筈見一郎著 「猶太禍の世界」13

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日ソ仲立条約のエピソード

ここに、一つ面白いエピソードが伝えられている。それはこうである。右の日ソ中立条約が去る四月十三日に調印されたとき、モロトフソ連首相が署名している折柄、我が建川中ソ大使は、自分の印判を取り出し、列席の皆に見せたところが、その印判の頂きに「豚」(実は猪か?)の彫刻があるのを見つけて、松岡外相が、スターリン書記長を顧みて、「建川大使は、この彫刻と同じですよ」と彼一流の軽い皮肉交じりの冗談を言った。

ところが、スターリンは、色をかえると思いきや、その冗談を正面から平気で受けて、「豚はこの国では芽出度い動物なんです」と即座に答えたので、皆はどっと大笑いをしたという和気靄然(わきあいぜん)たる情景を呈した。

この逸話は、はからずも、スターリン書記長が、既に述べた如く最早猶太人トロツキーの嘗て拘泥したようなタルムッド的の偏狭で迷妄な、実行不可能なマルキシストの古臭いイデオロギーだけは慥かに清算している。殊に彼自身は猶太人でない、列席のモロトフ首相も生粋の露人であるから、そんな物には気にも掛けず、同じ哄笑(こうしょう)の仲間に平気で入ることが出来たことなどを、偶々(たまたま)語るものではあるまいか。こういう処に、敵の痛いところを気軽にちょいちょい突(つつ)いて見る、そうして敵の気を引いてみる。松岡外交の秘訣の一つが横(よこたわ)っているらしかった。道理で、スターリン書記長は、「君のような正直な男には今迄遇(あ)ったことがない」と松岡を褒め上げ、彼の一通りの説明後、僅か十二三分の後、「ハラショ」(承知した)という電撃外交に遂に出で、世界をしてその決断の早いのに驚嘆させたのであった。

 

レーニン主義は限られた共産主義

さて、国際的見解から言うと、兎に角、スターリンの頭から信奉するレーニン主義共産主義そのものに、トロツキーのそれよりももっと明瞭なロシア人気質を与えねばならぬことになっている。レーニン主義は要するに、あのフランス人によって祭り上げられた如き純理を装う宗旨なんかとは趣を異にしているのである。従ってレーニン主義が一つの宗教ともなるに随い、そのより以上の共産主義への不自然な拡大は自ら阻止されることともなったのである。

今日のソ連共産主義共産主義でも最早あのフランケンシュタインの怪物の如きを造り上げようとはしていないのである。フランケンシュタインの怪物なんかは、ジェスイット(イエズス会士)のやりそうな事柄に過ぎないからだ。

 

カリーニンスターリン

ソ連では表面上、カリーニンが中央施行委員会(ZIK)の会長ということで、最高の位置についているように見えているが、このZIKなるものは、ポリツブロに監督され、命令を受けて動くに過ぎない。

それで党の書記長でポリツブロを牛耳っているスターリンこそは争うべからざる本当のソ連の元首と言うわけになる。

 

三人の眞實の幹部

あのソ連の内閣ともいうべき人民委員会の議長であり、併せてその外務人民委員であるモロトフは勿論、このスターリンの指揮を絶えず受けて動くのである。貿易人民委員のミコヤンもそうである。ミコヤンや、スターリンと同じコーカサスジョージア人でスターリンの覚えが却々(なかなか)に目出たい。この三人は現在ソ連で意気最も相投合しているものの如くで、最も重要の国務や党務は専らこの非猶太人である三人の胸三寸の裡(うち)に決せられているようである。

 

カガノウィッチとジュダノフ

次に勢力のあるのは、スターリン夫人の兄である猶太人のラザール・カガノウィッチ、次いで同じく猶太人のジュダノフであろう。しかし、最近は、この二人の勢力も多少衰えて来たようである。殊にラザール・カガノウィッチ(重工業人民委員)のすぐ下の弟、ミハイル・カガノウィッチの如きは先般まで、航空工業人民委員を勤めていたのを、その職より廃黜(はいちゅつ:官職を取り上げ、退けること)せられたばかりか、本年二月二十日の第十八回全ソ共産党会議の決議の結果、猶勤めている党中央委員としても、成績不良だから、今後新たな仕事を善く遂行し、且つ党及び政府から委任されるべき責務を満足に仕遂げない場合には、党中央委員をも除名されるかも知れないという警告を受けるに至ったと言われる。尤もカガノウィッチ三人兄弟の中の末弟、ユーリ・カガノウィッチはミコヤン貿易人民委員の下にその代理として現在も働いている。

 

スターリン政治は漸く健全性に積極性に

最近では、ボルシェヴィズムに道徳的要素を加えることが、ソ連の実力を言い知れぬ位強大にするものなることを、スターリンは知るに至った。

それで彼はその如何に親密で愛している部下にも苟も非違(違法)があれば絶対に仮借せず、それを飽くまで正さねば承知せぬ態度を執るようになった。そうして綱紀を粛正するに骨を折った。これは大いに効果があったと言う。

最近、スターリンは段々とその蔭武者としての自己を表面に現わす機会が多くなった。それと言うのも、彼の最大の政敵が最早亡き人となり、最早彼にとりて取り立てて称すべき心配や憂慮がなくなったからである。

 

トロツキーは忘れられつゝある

トロツキーは一九〇五年、シベリアに流しものとなるや、レーニンスターリンをそのお伴につれて行った位であった。そのトロツキーが、ロシアでは、今や日増しに忘れ去られようとしているのだ。

あの有名なアイゼンスタインの『十月』 というボルシェヴィストの革命を描いたフィルムにも、当然あらわれるはずのトロツキーが殆ど姿を見せない、否、殆ど見せるのを許されなかった始末である。

 

スターリンの大敵はトロツキーであった

如何に、これを以ても、スターリンが、トロツキーを内心必要以上に怖れていたか、察することが出来よう。

だが、そのトロツキーも今は亡き人なので、スターリンも枕を高くして眠られるのである。事実、嘗ては、生きた革命の最大元勲であったトロツキーが、メキシコに亡命したと言う一事は、共産党を文字通り二分させたのであった。

しかも、それは、例せば、英国に於ける保守党と進歩等との争いや、日本に於ける嘗ての民政党と政友会との争いなどとは、到底日を同じうして論ぜられるものではなかった。

 

ボルシェヴィキ二分するの大騒動

それは、物凄い暗闘が絶え間なく、トロツキー失脚後も捲き起こされたのであった。ために、ソ連から、そのスターリンに反対した党員は、悉く十把一絡げに國外に放逐されると言う前代未聞の珍事を惹起した位なのであった。

それらのものは、全面的に、トロツキーの純理的な、より過激的なインターナショナルの思想を現実にさせるのに忠実に狂奔した手合いのみであった。それらのものには、トロツキーが國外へ流されても、決してその主張を断念しなかった。なぜなら、トロツキーが生きている限り、その勢力と言うものは完全には失墜していなかったからである。

 

トロツキーの随喜者

トロツキーの随喜者には実際、共産党員中でも最も熱のある狂信的な分子が多かった。トロツキーの随喜者と言いうものは海外にあまりに沢山あったので、ソ連国内の共産党が二つに大きく分裂するの騒ぎが忽ち生じたのであった。

トロツキーは磁石のように人を惹きつける力が大きかった。全身全霊これ共産主義で白熱的に沸騰し続けていた。その演説というものは火のように聴衆を駆り立てて、彼の陣営へ引きずり込むと言う摩訶不思議な魅力を備えていた。

 

なぜ英国はスターリンに嫌われてゐるか

ロイド・ジョージすら、嘗てトロツキーを評して、「彼こそは、ロシアのナポレオンである」と褒めちぎったことがあった。だが、トロツキーとしては「ロイド・ジョージの言うことは違う。自分は決してナポレオンではない」と辯じたことがあった。ロイド・ジョージは、他のイギリスの多くの政治家も然るが如く、トロツキーの熱心な講演者の一人であった。チェンバレンもそうであった。

スターリン治下のチェンバレンの人気というものは想像以上に悪かったのも道理であった。

スターリンは意志の人として、少しもあせらず闘い抜いて、遂にトロツキーに永劫に勝った。

 

再び「自分も亦亜細亜人ですよ」

トロツキーは永久の革命主義者であり、本能的なインターナショナリストであり、スターリンの如く農民を対照としたデモクラシーを布き、都市をば社会主義的政治で治めればそれでよいとした、孤立主義なロシアには到底甘んずることが出来なかった。絶えず、その脳裏に大きい世界共和国を夢見ていた。

だが、スターリンは世界の革命は慥かに望ましい、また、結局は、避けがたいものだとの信念を持って居ることはいたが、それは別に急ぎもせず、待ってもよいという方なのである。換言すれば、スターリンは、本能的に露国的であり、アジア人的*なのである。

*この見解は、「露国的であり、アジア人的なのである」ではなく、「よりフランクフルト学派に近いのである」、とすべきでしょうね ―燈照隅

スターリンは、嘗て、その面会を許したことのある、ある有力な日本の新聞社の特派員に、先般、松岡外相にそう話したのと同じように「自分も亦アジア人ですよ」と話しかけたということである。スターリンの面目は、この一語にたしかに躍如としているのである。過去に於いてこのソ連の独裁者にあったと言ういと少ない日本人の中で、故後藤新平伯や久原房之助も、多分スターリンから同じ挨拶を受けたものであったらしい。スターリンは格別、ロシアの農民が好きである。トロツキーはそれと正反対であった。スターリンは、農民こそ国家の中心であり、国家の活力の源泉であると信じているのである。農民程祖国に愛着するもの又は祖国の精神の発露するものはない。スターリンはそのような愛着心を祖国に持って居り、ロシアそのものを愛し、ロシア精神を信じているのである。

この点、猶太根性のどこまでも付き纏ったコスモポリタントロツキーとは大分に趣がちがうではないか。露国の政権にトロツキーが敗退したことは、とりも直さず、更に露国の中に世界革命の精神が敗退したことを意味するものであった。それは、即ち、トロツキーを暗黙の中に背後より推進させようとした英仏米のマソンの明らかな敗退とも称すべきであった。因みにトロツキーは、昨年(1940年)八月二十二日、その亡命先のメキシコ市郊外の寓居で終にソ連から、差し廻しの者の凶手に倒れ、事実上、スターリンは最後の所謂適者生存ともなった。

これが、ソ連が反猶太になった瞬間なのであろう。この後は、KGBのみが猶太人の拠りどころとなったが、それもジューコフ元帥によって1953年に終わった。プーチンスターリンを評価するのもこの一種の民族主義によるものと思われる ―燈照隅

ここ、二、三年以来、特にソ連政府が急に帝政時代の汎スラブ主義に逆戻りしたという批評とか報道などが頻々(ひんぴん)としてあるのは、固より間違った観測ではないのであって、実に以上述べたような色々の事情に基づくのでソ連としては当然のコースを辿ったわけである。

 

スターリンの女房役モロトフ

スターリンをあらゆる意味で助けるモロトフ首相は、既に述べた如く純ロシア人であって、北露はヴォトカ生まれの巨大な才槌頭(さいづちあたま)を持った男で、彼の本名は、スクリヤビンと実はいうのだが、今では、ロシアの「槌」という意味の「モロトフ」という変名の方がよく知れ、まるで本名のようになっている。モロトフは実際、我が桂公(桂太郎)を思い出させる才槌頭である。

彼はカザン中学、ペテルブルグ工科大学を卒業後、革命運動の枢機に参加し、投獄、流刑数回の辛酸を嘗めながらも、飽くまで国内に踏みとどまり、一九一七年二月革命起これりと聞くや真っ先にペテルブルグに乗り込んでスターリンと共に『プラウダ』の編輯(へんしゅう)に当たり、レーニンからは「素晴らしい書記だぞ」と賞揚された、ボルシェヴィキとしては最も古い経歴のある人物で、インテリとして知られている。

トロツキーとの闘争には、モロトフは、終始、ミコヤンと共にスターリンの最高幕僚として、その智嚢(知恵袋)を傾けた、功績により、一九二七年四十歳という若さで、ソ連の首相に抜擢されたのであった。現在五十一歳、彼の存在する限り、スターリンの政策は益々明朗化堅実化を加えていくであろう。

 

精力絶倫のミコヤン

アナスタス・イワノウィッチ・ミコヤンは今年四十六歳、労働者の出であり、スターリンと郷関(きょうかん:故郷)を同じうして肝胆相照らす仲(互いに心の底まで打ち明けた仲)で、コーカサスで党の青年部を指導、あの十月革命後はバキンスク党代表であった。

だが当時、英国の勢力下に陥っていたバクーで彼は遂に反革命派のため逮捕せられ、僅かに極刑だけは免れて脱獄、國内戦終了後、予(か)ねて相知れるスターリンを通じて、ソヴィエト政権により重要視されることとなり、北コーカサス地方の党部から中央へと復帰し、一九二六年にはスターリンの御覚益々芽出度く(上司からの評判が良いこと)、何よりも幅を利かすポリツブロのメンバーとなり、同時に、内国通商委員、次いで外国人民委員に転ずる素晴らしい出世を見、今日に至っているのである。

彼はソ連五箇年計画に、よく善処して、毫も誤りがなく、その手腕人物はスターリンの大いに推服するところになっている。彼は外交手腕に富み、リトヴィノフの失脚直前はその外交の大目付さえも勤め、彼自身、外国貿易人民委員として、独ソ経済協定、その他各国との通商協定締結の当事者となっていた。彼はスターリンの重点主義政治の要諦をよく心得ていて、ソ連外交の推進力として不可欠の人物と見做されている。

 

ソ連最近の姿

ソ連は、今や、高速度国防国家の完成を目ざして、第三次五ヶ年計画に続く新十五ヶ年計画を立案、工業生産、鉄、燃料、電力、その他の生産手段生産部門及び消費物資生産部門の孰れに於いても、全資本主義諸国を凌駕せんとし、赤軍の力は国家の経済力に依って左右される。真の軍事力はどうしても工業の力の上に打ち樹てられねばならない。また動員計画は輸送能力に依存するところが大である、これらをすべて完成することは、社会主義祖国を真に世界一とする唯一の方法であると非常に意気込んで、國力充実に邁進しているのである。

それが今日のソ連の姿である。そこには帝政ロシアの長所も今や多分に蘇りつつあるのである。ソ連は最早単純な共産主義一点張りの國ではない。そこに侮れぬ将来性が窺われるではないか。これは単なる猶太性のみのよくするところであろうか。

[追補]本書組版中に、ゆくりなくも私の以上述べたような観測は外れず、久しい間の蔭の人、スターリンは遂に表面に躍り出でて、首相の印綬を自ら引受け、名実共にソ連の実際政治の担当者となり、その結果、モロトフは外相専任となるに至った。世界の地図面に根本的な大改革が行われんとする刻下、愈々必然的にソ連の国際的出方如何は、大体枢軸に味方する線に沿うものと期待されるものの、世界の深甚な注視の的となるであろう*。
*当時は、皆このように考えていたのであろう。実際、戦争が始まっても英国とソ連はいがみ合っていて、ソ連のスパイに浸透されたアメリカがなければ、後の連合国は形成されなかったとも思える。そうなると、ヒトラーによるロシア攻撃も、あの時点では起こり得なかったとも思われる。情報を押さえることが如何に重大なことか、よく解る歴史の推移である ―燈照隅