提携することを熱望した。その一人であるマウトネル[2]は「社会主義は具体化されたフリーメーソンであるから、我々はこれと協力しなければばならない」と言っている。主義及び国家主義は右両者にとって共同の敵である。そしてフリーメーソンは、僧侶至上主義とキリスト教主義とを同一のものと見なしているのである。

フリーメーソン社員は、フリーメーソンと社会革命党とは大体においてその目的を一つにしているものであるから、その社会主義的組織には、積極的に参加すべきものだと主張している。そして今や自由主義は全欧州に於いて衰頽に傾いたから、社会民主党と協力するのは、彼等の取るべき唯一の道だと言っている。即ち最初は自由主義と事を共にしていたがそれが衰えると、自由主義の敵手たる社会主義及び労働階級と妥協したのである。これを見てもフリーメーソンの信義の程度を知ることが出来るであろう。

フリーメーソンが労働階級と協同すべきことを説いている真意は、数に於て他に勝る労働階級を操縦して、それを護衛隊にしようとすることに他ならないのである。ウィーンのフリーメーソンの一機関紙チルケル(Der Zirkel)の1906年第二十九号では次のように掲載している。

時代精神は我々(フリーメーソン)が、社会主義を指導することを要求し、又この関係において若干の組合は、既に正しい道を発見した、と。

オーストリアにおいて、社会革命党、或いは急進民主主義党を牛耳っている者は、フリーメーソン社員である。イタリアの一部の労働者は、フリーメーソンを遠ざけるべきことを主張し、その理由としてフリーメーソンに属する時は、盲従を強いられ、そのために労働組合の一員としての義務を尽くすことが出来なくなる恐れがあると言っている。しかしこれはむしろ例外で、一般に言えばイタリアでもフリーメーソンの指導者と社会革命党の指導者とは、甚だ密接な関係を保っているのである。

要するにフリーメーソンの仕事の中で、各種の慈善的施設は、単にその仮面に過ぎないもので其の実質は政治的秘密結社である。これは殆ど全世界の「フリーメーソン」について言い得ることでとりわけイタリアでは結社員自ら言う所によれば、1821年以後、同国における革命的企図は全てフリーメーソンの手で行われたのである。マッツィーニ、ガリバルディ、その他多数のイタリアの首相は、フリーメーソン社員であって、ローマ法王及び一般にキリスト教的思想、特に君主政体を圧迫することに勉めている。今次大戦におけるイタリアの三国同盟脱退、及び協商側加入についてはフリーメーソンの力が大きく寄与したのである。フランスにおいても同様の状況であり、その大多数の政治家は、フリーメーソン社員であって、その政府及び議会は、断然フリーメーソンの勢力に支配されている。マクマオン[3]以来、歴代の大統領、その他の高級官吏は、すべてフリーメーソン社員である。1870年フランスの若干の結社は、ドイツ皇帝、ビスマルクモルトケ三者を「フリーメーソン」の裁判にかけることを要求したが、今次大戦後に於いて、ウィルヘルム二世及び皇太子以下、各連邦の王、高級将官等を、その戦争の責任を審判する為裁判にかけなければならないと主張していたのも、フランスのフリーメーソンである。そしてフランスにおいて、教会と国家とを分離させたものは、フリーメーソンである。又フランス人のドイツに対する敵愾心を挑発する者も、亦フランスフリーメーソンの仕業である。又その復讐心の如きも常にフリーメーソンの手によって人為的に培われたものであることは言うまでもないことである。フランスの社会民主党の有力者はおおむねフリーメーソンに属している。フランス産業組合の長は、主としてユダヤ人で、労働をユダヤ主義の実行に利用しようとして居たことは、1911年4月3日、パリで開催された労働者大会で組合の指導部が、ユダヤ人及びフリーメーソンの手に在ることに対して、激烈なる反対の意を表したことに示され、明らかである。

ベルギーフリーメーソンの目標は、ベルギー共和国の建設であって、ベルギーの人心が、フランスに好意を表し、ドイツに対し敵意を持っているのは、ベ・仏両国に於ける組合の密接なる関係に基く所が少なくない。

 

英国のフリーメーソンは、大規模な世界政策を行ない、このためにはその手段を選ばない。従って主義として外国の謀叛的な運動は、すべて支持する。英国政府は、常にフリーメーソンの理想を実行することに努めている。米国のフリーメーソンも、政治と密接な関係を保っている。即ち上院でも多数を占め、下院に至っては三分の二の多数を占めている。ドイツ系米国人のフリーメーソンの有力な社員は、主としてユダヤ人であって、母国(ドイツ)とは縁遠くなっている。ドイツのフリーメーソン結社中、プロシャの組合三個は、忠君愛国主義を保持しその他の五個の組合員は、国際的且つ共和的傾向に在るとは、一般に言われている所であるが、前者といえども仏伊等のユダヤ人組合と連絡を有していることに考え及べば、その忠君愛国主義も怪しいものである。

要するに、フリーメーソンの主なる仕事は、政治上の範囲に属して居り、その目的は君主国においては、現存する国家及び社会の秩序を完全に倒壊することにある。又すべての政治家及び政党を、漸次共和的傾向に導こうとすることにある。この見地よりすれば、今次の世界戦はフリーメーソンが既に長く準備して来た世界フリーメーソンの力試しであった。そしてその政治的参謀本部はロンドンに、精神的統帥府はパリにあったのである。

 

[1] 原文:独遂。独逸の間違いと思われる(ドイツ語原典で確認済み)

[2] Raimund Mautner ユダヤ人商人のフリーメーソン(詳細不明)

[3] 原典:Mac Mahon。Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon(1808~1893)パトリス・ド・マクマオン=マジェンタ公爵はフランスの軍人・政治家。第三共和制第三代大統領。アイルランド系フランス人。

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フリーメーソンと世界革命08(原文)

9.フリーメーソンの事業(慈善か政治か)

 

フリーメーソンには、二個の傾向がある。其一つは其任務を會員の修養向上に限り、其二は人道の爲め政治に携はる必要があるとするものである。獨逸[1]フリーメーソンは、一般に其一の傾向を有し、各種の社會的施設に力を致し、拝金主義を排し、眞の社會生活の核心たるべきものは、犠牲的精神であるとして居る。又彼等は、組合は人類愛を教育する學校と見做して居る。従つて組合は、慈善事業の爲め多數の學校、孤兒収容所、貸金會社、埋葬金貸出所、産婦収容所等を設立して居る。匈牙利のフリーメーソンの目的は、専ら政治であつて、政黨員、官吏の重要なる地位には必ず結社員が居る。而して其政治上の主義は急進社會主義である。墺國のフリーメーソンは、慈善的施設もなしては居るが、其主とする所は政治にある。之が爲め1794年以來官憲に禁止され、爾後表面上單に修養団體として存在したのである。

フリーメーソンの政治的表現の形式は、嘗ては自由主義であつたが、自由主義の没落後は、社會民主黨に其勢力を及ぼすことを勉め、それに對する反對に打克つ爲には「自由・平等・親睦(博愛)」の標語を用ひ、容易に其の目的を達するを得た。即ち此標語はフリーメーソンの創意に成るものであるが、其後佛蘭西革命の「戦闘の叫び」となり、遂に共和的の政治は、凡て之を其標語とするに至り、従つて社會民主黨も此標語を採用することゝなつた。特に猶太人のフリーメーソンは、社會民主黨と提携することを熱望した。其一人たるマウトネル[2]は「社會主義は具體化されたるフリーメーソンであるから、吾人之と協力せねばならぬ」と云つて居る。尊僧主義(クレリカリズム)及國家主義は右両者に取り共同の敵である。而してフリーメーソンは、尊僧主義と基督教主義とを同一のものと見做して居るのである。

フリーメーソン社員は、フリーメーソンと社會革命黨とは大體に於て其目的を一にして居るものであるから、其社會主義的組織には、積極的に参加すべきものだと主張して居る。而して今や自由主義は全歐洲に於て衰頽に傾いたから、社會民主黨と協力するのは、彼等の取るべき唯一の道だと云つて居る。即ち最初は自由主義と事を共にし、其衰ふるや、自由主義の敵手たる社會主義及労働階級と妥協したのである。之を以てもフリーメーソンの信義の程度を知ることが出來るであらう。

フリーメーソンが労働階級と協同すべきことを説いて居る眞意は、數に於て他に勝る労働階級を操縦して、其護衛隊たらしめんとするに外ならぬのである。維納のフリーメーソンの一機關紙チルケル(Der Zirkel)の1906年第二十九號に、次の如く掲げて居る。

時代精神は吾人(フリーメーソン)が、社會主義を指導せんことを要求し、又此關係に於て若干の組合は、既に正しき道を發見した、と。

墺太利に於て、社會革命黨、或は急進民主主義黨の牛耳を執つて居る者は、フリーメーソン社員である。伊太利の一部の労働者は、フリーメーソンを遠ざくべきことを主張し、其理由としてフリーメーソンに属する時は、盲従を強ひられ、爲めに労働組合の一員としての義務を盡すことが出來なくなる虞があると云つて居る。併し之は寧ろ例外で、一般に云へば伊太利でもフリーメーソンの指導者と社會革命黨の指導者とは、甚だ密接なる關係を保つて居るのである。

要するにフリーメーソンの仕事の内で、各種の慈善的施設は、單に其仮面に過ぎないもので其實質は政治的秘密結社である。之は殆んど全世界の「フリーメーソン」に就て言い得ることで就中伊太利では結社員自ら云ふ所に依れば、1821年以後、同國に於ける革命的企圖は総てフリーメーソンの手で行はれたのである。マッツィーニ、ガリバルディ、其他多數の伊太利の首相は、フリーメーソン社員であつて、羅馬法王及び一般に基督教的思想、特に君主政體を壓迫することを勉めて居る。今次大戦に於ける伊太利の三國同盟脱退、及び協商側加入に就てはフリーメーソンの力、與(あずか)つて大なるものがあつたのである。佛國に於ても同様の状況であつて、其大多數の政治家は、フリーメーソン社員であつて、其政府及び議會は、全然フリーメーソンの勢力に支配されて居る。マクマオン[3]以來、歴代の大統領、其他の高級官吏は、総てフリーメーソン社員である。1870年佛國の若干の結社は、獨逸皇帝、ビスマルクモルトケ三者を「フリーメーソン」の裁判にかけることを要求したが、今次大戦後に於て、ウィルヘルム二世及び皇太子以下、各聯邦の王、高級将官等を、其戦爭の責任を審判する爲め裁判にかけねばならぬと主張して居たのも、佛國のフリーメーソンである。而して佛國に於て、教會と國家とを分離せしめたものは、フリーメーソンである。又佛國人の獨逸に對する敵愾心を挑發するものも、亦佛國フリーメーソンの仕事である。又其復讐心の如きも常にフリーメーソンの手に依り人爲的に培養せられたものであることは喋々を要せない所である。佛國の社會民主黨の有力者は概ねフリーメーソンに属して居る。佛國産業組合の長は、主として猶太人で、労働を猶太主義の實行に利用せんとして居たことは、1911年4月3日、巴里に開催せる労働者大會で、組合の指導が、猶太人及びフリーメーソンの手に在ることに對して、劇烈なる反對の意を表したことに徴して明らかである。

白耳義フリーメーソンの目標は、白耳義共和國の建設であつて、白耳義の人心が、佛國に好意を表し、獨逸に對し敵意を挟んで居るのは、白・佛両國に於ける組合の密接なる關係に基く所が少くない。

英國フリーメーソンは、大規模なる世界政策を行ひ、之が爲めには其手段を擇ばない。従つて主義として外國の謀反的運動は、凡て之に支持を與える。英國政府は、常にフリーメーソンの理想を實行することに努めて居る。米國フリーメーソンも、政治と密接なる關係を保つて居る。即ち上院でも多數を占め、下院の如きは三分の二の多數を占めて居る。獨逸系米國人のフリーメーソンの有力な社員は、主として猶太人で有つて、母國(獨逸)とは縁遠くなつて居る。獨逸のフリーメーソン結社中、プロシャの組合三個は、忠君愛國主義を保持し、其他の五個の組合員は、國際的且つ共和的傾向に在るとは、一般に稱せられて居る所であるが、前者と雖も佛・伊等の猶太人組合と連絡を有して居ることに考へ及べば、其忠君愛國主義も怪しいものである。

之を要するに、フリーメーソンの主なる仕事は、政治上の範囲に属して居り、其の目的は君主國に於ては、現存せる國家及び社會の秩序を全然倒潰するに在る。又凡ての政治家及び政黨を、漸次共和的傾向に導かんとするに在る。此見地よりすれば、今次の世界戦はフリーメーソンが既に長く準備したる世界フリーメーソンの力試しであつた。而して其政治的参謀本部は倫敦に、精神的統帥府は巴里にあつたのである。

 

[1] 原文:独遂。独逸の間違いと思われる(ドイツ語原典で確認済み)

[2] Raimund Mautner ユダヤ人商人のフリーメーソン(詳細不明)

[3] 原典:Mac Mahon。Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon(1808~1893)パトリス・ド・マクマオン=マジェンタ公爵はフランスの軍人・政治家。第三共和制第三代大統領。アイルランド系フランス人。

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フリーメーソンと世界革命07(現代文)

7.フリーメーソンユダヤ主義

 

フリーメーソンの事に精通している人は、それについて簡潔に次の様に述べている。『その起源は英国にあり、その上級階級はフランスで創設され、その精神的養成はドイツで行われたが、その形式は大部分その起源をユダヤ教に発している』と。これは正当であるが、唯最後の事項に関しては完全とは言えない。

精神的メーソンは人も知っているように「ソロモン」の殿堂建設と、密接に関係を持っていて、この賢明なる王はフリーメーソンの中で、重要な地位を占めている。スウェーデンの教義に依ると、ソロモン王は結社の創設者、及び初代大棟梁として尊崇を受けている。そして大棟梁の位はソロモンの子孫に限られるべきものとされている。組合の長及び顧問だけは、全組織の首長を知っているが、その他の結社員は誰も知らない。各国(スウェーデンノルウェイデンマーク、ドイツ)の頭には組合長がいて、その命令は生けるソロモンの命令と同様に従い、行うべきものとされている。

ソロモンの殿堂は「人道の殿堂」を構築しようとするフリーメーソンに取り、一つの象徴的なものであるが、実際「バイブル」の記述によって人が想像する程宏大なものではなかった。ソロモン王を第一代の大棟梁と追称する様になったのは、1730年頃のことであって、それより以前古代の職工メーソンは何等これに関係がない。それ以後フリーメーソンは種々ソロモンの殿堂に因んだ名称を採用した。まず殿堂なる語は組合、工場等の名称に代わって、結社員の式場の名称となった。この殿堂の中には祭壇があって、その前に膝を屈めて誓い、聖職に任ぜられる。此処にはヤヒン及びボアスと言うヘブライ語の名を有する二本の柱、七個の臂(ひじ)を有する燭台(メノーラ)、及び約匱(やくひつ:ユダヤ人の聖書を納める箱)がある。この約匱については次の様な逸話がある。フリードリッヒ三世は皇太子時代にドイツの大地方組合の大棟梁であったので、組合の事について万事根本的に研究をしつくし、且つ信ずるに足らない様な事はすべて取り除こうと苦心した。彼は大棟梁としてその秘密を知る権利があると考え、ある日約匱の内容品を見たいと言い出した。組合の顧問は非常に驚いて極力反対したが、皇太子は頑として聴かないので、万策尽きて箱の蓋を開いた。その内に何があったろうか?何もなかった、全然空虚であった。事実何もなかったのか。あるいは結社員があらかじめこのことを察して、内容品を他へ移したのであるかは、恐らく永久に謎であろう。

この約匱のほかにもソロモン殿堂、又はユダヤの風習、施設から、多くの事をフリーメーソンの中に取り入れている。例えば階級によりて差異を有する絨毯(じゅうたん)、ソロモン殿堂の前庭を意味するモザイク鋪石道のようなものは、ユダヤの思想から出ている。また英国の教制(教え)では、ソロモン殿堂の螺旋はしごを採用し、且つ崇高なる精神的完全を象徴する階段を昇ることも、同じくユダヤの思想に基づくものである。七個の階段を以て通ずる神聖な場所の扉の上には、ユダヤ主義と最密接の関係を有する象徴である「火炎を有する星」がある。徒弟階級の者は五角形の星を有し、仲間階級の者はダビデの六角形の星(✡)を有する規定である。六角形の星は、神の言葉の働き、及び神の力の自由を象徴している。この星は常に結社の広間の東方の扉の上に付けられている。

上に述べた所は、フリーメーソンユダヤ主義との関係の一二を述べたに過ぎないが、実際には尚無数の例があるのである、例えばソロモンの玉座は、ジェームス・アンダーソンの憲法書では、大棟梁の椅子とされ、ソロモンの封印は、結社内ではソロモンの印付き指環と同じく重視されている。ソロモン殿堂の建設者にして理想のフリーメーソン結社員たるヒラムに関しても、各種の秘密の風習がある。

結社員の用いる合言葉は、多くはヘブライ語から出ている。

フリーメーソンはキリスト主義とは甚だ関係が少ないのであるが、聖書の影響を受けていることが少なくない。例えば問答原教の第十七は『フリーメーソンの三個の大なる光とは何ぞや』の問いに対する答え『聖書、直角定規、コンパス』とあり。第十八には『その意義如何』の問いに対し『聖書は吾人の信仰を、直角定規は吾人の行いを規整し、コンパスは全人類中でも兄弟(結社員)に対する吾人の関係を定める』と答えてある。この事はフリーメーソンが常に唱道する所の、フリーメーソンは唯全人類の一致する宗教を希望し、且つ信仰及び良心の完全なる自由を要すると言う教訓とは表面上全く矛盾している。フリーメーソン社員の内で之を感知した人は、聖書は単に「信仰の象徴」に過ぎないと解釈している。

これらの事を考えると、フリーメーソンユダヤ人によって創設されたものではないかと言う想像も起こり得るのであるが、これは歴史上その根拠が薄弱である。この結社の創設者は、皆英国式に旧約聖書を喜んだキリスト教徒であった。その一人はフリーメーソン憲法書を書いた英国宣教師ドクトル・ジェームス・アンダーソン[1]である。そのほか科学者、Thophil Dasaguiliers[2]、 George Payne[3]、その他の姓名も今日までわかっているが、その中にはユダヤ人は居ない様である。しかもここに既にユダヤ主義との関係を認めるべきことがある、即ちイライアス・アシュモール[4]と言う好古家の英国ユダヤ人は、1646年当時の職工メーソンに入社してフリーメーソンに関する多数の書類を集め、これらの書類は1717年英国の大組合の創立に方(あた)り利用されたのである。

フリーメーソン結社員は、フリーメーソンユダヤ主義との関係を知っているだろうか?これを知っているに違いないが、彼等はこの問題に触れることを避けている。結社員の中には「樹多くして森を見ない」類で、両者の関係について、何等気にも留めない様になっている者も少なくない。しかしユダヤ人の社員は、お互いの間では得々として此の事実を言明している。ユダヤ人の社員グスターフ・カルペレスは、1902年次の様に記述した。『フリーメーソンの思想は、ユダヤ主義から出たものである。イスラエルユダヤ)の最高貴の花たるソロモン王が、その創設者と目せられる。その風習の重要な部分は、ソロモンの殿堂に関係があり、言葉や、記号は大部分ヘブライ語から取っている』と。尚英国の一著述家が説明して言うには、『フリーメーソン社員は人為的のユダヤ人である』と。

 

[1] 原典ではJakob Anderson。

[2] ジョン・デサグリエ(John Theophilus Desaguliers)またはジャン・デサグリエ(Jean-Théophile Desaguliers)(1683~1744)は仏国でユグノー教徒の家に生まれ、後に英国に渡った科学者。

[3] ジョージ・ペインGeorge Payne (c.1685~1757)は英国の大蔵官僚。

[4] Elias Ashmole(1617~1692)イライアス・アシュモール。英国の古物商、政治家、軍の将校、占星術師、錬金術の研究家。

 

 

8.フリーメーソン内に於けるユダヤ人の地位

 

フリーメーソン創立の当初に於て、ユダヤ人は早くもその中で強固な地位を獲得しようと試みたが、その事は勿論容易ではなかった。即ち当初はユダヤ人は結社に入ることを謝絶された。1780年頃になって初めてフランクフルト・アム・マイン市に、二個のユダヤ人のフリーメーソン組合が出来たが、他の組合からは承認されなかった。しかしユダヤ人の入社に賛成する意見は漸次多くなった。例えばフォン・コルトゥム[5]は1786年にユダヤ人採用賛成の意見を公表した。1783年フランクフルト・アム・マインに創立された『折衷的フリーメーソン同盟』は、最初はユダヤ人を採用したが、1811年に至り、非キリスト教徒を排除することを決めた(その理由は不明)。併しその後1844年には再び最初の原則に復帰し、ユダヤ人の加入を許すに至った。今日ではこの組合の重要な地位に在る者は殆どユダヤ人ばかりである。

ハンガリーでは、1860年代に新たにユダヤ人を採用する組合が創設された。1870年代には、既にユダヤ人で指導者の地位に就く者が出来たが、多数のキリスト教徒はこの組合を去った。今日ではハンガリーフリーメーソン結社では、ユダヤ人が大多数を占め、その長たる者は殆ど全部ユダヤ人である。この事については1871年~1876年の間、結社員となり、棟梁の地位にも就き、その後結社を脱したカール・コーラー[6]が述べている。『ユダヤ人は一たび結社内で勢力を占めるに至るや、彼等の迅速なる計画的発展を阻止しようとするものに対して、攻撃の態度に出でた、即ちハンガリーの多数のユダヤ人の結社員は、反ユダヤ主義[7]に対し、猛烈な反対攻撃の態度をとった。(1823年)フランスのフリーメーソン雑誌アカシアは「ユダヤ人なき組合なし」と書いたが、ハンガリーではその程度は一層甚だしい。誤解を避けるために言うが、アカシア雑誌が上記の文言を書いたのは、決してユダヤ人を軽蔑する意味で書いたのではない。否、全く反対にこれを以て成功と認め、且つユダヤ主義については次の如く賞讃している。「ユダヤの教会には書類はなく、単に象徴を有することはフリーメーソンと同様である。このためユダヤ教会は我々の自然的同盟者であり、このためユダヤ人は我々を支援し、また之このため多数のユダヤ人が我々の同僚となっているのである」と。この様に両者互いに相助けているのは、上記の理由によるのであるが、或いはなお他の一層深き理由に基づくものであるかについては、ここでは判決を差し控えて置く。唯ハンガリーフリーメーソンは、殆ど全くユダヤ人の勢力下に在ること、及びドイツのフリーメーソンにおいても、ほぼ同様の状態にあることを注意しておきたい。三個のプロシャのフリーメーソンはなるべくユダヤ人を遠ざけ、下級のほか、社員には採用しない、ハンブルグの大組合は、1900年ベルリンにその支部を作った所が、プロシャの組合の激烈なる反対をうけたが、1900年にはユダヤ人の完全な無差別待遇の要求は充たされたのであった。

プロシャの組合は無慮42,000人の会員を有していて、国家観念が旺盛であるが、ハンブルク及びフランクフルト・アム・マインの組合は、ユダヤ人の勢力が大きいため、より国際的色彩を多く帯びている。この事は1909年、ベルリンにおける第三十四回会議の際にも現れている。この際フランクフルトの組合は、パリのグラントリアン組合と親交を回復すべしとの議案を出し五対三の多数決を以て採用された。ハンブルグ及びフランクフルトの両組合を合しても会員数約9,350人に過ぎない。そしてその他の三個の組合の会員は、10,650人、合計20,000人を有することとなる。こうしてドイツのフリーメーソンの全数の三分の一が、三分の二に対し勝利を得たことになる。これは組合同盟組織上の欠陥に基づくのである(その組織によると、各組合はその会員の多少に拘わらず、一様に一組の代表者を出すことになっている)。尚又このドイツフリーメーソン中、執拗勤勉なる会員、つまりユダヤ人を包含する一派の活躍及び攻撃的精神にもよると言わざるを得ない。

けれどもこれはドイツ国だけに止まらず、世界各国において、最も活動的なフリーメーソン社員はユダヤ人であって、彼等は、結社に彼等の精神を吹き込み、且つ結社を彼等固有の目的を遂行する一手段たらしめるべき道をも心得ている。

ポーランドに初めて彼等の現れたのは、1815年の頃であったが、当時既に八組のユダヤ人の社員(すべて商人)があった。トルコのフリーメーソン高級社員中にも、最近(1909年)二名のユダヤ人を見る。サロニカの結社の棟梁カラッソ[8]ユダヤ人である。カラッソはスルタン・アブドゥルハミッドに廃位を通告した使節中の一人であった。このスルタンの廃位は、青年トルコ党の仕事であったが、青年トルコ党なるものは、全くフリーメーソン社員のみから成立している。その本部はサロニカにあった。「サロニカ」は陰謀の策源地として、最も恰好の地である。何となればサロニカの人口11万中、七万はユダヤ人であるからである。[フリーメーソン雑誌アカシア(1907年第57号)所載]

イタリアの最も有名なフリーメーソン社員たるエルネスト・ナタンは、マッツィーニがユダヤ人婦人との間に設けた私生児であって、1896年にはイタリアフリーメーソンの長となり、次いでローマ市長となり、世界大戦に際しては激烈なる参戦論者として、熱烈にドイツに対する開戦を主張した。イタリアに於ては、フリーメーソンは大きな勢力を占めているが、そのフリーメーソンの中では、ユダヤ人が主要の地位を占めている。フランスのフリーメーソン新聞によると、ユダヤ人はイタリアの議会に多数の代表者を有して居り、このイタリアにおいては他国に比べて一層良くヘブライ精神がその目的を達成したとの事である。しかし吾人の観る所では、他国においても同様である。

例えばフランスでは、フリーメーソン組合の創立者、及び勤勉なる代表者として、幾多のユダヤ人を見るのである。一例を挙げれば、パリ出身のユダヤ人モーリン[9]は、所謂スコットランド式システムを広めるのに、大きな功績のあった者である。この教義の最上の地位にある者は、「東方及び西方の皇帝」と自称したが、モーリンはこの帝王から高き称号を受けると同時に、フリーメーソンアメリカに宣布すべき任を受け、サントドミンゴ、ジャマイカ、及びサウスカロライナ州チャールストンにこの教義を広めた。フランス革命後、この教義はチャールストンよりフランスに逆輸入され、ここに三十三階級より成るConseil Supreme組合の創設を見るに至った。この高級組合の組織が、聖書の歴史と密接な関係があり、且つその中にユダヤ精神の浸潤していることは、その各階級の称号を一見すれば明瞭である。このようにして各国の貴族王侯は、次々とその地位を失うに引き換え、有為なるユダヤ人にはフリーメーソンの貴族的称号が付与されつつある。又ユダヤの世界支配の爲に、我々を売ろうとするユダヤ人の爲には、自由なる進路が開かれているのである。そのほかフランスの二組合を創設したユダヤ人に、軍隊御用商人「ベダーライド[10]」兄弟、及びサミュエル・ホニス[11]がいる。要約すれば、仏・伊・墺・独及びハンガリー等、いたる所のフリーメーソンで、ユダヤ人は重要な地位を占めているのである。

フランス二月革命(1848)の際、臨時政府員であったクレミュー[12]は、フランスフリーメーソンの有力なる一領袖で、ユダヤ人であった。ユダヤ人ガムベッタ[13]は、1869年教会と国家の分離を主張した。世界のフリーメーソンの政治上の目的の一つは、教会と国家との分離を実現することにある。そしてすでに両者の分離を実行した国では、主としてフリーメーソンがこれを成し、しかもフリーメーソン内のユダヤ人が、これを成し遂げたことは争うべからざる事実である。

英国のフリーメーソン社員総数225,000人中、43,000人、即ち殆ど五分の一はユダヤ人である。そして組合によりて殆ど全くユダヤ人より成るもの(例えば「シェリ[14]」組合は、ユダヤ人の数が四分の三に達している)や又は完全にユダヤ人より成るヒラム組合の様な組合も有る。このヒラム組合には「エドワード・アルバート親王(後エドワード七世)が、長となって居たが、組合員が色々不都合を働いた為、とうとう解散を命ぜられてしまった。1870~1871年普仏戦役後、多数のユダヤ人が組合に入り、キリスト教徒は組合を脱退するに至った。当時にあっては、ユダヤ人の便宜の爲に、幾多の組合が創設された。例えばユダヤ人の俳優を後援するドゥルーリー・レーン[15]俳優組合、黄色紙[16]を支持し、若き新聞関係者(Newspaperman)を養成する為のサヴェッジ・クラブ[17]組合のような類である。古代の職工メーソン時代において何等組合と関係なかったユダヤ人が、十八世紀には、漸次組合に採用され、今や凱歌を奏している。英国のフリーメーソンが、チェンバレン帝国主義の基礎を成していることは明らかであるが、フリーメーソンの指導振りも、非常にユダヤ的であることは看過してはならない。エドワード七世の弟コンノート公が、フリーメーソンの頭首となっていることも、何等上記の事実に変化を及ぼさない。

英国では「誰がフリーメーソン社員か」と問うよりも、「誰が同社員でないか」と聞く方が早い。何故なら英国で少しでも知られている人々、例えば王族、大臣、貴族、代議士、新聞記者、大商人、銀行支配人等は、殆ど例外なしにフリーメーソンに加入している。かの有名なタイムス新聞社は、その入り口の上に、公然フリーメーソンの徽章を掲げている。英国の或る著述家が、「フリーメーソンとは、人為的ユダヤ人にほかならない」と言っている位、英国ではフリーメーソンユダヤ主義とが緊密な関係にある。英国新聞「The Eye Witness」の記事に「今日英国におけるユダヤ人の地位はユダヤ人が秘密結社、即ち「フリーメーソン」内で優勢[18]な地位を占めていることによって、最も明瞭に表されている」ということがあった。

エドワール・デュマシー[19]が、「ロスチャイルド家」について記述した所によると、ロスチャイルド家は、1809年以来、独仏英のフリーメーソンに加入していたので、この一家に対して害を加えようとする者があれば、兄弟(結社員)は直ちにこれを密告して、その企図を無効に終わらせたのである。これは結社員は、兄弟の危険を知るときは直ちにこれを知らせる義務を有していることによるのであって、この事はユダヤ主義に取って、フリーメーソンが重大な価値を有する所以である。無数の非ユダヤ人を、ユダヤ人固有の組織の爲に利用して行こうとする場合に、特にそうである。此のユダヤ主義本来の組織は、イスラエル同盟(Alliance Israelite)と称し、その代表者はモーゼス・モンテフィオーレ[20]と言う者である。モーゼス・モンテフィオーレは、イタリアのリヴォルノ(Livorno)に生まれ、英国に永住し、英国女王の寵を受けて、貴族に列せられた。彼は全世界に於けるユダヤ主義の爲に、大きな功績を挙げた。又彼は同族の利益を擁護し拡張するために、屡々旅行をしたが、彼がフリーメーソンに属している事はこの爲に多大の利益を齎(もたら)した。

フリーメーソン結社内のユダヤ人が、その員数に比べて大きな勢力を有しているのは、ユダヤ人の結社員が到る所で勤勉に働いているからである。彼等は又結社内で指導する者の地位を得ることを勉め、且つ多くの国では、已にその目的を達し、其の同族の利益の為に、その地位を利用している。又結社内に政治上の事を持ち込んだのも主としてユダヤ人である。果たして上記の事実があるとしたならば、ドイツ国においてこれを洞察して、ユダヤ主義に反抗しようとするものがないであろうかとの問いを生ずるのは自然であるが、これについては多数の人はよく知ってはいるが、ただ沈黙を守っているのである。これは組合の誓約によって束縛されているのにもよるし、敢えて反抗の態度を取る者は、その社会的地位を失い、又は経済的の打撃を与えられることになり、或いは生命上の危害をも蒙る虞れがあることにもよるのである。

フリーメーソン社員フィンデル[21]は、最初ユダヤ人の入社を許さないキリスト教主義に反対したのであるが、その後全然その意見を変更して、次の様に言っている。

フリーメーソンは世界同胞を趣意としているに拘らず、そのユダヤ人は依然ユダヤ人として他の種族をば、その利益の為の材料と見做している。

私は嘗てユダヤ人は虐げられた民族と考えて、これに対して同情を持って居ったのであるが、今や反対に彼等が我々を虐げるものであるという事を知ったので、これに反対して反抗の態度を取るに至ったのである』と。

尚彼はユダヤ人が賄賂を以て、司法の範囲にまでも干渉した証拠があると言い、また聖書の中にユダヤ人は各国民を支配すべきものだという意義を書き表した点を指摘している。

世界大戦勃発当時におけるドイツのフリーメーソン結社長の氏名は、何故か秘密に附せられて居たが、実はコーン[22]と言うユダヤ人であった。

 

[5] Carl Arnold von Kortum(1745~1824)ドイツの医師。

[6] Karl Koller(詳細不明)。ウィーンで棟梁にまでなったが、1897年3~4月、反メーソン会議を開催している。

[7] Anti-Semitic(反ユダヤ主義)のこと。

[8] Emmanuel Carasso 又は Emanuel Karasu(1862 in Salonica~1934 in Trieste)エマニュエル・カラッソは著名なオスマントルコのセファルディ・ユダヤ人家系の一人である。青年トルコ党は彼が立ち上げた。後にバルセロナでヨーグルトの事業(後のダノン)を始めた、Isaac Carasso はEmmanuel の甥。ダノンの会社名はIsaac の息子、Daniel Carassoの愛称から来ているらしい。

[9] Étienne Morin(1717~1771)エティエンヌ・モリンは、カリブ海ボルドーで活躍した商人。フリーメーソンスコットランド儀式の確立に貢献した。(アンターマイヤーが米福音教会のスコフィールド聖書に影響したことと似ているかも知れない一件。)

[10] Michel Bédarride脚註37参照。

[11] Samuel Honis脚註38参照。

[12] Isaac-Jacob AdolpheCrémieux(1796~1880)フランスのユダヤ人政治家。法務大臣ユダヤ人の権利の強力な擁護者。

[13] Léon Gambetta(1838~1882)は、19世紀フランスの政治家。

[14] Shelley Lodge。

[15] Drury Laneは ロンドンの コヴェントガーデンエリアの東の境界にある通り。シアターロイヤルやニューロンドンシアターが面している。

[16] Yellow Journalism のこと。発行部数を伸ばすために扇情的な内容を売る二流三流新聞。迅速さ、誇張を売り物にし、醜聞・捏造ネタを織り込み、事実の検証には殆ど頓着しない。日本で言えば朝日新聞の様な新聞のこと

[17] Savage Club。

[18] 原文:優勝

[19] 原典:Eduard Demarche(間違いか?)。Édouard Demachy(1854~1927)エドワール・デュマシーはフランスのジャーナリスト。

[20] Sir Moses Haim Montefiore, 1st Baronet(1784~1885)

[21] Gottfried Joseph Gabriel Findel(1828~1905)はドイツの作家。

[22] 原典:Kohn(詳しくは序説参照のこと)https://caritaspes.hatenablog.com/entry/2019/12/01/025130

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