女イルミナティ10

十字軍に関する歴史家によると、メロヴィング朝のボードゥアン4世(エノー伯:1108 ~1171)とその従兄弟であるフランダースのフィリップ(フィリップ一世:1143~1191)は、ウルサス(Ursus)として知られる未知の人物に率いられた(ロレーヌ*のオルヴァルからの)謎の修道士の一団の訪問を受けた。一行はフィリップとその妻マチルド(マティルド・ド・ポルテュガル:ポルトガルテレサとも)、テンプル騎士団長ゴドフロワ・ド・ブイヨンの叔母、から歓迎され、保護された。1108年までにこのよく身元の分からない集団がこの地域の視界から消え去った。その一員には、隠者ピエール(Peter of Hermit)が居たと知られており、彼はフィリップと共に、西の騎士たちに東方へ旅し、エルサレムを占領し、サラセンを破壊することを奨励した第一回十字軍の主な計画者であるとする研究者もいる。興味深くまた示唆的なのは、ウルサス(Ursus)は太古より女神の強い記号である熊を暗示することである。これが示唆することは、謎の修道士の一団がフランスのマチルドの王宮を去って、煙の如く消え去った後、ブイヨンのゴドフロワにより、ほぼ即座に悪名高きシオン修道会がシオンの丘に設立されたのである。
*第一次大戦の主要因となったアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)の帰属問題が何故さほどに重要であったのか、長年疑問であったが、ロレーヌの秘儀的意味を考えると納得できる気がする(燈照隅コメント)

メロヴィング朝が起こった元のシカンブリ系のフランク族にとって熊は同様の高貴な地位を享受した…彼らは熊をアルテミス、或いは…アルデンネスを守護する女神アルドゥイナ(Arduina)の形態で崇拝した。…熊がメロヴィング朝の中心地のアルデンネスに於いて魔法的、神話的、動物崇拝的地位であることから、『ウルサス(Ursus)』 ―ラテン語の『熊』― と言う名前が『プリウレ文書(Prieuré documents)』とメロヴィング王朝の系譜に関連付けられるであろうことは驚くべきことではない。」―ベイジェントBaigent、リーLeigh、リンカーンLincoln共著「聖なる血統、聖なる盃」

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フランダースのマチルド(1157~1218)はポルトガルテレサとしても知られる。彼女は最も熱心で忠実な十字軍の後援者であるポルトガル王アルフォンソ1世の娘であった。彼女は、超金持ちのフランダース(今のベルギー)のフィリップ伯と最初の結婚後、ロレーヌとフランダースの公爵夫人となった。彼女は後に二度目のブルゴーニュ公爵オットーとの結婚でブルゴーニュの公爵夫人となった。伝説では彼女は聖杯に注意の目を向けた西欧で最初の貴婦人であった。暗示的にシオン修道会エルサレムの近く、シオンの丘で、彼女の名において、彼女の甥の強大なブイヨンのゴドフロイにより、ゴドフロイの師匠である隠者ピエール(Peter of Hermit)とその率いるよく解らないオルヴァルの修道士の指導を土台にして創られた。この神殿跡の正式名は、シオンのノートルダム修道院(Abbey of Notre Dame de Sion)であった。ゴドフロイの元々の集団はシオンのノートルダム騎士団(シオンの聖母の騎士団)と名付けられた。その遺跡はまた、「全ての教会の母」と呼ばれた。その修道院の一室は「神秘の部屋Chamber of the Mysteries」と呼ばれた。

現実には、マチルドは恐らく古代のシオン修道会の長で後援者であった。男性たちは単に彼女の意図を執行しているに過ぎなかった。彼女の前は修道会は恐らくアリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)に率いられていた。後に、15世紀の間、多分会長はマーガレット・オブ・アンジュー或いはその妹のヨランド・オブ・ロレイン(ヨランド・ダンジュー)であった。彼らから指導権はイングランドチューダー朝に手渡された可能性があるが、17世紀にはボヘミアの女王で、今のイングランド女王、エリザベス二世の祖先であるエリザベス・スチュアートであった可能性が高い。シオン修道会は1188年以降、シオンの修道院として知られた。著者はこれを指して金星カルト(the Cult of Venus)と呼ぶ。

 

暗示的に、最初の「聖杯」の叙事詩クレティアン・ド・トロワ(Chrétien de Troyes)により書かれたのは、マチルドの依頼であり、クレティアン・ド・トロワは、マチルド公爵夫人からその任務を受けた。聖杯は、ユーグ・ド・パイヤン(Hugues de Payens)によりエルサレムからフランスにもたらされたが、伝えられるところでは、彼は神殿の丘の地中からそれを発見した後、他の財宝と共にそれを彼女に納めたと言われる。勿論、聖杯は単に金星のカルト、つまり女イルミナティの利巧な隠喩であり、その権力の東方から西方への移転を意味する。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Troyes

聖杯についての最も詳しい伝説は、中世の作家ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)によるパルジファル(Parzifal)から来ている。エッシェンバッハによると、この話の詳細は元はフレゲタニス(Flegetanis)と言うスペインの猶太人から来ていると言う。この人物はメロヴィング朝のベニヤミン族支流の子孫である可能性が極めて高く、そうである以上、ほぼ確実に女龍宮廷の従者であった。

大釜(cauldron)、茶碗(cup)、盃(chalice)聖杯(graal又はgrail)は、女の力の源泉の記号で、古代の女聖職者主義の宗派を表している。それは、聖書のサロメバプテスマのヨハネの説話に於いて平たい円形の盆或いは平皿の形で登場する。この話は文字の背景で男性の部下、例えば王、王子、伯爵を凌駕する女神官の優越性を明かしている。ここでは続けてこの話の記号について更に推論せざるを得ない。

聖杯(grail)と言う言葉は「段々と」「段階」「一歩一歩」を意味するgradusから来ている。これは、メーソン流の結社の階級を示唆する。これは、クレティアン・ド・トロワの時代より以前にもそれ以後にも、マチルドと他の多くにより率いられた結社である。この言葉の第二義はSang Rael、つまり「聖なる血」であり、矢張りこれは姉妹同胞を指す。gradusと言う言葉は後に誤って籠或いは容器を意味するcratisとなり、それが茶碗(cup)と繋がった。示唆的に、(女性に捧げられた)シャルトル大聖堂の北側の玄関の建築には、旧約聖書の半神メルキゼデクが聖杯を持って居る姿を見る。メルキゼデクとはアクエンアテンと彼の子孫から継承された結社の暗号的表現である。そこで、所謂聖杯の本当の重要性は一義的には階層化された秘密結社についてであると理解され、二義的には、血の容器としてであることがわかる。また、「聖杯」の想定された守護者としてのテンプル騎士団の重要性もわかる。それは、あまりにも多くの人が間違って信じているように、イエスには関連しない。それは単に、母なる女神への奉仕に於ける、息子・恋人・騎士・衛士(守護者)の切断された首或いは去勢された男根を入れる容器に過ぎないのである。

これらのオカルト結社の間では、その歴史で、去勢と言う肉体的な儀式は占星術的に特別な時期、特に8月に執り行われた。占星神学的に、聖杯は太陽、月、金星がおとめ座(処女の記号)に入る動きを表す記号である。コップ座(Chalice)として知られる星座はおとめ座の記号の中に見いだされ、おとめ座は昔も今も儀式的に姉妹同胞と関連結社に重要であった。従って、太陽がおとめ座に入ると、縁起の良い、そして奇妙奇天烈な儀式と建設が行われた。カナの婚礼[1]は、この占星術的期間を指し、ワシントンDCやフィラデルフィアの多くの目立った建築物はこの期間に建造された。独立宣言のような文書もまた、太陽又は金星がおとめ座に入る時に、それにより、女神の縁起の良い前兆となるように委任、署名、発表されたのである。
[1]カナの婚礼とは、イエス・キリストが水をワインに変えたと言う、公衆の前で行った最初の奇跡の舞台となった出来事。(新約聖書ヨハネ福音書」2章1-11)

 

 

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 聖杯の守護者が女性と言うのには理由があった。著者が女イルミナティの番組で示すように、古代のエジプトや他の國では、男性ではなく、女性が最も華々しい秘密結社の最高の階級に入会し、それを率いたのである。その女性結社内で出世するには、男性従者はその男根を供しなければならず、それで「血」を入れた盃の記号だったのである。

 

ヨーロッパやブリテンの大きな王座の背景若しくは傍の女性についてほとんど書かれたものはないし、況してや伝えられることはさらに少ないと思われるが、今こそ、その時点でその女性たちが産み、育て、霊感を与えた男性と同じく、その歴史を形づくる一助となった母親、妻たち、娘たち、姉妹たち、それに女性の後援者についてもっと注意を向けるべきである。記号的な段階では、女王ヘレナ(エデッサ王家)が真のキリスト教創始者であることを充分に大きな声で知らされて来た。エルサレムの彼女の聖墳墓教会はヴィーナス(金星)の神殿跡に立つ。ウィリアム・セント・クレア[2]に白羽の矢を立て、その一家に、後にロスリン礼拝堂が建てられた領地を与えたのは、スコットランドのマーガレット[3](Margaret Stewart 1424~1445)であった。シトー会を講演したのは、ザクセンのマチルドであった。アリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)とその娘マリー・ド・フランス(Marie of Champagne 1145~1198)がテンプル騎士団と聖杯の著者クレティアン・ド・トロワを後援した。伝えられるところでは、ポルトガルテレサフランダースのマチルド)が聖杯に注意の目を向けた。次々と出て来るのである。テンプル騎士団マグダラのマリアと聖(聖女)エウフェミア(Saint Euphemia)を敬慕していた。病院騎士団(聖ヨハネ騎士団、Knights Hospitaller)の守護聖人はフィレルモスの聖母(Lady Philermos)であった。クレルヴォーのベルナルドゥス(Bernard de Clairvaux)は聖処女マリアに一身を捧げ、「聖処女の騎士」と言う個人的な肩書を持って居た。テンプル騎士団の崇拝していた頭蓋骨は、女性のもので男性のものではなかった。テンプル騎士団の長髪も女性を暗示している。ブイヨンのゴドフロイは、全ての教会の母として知られるエルサレムの中で一番古いテンプル騎士団修道院エルサレムの君主に戴冠せられた。シオン修道会の正式名称は「シオンの丘の聖母の修道会」であった。エルサレムの王フールクの古い絵画は、戴冠式と婚礼で、女龍宮廷の記号であるフルール・ド・リス[4]を携えている王を描いている。

[2]ウィリアムシンクレア(ウィリアム・セント・クレアとも 1410–1484)初代ケイスネス伯爵(1st Earl of Caithness)は、ノルウェースコットランドの貴族であり、ロスリンチャペルの建設者。

[3]Margaret Stewart(1424~1445)はスコットランドのジェームス二世の次女。第三代クライトン卿の妾。

[4]フルール・ド・リス ... フルール・ド・リス(仏: fleur-de-lis もしくは fleur-de-lys)は、アヤメ(アイリス)の花を様式化した意匠

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フルール・ド・リス


マチルド自身を入れなくても、十字軍の期間に六人のエルサレムの女王が居た。それは、エデッサのモルフィア(ボードゥアン2世の妃)、シビーユ(ボードゥアン5世の母)、イザベル(シビーユの妹)、マリー・ド・モンフェッラート(Maria of Montferrat)(イザベルの娘)、メリザンド・ダンジュー(ボードゥアン2世の長女)であった。少なくともこの君臨する女王のうちの三人はアレラーミチ系フランク族*つまりメロヴィング朝であった。イザベル一世はイベリン王朝の末裔であり、それはその親戚のアンジュー(ダンジュー)家のように、ロレーヌ、ハプスブルク、ヴァロワ、サヴォイア、ブルボン、サルッツォ、ヴェルフ(Guelf)などの家系が血の繋がりがあった。アンジュー王朝はイベリン家のようにテンプル騎士団の主な後援者であった。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/List_of_Queens_of_Jerusalem とこちら:https://www.peopleofar.com/2015/11/05/armenian-queens-of-jerusalem/

*アレラーミチ家は10世紀にイタリアに移住した西フランクの貴族の家系と考えられている。アレラーモは961年にイタリア王ベレンガーリオ2世(アレラーモの岳父)により新しく設置された辺境伯の一人であり、その後、王国の分裂により支配権は辺境伯に移った。1040年に初めて「Marcio」の名が用いられ、モンフェッラート侯と呼ばれるようになった。また、領地の西側の分割と、トリノ辺境伯の娘との結婚による相続で、同家の分家(デル・ヴァスト家)がサルッツォ侯国を成立させ、侯国の名は1142年に初めて見られる。
アレラーミチ家の悪名は十字軍において高まった。グリエルモおよびコッラードの兄弟はエルサレム王国で重要な役割を果たし、それぞれの子であるボードゥアン5世およびマリーはエルサレム王位についた。グリエルモおよびコッラードの弟ボニファーチョ1世は第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープルの陥落およびラテン帝国とテッサロニキ王国の成立を主導した。
サルッツォ系アレラーミチ家は1548年に断絶したが、その数年前に侯国を失っていた。モンフェッラート系は1305年にジョヴァンニ1世の死により断絶したが、侯国は女系を通してパレオロゴス家に継承され、230年間統治された。ランチア家を含む他の分家は今日まで続いている可能性がある。

 

あと二人の重要な女性の後援者はアリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)とマリー・ド・フランス(Marie de Champagne)であった。他にも多数いた。(詳しくはこちら:http://www.femaleilluminati.com/female-dragon-court.html

「…最も美しく、女性像を成している黄金色に鍍金した偉大な首。中には二つの頭蓋骨が白いリネンの布に包まれて更にそれを赤い布で包まれて…。中の頭蓋骨は意外と小さな女性のものであった。」―「テンプル騎士団の偶像を言い表した異端審問の記録」

「(テンプル騎士団の)修道士アレブレイのウィリアムBrother William of Arreblay…は自分が頻繁にパリの神殿の祭壇に銀の首を見、そして指導層の騎士団の職員がそれを参拝しているのを見たと証言した。」―ヘレン・ニコルソン著「テンプル騎士団

「…ステファン王の治世、テンプル騎士団へは、王族からと個人からのどちらの領地の寄進もイングランドでは行われ…王妃マチルダからも行われ…ブロイスのステファンの息子であり、そしてその妻は十字軍遠征と密接に関連したブローニュ家の一員で、イングランドのステファンは顕著な十字軍一家の一員であり…そして、もう一人の最初のテンプル騎士団の創設者サントメールのゴドフロイはブローニュ家の家臣であった。」トーマス・パーカー著「イングランドテンプル騎士団

 

 

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 アンジューのフールク伯爵は1131年から1143年までエルサレムの王であった。この図では彼は、エルサレムを彼と共に統治したメリザンド(ボードゥアン2世の娘)と婚礼の最中である。彼女が王冠を冠って、教皇の顔が、王にではなく、彼女に向いていること、つまり彼女の血統或いは神秘性の優越を指摘していることに注目しよう。彼女の母親モルフィアはテンプル騎士団のボードゥアン二世、前のエルサレム王の妃であった。モルフィアは女王として彼と伍して統治した。メリザンドの息子はボードゥアン3世、エルサレム王であった。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Fulk,_King_of_Jerusalem

 

 

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 ブローニュのマチルド、ブリテンの王ステファン1世の妃で、征服者ウィリアム(ノルマンジー公ウィリアム)の孫である。マチルドとステファンはどちらもフランス人でフランスにもイングランド同様に領地を持って居た。ユーグ・ド・パイヤン(Hugh de Payens)やゴッドフリー・デ・セイント・オーマー(Godfrey St. Olmer*)のようなテンプル騎士団の指導層は彼らの家臣であった。ユーグ自身はステファンの一家の所有する地域であるシャンパーニュのブロイスの生まれで、一方、セイント・オーマーは、ブローニュ伯の家臣であった。ステファンとマチルドは多額のお金と広大な土地をテンプル騎士団に寄進した。マチルドは恐らく最初の公式に知られた王族の女性後援者であった。テンプル騎士団の歴史の殆どの書き手は、騎士団の大義を支援した高貴な生まれの、超裕福な女性の誰にも言及しない。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Matilda_of_Boulogne

 

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テンプル騎士団についての推薦図書(カッコ内は何れも初版発行年)


Fire in the Minds of Men(1980)

Memoirs Illustrating the History of Jacobinism(1797)
The Secret History of the West(2005)
The Secret Founding of America(2007)
Born in Blood(1989)
Sworn in Secret(2012)
Conspiracy Against God and Man(1974)
History of the Knights Templar(1842)
The Knights Templar Revealed(1999
The Warriors and the Bankers(1998
The Knights Templar in England(1963
The Grail Enigma(2008
The Hiram Key(1996
Holy Blood, Holy Grail(1982 日本語版「レンヌ=ル=シャトーの謎: イエスの血脈と聖杯伝説 」

The Messianic Legacy(1986
The Templar Revelation(1997)
First Templar Nation(2017
Mary Magdalene(2011
Jesus of Edessa(2012)