フリーメーソンと世界革命07(原文)

7.フリーメーソンと猶太主義

 

フリーメーソンの事に精通して居る人は、夫れに就て簡潔に次の様に述べて居る。『其の起源は英國に在り、其の上級階級は佛國に於て創設せられ、其精神的養成は獨逸に於て行はれたが其形式は大部分其の濫觴を猶太主義に發して居る』と。之は正當であるが、唯最後の事項に關しては完全とは云へない。

精神的メーソンは人も知る如く「ソロモン」の殿堂建設と、密接なる關係を持つて居て、此賢明なる王はフリーメーソンの中で、重要なる地位を占めて居る。瑞典の教義に依ると、ソロモン王は結社の創設者、及第一代大棟梁として尊崇を受けて居る。而して大棟梁の位は、ソロモンの子孫に限らるべきものとされて居る。組合の長及顧問だけは、全組織の首長を識つて居るが、其他の結社員は誰も之を識らない。各國(瑞典、諾威、丁抹、獨逸)の頭には組合長が居つて、其の命令は生けるソロモンの命令と同様に服行すべきものとされて居る。

ソロモンの殿堂は「人道の殿堂」を構築せんとするフリーメーソンに取り、一の象徴的のものであるが、實際「バイブル」の記述に由つて人が想像する程宏大なものではなかつた。ソロモン王を第一代の大棟梁と追稱する様になつたのは、1730年頃のことであつて、それより以前古代の職工メーソンは何等之に關係がない。爾後フリーメーソンは種々ソロモンの殿堂に因んだ名稱を採用した。先づ殿堂なる語は組合、工場等の名稱に代りて、結社員の式場の名稱となつた。此殿堂の中には祭壇があつて、其前に膝を屈めて誓を爲し、聖職に任ぜられる。此處にはヤヒン及ボアスと云ふヘブライ語の名を有する二本の柱、七個の臂(ひじ)を有する燭台(メノーラ)、及約匱(猶太人の聖書を納むる箱)がある。此約匱に就いては次の様な逸話がある。フリードリッヒ三世は、皇太子時代に獨逸の大地方組合の大棟梁であつたので、組合の事に就て萬事根本的の研究を遂げ、且信ずるに足らない様な事は凡て之を取り除かうと苦心した。彼は大棟梁として其秘密を知るの權ありと考へ、或日約匱の内容品を見たいと云ひ出した。組合の顧問は非常に驚いて極力之に反對したが、皇太子は頑として聴かないので、萬策盡きて箱の蓋を開いた。其内に何があつたらうか?何もなかつた、全然空虚であつた。事實何もなかつたのか。或は結社員が豫め此事あるを察して、内容品を他へ移したのであるかは、恐らく永久の秘密であらう。

此約匱の外にもソロモン殿堂、若しくは猶太の風習、施設から、多くの事をフリーメーソンの中に取り入れて居る。例へば階級によりて差異を有する絨氈(絨毯)、ソロモン殿堂の前庭を意味するモザイク鋪石道の如きは、猶太の思想から出て居る。又英國の教制では、ソロモン殿堂の螺梯を採用し、且崇高なる精神的完全を象徴せらる階段を昇ることも、同じく猶太の思想に基くものである。七個の階段を以て通ずる神聖なる場所の扉の上には、猶太主義と最密接の關係を有する象徴たる「火焔を有する星」がある。徒弟階級のものは五角形の星を有し、仲間階級の者はダヴィドの六角形の星(✡)を有する規定である。六角形の星は、神の言葉の働き、及神の力の自由を象徴して居る。此星は常に結社の廣間の東方の扉の上に附けられて居る。

上に述べた所は、フリーメーソンと猶太主義との關係の一二を 述べたに過ぎないが、實際には尚無數の例があるのである、例へばソロモンの玉座は、アンダーソンの憲法書では、大棟梁の椅子とせられ、ソロモンの封印は、結社内ではソロモンの印附指環と同じく重視せられて居る。ソロモン殿堂の建設者にして理想のフリーメーソン結社員たるヒラムに關しても、各種の秘密の風習がある。

結社員の用ふる合言葉は、多くはヘブライ語から出て居る。

フリーメーソンは基督主義とは甚だ關係が少いのであるが、聖書の影響を受けて居る事が少くない。例へば問答原教の第十七は『フリーメーソンの三個の大なる光とは何ぞや』の問いに對する答え『聖書、直角定木、コンパス』とあり。第十八には『其意義如何』の問に對し『聖書は吾人の信仰を、直角定木は吾人の行ひを規整し、コンパスは全人類就中兄弟(結社員)に對する吾人の關係を定める』と答へてある。此事はフリーメーソンが常に唱道する所の、フリーメーソンは唯だ全人類の一致する宗教を希望し、且信仰及良心の完全なる自由を要すると云ふ教訓とは、表面上全く矛盾して居る。フリーメーソン社員の内で之を感知した人は、聖書は單に「信仰の象徴」に過ぎないと解釋して居る。

之等の事を考へると、フリーメーソンは猶太人に依りて創設せられたものではないかと云ふ想像も起こり得るのであるが、之は歴史上其根據が薄弱である。此結社の創設者は、皆英國式に舊約全書を喜んだ基督教徒であつた。其一人はフリーメーソン憲法書を書いた英國宣教師ドクター・ジェームス・アンダーソン[1]である。其外科學者、Thophil Dasaguiliers[2]、 George Payne[3]、其他の姓名も、今日迄わかつて居るが、其中には猶太人は居らない様である。而も茲に既に猶太主義との關係の認むべきものがある。即ちイライアス・アシュモール[4]と云ふ好古家の英國猶太人は、1646年當時の職工メーソンに入社してフリーメーソンに關する多數の書類を集め、之等の書類は1717年英國の大組合の創立に方(あた)り利用せられたのである。

フリーメーソン結社員は、フリーメーソンと猶太主義との關係を知つて居るだろうか?之を知つて居るに違ひないが、彼等は此の問題に触れることを避けて居る。結社員の中には「樹多くして森を見ない」類で、両者の關係に就て、何等気にも留めない様になつて居る者も少くない。しかし猶太人の社員は、御互の間では得々として此事實を言明して居る。猶太人の社員グスターフ・カルペレスは、1902年次の様に記述した。『フリーメーソンの思想は、猶太主義から出たものである。イスラエル(猶太)の最高貴の花たるソロモン王が、其創設者と目せられる。其風習の重要なる部分は、ソロモンの殿堂に關係を有し、言葉や、記號は大部分ヘブライ語から取つて居る』と。尚英國の一著述家は説明して曰く、『フリーメーソン社員は人爲的の猶太人である』と。

 

[1] 原典ではJakob Anderson。

[2] ジョン・デサグリエ(John Theophilus Desaguliers)またはジャン・デサグリエ(Jean-Théophile Desaguliers)(1683~1744)は仏国でユグノー教徒の家に生まれ、後に英国に渡った科学者。

[3] ジョージ・ペインGeorge Payne (c.1685~1757)は英国の大蔵官僚。

[4] Elias Ashmole(1617~1692)イライアス・アシュモール。英国の古物商、政治家、軍の将校、占星術師、錬金術の研究家。

 

8.フリーメーソン内に於ける猶太人の地位

 

フリーメーソン創立の當初に於て、猶太人は早くも其内に鞏固なる地位を獲得しやうと試みたが、其事は勿論容易ではなかつた。即ち當初は猶太人は結社に入ることを謝絶せられた。1780年頃に至り始めてフランクフルト・アム・マイン市に、二個の猶太人のフリーメーソン組合が出來たが、他の組合からは承認されなかつた。而も猶太人の入社に賛成する意見は漸次多くなつた。例へばフォン・コルトゥム[5]は1786年に猶太人採用賛成の意見を公表した。1783年フランクフルト・アム・マインに創立された『折衷的フリーメーソン同盟』は、最初は猶太人を採用したが、1811年に至り、非基督教徒を排除するに決した(其理由は不明)。併し其後1844年には再び最初の原則に復帰し、猶太人の加入を許すに至つた。今日では該組合の重要なる地位に在る者は殆ど猶太人ばかりである。

匈牙利では、1860年代に新たに猶太人を採用する組合が創設せられた。1870年代には、既に猶太人で指導者の地位に就く者が出來たが、多數の基督教徒は此の組合を去つた。今日では匈牙利のフリーメーソン結社では、猶太人が大多數を占め、其長たる者は殆ど全部猶太人である。此事に就いては1871年乃至1876年の間、結社員となり、棟梁の地位にも就き、其後結社を脱したカール・コーラー[6]が述べて居る。『猶太人は一たび結社内に於て勢力を占むるに至るや、彼等の迅速なる計畫的發展を阻止せんとする者に對して、攻撃の態度に出でた。即ち匈牙利の多數の猶太人の結社員は、非セメティック主義[7]に對し、猛烈なる反對攻撃の態度を執つた。(1823年)佛國のフリーメーソン雑誌アカシアは「猶太人なき組合なし」と書いたが、匈牙利では其程度は一層甚しい。誤解を避けるために云ふが、アカシア雑誌が上記の文句を書いたのは、決して猶太人を軽蔑する意味で書いたのではない。否な全く反對に之を以て成功と認め、且猶太主義に就いては次の如く賞讃して居る。「猶太の教會には書類なく、單に象徴を有することフリーメーソンと同様である。之が爲め猶太教會は吾人の自然的同盟者であり、之が爲め猶太人は吾人を支援し、又之が爲め多數の猶太人が吾人の同僚となつて居るのである」と。斯くの如く両者互に相助けて居るのは、上記の理由に依るのであるが、或は尚他の一層深き理由に基くものであるかに就ては、茲には判決を差控へて置く。唯匈牙利のフリーメーソンは、殆ど全く猶太人の勢力下に在ること、及獨逸のフリーメーソンに於ても、略ぼ同様の状態に在ることを注意して置きたい。三個のプロシャのフリーメーソンは成る可く猶太人を遠ざけ、下級の外、社員に採用しない、ハンブルグの大組合は、1900年伯林に其支部を作つた所が、プロシャの組合の劇烈なる反對を蒙つたが、1900年には猶太人の完全なる無差別待遇の要求は充されたのであつた。

プロシャの組合は無慮42,000人の會員を有して居つて、國家観念が旺盛であるが、ハンブルク及びフランクフルト・アム・マインの組合は、猶太人の勢力大なる爲め、より多く國際的色彩を帯びて居る。此事は1909年、伯林における第三十四回會議の際にも現れて居る。此際フランクフルトの組合は、巴里のグラントリアン組合と親交を回復すべしとの議案を出し五對三の多數決を以て採用せられた。ハンブルグ及びフランクフルトの両組合を合しても會員數約9,350人に過ぎない。而して其他の三個の組合の會員は、10,650人、合計20,000人を有することゝなる。是に於てか獨逸のフリーメーソンの全數の三分の一が、三分の二に對し勝利を得た事になる。之は組合同盟組織上の缺陥に基くのである(其組織に依ると、各組合は其會員の多少に拘はらず、一様に一組の代表者を出すことになつて居る)。尚又此獨逸フリーメーソン中、執拗勤勉なる會員、即ち猶太人を包含する一派の活躍及攻撃的精神にも依ると云はざるを得ない。

されど之は独り獨逸國に止まらず、世界各國に於て、最も活動的なるフリーメーソン社員は猶太人であつて、彼等は、結社に彼等の精神を吹き込み、且結社をば彼等固有の目的を遂行する一手段たらしむべき道をも心得て居る。

波蘭に始めて彼等の現はれたのは、1815年の頃であつたが、當時既に八組の猶太人の社員(凡て商人)があつた。土耳古フリーメーソン高級社員中にも、最近(1909年)二名の猶太人を見る。サロニカの結社の棟梁カラッソ[8]も猶太人である。カラッソはスルタン・アブドゥルハミッドに廃位を通告した使節中の一人であつた。此スルタンの廃位は、青年土耳古黨の仕事であつたが、青年土耳古黨なるものは、全然フリーメーソン社員のみから成立して居る。其本部はサロニカにあつた。「サロニカ」は陰謀の策源地として、最も恰好の地である。何となればサロニカの人口十一萬中、七萬は猶太人であるからである。[フリーメーソン雑誌アカシア(1907年第57號)所載]

伊太利の最有名なるフリーメーソン社員たるエルネスト・ナタンは、マッツィーニと猶太婦人の間に設けた私生兒であつて、1896年には伊太利フリーメーソンの長となり、次で羅馬市長となり、世界大戦に際しては劇烈なる参戦論者として、熱烈に獨逸に對する開戦を主張した。伊太利に於ては、フリーメーソンは大なる勢力を占めて居るが、其フリーメーソンの中では、猶太人が主要の地位を占めて居る。佛國のフリーメーソン新聞によると、猶太人は伊太利の議會に多數の代表者を有して居り、此伊太利に於ては他國に比して一層良くヘブライ精神が其目的を達成したとの事である。しかし吾人の観る所を以てすれば、他國に於ても同様である。

例へば佛國に於ては、フリーメーソン組合の創立者、及勤勉なる代表者として、幾多の猶太人を見るのである。一例を擧ぐれば、巴里出身の猶太人モーリン[9]は、所謂スコットランド式システムを廣めるのに、大なる功績のあつた者である。此教義の最上の地位にある者は、「東方及西方の皇帝」と自稱したが、モーリンは此帝王から高き稱號を受くると同時に、フリーメーソンを亜米利加に宣布すべき任を受け、サントドミンゴ、ジャマイカ、及サウスカロライナ州チャールストンに此教義を廣めた。佛國革命後、此教義はチャールストンより佛國に逆輸入せられ、茲に三十三階級より成るConseil Supreme組合の創設を見るに至つた。此高級組合の組織が、聖書の歴史と密接なる關係を有し、且其中に猶太精神の浸潤して居ることは、其各階級の稱號を一見すれば明瞭である。かくて各國の貴族王侯は、逐次其地位を失ふに引換へ、有爲なる猶太人には、フリーメーソンの貴族的稱號が附與せられつゝある。又猶太の世界支配の爲に、吾人を売らんとする猶太人の爲には、自由なる進路が開かれて居るのである。其外佛國の二組合を創設した猶太人に、軍隊御用商人「ベダーライド[10]」兄弟、及サミュエル・ホニス[11]がある。之を要するに佛・伊・墺・独及匈牙利等、到る處フリーメーソンに於て、猶太人は重要なる地位を占めて居るのである。

佛國二月革命(1848)の際、臨時政府員たりしクレミュー[12]は、佛國フリーメーソンの有力なる一領袖で、猶太人であつた。猶太人ガムベッタ[13]は、1869年教會と國家の分離を主張した。世界のフリーメーソンの政治上の目的の一は、教會と國家との分離を實現するにある。而して既に両者の分離を實行した國では、主としてフリーメーソンが之を爲し、而もフリーメーソン内の猶太人が、之を成し遂げたことは爭ふべからざる事實である。

英國フリーメーソン社員総數225,000人中、43,000人、即ち殆んど五分の一は猶太人である。而して組合によりて殆ど全く猶太人より成るもの(例へば「シェリ[14]」組合の如きは、猶太人の數四分の三に達して居る)。又は全然猶太人より成るヒラム組合の如きも有る。此のヒラム組合には「エドワード・アルバート親王(後エドワード七世)が、長となりて居たが、組合員が色々不都合を働いた爲め、遂に解散を命ぜらるゝに至つた。1870~1871年普佛戦役後、多數の猶太人が組合にはいり、基督教徒は組合を脱退するに至つた。當時に在りては、猶太人の便宜の爲に、幾多の組合が創設せられた。例へば猶太人の俳優を後援するドゥルーリー・レーン[15]俳優組合、黄色紙[16]を支持し、若き新聞關係者(Newspaperman)を養成する爲のサヴェッジ・クラブ[17]組合の如き此類である。古代の職工メーソン時代に於て何等組合と關係なかりし猶太人が、十八世紀には、漸次組合に採用せられ、今や凱歌を奏して居る。英國フリーメーソンが、チェンバレンの帝國主義の基礎をなせることは明らかで有るが、フリーメーソンの指導振も、非常に猶太的であることは看過してはならぬ。エドワード七世の弟コンノート公が、フリーメーソンの頭首となつて居ることも、何等上記の事實に變化を及ぼさない。

英國では「誰がフリーメーソン社員か」と問ふよりも、「誰が同社員でないか」と聞く方が早い。何となれば英國で少しでも知られて居る人々、例へば王族、大臣、貴族、代議士、新聞記者、大商人、銀行支配人等は、殆ど例外なしにフリーメーソンに加入して居る。彼の有名なるタイムス新聞社は、其入口の上に、公然フリーメーソンの徽章を掲げて居る。英國の或る著述家が、「フリーメーソンとは、人爲的猶太人に外ならず」と云つて居る位、英國ではフリーメーソンと猶太主義とが緊密の關係にある。英國新聞「The Eye Witness」の記事に「今日英國に於ける猶太人の地位は猶太人が秘密結社、即ち「フリーメーソン」内で優勢[18]の地位を占めて居ることに依つて、尤も明瞭に表はされて居る」といふことがあつた。

エドワール・デュマシー[19]が、「ロスチャイルド家」に就て記述した所によると、ロスチャイルド家は、1809年以來、独・佛・英のフリーメーソンに加入して居つた爲に、此一家に對して害を加へんとする者あれば、兄弟(社員)は直ちに之を密告して、其企圖を無効に終らせたのである。之は結社員は、兄弟の危険を知る時は直ちに之を知らせる義務を有して居るのに因るのであつて、此事は猶太主義に取りて、フリーメーソンが重大なる價値を有する所以である。無數の非猶太人を、猶太人固有の組織の爲に利用して行かうとするに於て、特に然りである。此猶太主義本來の組織は、イスラエル同盟(Alliance Israelite)と稱し、其代表者はモーゼス・モンテフィオーレ[20]と云ふ者である。モーゼス・モンテフィオーレは、伊太利のリヴォルノ(Livorno)に生れ、英國に永住し、英國女王の寵を受けて、貴族に列せられた。彼は全世界に於ける猶太主義の爲めに、大なる功績を擧げた。又彼は同族の利益を擁護し拡張せんが爲に、屡々旅行をしたが、彼がフリーメーソンに属して居る事は之が爲めに多大の利益を齎(もたら)した。

フリーメーソン結社内の猶太人が、其員數に比して大なる勢力を有して居るのは、猶太人の結社員が到る所に於て勤勉に働いて居るからである。彼等は又結社内で指導する者の地位を得る事を勉め、且つ多くの國では、已に其目的を達し、其の同族の利益の爲めに、其地位を利用して居る。又結社内に政治上の事を持ち込んだのも主として猶太人である。果して上記の事實があるとしたならば、獨逸國に於て之を洞察して、猶太主義に反抗せんとするものが無いであらうかとの問を生ずるのは自然であるが、之に就ては多數の人はよく知つては居るが、たゞ沈黙を守つて居るのである。之は組合の誓約に依つて束縛せられてをるのにも因るし、苟も反抗の態度を取る者は、其社會的地位を失ひ、又は経済的の打撃を與えられる事になり、或は生命上の危害をも蒙るの虞れがあることにも因るのである。

フリーメーソン社員フィンデル[21]は、最初猶太人の入社を許さない基督教主義に反對したのであるが、其後全然其意見を變更して、次の様に云ふて居る。

フリーメーソンは世界同胞を趣意として居るに拘らず、其猶太人は依然猶太人として他の種族をば、其利益の爲の材料と見做して居る。

予は嘗て猶太人は虐げられたる民族と考へて、之に對して同情を持つて居つたのであるが、今や反對に彼等が吾人を虐げるものであるといふ事を知つたので、之に反對して反抗の態度を取るに至つたのである』と。

尚彼は猶太人が賄賂を以て、司法の範囲にまでも干渉せる證據があると云ひ、又聖書の中に猶太人は各國民を支配すべきものだといふ意義を書き表はした點を指摘して居る。

世界大戦勃發當時に於ける獨逸のフリーメーソン結社長の氏名は、何故か秘密に附せられて居たが、實はコーン[22]と云ふ猶太人であつた。

 

[5] Carl Arnold von Kortum(1745~1824)ドイツの医師。

[6] Karl Koller(詳細不明)。ウィーンで棟梁にまでなったが、1897年3~4月、反メーソン会議を開催している。

[7] Anti-Semitic(反ユダヤ主義)のこと。

[8] Emmanuel Carasso 又は Emanuel Karasu(1862 in Salonica~1934 in Trieste)エマニュエル・カラッソは著名なオスマントルコのセファルディ・ユダヤ人家系の一人である。青年トルコ党は彼が立ち上げた。後にバルセロナでヨーグルトの事業(後のダノン)を始めた、Isaac Carasso はEmmanuel の甥。ダノンの会社名はIsaac の息子、Daniel Carassoの愛称から来ているらしい。

[9] Étienne Morin(1717~1771)エティエンヌ・モリンは、カリブ海ボルドーで活躍した商人。フリーメーソンスコットランド儀式の確立に貢献した。(アンターマイヤーが米福音教会のスコフィールド聖書に影響したことと似ているかも知れない一件。)

[10] Michel Bédarride。マルコ、ジュゼッペ、ミヒェルのベダーライド三兄弟。

[11] Samuel Honis脚註38参照。

[12] Isaac-Jacob AdolpheCrémieux(1796~1880)フランスのユダヤ人政治家。法務大臣ユダヤ人の権利の強力な擁護者。

[13] Léon Gambetta(1838~1882)は、19世紀フランスの政治家。

[14] Shelley Lodge。

[15] Drury Laneは ロンドンの コヴェントガーデンエリアの東の境界にある通り。シアターロイヤルやニューロンドンシアターが面している。

[16] Yellow Journalism のこと。発行部数を伸ばすために扇情的な内容を売る二流三流新聞。迅速さ、誇張を売り物にし、醜聞・捏造ネタを織り込み、事実の検証には殆ど頓着しない。日本で言えば朝日新聞の様な新聞のこと

[17] Savage Club。

[18] 原文:優勝

[19] 原典:Eduard Demarche(間違いか?)。Édouard Demachy(1854~1927)エドワール・デュマシーはフランスのジャーナリスト。

[20] Sir Moses Haim Montefiore, 1st Baronet(1784~1885)

[21] Gottfried Joseph Gabriel Findel(1828~1905)はドイツの作家。

[22] 原典:Kohn(詳しくは序説参照のこと)https://caritaspes.hatenablog.com/entry/2019/12/01/025130

 

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フリーメーソンと世界革命06(現代文)

第二部

6.フリーメーソンキリスト教主義

 

昔の職工組合(フリーメーソンの前身)の規定によると、結社員の第一の義務は『神及び神聖なる教会堂に対し忠実なるべき事、及びすべての迷信異端を受け容れないこと』である。然るに説教者アンダーソンの憲法書によると、結社員の義務として掲げてあることは、全く之と異なっている。即ち「結社員は全人類の一致する宗教のみについて、信奉する義務がある。フリーメーソン結社員になり、十分に(王者の)技術を会得すれば、愚かなる無神論[1](Stupid atheist)や放蕩者(irreligious-libertine)にはならないであろう」と言っている。この後半の文言はやや難解であるし、又事実において多くの誤解を生じた。即ち結社員中、今日に於てもこの文言に基づき神を信ずることがフリーメーソンの基礎であると考えている者が甚だ多い。フランスフリーメーソン憲法第一条に、1877年まではフリーメーソンの基礎は「神の存在及び霊魂の不滅にあり」と言う文言があった。有名なるフリーメーソンの著述家ノルマン[2]は、真面目に「無神論者は結社に加入を希望しても採用されない」と言っているが、ウィルヘルム・オール[3]は、この文言から推して「神の存在を信じないものを採用し得ないということは出来ない」と言っている。

フリーメーソンは神を信ずるかどうかの問いに対しては、明確に「然り」、或いは「否」の答えを為すことが出来ない。即ち人によって意見が分かれている。フランスの結社グラントリアン(大東社)は1877年9月10日、その規約書中から神の存在を想起する様な一切の章句を除き去った。イタリアのフリーメーソンも同様の事をした。ドイツの結社員は往々にして神に関する文言を用いるが、意味のない言葉であって、「神」(Gott)なる文言は出来るだけ避け、代わりに純フリーメーソン式の「宇宙最高の棟梁」のような字句を用いる。フリーメーソンの説明によると、昔から各国民各種族は、各々固有の神を有したが、キリストに至りて神は各国民の差別を認めざる共通の者となった。しかもこの神は地球の神に過ぎない。神は総ての天体中、特に地球を選んで神の子を世主として遣わした。しかしながらコペルニクス以後天文学の発達に伴い、このような考えは維持できなくなってしまった。何故なら宇宙には数百万の太陽があって、それぞれ無数の遊星を率いて組織的生活を営んでいることがわかったからだ。そうであるのでフリーメーソンは、単に地球の神を信ずることをせず「宇宙の棟梁」を信ずるのである。

次にフリーメーソンの第二の基礎たる霊魂の不滅について述べよう。ドクター・ヘンネ・アム・リンは常に考えた通りを語り、また何事でも最も簡潔な形で記述する結社員であるが、霊魂不滅の信仰については、未だ詳細なる記述を発表せず、この事に関する意見は、全くその同僚に任せている。フーゴー・フォン・クッパ[4]と言う人は、有力な結社員で雄弁家であるが「死は絶対的な終焉ではあり得ない」と確信し、さらに次の様に言った。「吾人の理性の示す所によれば死後更にこの世界がないものとすれば、人生は全く無意味なものとなってしまうであろう」と。更に言うには「霊魂不滅……これは我が教会の祭壇上の「炎を発せる星」の明らかな光線中より、我等の地の中を温かに照らすべき偉大なる思想である」と。又クッパーは霊魂不滅はヒラム神話(ソロモン殿堂の建設者ヒラムは悪漢の爲に殺され、後復活したとの伝説)の主意であると言っている。社員ディーステル[5]は「我々の霊魂は死後の存在を認めるべきことを我々に要求する」と言ったが、その他の社員は多くは反対の意見を抱いている。即ち社員ローヴァー[6]は「人はその肉体の死後もその事業の上に生存している」と言い、トラウネル[7]フリーメーソン社員の大部分は、良好な優秀な人々であるから、神及び霊魂不滅を盲信することはしないと言っている。彼はある時の演説で霊魂不滅の問題及びこれに関する教会の説教については、敢えて判断を下さなかったが、その際述べた所をよく考えると、両者を否定することになっている。故にフリーメーソンの著述家の中には、フリーメーソンを明確にキリスト教主義と対立させているものが少なくない。例えばフリードリッヒ・ウイル[8]はこの世を悲哀の谷と見なし、且つこの世の生活はあの世に至る前段と見る人世観に反対している。彼が言うには「フリーメーソンの教義は各個人が全能力を最高度に養成すべきことを要求する。人は共通の大目的の爲に、一生を通じて働かねばならない。また生の喜びを適当に享受すべきである」と。

彼等は、フリーメーソンキリスト教と同じく、全世界に広布されるべき一種の宗教であると考えている。このため両者は自然に相敵視するようになった。有力なる結社員フォン・ガーゲルン[9]は『宗教とフリーメーソンとは互いに相容れないものである』と言っている。又『宗教上の教理に対する疑惑を加える毎に、宗教の基礎は次第に動揺して来て、遂には没落してしまうであろう」とも言っている。然るに二十五年間結社員であったミリム[10]は『フリーメーソンは何ら宗教に反抗する企図をもっていない」と言っているが、独り彼のみならず、大多数の結社員はいろいろ細かいことやら形式やらは相当に知っているが、フリーメーソンの真の意義及び目的は一生分からずに終わるのである。これに反し結社員リムージン[11]が、フリーメーソンはその成立時に近き1723年以来、反教会であると言っているのは注意に値する。

フリーメーソンキリスト教主義、特にカトリック教に対し、敵対の関係にあることは、世間周知のことである。両者の闘争は、存亡を賭けた争いであって、互いに憎悪の念を抱いている。唯闘争の形だけは、時、場所及び相手の強弱に従って差異がある。結社員ミンツ[12]が「我々の国は現世にあり」と言ったのは、よくはっきりと両者の差異を言いきっているものと思う。

ドイツで両者の争いが余り目に立たないのは第一にドイツではフリーメーソンは殆ど全く何等の束縛も受けてないことと、第二にドイツの結社員中には多数の新教(プロテスタント)牧師が指導者の地位に立ってるのと、第三に独逸の国民性が沈着で、民族の自決と精神の解放に対し努力していることによるのである。ドイツのフリーメーソンは、たしかに宗教上の影響を受けていることが少なくない。ウィルヘルム・オールの説に従えば、フリーメーソンの教義は、人の生涯を包括し、高き教養に達すべき道を示し、且つ人を向上させようとするものである。従ってその内には勿論宗教を包含しているとのことである。

これに反しフリーメーソン教皇権至上主義(Ultramontanismus[13])に対しては、断然敵対的態度をとっているので、歴代の法王はこの挑戦に応じ、クレメンス十二世などは、1738年猛烈にフリーメーソン結社を非難攻撃し、フリーメーソンはあらゆる宗教、宗派に属する人々を網羅した秘密結社で、重い罰で威嚇してその結社員に沈黙を誓わせていると言ったが、この非難は今日でも否認し難い点がある。その後代々の法王は、しばしばフリーメーソンを非難し、これに対し破門の宣告をも与えた。イタリアの統一に大なる功績のあったマッツィーニ、ガリバルディ等は、フリーメーソン社員であって、法王に対し激しい反対を表白した。全世界の結社は、イタリアの結社から、法王及び教会に対する戦闘に対し応援する要求を受けた。で、ドイツの組合は常々政治とは全く没交渉であることを標榜しているにも拘らず、法王に対するこの戦闘において、断然イタリアの組合と一致した行動をとったことは注意に値する。

フランスの結社は独り法王を認めないばかりではなく、更に進んで結社の最高の地位「全宇宙の最高の棟梁」をも認めないことにした(1877年9月10日)。これには全世界の結社員が驚いた。英米の結社はこのため、爾後フランスの結社と関係を断つに至った。(ドイツの結社は、既にこれより先1871年普仏戦争の間、パリの組合がウィルヘルム一世及び皇太子を法廷に召喚すべきことを決議し、且つ両者の首に百万フランの懸賞を懸けた時に、フランスの結社との関係を断った)。

フリーメーソンはその信条を世の中に広めるために、法律結婚(教会結婚に対する)の採用、及び学校に於ける宗教教育の廃止を叫んでいる。前者はハンガリーにおいて已に実現し、後者はハンガリーおよびイタリアにおいて盛んに提唱されたが、イタリアの第三十三階級結社員エルネスト・ナタンが1908年、ローマ市長となって、第一に行なった事は、市内の学校に於ける宗教教育を廃止したことであった。

立派な外交家だった法王レオ十三世でも、帝王権と法王権との協調をやり遂げることが出来なかったのは、王の罪でも、法王の罪でもない、全くフリーメーソンがその間に立って極力両者の和解を妨げたからである。フリーメーソンの勢力が大きな国(例えばイタリア)にあっては結社員で官吏に任命せられた時は、よくフリーメーソンのプログラムを想起し忘れず、これに従わねばならない。これを怠り、又は組合の命令に従わない者は、重罪と認められるのである。このようにしてイタリアの大臣たちは国王と法王との和解を妨げたのである。

大臣たちのみならず、全国民もフリーメーソンの扇動、指導によって、両権力の和解を妨げたのであるがその目的はイタリアのフリーメーソンの機関雑誌に掲げられた次の文言に明らかである。

1886年)、

法王と国王とが和解するのは、取りも直さず法王に往時の権力を付与することになるから、国民はこの和解を妨げなければならない。

読者の中には、フリーメーソンのこの種の事業をよく承知して居られる人もあるだろう。しかし著者は敢えてこれに批評を加えようとはしない。ただ単に事実を事実として、その関係をはっきりさせようとするだけであって、これに対する判断は、読者にゆだねる。

フリーメーソンの中には、キリストを目して理想的フリーメーソン結社員、ナザレのフリーメーソン等と呼んでいる者のあるのは、神を冒涜する者と言わなければならないが、これをもって結社全部の罪に帰することはないと思う。しかしイタリアのフリーメーソンが、悪魔を賛美するに至っては殆ど(あきれて)批評の辞を知らない。実際彼らは悪魔を、理性のシンボルとして、キリスト教主義に対立させている。フリーメーソンの書籍中には、フリーメーソンは悪魔を最高の頭首として崇拝し、これに比べてキリストは僅かに従属的の地位を保持しているに過ぎないと言う字句もある。またイタリアのフリーメーソンは、式ある場合によく悪魔の讃美歌を歌う。これらの風習は教会及び法王に対する反対の結果、このように立ち至ったのかも知れない。或いは、教皇が、理性、自由研究、及び科学を悪魔の事業と、けなしつけた為に、自ら理性ある者、又は科学者を以て任ずる者が、殊更に悪意をもって悪魔を自己の神としたと言うのもあり得る事である。イタリアのフリーメーソンガリバルディ記念碑除幕式(1893年)の際悪魔の賛美歌を歌った。又その儀式、行列等の際、悪魔の像を有する黒旗を掲げる(1882年のマッツィーニ記念碑除幕式)。又彼等は時期が来れば、イタリアの総ての教会、とりわけヴァチカンの堂上に悪魔の旗を樹立すべき企図を持っていると称している。イタリアのフリーメーソン有力者の告白に依ると、同国のフリーメーソン結社員中には、表彰・称号の付与・手当の支給等を得るために、活動を試みたり、犯罪を犯したりする者が少なからずあって、結社内部の秩序が著しく乱れていることを訴えている。このように、イタリアの結社員が、自ら悪魔崇拝の実を挙げつつあるように見えるのは妙な事と言うべきである。

 

[1] 欧米で無神論者Atheist は、単に神の存在を否定する者ではなく、神に反抗する者を言うことに注意。

[2] H. Normann 詳細不明

[3] Wilhelm Ohr(1877~1916)詳細不明

[4] 原文:クップフェル。ヒューゴ・フォン・クッパーHugo von Kupffer(1853-1928)は現代のジャーナリストの草分け的記者で作家。様々な「ルポ(報告)」を書いた。

[5] Ernst Gottlieb Gustav Diestel(1859~1936)はドイツの牧師・作家。

[6] 原文:レーウェル。原典:Röver(von Royal York)「Royal York」はベルリンの大組合の建物に1915年まで付いていた名前か? 人物Röverについては詳細不明。

[7] Karl Trauner 詳細不明

[8] Friedrich Will(Privatgelehrter in Erlangen)フリードリヒ・ウィル(1847-1922)はドイツの動物学者。

[9] Carlos von Gagern(1826~1885)プロイセンの軍人、作家。1853~71までメキシコで従軍した。

[10] Milim(詳細不明)

[11] Charles Mathieu Limousin(1840~1909)はフランス人のジャーナリスト。ペンネームはヒラム。

[12] Alexander Mintz(1865~1938)オーストリアの法学者。1938年に米国へ移住。ユダヤ人メーソン。

[13]ウルトラモンタニズム又は ユルトラモンタニスム(ultramontanism)とは、キリスト教史上、17、18世紀フランスやドイツにおけるカトリック教会内の教会政治上の論争において、ローマ教皇の首位性を主張した立場。

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フリーメーソンと世界革命06(原文)

第二部

6.フリーメーソンと基督教主義

 

昔の職工組合(フリーメーソンの前身)の規定に依ると、結社員の第一の義務は『神及神聖なる教會堂に對し忠實なるべき事、及凡ての迷信異端を容れざる事』である。然るに説教者アンダーソンの憲法書によると、結社員の義務として掲げてあることは、全く之と異なつて居る。即ち「結社員は全人類の一致する宗教のみは、之を信奉する義務がある。フリーメーソン結社員にして十分に(王者の)技術を會得せば、彼の愚かなる無神論[1](Stupid atheist)や放蕩者(irreligious-libertine)にならぬであらう」と云つて居る。此後半の文句は稍々(やや)難解であるし、又事實に於て多くの誤解を生じた。即ち結社員中、今日に於ても此文句に基き神を信ずることがフリーメーソンの基礎であると考へて居る者が甚だ多い。佛國フリーメーソン憲法第一條に、1877年まではフリーメーソンの基礎は「神の存在及霊魂の不滅にあり」と云ふ文句があつた。有名なるフリーメーソンの著述家ノルマン[2]は、眞面目に「無神論者は結社に加入を希望しても採用されない」と云つて居るが。ウィルヘルム・オール[3]は、此文句から推して「神の存在を信じない者を採用し得ないと云ふことは出來ない」と云つて居る。

フリーメーソンは神を信ずるや否やの問いに對しては、明確に「然り」、或は「否」の答えをなすことが出來ない。即ち人に依りて意見が分かれて居る。佛國の結社グラントリアン(大東社)は1877年9月10日、其規約書中より神の存在を想起せしむるが如き一切の章句を除き去つた。伊太利のフリーメーソンも同様のことをした。獨逸の結社員は往々神に關する文句を用ひるが、意味のない言葉であつて、「神」(Gott)なる文句は努めて之を避け、之に代るに純フリーメーソン式の「宇宙最高の棟梁」の如き字句を用ひる。フリーメーソンの説明に依ると、往古各國民各種族は、各々固有の神を有したが、基督に至りて神は各國民の差別を認めざる共通のものとなつた。而も此神は地球の神に過ぎない。神は総ての天體中、特に地球を選んで神の子を世主として遣はした。然るにコペルニクス以後天文學の發達に伴ひ、此の如き考は之を維持し得ざるに至つた。即ち宇宙には數百萬の太陽があつて、夫々無數の遊星を率ゐて組織的生活を営んで居ることがわかつた。是に於てかフリーメーソンは、單に地球の神を信ずることをなさず「宇宙の棟梁」を信ずるのである。

次にフリーメーソンの第二の基礎たる霊魂の不滅に就て述べん。ドクター・ヘンネ・アム・リンは常に考へた通りを語り、また何事でも最簡潔な形式を以て記述する結社員であるが、霊魂不滅の信仰に就ては、未だ詳細なる記述を發表せず、此事に關する意見は、全くその同僚に委して居る。フーゴー・フォン・クッパ[4]と云ふ人は、有力なる結社員で雄辯家であるが「死は絶對的の終焉ではあり得ない」と確信し、且曰く「吾人の理性の示す所によれば死後更に此の世界がないものとせば、人生は全く無意味なものとなつてしまふであらう」と。又曰く「霊魂不滅……之れは我が教會の祭壇上の「焔を發せる星」の明らかなる光線中より、吾等の地の中を温かに照らすべき偉大なる思想である」と。又クッパーは霊魂不滅はヒラム神話(ソロモン殿堂の建設者ヒラムは悪漢の爲に殺され、後復活せりとの傳説)の主意であると云つて居る。社員ディーステル[5]は「吾人の霊魂は死後の存在を認めるべきことを吾人に要求する」と云つたが、其他の社員は多くは反對の意見を懐いて居る。即ち社員ローヴァー[6]は「人は其肉體の死後も其事業の上に生存して居る」と言ひ、トラウネル[7]フリーメーソン社員の大部分は、良好な優秀な人々であるから、神及霊魂不滅を盲信することはしないと云つて居る。彼は或る時の演説で霊魂不滅の問題及之に關する教會の説教に就ては、敢て判断を下さなかつたが、其際述べた所を玩味すると、両者を否定することになつて居る。故にフリーメーソンの記述家中には、フリーメーソンを明確に基督教主義と對立せしめて居るものが少なくない。例へばフリードリッヒ・ウイル[8]は此世を悲哀の谷と見做し、且此世の生活は彼の世に至る前段と見る人世観に反對して居る。彼曰く「フリーメーソンの教義は各個人が全能力を最高度に養成すべきことを要求する。人は共通の大目的の爲に、一生を通じて働かねばならぬ。また生の喜びを適當に享受すべきである」と。

彼等は、フリーメーソンは基督教と同じく、全世界に廣布せらるべき一種の宗教であると考へて居る。是が爲に両者は自然相敵視するに至つた。有力なる結社員フォン・ガーゲルン[9]は『宗教とフリーメーソンとは、互に相容れぬものである』と云つて居る。又『宗教上の教理に對する疑惑を加ふる毎に、宗教の基礎は次第に動揺を來し、遂には其没落を見るに至るであらう」とも云つて居る。然るに二十五年間結社員たりしミリム[10]は『フリーメーソンは何等宗教に反抗する企圖を以て居らぬ」と云つて居るが、独り彼のみならず、大多數の結社員は色々細かいことやら形式やらは相當に知つて居るが、フリーメーソンの眞の意義及目的は一生分らずに終るのである。是に反し結社員リムージン[11]が、フリーメーソンはその成立時に近き1723年以來、反教會であると云つて居るのは注意に値する。

フリーメーソンが基督教主義、特に加特力(カトリック)教に對し、敵對の關係にあることは、世間周知のことである。両者の爭闘は、存亡を賭せる爭であつて、互に憎悪の念を懐いて居る。唯爭闘の形式のみは、時、場所及對手の強弱に従つて差異がある。結社員ミンツ[12]が「吾人の國は現世にあり」と云つたのは、能く両者の差異を道破して居るものと思ふ。

獨逸で両者の爭が餘り目に立たないのは第一に獨逸ではフリーメーソンは殆んど全く何等の束縛を受けて居らぬのと、第二に獨逸の結社員中には多數の新教牧師が指導者の地位に立つてるのと第三に独逸國民性が沈着で、自決及精神の解放に對し努力して居ることに因るのである。獨逸のフリーメーソンは、慥かに宗教上の影響を受けて居ることが少くない。ウィルヘルム・オールの説に従へば、フリーメーソンの教義は、人の生涯を包括し、高き教養に達すべき道を示し、且人を向上せしめんとするものである。従て其内には勿論宗教を包含して居るとのことである。

之に反しフリーメーソン教皇權至上主義(Ultramontanismus[13])に對しては、全然敵對の態度を執つて居るので、歴代の法王は此挑戦に應じ、クレメンス十二世の如きは、1738年猛烈にフリーメーソン結社を非難攻撃し、フリーメーソンはあらゆる宗教、宗派に属する人々を網羅したる秘密結社で、重き罰の威嚇を以てその結社員に沈黙を誓はしめて居ると云つたが、此の非難は今日でも否認し難い點がある。其後代々の法王は、屡々フリーメーソンを非難し、之に對し破門の宣告をも與へた。伊太利の統一に大なる功績のあつたマッツィーニ、ガリバルディ等は、フリーメーソン社員であつて、法王に對し劇烈なる反對を表白した。全世界の結社は、伊太利の結社から、法王及教會に對する戦闘に應援せんことの要求を受けた。で、獨逸の組合は常々政治とは全く没交渉たることを標榜せるに拘らず、法王に對する此戦闘に於て、全然伊太利の組合と一致した行動を執つたのは注意に値する。

佛國の結社は独り法王を認めないばかりではなく、更に進んで結社の最高の地位「全宇宙の最高の棟梁」をも認めないことにした(1877年9月10日)。之には全世界の結社員が一驚を喫した。英米の結社は之が爲め、爾後佛國の結社と關係を断つに至つた。(獨逸の結社は、既に之より先き1871年普佛戦爭の間、巴里の組合がウィルヘルム一世及び皇太子を法廷に召喚すべきことを決議し、且つ両者の首に百萬フランの懸賞を懸けた時に、佛國の結社との關係を断つた)。

フリーメーソンはその信條を世の中に廣める爲に、法律結婚(教會結婚に對する)の採用、及學校に於ける宗教教育の廃止を叫んで居る。前者は匈牙利に於て已に實現し、後者は匈牙利及伊太利に於て盛んに唱道せられたが、伊太利の第三十三階級結社員エルネスト・ナタンが1908年、羅馬市長となつて、第一に行つた事は、市内の學校に於ける宗教教育を廃止したことであつた。

立派な外交家だつた法王レオ十三世でも、帝王權と法王權との協調を仕遂ぐることが出來なかつたのは、王の罪でも、法王の罪でもない。全くフリーメーソンが其間に立つて極力両者の和解をば妨げたからである。フリーメーソンの勢力大なる國(例へば伊太利)にありては結社員にして官吏に任命せられた時は、能くフリーメーソンのプログラムを銘記し、之に従はねばならぬ。之を怠り、又は組合の命令に違う者は、重罪と認められるのである。斯くして伊太利の大臣連は國王と法王との和解を妨げたのである。

大臣連のみならず、全國民もフリーメーソンの煽動、指導に依つて、両權力の和解を妨げたのであるが其目的は伊太利のフリーメーソンの機關雑誌に掲げられた次の文句に明らかである。

1886年)、

法王と國王とが和解するのは、取りも直さず法王に往時の權力を附與することになるから、國民は此和解を妨げなければならぬ。

読者の中には、フリーメーソンの此種の事業を能く承知して居られる人もあるだろう。併し吾人は敢て之に批評を加へようとするのではない。唯單に事實を事實として、其關係を闡明せんとするのであつて、之に對する判断は、読者に委せる。

フリーメーソンの中には、基督を目して理想的フリーメーソン結社員、ナザレのフリーメーソン等と呼んで居る者のあるのは、神を褻瀆する者と云はねばならぬが、之を以て結社全部の罪に帰するには及ぶまいと思ふ。併し伊太利のフリーメーソンが、悪魔を讃美するに至りては殆ど批評の辞を知らない。實際彼らは悪魔を以て、理性のシンボルとして、基督教主義に對立せしめて居る。フリーメーソンの書籍中には、フリーメーソンは悪魔を最高の頭首として崇拝し、之に比すれば基督は僅かに従属的の地位を保持せるに過ぎないと云ふ字句もある。又伊太利のフリーメーソンは、式ある場合に能く悪魔の讃美歌を唱ふ。之等の風習は教會及法王に對する反對の結果が茲に立ち至つたのかも知れない。或は又(教皇が、)理性、自由研究、及科學を悪魔の事業と、けなしつけた爲に、自ら理性ある者、又は科學者を以て任ずる者が、殊更に悪意を以て悪魔を自己の神としたと云ふこともあり得べきことである。伊太利のフリーメーソンガリバルディ記念碑除幕式(1893年)の際悪魔の賛美歌を唱つた。又其儀式、行列等の際、悪魔の像を有する黒旗を掲げる(1882年のマッツィーニ記念碑除幕式)。又彼等は時節到來せば、伊太利の総ての教會、就中ヴァチカンの堂上に悪魔の旗を樹立すべき企圖を有すると稱して居る。伊太利フリーメーソン有力者の告白に依ると、同國のフリーメーソン結社員中には、表彰、稱號の附與、手當の支給等を得んとして、各種の運動を試みたり、各種の犯罪を犯したりする者が少からずあつて、結社内部の秩序が著しく紊れて居ることを訴えて居る。かくて伊太利の結社員が、自ら悪魔崇拝の實を擧げつゝあるの観あるは一奇と云ふべきである。

 

[1] 欧米で無神論者Atheist は、単に神の存在を否定する者ではなく、神に反抗する者を云ふことに注意。

[2] H. Normann 詳細不明

[3] Wilhelm Ohr(1877~1916)詳細不明

[4] 原文:クップフェル。ヒューゴ・フォン・クッパーHugo von Kupffer(1853-1928)は現代のジャーナリストの草分け的記者で作家。様々な「ルポ(報告)」を書いた。

[5] Ernst Gottlieb Gustav Diestel(1859~1936)はドイツの牧師・作家。

[6] 原文:レーウェル。原典:Röver(von Royal York)「Royal York」はベルリンの大組合の建物に1915年まで付いていた名前か? 人物Röverについては詳細不明。

[7] Karl Trauner 詳細不明

[8] Friedrich Will(Privatgelehrter in Erlangen)フリードリヒ・ウィル(1847-1922)はドイツの動物学者。

[9] Carlos von Gagern(1826~1885)プロイセンの軍人、作家。1853~71までメキシコで従軍した。

[10] Milim(詳細不明)

[11] Charles Mathieu Limousin(1840~1909)はフランス人のジャーナリスト。ペンネームはヒラム。

[12] Alexander Mintz(1865~1938)オーストリアの法学者。1938年に米国へ移住。ユダヤ人メーソン。

[13]ウルトラモンタニズム又は ユルトラモンタニスム(ultramontanism)とは、キリスト教史上、17、18世紀フランスやドイツにおけるカトリック教会内の教会政治上の論争において、ローマ教皇の首位性を主張した立場。

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フリーメーソンと世界革命05(現代文)

5.フリーメーソンの服装、徽章、認識号及び援助記号

 

フリーメーソン結社員は、社内で仕事をする時は、通常の服の上に胸掛けを着る。これを普通単にフリーメーソンの服装と言っている。この胸掛けは、既に1723年に作られたもので、石工時代に起因している。従ってこの事だけでも、フリーメーソンの真の起源を語る一証となっているわけである。この胸掛けは白い羊の皮で出来ている。この白色並びに材料は人が生まれ出た時の清浄無垢(罪けがれない清らかさ)を意味する。これに付ける藍色の装飾は、階級が進むに従って大きくなり、その人の同盟及び教義に対する忠誠がだんだん深くなって行ったことを象徴する。しかし色と縁には色々の違いがある。二、三のフリーメーソン結社の役員は、緑色の胸掛けを着けている。棟梁の色は藍色または金色である。棟梁の長期間勤続記念祝賀会の時には、銀色の穂で装飾をした胸掛けを贈呈することがある。ベルギーの大組合の規定によると、その高級者は本物の金属の縁をつけた空色の胸掛けを着ることになっている。上級の階級では、藍色の縁のかわりに赤、緑色、或いは黒色の縁を用いる。例えば薔薇十字階級では、赤色スコットランド棟梁は緑色、リッテルカドッシ階級[1]は黒色の縁にする。又上級の階級では、多くは制服を着用する。服制には、このほかに金属製の役員記章(宝石)、及び組合の記章を付ける帯があって、円形の縫箔(ぬいはく:刺繍と金箔・銀箔で作った装飾)又は絵で装飾されている。例えばベルギーの大棟梁は、その帯の上に太陽を、又ある棟梁はペリカンを付けている。

元は結社の仕事の際は、食事の時でも帽子をかぶったままであった。しかし今日ではこの習慣はだんだん廃れ始めた。例えばプロシャの大組合「友誼」(組合の名)は、最近会員は仕事の際は、帽子はかぶらないでもよいと規定し、又他の大組合では、大戦後シルクハットの代わりに普通の帽子をかぶっても差し支えないことにした。しかし白色の手袋は、今日でもフリーメーソンの服装になっている。新入会者には本人用のほか、その妻又は婚約者のために一対の婦人用白色手袋を渡される。これは結社が夫婦を尊重する一つのしるしだとされる。

フリーメーソンのある一定の階級の完全な装備には刀と斧がある。刀を帯びる様になった起源は不明であるが、恐らくその最初は貴族出の仮のフリーメーソンから起こったものであろう。フリーメーソン各派の中でスコットランド式、スウェーデン式、及びドイツ地方大組合のような上級階級を認めているものは、帯刀をかたくなに守っている。その他二、三の独立組合も同様である。即ち各種の式、例えば採用式、宣誓式、行列等の場合に、刀は一定の役目を演ずる。(ライプチッヒのフリーメーソン社員パウル・メンスドルフ[2]の説明によると、仲間の行列の際、監督者は先頭の者を支え、且つこの者の心臓に刀尖を向けつつ歩いて行くという(力を象徴する斧は上級の棟梁、即ち長及び二人の監督者だけが帯びることになっている)。

会員が脱会すると、役員記章(宝石)と胸掛けを取り除ける。フリーメーソン結社員は、通常外部の認識記章を好まない。職をやめた棟梁は、往々にして時計の鎖に金製の小型の杓子、ボタン孔に小型の直角定木を着けている。結社員同志がお互いに認識するのは、通常その他の記号(動作)、即ち握手一定の言語、お互いに特別な足の置き方、及びその他一定の記号(頸、胸、腹の記号、危急信号、援助記号)によるのである。頸の記号は徒弟の認識記号であるが、一様に結社の認識記号にもなっている。其の記号をどのように行うかは、ここで詳細に説明することは出来ない。頸(くび)の記号は、同時に重い刑罰「断首」を示している。この刑罰は沈黙を守るべき義務を破った場合に科せらるべきものである。仲間のための記号には胸部の記号、棟梁の記号には腹部の記号を用いる。胸部の記号は、心臓の摘出、腹部の記号は、棟梁がその体を自ら沈黙の抵当に供していることを意味するのである。以上は手で行う記号であって、階級が上がるに従い、一定の変化がある。握手の方法も、階級によって多少の差異がある。しかし驚駭(驚き)の記号は、認識の記号ではなく、組合内で棟梁ヒラムの死を演劇的に演出する場合に行なうものである。これ以上詳細のことをここでで記述する必要はあるまい。5P.d.v.M.Cr.[3] ある記号は、棟梁の任命の際、その意義を有するものでこれを理解するためには自ら経験するか、或いは感得し、且つ十分考えるかしなければならない。

認識用の語句は殆どすべてヘブライ語から来ており、永続的なものもあれば、一時的な合言葉もある。この種の通用語は、既に1746年に始められ、その通用期限を一年、又は半年間と限定していた。それでこの記号は、棟梁自ら社員に口達したものである。しかしこの記号は組合に依って差異があったため、色々な間違いや誤解が生じた。これら記号及びその意義は研究の目的を持っていない素人にとっては全然どうでもいいことである。従って又新旧のM. W.の意義を知ること、M. B.式はJ…の背後に隠れたものを詮索する必要はないであろう。[4]

しかしながらここで注意すべきことはフリーメーソン結社員が、生命上の危急に際して出す危険記号援助記号である。これは元来棟梁階級に限られたものであるが、実際的な価値があるので、徒弟階級にも知らせることになった。フリーメーソンの新聞にも時々載っていることであるが、戦争中フリーメーソン社員中には、この記号によって命を助けられた者もいる。お互いに敵対行為を取っても、一度同結社員だと言うことがわかると共に、最早全く敵ではなく、兄弟となった。このような場合について、フリーメーソン新聞グローベ[5](第二巻496頁)に次の記事がある。

戦場において、敵味方の間に記号を交わし……武器を投げ出して、互いに接吻するのを見た。今までの敵同志は、その宣誓に従い、瞬時にして朋友及び兄弟となった。

1896年5月、ナンシー[6]におけるフリーメーソンの会議では、次のような明瞭な実例を出している。

 

1801年の戦争中、或るフランスの軍艦は、英国軍艦に激しく射撃されたが、武装が不充分であったため防禦することが出来なかった。フランス艦の乗組員半旅団は、数では敵に対し優勢であったにも拘らず、最早滅亡は避けられないことが明瞭となった。フランスの旗は卸されたが、英艦の砲撃は依然全く勢いが衰えなかった。この時フリーメーソン結社員たるフランス将校連は、艦の前部に突進し敵の砲火に身を曝してフリーメーソンの危急信号を出し、且つ救助を叫び求めた。このように人道の達成できないところで、フリーメーソン結社は達成できた。つまり、英国将校の中にも同じく結社員がいたので、砲撃は直ちに中止され、次いで降伏の条件は議決された。

 

このようなことは屡々行われた。1841年結社員ブイイ(Bouilly)[7]は、結社員に対し「戦時にあっては国籍、軍服の別を区別する必要はない。唯兄弟を見分け、且つ宣誓を忘れない事である」と教えている。この教訓は、1870年~71年戦役でも、また今度の世界戦でも、遵守されたことが確実である。

危急信号(Signe de détresse)は、その他の危急の場合にも用いることが出来るもので、若し誰でも結社員が危急信号を出した時は、居合わせた兄弟は、皆この結社員の救助に馳せ向かわなければならないのである。しかしこの同胞観念は、結社員以外には及ぼされないことであって、人道もまた同様である。結社員ヘンネ・アム・リンが、この偏狭な考えを罵っているのはもっともな事であって、彼は次のような言葉をでその鬱憤を漏らしている。

 

危急信号を受けて救助に赴く人も、同じ場合に救助を求める人が、フリーメーソンでない時は、何等の処置をも取らないのであって、取りも直さず場合に依っては、平気で人を見殺しにするのである。人道は果たしてこんなものか。フリーメーソンが軽蔑的に「素人」と呼ぶ人々は、何等の信号や報酬がなくても、単に人として他の危急を救うのである。こちらの方が遥かに高尚ではないか。

 

ヘンネ・アム・リンは、危急、援助信号を指して真の人道と何ら関係ない発見物であるとし、その廃止を希望している。フリーメーソン結社員が援助を求めるための記号は、援助記号と同じく、両脚を直角に置くのである。そのときは棟梁でも、また国王でも、その要求に応じなければならない。

世の中の色々な不可解な出来事、大赦の問題等も、これに依って明らかになって来る。

フリーメーソンの認識記号ともなり、またシンボルともなるのは、アカシアの枝である。アカシアは、フリーメーソンのための神聖な樹としてある。社員はアカシアの小枝を徽章として身に着ける。例えば1908年6月4日結社員であった小説家エミール・ゾラ[8]の遺骸をパンテオンに移した時に、多数の結社員はアカシアの小枝を着けて、この儀式に参列した。

扉の叩き方でも、結社員を識別できる様になっているが、階級や教義の異なるにつれて、その方法にも各種の差異がある。

フリーメーソンの少なくとも一部には、年号を数える時に、1782年のウィルヘルムスバードの会議以来、年数に四千を加えて計算する習慣がある。

 

[1] ドイツ語原典Ritter Kadosch Grad。Kadoschは「神聖な」と言う意味のヘブライ語。英語(ヘブライ語)のKaddish のことか? 「聖なる騎士階級」の意?

[2] Paul Mensdorf(1863~1946)ライプツィヒの学校の校長先生?(詳細不明)

[3] 日本語訳原典では5Pd.v.UCr.(いずれにしても意味不明)

[4] 日本語原典では、「M. W.式はY…の背後に隠れたるものを穿鑿する必要はあるまい。」(これもいずれにしても意味不明)

[5] 原典:die freimaurerische Zeitung, “Globe”

[6] Nancyはフランス北部、グラン・テスト地域圏の鉄鋼業で有名な都市。

[7] Jean-Nicolas Bouilly(1763~1842)はフランスの政治家、劇作家。ベートーヴェンフィデリオの原作で知られるが、この人物である確認が取れず、詳細不明。

[8] Émile Zola(1840~1902)はフランスの著名な小説家。

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フリーメーソンと世界革命05(原文)

5.フリーメーソンの服装、徽章、認識號及び援助記號

 

フリーメーソン結社員は、社内で仕事をする時は、通常の服の上に胸掛を着る。これを普通單にフリーメーソンの服装と云つてゐる。此胸掛は、既に1723年に造られたもので、石工時代に起因してゐる。従つて此事だけでも、フリーメーソンの眞の起源を語る一證となつてゐるわけである。此胸掛は白い羊の皮で出來てゐる。此白色並に材料は人が生れ出た時の清浄無垢を意味する。之に附ける藍色の装飾は、階級の進むに従つて大きくなり、其人の同盟及教義に對する忠誠が段々深くなつて行つた事を象徴する。しかし色及縁には色々の差異がある。二、三のフリーメーソン結社の役員は、緑色の胸掛を着けてゐる。棟梁の色は藍色及金色である。棟梁の長年月勤続記念祝賀會の時には、銀色の穂で装飾をした胸掛を贈呈することがある。白耳義の大組合の規定によると、其高級者は眞の金属の縁をつけた空色の胸掛を着ることになつてゐる。上級の階級では、藍色の縁の代りに赤、緑、或は黒色の縁を用ひる。即ち薔薇十字階級では、赤色スコットランド棟梁は緑、リッテルカドッシ階級[1]は黒色を用ひる。又上級の階級では、多くは制服を着用する。服制には、此外に金属製の役員記章(宝石)、及組合の記章を附ける帯があつて、圓形の縫箔(ぬいはく)又は絵畫を以て装飾されてゐる。例へば白耳義の大棟梁は、其帯の上に太陽を、又或る棟梁はペリカンを附けてゐる。

もとは結社の仕事の際は、食事の時でも帽子をかぶつたまゝであつた。しかし今日では此習慣は漸次廃れ初めた。例へばプロシャの大組合「友誼」(組合の名)は、最近會員は仕事の際は、帽子は被らないでもいゝと規定し、又或る他の大組合では、大戦後シルクハットの代りに普通の帽子をかぶつても差支ないことにした。しかし白色の手袋は、今日でもフリーメーソンの服装になつてゐる。新入會者には本人用の外、その妻又は許嫁(婚約者)の爲め、一對の婦人用白色手袋を渡される。之は結社が夫婦を尊重する一のしるしだとしてある。

フリーメーソンの或一定の階級の完全なる装備には刀及斧がある。刀を帯ぶる様になつた起原は不明であるが、恐らく其最初は貴族出の仮のフリーメーソンから起つたものであらう。フリーメーソン各派の中でスコットランド式、瑞典式、及獨逸地方大組合の如き上級階級を認めて居るものは、帯刀を墨守してゐる。其他二、三の独立組合も同様である。即ち各種の式ある場合、例へば採用式、宣誓式、行列等の場合に、刀は一定の役目を演ずる。(ライプチッヒのフリーメーソン社員パウル・メンスドルフ[2]の説明によると、仲間の行列の際、監督者は先頭の者を支へ、且此者の心臓に刀尖を向けつゝ歩いて行くと(力を象徴する斧は上級の棟梁、即ち長及二人の監督者だけが帯びることになつて居る)。

會員が脱會すると、役員記章(宝石)と胸掛を取りのける。フリーメーソン結社員は、通常外部の認識記章を好まない。職を罷めた棟梁は、往々時計の鎖に金製の小形の杓子、ボタン孔に小形の直角定木を着けて居る。結社員同志がお互に認識するのは、通常其他の記號、即ち握手一定の言語、お互に特種の足の置き方、及其他一定の記號(頸、胸、腹の記號、危急信號、援助記號)に依るのである。頸の記號は徒弟の認識記號であるが、一様に結社の認識記號にもなつて居る。其の記號を如何に行ふかは、此處に詳細に説明することは出來ない。頸の記號は、同時に重い刑罰「断首」を示して居る。此刑罰は沈黙を守るべき義務を破つた場合に科せらるべきものである。仲間の爲の記號には、胸部の記號、棟梁の記號には、腹部の記號を用ひる。胸部の記號は、心臓の摘出、腹部の記號は、棟梁が其の身體を自ら沈黙の抵當に供してゐることを意味するのである。以上は手で行ふ記號であつて、階級の上るに従い、一定の變化がある。握手の方法も、階級に依つて多少の差異がある。しかし驚駭(けいがい:おどろき)の記號は、認識の記號ではなく、組合内で棟梁ヒラムの死を演劇的に演出する場合に行ふものである。之れ以上詳細の事を此處で記述する必要はあるまい。5P.d.v.M.Gr.[3] ある記號は、棟梁の任命の際、その意義を有するもので之を了解する爲には自ら之を経験するか、或は之を感得し、且十分考へるかせねばならぬ。

認識用の語句は殆んど凡てヘブライ語から來て居り、永続的のものもあり、又單に一時的の合言葉もある。此種の通用語は、既に1746年に始められ、其の通用期限を一年、又は半年間と限定して居つた。それで此記號は、棟梁自ら社員に口達したものである。しかし此記號は組合に依つて差異があつた爲め、色々な間違や誤解を生じた。之等記號及其意義は研究の目的を有せざる素人に取りては全然どうでもいゝ事である。従つて又新舊のM. W.の意義を知ること、M. B.式はJ…の背後に隠れたるものを穿鑿する必要はあるまい。[4]

然れども茲に注意すべきはフリーメーソン結社員が、生命上の危急に際して爲す所の危険記號援助記號である。之は元來棟梁階級に限られたものであるが、實際的の價値があるので、徒弟階級にも知らせることになつた。フリーメーソンの新聞にも時々載つて居ることであるが、戦爭中フリーメーソン社員中の或者は、此記號に依つて命を助けられた。お互に敵對行爲を取つても、一度同結社員だといふことがわかると共に、最早や全く敵ではなく、兄弟となつた。此種の場合に就て、フリーメーソン新聞グローベ[5](第二巻496頁)に次の記事がある。

戦場に於て、敵味方の間に記號を交はし……武器を投じて、互に接吻せるを見た。今までの敵同志は、其宣誓に遵據し、瞬時にして朋友及兄弟となつた。

1896年5月、ナンシー[6]に於けるフリーメーソンの會議では、次の如き明瞭なる實例を出して居る。

 

1801年の戦爭中、或る佛艦は、英艦の爲に劇しく射撃せられたが、武装の不充分なる爲防禦することが出來なかつた。佛艦の乗組員半旅団は、數に於ては敵に對し優勢なりしに拘はらず、最早や滅亡を免る能はざることが明瞭となつた。佛國旗は卸されたが、英艦の砲撃は依然其猛威を逞しくした。此時フリーメーソン結社員たる佛國将校連は、艦の前部に突進し敵の砲火に身を曝してフリーメーソンの危急信號をなし、且救助を叫び求めた。是に於て人道の達成し得ざりし所を、フリーメーソン結社は達成し得た。即ち英國将校中にも同じく結社員が居つたので、砲撃は直ち中止せられ、次で降伏の條件は議決せられた。

 

右の如き事は屡々行はれたのであつて、1841年結社員ブイイ(Bouilly)[7]は、結社員に對し「戦時にあつては國籍、軍服の別を區別する必要はない。唯兄弟を見分け、且宣誓を銘記すべきである」と教へて居る。此教訓は、1870年~71年戦役でも、又今度の世界戦でも、遵守せられたことが確實である。

危急信號(Signe de détresse)は、其他の危急の場合にも用ふることの出來るもので、若し誰でも結社員が危急信號を為た時は、居り合せた兄弟は、皆此結社員の救助に馳せ向はねばならぬのである。しかし此同胞観念は、結社員以外には及ぼされまいのであつて、人道も亦同様である。結社員ヘンネ・アム・リンが、此偏狭な考へを罵つてゐるのは尤もの事であつて、彼は次の如き言葉を以て其鬱憤を漏して居る。

 

危急信號を受けて救助に赴く人も、同一の場合に於て救助を求むる人が、フリーメーソンに非ざる時は、何等の處置をも取らないのであつて、取りもなほさず場合に依つては、平気で人を見殺しにするのである。人道は果してこんなものか。フリーメーソンが軽蔑的に「素人」と呼ぶ人々は、何等の信號や報酬がなくても、單に人として他の危急を救ふのである。此方が遥に高尚ではないか。

 

ヘンネ・アム・リンは、危急、援助信號を以て眞の人道と何等關係なき發見物なりとなし、其廃止を希望して居る。フリーメーソン結社員が援助を求むる爲の記號は、援助記號と同じく、両脚を直角に置くのである。然る時は棟梁でも、又國王でも、其要求に應ぜなければならない。

世の中の色々な不可解な出來事、大赦の問題等も、之に依つて分明して來る。

フリーメーソンの認識記號ともなり、又シンボルともなるのは、アカシアの枝である。アカシアは、フリーメーソンの爲め神聖な樹としてある。社員はアカシアの小枝を徽章として身に着ける。例へば1908年6月4日結社員たりし小説家エミール・ゾラ[8]の遺骸をパンテオンに移した時に、多數の結社員はアカシアの小枝を着けて、此儀式に参列した。

扉の叩き方でも、結社員を識別し得る様になつて居るが、階級や教義の異なるにつれて、其方法にも各種の差異がある。

フリーメーソンの少なくも一部には、年號を數ふるに方(あた)りて、1782年のウィルヘルムスバードの會議以來、年數に四千を加へて計算する習慣がある。

 

[1] ドイツ語原典Ritter Kadosch Grad。Kadoschは「神聖な」と言う意味のヘブライ語。英語(ヘブライ語)のKaddish のことか? 「聖なる騎士階級」の意?

[2] Paul Mensdorf(1863~1946)ライプツィヒの学校の校長先生?(詳細不明)

[3] 原典による。日本語訳原文では5Pd.v.UCr.(いずれにしても意味不明)

[4] 原典による。日本語原文では、「M. W.式はY…の背後に隠れたるものを穿鑿する必要はあるまい。」(これもいずれにしても意味不明)

[5] 原典:die freimaurerische Zeitung, “Globe”

[6] Nancyはフランス北部、グラン・テスト地域圏の鉄鋼業で有名な都市。

[7] Jean-Nicolas Bouilly(1763~1842)はフランスの政治家、劇作家。ベートーヴェンフィデリオの原作で知られるが、この人物である確認が取れず、詳細不明。

[8] Émile Zola(1840~1902)はフランスの著名な小説家。

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フリーメーソンと世界革命04(現代文)

3.フリーメーソンの設備、習慣及び象徴

 

フリーメーソンの設備、習慣、及び象徴を詳細に知ることは、結社員以外の者にとっては、あまり必要のないことであるから、これは簡単に述べることにする。

社員の集会所は、ロッジ、小屋、工場、或いは神殿と呼ばれる。社員以外の者はここに入ることを許されない。組合の室は普通は窓がない、若しあっても目隠ししてある。故に部屋は暗い、精神の照明を意味する灯し火が、自然の暗黒を照らすのである。

全世界のフリーメーソン社員は、互いに兄弟と呼ぶ。書物では社員はフリーメーソンの言葉の初めに三個の教(∴)を打つ規定である。このためフリーメーソン反対者は、社員を呼ぶのに「三点兄弟」と言うあだなで呼ぶ。その他の場面でも三の数はフリーメーソンでは、常に一定の役目を演ずる。例えばあいさつ、拍手、特にその象徴を用いる場合に三の数を用いる。社員に死亡者があると、ロッジで一種の葬儀を行う。葬儀では、先ず死者を裁判にかけ、死者に葬儀を受ける資格があると認められると、そこで初めて本来の葬儀が行われる。それは三つの部分から成る。それは弔詞、死者の棺を象徴する物体の前の灯し火への点火、及び参列社員一同が三列になって三回棺の周囲を廻りつつ花で装飾する献花である。最後に兄弟が人の鎖を作って接吻を交換する。(鎖を作るには各人が右手を前にいる者の肩の上に置くか、全社員が手を連ねる。それにより、その一体であることを象徴するものである。)

フリーメーソンには、極めて多数の象徴がある。これは社員を相互に結びつけるものである。人類を支配する永久の大真理は言葉では表わせないから、フリーメーソンは先ずそれを受け入れる事の出来る様な、心境を形成するように勉めるのである。従って見習階級の用いる象徴は、説明の目的を持っている。社員バイエル(Bayer)の言に従えば、象徴によって社員は人格を体得し、存在の基礎を明らかにし、それに応じる義務を理解するのである。だからフリーメーソンはその社員にとっても不明瞭なものである。社員は体験し、感得しなければならない。故に森羅万象ことごとくその象徴的意味のないものはない。例えば我等の頭上の光明は神を、我等の心中の光明は良心を、我等の周囲の光明は人道を意味する。槌は力、直角定規は良心、コンパスは思考する世界を象徴するのである。例えば『棟梁は直角定規とコンパスとの間に位置す』と言うような文章は大変不可解であるが、フリーメーソンの象徴を深く研究したものにとっては、この言葉に対応する立派な意義を理解する事が出来る。その他三本の柱、絨毯(じゅうたん)、火炎を持つ星(パンタグラム✡を以て表わす場合あり)等もまた、象徴的な意味を持つ。火炎を持つ星の中にある文字Gもまた多様で特殊な意味を持っている。つまり、神(Gott)、又は認識(Gnosis)、若しくは幾何(Geometrie)、つまり王の技術の基礎を象徴する。英語ではGはGrand Geometrician(世界の大棟梁)、又はGeneratio(証拠)を意味する事にもなる。その他、職人の使用する垂鉛、水準器、鏝(こて)等にもそれぞれ象徴的な意味がある。

棟梁階級では、ヒラムに関する理想が重要視されている。ヒラムは伝説によると、ソロモン殿堂の建設者であった。アンダーソン[1]は、彼を以て完全なるメーソンと呼び、且つ彼の建築を以て、当時における最も貴重なる建物であったと言っている。ヒラムは、その三人の部下から技術上の秘密を告げることを要求されたのを拒んだため、彼等に殺されたと言うので彼は忠実なる義務の遂行の模範とされている。

第三階級の重要なる象徴としては、髑髏(どくろ)及び骨の入っている棺である。習慣は大組合毎に異なっているが、どの組合でも棺はフリーメーソンの教理、及び習慣の重要な成分をなしていて人間の知識、努力、作用は所詮は空虚で、永久性のないものであると言う、争うべからざる真理を示すものである。結社員オットー・ヒーバー[2]は、こう言っている。『この心理を教えるために、組合は死の像を選び、組合は死に対する恐れで満たされている。けれども又、棟梁階級の元来の秘訣は、死を生と融和せしむることにある』と。

見習階級の象徴は、原石(のかたまり)である。原石を建築に使える様にするには、加工しなければならない。見習は社員としての原石であるから、先ず自己の欠点を知り、且つこれを矯正することに全力を注がねばならない。職人階級の象徴は立方体の石である。既に加工されて立方体となった石は、積み上げて人道の殿堂を形成しなければならない。即ち克己が、この階級の目標でなければならない、克己及び棟梁に対する服従があって、始めて棟梁はその意志で加工した石を積み上げることが出来る。即ち職人階級になって、初めてメーソンの仕事が始まるのである。

棟梁は計画を立案し、その実行を監視し、労働者に給料を支払わなければならない。

以上のほか、秘密の記号や、言葉を説明するのは、価値のないことだから、省略することにする。

 

 

4.ヨハネフリーメーソン=アンドレアス・フリーメーソン
(藍色組合(下級)及び赤色組合(上級))

 

現時、徒弟、職人、及び棟梁の三階級を有するのは、藍色組合、即ちヨハネ組合のみであるがこれも元からあったわけではない。現に1723年の英国大組合の憲法では、棟梁なる階級を、まだ認めて居ない。つまりこの憲法では明瞭に『最も経験を積んだ者を、棟梁或いは監督者に任命する必要がある』と言っている。従ってその当時は社員の中でいかに経験を積んだ者でも、組合の長となるまでは、棟梁とは呼ばれなかった。1725年に始めて棟梁なる記号を使用するようになった。それ以前は、棟梁とは組合の長のことであった。

ヨハネ組合、一名藍色組合なる文字を次に説明する。藍色組合(藍色階級)とは、フリーメーソンの標識である空色に関連して名づけられた。ヨハネ・メーソンとは古代の石工の守護神に因んで名づけられた。これと同じ理由で、精神的メーソンの新設もヨハネの日(1717年6月24日)に行なわれた。象徴的組合(同大組合)とは、ヨハネ・メーソンの階級組合、及び大組合のことで、前にも多少述べた通り、多数の象徴を用いたことから、この名が起ったものである。

藍色組合、一名ヨハネ・メーソンと並ぶものは、赤色組合、一名アンドレアス・メーソンで、標識の赤色、あるいは第一番に洗礼者ヨハネからイエスに移った「神聖なるアンドレアス」によって名づけられた。赤色階級では棟梁達も知らないような高尚なフリーメーソンの知識を授けるので、赤色階級は高級の階級と見なされている。赤色階級は三個の古い階級を単に準備段階に過ぎないとしているが、それぞれ特殊のシステムによって、別々に設備している。フリーメーソンの高級雑誌ラトミア[3](1869年、第二十八号)は「徐々に、しかし絶えず、ヨハネ組合を押し下げ、それを高級な階級に達する踏板に過ぎないものにしようとした」と記述し、又或る会員は「ヨハネ組合は金を出し、しかも沈黙する為に存在するに過ぎない」と言い、既に十八世紀のウィルヘルムスバード[4]会議(1782年)では「下級の会員は出資者で、上級の会員は享受者である」と言っている。

上級階級(Hochgrade)の起原はどうかと言うと、その始まりはローヤル・アルヒ[5]階級で、このローヤル・アルヒ階級は1740年以後フランスで起こり、それより下級の階級に対し、一種の上級としての権威を振り回したものである。その後「斑(まだら)の蘇蘭(スコットランド)」階級が出来たが、これは証拠によると、スコットランドとは何の関係もなく、全くフランスで出来たものである。リッテルカドッシ階級の創設は1743年で、聖堂騎士聖堂騎士とは、十二世紀の初めに創設された騎士団体(テンプル騎士団)で、エルサレムの聖堂を回教徒の手より奪還して擁護することをその目的とした)の復讐[6]を表わしている。「スコットランドの棟梁」(Maître écossais)は、Maître acassaisと無意識に取り違えたものと思われる[7]。これはフリーメーソンの神聖な樹木と目しているアカシアに関した言葉と思われる。その後続々新しい階級が出来て、その数二十五に達したが、尚それでも止まらず、更に増えた。全世界に広く行われているフランス・スコットランド式によると、現在三十三個の階級がある。徒弟、仲間、棟梁の次は第四階級の秘密棟梁、これに続いて「完全なる棟梁」(第五階級)があり、次いで次のような階級がある。「優秀なる選び出されたる者」(第十一階級)、大建築家(第十二階級)、ローヤルアルヒ階級(第十三階級)、スコットランド六騎士(第十四階級)、東方の騎士(第十五階級)、エルサレム大公爵(第十六階級)、西方の騎士(第十七階級)、エルサレム侯(第十八階級)、大牧飾(第十九階級)、普魯西(プロシャ)騎士(第二十一階級)、レバノン侯(第二十二階級)、礼拝者侯(第二十三階級)、眞余の蛇の騎士(第二十五階級)、恵みの侯(第二十六階級)、寺院大司令官(第二十七階級)、太陽騎士(第二十八階級)、聖アンドレアス(第二十九階級)、カドッシ騎士(リッテルカドッシ)(第三十階級)、大判事司令官(第三十一階級)、王室の秘密の優秀なる侯(第三十二階級)、至尊大総監(第三十三階級)、以上のような物々しい称号は、公平な素人の目には笑止な事と思われるであろう。ドイツのフリーメーソン結社員中にこれを非難し、皮肉な滑稽を浴びせかけたものがあったが、それは何の効き目もなく、これらの階級は全システムと同様に依然存在し、且つ利用されていて、仏、伊、スペイン、ポルトガル、中米、南米諸国の大組合、すべてこのシステムに準拠している。そのほかイングランドスコットランドアイルランド、ベルギー、ハンガリー、北米ではこのシステムは大組合と共に存在している。しかしドクター・オットー・ヘンネ・アム・リン(Otto Henne Am Rhyn)の言う所によると、これらの階級の大多数は、何等存在の理由はなく、第十八及び第三十階級の二つだけは、事実上の風習を結び付けられているからと言うことでこの二階級のみを認めている。しかしながらヘンネ・アム・リン自身が一部の棟梁に過ぎず、彼もまたなんら事実の真相を知らない藍色組合に属し、この社会では未だ小児に過ぎないから、自己の周囲の出来事についても、まだ全くよくわからないのである。彼はローザンヌの会合(1875年)で、これらの称号を廃止しなかったのを不審に思ったのであるが、人に対しては依然三十三などと言う階級はなく、五階級、或いは多くても七階級から成るに過ぎないと言い切っている。フランス人は三十三階級もある理由をよく知っているが、殊更にこれをおし隠しているのである。

スコットランド式教義は、フランスで始まり、二個の礼拝形式より成る。この二個とは、ミスライム[8]ヘブライ語にして埃及(エジプト)の意)の礼拝の形式、及びこれによく似たメンフィスの礼拝の形式である。前者はユダヤの陸軍御用商人ミヒャエル・ベダッリデ兄弟[9]の創設したものである。この教義は四学期、十七級、及び極めて大袈裟な称号を有する階級九十からなっている。もちろんこれは現金を支払って受けることが出来るのだが、その価格はもちろん知ることは出来ない、この組合は表面上の首長「至尊の侯」のほか、人に知られない裏面の首長がある。1898年には、この教義を奉ずる組合の数は、十個に達している。メンフィスの礼拝法は、前者即ちミスライムの礼拝法に酷似し、且つ同じくフリーメーソン結社と称し、その創立の古いことを誇り、非キリスト教徒サミュエル・ホニス[10]が、これをカイロよりフランスに伝えた。サミュエル・ホニスは、その秘密を九十五階級を有する七級に分けた。最高の階級の称号は「神聖なる聖殿」と言った。この組合の教義はあらゆる秘法、及び歴史上の秘密結社に関するものである。この組合はあとでその階級を三十三に制限し、フランスの大組合の承認を受け、ドイツにもその会員を有するに至った。

このような組合のごときは、単に金儲けのためにいい加減に作ったもので、格別これに注意する価値のないものだと言えなくもないが、それならそのほかに大いに尊敬を受けている組合で、その歴史的発展の経路において、同じく多くの暗黒な点を持つフリーメーソン結社はないであろうか。例えばスウェーデン式のものはどうであろうか。これは裁判所評定官フリードリヒ・エクレフ[11]の創立したもので、彼は1756年、出所不明の免許状により、ストックホルムで会館を設立し、彼自ら「ソロモンの代理者」としてこれを主宰した。後になって彼はその権利をスウェーデン王に売り、この時以来スウェーデン王は総首領となり、皇太子は地方総首領となっている。スウェーデン式は、1766年、軍医エレンバーガー[12](後ツィンネンドルフと改姓す)によってドイツに輸入され、今日に至るまで、彼の設立したドイツ地方大組合に残っている。その総裁の位置は、1860年来プロシャ王が占め、その後皇太子フリードリッヒ・ウィルヘルム(フリードリッヒ三世)が、その職に就いたが、彼はその歴史を詳細に点検しようとした所、組合の幹部がこれに反対し、また色々改革しようとした意見も冷ややかに拒絶されたので、彼は遂に総裁の地位を放棄した。彼の意見の中で、フリーメーソン聖堂騎士の後裔であると言う伝説を廃棄する事だけは受け容れられたが(1880年)、その他は一つも受け容れられなかったのである。

スウェーデンの地方大組合は、次の三部に分かれている。

(一)ヨハネ組合

   (1)徒弟、(2)仲間、(3)棟梁の三階級を有す。

(ニ)アンドレアス組合

   (4)アンドレアス徒弟、(5)アンドレアス仲間、(6)アンドレアス棟梁の三階級を有す。

(三)ステワルド組合

   (7)光輝あるステワルド兄弟、(8)最光輝あるソロモンの信頼者、(9)ヨハネ組合の光輝ある信頼者、(10)アンドレアス組合の光輝ある信頼者、(11)赤十字を有する最光輝ある司令官(ソロモンの代理者と称す)

ソロモンはこの結社の創設者で、第一回の大棟梁と見なされている。右の十一階級のほか、このスウェーデンフリーメーソン結社の頭首となっているものがある。これは組合の長だけの知っていることで、その地位は世襲である、この頭首の俗名、及びその居所は、組合の長の外には秘密となっている。スウェーデンフリーメーソン憲法第三章に次の文言がある。

「世界を九つの(現在は十の)州に分つ。一人の頭首(一名ソロモン)は、世界を支配す。この頭首は父より其の統治を受け継ぎ、人々を正道に導く者である。結社員は彼を知り且つ知らない。このソロモンは、代理者をもって各州を統治させる、此の代理者は、ソロモンこれを任命し、或いは当該州の結社員によって任命する云々。」

ラトミア新聞(1869年)は、この憲法を掲げ、且つ次の問題を付け加えている。ソロモンとは誰か、彼はどこにいるか。この憲法に掲げていることが事実であるならば、ソロモン王は全同盟の創設者であって、彼は頭首の地位はその子孫の継承すべきものなることを定めた。反ユダヤ主義でないこの新聞ラトミアは、この頭首がキリスト教団の王侯ではなく、イスラエル人かも知れないと言っている。(そのくせこの新聞の表紙にはダヴィデの六芒星が付いている)

フリーメーソンでは、見かけの首領が必ずしも同時に実際の首領でないことは注意に値する。吾人はこれを英、仏、米のフリーメーソン結社員の口から聴き知っている。スウェーデン大組合の憲法によっても、このことは明瞭である。王侯が入社する場合には、高級の階級のあることは秘密にされるが若し秘密に出来ない場合には表面上高級の階級を与え、又そのために彼らの疑いを招く様なことを取り除いた儀礼を特別に設けた。例えばプロイセン王フリードリッヒ二世には、高級の階級の存在することを極力伏せた。この事はフリーメーソンの歴史を書いたルイ・ブラン[13]が記述している(1892年 Brouwers L’Action de la Francmaçonnerie 17頁)。その他王侯が組合の長となった場合には、彼等は全然「真相を知る兄弟」の中に加えられなかったことについては、無数の証拠がある。ヨハネ・メーソンは、諸種の関係において、慈善的で無害のものという事が出来る。少なくともドイツにおいてはそうである。通常政治には関係しないから、高級の者との関係を別とすれば、公益に役立つ組織ということが出来る。フリーメーソン結社員パイク[14]の言葉によると『ヨハネ・メーソンはあたかも殿堂の前庭のようなものである。象徴の一部はもちろん新会員に説明はするが、故意に違った説明を与えて迷わすのである。つまり理解を与えるために説明するのでなくて、自ら理解したかのように思わせるのを目的としている。要するに真の説明は真の会員、フリーメーソンの王侯のみに限られている云々』(Morals and Dogma[15])。このように観察すると、フリーメーソン結社員の過半数は彼等自ら何の為に利用されているかと言うことを少しも気付かずにいると言うことがわかる。上級階級のフリーメーソンの事業については、実際何等知られていない。その会員名簿すら「俗人」に対しては勿論、下級の会員に対しても極力秘密にされている。有名なウィーンの結社員ユリウス・ゴルデンベルク[16]は高級階級が結社内で目に見えない無責任な力を振るっていることを非難した。彼は多くの著述をしたが露骨に高級階級の活動が、フリーメーソンの一般の目的を超越していることを述べ、且つ最高の三階級は結社員に対し盲従を要求するにも拘らず、常にその本体は不明であり、又は誤魔化していると非難している。ゴルデンベルクが、このような態度はフリーメーソンに似つかわしくないことだと非難しているのはもっともな事である。ゴルデンベルクがハンガリーの高級結社員に関して言ってることは、すべて事実に合致している。しかも彼は当時高級の者が下級の者に対し、あらゆる干渉をなし、特に政治を行うことが、高級者の任務であることを知らなかったらしい。この政治たるや、単に一地方の政治のみならず、国家政策、さらには世界政策に及んでいるのである。イタリアの或る高級結社員は、次の様に言っている。

ヨハネ組合は、上級階級の前段として必要なものであるが、吾人の事業の重点は上級階級にある。この階級において進歩があり、政治があり、世界歴史があるのである。(1874年5月9日フリーメーソン新聞[17]

上級階級は古来すべての君主制反対の努力の中堅である。高級の組織は、既に十八世紀において「至尊フリーメーソン侯」、或いは「東方及び西方の皇帝」など言う、勿体ぶった名前をつけているのは意味のあることだ。この種の尊称は、当時フリーメーソン以外の者には真面目には取られなかったが、高級フリーメーソンの本来の目的を充分告白している。今どき各国の君主は、次々とその玉座を追われ、フリーメーソンの王侯はだんだんとその身をおおう雲霧を取り払って、晴天白日の下にその姿を現わして来ようとしているのである。

 

[1] Dr. James Anderson(c. 1679/1680 – 1739)はスコットランドの作家、長老派教会牧師。アンダーソンはフリーメーソンであり、1721年にイギリスのフリーメーソンの復活に際し、『フリーメーソン憲法』を起草した。

[2] Otto Hieber(1840~1929)オットー・ヒーバーは、ケーニヒスブルク(現カリーニングラード)の医師、枢密医療評議員。1869年、29歳で、ケーニヒスベルクフリーメーソンロッジ「ツムトッテンコップフとフェニックス」に入会し、 1885年から1922年までその議長、ローゲンマイスターであった。 さらに、彼はドイツのメーソンのグランドランドロッジ(GLL)の上級役員で、約90のロッジの名誉会員であった。

[3] Latomia ドイツのフリーメーソン年次雑誌(28号刊の発行は1871年、1872年用年鑑となって居る) 

[4] Wilhelmsbader ドイツ・ヘッセンの町ハーナウの郊外、ウィルヘルムスバードにあるロスチャイルドの城で行われたフリーメーソン会議。この会議の内容は一切非公開ということになって居り、箝口令が厳しく、参加者もその内容についてよく知らされないまま合意した疑いがある。その後の動きからこの会議でイルミナティによるフリーメーソンの支配が始まったように思われる、という意見もある。

[5] Royal Arch アルヒはアーチ(迫持:せりもち)

[6] テンプル騎士団の最後の団長、ジャック・ド・モレーの処刑に対する復讐のこと。

[7] Maître écossaisはスコットランド・マスター、Maître acassaisはアカシア・マスターの意。

[8] Misraim、Memphisはそれぞれ古代エジプトの地名から来ていると思われる。なお、Misraimがエジプトと言う説には異論もある。

[9] 原文:ベダッリベ。原典:Michel Bédarride。マルコ、ジュゼッペ、ミヒェルのベダーライド三兄弟。

[10] Samuel Honis エジプト人。1815年にミスライムの儀式を拡張したとメーソン百科事典にある以外不明。

[11] Carl Friedrich Eckleff(原文Karl Friedrich Ekleff 1723~1786)はスウェーデンの登録官僚、著述家。

[12] ヨハン・ヴィルヘルム・ケルナー・フォン・ツィンネンドルフ(Johann Wilhelm Kellner von Zinnendorf 1731~1782)はフリードリヒ・オーガスト・エレンバーガーの息子として生まれ、母方の姓Zinnendorf を名乗った。医学を学んでプロイセン王室軍医となった。ドイツフリーメーソン大組合の創設者。

[13] Louis Blanc(1811~1882)はフランスの政治家。1848年の革命で政府に参画した社会主義者。然しコンミューンには与しなかった。

[14] 日本語の原文はピーチとなっているが原典でPikeと確認。Albert Pike(1809~1891)アルバート・パイクはアメリカの弁護士、南北戦争時の南部連合の将軍の一人。フリーメーソン陰謀の中心人物の一人。

[15] Morals and Dogmaはアルバート・パイクが1871年に発表した「古代公認スコットランド儀礼の寓意と教理」(Morals and Dogma of the Ancient and Accepted Scottish Rite of Freemasonry)のこと。

[16] Dr. Julius Goldenberg(1840~1889)ウィーンの弁護士・作家。1874年にロッジ「未来」を設立し、当時の「一般的なオーストリアフリーメーソン新聞」を作成し監督した。

[17] 原文:Freimaurerzeitung

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フリーメーソンと世界革命04(原文)

3.フリーメーソンの設備、習慣及び象徴

 

フリーメーソンの設備、習慣、及び象徴を詳細に知ることは、結社員以外のものに取りては、餘り必要のないことであるから、簡單に之を述べることにする。

社員の集會所は、ロッヂ、小屋、工場、或は神殿と稱する。社員以外の者は此處に入ることを許されない。組合の室は普通は窓がない、若しあつても之を蔽ふてある。故に室は暗い、精神的照明を意味する燈火が、自然暗黒を照らすのである。

全世界のフリーメーソン社員は、互に兄弟と呼ぶ。書物では社員はフリーメーソンの言句の初めに三個の教(∴)を打つ規定である。之が爲フリーメーソン反對者は、社員を呼ぶに「三點兄弟」なる綽名を以てする。其他に於ても三の數はフリーメーソンでは、常に一定の役目を演ずる。例へば挨拶、拍手、特に其象徴を用ふるに當りては三の數を用ひる。社員に死亡者があると、ロッヂで一種の葬儀を行ふ。葬儀では、先づ死者を裁判に附し、死者が葬儀を受くる資格ありと認められたる後、茲に始めて本來の葬儀が行はれる。それは三個の部分から成る。即ち弔詞、死者の棺を象徴せる物體の前の燈火に點火すること、及び参列社員一同が三列となりて三回棺の周囲を廻りつゝ花を以て装飾をなすことである。最後に兄弟が連鎖を作つて接吻を交換する。(連鎖を作るには各人が右手を前に居るものゝ肩の上に置くか、全社員が手を連ねて其の一體なる事を象徴するものである。)

フリーメーソンには、頗る多數の象徴がある。之は社員を相互に結び着くるものである。人類を支配する永久の大眞理は言葉では表はせないから、フリーメーソンは先づ之を受け入れる事の出來る様な、心境を形成すべく勉めるのである。従つて見習階級の用ひる象徴は、説明の目的を有して居る。社員バイエルの言に従へば、象徴に依りて社員は人格を會得し、存在の基礎を明にし、之に應ずる義務を了解するのである。故にフリーメーソンは其社員に取りても不明瞭なるものである。社員は體験し、感得せねばならぬ。故に森羅萬象悉く其象徴的意味を有せざるはない。例へば我等の頭上の光明は神を、我等の心中の光明は良心を、我等の周囲の光明は人道を意味する。槌は力、直角定木は良心、コンパスは思考する世界を象徴するのである。例へば『棟梁は直角定木とコンパスとの間に位置す』と云ふ如き文章は頗る不可解であるが、フリーメーソンの象徴を深く研究したものにとつては、此の言葉に偶する立派な意義を了解する事が出來る。其他三本の柱、絨氈(絨毯)、火焔を有する星(パンタグラム✡を以て表はす場合あり)等も、亦象徴的の意義を有する。火焔を有する星の中にある文字Gも亦多様の特種の意味を有して居る。即神(Gott)、又は認識(Gnosis)、若くは幾何(Geometrie)、即ち王の技術の基礎を象徴する。英語ではGはGrand Geometrician(世界の大棟梁)、又はGeneratio(證據)を意味する事にもなる。其他、職人の使用する垂鉛、水準器、鏝(こて)等にもそれぞれ象徴的の意味がある。

棟梁階級では、ヒラムに關する理想が重要視されて居る。ヒラムは傳説によると、ソロモン殿堂の建設者であつた。アンダーソン[1]は、彼を以て完全なるメーソンと呼び、且つ彼の建築を以て、當時に於ける最も貴重なる建物であつたといふて居る。ヒラムは、その三人の部下から技術上の秘密を告げることを要求されたのを拒んだため、彼等のために殺されたといふので彼は忠實なる義務の遂行の模範とされて居る。

第三階級の重要なる象徴としては、髑髏及び骨の這入つてゐる棺である。習慣は大組合毎に異なつて居るが、どの組合でも棺はフリーメーソンの教理、及習慣の重要なる成分を爲して居つて人間の智識、努力、作用は畢竟空虚で、永久性を有せざるものであるといふ、爭ふべからざる眞理を示すものである。結社員オットー・ヒーバー[2]曰く『此の心理を教へる爲に、組合は死の像を選び、組合は死に對する恐れを以て満されて居る。けれども又、棟梁階級の元來の秘訣は、死を生と融和せしむることにある』と。

見習階級の象徴は、石塊である。石塊は之を建築に用ひ得る様にするには、之に加工せねばならぬ。見習は社員としての石塊であるから、先づ自己の缺點を知り、且つ之を矯正することに全力を注がねばならぬ。職人階級の象徴は立方體の石である。既に加工せられて立方體となつた石は、之を積んで人道の殿堂を形成せねばならぬ。即ち克己が、この階級の目標であらねばならぬ、克己及び棟梁に對する服従があつて、始めて棟梁は意の如く加工せる石を積み上げしむることが出來る。即ち職人階級になりて、始めてメーソンの仕事が初まるのである。

棟梁は計畫を立案し、其實行を監視し、労働者に給料を支拂はねばならぬ。

以上の外、秘密の記號や、言葉を説明するのは、價値のないことだから、之を省略することとする。

 

 

4.ヨハネフリーメーソン=アンドレアス・フリーメーソン
(藍色組合(下級)及び赤色組合(上級))

 

現時、徒弟、職人、及棟梁の三階級を有するのは、藍色組合、即ちヨハネ組合のみであるが之も元から在つたわけではない。現に1723年の英國大組合の憲法では、棟梁なる階級を、まだ認めて居ない。即ち此書では明瞭に『最も経験に富んだ者を、棟梁或は監督者に任命するを要す』と云つて居る。従つて其當時は社員中如何に経験に富んだる者でも、組合の長となるまでは、棟梁とは呼ばれなかつた。1725年に始めて棟梁なる記號を使用するやうになつた。それ以前は、棟梁とは組合の長のことであつた。

ヨハネ組合、一名藍色組合なる文字を左に説明する。藍色組合(藍色階級)とは、フリーメーソンの標識たる空色に關聯して名づけたのである。ヨハネ・メーソンとは古代の石工の守護神に依つて名づけたものである。之と同様の理由で、精神的メーソンの新設もヨハネの日(1717年6月24日)に行はれた。象徴的組合(同大組合)とは、ヨハネ・メーソンの階級組合、及び大組合のことで、前にも其幾分を述べた通り、多數の象徴を用ひたことから、此名が起つたものである。

藍色組合、一名ヨハネ・メーソンに對立するものは、赤色組合、一名アンドレアス・メーソンで、標識の赤色、或は第一番に洗禮者ヨハネからイエスに移つた「神聖なるアンドレアス」に依つて名づけたものである。赤色階級では棟梁達も知らぬような高尚なフリーメーソンの知識を授けるので、赤色階級は高級の階級と見做されてゐる。赤色階級は三個の古い階級を單に豫科に過ぎないとして居るが、夫々特種のシステムに依つて、別々に設備して居る。フリーメーソンの高級雑誌ラトミア[3](1869年、第28號)は「徐々に、しかし絶えず、ヨハネ組合を押し下げ、之をして高級の階級に達する踏段たるに過ぎないものとしやうとした」と記述し、又或會員は「ヨハネ組合は金を出し、而も沈黙する爲に存在するに過ぎない」と云ひ、既に十八世紀のウィルヘルムスバード[4]會議(1782年)では「下級の會員は出資者で、上級の會員は享受者である」と云つて居る。

上級階級(Hochgrade)の起原如何と云ふに、其始まりはローヤル・アルヒ[5]階級で、此ローヤル・アルヒ階級は1740年以後佛國に起こり、それより下級の階級に對し、一種の上級としての權威を振り廻したるものである。其後「斑の蘇蘭(スコットランド)」階級が出來たが、之は證據によると、スコットランドとは何の關係もなく、全く佛國で出來たものである。リッテルカドッシ(Ritter Kadosch)階級の創設は1743年で、聖堂騎士聖堂騎士とは、十二世紀の初めに創設せられたる騎士団體にして、エルサレムの聖堂を回教徒の手より奪ひて之を擁護するを其目的とした)の復讐[6]を現はしてゐる。「スコットランドの棟梁」(Maître écossais)は、Maître acassaisと無意識に取り違へたものと思はれる[7]。之はフリーメーソンの神聖な樹木と目して居るアカシアに關した言葉と思はれる。其後続々新らしい階級が出來て、其數25に達したが、尚それでも止まらず、更に増加した。全世界に廣く行はれて居る佛國スコットランド式に依ると、現在三十三個の階級がある。徒弟、仲間、棟梁の次は第四階級の秘密棟梁、之に続いて「完全なる棟梁」(第五階級)があり、次で次の如き階級がある。「優秀なる選び出されたる者」(第十一階級)、大建築家(第十二階級)、ローヤルアルヒ階級(第十三階級)、スコットランド六騎士(第十四階級)、東方の騎士(第十五階級)、エルサレム大公爵(第十六階級)、西方の騎士(第十七階級)、エルサレム侯(第十八階級)、大牧飾(第十九階級)、普魯西(プロシャ)騎士(第二十一階級)、レバノン侯(第二十二階級)、禮拝者侯(第二十三階級)、眞餘の蛇の騎士(第二十五階級)、恵みの侯(第二十六階級)、寺院大司令官(第二十七階級)、太陽騎士(第二十八階級)、聖アンドレアス(第二十九階級)、カドッシ騎士(リッテルカドッシ)(第三十階級)、大判事司令官(第三十一階級)、王室の秘密の優秀なる侯(第三十二階級)、至尊大総監(第三十三階級)、以上の如き物々しい稱號は、公平な素人の目には笑止な事と思はれるであらう。獨逸のフリーメーソン結社員中にて之を非難し、皮肉な滑稽を浴びせかけたものがあつたが、夫れは何の効もなく、之等の階級は全システムと同様に依然存在し、且つ利用されて居つて、佛、伊、西班牙、葡萄牙、中米、南米諸國の大組合、凡てこのシステムに準據して居る。其外イングランドスコットランド、愛蘭、白耳義、匈牙利、北米では此システムは大組合と共存に在して居る。併しドクトル・オットー・ヘンネ・アム・リン(Otto Henne Am Rhyn)の言ふ所に依れば、これらの階級の大多數は、何等存在の理由を有せずとなし、第十八及第三十階級の二つだけは、事實上の風習を結び付けられて居るからとて此二階級のみを認めて居る。然れどもヘンネ・アム・リン自身が一部の棟梁に過ぎずして、彼も亦何等事實の眞相を知らざる藍色組合に属し、此社會では未だ小兒に過ぎないから、自己の周囲の出來事に就ても、まだ全くよくわからないのである。彼はローザンヌの會合(1875年)で、之等の稱號を廃しなかつたのを不審に思つたのであるが、人に對しては依然三十三など云ふ階級はなく、五階級、或は多くも七階級から成るに過ぎないと確言して居る。佛國人は三十三階級を存せしめて居る理由をば、よく知つて居るが、殊更に之を押し匿して居るのである。

蘇格蘭(スコットランド)式教義は、佛國で始まり、二個の禮拜形式より成る。この二個は即ちミスライム[8]ヘブライ語にして埃及(エジプト)の義)の禮拜の形式、及之に類似せるメンフィスの禮拜の形式である。前者は猶太の陸軍御用商人ミヒャエル・ベダッリデ兄弟[9]の創設したものである。此教義は四學期、十七級、及極めて大袈裟な稱號を有する階級九十から成つて居る。勿論之れは現金を支拂つて受けることが出來るのだが、其價格は勿論知ることは出來ない。此組合は表面上の首長「至尊の侯」の外、人に知られない裏面の首長がある。1898年には、此教義を奉ずる組合の數は、十個に達して居る。メンフィスの禮拜法は、前者即ちミスライムの禮拜法に酷似し、且同じくフリーメーソン結社と稱し、其創立の古きことを誇り、非基督教徒サミュエル・ホニス[10]が、之をカイロより佛國に傳えた。サミュエル・ホニスは、其秘密を九十五階級を有する七級に分つた。最高の階級の稱號は「神聖なる聖殿」と云つた。此組合の教義はあらゆる秘法、及歴史上の秘密結社に關するものである。此組合は後に至り其階級を三十三に制限し、佛國の大組合の承認を受け、獨逸にも其會員を有するに至つた。

右の組合の如きは、單に金儲の爲にいゝ加減に作つたもので、格別之に注意する價値のないものだと云へないことがないが、然らば其外に大に尊敬を受けて居る組合で、其の歴史的發展の経路に於て、同じく多くの暗黒なる點を有するフリーメーソン結社はないであらうか。例へば瑞典式のものはどうであらうか。之は裁判所評定官フリードリヒ・エクレフ[11]の創立したもので、彼は1756年、出所不明の免許状により、ストックホルムに於て、會館を設立し、彼自ら「ソロモンの代理者」として之を主裁した。後に至り彼は其權利を瑞典王に売り、此時以來瑞典王は総首領となり、皇太子は地方総首領となつて居る。瑞典式は、1766年、軍医エレンバーガー[12](後ツィンネンドルフと改姓す)に依つて獨逸に輸入せられ、今日に至るまで、彼の設立した獨逸地方大組合に残つてゐる。其の総裁の位置は、1860年來プロシャ王が占め、其後皇太子フリードリッヒ・ウィルヘルム(フリードリッヒ三世)が、其職に就いたが、彼は其歴史を詳細に點検しようとした所、組合の幹部は之に反對し、又色々改革し様とした意見も冷やかに拒絶せられたので、彼は遂に総裁の地位を拋棄した。彼の意見の中、フリーメーソン聖堂騎士の後であると云ふ傳説を廃棄する事だけは容れられたが(1880年)、其他は一も容るゝ所とならなかつたのである。

瑞典の地方大組合は、次の三部に分かれて居る。

(一)ヨハネ組合

   (1)徒弟、(2)仲間、(3)棟梁の三階級を有す。

(ニ)アンドレアス組合

   (4)アンドレアス徒弟、(5)アンドレアス仲間、(6)アンドレアス棟梁の三階級を有す。

(三)ステワルド組合

   (7)光輝あるステワルド兄弟、(8)最光輝あるソロモンの信頼者、(9)ヨハネ組合の光輝ある信頼者、(10)アンドレアス組合の光輝ある信頼者、(11)赤十字を有する最光輝ある司令官(ソロモンの代理者と稱す)

ソロモンは此結社の創設者で、第一回の大棟梁と見做されて居る。右の十一階級の外、此瑞典フリーメーソン結社の頭首となつて居るものがある。之は組合の長だけの知つて居ることで、その地位は世襲である、此頭首の俗名、及び其居所は、組合の長の外には秘密となつて居る。瑞典フリーメーソン憲法第三章に次の文句がある。

「世界を九個(現在は十個)州に分つ。一人の頭首(一名ソロモン)は、世界を支配す。此頭首は父より其の統治を承け継ぎ、人々を正道に導く者である。結社員は彼を識り且識らない。此ソロモンは、代理者として各州を統治せしむ、此代理者は、ソロモン之を任命し、或は當該州の結社員をして之を任命せしめる云々。」

ラトミア新聞(1869年)は、右の憲法を掲げ、且次の問題を付け加えてゐる。ソロモンとは誰か、彼は何處に居るか。この憲法に掲げて居ることが事實であるならば、ソロモン王は全同盟の創設者であつて、彼は頭首の地位は其子孫の継承すべきものなることを定めた。反ユダヤ主義的でない此新聞ラトミアは、この頭首が基督教団の王侯ではなく、イスラエル人かも知れないと云ふて居る。(そのくせ此新聞の表紙にはダヴィデの六芒星が付いて居る)

フリーメーソンでは、表面の首領必ずしも同時に實際の首領でないことは注意に値する。吾人は之を英、佛、米のフリーメーソン結社員の口から聴き知つて居る。瑞典大組合の憲法に依るも、此事は明瞭である。王侯が入社する場合には、高級の階級のあることは秘密にされるが若し之が不可能な場合には表面上高級の階級を之に與へ、又之が爲め彼等の疑を招く様な事を取除いた儀禮を特別に設けた。例へばプロイセン王フリードリッヒ二世には、高級の階級の存在することを極力秘した。此事はフリーメーソンの歴史を書いたルイ・ブラン[13]が記述して居る(1892年 Brouwers L’Action de la Francmaçonnerie 17頁)。其他王侯が組合の長となつた場合には、彼等は全然「事を知る兄弟」の中に加へられなかつたことに就ては、無數の證據がある。ヨハネ・メーソンは、諸種の關係に於て、慈善的で無害のものと云ふ事が出來る。少くとも獨逸に於て然りである。通常政治には關係しないから、高級の者との關係を別とすれば、公益ある設備と云ふことが出來る。フリーメーソン社員パイク[14]の言に依れば『ヨハネ・メーソンは恰も殿堂の前庭の如きものである。象徴の一部は勿論新會員に説明はするが、故意に違つた説明を與えて之を迷はすのである。即ち了解を與へる爲に説明するのでなくて、自ら了解したかの如く思はせるのを目的として居る。要するに眞の説明は眞の會員、フリーメーソンの王侯のみに限られて居る云々』(Morals and Dogma[15])。之に依つて観れば、フリーメーソン結社員の過半數は彼等自ら何の爲に利用せられて居るかと云ふことを毫も気付かずに居ると云ふことがわかる。上級階級のフリーメーソンの事業に就ては、實際何等知られて居らぬ。其會員名簿すら「俗人」に對しては勿論、下級の會員に對しても極力秘密を保つて居る。有名なる維納(ウィーン)の結社員ユリウス・ゴルデンベルク[16]は高級階級が結社内で目に見えぬ無責任な力を振つて居ることを非難した。彼は多くの著述をしたが露骨に高級階級の活動が、フリーメーソンの一般の目的を超越して居ることを述べ、且最高の三階級は結社員に對し盲従を要求するに拘はらず、常にその本體が不明であり、又は誤魔化して居ると非難して居る。ゴルデンベルクが、此の如き態度は、フリーメーソンに似合しからぬことだと非難してゐるのは尤の事である。ゴルデンベルクが匈牙利の高級結社員に關して云つて居ることは、凡て事實に合致して居る。而も彼は當時高級の者が下級の者に對し、あらゆる干渉をなし、特に政治を行ふことが、高級者の任務であることを知らなかつたらしい。此政治たるや、單に一地方の政治のみならず、國家政策、乃至世界政策に及んでゐるのである。伊太利の或高級結社員は、次の様に云ふて居る。

ヨハネ組合は、上級階級の前段として必要なものであるが、吾人の事業の重點は上級階級にある。此階級に於て進歩あり、政治あり、世界歴史あるのである。(1874年5月9日フリーメーソン新聞[17]

上級階級は古來凡ての君主制反對の努力の中堅である。高級の組織は、既に十八世紀において「至尊フリーメーソン侯」、或は「東方及西方の皇帝」など云ふ、勿體らしき名稱をつけてゐるのは意味のあることだ。此種の尊稱は、當時フリーメーソン以外の者には眞面目には取られなかつたが、高級フリーメーソンの本來の目的を十分告白して居る。今時各國の君主は、逐次其玉座を追はれ、フリーメーソンの王侯は漸次其身を蔽える雲霧を排して、晴天白日の下に其姿を現はし來らんとして居るのである。

 

[1] Dr. James Anderson(c. 1679/1680 – 1739)はスコットランドの作家、長老派教会牧師。アンダーソンはフリーメーソンであり、1721年にイギリスのフリーメーソンの復活に際し、『フリーメーソン憲法』を起草した。

[2] Otto Hieber(1840~1929)オットー・ヒーバーは、ケーニヒスブルク(現カリーニングラード)の医師、枢密医療評議員。1869年、29歳で、ケーニヒスベルクフリーメーソンロッジ「ツムトッテンコップフとフェニックス」に入会し、 1885年から1922年までその議長、ローゲンマイスターであった。 さらに、彼はドイツのメーソンのグランドランドロッジ(GLL)の上級役員で、約90のロッジの名誉会員であった。

[3] Latomia ドイツのフリーメーソン年次雑誌(28号刊の発行は1871年、1872年用年鑑となって居る) 

[4] Wilhelmsbader ドイツ・ヘッセンの町ハーナウの郊外、ウィルヘルムスバードにあるロスチャイルドの城で行はれたフリーメーソン会議。この会議の内容は一切非公開ということになって居り、箝口令が厳しく、参加者もその内容についてよく知らされないまま合意した疑いがある。その後の動きからこの会議でイルミナティによるフリーメーソンの支配が始まったように思われる、という意見もある。

[5] Royal Arch アルヒはアーチ(迫持:せりもち)

[6] テンプル騎士団の最後の団長、ジャック・ド・モレーの処刑に対する復讐のこと。

[7] Maître écossaisはスコットランド・マスター、Maître acassaisはアカシア・マスターの意。

[8] Misraim、Memphisはそれぞれ古代エジプトの地名から来ていると思われる。なお、Misraimがエジプトと云ふ説には異論もある。

[9] 原文:ベダッリベ。原文:Michel Bédarride。マルコ、ジュゼッペ、ミヒェルのベダーライド三兄弟。

[10] Samuel Honis エジプト人。1815年にミスライムの儀式を拡張したとメーソン百科事典にある以外不明。

[11] Carl Friedrich Eckleff(原文Karl Friedrich Ekleff 1723~1786)はスウェーデンの登録官僚、著述家。

[12] ヨハン・ヴィルヘルム・ケルナー・フォン・ツィンネンドルフ(Johann Wilhelm Kellner von Zinnendorf 1731~1782)はフリードリヒ・オーガスト・エレンバーガーの息子として生まれ、母方の姓Zinnendorf を名乗った。医学を学んでプロイセン王室軍医となった。ドイツフリーメーソン大組合の創設者。

[13] Louis Blanc(1811~1882)はフランスの政治家。1848年の革命で政府に参画した社会主義者。然しコンミューンには与しなかった。

[14] 日本語の原文はピーチとなっているが原典でPikeと確認。Albert Pike(1809~1891)アルバート・パイクはアメリカの弁護士、南北戦争時の南部連合の将軍の一人。フリーメーソン陰謀の中心人物の一人。

[15] Morals and Dogmaはアルバート・パイクが1871年に発表した「古代公認スコットランド儀礼の寓意と教理」(Morals and Dogma of the Ancient and Accepted Scottish Rite of Freemasonry)のこと。

[16] Dr. Julius Goldenberg(1840~1889)ウィーンの弁護士・作家。1874年にロッジ「未来」を設立し、当時の「一般的なオーストリアフリーメーソン新聞」を作成し監督した。

[17] 原文:Freimaurerzeitung

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