文明のアイルランド起源 HPより03

【今回の要点】サリオンは、アレキサンダー大王やシーザーなどの帝国主義的拡張主義も、或いはローマの征服活動も、そのキリスト教の布教活動も、その裏に居た秘密結社による征服活動の傭兵に過ぎなかったと主張する。(それは丁度第二次大戦に於いて英米フリーメーソンの傭兵に過ぎなかったことと重なる。)そしてその秘密結社の一派がブリテン島の王家であった。(だから、捕縛されたブリテン王カラドクは処刑されず余生を不自由なく過ごせた。)また、サリオンはローマ皇帝たちも表立っては猶太教やキリスト教を迫害したり後にはキリスト教徒となったりしたが、本質的には太陽信仰の一神教カルトの一員(或いはその僕)でしかなかった、と主張する。

穿った見方をすれば、アレキサンダー大王の突然の死や、ブルータスによるシーザー暗殺事件の裏にも間違いなくセト信仰者の秘密結社が一役買っていた? それが西洋の歴史の偽らざる側面なのかもしれない。 ―燈照隅

 

アテンの僕(召使い)

「(ローマ帝国の)フラウィウス朝の皇帝の一人は、後にコンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗したと同じように、ユダヤ教に改宗したかもしれない、という証拠がある。」
―リチャード・A・ガブリエル著「エジプト人・イエス

 

遠からぬ或る日、世界は紀元前数千年以上前に北西半球に高度な文明が存在し、そして人間が近年に得た知識も大洪水以前の知恵の下らない再現に過ぎないことが遂にわかるであろう。世界の学界内部の偏らず、心を開いた「専門家」は、文明の要素が西方の國で芽生えたこと、そして西方と東方の民族(国家)の間には時代がかけ離れた関係性があることにすぐに合意する可能性がある。彼等は終には、ユダヤ教キリスト教の本当の起源についての事実を認識し、長きに亙って西洋世界の宗教と政府の操作を指示して来た邪悪なアテン信仰のカバルに光を当てる可能性がある。我々はただそれを望むばかりだ。

 

アリストテレスは、哲学はギリシャからゴール、つまりドルイドに受け渡されたのではなく、彼等ドルイドから受け取ったものであると肯定している。ギリシャの作家だけが古代ブリテン島の哲学の名声に帰したのみならず、他の人々もそれと古代インドの間の繋がりを確立した。そこは、ブリテンの島々が「西の聖なる島々」として語られ、その一つをブレタシュタン(Bretashtan)即ち「宗教的義務の席と場所」とされた。これらの聖なる島々はヒンドゥー教徒が人類のピトリス、即ち父たちの住まいと言い伝え、キムリック*は自分たちのことを最も古い人種と呼ぶのである」
*キムリック人:現在のウェールズ人・コーンウォール人・ブルターニュ人から成るケルト人種

 ―ジョン・ダニエル著「古代ブリテンの哲学」(1927年)

 

多くの世代に亘りアテン-セト信仰者の長とその子孫は、もっとよく知られている宗派、カルト、王家の背後からその魔術を働かせてきた。その団体には次のようなものがある。

・アーロン血統(Aaronites)

・口伝血統(Oralites)*シナイ山で神の言葉を口頭伝承したと主張する結社の構成員

・レヴィ血統・レヴィ人(Levites)

・メルキゼデク結社(Order of Melchizedek、ツァドカイ人(Zadokites)、ツァドックの息子たち(Sons of Zadok)、エリートサドカイ人(elite Sadducees)

・ベニヤミン血統(Benjaminites)

・ゲオーニーム(Gaonim)(或いは光の王子たち(Princes of Light))

・東方イルミナティ(パルティア-エデッサ君主)

・シオンの結社とテンプル騎士団

・聖ヨハネ(病院)騎士団(マルタ騎士団ロードス騎士団

・シトー修道会

・ティロネシアン修道会

フリーメーソン結社(古代、スコットランド儀典、神殿派、大東社、その他)

・薔薇十字団

・セオドア・ロッジ

・慈善騎士団(Knights Beneficent)

・聖マイケル・聖ジョージ結社(勲章)

・ガーター結社(勲章)

・黒い貴族

ブリテンその他、著名なアジア、中東、欧州、英国の宗派と王朝

 (この点について更なる情報はこちら:http://www.femaleilluminati.com/article-2.html

 

東の飛び地の人間たちだけがセト-アテン信仰者の共謀者ではなかったと著者は信じている。ウェスパシアヌスティトゥスクラウディウス、ポッパエア、コンスタンティヌス、テオドシウス、ユスティニアヌスなどの西方の国々のエリートの家族も彼らの力に誘惑されたことは間違いないと考える。例えば、ローマのフラウィウス朝の人間も権力の座に昇ったのは彼らがアクエンアテンの子孫に忠誠を誓ったからであった。これらの人間の行動がその存在がこれまでに一般には殆ど知られてこなかった強大なセト-アテン信仰者の闇のロッジによって指示され、財政支援されていたのである。

 

ティトゥス帝はフラウィウス朝のウェスパシアヌス帝(7~79年AD)の息子であった。ある記録(タキトゥス、スエトニウス、ヨセフスの資料)によるとウェスパシアヌスはプロクラトル(皇帝の執政)ティベリウス・ユリウス・アレキサンダーアレキサンドリアの僧侶バシレイデースのようなエリートの猶太人と仲間同士であった。二、三人の研究者によるとウェスパシアヌス帝とその東方の同盟者が最後にはキリスト教となった宗教を造り上げた。主犯の陰謀者が新しい宗教の創設に資金を提供したので、競争相手のカルトや宗派は弱体化し、根絶されると分かった。ウェスパシアヌス帝の後継者、息子のティトゥス帝(79~81AD)はユダヤ國を探し回り、百万人或いはそれ以上の人々を殺害し、エルサレムの神殿の聖なる宝物を護衛をつけてローマに運ばせた。フラウィウス朝は、アレキサンドリアユダヤに於けるある強大な宗派が彼らの覇権への脅威と考えた「アテン信仰者」エリートの単なる召使に過ぎなかったと我々は考える。彼等は、ドルイド教とアメン信仰の神学的要素が合一するある種の「グノーシス」的な種類の宗教の出現を恐れた。自分たちの力の減退を恐れて彼等はそのローマ人とローマ-猶太の子分たちに指図し、「パウロ」や他の律法学者に資金を出したのだ。これらの律法学者は古代の教義を剽窃し、解体して必要個所だけを利用し、帝國を元気づける新しい宗教をでっち上げられるようにした。次章で示すように、ローマの寡頭政治家はユダヤの裏のエリートであるサドカイ人と密接に協力して反乱を抑え、神権的で帝国主義的な権力を拡大したのである。これらの集団はブリテン島の高級アテン信仰者によって指図されていた。」
―マイケル・サリオン「文明のアイルランド起源 第二巻」

 

「サドカイの高位の僧侶はローマ人に指名され、熱心党(ゼロテ派)に暗殺され、ローマと提携した他のサドカイに対する大きなテロリストの戦いが始められた。」
―ベイジェントとレイ「メシアの遺産」

 

「皇帝と密接に連絡を取って、皇帝の宮廷でのエジプト系カルトの人気に貢献していた、エジプトからの多くの知識を持った人間(例えばノウクラティスのカエロモンやアレキサンドリアディオニソス)の存在があることには、疑いの余地はない。」
マルガリータ・タチェヴァ博士「小モエシアとトラキアの東方カルト」

 

クラウディウス帝もまた確実にエジプトの宗教に乗り気になっており、そしてネロ帝(中略)にはエジプト人の師、カエロモンが居た。カエロモンはローマでエジプトの知識を広める取り計らいをした。(中略)ウェスパシアヌスはナイルの大きな彫像をローマに寄贈し(中略)その息子ティトゥス帝と共に、ユダヤへの勝利の前夜(71年AD)をローマのイシス神殿で過ごし、(中略)ティトゥス帝は恐らくアレキサンドリアのコム・エル・ショカファのカタコンベにある聖なる牛の前に描かれた匿名の「ファラオ」である。」
―エリック・ホルヌンク「エジプトの秘密の伝承」

 

ウェスパシアヌス帝は、貴重なトーラーを含め、以前神殿に安全に収蔵されていたすべてのユダヤの宗教的文物を召し上げて、ローマのカピトリーネ・ジョウ(Capitoline Jove)に保管した。そして彼はユダヤの領域全体をローマ皇帝の個人資産と宣言した。彼はその決定を正式に元老院で認めさせ、(中略)ヨセフス帝は、いつの日かラビ・イエス・クノベリンからトーラーを手に入れ、神殿で置き換えたことを明かし、ウェスパシアヌス帝が個人的にそのトーラーを保管したことを記録し、(中略)エルサレムの偉大な神殿はなくなり、猶太人はその土地、宝物、そしてその宗教の物理的実体のすべてを取り上げられた。」 
―トニー・ブッシュビー「聖書の詐欺」

 

「ローマ人は…ギリシャ人よりも倫理的で宗教的に厳格な猶太人に対して敵意を抱かなかった。ローマ人はユダヤ教が非常に古い宗教であることを知って居り、それを尊重した。猶太人はローマ人の間では倫理的な人々として評判であり、完全な宗教的自由を与えられた。多くのローマ人が「神を畏れる者」、つまり、割礼を除くすべての教を受け容れ、ユダヤ教の実践者となり…。コンスタンティヌスが後にキリスト教に改宗したのと当に同じように、フラウィウス朝の皇帝の一人はユダヤ教に改宗したのではないかと言う証拠がある。」
―リチャード・A・ガブリエル「エジプト人・イエス

 

「彼は鎖に繋がれてローマに連行された、しかし伝統に反して、そして皇帝たる法的資格故に、彼は厚遇され、すべての責任を逃れた。彼とその家族はローマでそして皇帝から贈られたブリテンの城で素晴らしい人生を送った。」
―トニー・ブッシュビー「聖書の詐欺」より、捕縛後のブリテン王カラドクの扱いについて

 

「後智慧で判断できる限りでは、その戦略の目標はエルサレムと神殿の破壊を生き残った僧侶の子孫による、ローマ帝国の支配階級の完全な入替えであった。これは三世紀かからずに成し遂げられ、その時までにすべての古代の宗教が消滅し、キリスト教に置き換えられ、昔からのローマの貴族は殆ど全滅し、帝国のすべての権力と富を蓄積した元々僧侶の家族の人間に置き換えられたのであった。」
―フラヴィオ・バルビエロ著「モーゼの秘密結社」

 

「…われわれは広範囲の信仰を、猶太人とユダヤ教の信仰と感覚をローマ社会に見て来た。詩人やその他の人々の苦情が明らかにするように、ユダヤ教は強大な魅力をローマの非猶太人の間に振りまいた。」
―ジョン・G・ゲイジャー著「反猶主義の起源」

 

「世紀の終わりに向かって、ドミティアヌス帝の治世の間、再び非猶太人の間にユダヤ教の魅力の広範な証拠がある。カッシウス・ディオ*の報告では、前の執政官、アキリウス・グラブリオ、皇帝自身の従兄弟、フラウィウス・クレメンス、フラウィウスの妻フラヴィア、それに多くの他の人物がユダヤ教に靡いていた。」
*ルキウス・カッシウス・ディオ・コッケイアヌスは、ローマ帝国の政治家、歴史家。カッシウス・ディオと略称される他、ギリシャ語でディオン・カッシオスと称される事もある。 自らが目撃した同時代史を含む、神話の時代からアレクサンデル・セウェルス帝即位までの歴史を記述した大著『ローマ史』を執筆した事で知られている。
―同上

 

「…ディオ・カッシウスは猶太人が追放されたのは『ローマで多くの人間を彼ら猶太の慣習に転向させるためである』と報告している。」
―同上

 

「猶太人は部分的には崇拝する故に神を畏れ、真実に最も強大で最も情け深い神を崇拝している。彼は思慮の世界を支配し、我々がよく知っているように異なる名の下で我々に崇拝されている。」
―ユリアヌス帝

 

「彼らは常に余に取って、そしてアブラハムがしたように神を尊敬する人にとって親切な一人の神を崇拝していた、何故なら彼は非常に偉大で強大な神であるからである。」
―同上

 

これらの論評と引用は、侵略するローマ人と征服されたイスラエル人の間の関係についての大かたの印象が改定されなければならないことを指摘する。一般的に認められているよりはもっと多くのことが進行していた。実際、ローマの軍隊は最初、猶太の地域の王達によって猶太の地に招き入れられた。130年のローマ人のいた殆どの間、猶太は物質的に繁栄した。この期間、猶太の大きな人口がローマや帝国の他の部分に住み、商業的に非常によくやっていた。実際、この時代猶太人は世界でローマ自体に次いで重要な町であるアレキサンドリアの町の多数を占めていた。ローマ人は征服或いは統治したどのような人々の土着の宗教も抑圧しなかった。著者が主張するように、ユダヤの上流の立場の人間とローマ人の間にはより深い繋がりすらあったのである。

 

 

f:id:caritaspes:20210306054919p:plain

ローマ軍による西紀70年のエルサレム掠奪を記念してティトゥス凱旋門が建てられた。神聖の中の神聖が汚され、メノーラ(ユダヤ教の燭台)とトーラーの巻物が掠奪され、ローマに運ばれた。ティトゥス帝は猶太の地で百万人を超える人々の殺害を命令した。今日に至るまで宗教的猶太人はこの凱旋門の下を通ることを拒否する。古代ユダヤ教の聖なる印の移転は古代猶太人或いはアテン信仰者の中東からヨーロッパへの物理的移転を意味する。記録によるとティトゥス帝はヨセフス・ピソと言う神話拡散者に第二神殿の陥落後そこから欲しいもの一切の配分をする完全な権限を与えた。これは、ユダヤ人の歴史がその卑しむべき手に堕ちたことを意味する。(詳しくは次を参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Arch_of_Titus

 

 

f:id:caritaspes:20210306055139p:plain

ミトラ教の組織の最高の長は、出産の父(pater partum)或いはポープと呼ばれ、彼はローマのヴァティカン岩屋(Vatican grotto)に住む」
―フラウィウス・バルビエロ著「モーゼの秘密結社」

 

「(キリスト教以前の)異教徒は『キリスト教の神が太陽であると信じる。何故なら、我々が陽の昇る方向に向かってお祈りすること、そして太陽の日に我々自身お祝いすることはよく知られているからである』」
―ラテン教会の父:テルトゥリアヌス アド・ネーションズ(ad Nationes:ラテン語で「国家に」の意?)

 

 

 

f:id:caritaspes:20210306055212p:plain

アイルランドの修道僧が太陽を拝んでいる図(ヴァティカン市の聖ペテロ聖堂より)所謂ケルト教会はコンスタンティヌス帝のニケーア会議以前数百年もの間、絶好調だった。彼等は新約聖書に於いて描かれているイエスを拝んでいるか?(ではないでしょう!)

 

 

f:id:caritaspes:20210306055230p:plain

コンスタンティヌス帝と太陽。メロヴィング朝の精神異常の王クロヴィスは「既に高く昇った、太陽の光」という称号を持って居た。元々の太陽神はエジプトのアメン・ラーであった。一神教や選民(思想)はアブラハムよりも幾千年も前の時代に遡る。ユダヤ教キリスト教よりもずっと以前、4,500年以上前に、ヘリオポリスの僧侶たちは、ただ独りの神を信じていたのである。