文明のアイルランド起源 HPより24「メーソンと猶太キリスト教に於けるドルイド教の記号」(完)

結論

ドルイドの体制において実際に中心で、そこから世界中の領域の公民に聖職とその知識が拡散された、それは政治家、立法者、聖職者、医者、弁護士、教師、詩人であった。すべての人類と神の知識の蓄積、その教会と議会、その裁判所、その医学と外科の学寮、その執行官、聖職者、司教であった。」
―R・W・モーガン著「ブリテンの聖パウロ

 

文明の様々な要素が西方から東方に拡がったと宣言する人は社会ののけ者と考えられる。これが過去ずっとそうであり、今日に到るもそのままである。そうのような者が勇気を出してその説の根拠を出すにも拘らず、その者は無視される。

公式に捏造された「歴史の話」はあまりにも深くそれに向き合うものの心に埋め込まれるのである。真実が知られたなら既得権益のある者や多くを失う者は、寧ろ、猶太教と基督教の慣習や記号の思想は一番最初から、ユピテルの額からミネルバが出てきたように、それらの原典からだけ突然現れ、他の起源はないと言うことを我々が受け容れることを良しとする。所謂「ベテルの石」は東方から西方にもたらされることが出来、誰もそれに疑問を持たない。しかしこの石が、その後に戻る前に、アイルランドに数千年もの間固定されていたと言うことは、学界の異端と同じことなのである。

首長が沙漠で石柱を立てるならば、首長が梯子で天国に昇る夢を見るためにその頭を石の上に載せるならば、或いは首長が神聖な饗宴に於いてその兄弟たちに盃を渡すならば、我々はそれを初めて為されることとして承認することになっている。我々はその思想が、特殊な儀式が何処から来たか、或いは、それが本当は何を意味するか、に疑問を持たないことになっている。たとえその首長が後に架空の人物であると証明されてもそれはその伝承とその預言者に特有で(あり、全体の話に関係はない)。事実は神話拡散者の山の下に埋もれてしまう。明らかに歴史の授業をして居る者達は歴史の教訓からは殆ど何も学ばないように心に決めているのである。

 

ラーマーヤナの数世紀後に書かれたマハーバーラタの中に、スヴェタ・ドゥワイパ、「白い島」のことが言及されている…メル山の北西の方角に中央アジアの神々と半神半人の住処がある…学者はこの謎の白い島に頭を悩ませてきた…ブリテンの島々はウェールズの人々からイ・ウェン・イニスY Wen Ynys、つまり「白い島」と呼ばれている。ケルトの作家によると聖なるグラアル、つまりSanct Grealは白い島に…イングランドのどこかにもたらされた、と言われる。」
―ドロシア・チャプレイン著「物、神話、霊、或いはケルトとヒンドゥの繋がり」

 

「コロンバによってコロンバ自身の社会のためにドルイドの社会が追放されるまでイオナには確実にドルイド教の学寮があり、高地地方の者は未だそれをドルイドの島として認識している。古い統計的作品は「キリスト教が導入されるまで、ドルイドは疑いなくイオナを持って居た。」と言う。カルディー人[1]ドルイド[そしてエッセネ?]が着ていたように白い着物を纏い、しかも彼らにはドルイド教の世評があった。彼らは今では聖アンドリューの十字架と呼ばれる、アジア的十字架を使った。注目すべきことにアイルランド語版の聖マタイの福音書には「東方から三人の賢者が来た」と言う文が「ドルイドが東から来た」になっている。同じように旧約聖書出エジプト記7-2の「エジプトの魔法使い」が「エジプトのドルイド」になっている。」
[1]英語から翻訳-カルディー人は、中世のアイルランドスコットランドウェールズイングランドの禁欲的なキリスト教修道院と人間社会のメンバーでした。

―ジェームス・ボンウィック著「アイルランドドルイドと古代アイルランドの宗教」

 

「モクテスマ2世(Montezuma)は言った。『長い間我々は祖先の書いたもので知らされて来たのだが、私自身もこの国に住んでいる者の誰もが土着ではなく、異国の一部からここに来たったよそ者であった。同様に我々はわが民族が(我々が臣民であったところの)ある首長に導かれ、その後、首長は故郷に戻り、そこであまりにも長く居残り、戻って来るのが遅れたため、ここにきて彼に置いてきぼりとなった者がこの土地の女性と結婚し、その間に多くの子供が出来ていて彼等自身の街を建てて住んでいたので、決して自分たちの故郷に帰ろうとしなかったし、また首長をそれと認識することも出来なかった。そこで首長は彼らから去った…そして我々は彼の子孫の間でこの国と我々を当然の臣民としてきっと服させることになるだろうといつも信じていた。さて、貴方がそこから来たというその地域、それはそこから太陽の昇るところで、貴方をここに遣わしたこの偉大な王様で支配者の我々に伝える知らせを理解すると、我々は彼が我々の当然の首長であると信じ、確証する。特に貴方は彼が我々のことを長く知識として持って居たと言うので』」
―コンスタンス・アーウィン著「公明正大な神々と石の顔Fair Gods and Stone Faces」

 

惜しいことに、幾世代にもわたり、記号と文化思想の東方から西方への民族移動の虚偽の話が学界と知識人の大半によって事実として受け容れられて来たのである。

それはまた、ラビや聖職者や牧師によって伝えられたことを全てホイホイ受け容れるように訓練された大衆により「丸ごと鵜呑みに」受け容れられた。彼らは、イスラエルの十部族、エレミヤ、預言者使徒、それにその他の人物の東から西への移動について彼ら用に捏造された話を信じるのである。この「ブリティッシュ古代イスラエル人」によって提起された理論はある点で真実である。それは、ドルイドが東方への旅をした後で、彼らの高尚な霊的認識が世界の広範囲にわたる文化に吹き込まれた後の比較的歴史上遅い時期に起きた移動を指す。世界の犯罪家系は彼らの下の階層に、西洋世界の旗、襟飾り、建築、政治や宗教の記章に見いだされる多くの記号が猶太人預言者とその従者の西方への移動の結果であると信じさせたいのである。

 

f:id:caritaspes:20210327020417p:plain

 

気狂いで極端な自己中心主義者であったウィンストン・チャーチルは1908年の8月15日にブレナム宮殿で古代ドルイド結社のアルビオン支部に入会させられた。チャーチルは貴族のスペンサー家の一員であった。彼の祖先はマールボロ公爵であった。チャーチルの父親、高位フリーメーソンランドルフチャーチル卿は、あの悪名高き「切り裂きジャック」連続殺人犯の裏の原動力*であった。その政治経歴と二度の英国首相の任期を通してウィンストン・チャーチルは、父親のフリーメーソンの「アルファ・ロッジ」の彼の上役(棟梁)が命令する通りを従順に正確に実行したのである。(詳しくはこちら:http://www.femaleilluminati.com/article-4.html

*当時の皇太子エドワード(後のエドワード7世)とヴィクトリア女王の孫アレクサンドラ王女との間の長子・エドワード王子の醜聞を隠蔽するために、フリーメーソンの大棟梁の命令で警察も巻き込んで行われた犯罪であったことが、エドワード王子の醜聞の全てを知っていたウォルター・シッカート(Sickert)の息子・ジョセフ・シッカートが父親から相続して持って居た当時のアバーライン(Abberline)捜査官の日記から明らかになった、と言う情報が1990年代から出回っている。―燈照隅(これについては、上記のリンク以外にヘンリー・マコウHenry Makowの記事を近日ご紹介します。)

 

然しながら、一度「猶太」と言う言葉によって意味するものを知ると、我々は神話拡散者を黙認することに終止符を打つのである。我々は彼らの巧みに考案した物語が貧困に打ちひしがれた奴隷についてではなく、超裕福なファラオと「古代イスラエル人」、「ヘブライ」、「猶太人」の称号を持った同盟についてであることを認識するのである。

何れにしても有史以前に西方から東方への民族移動があったこと、そしてそれは世界に文明の要素を送り届けた西方の旅人であったことを疑わないようにしよう。古代の伝統の中には西方の國に巨石文化の先人とその子孫により、或いは真実の僕(古代のドルイドのこと)の破壊を画策したその他の者により、西方に戻されたものもあるが、その真実の僕の存在と重要性は殆ど完全に忘れ去られたのである。

 

世界に対抗する真実

 

※今回で「メーソンと猶太キリスト教に於けるドルイド教の記号」のホームページのご紹介は完結です。引き続き、「女イルミナティ」に関する記事をご紹介したいと思いますが、未だ訳が出来ておりません。(とても筆が遅い質で、もうしばらくかかります。申し訳ありません。)

また、出来次第、公開したいと思います。宜しくお願い致します。 ―燈照隅