フリーメーソンと世界革命09(現代文)

第三部

10.革命的フリーメーソン
(特に米国およびフランスに於ける)

 

スコットランド教義の第三十階級(騎士カドッシ階級)は、全組織中の最重要な階級であるが、この階級付与式の際、当該人は法王冠および王冠に剣を以て刺突を加える儀式がある。これは法王及び王の専制政治の無辜の犠牲となり、1314年3月18日に焚き殺された棟梁ジャック・ド・モレー[1]の処刑[2]を象徴しているものである。この儀式があることは、フリーメーソンも認めており、又多少フリーメーソンの事を知っている者の間には、相当に知れ渡っている事であるが、この儀式の中に含まれている復讐心は昔も今も変わりはない。米国の高級フリーメーソンの総長であったアルバート・パイクは、世界のフリーメーソンに次の回章[3](かいしょう)を発したが、その文中にはすべての「暴君」(フリーメーソンの所謂「暴君」とは、すべての君主を指している)に対する復讐心を含んでいる。

 

吾々は人類の進歩を促進し、人の精神の解放、及び平等の実現のために努力をしなければならない。国民が自由、精神の独立及びその奪われた当然の権利を獲得しようとして蹶起する時、我々は常にこれに最も温かい同情を注ぐのである。

 

これを見ると「謀反の権利」は明瞭に認められている。世界のフリーメーソンは、自由解放のために努力する国民に対し、常に援助を与え、且つ憎むべき「暴君」に対する革命を常に支持しようとするのである。パイクは「暴君」(即ち君主)を憎んでいるが、これはフリーメーソン一般の思想だということが出来る。英国のフリーメーソン新聞(1889年)に次の記事がある。

 

高尚で遠大な理想を抱くフリーメーソンは、勇敢に暴君に対して打撃を与えることが出来る。同時に、耐えられない様な虐げられた状態にある者を、そう言う者を救うためでなければ非難されるような方法手段を行使してでも救おうと、同志と結束(共謀)するのである。

 

右の『そう言う者を救うためでなければ非難されるような方法手段』とは買収、暗殺、陰謀等を言うのである。故にヘルマン・グルーベル[4]が『フリーメーソンは全世界に亘る陰謀の結社員だ』と言ったのはもっともな事である。ハンガリーフリーメーソン紙ケレト[5]は、公然とこれを承認して、次の様に言っている。「我々は現時の社会組織に反抗し、これを打破しようとする秘密結社である」と。この社会組織なる語は、主として君主政体を意味しているのである。フリーメーソンの著述家フィンデル[6]も、間接的にこれを承認し、「フランス革命の精神は民衆の間に満ち渡り、多くの古い圧制政治(君主政治)はすでに崩壊し、未だ崩壊していない者もその最後に近づいている[7]」と書いている。フランスのフリーメーソン、ドプローゾル[8]は、フリーメーソンを「革命の母」と名づけているが、実際において革命の理想はフリーメーソンから出て、且つフリーメーソンの手によって培われ、広められているのである。故に同じくフランスの結社員ペリンは、フランスのフリーメーソン組合を以て、革命思想の擁護者と見なしている。第三十三階級に属するマッケイ[9]は、公然『謀叛はフリーメーソンの罪に当たらない、従ってフリーメーソンから処罰を受けることはない』と言っているが、実際において革命はフリーメーソンの権利でもあり、又時によっては「神聖なる義務」で(すら)ある。

フリーメーソンは、革命に成功した者を名誉ある英雄として尊敬し、若し革命に失敗した時は、殉教者として援助及び保護を惜しまないのである(実例は略す)。

故に結社員スタルク[10]フランス革命に関し「秘密結社がなければ、秘密政治委員会も置く事が出来ず、従って革命は成就しなかったことは確実だろう」と言ったのは、当に急所を突いた言葉であって、今現在でもこの通りである。過去二百年間世界における革命やその他の政治的事変に、フリーメーソンの加わっていないものがないのは、大方、疑いないことであろう。

1776年、米国独立戦争も、フリーメーソンの力によるところが大きい。米国フリーメーソン結社員である二三の人物を挙げれば、ジェファーソンは合衆国の憲法中に「権利の宣告」を加え、ラファイエット[11]は米国独立戦争にも、その後行われたフランス革命にも大いに貢献する所があった。米国の国家的英雄たるジョージ・ワシントンも同じくフリーメーソン社員であった。米国の政治家で避雷針の発明者でもあるベンジャミン・フランクリンも、フリーメーソン社員で三十歳の時既に一部の長となり、間もなく大棟梁となった。メキシコでも同様で同国の結社員(第三十三階級)医師クルム=ヘラー[12]は、同国の結社員カランサ[13]の友人であるが、カランサが革命に成功したとき、大佐に任命された。彼はメキシコの歴史を著述し、その中にメキシコ及び米国の政変はすべてフリーメーソン社員がひき起こしたものであると書いている。南米にでも全くこれと同様である。即ち南米諸国がスペインに対して起こした独立戦争にあたり、指導者の地位に立った者は、同じくフリーメーソン社員である、オーストリアフリーメーソン週刊誌チルケル(Der Zirkel)に、次の要旨の記事がある。(1913年4月13日同紙)

フリーメーソン社員ミラン[14]は、最初スペイン王に掛け合って平和的に米国のスペイン領に独立を与えようと計画したのだが、この企図は失敗に帰した。そこで力をもって解決するほかなくなり、彼はスペインの圧制を排除することを第一の目的とした組合(フリーメーソン)を組織した。この組合はスペイン植民地の首府であるメキシコシティ、カラカス(ヴェネズエラ)、リマ(ペルー)、ラパス(ボリヴィア)、サンチャゴ(チリ)及びブエノスアイレス(アルゼンチン)を相結束し、一つの記号の下で殆ど同時に事を起こすことを可能にした。これはその成功に対して決定的効果をもたらしたのである。当時ブエノスアイレスの組合の長は、サンマルチン将軍であった。彼はアルゼンチンでのみならず、チリ、ペルー、及びボリヴィアでもスペイン政府軍に致命的打撃を与えた。

南米諸国の採用(1811年乃至1823年)した共和政体が、果たしてこれら諸国民のためになったかどうかはここでは敢えて論断しないが、ただこれ等の諸国でそれ以降数十年にわたって、惨憺たる内戦が行われ、これら諸国の発展を阻害したことは事実である。

1789年のフランス革命が、終始フリーメーソンの事業であったことについては、無数の証拠がある。その精神的準備は所謂百科全書家によって行われた。その内優秀なのはヴォルテール[15]モンテスキュー[16]コンドルセ[17]ディドロ[18]、エルヴェシウス[19]ダランベール[20]等で、何れもフリーメーソン結社員である。ヴォルテールは1723~1730年の間にロンドンで入社し、1778年盛大な儀式と共に、パリの一組合に採用された。フランス革命の第一の目的は、ブルボン王朝を倒し、フランスフリーメーソンの長たるオルレアン公ルイ・フィリップをフランス王とすることにあった。ところが、彼等はその道具として下層民を使用したため、かえって賤民政治を生じ、フリーメーソン結社員もその渦中に巻き込まれてしまった。市中で公然と殺戮を行なった恐怖政治を発生した事については、フリーメーソンが自らその責を負わねばならない。彼等はその集会で恐怖手段を実行すべきことを議決し、且つ先ずこの犠牲にする者の人名を記録し、「これらの人々をこの光栄あるフランス革命」の第一週に、パリ市内で殺しその首を槍の先に刺して市中を持ち廻った。この事についてはミラボー[21](結社員)が証明している。ダントン[22]ロベスピエール[23]その他多数の者も同じく結社員であった。彼等は革命の計画を立案し、下級の結社員がその実行を任されたのである。ルイ十六世の処刑もまた、オルレアン公フィリップの邸内で秘密集会を開いたフリーメーソン結社員が決定した事であった(この事については結社員カデ・ド・ガシクール[24]が我々に通知した)ルイ十六世の処刑は既に1786年にフリーメーソン社員が決定していた事であったのは、永年結社員であった人々が詳細に証明する所である。「フランス革命は組合の仕事にその端を発した」と結社員ポルタール[25]が言ったのは事実である。又フランスのフリーメーソン社員は、1789年の革命をもって彼等の行った事業だとしているのは正当な事である。当時全世界のフリーメーソンがこの「光栄ある」革命を非常なる歓喜を以て迎えたのも当然の事である。当時フランスに於ける組合の数は七百に達して、今日よりも約百個だけ多かった。この数から考えても、当時フリーメーソンの革命に対する働きが尋常でなかったことを察することが出来る。併しながらこの「光栄ある」革命も、フリーメーソン自身に危害を及ぼすに至った。即ち其の領袖たちは賤民のために殺され、組合の数は1794年には僅かに十二となり、パリには僅かに一個の組合があっただけで、然もフリーメーソンの長は投獄されていた。その後彼等は共和党、反オルレアン党の二つに分裂し、更にその後ナポレオン一世を支持するに至った。ナポレオンは早くにコルシカ島フリーメーソンに入社し、以後これを利用して共和政体を倒すことが出来たのである。

フランスフリーメーソンは、最近(第二十世紀の初め)に「フリーメーソンは実際1789年の革命を準備し、且つ彼等の主義たる自由・平等・親睦(博愛)を革命の方式にしたのである。」と公式に声明している。「自由・平等・親睦」は、1740年以来、フランス組合の標語であったもので、ラファイエットの提言に基づき、1785年フランス憲法の冒頭に置かれた「人権及び市民権の宣言」とも、密接な関係を有しているのである。フランスのフリーメーソン機関紙アカシア(1903年4月)も、1789年の革命は、フリーメーソンの教義を具体化しようとする試みであったと記述している。ところが独り歴史家のみは、これについて何等知るところなく、殊更に事実の前に目を瞑っている。例えば有名な研究家H.Taine[26] 及びA. Aulard[27]フランス革命の原因、及び準備を研究するために何等フリーメーソンが関係した形跡を発見しないと論説している。ところがアカシア紙には憲法制定国民大会の会員の多数の者は結社員であったこと、及びこの結社員がこの大会にあたり、ブルトン[28]倶楽部、憲法協会、ジャコバン[29]倶楽部等を創設した事、これ等はすべてフリーメーソンの規則に則り、たびたび公会秘密会を開いたこと、又この秘密会には結社員のみに入場を許したこと等を記述してある。(1901年アカシア第六十五号)。

プロシャの大臣で、かつて結社員であったことのあるハウグワイツ[30]伯が、1822年ヴェローナ[31]の君侯会議に送った有名な覚書に次の文言がある「1788年及び1789年に始まった戯曲即ちフランス革命、及びその際行われた王の殺害、その他の惨事は、すべてフリーメーソン結社の最高指導部で議定した事であるだけでなく、この結社の事業、及び宣誓の成果であることについては確信を得た」と。かの憐れむべきマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮中で、当時の事情を洞察し、その兄のレオポルド二世に次の様に書き送った。

フリーメーソン結社については、よくご注意あれ。この悪魔共は、各国に於て同一の方法を以て同一の目的を達成しようとしている。神よ、願わくはわが祖国、及び貴君*を此の不幸より救い給え。

処刑台上でその最後を遂げたこの憐れむべき皇后は、実にその理由を語ったのである。以上我々はフランス革命についてはその本来の画策者を明らかならしめる為、やや詳細に述べたが、尚これで満足しない者は、これに関する専門書類を一覧すれば、上記の外、多数の実証を知り得るであろう。

フリーメーソンが、ナポレオンの支配下、及びその後のフランスの争乱中如何なる態度をとったかについて、少々述べよう。ナポレオン一世は、自身フリーメーソンであったが、巧みにこれを利用した。皇后ジョセフィーヌ以下、宮中の貴婦人連は、フリーメーソンに入り、ナポレオンの兄ジョセフ(スペイン王)、義弟ミュラ[32]ナポリ王)、ボアルネ[33]ナポリ副王)、その他ナポレオン配下の諸将、例えばマッセナ[34]、ケルレルマン[35]、ペルナドット[36]等は、皆フリーメーソンの高級の地位に就いた。フリーメーソン社員でナポレオンの俘虜となった者は、特別に寛大な取扱いを受けた。要するにナポレオンはその雄大なる企図を実行する為、フリーメーソンをその道具に使い、又全世界にわたる結社の勢力を、彼の世界政策に従属させた。ナポレオンの第一回没落後フリーメーソンは再びブルボン王家のルイ十八世に服従し、ナポレオンがエルバより帰還した時は、再びその配下に馳せ参じ、ワーテルローの戦闘後、彼等は更にナポレオンを見棄て、ルイ十八世に忠誠を誓った。ジョセフ、ボナパルト、及びミュラは組合から其の職を奪われたが、その他の者は依然その職に止まった。これはルイ十八世が、その兄弟の殺害者を処罰しようとしなかったのと、ルイ十八世自身もまた、1776年以後結社員だったためである。彼に次いで1824年、王位に上がったシャルル十世も結社員であったが、フリーメーソンの間に人望がなかった。オルレアン公フィリップ[37]は、巧みにフリーメーソンの勢力を育て、シャルル十世[38]を追い、自らその後ろを襲った。ここで共和政体は一時忘れられた形となったが、結社員はフィリップが結社員でその保護者であると言うので、敢えてこれに反しなかった。しかし時日の経過と共に、フリーメーソン社員はこの状況に満足せず、共和政体の樹立を策し、1848年その成功を見るに至り、この共和政府には多数のフリーメーソンがいた。そしてこの新政府は、諸般の社会主義的組織を実行しようとしたが、失敗し、激烈な市街戦となり、軍人執政となり、ルイ・ナポレオンの統領政治となり、彼は遂に1852年ナポレオン三世として帝位に即いた。新聞アカシアは、ナポレオン三世は、フリーメーソン社員であったと言っている。尚彼はイタリアの秘密結社の一員であった。併し彼が帝位についた後は、フリーメーソンを圧迫しようとしたので、その晩年にはフリーメーソンは、こぞって彼に反対の態度をとるに至った。故に彼の没落(1870年9月4日)はフリーメーソンの喜ぶ所となった。

異常を要約すると、フランスのフリーメーソンは、十九世紀に於ては節操、主義等の見るべきものが無い状態で、少なくともその表面はご都合主義で、ただ当時の権力者に迎合し、最後には又その出発点(共和政体)に帰った。しかし彼等は常に革命的で、1830年、1848年の革命を操った。1870年に始まった第三共和政治は、殆ど全くフランスフリーメーソンの勢力下に入ったので、彼らは最早他に阿る必要がなくなった。グレウィー[39]カルノー[40]以下多数の大統領、大臣等は結社員であった。今日ではポアンカレ、クレマンソー、ブリアン、ヴィヴィアニ[41]、ミルラン、デルカッセその他多数の有力なる政治家は、フリーメーソンに属し、共和国の実権を完全にその手中に収めたがなおこれに満足せず、世界戦争(*第一次大戦のこと)に賭けて、アルザス、ロレーヌを奪回し、他国の君主を没落させることになった。

 

[1] 原文:モライ、処刑日3月1日。原典:Jakob Molay、処刑日3月11日。ジャック・ド・モレー (Jacques de Molay 1244?~1314)は、第23代目テンプル騎士団総長にして、最後の総長であった人物。聖地から追われた後、一つの王国以上の資産を擁していた騎士団の財政をうらやんだフランス王フィリップ4世により、異端の濡れ衣を着せられ、異端審問のうえ有罪とされた。パリ・シテ島の刑場で火刑に処された。亡くなる前にフィリップ4世とローマ教皇クレメンス5世らを呪ったとされる(1314年にフィリップ4世とクレメンス5世は急死している)。また、カペー家直系の断絶をも呪ったと言われ、これも実際1328年にフランス王位はヴァロワ家に継承されている。

[2] 原文:所刑

[3]  順に回して見せる文書、書状。ふつう、あて名が列記してある。回文。回状。

[4] Hermann Gruber著「Mazzini, Freimaurerei usw(Mazzini, Freemasonry etc.)」62頁

[5] 原典:Kelet

[6] Joseph Gabriel Findel(1828~1905)はドイツのフリーメーソン著述家。

[7] J.G.Findel「Grundsätze der Freimaurerei im Völkerleben」165頁。

[8] Justin Sicard de Plauzoles(1872~1968)ジュスタン・シカール・ド・プローゾルはフランスの医師。

[9] Albert Gallatin Mackey(1807~1881)アルバート・マッケイはアメリカの医師・著述家。

[10] Johann August Starck/Stark(1741~1816)はケーニヒスブルクの神学者、著述家で、特に「イルミナティの煽動による陰謀がフランス革命をもたらした」という発言で有名。

[11] Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette(1757~1834)ラファイエット侯爵マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエは、アメリカ独立戦争フランス革命双方で活躍したフランスの貴族(侯爵)で軍人。

[12] Heinrich Arnold Krumm-Heller(1876~1949)アーノルド・クルム・ヘラーはドイツの医師 、 オカルティスト 、 バラ十字 、およびブラジルで運営されている伝統的な秘密結社であるFraternitas Rosicruciana Antiqua (FRA)の創設者。 彼はまた、 メキシコ革命第一次世界大戦中にドイツの海軍の間諜であった。 多作な作家である彼は、25冊の難解な本、小説、歴史書、伝記、および彼の雑誌Rosa Cruzおよび類似の出版物で無数の記事を出版した。

[13] Venustiano Carranza(1859~1920)ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサは、メキシコ革命の指導者のうちの一人、メキシコ大統領。彼の大統領職中に現在のメキシコ憲法が起草された。

[14] Sebastián Francisco de Miranda y Rodríguez de Espinoza(1750~1816)フランシスコ・デ・ミランダは現ヴェネズエラのカラカス生まれの革命家で、アメリカ独立戦争フランス革命ラテンアメリカ独立戦争すべてに関与し、ラテンアメリカすべての国々の独立を夢見た人物。

[15] Voltaire、本名François-Marie Arouet(1694~1778)は仏国の哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物。

[16] Montesquieu、本名Charles-Louis de Secondatシャルル=ルイ・ド・スゴンダ(1689~1755)はフランスの哲学者。モンテスキューは領地の名前。著書『法の精神』で有名。

[17] Nicolas de Condorcet、本名Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet(1743~1794)コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタは、18世紀仏国の数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人。

[18] Denis Diderot(1713~1784)ドゥニ・ディドロは仏国の哲学者、美術批評家、作家。主に美学、芸術の研究で知られる。ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物

[19] Claude-Adrien Helvétius(1715~1771)クロード=アドリアン・エルヴェシウスは、18世紀仏国の哲学者、啓蒙思想家。親交のあったドルバックとともに、啓蒙時代の唯物論の代表的作家。エルベシウスとも表記。

[20] Jean Le Rond d'Alembert(1717~1783)ジャン・ル・ロン・ダランベールは、18世紀仏国の哲学者、数学者、物理学者。ドゥニ・ディドロらと並び、百科全書派知識人の中心者。

[21] Honoré-Gabriel de Riqueti/Riquetti, Comte de Mirabeau(1749~1791)ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケティはフランス革命初期の指導者。

[22] Georges Jacques Danton(1759~1794)は、フランス革命で活躍した代表的な政治家。モンターニュ右派のダントン派(寛容派)の首領。

[23] Maximilien François Marie Isidore de Robespierre(1758~1794)は、フランス革命期で最も有力な政治家で代表的な革命家。特に革命の中の恐怖政治で多くの貴族・政治家を断頭台に送ったことで有名。

[24] Louis Claude Cadet de Gassicourt(1731~1799)ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール

[25] Felix Portal(高い階級のフリーメーソン社員)詳細不明。

[26] Hippolyte Adolphe Taine(1828~1893)イポリート・テーヌは仏国の哲学者・批評家・文学史家。

[27] François Victor Alphonse Aulard(1849~1928)アルフォンス・オラールはフランス革命とナポレオン研究のフランスの歴史家。フリーメーソンであった。

[28]ブルターニュ地方の議員で構成された政治結社フランス革命中の過激派(後のジャコバン党)の原型。

[29] ブリトンクラブは、ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会を行なうになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになった。フランス革命中の急進派で、ロベスピエールの指導で恐怖政治を行った。

[30] Christian Graf von Haugwitz(1752~1832)はドイツの政治家で、ナポレオン戦争中のプロイセン外務大臣

[31] Veronaはミラノとヴェネツィアの中間あたりにあるイタリアの町。

[32] Joachim Murat-Jordy(1767~1815)ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ。フランスの軍人で元帥。ナポリ王国の国王としてジョアッキーノ1世を称した。

[33] Eugène Rose de Beauharnais(1781~1824)ウジェーヌ・ド・ボアルネ。ナポレオン夫人ジョセフィーヌの前夫ボアルネ子爵(ブルターニュに起源を持つ貴族・1794年処刑)との連れ子でナポレオンの養子となった。

[34] André Masséna(1758~1817)フランスの軍人。第一帝政下の元帥。エスリンク大侯爵。リヴォリ公爵。

[35] François Christophe Kellermann(1735~1820)1792年、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍を撃退し、一躍有名になった。第一帝政期の1804年5月19日、69歳で元老院から名誉元帥に選ばれた。1808年6月3日、ヴァルミー公爵に叙された。

[36] Jean-Baptiste Jules Bernadotte(1763~1844)元フランス平民出身の軍人。1810年スウェーデン議会に王位継承者に選ばれ、1818年、スウェーデンノルウェー連合王国の国王カール14世ヨハン(ノルウェイではカール3世ヨハン)となった。現代まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖。

[37] Louis-Philippe Ier(1773~1850)(在位:1830~1848)ルイ・フィリップ一世 オルレアン公爵はルイ・フィリップ2世ジョゼフ(フィリップ・エガリテ(Philippe Égalité))の息子。

[38] Charles X(1757~1836)シャルル10世復古王政ブルボン朝最後の仏国王(在位:1824~1830)である。

[39] François Paul Jules Grévy(1807~1891)ジュール・グレヴィはフランスの弁護士・政治家。第4代大統領(第三共和政)。

[40] Lazare Nicolas Marguerite Carnot(1753~1823)ラザール・カルノーは、フランスの軍人、政治家、数学者。フランス革命戦争にあたってフランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。また数学者としても功績を残した。

[41] Jean Raphaël Adrien René Viviani(1863~1925)ルネ・ヴィヴィアニはフランス第三共和国の政治家。第一次大戦当時の首相。

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