女イルミナティ29

          *

 

セト-アテン信仰者のパルティア支流に話を戻すと、二人の女性が指導的人物として登場する。それは女王テア・ムサ・オウラニアThea Musa Ourania*とその娘、アディアベネの女王ジュリア・ヘレナである。彼女らは紀元1世紀に生き、権力に狂った女族長クレオパトラ7世の縁者であり、彼女らはローマ帝国全土の支配権の合法的主張者であった。猶太教に改宗して後、ヘレナはエデッサに住み、その息子をローマ帝国の王位に就けようと策謀し、それによって自らの名において世界の支配者になろうとした。

 

 

f:id:caritaspes:20210609070209p:plain

 Thea Musa Ourania*

*原文はThea Muse Ourania

 女王テア・ムサ・オウラニア*(紀元前44年生まれ)はラルフ・エリスに明かされたところでは、聖書のイエスの祖母に当たる。収奪性利己主義の女王クレオパトラ七世の親類として彼女とその娘ヘレナは著者が東方イルミナティと呼ぶものの最高の女族長であった。彼女らの歴史の言い伝えは、新約聖書に、そしてヨセフス・フラウィウスの作品中に、隠された形式で部分的に開示されている。(テア・ムサも、その母親同様にクレオパトラとして知られていた。テアは「女神」を意味する。)シリアにあった彼女の國が本当の「天の國」であった。彼女の娘、女王ユリア・ヘレナ・オウラニアこそが聖書の処女マリアであった。

これらエデッサの王族は元々はエジプトのアテン信仰者であった。紀元一世紀にシリアの住人であった間に彼らはユダヤ教の改宗し、第四宗派**のナザレのキリスト教に支援の手を差し伸べた。これが彼らをして、今ローマに本部を置く教皇キリスト教として我々が知っている第五宗派に対抗せしめることになった。

(注意:当時のエジプトからペルシャには、クレオパトラを名乗る女性王族は多く居た ―燈照隅)
*原文はThea Muse Ourania。
Thea Musaとしても知られるMusa(又はMousa)は、紀元前2年から西暦4年までパルティア帝国の支配的な女王であった。 元々はイタリアの奴隷の少女だったが、ローマ皇帝アウグストゥス(27BC〜14BC)からパルティアの君主フラーテス4世(37BC〜2BC)への貢ぎ物として贈られた。 彼女はすぐに女王になり、フラーテス4世のお気に入りになり、Phraataces(Phraates V)を出産した。 紀元前2年、彼女はフラーテス4世を毒殺し、フラーテス5世と一緒に
自分自身も帝国の共同支配者となった。 彼らの治世は短命であった。 彼らは、オロデス3世を王として戴冠させたパルティアの貴族に追放された後、ローマに逃げることを余儀なくされた。
(これって、そのままヒクソスの出エジプトの話の縮小版ですな。 ―燈照隅感想)
**当時の猶太教には、パリサイ派サドカイ派エッセネ派の三つの宗派が存在した。そこに、ヘロデ王の裏切りでローマの属州となった猶太地方の独立を叫ぶ「熱心党(Zealots)」がガリラヤに起こり、これをナザレの第四宗派と呼んだ。彼らは一時的にエルサレムを奪還したが、却って第二神殿の破壊を招いたローマの再占領に繋がり、西暦70年に神殿は破壊された。
これに対して、ローマに移って「キリスト教」によってローマを逆に乗っ取ろうとした(そして成功した)猶太教(教皇キリスト教)を第五宗派と呼んでいるようだ。(―燈照隅)
福音書に出て来るイエスの足跡はこの第四宗派の起こりからエルサレム奪還に似せてある。そして、パウロの登場とペテロの殉教により、ローマは猶太教第五宗派(キリスト教)の支配に陥る ―燈照隅感想)

 

ラルフ・エリスが非常に巧みに証明するように、このパルティア-エデッサ王家のことは、新約聖書と猶太人歴史家で、自らもこの王家の群小の一員であったヨセフス・フラウィウスの作品に暗号的に語られている。彼らは事実上歴史から消されたが、この王朝は多くの歴史的登場人物と出来事に繋がっている。ヒクソスの貴族の子孫として、彼らはバビロニアパレスチナペルシャ、シリア、アルメニアギリシャ、フランス、ドイツ、オランダ、ブリテン、そして言うに及ばず他の多くの場所、の強大な力と密接に繋がっているのである。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Edessa

勿論、ラルフ・エリスにとって重要な中心の論題は聖書のイエスの身元(正体)である。エリスが関係する限りにおいて、イエスは、アディアベネの女王ヘレナの息子で他ならぬエデッサのイザス王であった。

 

 

f:id:caritaspes:20210609070232p:plain

 

 エデッサの王でローマの王位の主張者である本当のイエスの頭部を描いた古い硬貨。彼を「ユダヤの王様」と呼んだ、茨の王冠に注目しよう。

 

エリスの研究は魅力に満ちていて適切であるが、著者はその話の中で、世界の秘密の歴史と黒い貴族の起源の問題に関しては、女性の登場人物が遥かに興味深く、重要だと気付いた。

女王ヘレナとその子孫の秘密結社は後に悪名高きシオン修道会テンプル騎士団を生んだ原型だったのだろうか? これらの結社は、古代の龍宮廷の女を網羅する支部使徒となったのだろうか、それとも龍宮廷の血統子孫であろうか? 神殿の丘でのユーグ・ド・パイヤンとその九人の仲間の振舞いは我々をそう信じるように導くのである。エルサレムで彼らが発掘した遺物はイエスの母である女王ヘレナのものであったのか? テンプル騎士団の悪名高き女性の頭蓋骨はマグダラのマリアのものなのか、それともその母のものなのか?(詳しくはこちら:http://www.femaleilluminati.com/article-2.html

 

 

f:id:caritaspes:20210609070253p:plain

 

 メロヴィング朝テンプル騎士団の祖先であるシカンブリ系のフランク族は女家長制であった。メロヴィング朝テンプル騎士団が髪を長く伸ばしたのは、彼らが女王ヘレナとその有名な子孫の率いられた、ナザレの宗派の使徒であったからであろうか? テンプル騎士団(とメロヴィング朝)は正真正銘のエデッサの王家の血統子孫だったのだろうか? 何れにしてもテンプル騎士団、メーソン、王家に使用される圧倒的多数の記号は男性ではなく、女性である。(詳しくはこちら:http://www.femaleilluminati.com/article-2.html

 

ラルフ・エリスによって明かされた最も好奇心をそそられる新事実はマグダラのマリアの正体に関わる。実際、彼女は女王ヘレナの娘でイエスの姉妹であった。その著書「マグダラのマリア」でエリスは彼女がフランスに移住しそこで独自の血統を始めたことを示した。この母系が我々の今メロヴィング朝として知る人々と婚姻関係を持った。この家系がまた、ギリシャアルカディア)のベニヤミン族、メリトアテン時代以来のブリテンの住人であったゲール系アトン信仰者の貴族のような他の強大な支配集団(Concerns)とも婚姻関係になった。フランスから彼女の血統はドイツとオランダに移動し、悪名高きハノーファー王朝やオラニエ家を築いた。オラニエ家の「オレンジ色」は、マグダラの血統の主要な記章であった。

 

 

f:id:caritaspes:20210609070315p:plain

 

 聖書に出て来るマグダラのマリア赤毛とオレンジ色の衣装で描かれる。彼女はオランダのオラニエ家の祖先であり、元はフランスでそれ以前はエデッサ(シリア)とアディアベネ(パルティア)から来た。これらの家系や個人のことをカトリック教徒やプロテスタント教徒と考えるのはその言葉の常識的な意味から充分ではない(無理がある)。それはこれ等の寡頭支配者に支配されている大衆にとってのみ充分である。実際、彼らはどんな種類のキリスト教徒でもなく、セト-アテン信仰者であり、太陽の暗黒面への献身者である。かれらは今も昔もヴィーナス(金星)-ルシファーの信仰者なのである。

 

色に関しては、パルティアのオウラニア女王は「金色の女王」として知られていた。

テンプル騎士団の陰謀を暴露する以前の試みは一人の女性主役であるマグダラのマリアに焦点を当て過ぎ、女結社のことには触れなかった。これは修正が必要な大きな見過ごしである。シオン修道会は有名な王朝からの謎の女家長に率いられたのではない。全くそうではない。偉大な王家の妻たちがエジプトのファラオを支配したように、後の時代には、女イルミナティが、その男の代理人によって世界の運命を方向付けているのである。

 

 

f:id:caritaspes:20210609070338p:plain

 

 オランダのベアトリックス女王はオラニエ家の現在の女家長である。彼女はガーター騎士団であり、ビルダーバーグ会議の一員、恐らく最高支配者、である。何れにせよ、この赤毛の一家はマグダラの血統の直接の系譜で、現在のブリテンの君主の親戚である。女イルミナティは著者の想像の作り事ではないのである。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Beatrix_of_the_Netherlands


「…イエスとマリアが赤毛であったとすれば、このジンジャーゲノムが北方ヨーロッパの王家に入った未だもう一つの文化的遺伝的経路があることになる。「マグダラのマリア-オラニエの王女」の中で、マグダラのマリアが南フランスのオラニエの街に定住した、と更に議論されている。しかしフランスのオラニエの王子たちは結局その小さな都市国家から亡命して代わってオランダのオラニエの王子になる。しかしオランダの王家はずっと長い間、8世紀後半のギヨーム・ド・ジェローヌ -オラニエ(Guillaume de Gellone-Orange)以来、現在のオラニエのウィレム・アレクサンダー王子に至るまで、ずっとジンジャー髪の原種であった。」―ラルフ・エリス著「イエス:エデッサの王」

 

 

f:id:caritaspes:20210609070357p:plain

 

 サセックス公爵ハリー王子、チャールス皇太子の息子。彼の髪色に注目しよう。彼の祖先はイングランドメーソンの大棟梁であった。また別の王家の祖先であるジョージ1世(最初のハノーファー朝の君主でイングランド王)の下でブリテンでは黒い貴族は再構成されフリーメーソンと統合したのであった。黒い貴族がパルティア-エデッサの子孫であるとすれば、彼らの思想的な忠誠は常に、密かに、ナザレの第四宗派であったことになる。この事は英国のメーソンが社会主義的な様相を示し、結局は政治的ファビアン主義を生んだことの説明になるだろうか?(詳しくは下のリンク:)

https://infogalactic.com/info/Prince_Augustus_Frederick,_Duke_of_Sussex#United_Grand_Lodge_of_England

 

 

f:id:caritaspes:20210609070423p:plain

 

 英国のプロテスタントから神格化されたウィリアム3世は、オランダとベルギーの猶太人金融業者から120万ポンドを(年利8%で)借りて、その献身的な民を奴隷にしてしまった。そして借金の見返りにウィリアムは金融業者の意図を躊躇いながらも認め、イングランド銀行を設立し、それにより金融業者が英国民に徴税できるようにし、巨大な貸金が取り戻せるようにした。イギリス人の偉大な解放者などその程度である。加えて、彼の妻であるメアリー女王は、カトリックの敵である、見かけ上、有名なボイン川の戦いで敗れたジェームス二世の娘であった。宗教上の教派の違いに拘らず、血統の観点からは何も変わっていなかった。実際、ウィリアム王の下で民は永久に合意の下での税の奴隷となった。その後も他にも多くの戦争が続いたため、ウィリアムによって負わされた元の借金は返済されないままとなった。今日の英国の労働者は今でも王家と政府によってナポレオン戦争を戦うために負わされた借金を返済しているのである。サバタイ派の金融業者と王家(黒い貴族)の関係は(お互い)儲かる関係である。誰でも良いから敵を作り戦争を煽り、その資金に「借金」を認め、旗振りの市民とその子孫に永久に徴税するのである。ビリー(ウィリアム)王万歳!さ!!!


実際のところ、殆ど知られていないことであるが、金融業者の資本は元は王家から来たものである。金融業者は今も昔ももっと裕福なセト-アテン信仰者がその下部組織の人員と代理人を通して操る世界の出来事のための単なる周旋屋であり、投資資本家である。例えばロスチャイルドの金融王朝はその家系の家父長がヘッセン選帝侯ヴィルヘルム一世のために実業に手を出した後に始まった。1769年、ヴィルヘルム王子はナポレオンの軍隊がフランクフルトに入った後、ナポレオンから隠すために300万クローネをアムシェル・ロートシルトに貸し付けた。王子は、その財産と税徴収から、アメリカに対抗する完全武装の傭兵を売るだけでも4,000万クローネ以上を稼ぎ、既に驚くほどに裕福となっていた。彼は黒い貴族の幹部であった。

所謂猶太人金融業者は自分たちが貸すお金を貸し出され、もう既に久しく、テンプル騎士団、聖職者、イタリアのフォンディ、黒い貴族と切っても切れない関係*を享受していた。
*原文「a “tassel to purse” relationship 房から巾着へ」意味がよく解らないJargon?

ウィリアム三世のカトリックの祖先であるオラニエのウィリアム一世はハノーファー家(在ドイツ)の家柄でオラニエ家と繋がる。殆どのドイツ人はハノーファー朝を下卑た裏切者と考えた。この意味で英国の王族のことを正真正銘のドイツ人と言うのは全く間違っている。更に、オランダとフランスの王族の血統の繋がりは、他所のことは言うに及ばず、基本的に母系であった。

ヴァチカン市国で見つかった文書は実際、プロテスタントのウィリアムがその戦いで教皇インノケンティウス11世から資金援助され、しかもカトリックの兵士はボイン川の戦いで、教皇の指示でウィリアムの連帯のために戦ったことを示す。この発見が確実に示すのは、殆どの人が信じていることとは異なり、王族の様々な策略や征服は、宗教とは全く関係ない、ということである。それは本のうわべ飾りに過ぎないのである。述べてきたようにこれらの寡頭勢力は誰も真にキリスト教徒などではないのである。

「私は正真正銘の記録から示して来たが、修道僧によるそのフランスへの導入から国王ジェームス一世の治世の到来まで、英国のメーソンは、純粋にカトリックで私が公式の一覧を指示したその大棟梁は専ら宮廷、貴族或いは高位聖職者から選ばれた…1694年のオレンジ公ウィリアムの特有のメーソンの誕生にも拘らず、古代ブリテンのメーソンはその古代の法令をプロテスタントの国王の下で温存し、ローマカトリックのままでいた。この事の証拠は、私が発行を提案する、そして、1747年の近代メーソンの改革者の手による狂った過度の破壊騒ぎを逃れた貴重なメーソンの記録に見いだされる。」―テダー平修士著「フランス大東社の不正行為(1909年)」(Brother Teder L’irregularite du Grand Orient de France, 1909)

上の絵に注目して見よう。或る肖像では王の剣が馬の耳の間を通り、それは潜在意識に姉妹同胞の神話の記章である一角獣の姿をもたらす。白馬はハノーファー朝の黒いヴェルフ家の記章に見いだされ、その標語は、ナザレの第四宗派を思い起こさせる、「我々は恐れない」或いは、「我々は何ものも何人も恐れない」であった。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Royal_Guelphic_Order

 

f:id:caritaspes:20210609071410p:plain

 

 黒い貴族網の最高の女家長、ヴィクトリア女王大英帝国の女王で、インド帝国の女帝であった。彼女は、ザクセン=コーブルク=ゴータの一族で、ヴェルフ朝の鍵となる支流、ハノーファー家の子孫であった。隠遁的、コウモリ好き、うすらバカとして知られ、ベンジャミン・ディズレーリのような ―そのお気に入りの政治家は、彼女の名前に於いて英国政府と帝國の采配を揮った。ヨーロッパの殆どあらゆる君主、大きな君主もそうでない君主も、が彼女と親戚であり、女王エリザベス二世もそうである。ヴィクトリアの顧問は抜け目のないルイーゼ・レーツェン男爵夫人で、謂わば王位の後ろにある権力であった。ヴィクトリアとその従僕たちは、アヘン貿易で支那や印度それに他の國を破壊しつつ、途方もない富を築いた。この麻薬王達は今ではアメリカを支配し、合衆国をただの黒い貴族の世界帝國の荘園と為しているのである。(詳しくはこちら:https://infogalactic.com/info/Louise_Lehzen