筈見一郎著 「猶太禍の世界」14

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第八章 英米仏等の猶太閥

 

アングロ・サクソンの実質的主人公

ユダヤ民族は何といっても世界での不可思議な存在である。彼等は、謂わば、英米財界政界の実質的主人公である。今次の欧州戦乱の真相と言うのは、要するに、ユダヤが表面だけ英米と称する国家機関をまるで自分の手足であるかのようにして、ナチスなりファッショなりと戦っているという観方は、この意味で、決して当を失しては居らない。ユダヤ人の動きは想像以上に複雑を極めている。蓋し彼等の背後には少なくとも二千年の歴史が控えているからである。

ユダヤの問題は、歴史的に斯くも、その奥行きが深いところへ、地理的にも、その間口が、無限に広いのであるから、これを追求するのは容易でない。ユダヤ人のこの不抜の勢力が、今や枢軸の中でも特にベルリン次いではローマを震源として漸くゆらぎ始めた。欧州に於けるその全面的崩壊も意外に近い将来に実現される可能性が濃くなりつつある。

 

米国は猶太人の天国

しかし、今日のところ、依然、米国は猶太人の天国であるかのような観を呈している。それに、米国では、マソンが、英国に劣らず、幅を利かしている。猶太人ならずとするも、マソンに入った「人為的猶太人」は米国ではとりわけ、出世が早い現象を呈している。

今日の米国の米国らしい特徴は、この角度から吟味して行かないと、その真相は慥かに捕えにくい。そこに米国の弱点の多くも潜んでいる。米国の民衆は実は米国の猶太閥に踊らされ動く意志なき人形に近いのである。あの米国の輿論は民衆のそれではなくユダヤの財閥政治閥軍人閥に引きずられて、自ら生ずるものに過ぎない。彼等は結局、その輿論をどちらへでも好きな方向に転換させることが出来るのである。そういう猶太閥がどうして米国でかくも強大になったか? 時には便宜、他の話にも及ぶかも知れないが、本章では、特に、そういう米国の猶太閥 ―主として軍需関係が多い― を中心とした事柄を取り扱ってみたいと思う。

 

バーナード・ショウの喜劇

さて、諸君は、英国の劇曲家で、皮肉屋としてもよく通っている、あのバーナード・ショウの『バーバラ陸軍少佐』“Major Barbara”と言う劇の本を読んだことがあるか。

これには、主人公のアンダーシャフトの言葉として、

 

「人物や主義の如何に拘らず、苟くも正当な値段を支払うすべての者に、武器を与えるということ、例せば、貴族と共和主義者、無政府主義者とツァー、資本主義者と社会主義者、新教徒と旧教徒、泥棒と巡査、黒人坊と白人と黄色人種などに論なく、ありとあらゆる国民、信徒、馬鹿者、一切の主義者、諸々の犯罪者を問わず、武器を供給するのが、武器製造家のアンダーシャフトの信条でもある。」

 

この言葉は、やがて、遷して、コールト特許武器製造会社長サムエル・エス・ストーンのそれと見做してよいのである。なぜなら、右はストーン自身の言葉をば、ショウ翁がアンダーシャフトに語らせたに過ぎないからだ。

 

軍縮と海軍連盟

一九三〇年(昭和五年)に日英米の間に、軍縮条約が成立した。が、不都合にも、これを契機としてアメリカでは海軍聯盟と言う団体が突如生まれた。この創立者は誰かといえば、それまで米国政府へ毎年二千万ドルに上る甲鉄板や色々の機材を売り込んでいたミドウェル・スチール会社の外に、同じアメリカの武器製造会社として有名なベスレヘム・スチール会社の社長チャールス・エム・シュワヴ、海軍をば専らその得意とするエフ・エス鋼鉄会社の重役ジェー・ピー・モルガン、砲弾に是非なくてはならぬニッケルの製造元として名高い國際ニッケル会社のアール・エム・タムソン陸軍少佐、また嘗てカーネギー・スチール会社の顧問辯護士だった前海軍上長官ピー・エフ・トレーシーなど、猶太人または少なくとも猶太の息のかかった連中のみであった。

この連盟は海軍大拡張を寧ろ主張し、折角の軍縮の効果を無にして仕舞おうとたくらんだのであった。

 

平気で國を売る猶太人

これは、ヒトラーが、今日のドイツを築くまでの話に属するが、予(かね)てより、己等の住む国土への愛国心などは微塵も持ち合わさず、寧ろその国には敵国と考えてよい、ドイツ ―ヒトラーの漸く政権を握り始めたドイツ― に対し、あの世界的に知られたチェコ国の大軍需工場スコダ会社の猶太人重役のフォン・アルターベルとフォン・ドスシュニツの二人の如きは、その予期する莫大な利益の前には、自分らの属する、ちっぽけた國のチェコ位は売ってもよいという、大それた了見で、ヒトラーの目論む軍拡を極力勧め大々的に援助すべく乗り出し、ヒトラーとしても、そいつを大いに利用するのを得策と考えてきた時代さえあった。

のみならず、ドイツとはお互いに仮想敵国である筈の仏国随一の軍需工場のシュナイダー会社の社長である猶太人ユージン・シュナイダーも、喜んで、自らかくして漸く台頭を示したヒトラーのドル箱たらんことを進んで申し出、彼のドイツの軍備強化に力を加えて来たのであった。このシュナイダー会社というのは、スコダ会社の下風に立つ、所謂、持株会者の一つであり、且つシュナイダー自身はフランスの鋼鉄業組合の首領としても、フランスの同業者を切り廻していて、剰(おま)けに、自己輩下にパリのタンやジュールナル・デ・ヴァの如き有力な新聞社を持ち、フランスの輿論と言うものをいつも、自分らに都合のよい様にでっちあげていたのであるから、いやはや、彼等国際猶太人の非愛国極まるコスモポリタン振りには、何人も、一旦、その真相を知ったら、驚かざるを得なかったのである。

即ち、これらの新聞は軍縮の危機とドイツの脅威とを表面だけは、さも愛国の急先鋒であるかのように盛んに叫ぶ癖に、その肝腎の親方のシュナイダーは、裏面に於いてヒトラーやドイツをして、出来る丈多くその製品を買い込ますよう絶えず働きかけていたのであった。

こうした国際猶太人の非愛国振りを雄辯に物語る今一つの証拠がある。イギリスのベッドフォード公園内には今でも世界大戦中にドイツから捕獲した大砲をそのまま飾ってあるであろうが、これは、驚くなかれ、大戦前とは言え、英国の武器会社が、ドイツへ盛んに売り込んだ大砲の一つである歴とした英国の商標のある代物なのであったとは!!

それからこの前の大戦中に、英国海軍が当時、ドイツに味方したトルコの領域であったダーダネルス海峡を攻撃し、英国の軍艦が、そこにトルコ側により布設されてあった英国製の機械水雷で沈没したというナンセンスな話さえもあるのだから、英国の猶太系の武器会社の売国振りは真に想像以上なのである。

要するに猶太系の武器会社は孰れも利益にさえなれば敵と味方とを決して区別しない。甚だしきは、たとい交戦中でも敵方へ相変わらず武器を売って恬(てん)(平然)として恥じないような行為を第一次の大戦の間に、数えるに遑(いとま)あらざる程、犯して来たのであった。

もう一つ驚くことには、かの大戦以前に、ドイツのクルップ会社は、手榴弾に特別のヒューズを付けることを発明した。ところが、イギリスのヴィッカーズ会社は、大戦中に英国当局からの註文もあり、この独逸の発明をそのまま利用して、英国製の手榴弾にもつけた。それがやがて、多数のドイツ兵を殺戮した。戦い終わって、クルップはヴィッカーズを相手に、ヒューズ一個につき一シリング、即ち総計一億二千三百シリングの損害賠償を寄越せとの訴訟を真面目に提起した。

これなど日本人にはどうしても理解の出来ぬコスモポリタンな猶太人同志の醜争と言わねばならぬ。だが、これが示談となり、ヴィッカーズはその賠償としてクルップにスペインに於けるヴィッカーズの子会社の持株を引き渡して、漸く鳬(けり)が付いたという。ますます驚くべきユダヤ人の心理状態である。国家なんかは、全く彼等の眼中にはないのである。

 

偽善家の猶太人

彼等は国と国とを自己の製造の武器で戦わせて甘い汁さえ吸えばよいのである。そうして、世界中を疲弊させて、彼等の理想とする世界共和国を彼等の金銭の力で、泡よくば、造り上げようと意図しているのである。

だが、一方猶太人は却々(なかなか)の偽善家でもある。

あの世界のダイナマイト王と称せられるアルフレッド・ノーベルの如きは、ノーベル賞と言う、いま世界で誰知らぬもののない平和賞を制定した。このノーベルは「自分は世界の市民だ。自分の祖国とは自分の働くところであり、自分はどこでも仕事をする」と叫んだことがある。

 

日本の生糸貿易を脅かすデュポン

話はアメリカへ移る。アメリカの火薬王デュポンは、その会社の株主総会で、心にもない、軍縮謳歌するような演説を態(わざ)としたことがある。

このデュポン会社は、現在我が四億円内外にも上る生糸貿易を将来根底から覆す目的を以て生糸よりも光沢こそ劣れ質に於いて倍強いと言われるナイロンと言うものを発明し、その靴下を既に昨年五月十五日から始めてアメリカで売り出し、昨年中の右生産高だけでも実に二百九十八万六千ダースを市場に吐き出させ、本年は少なくともその十倍以上を売り上げる計画であり、着々、絹靴下の販路に喰い入らせている。今は値段が馬鹿に高いのでまだ助かるが、近き将来にはウンとその値段を下げて行く方針なることは、言うまでもない。

これは将来我が国の生糸を太宗とする対米輸出貿易に致命的な効果を発揮するに違いないと思うのである。我が国には、ナイロンは絹の持ち味には敵わぬとかその他幾多の楽観説が行われているが、わが生糸関係業者は将来の根本的方針を今より講じておかないと臍(ほぞ)を噛むも遂に及ばぬ後悔をしなければならぬであろう。

猶太の日本への進攻はかく経済的にも着々と迫ってきているのであるから、われらは寸刻も油断ががならぬのである。

デュポンは昔を言えば、その創業者の父はフランス系統の「人為的」猶太人マソンのメンバーであった。結社でフランス大革命の際マリー・アントワネットの死刑を議決したが、それに反対し、フランスにいたたまれず、アメリカへ逃げて来た。その子のイー・アイ・デュポン(即ち創業者)がナポレオン一世の後援を得てアメリカに火薬工場を設立したのに始まるのである。彼は最初の四カ年間に六十万ポンドの優秀火薬を製造し、それまでアメリカ市場を一手で独占していた英国の同業者に致命的な打撃を与えてしまった。彼の事業は一八四〇年頃には、もう、押しも押されもせぬ基礎が随って固まっていた。それは勿論南北戦争以前のことであった。クリミア戦争にも、彼は、その火薬を英仏土(トルコ)に供給し巨利を博した。

一九〇五年にはデュポン会社は、アメリカ陸海軍の火薬を全部その一手で納入する権利を得た。愈々世界大戦に際してはデュポン会社に未曽有の好景気が訪れたのはいうまでもなかった。現在デュポン会社は国内二十二州に亘り六十有余の大工場を所有又は経営している。火薬以外に、今では、化学薬品、ペンキ、ニス、ゴム製品、セロファン、レーヨン、ナイロン等を盛んに製造している。

デュポン会社は、デラウェア州のウィルミントン市にその本社を持って居るが、事実上、デラウェア全州を「所有」していると巷間に取り沙汰される程、偉大な勢力を揮っている。この州だけでも三大新聞を支配し、言論上、その地位に微動だも与えぬように抜け目なく講じてある。

 

國際武器工場の醸もす悲喜劇

明治三十七・八年の日露戦争で、帝政ロシアは日本のため散々敗北したが、戦後、間もなく、その陸海軍備の再建に着手した。

その計画たるや、相当大きなもので、世界の注目はそれへ集まった。我勝ちに、英、佛、ベルギー、独、オーストリア、米などの国々は、軍需品の註文を露国政府から取った。各国の軍需工場の代表者は、セント・ペテルブルグに争って押し掛けた。そうして死に物狂いになって註文の獲得に努めた。

斯くて、英のヴィッカースは機関銃を、米のレミントン会社は小銃を、英のアームストロング会社は海軍用の機材を、殊にクルップは啻(ただ)に陸軍の機材のみならずバルチック艦隊の再建のため各種のものの註文をも、どの他の工場よりも著しく大量に獲得した。だが、それらの孰れもが、全く出来あがらぬうちに、一九一四年の世界大戦が突発し、英米の工場はすべて一時その作業を中止しなければならなかった。

ドイツの工場だけは、しかしながら、別に大した損害も受けず、却って、製造中の露国向き品が、その儘、軍に使用されることを知り、それらを敢然、ドイツ国軍の分に転用させることにして予期以上の大なる戦果を収めた。

それで、結局、ロシアは専ら自国用にとドイツへ註文した筈の武器で自国を攻められると言う思いもよらぬ損な立場となってしまった。

 

軍需品王ザハロフ

各国への武器の売込みと謂えば、逸してはならぬ男が一人ある。それは大戦前後世界の軍需品王と謳われたバシル・ザハロフその人のことである。ザハロフは一八四九年、ギリシャアナトリアで生まれた猶太人である。少年時代は箸にも棒にもかからない不良児であったが、長ずるに従い、物を売る天才が段々と光って来た。トルコの首府コンスタンチノープル(今のイスタンブル)へ来て、同じ猶太人の両替屋の小僧に雇われた。

それから、間もなく輸入貿易を営む叔父の店に転じた。或る日、彼は店の金を拐帯(かいたい)して逐電(ちくでん:とんずら)してしまった。だが、叔父は彼を厳探し、ロンドンへ走ったことを知り、スコットランド・ヤードロンドン警視庁)の手を煩わして彼を逮捕して貰った。

法廷に引き出されたザハロフは平然と問題の金は自分の当然受取るはずの利益金の一部だと主張した。検事の論告は彼に固より不利であったが、色々の経緯があった末、彼は釈放されるに至った。それから、アテネに赴き、そこの政界の有力者エチェン・スクルディスにその天稟(てんぴん:天賦)の外交的才能を見込まれて、英スウェーデン系の軍需会社ノルデンフェルトのアテネ代理店の主任に据えられた。これが、実に、ザハロフの世界の軍需王として雄飛するに至るスタートとなったのであった。

時、恰も、露土戦争(一八五七~一八七八)終局後の軍備拡張の機運が欧米に漲(みなぎ)っていた折柄であった。貧弱なギリシャすら、三千六百万円と言う軍事予算を決議し、先ず二万の常備軍を一躍十万にすることにしたのであった。スウェーデンのノルデンフェルト会社は、孰れかと言えば、当時、クルップ、シュナイダー、ヴィッカースと競争していつも敗者たるの憂き目を喫していた。

それで、武器を製造するにも、全然他とは視野を変えて、世界でも未だ新奇と言われた潜水艇を売り込もうとしていた。ザハロフは、この未知数の潜水艇をば、親分のスクルディスを説得し、ギリシャの海軍の要人をうまく抱き込み、到頭、ギリシャ政府へ一隻だけ売り込むのに成功した。

ところが、それを聞いたトルコが、なんで安閑で居られようか、ギリシャ政府の上を越して、彼ザハロフを通じて、二隻の潜水艇をノルデンフェルトへ直ちに注文した。

ザハロフは生来のギリシャ人でありながら、敵国トルコのこの註文を平気で受けられたのも、彼が元来、猶太人で祖国の観念が薄いためであったことは言うまでもない。

この時、ザハロフは、「ギリシャでも、トルコでも、ルーマニアでも、ロシアでも、潜水艇が入用なら、いくらも用立てるよ、金儲けには国境がないからね。自分は、スウェーデンのノルデンフェルト会社の一介のエージェントであるから尚更さ」とうそぶいていた。ザハロフは間もなくマキシム機関銃の威力を知り、己の会社に勧めて、マキシムと提携して、ノルデンフェルト・マキシム会社なる工場を建てさせた。

丁度、この頃、日清戦争が始まった。ザハロフはマキシム機関銃の見本を持って東洋へ来たり、日支両国へこれを大いに売り込むべき画策した。

次いで起こった希土戦争にも、彼は双方からマキシム機関銃の巨額の註文を獲得した。米西戦争でも、彼は二千五百弗(ドル)に値する武器の註文をスペイン政府から獲た。

それから欧州での軍需品の売込みには必ずザハロフの影が映らぬ商談とては殆どないようになった。

ザハロフは何時の間にか軍需品の世界一流の売込み商人となっっていた。その怪腕は実に物凄いものであった。彼の姿は、ロシアにも、勿論盛んに現れた。英仏独の三大軍需品工場と角逐(かくちく)して、その註文獲得に火花を発する競争を演じたが、いつも彼が最後の勝利を博した。ザハロフは一手でトルコ海軍再建のための一切の註文をも引き受けた。その委ねられた使命を完全に果たしたので、彼はトルコ政府から叙勲された位でもあった。

ザハロフはイギリスへの活動をも忘れなかった。マルコニー会社の株主の一人として巨額の株式を英国政府に買わせその株式を大いにつり上げ巨利を博したのは誰あろう彼であった。ところが、これに纏わったスキャンダルが計らずも暴露し、有名なマルコニー事件として英国政界の大問題となった。一時は総理大臣のロイド・ジョージにもこの事件の飛沫がかかるかの形勢となり、大変な騒ぎを醸した。ザハロフは事件に密接な関係のあったジョン・モーレーを巧みにアメリカへ落してやり、この火の手をどうやらこうやら本当の大火とならぬように揉み消した。

フランスのクレマンソーもザハロフの薬籠中に丸められた(道具の傀儡になってしまった)一人であった。ザハロフは、自己の金儲けをより以上大きくする目的で、如何にも殊勝げに、フランスの有名なソルボンヌ大学へ巨額の寄付をなし、フランス政府から、レジオン・ドノール勲章を授けられたこともあった。フランスには、シュナイダーがあり、尋常一様の手段では、ザハロフの如き、外国系軍需品を売り込むのが至難であったが、彼はフランス政府の高官を己の味方に引き込み、その一切の目的を貫いたのであった。

ザハロフはその後フランスの有名な新聞紙エキセル・ショアを潜かに買収、フランスでの排英思想を緩和するに努め、間接に、自己の商品の売込みを便ならしめるようにあらゆる方法を講じた。フランスの新聞が、世界での億万長者の顔触れを発表したとき、彼ザハロフは、アメリカのロックフェラーやモルガンの次に自分の名前を挙げさせ、彼自らの世界的宣伝に便ならしめた。もう、この時分には、イギリスの軍需工業界は殆ど彼のあごの動きの儘に従っていた。ザハロフは、ヴィッカースの大株主ともなっていた。

一九一三年にフランスにホワイトヘッド魚形水雷株式会社が設立されたが、その会社の実権はザハロフが握っていた。その株主にはヴィッカース会社の関係者のほか、仏、独の名士若干の名前も不思議や列(つら)ねられてあった。ザハロフは勿論スコダの重役にもなっていた。クルップの株もウンと所持していた。これらの会社に隷属した幾多の子会社の株主中にも、ちゃんと、ザハロフの名は聳えていた。