文明のアイルランド起源 HPより スピンオフ

猟奇殺人「切り裂きジャック」の真実

"Jack the Ripper" was Winston Churchill's Father - henrymakow.com

切り裂きジャック」はウィンストン・チャーチルの父だった

ジョン・ハマーJohn Hamerによると、四人の売春婦のメーソン儀式殺人はウィンストン・チャーチルの父、ランドルフ・スペンサー・チャーチル卿(1849~1895)により実行された。売春婦は王家を恐喝していた。

 

f:id:caritaspes:20210329125644p:plain

Lord Randolph Spencer Churchill
ランドルフ・スペンサー・チャーチル卿 

 

チャーチルは、この工作全体の裏の「司令塔」であっただけではなく、個人的にメーソンの記章と記号を被害者の体に刻んだことにも責任があり、一方でウィリアム・ガルの外科医の手が内蔵の切除を実行した。」

 

「当然のことながら、エディー(エドワード王子)はその大きな王制の危機を招く脅威となった「不法な」結婚により、支配層を激怒させたのであった。」

         ジョン・ハマーによる2011年7月21日(の記事:henrymakow.com)より

 

 

話の発端は、1888年の夏の終わり頃、ヴィクトリア女王の治世の最盛期、ガス灯が燈されたロンドンの街、東ロンドンのホワイトチャペル地域はタウドリーの貧民街で、女性の無惨に切り裂かれた遺体が発見されたことに始まる…

1888年8月31日の夜、公娼メアリー・アン・ニコルスMary Ann Nichollsの遺体が発見された。この女性は残忍に切り裂かれて死んでいた。その喉は切り開かれ、胴体は内臓がむき出しになっていた。この女性が今では伝説の殺し屋「切り裂きジャック」の五人の被害者の最初であった。

所謂「切り裂き」殺人はロンドン首都警察隊の管轄となり、フレデリック・ジョージ・アバーライン捜査官が担当となった。

このフレデリック・アバーラインの日記がこの未解決殺人事件発生後約70年もの間日の目を見なかったことに注目することは重要である。日記帳は、「エディ王子」と言う名前で知られていたクラレンス伯アルバート・ヴィクター王子の美術の先生、ウォルター・シッカートの手に渡っていた。

エディはアルバートエドワード皇太子(後のエドワード七世)とアレキサンドラ王女(後のアレキサンドラ皇后)の間の長子で、つまり時の女王ヴィクトリアの孫で、将来の英国王ジョージ五世の兄にあたった。であるので、彼は王位継承権第一位の筈であった。

不幸にも、何世紀にも亙る王族の血族結婚により、エディは耳が不自由で、その知性も平均をずっと下回るものであった。彼は従って多くの冷たい王族から避けられて居た。

時の君主ヴィクトリア女王は、その時代の男性王族すべて(今でもそうであるが)と同じようにフリーメーソンの大きな支持者であり(金銭的)後援者であった。実際、ザクス=コーブルク=ゴータ家*(当時の王朝)はイルミナティの創設者アダム・ヴァイスハウプトの初めに資金後援した。ヴァイスハウプトは実はバイエルンの町ゴータで生まれ育った。
*1901年から1917年まで英国を統治した王室の名前

英国の王宮にはメーソンのロッジが複数あり、最も重要なものはケンジントン宮にある王立アルファロッジと思われる。1885年にエディ王子は、父の要望で王立アルファロッジに入会した。

 

エディ王子

メーソンの結社員であるのと同様に、エディは、ロンドンのクリーヴランド街にあった同性愛者-小児性愛者用売春宿の常連「客」であり、そこで雇われていた若い男に一連の露骨なラブレターで無分別にけしかけていた。

よく知られた悪魔崇拝者のアレイスター・クロウリーはこれ等の手紙を長年手に入れていたが、結局のところ、失った、と言うよりも恐らく滅却した。

エディはまた若いアイルランド系のカトリック「平民」のアニー・エリザベス・クルックと言う女性を身ごもらせた。

エディは、愚かにもこの女性と秘密の教会儀式で結婚し、これが、実際のところ、彼を国王にすることを禁じることになった。何故なら、英国の王族はカトリック教徒と結婚することは許されて居なかったうえ、そうでなくても平民との間に違法な子供をつくったのである。

1883年、エディの母親のアレクサンドラ王女は、若い画家のウォルター・シッカートに依頼して、エディにロンドンの美術と文学活動の手ほどきをするようにした。

シッカートのアトリエはクリーブランド街15番地で、北ロンドンのトットナム・コート街近くであった。彼は十代の王子を自分がライセウム劇場の一員だった頃に作った劇場仲間を含めたその地域の多くの「放浪癖の」人種に正式に紹介した。

シッカートはまたエディに自分の(絵の)モデルの一人でアイルランドカトリックの、近くのクリーヴランド街6番地に住んで、昼間はその地域の煙草屋で働いていた若い美人女性、前述したアニー・クルックを紹介した。

二人は互いに恋に落ち、シッカートによると、二つの秘密の結婚の儀式、英国教会とカトリックのものをした。その後すぐにアニーは身重になり、彼女の雇用者は彼女が監禁されている間の代わりの人間が必要となった。

ウォルター・シッカートは、誰か適当な人が居ないか尋ねられ、友人と相談後、メアリー・ジェーン・ケリーと言う、ホワイトチャペル地区にあるプロヴィデンス・ロウ女性夜間保護施設から若い女性を見つけた。

何か月か、メアリーはアニー・クルックと煙草屋で一緒に働き、友人となった。予定通り、1885年4月18日にアニーはエディの娘、アリス・マーガレットをメリルボーン救貧院で出産した。

彼女が家に戻ると、その新たな友達となっていたメアリー・ケリーは赤ん坊の子守役として越して来た。メアリーはまた、その僅かな収入を補うために夜は売春婦として働いた。

当然のことながら、エディは、大きな王制の危機を惹き起こす自身の「不法な」結婚で支配層を完全に激怒させた。そこで、何時ものように、君主制は巨大な隠蔽工作を開始した。

アニーは働いていた店から誘拐され、同時にエディはバッキンガム宮殿に幽閉された。

幸運にも、最悪の事態を考えて、アニーはロンドンのガイズ病院に強制的に連行される直前に、子供のアリスを身の安全のためにウォルター・シッカートに手渡した。

彼女はその病院に五か月間留まり、その間に女王の個人的主治医であるサー・ウィリアム・ガルが彼女に部分的前頭葉切除を行い、つまり実際には彼女を素直で従順にして、この非人間的怪物どもに容易く扱えるようにした。

ガル医師により、正気を失ったと認定されたアニーは残りの人生を施設で生活し、晩年をチェルシーの聖ジョージのユニオン救貧院の精神病者観察病棟で過ごし、1920年の初めに57歳でひっそりと亡くなった。

 

メアリー・ケリーの恐喝

そこで事件は終わるはずであったが、メアリー・ケリーの貪欲は収まらなかった。ホワイトチャペルに戻るとメアリーは、その地域の他の三人の売春婦と友達になり、その三人に自分の「王室との繋がり」のことを自慢していた。1888年の春、この四人は、話を公表すると脅して、ウォルター・シッカートにカネを要求する計画を立てた。

彼女は、実際自分が王族を恐喝しようとしていることも、フリーメーソンの繋がりのために、自分が、文字通り何物にも止められない、地位の高い人々の「保護」を受けながら罪に問われず殺す手段を持って居る精神異常の殺人者の集団に、自分の要求を受け入れさせようとしていることも、充分理解していなかった。

シッカートは、エディに即座に伝言し、エディは父親(英皇太子)に報せた。皇太子はこの脅威について、極秘で王立アルファロッジの信頼できる仲間のメーソンと話し合った。ロッジでは「親王たち」として知られる王族のメーソンによる特別な会合が準備された。彼らは、その大胆さに対する懲罰として、またメーソンの血の犠牲として、文字通り不幸な女性を追い詰めて殺す「追跡(狩猟)班(Hunting Party)」を形成することに同意した。

「追跡班」は王立アルファメーソンロッジから専ら選ばれ、サー・ウィリアム・ガル、エディの前のケンブリッジ大学の教官、J・K・ステファンとロンドン警視庁の長官、サー・チャールズ・ウォレン(殺害には積極的に参加しなかったがその計画遂行を手助けし、隠蔽工作をした)。彼らの愚かしい仕業の運び役として、以前にエディ王子の王室への無思慮を告げ口した御者、ジョン・ネトリーを採用した。(当時は馬車が移動手段)

ウォレンは警察での特権的な地位を利用して、女性たちの所在に関する情報を提供した。サー・ウィリアム・ガルは阿片を注入したブドウを準備し、それは、卑劣な行為が最小限の手間で行えるように犠牲者に提供されるものであった。

馬車の御者で特に卑劣な人物であるジョン・ネトリーが「逃走馬車の御者」になるように手配された。「見張り」はヴァージニア・ウルフの従兄弟で、王室と繋がりのあるもう一人のメーソンであるJ・K・ステファンであった。殺害は、詮索好きの目を避けて、ガルの馬車の中で行われる計画であった。

注目すべきことは、殺人が、キツネ狩りと似通った、メーソンの儀式によって、複数の人間で計画され、実行されたと言う犯行の手口が、アバーラインの日記で確認されていることである。これらは決して明るみに出ることが許されなかった事実である。

 

首謀者

そこで、この殺人ギャングの首謀者は誰であったか?著名なフリーメーソン、印度国務長官、下院指導者で大蔵大臣、ランドルフ・スペンサー・チャーチル卿、後の首相ウィンストンチャーチルの父親を措いて他には居ない。

チャーチルは工作全体の背後の「頭脳」であったのみならず、ウィリアム・ガルの巧みな外科医の腕が内蔵の切除をしている間に、メーソンの記章と記号を犠牲者の遺体に刻んだことにも個人的に責任があった。

暗殺者は脅迫者の居場所をウォレンからの「内部情報の」手助けで発見するのを手始めに、そこから組織的に処刑を計画した。儀式的殺人の騒ぎは1888年8月31日にメアリー・アン・ニコルスを最初の犠牲者として始まり、9月8日のアニー・チャップマンの殺害まで続いたのであった。

女性はそれぞれ順に馬車の中に誘い込まれ、そこでヒラム・アビフの殺人者である三人の「ジュウェスJuwes」即ち、ジュベラJubela、ジュベロJubelo、ジュベラムJubelumが古代メーソンの伝説の中で処刑された儀式的手法で殺害された。女性たちの喉は「切り裂かれ」、胴体は引き裂かれ、その内臓は「左肩」に「投げ掛け」られたのであった。

9月30日には更に二件の殺害があったがその夜は事は順調に運ばなかった。その夜の最初の犠牲者であるリズィ・ストライドLizzie Strideを犯人がバーナー街で投棄しつつあるときに邪魔が入り、儀式切断を完了する前にその遺体を放棄しなければならなかった。

さらに驚くべきことに、その夜の二人目の犠牲者、キャサリンエドウズCatherine Eddowesは、シッカートによると、人違いで殺された。気の毒に、キャサリンジョン・ケリーと言う男と生活していたことがあり、その苗字をよく使っていて、その為に恐喝者の筆頭であるメアリー・ケリーと人違いされたのであった。

その間違いは、殆ど犯行集団の破滅に繋がるものであった。これが工作の最高潮の時であると信じて集団はキャサリンの遺体をそれまでの犠牲者の誰よりも完全に切断し、マイター広場のメーソンの寺院の反対側でホワイトチャペル街の近くに、既に置いていたのであった。

彼らはメーソンの標語をチョークで近くの壁に書き、それを残忍な出来事全体の後書きとした積もりであった。警察官がその帳面に書き写していたその内容は次に示す通りであった:

「ジュウェスたちは、何も落ち度なく咎められた人間ではない。」

現場に到着したサー・チャールズ・ウォレンは、部下が大変驚いたことに、目撃者には殺人者の手で書かれたと推定できるはずの、そのチョークで書かれた碑文を、即刻洗い流して消すように命令した。その理由として彼は反ユダヤ感情の炎上を望まなかったためとしているが、シッカートは本当の理由は、その伝言が「猶太人Jew」ではなくメーソンの伝説の「ジュウェスJuwes」を指すことを余りにも多くの内情を知る人間が認識し、従って殺し屋をフリーメーソンと識別するためであると示唆している。

この失態の後、一月以上もの中断があり、それは最も長い殺害の間隔で、その間、犯行集団は本物のメアリー・ケリーを探す努力を倍加した。一方で、殺し屋のフリーメーソン、そして王室との関係の噂が高まり続けた。メアリー・ケリーが遂に見つかったのは11月9日になってからであった。もう一度馬車を使うのは今は危険すぎると見做されたため、彼女はドーセット街の自身の宿泊場所で殺され、仲間の恐喝共犯者の誰よりも血生臭く切断され、喉は切り裂かれ、体は残酷に切り刻まれ、腸は、儀式に従って部屋の周りに配された。

メアリーがまだ生きている時に最後に一緒に居た人物を警察が描いた絵が存在し、これには、ランドルフ・スペンサー・チャーチル卿自身に外ならない、不思議な類似性がある。勿論、この手がかりに限っては、メーソン支配下で運営されるロンドン警視庁では決して追跡捜査をされることはなかった。

更にアバーラインの日記によると、J・K・ステファンは警察に行き、全てを自白して罪滅ぼしに警察に身柄を委ねたが、勿論、逮捕はされず、ステファンは起訴されることなく釈放された。アバーラインは、警察の不作為と隠蔽に嫌気がさした直接の結果として、警察での職を辞し、程なく引退した。確かにロンドン警視庁には、真実が明かされることを防ぐために永久に封印された書類が未だ存在するのである。

 

結論

エディ王子は、妻が脳葉切除されたことを知って精神崩壊を来たし、それ以後二度と立ち直れなかった。

シッカートはアニー・クルックの誘拐の報道を聞いて国を逃れ、赤ん坊のアリスを保護するために、フランスのディエップに住み始めた。アリスが成人すると、ウォルター・シッカートと恋人になり、次いでジョセフ・シッカートと言う名前の子供をもうけた。そのジョセフ・シッカートがアバーライン捜査官の日記を父親から受け継いだ後、50年もの間、公開されることなく持って居た。

これが、本人から直接聞いた、切り裂きジャックの本当の話である。この事実は現在の支配階級に知られるべきであるが、いつも乍ら、彼らは真実が知られるのを防ぐために一致団結するのである。殺人者の身元に関する多数の理論、それに、果てしない「真実」の追求を描く多くの映画やドキュメンタリーやテレビ番組も、エリートのいつもの手口がそうであるように、犯人を守るためにエリートによって引き起こされた意図的な混乱から生みだされたものである。これは、これらの気狂いが我々すべてに過去の出来事と今存在する現実両方に関して完全に歪んだものの見方を提示するのが如何に簡単かを示す極ちっぽけな一例なのである。

この残念な事件の更なる(負の)遺産は、スペンサー家に対する見返りが、ランドルフ卿の息子(ウィンストン・チャーチル)の首相としての二期であり、二世代後のダイアナ・スペンサー令嬢は将来の国王チャールズ三世の妻となり、そして将来の国王ウィリアム五世とその弟ハリーの母親となったが、彼女がその「後継ぎとその予備」を出産すると、万人が知るようにただ棄てられただけであった。1997年、彼女は残酷に、そして儀式的にパリで自身を殺害したのであった。

                2011年頃 ジョン・ハマー