女イルミナティ12

教皇テンプル騎士団の破壊を目指した主な理由は、ラルフ・エリスが説明するところでは、彼らがイザス王とナザレの第四宗派の真のキリスト教に賛意を示したことである。この伝承ではなく、世界は教皇キリスト教となった、腐敗した大ペテン師フラウィウス・ヨセフスとその支持者の優遇で。

 

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この絵はエルサレムのシオン(Sion又はZion)の丘のテンプル騎士団にとっては最も重要な建物を描いている。

  1. エルサレム聖墳墓教会
  2. 神殿の丘
  3. 神殿の丘の地下の三つ目の遺跡はソロモンの厩

第一回十字軍のさ中、ゴドフロイとその騎士たちは(岩のドームのほかに)聖墳墓教会に住んだ。教会は伝えられるところではイエス磔刑に処せられ、葬られ、復活した場所であった。

神殿の丘は伝えられるところではソロモンの第二神殿の遺跡であった。地下の厩は元は神殿の再建のための巨大な倉庫として使われた。元のソロモンの神殿(紀元前586年にバビロニアに破壊された)の前の遺跡は近隣である。それは岩のドームとして知られている。そこはヘロデの神殿の遺跡でもあると信じる者もいる。

テンプル騎士団はソロモンの厩で発掘を始め、伝えられるところでは「財宝」を発掘したと言われる。学者の中には、これには貴重な硬貨と、イエスマグダラのマリアとの結婚を明かし、教皇に対抗する聖なるダビデの血統が秘密に存在したことを明かす古代エッセネ派の巻物の隠し場所が含まれていたと信じる者もいる。古代エッセネ派は神殿の丘で秘密の儀式を行っていたと信じられている。学者の中にはこれがテンプル騎士団の指導者がそこで何年も発掘に費やすことに直に踏み切った理由であったと信じている者もいる。

示唆的なことは、伝説によると聖墳墓教会は実際にヘレナ女王、ブリテンのコール王(King Cole*)の娘、コンスタンティヌス大帝の母親の依頼(命令)で建設された。彼女はキリストの磔刑場所を発見し、その上に教会の建設を命令したと言われている。彼女の東方への巡礼(紀元325年頃)はその新しいキリスト教の教会が実際ヴィーナス(金星Venus)に捧げられた神殿の上であったことを知ると、最も興味深いことである。
*King Cole は3世紀に英国を治めたとされる伝説の王。

何れにしても「ヘレナの教会」に頻繁に出向き、その名前を彼女に因んで名づけたテンプル騎士団はエデッサの王家と関係があった。この場合、彼らが尊崇していたのは、ヘレナ女王はヘレナ女王でも違う、もっと古代のヘレナ女王、紛れもなくマグダラのマリア自身であり、聖書の言うイエス、エデッサの王イザスの妹であり妻であった。ヘレナ女王とその先祖は超秘密結社の金星カルトの家母長(母系)の家系であった。

これが、テンプル騎士団のコインと記章に、惑星の金星と女神ヴィーナスのシンボルとなる宝珠と十字架とともに、ドーム型の神殿が現れる理由であろうか?

伝統によってはヴィーナスは顎鬚と共に描かれた、とする向きもある。であるからテンプル騎士団が崇拝したと伝えられる顎鬚の神と聞くと、それが何であるか、やはり、我々は理解するのである。(詳しくはこちら二つ:https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_the_Holy_Sepulchre
https://infogalactic.com/info/Venus_Barbata

「これまでの調査から、現代や近代にはテンプル騎士団がいつ始まったか、何故始まったか、そして誰がその始まりに関わっていたのかは定かでないことが示された。」ヘレン・ニコルソン著「テンプル騎士団:新しい歴史」

テンプル騎士団が彼らの母なる教会を建てた場所はトマル(ポルトガル)であり、その慣習に従い、彼らはそれをマグダラのマリアに捧げたのであった。」フレディ・シルヴァ著「失われたキリスト復活の美術The lost Art of Resurrection」*誤訳の可能性あり

 

 

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クレルヴォーのベルナルドゥスにより形づくられたシトー修道会はテンプル騎士団の修道の側であった。シトー修道会は今も存在する。ドイツでカール・フォン・フンド男爵により形式化されたテンプル騎士団風の厳格遵守の儀式(結社)は、スチュアート朝ブリテンからの追放後、その名前を以前の厳格遵守のテンプル騎士団ーシトー修道会から取った。テンプル騎士団の思想が浸透していないメーソンの伝統を見つけるのは困難であり、テンプル騎士団やメーソンによって使われる男の記号を見出すことはさらに困難である。(詳しくはこちら:http://www.irishoriginsofcivilization.com/minoan-civilization.html

「フンドが導入したフリーメーソンの制度 ―スコットランド儀式の更なる拡張― は後に厳格遵守と呼ばれた。その名前は誓いに要求された、神秘的「未知の上級階級」への揺るぎなき疑義なき服従、が由来であった。そして厳格遵守の基本的教条はテンプル騎士団から直接引き継がれて来たことであり、噂によると騎士団の中に1307年~14年の粛清を生き延びてその結社をスコットランドで永続したものが居たのであった。」―ベイジェント・レイ、リンカーン共著「聖なる血統・聖なる盃」

シトー修道会とテンプル騎士団は、早くも11世紀にスコットランドと其の他の場所で定着していた、掴みどころなく、またあまり知られていないティロンの修道会(ティロネンシアン修道会)の後に出来たものであった。テンプル騎士団流動資産の多くは、14世紀初めの大粛清の後、恐らくこの修道会の会員に信託された。研究者によると財宝は、後ににロスリン聖堂に運ばれて隠され、「ナショナル・トレジャー」などの映画により内部告発されたように、その後、静かにワシントンDCに送られ、今日に至るまでそこに残っている。(詳しくはこちら:https://en.wikipedia.org/wiki/Tironensian_Orderhttps://en.wikipedia.org/wiki/Tironensian_Order

実のところ、恐らく大勢(多く)がカナリア諸島で埋められた。そこは、テンプル騎士団により14世紀初めに再発見され、正確に海図に収められた場所であった。

シトー修道会-テンプル騎士団はまた、アメリカで宗教と政府の裏で工作する、比較的知られていないグランジThe Grangeとして知られる秘密結社にも資金をつぎ込んだ。グランジは女イルミナティの構成員により率いられるつかみどころのない結社で、内部の人間には「ヴィーナス(金星)一家」或いは「ヴィーナス(金星)血統」として知られている。(詳しくはこちら:https://en.wikipedia.org/wiki/National_Grange_of_the_Order_of_Patrons_of_Husbandry

 

 

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ロンドンのグレートクイーン街(Great Queen’s Street)にあるイングランドの連合大ロッジ(United Grand Lodge)の議場。
最小限語るに至極適切な通りの名前である。ロッジはこの場所に1775年以来建っている。


イングランドの連合大ロッジは二つの重要なロッジ ―イングランドの大ロッジと、アイルランドとの強いけれども軽視された絆があった(そして恐らく掴みどころのないティロンの修道会と繋がりがあった)古代ロッジ(Antient Lodge)― の合併で出来た。古代(Antient)ロッジは、ハノーファー王家(所謂「黒い貴族」の治世に出来た大ロッジのメーソンのイメージに対抗するために1751年に形づくられた。当初古代ロッジは、大ロッジのメーソンがアイルランドのメーソンに遡る、所謂ロイヤル・アーチ(Royal Arch)階級に於いて自分たちを原初のメーソンの秘儀と意図を維持していると考え、フリーメーソンの教義を曲解していると信じた。ロイヤル・アーチメーソンは特にアメリカに於いて普及した。

1813年に(ハノーファー王家の支配下の)イングランドの大ロッジとイングランドの古代大ロッジ(Antient Grand Lodge)が合併し、イングランドの連合大ロッジを作り、本部をロンドンに置いた。

著者の意見では、古代(Antient)メーソンは、バプテスマのヨハネとそのロイヤルアーチとマークのメーソン階級と、それに関連する儀式に重きを置いた、ティロン修道会のようなテンプル騎士団の組織の支部であった。つまり、バプテスマのヨハネは真のイエスとその一家の巧妙な蔽いであり、テンプル騎士団の教義とメーソンの裏に自らを隠した、エデッサの龍宮廷(Dragon Court)なのである。

「…新生ダーウェントウォーター卿がこのヤコブ主義のメーソン組織の役職を辞任したのち、テンプル騎士団の考えが(スチュアート朝大義に隠れて)『大胆に前に出てただ単にメーソンの一部ではなく、優れた知識を持ち、より大きな特権と平凡な者、例えば手仕事のメーソン、を支配する権利の資格を与えられた、真のメーソンであると主張した。』」―(クラレンス・ケリー神父がネスタ・ウェブスターを引用している)

これらに類したアイルランドの秘密結社は、キリスト教の見せかけの裏で、先のドルイドやアリアンの秘教の伝統をバラバラにし、変更・修正した、もっと古代のカルデアンCuldeanの慣習を遺している。カルディアンの僧侶はメロヴィング朝の王達やテンプル騎士団の貴族の筆頭の指導官であった。この最も重要な西方の繋がりは、著者の本、「文明のアイルランド起源」でくわしく調査している。