フリーメーソンと世界革命10(現代文)

11.イタリアに於ける革命的フリーメーソン

 

1805年イタリアのジェノヴァに生まれたマッツィーニは、1821年以後、欧州各国で行われた革命の代表者と称することの出来る人物である。若い時から革命思想を持って政治的活動を行い1831年には青年イタリア(Giovine Italia[1])を創設した。同団の目的は、イタリアを統一して自由な共和国を建設することであった。1831年には、ドイツ、ポーランドの同志の青年を説得して、青年ヨーロッパを作った。マッツィーニの主要な目的は、イタリアを滅ぼし、法王の權力を除き、全世界に共和國を建設することであった。彼は各国の有名な革命家と交わった。彼は世界の平和は革命及び戦争によって得られるべしと説いた。彼はガリバルディの戦闘行為を極力支援した。マッツィーニもガリバルディも、共にフリーメーソン結社員であったが、マッツィーニは未だフリーメーソンの勢力を政治上に応用するには至らなかった。それは当時未だフリーメーソンに、それほどの力がなかったからである。1872年になり、初めてイタリアのフリーメーソンは統一され、マッツィーニの意図のように指導されるに至った。今次の大戦に、イタリアが善戦したのは、フリーメーソンの力によるものが最も大きかったのである。

イタリアのフリーメーソンは1870年に、法王の世界的勢力を絶滅すべきことを主張した。又イタリア統一主義者の中にも、多数のフリーメーソン結社員がいた。イタリアのフリーメーソンはヨーゼフ一世を爆弾で暗殺しようと計画して殺された犯人を殉教者と崇めた。マッツィーニは「復讐のために人を殺すのは犯罪であるが、国民の幸福のために暴君を除くのは、一つの戦争行為であり、また道徳である」と言った。マッツィーニ自身もカール・アルベルト王を暗殺しようとした男に直接匕首(あいくち)を手渡したことがある。(この暗殺はこの男が心変わりしたので行われなかった。)かつてマッツィーニの率いる団体は、フェルディナンド二世の殺害を決議し、十万ドゥカーテン[2]の賞金を懸けた。1858年にある兵卒がこれを決行したが捕らえられて殺された。ガリバルディは、その四年後にナポリに侵入した後、その兵卒の母に国家より恩給を支給することにした。要するにマッツィーニもガリバルディも、一生革命家で、且つ共和主義者(つまり反王政)であったが、*イタリア王は彼等を尊敬せざるを得なかった。(*イタリア王は寧ろ彼等に臣従したのであった。原典より燈照隅意訳

イタリアのフリーメーソン社員は、彼等の遺志を継いでその最後の要求である王政及び貴族廃止を実現する時機を待っているのである。因みにフンベルト一世を暗殺した者[3]は、アナーキストであったが、その自白によると、結社員に傭われてそれを実行したのであった。

 

[1] 青年イタリア、青年イタリア党、あるいはジョーヴィネ・イタリアは、1831年ジュゼッペ・マッツィーニが結成した政治結社である。カルボナリ衰退後のイタリア統一運動の中心を担い、共和主義によるイタリア統一を企てて反乱を繰り返したが、弾圧を受けて凋落した。カルボナリは、19世紀前半にイタリアとフランスに興った急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げる革命的秘密結社。

[2] ドゥカートDukaten(ドイツ語)/ducat(英語)は中世から20世紀後半まで欧州で広く使用された硬貨。

[3] 原典・原文ともウンベルト二世となっているが、ウンベルト一世の間違いに思われる。【暗殺事件】犯人は無政府主義者のガエタノ・ブレーシ(原典ではAngelo Pressi)。トスカナ生まれでアメリカ育ち。1898年にパンの高騰に抗議デモをした民衆を武力鎮圧した将軍を王が賞賛したことが動機。彼は1900年7月29日、モンツァを訪れていたウンベルト一世を3回銃撃した。裁判で重労働の懲役刑となったが、収監後一年足らずで彼は監獄で死んでいるのが発見された。死因は自殺によるものとされたが、裁判中フリーメーソン結社員に雇われたことを自白した爲に看守によって殺害されたと考えられている。

 

 

12.スペイン及びポルトガルに於ける革命的フリーメーソン

 

スペインの大組合(大東社)は、現在組合百二十個を有し、会員数五千二百人に及んでいる。この会員数は戦役間に約20%の増加があった結果で、戦時におけるフリーメーソン幹部の活動振りを想像することが出来る。スペインのフリーメーソンは1728年英国から入って来たもので、1751年には政治に関係したと言う廉(かど)で禁止されたが、この禁令はあまり励行されず、組合数は徐々に増加し、1767年には英国の大組合から分離して独立し、1780年に大組合を創設した。1808年、ブルボン王家が没落した時は、スペインのフリーメーソンは大いに喜んだ。フランス統治時代、ジョセフ・ボナパルトが、スペイン大組合の長となった当時、フリーメーソンがどの程度まで革命に参与したかは詳しく分からないが、最近ではすべての革命的企図に参加し、公然と共和政体の採用を主張している。1905年、アルフォンソ十三世の婚儀の行列に爆弾を投げつけ[4]、王の暗殺を計画した無政府主義者は、フリーメーソン社員とも関係があった。この無政府主義者は、裁判の結果、意外にも無罪放免となった。その弁護人は結社員であった。これを見ても、スペインフリーメーソンの精神は明瞭である。

ポルトガルでは、組合数百三十三個、会員数四千三百四十一人で、その長は有名な革命家リマであって、同氏は1915年成立した内閣では、労働大臣の職に就いた。彼は世界フリーメーソンを通じての有名者、指導者で、すでに1907年パリの組合で行なった講和の際「ポルトガルの王政没落、共和政治の必要」を説いたが、その後数週にして、同国王は皇太子と共に暗殺された。その後マヌエル王が立ったが、この王も間もなくフリーメーソンを首謀者とする革命のために、その位を追われた。(1910年革命)

 

[4] 実行犯であるマテオ・モラル(Mateu Morral)は、1906年5月31日、花束に隠した爆弾をホテルの一室から婚礼の列に投げつけた。アルフォンソ13世と花嫁ビクトリア・エウヘニアは無事だったが、観衆と兵士24人が死亡し、百人以上がけがをする惨事となった。モラルはジャーナリストのホゼ・ナケンスを頼って逃げた。二日後、隠匿協力者を疑って逃げたモラルは、その二日後、警察の追及の結果、捕縛しようとした民兵一人を射殺した後、自殺した。

その後の捜査でバルセロナ無政府主義無宗教主義、自由主義の思想教育をする学校を運営して居たフリーメーソン無政府主義者、フランセスク・ファレー・イ・グアルディア(Francisco Ferrer)が主犯として逮捕されたが、裁判で証拠不十分とされ釈放されている。

なお、フランセスク・ファレーはその後、バルセロナで1909年8月に起きた「悲劇の週」と呼ばれる無政府主義者の暴動の策謀者として逮捕され、軍法会議の結果、1909年10月13日に処刑された。この処刑に対しては、欧州の国々から「証拠もなく冤罪である」と、多くの批判が寄せられた。(報道新聞をフリーメーソンが握っていた爲。更に1930年代のスペイン内戦への伏線。)

 

 

13.トルコに於ける革命的フリーメーソン

 

十九世紀は、トルコに取って最も不幸な時代であった。その属領は相次いで離反し、多数の国王はその位を奪われた。即ちセリム三世[5]は1808年に弑され、ムスタファ四世[6]は1809年、その兄弟マフムト二世[7]は殺され、アブデュルアズィズ[8]は廃せられ、ムラト五世[9]は1876年に王位を追われた。この内ムラト五世などは、フリーメーソンの高級の階級を持って居た。しかもアブドルハミドは、フリーメーソンを恐れ、多数の諜者を使って警戒した。

1900年頃以来、フランスの大組合は、トルコの国内の状況について考慮し始めた。青年トルコ党[10]は、主としてユダヤ人、ギリシャ人、及びアルメニア人からなっているのだが、その政治上の成績が思わしくないので、フリーメーソンに援助を求めたところ、その成果はたちまち現れた。青年トルコ秘密委員会なるものが組織され、その本部をサロニカに置いた。サロニカは有名なユダヤ人の街で人口十一万の内七万はユダヤ人である。そのほか同地に多数の組合が組織されたが、これらは列国外交の保護を受けたため、トルコ王はこれに如何ともすることが出来なかった。青年トルコ党は組合に入って革命を準備した。つまり、党員は殆ど全部フリーメーソン社員で、その内ユダヤ人が最有力な地位を占めた。このようにして革命は成就し、フリーメーソンは凱歌を奏したのである。

 

[5] Selim III.(1762~1808)セリム三世は、は、オスマン帝国の第28代皇帝(在位:1789年4月7日 - 1807年5月29日)。第26代皇帝・ムスタファ三世の子。

[6] Mustafa IV.(1779~1808)ムスタファ四世は、オスマン帝国の第29代皇帝(在位:1807年5月29日 - 1808年7月28日)。第27代皇帝アブデュルハミト1世の子でマフムト2世の兄。

[7] Mahmud II.(1785~1839)マフムト二世は、オスマン帝国の第30代皇帝(在位:1808年 - 1839年)。父は第27代皇帝アブデュルハミト1世、母ナクシディル・スルタンはフランス人でナポレオン1世の義理の従妹とする伝説が有名だが、実際は不詳である。第29代ムスタファ4世の異母弟。

[8] Abdülaziz(1830~1876)アブデュルアズィズは、オスマン帝国の第32代皇帝(在位:1861年 - 1876年)。第30代皇帝マフムト2世の子で、第31代皇帝アブデュルメジト1世の弟。子にアブデュルメジト2世

[9] Murat V(1840~1904)ムラト五世はオスマン帝国の第33代皇帝(在位:1876年5月30日 - 1876年8月31日)。第31代皇帝アブデュルメジト1世の長男で、アブデュルハミト2世、メフメト5世、メフメト6世の兄。オスマン帝国のスルタンとして唯一のフリーメイソン会員。

[10]青年トルコ党」と屡々呼ばれている、青年トルコ人とは、19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世専制政治を打倒し、オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家たちのことをいう総称である。特定の政治結社を言うものではない。

我々がトルコを救った英雄のように学校で習った「ケマル・アタチュルク」も実は青年トルコ党ユダヤ人青年であった。

 

 

14.セルビアの革命的フリーメーソン
オーストリア皇太子暗殺の真相)

 

1912年5月23日、ベオグラードに創設されたセルビアフリーメーソンの最高会議は、1914年5月31日、フランクフルト・アム・マインで開催したドイツ大組合の会合において承認を受けたが、その四週間後の6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド大公はサラエヴォにおいて、セルビアフリーメーソン社員に暗殺された。この社員らは大セルビア秘密結社Narodna Odbrana[11](国民軍)(セルビアフリーメーソンはこの政治的秘密結社との結合によりその力を増大した)の援助を受けて、これを実行した。爆弾投擲者に武器を交付し、且つその用法を教授したタンコシッチ[12]少佐も、暗殺者にブローニング[13](拳銃)及び爆弾を手交したシガノヴィチ[14]も、共にフリーメーソン社員であった。この両人はNarodra Odbrana(国民軍)の指導者でもあった。ベオグラード組合は大セルビア秘密結社Narodna Odbranaの本部のある家屋内に於てその集会を催した。暗殺者中チャブリノヴィッチ[15]は、その自白によると同じくフリーメーソン結社員であった。暗殺の爲の費用はフリーメーソン結社員カジミロヴィッチ[16]が、1914年4月中、仏英両国に旅行して調達した。これ等はすべて公文書に記録された事実である。最後にサラエヴォの裁判の際、多数の証人が、オーストリア皇太子の暗殺は既に1912年にフランス大組合が決定した事で、唯暗殺実行者が居なかったために、まだ実行されずにあった事を確認した。今、当時の訴訟調書中で、フリーメーソンに関係ある部分を速記録から抜粋して見よう。

 

当時の自由主義フリーメーソン的)の新聞は、この訴訟について、全く記載しなかったり、或いは記載しても真相の分からない様に、切り詰めて書いただけであった、この暗殺事件に関する組合の代表者は、セルビア人のカジミロヴィッチであった。彼について被告爆弾投擲者チャブリノヴィッチは次の様に言った。

[チャブリノヴィッチ] 彼(カジミロヴィッチ)は、フリーメーソン社員で、然も其の領袖株の一人だったと思う。彼は暗殺を決定した後、全世界に旅行した。彼はブダペスト、ロシア及びフランスにも行った。私がシガノヴィチに、一件はどうなっているかと聞く毎に、彼はいつも「カジミロヴィッチが帰って来たなら……」と言うのであった。当時シガノヴィチは、又私に向かい、フリーメーソン社員は、既に二年前(1912年)オーストリア皇太子に死刑の宣告を与えたが、この判決の執行者が居なかったのだと語った。その後彼が私にブローニング(拳銃)と弾薬を渡した時に、「あの男は、昨晩ブダペストから帰って来た」と言った。私はこの人が我々の要件と関連して旅行し、且つ外国で或る一定の人々と商議したことを知っている」

[裁  判  長]         貴方の話すことは作り話ではないか。

[チャブリノヴィッチ]  これは全くの事実で、Narodna Odbranaに関するあなたの書類より、百倍も本当である。

[弁護任ブレムジッツ]  貴方はロッジの書を読んだことがあるか。

[チャブリノヴィッチ]  私は、彼のフリーメーソンに関する論文を読んだ。

[ブレムジッツ]            その書類はベオグラードに分配されたのか。

[チャブリノヴィッチ]  私は植字工として、この書類の活字を組んだ。

[ブレムジッツ]            貴方は神、或いは何か、或る物を信ずるか。

[チャブリノヴィッチ]  否。

[ブレムジッツ]            貴方はフリーメーソンか。

[チャブリノヴィッチ]  (狼狽して暫く沈黙する。その後、ブレムジッツに向かい、彼を見て)貴方はなぜそれを私に聞くのか。私はそれについては答えることは出来ない。

[ブレムジッツ]            タンコシッチはフリーメーソン社員か。

[チャブリノヴィッチ]  (再び狼狽して沈黙する)なぜ、それを尋ねるか。
(暫く沈黙の後)そうです。それからシガノヴィチも……

[裁  判  長]     それで汝もフリーメーソン社員だということになる。何故なら、フリーメーソン社員は、同結社員以外の者に対しては、決して自分がフリーメーソン社員であることを言わないから。

[チャブリノヴィッチ]  その事は聞いて下さるな、そのことについては答えません。

[裁  判  長]         問いに答えないものは、この問いに対し、肯定するものである。

[チャブリノヴィッチ]  …………

[裁  判  長]         動機についても少し述べよ。貴方が殺害の決心をする前に、タンコシッチ及びシガノヴィチがフリーメーソン社員だということが分かったか。貴方及び彼等がフリーメーソン社員だということが、貴方の決心に影響したか。

[チャブリノヴィッチ]  その通り。

[裁  判  長]         貴方は彼等から暗殺実行の任務を受けたか、説明せよ。

[チャブリノヴィッチ]  私は誰からもその任務を受けなかった。フリーメーソンは、私の決心を強めたという点において、私の行為と関係がある。

                                        フリーメーソンでは、殺人は許されている。シガノヴィチは、私にフランツ・フェルディナンド大公は、既に一年前に死刑の宣告を受けたことを語った。

[裁  判  長]         彼はそのことをすぐに貴方に語ったか。それとも貴方が実行しようと言った後に語ったか。

[チャブリノヴィッチ]  我々はその以前に於て、フリーメーソンについて話したが、彼は我等が確かに殺害の決心をするまでは、我等に対しこの死刑の判決についてはちっとも話さなかった。

[裁  判  長]         貴方はシガノヴィチとフリーメーソンについて話したことがあるか。

プリンツィプ[17]]          (ユダヤ人、当の下手人)
(大胆に)何故私にそれを尋ねるか。

[裁  判  長]         私はそれを知りたいがために尋ねるのである。貴方は彼とこの事について話したか、否か。

プリンツィプ]            話した。彼は自分がフリーメーソン社員だということも私に語った。

[裁  判  長]         彼がフリーメーソン社員だということを、何時貴方に話したか。

プリンツィプ]            私が殺害実行の費用について、彼に問うた時に彼はそれを言った。且つ彼はある一定の人と話をして、この人からその費用を受けると語った。また他の機会に、彼は私にオーストリア皇太子は、フリーメーソンのある組合で、死刑の宣告を受けたことを語った。

[裁  判  長]         そして貴方は!貴方も多分フリーメーソン社員だろうね。

プリンツィプ]            何のためにそんなことを尋ねられるか。(一寸間を置いて)私は社員ではない。

[裁  判  長]         チャブリノヴィッチは、フリーメーソン社員か。

プリンツィプ]            私はそれを知らないが、或いはそうかも知れない。彼は話のついでにある組合に入会する筈だと私に語ったことがある。

以上の記事によっても、暗殺の計画はフリーメーソンから出ていることは極めて明瞭である。唯暗殺実行者を得られなかったために、一年以上を経過してしまった。そこで不思議な方法で、「チャブリノヴィッチ」、「プリンツィプ」その他の者に暗殺の考えを起こさせ、彼等を使って、長らくの間準備した行為を実行させたのである。その詳細についてはここに述べることが出来ないが、唯調書に基づき、暗殺者等にブローニング、弾薬、金子及び爆弾を交付したシガノヴィチは、他の者らと同じくボスニア生まれで、ベオグラードの鉄道下級従業員であった事を挙げるに止めよう。彼はフリーメーソン社員タンコシッチ少佐から金を受け取った。少佐は豊富に金を持って居て、自ら武器を購入した。

オーストリアフリーメーソン新聞は、皇太子暗殺の報を得ても、これに関しその新聞紙上に何も掲載しなかったが、フランスフリーメーソン新聞アカシアは、この暗殺を英雄的事業だと賞賛した。パリにおいては既に1910年にオーストリア皇室に近く凶変があると予言するものがあった。同時にドイツのホーエンツォレルン王朝も1910年には終わりを告げると言われた。併し予言の時期は、事実よりも五年早すぎではあったが、だからと言ってこの事実に対する努力の始まった時期をおおよそうかがい知ることが出来る。パリの有名な女予言者テベス夫人[18]は、社会各方面の人士と交際し、その予言の資料を得て、毎年十二月にその予言書を発表した。1910年の発表で「オーストリア皇太子は即位しない。その代わりに、今では皇位継承者ではない青年が、即位することになる」と言った。そしてオーストリア皇室の凶変が、予言した1913年に行なわれなかった時、この予言夫人は、一向平気で「今年は行われなかったが、来年(1914年)前半期には必ず実現する」と予言した。(皇太子暗殺は六月二十八日)オーストリア=ハンガリー帝国の新聞も大概毎年この記事を掲げ、幾万の読者は興味を以て之を読んだが、やがて忘れてしまった。テーベ夫人の予言で満足しない人は、1912年に著された小冊子に次の様な記事があるのを見るがよい。

人々は、スイスのある高級フリーメーソン社員が皇太子の事に関して言った次の言葉を了解する時があるであろう。「彼は非常に優秀な人物であるが、気の毒ながら、彼は既に判決を受けた。彼は王位につくに先立って死ぬであろう」と。

ここで、我々は次の疑問が生ずるのを禁じ得ない。つまりドイツの大組合会議は、この事を知って居たか、Narodna Odbrana(国民軍)の事業を知っていたか。セルビアフリーメーソンが、高等政治的の実質を持っていることを知っていたか。その指揮者を知っていたか。Narodna Odbranaと、セルビアフリーメーソンとの関係を知っていたか、と。ドイツの大棟梁は南方及び西方諸国のフリーメーソンは、その企図を隠す為に、常に国家的団体(イタリアのカルボナリ党[19]、トルコの青年トルコ党等)を利用していたことを知らなかったのだろうか。何れにしても、セルビアフリーメーソン最高会議を承認したドイツの大組合は、世界戦争の発起点たるセルビアフリーメーソンの活動について無関係ということは出来ない。

皇太子フランツ・フェルディナンドはその生まれながらの資質が英邁で、近い将来、必ず強力な皇帝、即ちフリーメーソン側から言えば「暴君」となったに違いない。これも同皇太子と、ドイツカイザーとの良好なる関係と相俟って[20]フリーメーソンの第一目標となった主なる原因であった。

 

 

 

 

[11] ナロドナ・オドブラナは、ボスニアヘルツェゴビナオーストリアハンガリー併合に対する反応として1908年10月8日に設立されたセルビア民族主義組織。この外にセルビア民族主義組織「Black Hand」なる秘密結社もあった。

[12] Vojislav Tankosićヴォジスラヴ・タンコシッチは、セルビア軍将校、セルビア・チェトニク組織のボイヴォダ、セルビア軍の大部隊、そして5月のクーデターに参加し、フェルディナンド大公の暗殺に関与したとして告発されたブラック・ハンドのメンバー。墺国セルビアを攻撃したとき許されて釈放され、第一次大戦で戦死。

[13] Brownings ジョン・ブローニングが開発し、暗殺に使われたFN ブローニングM1910自動式拳銃のこと。

[14] Milan Ciganović ミラン・シガノヴィチはサラエヴォ事件の主犯格、カブリノビッチ、プリンチプ、グラベスに4つのリボルバー、6つの爆弾、毒の小瓶を与えた

[15] Nedeljko Čabrinović ネデリュコ・チャブリノヴィッチはサラエヴォ事件で皇太子の車に爆弾を投擲した実行犯の七人の一人。

[16] Dr. Radoslav Kazimirović ラドスラフ・カジミロヴィッチは「ナロドナ・オドブラナ」の指導者の一人でチャブリノヴィッチの自白によるとセルビアの高階級フリーメーソン(詳細不明)

[17] Gavrilo Principはオーストリア皇太子暗殺の実行犯。

[18] Anne Victorine Savigny(1845~1916)の筆名。フランスの千里眼・予言者・手相占い師。ボーア戦争日露戦争サラエボ事件などを予言したと言われる。

[19] カルボナリは、19世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げた。カルボナリは炭焼き職人のことで、炭焼き職人のギルドを模した秘密結社ともいわれる。徒弟制度の階層構造はフリーメーソンのそれと同質である。

[20] 原文:関係が。前後の文脈から「関係と相俟って」に変更した。

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