女イルミナティ11

記号が語ること

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「9人の騎士がヤッファとエルサレムの間の33マイル(約53キロ)の道のりで何千人もの巡礼者を山賊、泥棒、サラセン人、山に居るライオンたちから守ると言う話は、常識から考えても馬鹿げた考えである」―フレディ・シルヴァ著「最初のテンプル騎士団国家」

テンプル騎士団に関するまやかしは彼らの正式名に始まる:貧者のキリストとソロモンの神殿の兵士仲間The Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon、である。これ程にまで見下げ果てたものでなければ、もう滑稽なほどである。騎士団に乏しかったただ二つのもの、それは人間性と道徳だった。彼らの印章は二人の騎士が一頭の馬に跨っている姿を表す。「馬」と言う言葉は売春婦「Whore」の駄洒落に使われ、内輪では死の姉妹同胞を指す。(これは恐らく、マグダラのマリアが売春婦であったと称する虚偽の伝説から取り入れられた。)勿論、現実にはマリアはエデッサの王室の一員の高貴な生まれであった。その女系の祖先のように彼女は金星のカルト或いはシオン修道会の幹部であった。

もう一つシンボリズム(記号)の段階で、一頭の馬上の二人の騎士は恐らくテンプル騎士団シオン修道会(姉妹同胞)が同じ目的(大義)に仕える戦友として結束した頃を思い起こさせるものである。12世紀の仲間割れとそれに続く敵対は世界の歴史を変えた。それに続いて、我々がプロテスタントとして知っているものの起こりも、可能性としてこの敵対の一つの結果であろう。

何れにしても、シオン修道会は、多くが主張するような神話的(架空の)集団ではない。マスコミの情報を誤って伝える者たち(Disinformationalists)は、そのように見せるようにあまりにもやり過ぎたが、修道会により使われる記号の慎重な研究はその実在性、古さと真の正体を確証する。我々が秘密結社の研究をするときに、マスコミで彼らが我々に提示する方向と、彼らの実際の方向との間を区別することは死活的に重要である。前者の方向は勿論の事ながら大方詐欺的であると見做して間違いない。

情報を誤って伝える者たち(Disinformationalists)はフリーメーソンテンプル騎士団の間のあらゆる正統な歴史的繋がりを否定しようとし、友愛の会(メーソン)が歴史的に高貴で空想的な十字軍の騎士と繋がっていたという印象を作ることで上流階級をメーソンに引き付けるために18世紀に保守的な神話創作者(例えばシュヴァリエ・ラムゼイ、チャールス・ラドクリフ、サミュエル・ローザ、カール・フォン・フンドなど)により、その繋がりが創作されたと人々が信じることを寧ろ望んだ。カトリックの会員を集めるためにメーソンにテンプル騎士団との繋がりを持たせたと信じる者もいるし、また秘教に傾倒している者を魅せるために、テンプル騎士団の印象がより高い「神秘的な」メーソンの階級に組み込まれたと信じる者もいる。もっと明敏な観察者や内部の人間(例えば、ニコラス・ボンネビル、サミュエル・プリチャードSamuel Pritchard Matheson?、オーギュスタン・バリュエル、クリストフ・ボーデ、ルシェ侯爵(Marquis de Luchet、ジャン=ピエール=ルイ・ド・ルシェ)、ルイ・クロード・カデ・ド・ガシクール、ジョセフ・ハンマー、エリファス・レヴィなど)は正確に知って居り、メーソンは徐々にしかし組織的に、祖先が14世紀に地下にもぐることを余儀なくされたテンプル騎士団により浸透されて来たと警告していた。この事実は、その作品が後の評論家がテンプル騎士団とメーソンの間の繋がりを、手に負えない空想家や狡猾な利己的いたずら者や神話マニアに支持された虚偽として仕舞えるように神話創作者により巧妙に隠された。

テンプル騎士団が誇らしげに提示する記号が貧困を表さないことのもう一つの手がかりは、テンプル騎士団がこれまで存在した中でも最も裕福な結社であったことである。彼らの富と不動産は中東から西欧まで広がっていた。騎士は独りではどのような個人的な財産も所有することは出来なかった。…しかし騎士団の一員として彼らは城、甲冑、馬や同様のものを非常に豊富に持ち、欠乏して困るものなどなかった。彼らを特別に為さしめたのは貧困ではなかった。」―サンフォード・ホルスト

ティールの大司教ウィリアム(ギヨーム・ド・ティール)はテンプル騎士団や病院騎士団を(エルサレム)王国に於ける破壊且つ無法の軍と見做していた。…彼が大司教になるまでに、これ等の集団は裕福になり過ぎ、その自尊心に慢心し過ぎ、自分たちの権威を超えた神の権威、つまりエルサレム大司教と王、に従順であることを拒否した、と分かった。」―ヘレン・ニコルソン著「テンプル騎士団:新しい歴史」

「キリストの貧乏な騎士」と言う肩書は恐らく元々のキリスト教徒を指したものである ―イェッセアンJesseans、エビオン派Ebionites、ナザレ派Nazarenes、Nazoreans、ナーセーネNaassenesなどの名で通ったイエスの信者たち、である。エビオン派は自らを「貧乏人」と呼び、その知的素朴と禁欲生活を指したものであった。テンプル騎士団は、それのあまり知られていない意味、つまりエビオン派(ナザレ派)がイエスの教えを旧約聖書ユダヤ教の延長線上であると考えたことを思い起こしたため、これを取り入れた。「貧乏な騎士」と言う言葉は従って、猶太教、或いはもっと正確には、嘗て輝かしいエデッサの女王に率いられたナザレの第四宗派への暗号的容認なのである。

後ほど分かるように多くの近代のヨーロッパの君主(所謂黒い貴族)はエデッサの子孫である。この意味で彼らは自らをイエス自身の子孫と見做すのである。

 

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バプテスマのヨハネの首とサロメ(右)

テンプル騎士団は間違ってカトリックの組織だと考えられている。表面的にはそのように見えるが、学者の中には彼らがバプテスマのヨハネの帰依者と信じる者もいる。これが教皇が彼らを破壊することを欲した理由の一つである。それはまた、彼らの指導者がジョン(ヨハネ、ジャン)と名乗る資格がある理由でもある。

勿論、我々は気狂いの預言者バプテスマのヨハネに添えられた記号を通して理解しなければならない。恐らくそのような人物は存在しなかった。その人物は、教皇派のキリストによって失墜したキリスト教の第四宗派イザス王の架空の設定である。ジョンとは、帝國を失い、その運命が実現しなかった王である、イザス或いはイエスの放浪癖版である。この有名な野生の人物像は単にイザス王の運命を記号(シンボル)の形で具体化している。換言すれば、聖書のバプテスマのヨハネとイエスは一人と考えられ、同じ人物なのである。

秘儀の伝承によると、ヨハネは最初イエスの母マリアと結婚した。彼らの間にはヨセフと言う息子が居り、ヨハネの捕縛と処刑の後、イエスの養子となった。*
*原典:They had their own son, Josephes, adopted by Jesus after John's arrest and execution. であるが、新約聖書の話ではヨセフはイエスの「父親」なので、エスこの義兄に当たるヨセフの養子となったのでは?(つまり、逆なのではないか?)―燈照隅コメント

二義的には、斬首された首の像は権力が一人の代理人の男からもう一人に移ったことを暗示する。権力の移行は、しかしながら、真の、しかし見えない長で後援者である女系の女族長の命令により執行された。示唆的に、バプテスマの(ヨハネの)首と共に描かれたサロメの大きな絵画がローマのマルタ騎士団の本部の大広間に掛かっている。

記号はまた、偉大な光の王、アクエンアテン自身の運命も含めている。彼もまた「斬首」された。彼の子孫 ―それにはエデッサも含まれる― はアクエンアテンの新世界秩序(NWO)を回復するために何世紀にも亙り、せっせと働いたのである。

 

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 ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ロレーヌ伯爵でエルサレムの王(1060~1100)。彼のオレンジ色の外套とオレンジの実をあしらった王冠はマグダラのマリアと彼女に仕えるカルト―シオン修道会を仄めかしている。

 

実際のテンプル騎士団の起源は謎に包まれている。騎士団の初期の伝承作家は目撃者ではなく、騎士団が創立されてから生きた。第一回十字軍の後、自分の小さな騎士団である聖墳墓騎士団の拡張版として形づくったのは恐らくゴドフロワ・ド・ブイヨンであった。彼は恐らく自らの騎士団を近くの(アマルフィ)に本部があった先に設立された病院騎士団を手本として作った。ゴドフロワの新しい団体は軍事的とするか、修道会とするか決め兼ねていたように思われる。元々は9人の騎士たち、ユーグ・ド・パイヤンHugh de Payens、ジェフロワ・ド・サントメールGeoffroy de Saint-Omer、ロッサルRossal、ゴンデメアGondamer、ジェフロワ・バイソルGeoffroy Bisol、パイヤン・ド・モンディディエPayen de Montdidier、聖アグナトのアーシャンボーArchambaud de St. Agnat、アンドレ・ド・モンバールAndre de Montbard、シャンパーニュ伯ユーグHugh Count de Champagneであった。ユーグ(シャンパーニュ伯)は信じられないほどの裕福な貴族であった。その仲間の騎士であるユーグ・ド・パイヤン(パガナスつまり異教徒)がブイヨンの死後騎士団を率いた。シャンパーニュ伯とクレルヴォーのベルナルドゥスはテンプル騎士団の始まりの頃の認知度と評判が高くなるよう促した。

我々はその騎士道精神と武勇について騎士団に浪漫的な考えを持って居る。然しながら、クレルヴォーのベルナルドゥス自身が、キリスト教の旗の下の聖地に出発する殆どの十字軍の騎士の背信行為について公然と言及している。彼は次の様に書いている。「聖地に殺到する莫大な数の中で、不信心なならず者、神聖を汚す略奪者、殺人者、偽証者、姦夫でなかった者は殆どいないと言うことを見出すのは実際寧ろ都合がよく、それらのヨーロッパからの離脱は、当然二重の利益であり、ヨーロッパの人々は彼らを見送ることを喜んでいる…。それは海を隔てた両側で生活する者にとって確かに有益である。何故なら彼らは一方を保護しもう一方を虐待するのを思いとどまるからである。」テンプル騎士団の美徳などこの程度なのである。教会も人々もどちらも騎士団を血に飢えた日和見主義の粗野な人間であると見做していたのにはそれなりの理由があった。著者が関わる限り、彼らの性質と動機は年を重ねても少しも神聖にはならなかった。クレルヴォーとド・パイヤンは単に自分たちの騎士団の兵団の卑劣な行為を体裁を取り繕って神聖化するために、自らの怒りを道徳的で信心深く見せ、詭弁に耽っただけであった。14世紀に解散するまでテンプル騎士団は、聖職者の法を甚だしく破り山賊行為を認めたことで知られた。

今日のオランダと英国の王族はフランスのオラニエ家と直接の血縁で、ブイヨンのゴドフロイの家系である。彼らの最も重要な祖先の一人であるギヨーム・ド・ジェローヌ(William de Gellone)は「鷲鼻(鉤鼻)」で知られていた。この「猶太の」(ナザレ人の)支流は疑いなく、アクエンアテンの没落後のエジプトから追放されたアテン信仰者の子孫である。